5 アクエリーの章
夢の中、ぼくはアクエリー湖、水面から突き出た塔の頂上に座っている。
「じっとしていてね。……エルク・イウソヌフ・アクエリー!」
隣では、青い服を着たアクエリー族のウィッチが、ぼくに治療魔法をかけていた。
「気休めでごめんなさい。治療魔法って、傷にはあまり効かないの……」
デジモンが侵略してくるようになってからというもの、ケガの治療は喫緊の問題だ。
英雄の召喚にウィッチェルニー中の魔力をかき集めたため、様々な資源がウィッチェルニー各地で枯渇しつつある。
ケガの治療に使う薬草や聖水は限りがあるし、治療魔法はおもに呪いを治すためのもので、肉体の傷への効果は薄い。
ケガをもとに命を落とすウィッチも出始めている。
どうにかして、この状況を打開しなくては。
「コラ、あんまり動かないの。あなただって、ケガしてるのよ」
アクエリー族は、心優しきウィッチ。彼女の心遣いに、心が温かくなる。
だが、座してばかりもいられない。侵略者のことを思うと、落ち着かないのだ。
「ダメだってば。今ぐらいは、ゆっくり休んで、みんなと一緒に過ごしましょう」
だが……。
「だが、じゃありません。心の傷は、体の傷より、もっとずっと、治りづらいんだから」
ぼくなら、大丈夫だ。
これしきでへこたれるほど、ヤワじゃないさ。
「あなたが傷つくと、あなたを大事に想ってるみんなの心も、傷つくのよ……」
その言葉に、ぼくは押し黙るしかなかった。
皆が傷つくたびに、ぼくの心に少しずつ暗いシミが広がるのを知っていたからだ。
一度広がったシミは、二度と引かず、少しずつ心を黒く染め上げてゆく。
「……あら、流星群。何か、お願いしてみない?」
ふと見渡せば、湖面と空が溶け合って、星空は無限だった。
星に捧ぐ願い。流星群が降る中、ぼくはウィッチェルニーの平和を願う。
彼女は何を願ったろうかと、隣を見やる。
「それはレディの秘密よ。……ねえ。もう少しだけ、一緒にいてもいい?」
拒む理由など、あるはずもない。
ぼくらはしばし、寄り添いあって、降り注ぐ星々の荘厳さに見惚れていた。
◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯
大雪の中、エネアスたちは全力疾走しておりました。
雪原に住む小さな白い恐竜型デジモン、ユキアグモンの群れに追われているのです。
「まったく、砂漠を越えれば雪原などと、本当に節操のない世界になった!」
ミナは鞄に入れていた厚手のマントに着替えて、エネアスの腕に収まっています。
落ち着かない様子なのは、ユキアグモン達に追われているせいか、雪景色が珍しいのか、はたまた、まだお姫様抱っこに慣れないのか。もしかしたら、全部かもしれません。
「待て待てー、バトルしろーォ!」
「お断りだ! きみたちにはバトル馬鹿のペイルドラモンがいるだろう!」
「センセイ相手ばっかりじゃ、飽きるんだい!」
センセイというのは、族長であるペイルドラモンのことです。彼はアクエリー族を鍛える鬼教官として、同族のデジモンに〝センセイ〟なんて呼ばれているのです。
さて、スナリザモンの時と同様、相手のホームグラウンドだと脚力で逃げ切れません。
やむなく、斜面に差し掛かった途端、エネアスが片手に火の玉を生み出し、雪の上に投げつけました。
「わ、火の玉の魔法!」
「ミナ、しっかり掴まっていろ!」
たちまち溶けた雪が滑り崩れ、小さな雪崩となってエネアスたちを運びます!
「あっ、ヒキョウだぞー!」
「ほざけ、集団で襲ってきながら!」
「あはは、師匠すごおい、アトラクションみたい!」
ユキアグモンたちの抗議にエネアスが背を向け、ミナは大はしゃぎ。
大雪で視界が悪いおかげもあって、距離を離せば、逃げ切るのは簡単でした。
ずっと走っていたために、エネアスもすっかり息が上がりました。
「あの美しいアクエリー湖が、この有様だ……嘆かわしい!」
ここはウィッチェルニー北部、アクエリー湖改め、アクエリー雪原。
水平線が生まれるほど広い湖だった一帯も、今では一面の銀世界。
湖面だった場所はすべて分厚く凍りつき、その上に雪が降り積もっていました。
「ここ、湖だったんだ……」
「英雄の話はしただろう。やつの召喚に加え、ウィッチたちが変化し、デジモンが棲みついたことで、世界の魔力バランスが徹底的に崩れたんだ。デビモンの言っていた枯渇も、そのせいだろう」
ミナを雪の上に下ろすと、履き替えたブーツでおそるおそる雪を踏みしめます。湖の上というから、氷が割れないか心配だったようです。
「おお……こんな柔らかい雪、はじめて」
「アクエリー湖の透明さを知らないから、そんなことが言えるんだ。……おっと。もう、こんなところまで着いていたのか。中央塔の影が見えるか? あれが目的地だ」
エネアスが指差した向こうでは、確かにそびえる大きな塔のシルエットがありました。
吹きすさぶ風にさらわれないよう、ミナがしっかりエネアスの手を掴みます。
手を繋いで歩くなんてエネアスの本意じゃないのですが、これもはぐれないため。
しぶしぶ我慢して、ふたりで並び、中央塔に向けて歩き出しました。
中央塔の付近にたどり着くと、ミナが感動で白い息を吐き出しました。
そこに広がるのは、凍りついた湖面。それこそ魔法みたいに、この一帯だけ、ちっとも雪が降り積もっていないのです。
凍りついた湖の下には、いくつもの建物が閉じ込められて、まるで氷の古代都市です。
「きれい……これが、アクエリー湖……!」
「こんなものが、アクエリー湖なものか。昔はもっと……」
「ねえねえ師匠、どうしてここだけ雪が積もってないの?」
「……この辺りの氷は、聖水を含んだ水が凍ったもの。聖水の魔力が雪を弾くんだ」
現ウィッチェルニーへの流れるような罵倒は、ミナの好奇心で止められました。
「氷の家まである! ああいうの、本で見たことあるよ!」
「中央塔の周りが、アクエリー族の集落なんだ。さて……」
見渡すと、辺りにはぽつぽつと氷のブロックを積み上げて作った家があります。アクエリー族のデジモンたちが暮らす家です。
そして耳をすませるまでもなく、一番大きな家の中から、何かが聞こえてきました。
——ぐごお、ぐごお!
どうやら、いびきの音。家の中で、誰かが、ぐうすか寝息を立てているようです。
「ペイルドラモンめ、相変わらずやかましい……」
「パパのいびきより、すごい音……!」
遠くにいても聞こえるのですから、近寄ったらちょっとした騒音になりそうです。
「……今だけは使いたくない手だったが、しょうがない」
しぶしぶといった様子で、エネアスが大きく息を吸い込み、叫びます。
「——人間が出たぞぉ!」
叫ぶエネアスに、まずは人間当事者のミナが「えっ」と声を漏らしました。
続いて一番大きな家から、がしゃあん! と何かが崩れる音が響きます。
それから、まるで弾かれたような勢いで、氷の翼を持った竜が飛び出しました。
アクエリー族の族長、ペイルドラモンです。
「……ウィザーモン! また貴様かッ!」
すぐさま声の主に気づくと、冷や汗まみれの——ただでさえ、氷の体なのに!——ペイルドラモンがずかずかとエネアスに近づきます。
「タチの悪い悪戯はやめろと、何度言えばわかる!」
「同じ手を食う方が悪い。面白い反応をする方も悪い。イタズラこそウィッチのアイデンティテイなのでね」
エネアスはちっとも悪びれません。だって今日ばかりは、エネアスは嘘をついておりませんから。ふだん悪びれているのかといえば、そんなこともないのですけれど。
「そら、デビモンからの届け物だ」
「む、長老どのに頼んでいた指南書か……ご苦労。だが、普通に届けんか!」
「ほう、普通。普通というのは、枕元に置いてやろうとしたら、客人の首元へ爪を突きつけてくる歓待のことかい?」
「俺の枕元に立つ貴様がいけない! 起きるまで待て!」
「生憎と、きみの聞き苦しい寝息を音楽にするほど、趣味が悪くなくてね!」
「まったく、これだから腑抜けの妄想屋は!」
「まったく、これだから間抜けの戦闘狂は!」
まくし立て合い、エネアスとペイルドラモンが顔を近づけて睨み合います。
ふたりを交互に見て目を白黒させているのは、置いてけぼりのミナです。
言い合う様子は、なんだか似たもの同士にも見えてしまったようで、
「……仲良し?」
などとミナがこぼした途端に、
「「誰がだ!」」
と綺麗なハーモニーが生まれてしまいました。
「……ん? 待て。誰だ、そいつは」
ここに来てようやく、ペイルドラモンがミナの存在に気づきました。
「ぼくの弟子だよ。古代魔法研究も兼ねて、ウィッチェルニー一周旅行中なのさ」
「貴様が、弟子だと……? しかもその格好、まさか同じウィザーモンか?」
デビモンと違い、ペイルドラモンはあっさりミナをウィザーモンと認めました。良くも悪くも、あまり深くものごとを考えないタイプなのです。
「はい! 見習いウィザーモンのミナです。よろしくお願いしますっ!」
「……おい、礼儀正しいぞ。本当に貴様の弟子か?」
元気のいい挨拶に、ペイルドラモンは素直に感心した様子です。
「そうだとも。ともに、古代魔法の復活にまい進する仲間さ」
顔色ひとつ変えずに言い切れるのは、必ずしもエネアスの言葉が嘘でないからです。
エネアスに仲間扱いされて嬉しそうなミナを、ペイルドラモンが値踏みするような視線でじっくりと眺めていました。
「……怪しいな」
「えっ!」
ペイルドラモンに疑われて、ミナがたじろぎました。どきりと心臓の跳ねる音が、エネアスにまで聞こえてくるようでした。
「ろくに戦わない貴様の弟子が、成熟期だと? どういうカラクリだ」
「それは……古代魔法の成果さ。ウィッチたちは、交流を重ね、他の属性を身につけることで変身する種族。ぼくの弟子もまた、アースリン族との交流で……」
「戯言はよせ。おい、スノーゴブリモン!」
ペイルドラモンが呼び立てると、彼と同じ家から、別のデジモンが現れました。
棍棒を手に持った、水色の小鬼のようなデジモン、スノーゴブリモンです。
「何スか。やっとセンセイのイビキが止んで、寝れると思ったのに……」
スノーゴブリモンが目を擦りながら、ペイルドラモンのもとまで走ってきます。
「貴様、この小さい方のウィザーモンと戦え。弟子対決だ」
「「えっ!」」
小さい方のウィザーモンとは、つまり、ミナのことです。
今度はエネアスとミナがいっぺんに、焦ったような顔をしました。
「けっ。そこの弱そうなやつの弟子ですか?」
完全に初対面のデジモンだというのに、エネアスを小馬鹿にした態度。
しかしスノーゴブリモンの容姿とその言葉に、エネアスは覚えがありました。つい数日前にも、似たようなデジモンに、弱そうだと甘く見られたような……。
「……そうか。こいつ、この間のオーガモンか」
「然り。どうやら、貴様の弱さを覚えているようだな?」
「成長期か? 数日でもう進化するとは……」
「フッ……俺の厳しい教育の賜物よ」
デジタマに戻ったデジモンは、前世の記憶や経験をある程度引き継ぐことがあります。元オーガモンのスノーゴブリモンもまた、うっすらと記憶が残っているのでしょう。
「悪いが弟子対決は、お断りだな。ぼくらは聖水を取りに来ただけでね」
「師が師なら、弟子も軟弱者か?」
「なんとでも言うがいい。殺し合いの腕を磨くのに付き合うなんて、うんざりだ」
「ハッ! デジモンとしての誇りを持たぬ、恥晒しめ。貴様のような…………」
再び罵倒の応酬が始まろうとした、そのとき。
「師匠は、軟弱者でも、ハジサラシでもないよ!」
間に割って入ったミナの言葉で、それが遮られました。
ペイルドラモンの言葉に怒っている……というわけでは、なさそう。師匠の自慢がしたくて、うずうずしている様子です。
「スナリザモンとか、ユキアグモンたちから、守ってくれたもん!」
「なに? ユキアグモンたちは、俺が直々に稽古をつけている戦士候補だぞ?」
「火の玉を出して、バーッて雪を溶かして、逃げ切ったんだよ!」
「——ほう」
しまった、とエネアスが手で顔を覆います。
ミナはエネアスを自慢しているつもりなのでしょうが、この場においては逆効果。
エネアスは、火の玉の魔法など、一度もペイルドラモンに見せたことがないのです。
「貴様、やはり牙を隠し持っていたのか。業腹だな」
「自衛のためだ。直接の戦闘など……」
「気が変わった」
ペイルドラモンがエネアスにぐっと顔を寄せ、間近でその目を睨みつけました。人間界風に言うなら、まるで不良がガンをつけているかのようです。
「ウィザーモン。俺と、戦え」
「お断りだ」
ドスを効かせたペイルドラモンの声に、ばっさりと即答。
けれど、ペイルドラモンは退きません。
「聖水は、傷を癒す貴重な資源。管理権限は族長、つまり俺にある」
「……何が言いたい」
「理由は知らんが、聖水が欲しいんだろう? 俺と戦えば、くれてやる」
「おい、何を……!」
「戦わないなら、やらん。正当な拒否だ。一度として侵略者を撃退する戦力になったことのない役立たずに、どうして力添えせねばならん」
ペイルドラモンの口は悪いですが、こう言われるとエネアスも返す言葉がありません。
「勝てとは言わんさ。俺は弟子にも、不可能を課したことはない。さあ、どうする?」
牙の間から漏れる吐息が、挑発するようにエネアスの顔にかかります。
不快そうに顔をしかめるエネアスの袖を、ミナが握りました。
「ごめんなさい、師匠。わたし、余計なこと……」
「——いや」
ミナが申し訳なさそうに言い終えるより先に、エネアスが遮りました。
……どうしてか、彼は、とても嬉しかったのです。
ミナが、「軟弱者でも恥晒しでもない」と、エネアスを庇ってくれたことが。
エネアスのことを自慢げに語ってくれた、ミナの前で……自分を小馬鹿にするペイルドラモンに、背を向けたくないと思ったのです。
「いいだろう。やってやるさ。ウィッチ流で、相手をしてやる」
「……悪くない目だ。爪の先ほどは、貴様を認めてやろう」
火の族長と、水の族長。
間近で睨み合う両者の間で、激しい火花が散り——
「……オレ、戻って寝ていいッスか?」
——呼ばれたのに出番を失ったスノーゴブリモンの声が、ぽつりと響きました。
それから少し後。
集落から離れた上で、エネアスとペイルドラモンが向かい合っていました。集落で戦うと、余波で湖面が砕けかねないとペイルドラモンが判断したからです。
雪上に突き出た建物の上では、ギャラリーのユキアグモンたちが集まっていました。
ミナもまた、戦いに巻き込まれぬよう、別の建物からふたりを見守っています。
「ハンデだ、先攻をくれてやる。貴様から打って来い」
「ずいぶんと、ご親切なことだ」
煽るペイルドラモンに、エネアスが杖を向けてみせます。
もちろん、エネアスは古代魔法以外で応じるつもりなど、ありません。成功する保証がなくたって、やり方を変えるつもりはないのです。
「眠るがいい……エスルク・アユスヤウス・エネルージュ!」
エネアスが唱えたのは、眠り魔法の呪文。寝ぼすけのペイルドラモン相手ならば、効果てきめんに違いありません。
……それも、成功すればのお話。雪原に、エネアスの声がむなしくこだましました。
「まるで話にならんな。行くぞ!」
ペイルドラモンが、上空に向けて飛び上がり、エネアスへと急降下してゆきます。
侵略者との戦いでも見せた、彼の必殺技です。
ギャラリーのユキアグモンたちが、いっせいに沸き立ちました。
「メテオヘイルッ!」
すさまじい勢いでの突進を、エネアスがすんでのところでかわしました。
けれど、噴き上がる雪を目眩しに、すぐさまペイルドラモンが爪を振り抜きます。
「ぐっ……!」
「火の玉とやらはどうした! 俺の弱点を突いてみろ!」
まるで期待するように言いながら、けれどペイルドラモンが苛烈に攻めます。
エネアスへ肉薄し、その体に重々しい蹴りを放ちました。
「ぐああっ! ……エ……エスルク・アユスヤウス・エネルージュ!」
もう一度エネアスが呪文を叫びますが、やはり魔法は発動しません。
「必殺技を使え、ウィザーモン!」
「嫌だ! ぼくは、ウィッチだ! エスルク・アユスヤウス・エネルージュ!」
「どこまでも、戦いを愚弄するか! ならば、もういい!」
ペイルドラモンが、再び宙へと舞い上がりました。
メテオヘイルの構え。もはや、エネアスに回避の余裕は残されていません……!
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
ミナは、ふたりの戦いを、はらはらと見守っておりました。
「師匠……!」
呪文を唱えては手ひどくやられるエネアスに、ミナの中で焦りがつのります。
いつしか無意識に、ウィッチデバイスを強く握りしめていました。
「……あれも、魔法の呪文、だよね」
まだエネアスから教わったことのない呪文。
けれど、その響きが、不思議とミナの頭に強くこびりつきました。
もし自分も、あそこで一緒に、師匠と魔法を使うことができたなら。
そんな夢想に応えるように、ウィッチデバイスから、かすかな光が漏れます。
「エスルク・アユスヤウス・エネルージュ!」
再び飛び上がったペイルドラモンへ、懲りずに呪文を唱えるエネアスの声。
「エスルク・アユスヤウス・エネルージュ……」
そして、ほとんど無意識に、ミナが、エネアスの呟いた呪文を復唱しました。
ふたりの声が重なり……ウィッチデバイスに刻まれた紋章が、強い光を放ちました。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
エネアス自身が、誰より呆気に取られました。
ペイルドラモンが、突如、落下したのです。
数秒ほど待ってみても、起き上がってくる気配がありません。
いったい、なぜ? 疑問への答えは、すぐに騒音となって返ってきました。
——ぐごお、ぐごお!
耳を塞ぎたくなるほどやかましい、大いびきの音。
ペイルドラモンは、眠ってしまったのです。
「古代魔法が、成功した……?」
目の前の出来事が、エネアス自身、いまだに信じられません。
ほうけたように立ち尽くし、杖の先を見つめ続けました。
そんな彼に、駆け寄ってくる小さな影がありました。ミナです。
「師匠、すごい! いまの、古代魔法だよね!」
「……ああ、そうだとも。ついに……成功、した」
「師匠……? どうしたの? 嬉しくないの?」
ミナが、放心したエネアスの顔を、覗き込むように見上げました。
「……いや、嬉しいさ。ただ、その。現実感が、なくってね」
ついに古代魔法をこの目にできた。とてつもない喜びが、エネアスの胸中に、確かにありました。だというのに、エネアスの中には、小さな不安も渦巻いていました。
自分の力で成し遂げた感覚が、まるでないのです。
「ミナ……もしや、ウィッチデバイスに、何か変化がなかったか?」
「うん。師匠と一緒に、呪文を唱えてみたらね。ぴかーって光ったの」
「きみも、呪文を? それに、マジクシルが輝きを失っているのに、起動するとは。やはり、アクエリーの力か……?」
ミナが持っている青いウィッチデバイスは、アクエリーの紋章が刻まれたもの。
同じ属性の土地で、わずかに残った力が増幅されたのだと、エネアスは推測しました。
そして、同時に……エネアスの中の、漠然とした不安が大きくなってゆきました。
(魔法に成功しても、元の姿に戻れなかったなら。ぼくは……)
考えたくない、目を逸らし続けてきた可能性に、エネアスが冷や汗をかきます。
おかしなものです。彼は失敗し続けてきたからこそ、〝かもしれない〟に命を賭け続けることができたのです。
不穏な予感は、もう一つありました。より根本的で、致命的な問題。
(……そうだ。ぼくらは、同時に呪文を唱えた。だとしたら……)
「ねえ、師匠……これって、ふたりの力を合わせた魔法ってこと!?」
ところが、ミナはとはいえば、まぶしく、期待に満ちた笑顔を向けてきています。
その笑顔を見ていたら、なんだか、ちっぽけな不安が吹き飛んでゆくようでした。いつの間にか、エネアスは彼女の明るい表情に、安心を覚えるようになっていたのです。
(……今は考えないでおこう。弟子の喜びを受け止めるのも、師匠のつとめだ)
エネアスの中に、いっぱしに、師匠としての自覚が生まれつつありました。
「ああ、そうだな……ウィッチと人間が力を合わせたら、古代魔法を使えるんだ」
「すごい、すごい! じゃあ、わたしも魔法使いに一歩近づいちゃったんだ!」
「……では、ミナ。記念に一日に一つの呪文を、いま、教えてあげよう」
「えっ、ほんとに!」
「呪いを解く、治療魔法だ。いいかい、よく聞いていたまえ」
エネアスが、いびきを立て続けるペイルドラモンへと向き直ります。
「エルク・イウソヌフ・アクエリー」
「エルク・イウソヌフ・アクエリー……」
「上出来だ。では、ウィッチデバイスを開いて。せーので行くぞ」
それからエネアス杖を、ミナはウィッチデバイスを構えました。
「せーの……」
ふたり大きく息を吸い込んで、そして、
「「エルク・イウソヌフ・アクエリー!」」
声を重ねて、呪文を唱えると、ウィッチデバイスがまたも光を放ちました。
放たれた光は、きらきらと軌跡を残し、ペイルドラモンへ向かってゆきます。
「んがっ……メテオヘイル!」
戦いの続きを夢に見ていたのでしょうか。必殺技を叫びながら、ペイルドラモンが素早く起き上がりました。
「なっ……眠っていたのか、俺は?」
「やあ、ペイルドラモン。寝覚めはどうかな?」
「貴様、なにを……げえっ、何だその満面の笑みは、気色悪い!」
胸中のもやを誤魔化すべく喜色満面の表情を作ってみせるエネアスに、ペイルドラモンが後ずさります。
もはや間違いない、とエネアスは確信しました。
ミナとウィッチデバイスの力があれば……古代魔法を、唱えられるのです!
「古代の眠り魔法の威力……とくと味わっていただけたかな?」
にたりと笑いながら、エネアスが先ほどの意趣返しにペイルドラモンへ顔を寄せます。
いつも馬鹿にしてきたペイルドラモンをおちょくってやりたい、イタズラ心です。
「これこそが、古代より伝わるウィッチの力さ。もう魔法ゴッコなどとは言えまい」
「……そうだな。大したものだ」
「これに懲りたら、二度と…………はぁ? なんだって?」
これまでの腹いせに皮肉を口にしようとしたエネアスでしたが、ペイルドラモンの素直な返事に、間の抜けた声を出してしまいました。
「貴様は力を示した。ならば、間違っていたのは俺の方だ」
「いや、その……わかれば、いいんだが」
「認めよう。ウィッチとやらの古代魔法、確かに、戦いに大いに役立ちそうだ。貴様の必殺技を拝めなかったのは、いささか惜しいがな」
戦いに、という点には顔をしかめたエネアスですが、褒められて悪い気はしません。
けれど、拍子抜けするような気持ちもありました。
「なら、その……きみは、認めるのか? ウィッチの存在を」
「それはそうだろう。古代魔法とやらが実在するなら、いたのだろうさ」
なんの毒気もなく、ペイルドラモンはあっさりとエネアスの問いかけを受け入れます。 念願が叶ったというのに、エネアスは釈然としませんでした。長年の目標が叶うというのは、こうもあっさりした事なのでしょうか? あるいは、彼のプライドのせい?
——それとも、最初から、実現するなんて、信じられていなかった?
(……いや、まさか。ペイルドラモンだけでは、足りない。それだけだ!)
エネアスがみずからに言い聞かせ、かぶりを振りました。
ふと隣を見ると、ミナがにこにこ上機嫌そうにエネアスを見上げていました。
「……ぼくだけの力ではない。弟子に支えられたおかげで、成功したんだ」
「ハッ。だから、早く弟子を取れと言ったのだ」
「妙に嬉しそうだな。ぼくにやられて、悔しくないのか?」
「悔しいとも。それ以上に、新たな力をこの身で学べたことが、喜ばしい。俺はこのウィッチェルニーで、まだまだ、強くなることができるのだ」
鋭い爪を掲げて、ペイルドラモンがどこか誇らしげに表情を弛めました。
「きみは……なぜ、そうまで強さを求めるんだ。ウィッチェルニーを守るためか?」
「それもあるが……実を言うとだな。俺は生まれつき、とても臆病な性分なんだ」
「それは見ればわかる」
「なにッ」
エネアスに言わせれば、人間に対する怯えようからして、一目瞭然です。
「と……とにかくだ。俺は、臆病な性格を克服するために、ひたすら戦いに明け暮れた。すると、どうだ。鍛えれば鍛えるほど、戦いを重ねれば重ねるほど……俺の体は応えてくれる。進化していってくれる」
「…………」
エネアスからすれば、面白くない話題です。
ですが、ペイルドラモンの純粋な目が、その話を遮ろうという気にさせてくれません。
「だから俺は、デジモンであることに、誇りを抱いている。訓練を、闘争を重ね……全てを糧とし、究極を求め進化し続ける本能が、俺を前へ進ませてくれる」
ペイルドラモンが、遠く、ブロッケン山の方角に目を向けました。
「それに、俺はな。あの像をひと目見た時から、かの英雄のようになりたいと思ったのだ。あらゆる外敵に背を向けず、打ち滅ぼすその強さ。一度憧れたら、もう止まらん」
エネアスが大嫌いな、英雄への憧れ。それを語られたというのに、どうしてか、エネアスは不快感を覚えませんでした。どころか、親近感さえ抱きそうになりました。
求めるものは違えども、ペイルドラモンの本質に、自分と似たものを感じたからです。
嫌いな自分を変えるため、遠く手の届かない憧れを、純粋なまでに求め続ける姿に。
(——馬鹿なことを! ウィッチとデジモンを、一緒にするなど!)
心の中で思い直しますが、エネアスはもう、ペイルドラモンを嫌いきれませんでした。
もとより、ウィッチェルニーを守ってくれることへの感謝の気持ちはありました。
そして、彼の誇りに触れたことで、わずかなりとも敬意が芽生えてしまったのです。
「……師匠も、嬉しそうだね?」
「ば、馬鹿を言え! こんなやつに認められて、嬉しいものか!」
「照れなくていいのにー。ペイルドラモンさん、カッコいいもんね」
ミナのひとことに、ペイルドラモンが驚いた顔をしました。
「カッコいい、だと……?」
「うん。ちょっぴり怖いけど……飛び上がってから、ギューン! てやってたでしょ。あれとか、すっごくカッコよかった!」
「……そんなことは、初めて言われた!」
ペイルドラモンは、アクエリー族からは鬼教官として知られています。ですから、付きまとうのはもっぱら「厳しい」とか「いかつい」といった評価です。
だから、恐れられることはあれど、憧れることなんて、彼にとっては新鮮な経験。
はじめて受ける「カッコいい」という言葉に、じいん、と震えているようでした。
「カッコいい……カッコいいか。誰かに言われると、こうも奮い立つとは……!」
エネアスが大きな咳払いを繰り返し、強引に流れを断ち切りました。
決して、断じて、ミナがペイルドラモンを褒め出したのが気に入らなかったとか、褒めるなら自分の方にしてほしいとか、思ったわけではありません。ええ、だって本人が心の中で、自分にそう言い聞かせているのですもの。
「言っておくが……きみが古代魔法を認めても、ぼくは今のウィッチェルニーを認めるつもりはないからな! アクエリー湖の本来の美しさを、きみたちは知るまい!」
「まだ言うか! ……だが、それを言うなら貴様も、この土地の真の美しさは知るまい?」
「なんだと?」
ペイルドラモンに言い返されて、エネアスが眉をひそめました。
いつの間にか雲の晴れた空を、ペイルドラモンが見上げます。
「貴様はいつ来ても、すぐに帰っていたからな。〝あれ〟を、まだ知らんだろう」
「〝あれ〟だと? 何のことだ?」
「聖水の用意には時間がかかる。ついでだ、中央塔の頂上で、満月を待て」
ペイルドラモンがにやりと、得意そうに口の端をつりあげます。
「面白いものが見られるぞ」
・・・・・・・・・・
中央塔の頂上は、ひらけた屋上となっておりました。
直に吹き付ける冷たい風が、エネアスとミナの肌を震わせます。
ペイルドラモンから預かった客人用の焚き木に、エネアスが火の玉で着火します。
石畳の上に布を敷き、ふたり並んで毛布を被り、火にあたり始めました。
「なんか、キャンプみたいでわくわくするね」
かじかむ手に息を吹きかけ、鼻垂れ顔でミナが笑いました。
「ぼくの弟子なら、鼻水ぐらいきちんと拭きたまえ」
エネアスがハンカチを取り出し、ミナの顔をぐしぐしと拭います。
旅の中で、だんだん、彼女の世話をするのが板についてきました。
彼自身、この旅を少し楽しいと感じているのは、素直に口に出せませんけれど。
「しかしペイルドラモンめ。満月になったら、一体何があると……」
エネアスが言いかけて、空の異変に気がつきました。
月が満ちると同時に、薄暗い空のあちこちに、光の帯が浮かび上がり始めたのです。
水面に透き通る布を垂らしたようなそれは、ゆっくりと動き、空一面にカーテンをかけるかのように広がってゆきます。
「これは……」
「オーロラだ——!」
その美しさに、エネアスもミナも、目を奪われました。
それは厳密には、ミナが知る人間界のオーロラとは別物ですが、関係ありません。
月の魔力が織りなすオーロラは、その満ち欠けに応じて赤へ、緑へ、青へ……まるで虹のように様々な色を映し出しながら、空にゆらめいています。人間界はおろか、古代ウィッチェルニーにも存在しなかった、幻想的な光景でした。
エネアスもミナも、しばし言葉を失って、ただじっと、空を見上げていました。
「……ミナ」
「なあに、師匠?」
「ひとつ、訊いてもいいかい」
「いいぞお。なんでも答えてしんぜよう」
「なんだ、その偉そうな態度は」
「師匠のまね」
「まったく似ていないぞ」
偉そう、というのは合っているだけに、エネアスがムッとします。
けれど、だからこそエネアスの胸中には、ずっと、とある疑問がありました。
「……どうして、ぼくを好きでいてくれるんだ?」
はじめて出会った時から、ミナはずっと、エネアスに好意をぶつけてくれています。
彼の方は、それこそ偉そうな態度で、ミナに刺々しいことを言ったりするのに。
だから、エネアスは自分を慕ってくれる少女のことが、不思議でなりませんでした。
そんな疑問に、ミナが目を細めて笑ってみせました。
「師匠の、世の中ぜーんぶ嫌いってかんじが、好きになったから」
思いがけないミナの答えに、エネアスが目を点にしてミナの方へ振り向きました。
「……うそ。びっくりした?」
ミナが、はにかんだように舌を出してみせました。
「きみなあ……」
「ほんとの理由はね。師匠が、魔法があるって、信じてくれたから」
「信じるも何も、ぼくは魔法使いそのものなのだが?」
「へへ。そうだね」
「それに……魔法が使えるデジモンは、他にもいるんだぞ?」
「でも、誰も信じてないような魔法をホントにしようとしてる。だから、好きなの」
他のデジモンと出会ったら、彼女の興味や尊敬の対象が移るかもしれない。
そんなふうに思っていたエネアスでしたが、ミナは依然、笑顔を向けてきます。
温もりを求めるように、いつしかぴったりとエネアスに体を寄せながら。
エネアスの脳裏に、夢で見た記憶が蘇りました。
アクエリー湖、塔の上で、アクエリー族のウィッチと過ごしたひととき。
「ん、あれは……」
まるでそんなエネアスの気持ちを読み取ったかのように、空に流星が見えました。
「流星群か……!」
一条、二条……あとに軌跡を残して、降り注ぐ流星群。
オーロラと流星群、ふたつの煌めきが協奏曲となって空を覆っていました。
それはまるで、古代と今のウィッチェルニーが重なり合っているかのよう。
「……ミナ。流星に、願い事をしてみようか」
かつて自分が言われたのと同じように、エネアスが、ふと提案してみました。
「意味ないよ、そんなの」
でも、ミナは、これまでの彼女からほど遠い、冷たい声でつぶやきました。
エネアスは唖然としました。隣に座るミナの表情は、初めて目にする、暗いものです。
「……どうして、そう思う?」
「流れ星は、ママの病気、治してくれなかったもの」
目を伏せるミナの横顔に、エネアスは、深い悲しみの色を読み取りました。
口ぶりからして、ミナは流れ星に願いを叶えてもらえなかった経験があるのでしょう。
魔法の世界にいながら、ありふれたおまじないを信じられなくなるほどの、心の傷。
「……そうか……」
——心の傷は、体の傷より、ずっと治りづらい。
あのウィッチの言葉が浮かびます。
星に裏切られた彼女は、二度と、流れ星に願いをかけることはないのでしょう。
ミナの中から「流れ星が願い事を叶えてくれる世界」は、永遠に失われたのです。
「ねえ、師匠。わたしも聞いていい?」
「なんだ」
「『さよならはありがとう』って呪文、知ってる?」
「……聞いたことがない。人間界の呪文か?」
「ママが、教えてくれたの。悲しくならないための、魔法の呪文なんだって。意味がわかる日が、いつかきっと来るって」
ミナの声は、かすかに震えていました。
「でも、わかんないの。なんで、ママは、意味も教えてくれなかったんだろ」
ぎゅう。ミナのふるえる手が、エネアスの袖を握りました。
今にも溢れ出しそうになる雫を、こらえるかのように。
さよならは、ありがとう。聞き覚えもない呪文の意味を、エネアスが考えます。
別れに感謝することなんか、エネアスにはできません。
いつだって、ウィッチたちが忘れられたことにも、かれらのいなくなったウィッチェルニーにも、そこにのうのうと暮らすデジモンたちにも、腹が立ってしょうがないのです。
けれど……ミナのママがその言葉の意味を教えなかった理由は、わかる気がしました。
答えの出ない問題を考え続けることは、エネアスの生そのものだったからです。
「……忘れてほしく、なかったのではないかな」
「え……?」
「意味を教えてくれなかった、理由さ。『さよならはありがとう』の意味を考え続ける限り、ミナは、ママの言葉を、ずっと忘れないだろう。そうやって、忘れないでいでほしかったのではないかな」
「…………」
潤んだミナの瞳が、エネアスの顔を映し出していました。
「また、鼻水が垂れている」
エネアスがしょうがなさそうに笑って、ミナの顔を拭います。
放っておけば、寒空の下、雫が凍りつくからだ……と、心のうちで言い訳しながら。
それから、もう一度流星群を見上げて、ひとつ、願いを口にしました。
「……ウィッチの姿に、戻れますように」
「師匠?」
ミナが、不思議そうに目を瞬かせます。
「見ろ、流星が馬鹿みたいに降り注いでいる。願い事の出血大サービスだ」
「でも……」
「人間界とウィッチェルニーを、一緒にしてもらっては困るな」
その慰めは、エネアスのエゴでした。
失われた世界は、永遠に戻らない。
それを肯定したら、ウィッチたちの世界も、二度と戻らないと認めることになるから。
「……うん。そうだね」
ミナが微笑みました。
どんな理由だって、エネアスが彼女を気遣ってくれたのが、嬉しかったのでしょう。
「じゃあ、わたしもおんなじお願い、してみようかな」
「それでこそ、ぼくの弟子だ」
それからも、ふたりはしばらく、寄り添いあっていました。
お互いから伝わる温もりが、孤独という傷を、ほんの少しだけ、癒してくれます。
「ねえねえ、師匠。アクエリー湖って、昔はぜんぶ、水だったの?」
「ああ、そうだとも。空と湖が、水平線でひとつに交わっていたよ」
「ねえねえ、師匠。ウィッチェルニーの星は、どこから来るの?」
「いい質問だ。あれらは全部、無数にある別次元の世界が放つ煌めきなんだよ」
ペイルドラモンが聖水を持ってくるまで、他愛のない問いかけを交わしながら。
師弟の旅は、もう少しだけ、続いてゆきます。
6 バルルーナの章
風が青草を撫でて、清涼な香りを運んでゆく。
見渡すかぎり、バルルーナ平原に、風をさえぎるものは一つとしてなかった。
「……ハア。人間界が恋しいワ」
箒に乗ってぼくの周囲を飛び回るのは、緑衣をまとったウィッチ。
バルルーナ族の彼女は、いつも元気で、周囲を明るくする存在。
彼女がため息をつくのは、こうして人間の話をする時ぐらいのものだった。
ウィッチたちを忘れ、あまつさえ心に傷を残す。だからぼくは、人間が嫌いだ。
「ヘイヘイ! 今のは聞き捨てならないワ!」
どうやら声に出ていたらしく、緑衣のウィッチがぼくを指差す。
ぼくは言い返す。尊きウィッチたちを忘れる人間を好きになれるはずがないと。
「キモチは嬉しいけどネ。アナタはウィッチを盲信しすぎなのヨ」
緑衣のウィッチが箒から飛び降り、ぼくの肩に乗ってきた。
彼女の言うことがわからない。人間と違い、ウィッチたちは愛を貫き続けている。
デジモンとも違い、相手の命を奪うような真似だってしない。
「ウィッチだって争うことはあるワ。エネルージュ族とアクエリー族は仲が悪いし、アタシもアースリン族が苦手。顔を合わせたら、すぐケンカするワ。相手を病気にしちゃう、ひどい呪いをかけちゃうこともあるのヨ」
それは、聞いたことがあった。死にはせずとも、高熱でうなされてしまう病だと。
「どんなものにも、どんなヤツにも、ステキなところと、イヤなところがあるのヨ。たとえばこの草原。風は気持ちいいケド、変わり映えしない景色で、飽き飽きしちゃうワ!」
それから緑衣のウィッチは、ぼくへと向き直る。
「アナタの優しくて、いつもみんなを気にするトコ、とってもステキなのヨ。でも、知りもしない人間を悪く言うトコ、とってもイヤンなのヨ」
面と向かってウィッチに悪く言われると、ぼくも流石にしょげてしまう。
ぼくの様子を気にしてか、緑衣のウィッチが草で編み上げた杖を手に取ってみせる。
「エスルク・ウソノムク・バルルーナ!」
彼女が唱えたのは、幻覚魔法の呪文。風が形を成し、光を取り込んで虚像を結ぶ。
おぼろげに浮かび上がるのは、彼女と、人間と思しきシルエットが仲良く遊ぶ姿。
「幻覚魔法の応用ヨ。この子がアタシと友達だった人間、〝ウイズマナ〟ちゃん」
ウイズマナ。人間は、ずいぶん変わった響きの名前を持つようだ。
虚像の顔ははっきり見えないが、ともに遊ぶ二人は、とても幸せそうに見えた。
「いつかアナタも、人間に会ってほしいワ。きっと、お友達になれるのヨ」
ぼくが、人間と? 無理だ。きっと、人間は、ぼくのことを……。
「心配ないワ。約束。いつかアタシが、アナタたちを結びつけてあげるのヨ」
根拠もなく言い切って胸を張る彼女を、ぼくは、なぜか信じてみたくなった。
信頼の絆で結ばれた、ウィッチと人間。その虚像から、視線が離せない。
ほんとうは……ぼくはその関係に、心の奥底で、憧れを抱いていたのだ。
○○○○○○○○○○
風が木々をざわめかせ、不気味な音を生んでおりました。
バルルーナ森林は、ウィッチェルニー東部に広がる鬱蒼とした地帯。どこからともなくカラスやカエルのような鳴き声が聞こえ、いかにも「魔女の森」といった風情です。
かつての爽やかだった草原の面影を失った土地を、エネアスとミナは歩いていました。
「苛立たしい場所だ。あの広々とした草原の面影が、どこにもない……」
やっぱりと言うべきしょうか、エネアスは森の風景に、へそを曲げておりました。
対してミナは、こちらもやっぱり、目をきらきらさせております。
足取りをふらつかせながらも、景色に見惚れながら、エネアスのあとに続きます。
「……すごおい。ほんとに、魔女が住んでる森みたい……」
「デビモンは駄目でも、こちらは平気なのか……。……ミナ、大丈夫か?」
「大丈夫って、なにが……?」
「足取りが、おぼつかないように見える」
「へーきだよお。ちょっと、ぼうっとするだけ……」
顔を赤くして、鼻水を垂らしたままで、ミナが笑顔を浮かべました。
「なら、いいが……森歩きは僕も慣れていない。ブロッケン山を経由して帰るぞ」
目的の品であるバルルダケは、すでに採り終えておりました。バルルダケは、風の魔力をふんだんに浴びて育つ古代からのキノコ。風が木々に遮られる森の中ではほとんど育たず、今では森の外縁に、わずかに生育するばかりです。
古代魔法にまつわる薬品を作るのに、エネアスはたまにこのキノコを採っていました。森の外側で入手できるものだから、エネアスは一度も森の奥にまで踏み入ったことはありません。どうせ入っても、今日のように不快な想いをするのが目に見えていましたから。
ペイルドラモンから預かった聖水も鞄の中。あとはエネルージュ荒野に帰るだけです。
(しかし、入り組んでいるな。山はこっちで合っていたか……?)
森歩きの経験がないおかげで、道に迷いかけているのが現状です。
ブロッケン山頂ゆき昇降機はウィッチェルニーの各ブロックごとに設けられています。バルルーナ森林側のそれに乗り、山頂から直接エネルージュ荒野のふもとまで下りてゆくことで、ショートカットして帰る算段でした。
(見誤ったな。森のデジモンに襲われなければいいが……)
ミナと旅に出てから、すでに七日ほどが過ぎています。人間の足に合わせて砂漠と雪原を越えるのは、予想よりずっと時間がかかりました。
「少し急ぐぞ、ミナ。紅い月に間に合わさなければ……」
ミナを急かそうと、エネアスが振り返ると、そこにミナは立っておりませんでした。
草の上に転がり落ちた、とんがり帽子。すぐそばに、ミナが倒れ込んでいます。
「転んだのか? おい、ミナ……」
エネアスがミナのそばにまで寄っても、立ちあがろうとする様子がありません。
ようやく、エネアスは異変に気がつきました。
ミナの呼吸が、ひどく荒いのです。しかも、顔には奇妙な斑紋が浮かびつつあります。
「……ミナ!?」
突然の事態にエネアスがミナの顔へと手を伸ばすと、さらなる異変に気がつきました。
体温が、異常に高いのです。
浮かんでいた斑紋は、徐々に薄い緑色へと染まっていきます。
「人間の病気か? まずい、何か薬を……」
デジモンも病には罹ります。鞄には、いくつか薬も用意してありました。人間に効くかどうかは定かではありませんが、まずは試す他ありません。
ですが……。
「おい、そこの君!」
そこに、茂みを掻き分け、一体のデジモンが姿を現しました。
緑色の羽毛を持ち、頭部にツノを生やした鳥竜型デジモン……プテロモンです。
エネアスも以前に一度だけ、ウィッチモンと共にいるのを見たことがありました。
(最悪のタイミングだ……!)
今この状況で辻バトルを仕掛けられたら、ミナが危ない。
エネアスが杖を強く握り、構えました。
(古代魔法で応戦するか? いや、ダメだ、ここはもうアクエリー雪原じゃない……!)
数日前にアクエリー雪原で、ミナと共に成功させた古代魔法。雪原を出てから改めて試すと、今度は魔法が発動しませんでした。おそらくエネアスの見立てどおり、あれはアクエリーの魔力が一時的に増幅された結果に過ぎないのです。
何より、今はミナが呪文を唱えられる状態ではありません。
もはやこれ以上、考えている猶予は、ありませんでした。
エネアスの杖先に、バチバチと雷光が迸り始めます。
「サンダ―……」
エネアスが、その名を……必殺技の名を叫ぼうとした、その時です。
「よせ! こちらに争う意思はない!」
プテロモンが翼になった両手を挙げ、思いもよらないことを言いました。
「……なんだって?」
「攻撃するつもりはない。その倒れているデジモン、少し見せてもらえるかい?」
「だが……」
「そいつの命に関わることなんだ!」
訴えかけるプテロモンの目に、敵意はまったく感じられませんでした。
エネアスが、警戒しながらも、プテロモンに道を譲ります。
プテロモンがすたすたとミナへ寄り、しばらくその様子を観察しました。
「この症状……やっぱりバルルエンザだ。君、エネルージュ族長のエネアスさんだね?」
「あ、ああ……」
「そいつは普通の薬じゃ治せない。助けたければ、ついて来て」
プテロモンが背を向けて、先導するように歩き出してゆきます。
ついてゆくべきか、否か。
苦しそうな呼吸を繰り返すミナを前に、エネアスに、迷う暇はありませんでした。
エネアスはミナを抱き抱えたまま、しばし無言で、プテロモンの後を歩いていました。
木々の隙間を潜り抜け、絶え間なく風が吹くこの森に、静寂はありません。
時おり、梢の上から見下ろす鳥型デジモンや、茂みから顔を出す植物デジモンの姿。
けれど、どのデジモンもこちらをじっと見るだけで、バトルを仕掛けてきません。
「辻バトルなら、心配ないよ。この森では、誰もやってないから」
プテロモンが、エネアスの心中の悩み事をぴたりと言い当ててみせました。
「そう、なのか……?」
「姐さん……つまり、うちの族長の方針さ。バルルーナ森林に姐さんが定めた、たった一つの掟。『誰にも何も強要するな』だ。バトルは、やりたい奴同士でやればいい」
エネアスからすれば、青天の霹靂です。
大概のデジモンは、戦いと進化のために生きるものだと思っていました。まして、長老であるデビモンが辻バトルを広めた以上、皆それに従っているものだと。
けれど……ウィッチの名を冠する、あのウィッチモンが束ねる、この森では、古代に生きたウィッチたちのように、自由な生き様が許されているようでした。
「そら、着いたよ。姐さんの館だ」
気づけば、エネアスたちは森の中にそびえる、洋館の前にまで辿り着いていました。
建物じゅうのあちこちに蔦の絡まる木造建築は、まさしく魔女の館そのもの。
「姐さん、急患だよ。バルルエンザだ!」
プテロモンが迷いなく、洋館の正面扉を叩いてみせました。
程なくして、ギギィと軋む音を立てながら両開きの扉が開きました。
「なんだい、またずいぶん久々に患者が出たね……」
顔を出したのは、赤いとんがり帽子に赤い服を纏った、ウィッチモン。
エネアスの顔を見るや否や、珍しいものを見るように眉根を寄せました。
「ほォ。ずいぶんな珍客がおいでなすった。ま、事情は後だ。上がんな」
「……すまない。世話になる」
ばつが悪そうに、エネアスが顔を背けました。
いつも邪険にしている相手に、懇願してでも頼らなければいけない状況。イメージと異なるバルルーナ森林のデジモンたちを見せられた後とあって、彼は戸惑っていました。
いかにも怪しげな外観に反して、洋館の内側はきれいに整えられていました。
客室に通され、鞄は客室の片隅に。清潔なベッドの上にミナが寝かされました。
汗を流し、熱い息を吐き出しながら、今は意識を失っているようです。
正体を隠すため、ミナのマントを外せないことが、今ではエネアスの心を苦しめます。
「こいつはまた、酷くやられたね。……見たことないデジモンだけど?」
「ぼくの弟子だ。見習いウィザーモンの、ミナ」
「同じウィザーモンにしちゃあ、ずいぶん背格好が違うじゃあないか」
「X抗体というやつのせいだと、デビモンが言っていたよ」
知識の館で得たもっともらしい理屈で、エネアスが言い逃れます。
「……ウィッチモン。バルルエンザとは、何だ? 聞いたことがない」
「バルルーナ森林でいっとき流行った病さ。近頃はなりを潜めてたんだけどね……」
「そこのプテロモンが、命に関わると言っていた」
「そうさね。高熱で2、3日うなされ続けて、最後は死に至る、恐ろしい病さ。森に入ったデジモンが罹るから、森林熱、なんて呼び方もある。昔、これで大勢死んだ」
そのような病気、古代のウィッチェルニーにおいては存在しなかったはず。
これもまた、ウィッチェルニーが変わったことで、生まれてしまった病なのでしょう。
「どこまでも、今のウィッチェルニーは……!」
怒りと悔しさをあらわに、エネアスが拳を握りしめました。
古代ウィッチェルニーには、ウィッチを死に至らしめる病など、存在しませんでした。ならばこれはまさしく、デジモンが生んだ病。なんと忌むべき存在だと、顔が歪みます。
「あー、そういうの今はやめな、アホくさい。まずは、この子を治さなきゃだろ?」
「……そう、だな。すまなかった」
エネアスが、はっと顔を上げます。これから治療を頼もうという相手に邪険な態度を取っては、それこそミナの命に関わりかねません。
抑えの効かない感情。エネアスは自分自身に、嫌悪を覚えました。
「さて、と。プテロモン、解熱剤の調合をしとくれ。レシピはわかるだろう?」
「うん、任せてくれ、姐さん」
部屋までついて来ていたプテロモンが、ウィッチモンの指示で素直に退出しました。
すぐさま、ウィッチモンがベッドのミナへと向き直ります。
「よし。まずはこの暑苦しいマント脱がせるよ。熱があるのに、辛いだろ」
「い、いや、だが、これは……」
「人間だろ、その子」
エネアスは、絶句しました。
戸惑いが生む、数秒の沈黙。
どう言い訳を考えようにも、その沈黙自体が、答えを示してしまいます。
「なんだい。鎌かけてみたら、一発で正解かね。嘘の下手なヤツだねェ」
「どうして……」
「バルルエンザは幼いデジモンを死に追いやる病気。成熟期は感染しないんだよ」
ひひっ、とウィッチモンが妖しげな笑いを口元に浮かべました。
エネアスが後ずさり、ベッドに立てかけてあった杖に手をかけます。
「ちょっ、タンマタンマ! 別に取って食うつもりはないよ!」
「取って食う……? 人間を? きみは、人間が恐ろしくないのか?」
「アタシは言い伝えなんぞに興味がなくってね。アタシに言わせりゃ、アンタの今の形相の方が、よっぽど怖い」
ウィッチモンが小さく両手を挙げて「降参」のポーズを作ってみせました。
どうやらプテロモンと同じく、本当にまったく敵意がないようです。
「……どうもしないなら、何故、わざわざ確かめた?」
「おバカ。もし本当にアンタと同じ成熟期(ウィザーモン)なら、バルルエンザと全く違う病気かもしれないだろ。病状を間違えちまったら、生死に関わるでしょうが」
「そ、れは……その通り、だな。申し訳ない……」
一から十まで正論です。エネアスは目を伏せて謝罪するほかありません。
「ひひっ、いいさ。素直に謝るエネアスなんてものが拝めたからね」
「……そこまで謝る印象がないのか、ぼくには」
思えばゴースモンにも、お礼を告げただけで驚かれていたほど。
ミナと出会ってからのエネアスは、これまで自分が取り続けた態度のひどさを直視しては、恥じ入るような気持ちを抱かされ続けていました。
「解熱剤の調合には少しかかる。……事情ぐらいは、聞かせてもらえるね?」
逡巡をはさんで、エネアスが顔を上げました。少し前のエネアスなら、考えられないことでしたが……眼前のこのデジモンは、信頼に値すると判断したのです。
エネアスは、これまでのいきさつをウィッチモンに語って聞かせました。
「なるほど……元の世界に、ねェ。知らない間に、大ごとに巻き込まれたもんだ」
ミナのマントと帽子をハンガーラックに掛けながら、ウィッチモンがしみじみとしておりました。突飛な話だというのに、疑う様子も、驚く様子もありません。
「信じるのか……?」
「おや、信じないでほしかったのかい」
「いや……物分かりが良すぎて、困惑している」
「信ずるに値する証拠がありゃ、誰だって信じるさ」
エネアスは、ペイルドラモンのことを思い出しました。理解しがたい野蛮な存在だと決めつけていた彼も、古代魔法を目にしたら、あっさりと意見を変えました。エネアスが一方的に敵だと思っていた彼らは、こんなにも柔軟な存在だったのです。
「さておき、だ。ミナちゃん、子供だよね? それも、女の子だ」
「……それで間違いない」
「高熱に緑の斑紋……症状もデジモンが罹るバルルエンザと全く一緒だ。なら、治療法も同じと見てよさそうだね」
「どうすれば、彼女を助けられる……!」
「ん? 特効薬作りゃいいだけ。材料メモるよ」
近所にお使いでも頼むような気軽さでウィッチモンが言いました。
どこからともなく紙と羽ペンを取り出し、さらさらと必要な材料をメモに書き上げて、エネアスへと手渡してみせました。
拍子抜けしたのはエネアスです。シリアスな表情のまま、メモを手に固まっています。
「入手困難なもの、だったりは……」
「うんにゃ。場所さえわかりゃ、一時間たらずで全部集まるさね」
「恐ろしい病じゃなかったのか?」
「もう過去形だよ。今は簡単に治る。アタシが特効薬、発明したからね」
「特効薬を作るのに、時間を要するとか……」
「材料全部鍋にブチ込んで軽く煮るだけだよ」
「……まるで、ウィッチじゃないか」
「ウダウダとうるさいねェ。治って欲しくないのかい?」
「断じて違う! ただ、なんというか……」
エネアス自身、この旅で何度も覚えてきた戸惑い。
彼の中で、デジモンたちへの評価が、改まりつつあるのです。かれらは戦闘狂いの怪物などではなく、自分と同じように、矜持を持つ存在なのだと。
それぞれが、それぞれの生き様を貫いているのだと。
「……すまない。きみがこんなに、理知的なやつだとは思わなかった」
「アタシは、ずっとこうさ。アンタが知ろうとしなかっただけだろ」
返す言葉もないとはこのことです。ペイルドラモンとの会話でも、感じたこと。
デジモンたちは、エネアスが思うよりずっと、多様な生き方をしていました。
「長話が過ぎたね。訊きたいことは色々あるけど、まずは治療だ」
ウィッチモンがし、し、と手でエネアスを追い払う仕草をしてみせます。
「さっさと薬の材料を集めてきな。案内はプテロモンに言えば、やってくれる。ミナちゃんはアタシが看病しててやるから」
「いや、しかし、デジモンにミナを任せるというのは……」
「デリカシーがないねェ。アンタよりアタシが診るべきだ」
「いったい何を根拠に……」
「鈍いねェ、このトーヘンボク! 汗だくで可哀想だろ! 着替えさせんの! アンタはその間にとっとと材料を集めてきな!」
「え、わ、わかった……!」
有無を言わさぬ剣幕に、さしものエネアスもたじろいでしまいました。
デジモンに肉体の性別はありませんが、心の性別となれば、話は違います。そしてウィッチモンは外見だけでなく、心も女性なのです。
「ウィッチモン。信じて、いいんだな?」
「何かしたら、アンタに殺されるのがオチだろ。アタシはまだ長生きしたいんだ」
ウィッチモンの口ぶりに、エネアスがどきりとしました。
彼女は、自分を殺せるほど、エネアスが強いと思っているのです。
「……頼んだ」
「あいよ」
帽子を下ろして顔を隠すと、エネアスが急いで部屋を出てゆきました。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
目を覚ましたミナの視界は、おぼろげでした。
熱のせいで意識がぼんやりしています。額に、ひんやりと心地よい感触。
どうやら、冷たい水で濡らした布が額の上に乗っているようです。
ベッド脇を見やると、優しい瞳でこちらを見守る、女性の姿があります。
「ママ……?」
夢と現実の区別が曖昧なまま、ミナは無意識にそう口にしました。
「ごめんね。アタシは、ママじゃないよ」
その返事で、ミナの目に映る景色が輪郭を取り戻し始めました。
傍らに座っているのは、赤いとんがり帽子をかぶった魔女のような女性。体格はまるで違うのに、雰囲気はどこかエネアスと似ています。
「解熱剤が効いてきたみたいだね。気分は平気?」
「……魔女さんだ……」
「おや、ご明察。アタシはウィッチモンだよ。よろしくね」
「あなたは、ウィッチなの……?」
「うんにゃ、デジモンだよ。ウィッチじゃなくて、ウィッチモン」
「ここは、どこ……?」
「バルルーナ森林の、アタシの屋敷さ。アンタは熱で倒れて、運び込まれてきたんだ」
「……師匠は、どこ?」
「アンタのために、薬の材料を取りに行ってる。すぐ戻るよ」
頭がぼやあっとするものですから、ミナは視野が広がっていることに気づくのに、しばらく時間がかかってしまいました。
ぶかぶか帽子を被ってないから、視界を塞ぐものがないのです。
よく見ればマントも脱がされ、服もパジャマのようなものに着替えさせられています。
「あ、れ……わたし、これ……」
「人間なんだろ。わかってるから、安心おし」
「……怖く、ないの?」
「エネアスと同じこと聞くんだ。大丈夫。ここじゃ誰も、あの言い伝えは信じてないよ」
ウィッチモンが、ミナの頬へ手を添えました。
怪物のように大きい手なのに、あんまり優しく触れてくるものですから、ミナはちっとも怖く感じませんでした。
「それに、どうしてかねェ。アンタを一目見て、『懐かしい』って思ったんだ」
「なつか、しい?」
「ああ。今も、泣き出したくなるぐらい、嬉しいんだ。なんでだろうね」
「わたしも、嬉しい。魔女に会うのなんて、はじめて……」
にへ、とミナが力なく笑いました。
魔女の家で魔女に看病されるなんて、おとぎ話のよう。
多くのおとぎ話なら、魔女に食べられそうになるなど、大ピンチの状況。けれど、目の前の優しい魔女に対しては、恐ろしいだなんて、ちっとも思えませんでした。
それどころか、ミナも不思議と、ウィッチモンに懐かしい気持ちを抱いていたのです。
枕元でママに絵本を読んでもらっていた時のような、安息。それが、やがてゆっくりと、ミナのまぶたを重くしてゆきました。
「……おやすみ、ミナちゃん」
意識を手放す前にまで、優しい声が、ミナの耳に届き続けました。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
再びプテロモンに先導されながら、エネアスは籠を手に森を歩いていました。
風の音のほかは、これといった会話もなく、淡々とした道程。
自然と、エネアスの意識は森の中の景色に向けられてゆきます。
木の葉の間から月明かりが差し込み、地面に光の斑点となって降り注いでいます。それらの光を目で追うと、あちこちに鮮やかな色の花々が咲いているのがわかりました。
月明かりに佇む淡紫の花や、ぼんやりと光を放つ花。どれ一つとして、エネアスはその名前を知りません。ロウソク花とも違った灯り。
森の風景に目を奪われるたび、エネアスの心がざわつきます。
バルルーナ平原の原形を留めないこの場所を、認めるわけにはゆかないのに。
「この森の眺め、気に入ったかい」
エネアスの心中を見抜いたかのようなタイミングで、プテロモンが口を開きました。
「空から見下ろすと、これがまた良くてね。風で、森全体が息をしてるみたいなんだ」
聞いてもいないのに、プテロモンが語り始めます。
……けれど、聞いてもいないのに素晴らしさを説き始めるのは、エネアスも身に覚えがありました。
少し前のエネアスなら、嫌味の一つ二つを漏らして突っぱねたでしょう。ですが、今はもう、プテロモンの根底にあるものが理解できてしまいました。
この小さなデジモンもまた、自らの生まれ育った場所を、誇っているのです。
「……そうだな。悪くは、ない」
エネアスが、曖昧な肯定を返しました。
ミナへの心配、己の変化への戸惑い。双方が混ざり、エネアスの中で濁ってゆきます。
そのどれもが、古代ウィッチェルニーへの、裏切りであるかのように感じられました。
いっそ辻バトルを仕掛けてくるデジモンがいれば、それ見たことかと指差せるのに。
「や、プテロモン。何か用かい?」
「マッシュモン、黒キノコを一つ分けてもらえるかい? バルルエンザ患者が出てね」
「そりゃ大変だ! ほら、持って行きな!」
でも、材料を貰いに訪ねたキノコ型のマッシュモンさえ、気の良いデジモンでした。
対価すら要求されることなく、薬の材料となるキノコがエネアスの持つ籠へ入れられました。この森のデジモンたちは、日頃からこうして、互いに助け合っているのでしょう。
(それでは、まるで……)
古代ウィッチェルニーも、今のウィッチェルニーも。
……本質的には、同じであるかのよう。
(ありえない。そんなことを考えるな。ウィッチたちへの、冒とくだ!)
「だ、大丈夫かい? そんな急に頭をブンブンし始めて……」
プテロモンの心配そうな声で、エネアスが現実へ引き戻されました。
「……すまない、帽子にゴミが入って」
「だったら良いんだけど……。ほら、着いたよ。目当ての月光草は、ここさ」
月光草。ウィッチモンから頼まれていた材料の一つです。
道中プテロモンが説明したところによれば、その名の通り、月光を浴びて育つ草なのだそうです。森の中、月の光がよく差し込む場所にだけ、生える草。
「これ、は……」
目の前に現れた開けた土地と、そこに広がる花畑に、エネアスが言葉を失いました。
おぼろに照らされる空間に咲く花々や草木が、遮るもの一つない月の光を反射し、青白く輝いているのです。草花がもたらす魔法なのか、蛍のような儚げな光の玉が宙に散り、さながら月光が舞い踊っているかのよう。
薄暗い森の中とのコントラストが、いっそう、その空間の麗しさを際立たせています。
「綺麗だろ、月光だまりは。森にはこういう場所が、ぽつぽつあってね」
エネアスは、しばし、呆然と立ち尽くしていました。
見惚れていたのです。アクエリー雪原で目にした、あのオーロラと同様に。
そんなエネアスの様子を知ってか知らずか、プテロモンは手慣れた様子で花畑をかき分けて、必要なだけの月光草を集めて戻ってきました。
籠の中に入れられた月光草は、まだぼんやりと光を放っています。
「あとはマジョスグリを一握り。姐さんの屋敷の庭で採れるよ。戻ろうか」
「…………」
「大丈夫かい? ぼーっとしてるけど」
「……ああ。大丈夫だ。なんともない」
帰路につくプテロモンのあとに、エネアスが続きます。
その途中、エネアスは一度だけ立ち止まり、月光だまりを振り返りました。
ただ、もう一度……その景色を、見てみたいと思ってしまったのです。
薬の調合は、あっという間でした。
材料を持ち帰るや否や、ウィッチモンは数分でぱっぱと薬を作り、手際よくミナに飲ませてみせました。
「あとは安静にしてりゃいい。お茶淹れてくるから、アンタは、傍にいてやんな」
それだけ言い残して、ウィッチモンはさっさと客室をあとにしてゆきました。
ベッド脇の椅子に腰掛け、エネアスはじっと、ミナの寝顔を眺めました。
薬の効果なのでしょう。斑紋が消え、顔色は良くなり、寝息も穏やかになっています。
病床でも寝相の悪さは相変わらずで、エネアスがそっと崩れた毛布をかけ直しました。
「……師匠……?」
それに気づいてか、ぼんやりした表情で、ミナのまぶたが持ち上がりました。
「気が付いたか、ミナ……! 具合はどうだい?」
「ん……熱はあるけど、へいき……」
「良かった……。一日二日寝ていれば熱も引いてゆくそうだ」
「……そうなんだ……」
「あとは、エネルージュ荒野に帰ってマジクシルを作るだけだ。もうすぐ、帰れるよ」
エネアスの言葉に、ミナが毛布の中へ顔を引っ込めます。
「わたし、帰りたくない」
ミナは、毛布で両目を覆い隠しながら、しゃくり上げるように言いました。
アースリン砂漠での、ミナのひとことが思い出されます。
「……人間界が、嫌いかい?」
「嫌い。ママのこと嘘つきだって言うクラスの子たちも。ママがもういないのに、パパがテレビで楽しそうに笑うのも、みんな、嫌い」
ずっと抑え込んできた気持ちなのでしょうか。それは、映るもの全てに目を輝かせた、あの明るく無邪気なミナから程遠いと思えるほど、暗い激情のにじんだ声でした。
「ママがいないのに、当たり前みたいに、明日が来るの……!」
エネアスは、その感情を知っていました。
彼女は、自分の中にぽっかり穴を空けるほどの喪失から、立ち直れていないのです。
その喪失を置き去りにする世界が、許せないのです。
ミナが顔を埋めた毛布に、じんわりと、彼女の感情が染み出してゆきます。
怒りでさえ覆い尽くせないほどの、深い、悲しみ。
(ああ、そうか)
彼女は、自分と同じだ。
そう思ったからこそ、エネアスはようやく、気づきました。
(ぼくは……ずっと、悲しかったのか)
エネアスは、ウィッチたちが忘れ去られた今のウィッチェルニーが腹立たしくて仕方ないのだと、この世界に怒りを禁じ得ないのだと、ずっと苛立ち続けていました。
けれど、違ったのです。
自分は、ただ、愛するウィッチたちが……愛する景色が……愛する世界が……。
それらが失われ、誰とも共有できない孤独が、悲しくてしょうがなかったのです。
エネアスは、まなじりに浮かびそうになる涙を堪えました。
弟子が泣いている前で、どうして、師匠まで泣いていられましょう。
「ねえ、師匠。魔法は、ほんとに、あるよね?」
「当然だ。きみだって、見てきただろう」
「ママもね。魔法は、ほんとにあるんだって、言ってたよ」
「ああ。きみのママは、正しいな」
とりとめもなく吐き出されるミナの言葉を、エネアスは穏やかに受け止めます。
「魔法が、ほんとにあるなら……天国だって、ほんとにあるよね?」
「天国?」
「死んじゃった人が、行くところ。ママ、そこから私を、見守ってるって」
ウィッチェルニーに生まれたエネアスには、想像も及ばない話です。
エネアスは、天国のことなんて、これっぽっちも知りません。
「あるさ。師匠である、このぼくが保証しよう」
なのに、どうしてでしょう。エネアスは根拠もなく、そう口にしました。
ミナがエネアスを見上げて、はかなげに笑いました。
「……師匠が言うなら、ほんとだね」
ミナもまた、根拠もなく、エネアスを信じます。
エネアスは、生まれてはじめての想いを感じていました。
彼女は……ミナは、自分と同じ心の傷を持っている。喪失からなる、悲しみ。
ともに悲しみを分かち合い、寄り添いあってゆけたら、どんなに良いでしょうか。
「ミナ……」
——ウィッチェルニーに、留まるかい?
喉元まで出かけた誘いを、エネアスがすんでのところで呑み込みました。
こんな誘いは、自分のエゴでしかありません。けれど口に出したら、きっとミナは頷いてしまう。だから、その気持ちを封じ込めました。
「師匠……?」
黙りこくったエネアスに、ミナが首を傾げます。
ミナは、元の世界に帰さなければいけない。ウィッチモンに見抜かれたように、ミナの正体をいつまでも隠し通すことはできません。
それに、侵略者たちの現れるウィッチェルニーは、とても危険な世界なのです。か弱い人間である彼女を、留まらせるわけにはゆきません。
「……今日の呪文を、教えようか」
胸にかかえた不安を読み取られまいと、エネアスが提案してみせました。
ミナの表情が、すぐにぱあっと明るくなります。
「エスルク・ウソノムク・バルルーナ。バルルーナ族が使う、幻覚魔法の呪文だ」
「えするく・うそのむく・ばるるーな……」
「覚えが早いじゃないか。さあ、もう一度いっしょに……」
迫り来る別れと、追い払えない不安から目をそむけながらも、優しい時間が、静かに、穏やかに、流れてゆきます。
「おや……お邪魔だったかい?」
扉が開き、かすかな風といっしょに、ウィッチモンとプテロモンが入ってきました。
プテロモンの方は、人数分のティーセットが乗ったトレイを翼で器用に持っています。
ミナにマントを着せるか悩んだエネアスですが、かれらの前なら不要と判断しました。
「お茶が入ったよ。客人に茶も出さず帰したとあっちゃあ、アタシの名がすたるんでね」
「森の茶葉を使った姐さん特製ブレンドさ。滋養抜群だよ」
ウィッチモンが部屋に置かれたテーブルを風で持ち上げ、ベッドのそばへ運びました。
「いい匂い……!」
ミナが上体をおこして、かぐわしい香りに目を細めました。どうやらずいぶん、体も楽になってきたようです。
「……怪しいものは入っていないだろうな?」
「姐さんのお茶をなんだと思ってるんだ。……あれ、この香りは……」
テーブルの上にティーセットを置いたプテロモンが、鼻をひくつかせました。プテロモンの視線が、やがて部屋の片隅に置かれた、エネアスの鞄に辿り着きます。
「エネアスさん。もしかして、エネルージュ荒野の果実、持ってる?」
「ああ、古代から伝わる伝統の味だからね。旅の食料として詰めてきたが……」
「でかした、エネアス!」
ウィッチモンがパチンと指を鳴らしました。
「あれの搾り汁を使うと、お茶の味が引き立つんだ。一つもらうよ!」
返事も聞かずにウィッチモンが鞄を開け、果実を一つ引っ張り出しました。
ウィッチモンが指先で空中をなぞると、桃のような形をした果実が宙に浮きました
風の刃が綺麗に皮を剥き、宙に浮いた果実がポットの上へ。
阿吽の呼吸でプテロモンがポットの蓋を外すと、空中の果実がぎゅうと絞られ、搾り汁がポットに垂れてゆきます。
「すっごい……! 魔法のお茶作りだ!」
ミナがベッドから乗り出して食い入るように見入るので、彼女がうっかりベッドから落ちないように、エネアスが慌てて体を支えました。
「さあ、一丁上がりだ。冷めないうちにおあがり!」
これまたポットが風で持ち上がり、人数分のカップにお茶が注がれてゆきます。搾り汁を足されたお茶は、なんとも表現しがたい、甘くさわやかな香りを漂わせていました。
「……おいしい……!」
ひとくち飲んだミナが、ぱあっと顔を明るくしました。
いぶかしげな顔をしながらも、エネアスもおそるおそるカップに口をつけます。
「これは……!」
エネアスは衝撃を受けました。こんなおいしいお茶、今まで飲んだことがありません!
「なかなかのもんだろう? アタシが発見した、スペシャルブレンドさ」
ウィッチモンが勝ち誇るような顔をするだけのことはあります。甘さの奥で、酸味とわずかな渋みが渾然一体となって、爽やかな香りと共に、鼻と舌を楽しませるのです。
「ウィッチェルニーって、やっぱりすごいね、師匠……!」
「んっ……うん! そ、そうだな!」
「もー、師匠、そんな慌てて飲んだらむせちゃうよ?」
おかしそうに笑うミナの言う通り、エネアスは、あまりの美味しさにカップを傾ける手が止まらなくなってしまっていました。
……古代のバルルーナ平原に、茶葉なんて自生していませんでした。つまりこれは、古代の果実と現代の茶葉、二つが合わさって、はじめて生まれた味なのです。
そのことに気づいてか、気づかずか。
お茶に舌鼓を打ちながら、エネアスは、ひとときのティータイムを楽しむのでした。
共に笑うこの時間が、ますます別れの痛みを増すと知りながら。
二日後。特効薬のお陰でミナもすっかり快復し、エネアスたちはエネルージュ荒野の、あの石造りの小さな家にまで帰りつきました。
ミナが倒れて足を止められたものの、ウィッチモンが箒に乗せて送ってくれたものですから、帰り道はあっという間。魔女の箒に乗せてもらったミナは、冷めた熱がぶり返しかねないほどの大興奮でした。
三人もまたがって箒の上がぎゅうぎゅうだったものですから、エネアスは振り落とされないように必死でした。けれど、空から見下ろしたエネルージュ荒野……ぽつぽつとだけロウソク花の咲く風景は、地上で見るよりずっと、趣深く感じられました。
「……さあ。これで、支度が整った」
さて、家に着いたエネアスは、早々にマジクシルの作成を始めました。
大鍋の前に並ぶ、師弟のとんがり帽子。鍋を覗き込もうとするミナをエネアスがなだめすかして、マジクシルの材料が大鍋に投入されてゆきます。
ロウソク花の根の煮汁に聖水を垂らし、よく混ぜ込んだ後で結晶花が沈められました。最後にバルルダケを投入すると、大鍋からもうもうと煙が立ち込めます。
「メトル・メトル・ウォグオフツ!」
エネアスが手をかざして呪文を唱えると、部屋中に立ち込めていた煙が、またたく間に晴れてゆきました。実は呪文を唱える必要はないのですが、気分の問題です。
さすれば、あら不思議……大鍋の底には、キラキラと光りを放つ、小さな宝石の姿。
「これが、ウィッチェルニー流のアイテム調合だ。久々だが、上手くいったな……」
古代魔法の途絶えたあとも、満月のもとで行うこの調合術だけは、今でも成功することができました。満月の魔力と大鍋の組み合わせだけに依存しているためです。
「あとはこれを…………さあ、できたぞ!」
記憶のとおりに作業をすると、たちまちウィッチデバイスは元通り。
嵌め込まれたマジクシルは、いまや、鮮やかに光り輝いていました。これで、ウィッチデバイスは力を取り戻し、ミナも元の世界に帰れることでしょう。
……だからこそ、エネアスは、隣に立つミナの表情のかげりに気がつきました。
「あまり、嬉しそうではないな」
「うん……。帰らなきゃって、思うと……さみしい」
「……そうだな」
ここまでの旅には実に九日もかかり、紅い月は、もう次の日にまで迫っていました。あと一度の新月を経たら、月は紅く染まり、満ちてゆきます。
紅い月が満ちるとき、次元の境界がゆらぎ、ブロッケン山の頂上に次元の裂け目が生まれて、侵略者たちがやってくる。ミナが現れたのもまた、ブロッケン山の頂上。おそらく彼女を、あの危険な戦場へ連れてゆかねばなりません。
「ねえ、師匠。師匠は古代魔法を、みんなに見せたかったんだよね?」
「……ああ」
「じゃあ、みんなの前でさ。古代魔法、どーんと使っちゃおうよ。ウィッチデバイスが直ったなら、できるでしょ。ウィッチがほんとにいたこと、証明できるよね!」
「それは……」
「それに、もしかしたら師匠、ウィッチの姿に戻れちゃったりするかも!」
両腕を広げて、めいっぱいの笑顔を浮かべるミナから、エネアスが目を逸らしました。
「最後にそのぐらい、いいでしょ?」
それが本心を押し殺したミナのわがままだと、エネアスにもわかりました。
そして、せめて最後に、エネアスの望みを叶えようとしてくれている。なんと健気なことでしょうか。
でも……それはもう叶わぬ望みだと、エネアスにはわかっていました。
「……ミナ。ウィッチデバイスの試運転に、ひとつ、古代魔法を唱えてみよう」
「まっかせて! どれにする?」
「以前教えた、守りの魔法だ。呪文は覚えているかい?」
「もっちろん! じゃあじゃあ、せーのでいい?」
「ああ。せーの……」
ミナがウィッチデバイスを手に取り、カバーを開いて、構えてみせます。
エネアスが、静かに目を閉じました。
「トケトルプ・エマク・アースリン!」
ミナひとりの声が響くと、ウィッチデバイスが輝きを放ち……ミナと、すぐそばのエネアスの周りに、亀の甲羅のような模様のバリアが展開されました。
……ええ、そうです。
エネアスは、呪文を、唱えませんでした。
「すごい、うまくいったよ、師匠! バリアの魔法だ! ……って、あれ?」
ミナは、すぐ、その違和感に気がつきました。
「師匠、いま、呪文……」
「……唱えたさ。集中していて、気づかなかったんだろう」
エネアスが、帽子越しにミナの頭を撫でてみせました。大きな帽子がずり下がり、ミナの視線を遮るように、その小さな顔を隠しました。
「なあ、ミナ。ウィッチェルニーに来る直前のこと、覚えているかい?」
「直前、って?」
「たとえば……きみは何か、呪文を唱えたり、しなかっただろうか」
「……あっ! ほんとだ、思い出した! ウィッチデバイスが、急に光ってね。頭の中に、声が響いたの。だからわたしも、それを繰り返して……なんだったかな……」
「……エカリフ・オウ・アリボツ・ウィッチェルニー」
「それだっ! 師匠、知ってる呪文なの?」
「知っているとも。人間界とウィッチェルニーを繋ぐ扉を、開く呪文だ。きみを元の世界に帰すのにも、これを唱えることになる」
「……そっかあ。じゃあ、あのとき、師匠も唱えてたんだね。これって運命かも?」
「ああ……そうだな」
ミナと出会ったあの日、エネアスはたしかに、呪文を唱えました。
……けれど。エネアスが唱えてからミナが現れるまでには、時間差がありました。それに、ウィッチェルニーと人間界では、時間の流れが異なります。二つの世界で、それぞれが同時に呪文を唱えた……なんてことは、まず、ありえません。
アクエリー雪原で、はじめて古代魔法に成功したときから、ずっと過(よぎ)っていた不安。
ミナひとりの呪文で古代魔法が成功したことで、それは、確信に変わりました。
最初から、全部、ミナだったのです。
ウィッチェルニーへの扉を開く古代魔法も。
アクエリー雪原で成功させた古代魔法も。
全部、ミナとウィッチデバイスの力だけで、実現していたのです。
ミナにできて、エネアスにできない、その理由。ミナに説明した〝魔法の三原則〟を思い返せば、答えは明白でした。
ひとつ。自分は魔法を使えると、心の底から信じること。
ふたつ。杖や魔道書など、魔法の触媒を手に持つこと。
みっつ。魔法の呪文を口に出して唱えること。
ふたつ目と、みっつ目の条件を、エネアスはいつだって達成していました。
ならば、そう。
エネアスは、最初から、ずっと……信じられていなかったのです。
魔法を。それを唱えられる自分を。その存在さえ、どこかで疑っていたのです。
デジモンである自分が、ウィッチたちの魔法を使えるわけがない、と。
……おとぎ話は、魔法を信じる者のためにあります。
だから——……
……——だから、おとぎ話の時間は、ここでおしまいだ。
魔法は解けてしまった。
ここからは、魔法を信じられない魔法使いなどという、無価値な存在の物語。
どこまでいっても、デジモンでしかいられない、このぼくの……。
ちっぽけな、エネアスの物語だ。
(後編へつづく)