はじまりの章 ——プロローグ
砂漠は、甘い香りを漂わせていました。
ものの例えではありません。だって、砂は黄色と白のグラデーション。そして白い砂はお砂糖で出来ているのですから。
「すっごおい! お砂糖の砂漠だ!」
大きなとんがり帽子を被り、マントを羽織った少女が、両手を広げて駆けてゆきます。
お砂糖に足跡をつけるなんて、夢に見たこともない体験!
けれど、すくって舐めてみると、砂が混じっているものですから、「べえっ」と渋い顔で砂糖を吐き出してしまいます。夢と現実の入り混じった味でした。
「馬鹿を言え。昔はもっと、もっとすごかったさ」
少女に続くように歩くのは、おそろいのとんがり帽子にマント姿の魔法使い。名前を、エネアスといいました。肌は青く、かすかに覗く口元はツギハギに縫い合わされ、どう見たって人間ではありません。
「こんな、しましま砂漠じゃない……一面が砂糖のエリアだって、あったぐらいだ!」
「でも、師匠。黄色と白のしましまだって、綺麗じゃない?」
「ミナ。きみは古代ウィッチェルニーを知らないから、そんなことが言えるんだ!」
「砂漠、初めて見たもん! わたしには、特別だよ!」
「ほう。人間界にも、砂漠があるのかい?」
「うん! 昼はうんと暑くて、夜はうんと寒いの。本で読んだ!」
「昼に、夜ねえ……」
エネアスがしげしげと空を見上げると、星々といっしょに、半月が静かに光っていました。けれど、夜ではありません。この世界には、昼も夜もないのです。
一日中、お月様とお星様だけが世界の明かり。それがこの世界の法則。
薄暗いとも、薄明かりとも呼べる、人間の知らない明るさがそこに広がっています。
「わあ、見て、へんてこな岩!」
「ミナ、一人で走りすぎるな! 帽子が落ちたらどうする!」
「拾う!」
「そうじゃない! わかっているだろう!」
エネアスがミナを引っ張り寄せ、耳打ちをしました。
「……きみが人間だとバレたら、大変なことになるんだぞ。迂闊なことをするな」
「わかってるよう。わたしはデジモン、見習いウィザーモンのミナ……でしょ?」
意地っ張りに答えるミナの様子に、エネアスの不安は募るばかり。
「きみは本当に、旅の目的がわかっているんだろうな?」
「師匠にいっぱい魔法を教わる!」
「違う! きみを、元の世界に帰すためだろうが!」
ええ、おわかりでしょうけれど、ここは人間の世界じゃあ、ありません。
ここは魔法の世界、ウィッチェルニー。
異世界ウィッチェルニーの魔法使いであるエネアスは、いま、この弟子の少女と一緒に旅をしているのです。
彼女を、元の世界……人間界へ、帰してやるために。
1 むかしむかしの章
むかしむかし、ウィッチェルニーという、魔法の世界がありました。
そこは、ウィッチと呼ばれる魔法使いたちの暮らす世界。
ウィッチたちは、魔法とイタズラが、何より大好き。
火のエネルージュ族。
水のアクエリー族。
土のアースリン族。
風のバルルーナ族。
四つの種族が、時に仲良く、時に喧嘩しながら、魔法の修行にはげんでいました。
そしてウィッチェルニーは、むかしは、人間の世界とつながっていました。
ウィッチたちは、魔道書を通じて、人間の世界へ遊びにゆくことができたのです。
人間の子供と絆を結ぶことで、ウィッチはより強く変身することができました。
けれど、大人になるにつれ、人間はウィッチェルニーのことを忘れてしまいました。
人間と絆を結べなくなり、ウィッチたちは、次第に力を失ってゆきました。
そこへ、ウィッチたちを狙う、おそろしい侵略者がやってきます。
侵略者の名前を、デジモンといいました。
デジモンたちは強大な力を持ち、忘れられて衰えたウィッチでは相手になりません。
なすすべもなく、ウィッチェルニーはデジモンたちに破壊されるかと思われました。
けれど、生き残ったウィッチたちが世界の魔力を結集し、究極の魔法を作りました。
それは、デジモンたちに対抗できる、魔法の英雄を降臨させるものでした。
デジモンと同じ力を持つ英雄は、ウィッチェルニーの守護者となりました。
圧倒的な強さであらゆるデジモンを追い払い、ウィッチたちを守り続けました。
英雄には、ウィッチェルニーを愛する、ウィッチたちの心が宿っています。
イタズラと魔法に満ちたこの世界を守るために、英雄は必死で戦いました。
けれども、そのあまりに強い力は、ウィッチたちにも影響を及ぼしてしまいました。
英雄のあふれる力により、ウィッチたちはいつしか、デジモンへと姿を変えたのです。
デジモンとなったウィッチたちは、自ら戦う力を手に入れました。
けれど、英雄にはもう、守るべきウィッチたちがおりません。
英雄は嘆き、いなくなり、あとにはデジモンの住むウィッチェルニーが残されました。
それから、時は流れて。
今ではもう、歴史はデジモンたちのもの。これらの物語も、忘れ去られました。
ウィッチたちのことを覚えている者は、もう、だあれもおりません。
これからお話するのは、そんな忘れられた世界、ウィッチェルニーのお話。
そして。
これは、ウィッチェルニーという世界が、滅びを迎えるまでのお話。
2 出会いの章
真紅のお月様が、星々に縁取られ、空に浮かんでおりました。
魔法の世界とて、月が真紅に染まるのは、ちょっぴり異常事態。
だっていつもは、月は青白く輝いて、ウィッチェルニーを照らすのです。
真紅の月は、次元の境界がゆらいでいる印。
よその世界から、行儀の悪い〝侵略者〟がやってくる証。
およそ十日に一度、真紅の月が満ちるとき、決まってウィッチェルニーの中心であるブロッケン山の頂上に次元の裂け目が生まれます。それを通って〝デジタルワールド〟という別次元の世界から、侵略者がやってくるのです。
お月様の見下ろす先、高くそびえるブロッケン山のてっぺんに広がるのは、廃墟。
かつては魔法学校でしたが、今は瓦礫の中に大きな像が鎮座するだけ。
そして今日もまた、ウィッチェルニーでもっとも強い族長デジモンたちと、デジタルワールドからやって来た侵略者デジモンとの戦いが、この廃墟で繰り広げられていました。
「……さあ。今日こそは、成功させてやるぞ」
意気込むのは、とんがり帽子をかぶった魔法使いのような、ウィザーモンというデジモン。四族長のひとりである彼には〝エネアス〟という、もう一つの名前がありました。
「皆に、古代魔法のすごさを見せつけてやる……!」
「いいから戦え、戯けが!」
エネアスの横を、氷の翼を持つ竜が、一陣の冷たい風となって駆け抜けてゆきました。
「今夜はずいぶん数が多いな……まとめて薙ぎ払ってくれる!」
力強い声を響かせる氷の竜は、族長のひとり、ペイルドラモン。
多くのデジモンの群れへ、臆することなく突っ込んでゆきます。
「メテオヘイル!」
ペイルドラモンが高く飛び上がったかと思うと、一気に急降下。自分を取り囲んでいたデジモンたちを、ひとたまりもなく蹴散らしました。ペイルドラモンの必殺技です。
すぐ近くでは、また別の侵略者、緑の鬼のようなデジモンが、牙をむき出しにして怒り狂っていました。
「こんちくしょう、邪魔者どもめ! 俺はウィッチェルニーのデジモンをブッ倒して、より強く進化するんだ!」
「やればいいじゃない、おマヌケさん。できるものならさァ!」
くすくすと笑い、箒に乗って飛び回るのは、族長、赤い帽子を被った魔女のようなウィッチモン。緑の鬼のずっと上で、風を巻き起こしながら、何度も旋回を続けています。
人間の女性のような姿ですが、その両手は怪物のような大きさでした。
デジモンは人間でもなければ動物でもない、異世界の生き物なのです。
「てめえ、降りてきやがれ!」
がなり立てる緑の鬼は、オーガモン。手に持った棍棒で戦うパワフルな戦士で、棍棒が直撃した相手は、たまらずノックアウトされてしまうことでしょう。
「ざーんねん、お断り。それ、バルルーナゲイル!」
「うわああっ!」
ウィッチモンが指差すと、鋭利な魔法の風がオーガモンを切り裂きます。オーガモンの攻撃が届かないものだから、一方的です。
「くそ、だったら……!」
オーガモンが棍棒を構え直し、一直線に駆け出しました。
「そこの弱そうなやつから、やってやらあ!」
オーガモンの駆け出した先には、とんがり帽子をかぶった、エネアスの姿。
「エネアス、ボーッとしてないで、たまにはいいとこ見せな!」
ウィッチモンが、エネアスに呼びかけました。
「いいだろう。今日こそ、古代魔法を披露してあげよう! さあ、閉じ込められよ!」
エネアスが身を翻して、オーガモンの棍棒をひらりと回避。そして杖を構え、オーガモンへと突きつけ、呪文を唱えてみせます。
「エスルク・イニブアク・エネルージュ!」
青年の男性を思わせるいさましい声が、空気を震わせました。
……でも、それだけでした。
身構えたオーガモンの体には、なあんにも、起こっておりません。
「……エスルク・イニブアク・エネルージュ!」
もう一度唱えてみせても、やっぱり、声がこだまするだけ。
「くっ、呪文は完璧なはずなのに……!」
「こけおどしかよ! くたばれ!」
オーガモンはすぐさま、エネアスめがけて棍棒を振り抜きます。
杖で防ごうとしたエネアスですが、オーガモンのパワーには力負けしてしまいます。杖はエネアスの手をすっぽ抜け、飛んでいってしまいました。
すぐさまオーガモンが棍棒を振り上げ、今度はエネアスの頭めがけて振り下ろします。
万事休すかと思われた、その時です。
「——デスクロウ」
もの穏やかで、けれど、ぞっとするほど低い声が、オーガモンの耳に届きました。
オーガモンの腹を、後ろから黒い手がつらぬいたのも、それと同時のことです。
「な、に……?」
オーガモンが振り返ると、その腕は、後方から伸びてきていました。紅い月が照らす、薄闇の中で、伸びゆく腕はまるで漆黒の蛇のよう。
それを辿っていた先に、デビモンはいました。
ぼろぼろの黒い翼に、悪魔のような姿を持つ族長デジモン。伸縮自在の腕を使い、オーガモンを一瞬でつらぬいたのです。
「ち、くしょう……ついて、ねえぜ……」
デビモンの手が引き抜かれると同時に、オーガモンが倒れ、データの粒子になってゆきました。
「……面倒をかけたな、デビモン」
「まったく……あなたもデジモンなら、必殺技を使って戦いなさい。古代魔法などという妄想に、いつまでこだわるつもりですか?」
伸びた腕を元に戻しながら、デビモンがエネアスへと近寄ります。
エネアスが顔をしかめました。
「何度も言うが、ぼくをデジモンなどと呼ぶのはやめてくれ。必殺技なんて野蛮なもの、このウィッチェルニーには、ふさわしくないんだ」
「相変わらず、頑固な方だ。おや、あちらはもう、終わったようですね」
デビモンにつられてエネアスが顔を向けると、先ほどまで敵に囲まれていたペイルドラモンが、すべての敵を全滅させていました。
勝利の咆哮を上げる姿は猛々しく、いさましく、まさに戦士。
侵略者の全滅から程なく、次元の裂け目もふさがりました。
族長たちの勝利です!
「やれやれ、今夜もほとんど彼が片付けてしまいましたね……。エネアス、あなたもデジモンなら、ああなりたいとは思わないのですか?」
「いいや、ちっとも。それに、ぼくはデジモンじゃない。〝ウィッチ〟だ!」
エネアスは、生まれたときから、古代ウィッチェルニーの記憶を持っていました。その記憶のためか、たびたび、夢の中で、彼はウィッチとなるのです。
ウィッチェルニーのデジモンたちも、元を辿ればウィッチだった存在。だから、古代の記憶がうっすら残っている自分のような個体が生まれたのだと、エネアスは仮説を立てています。でも、他に同じようなデジモンを見たことは、ありませんでした。
「ウィッチの誇りにかけて、ぼくは殺し合いなど……」
「あら、アタシを呼んだかい?」
上空を旋回していたウィッチモンが、エネアスの声に反応して降りて来ました。
あまり戦っていませんでしたが、気楽な性格の彼女は、にこにこ上機嫌な様子です。
「ウィッチモン……ああ、まったく。きみの名前は忌々しいな!」
「ヤダ、褒められちゃった。忌々しいって、すごく魔女っぽくない?」
「デビモン、こいつはどうなんだ! 1体も倒していなかったぞ!」
怒るエネアスに、デビモンが肩を竦めてみせます。
「敵を引きつけ、ペイルドラモンのところに集めたのは彼女です。それに、先日の戦いでは3体もの侵略者を倒していました。対して、エネアス。あなたはこれまで、いったい何体の侵略者を倒したとお思いですか?」
「ゼロ体だ」
「100点満点ですが、0点ですね」
デビモンが、ふかぶかとため息をつきました。
両腕を組んでなぜか偉そうにえばっているエネアスは、ただの一度も、ウィッチェルニーを襲う侵略者デジモンに勝ったことがありません。
それもこれも、エネアスが必殺技を使わず、とっくの昔に失われた、ウィッチェルニーの古代魔法で応戦しようとしているためです。
デジモンは本来、それぞれが持つ必殺技を使って戦うもの。ウィッチェルニーのデジモンともなれば、攻撃魔法を扱うこともあります。
けれどエネアスは、古代の記憶を持って生まれたばっかりに、自分は古代に滅びたウィッチェルニーの種族〝ウィッチ〟であると言ってはばからず、決して攻撃魔法や、必殺技を使おうとしないのです。
「第一、あなた。古代魔法とやらは、敵をどうする魔法でしたっけ?」
「様々さ。ビンに閉じ込めたり、踊らせたり、ウンチを止まらなくしたり……」
「いつ聞いてもしょうもない……。それでどうやって、敵を倒すと?」
「……戦意は喪失させられるさ!」
「倒すまで、奴らは帰りませんよ。魔法の世界で育ったデジモンを倒せば、より強く進化できる……デジタルワールドでは、そう言い伝えられているのです」
デビモンの言う通り、それこそが、侵略者たちがやってくる理由です。
デジモンは戦いを繰り返すことで進化し、より強い、別の姿になることができます。
他のデジモンを倒し、経験を重ね、より強く進化したいと願うのが、デジモンの本能。
だから、次元の裂け目が生まれるたび、デジタルワールドから侵略者たちがやって来るのです。デジタルワールドでは〝高級プログラム言語〟とも呼ばれる、魔法の力……それを宿したウィッチェルニーたちのデジモンを、己が糧とするために。
「エネアス。いい加減、目を覚ましなさい。ウィッチなどという生き物、どんな歴史書にも記されていません。ウィッチェルニーは、デジモンの世界なんです」
「だが、デビモン。次こそは、成功するかもしれないんだ!」
「そう言い始めて、もう何年経ったことか……」
「だったら、わかっているだろう。説得しても無駄なことが」
「開き直らないでください……」
デビモンが、呆れ果てた顔で続けます。
「あなたは、エネルージュ族の族長なのですよ。他の者に示しがつきません」
「……それでも。ウィッチェルニーは、戦い、殺し合うための世界ではない。証明したいんだ。ウィッチたちが、本当にいたことを」
エネアスが俯き、声を震わせました。
どれほど説得しても揺らがない頑固者に、デビモンは首を横に振るばかり。
「おい、そこをどけ」
ずかずかと二人の間に割り込んできたのは、ペイルドラモンです。
エネアスとデビモンを押し除けたかと思うと、そばに落ちていた大きなタマゴを持ち上げてみせました。
「デジタマ? いつの間に……」
「見ていなかったのか、〝ウィザーモン〟。デビモンの倒した緑野郎が、これになったんだ」
ペイルドラモンの言う通り、そのタマゴはオーガモンの倒れた場所に落ちていました。
デジモンは命を落とすと、データの粒子となり、デジタルワールドへ還ってゆきます。その粒子はやがてデジタルワールドのどこかで寄り集まり、形を成し……デジモンのタマゴ、デジタマとなります。こうして、デジモンの命はサイクルしてゆきます。
ですが、強く進化したデジモンは、その命が終わるとき、直接デジタマへと生まれ変わることがあるのです。こうして生まれ変わったデジモンは、前世の強さを引き継ぎます。
戦いを重ね、強くなり、やがて転生し、次の生ではもっと強く進化する。徹頭徹尾、デジモンは、戦いと進化を追い求めるための生態をしていました。侵略者たちの行いすら、デジモンの倫理から見れば、必ずしも悪ではないのです。
「このデジタマ、貰ってゆくぞ。俺の新たな弟子にする。構わんな、長老どの?」
「ええ。あなたは今日一番の働きをしました。誰も異論はないでしょうとも」
長老……つまりデビモンの返事を聞くと、ペイルドラモンが満足そうにうなずきます。
「ウィザーモン。貴様もいい加減弟子を取れ。成熟期まで進化した、族長の責務だ」
「やなこった。敵を殺すための弟子を育てるなど、ウィッチのすることじゃない」
「戯言を。貴様が仲間でなければ、今すぐ引き裂いてやりたい気分だ」
「……ふん。いまだ人間に怯えるようなやつが、よく言う」
エネアスが「人間」と口にした瞬間、ペイルドラモンがデジタマを取り落としそうになり、デビモンまでもが両の翼をぴんと逆立てました。
「き、貴様! 二度とそんな恐ろしい名を、軽々に口にするな!」
「洒落になりませんよ、エネアス! ニンゲンがどれほど恐ろしいか、おわかりですか!」
焦りと怒りと恐怖をにじませた剣幕で、両者がエネアスへ詰め寄りました。
飽きて帰ったのか、ウィッチモンはいつの間にかいません。とことん自由です。
「人間に触れられると、全身が壊死するウイルスに侵され、心臓部(デジコア)が跡形もなく消滅する……だったか? 馬鹿を言え」
ウィッチェルニーの歴史書は、侵略者たちにより、一度はほとんどが失われました。
そして長い時間をかけるうち、歴史は伝言ゲームのように少しずつ歪んでゆきました。ウィッチたちの存在も、その過程で失われていったのです。
さらに、人間については……
『人間がウィッチェルニーを忘れたせいで、ウィッチェルニーが衰退した』
この真実が、伝言ゲームのために、
『人間がウィッチェルニーを滅ぼしかけた』
なんて風になり、挙句の果てには、
『人間は触れるだけでデジモンを消滅させられる』
という、トンデモな物語を作り上げてしまったのです。
かろうじて人間の似姿が描かれた書物は残っていたのですが、それがかえって「デジモンが人型に進化することが多いのは最強の生物に近づくため」なんて説を生むことに。
今では「悪いことをすると人間がやってくる」が幼いデジモンへの常套脅し文句です。
「ちっ……勝利の興が削がれた。俺は帰るぞ!」
ペイルドラモンがタマゴを抱えて、空へと飛び上がりました。羽ばたくたびに冷気が巻き起こり、エネアスが思わず怯みます。
「貴様も魔法ゴッコはいい加減で卒業することだな、ウィザーモン!」
「ぼくの名前はエネアスだ!」
「名前を変えたところで、デジモンはやめられんぞ、ウィザーモン!」
咎めるように言い残して、ペイルドラモンが飛び去ってゆきました。
廃墟には、もう、エネアスとデビモンしか残されておりません。
……かつてはこの山頂で、魔法の勉強に励み、笑い合っていたウィッチたち。
けれど今では、デジモンたちの怒号と、激しい戦いの音がとどろくばかり。
そのことを思うたび、エネアスは、ひどく虚しい気持ちにおそわれます。
「エネアス。偉大なる〝英雄〟は、今も我らを見守っています」
デビモンが示してみせた先には、見上げるほどの大きな石像が建っていました。
それは、かつてウィッチェルニーを守った、英雄の像。
甲冑に身を包んだ騎士のような姿をした英雄は、今ではウィッチェルニーにおける全てのデジモンの祖にして、最強のデジモンとして称えられています。
廃墟の中にありながら、英雄の像は、胸に細い風穴の空いた以外は傷一つなく、その威容をさらしています。風穴は、侵略者と戦った時の傷を再現したものなのだとか。
魔槍を手に膝をつく姿は、最期の瞬間まで戦い抜いていた姿と伝えられます。台座すらない奇妙な像で、膝と槍を地面に突き立ててバランスを取っているようです。
エネアスはその像を、憎々しげに睨みつけました。
「ウィッチェルニーをデジモンの世界に変えた元凶に、見守られてもな」
「あなたという方は、我らの祖にまで敵意を……」
「……すまないとは思っているさ。ぼくとて、ウィッチェルニーを最前線で守り続ける皆にも……長老のきみにも、感謝している。だが」
拳を握りしめ、エネアスは、なおも鋭い目で石像を睨みつけます。
「感情の問題だよ。ぼくは、ウィッチェルニーを血で染めた、あの英雄が嫌いだ」
こう言われては、もはやデビモンも引き下がるしかありません。デビモンは、理性を重んじればこそ、感情というものの頑なさを知っているのです。
「……私は砂漠へ帰ります。あなたと共に戦える日を、楽しみにしていますよ」
つとめて穏やかに語りかけるデビモンに、エネアスは返事ができませんでした。
ほかの族長たちが去り、あとに残されたのはエネアスだけ。
ひゅうひゅうと、風の音だけが、もの寂しげな音楽となっていました。
「なあ、みんな。ウィッチたちよ。一体、どこへ行ってしまったんだ」
エネアスの言葉に、答える者はありませんでした。
空ではただ、紅い月が、次第にその色を失ってゆくだけ。
(別の世界、か)
その言葉とともに、エネアスが思い浮かべたのは、人間たちの世界でした。
ウィッチェルニーが別の世界と繋がること自体は、今に始まった話ではありません。
かつてウィッチたちは、〝ウィッチデバイス〟と呼ばれる機械仕掛けの魔道書を使って、人間の世界へと修行におもむいていたのですから。
今のウィッチェルニーに、それを覚えている者はおりませんけれど、エネアスだけは、魔道書の形や、ウィッチが人間界へ旅立つ風景さえ、よく覚えているのです。人間そのものは、見たことがありませんけれど。
ウィザーモンというデジモンに進化するより前…小さな幼年期デジモンだった頃から、彼はウィッチたちが暮らしていたウィッチェルニーを、その風景を、夢に見ました。
おかしな姿で、おかしな魔法を唱えて、面白おかしく生きるウィッチたち。
魔法のイタズラで相手をからかうのが生きがいで、ウィッチ同士、魔法で競い合って。
デジモンとは違い、決して相手を直接傷つけたり、殺したりなんて、しないのです。
そんなウィッチたちに、エネアスは懐かしさと、憧れを覚えました。
だからこそ、今のウィッチェルニー……侵略者と戦いを繰り広げるだけでなく、デジモンたちが戦う力を得るために魔法を追い求める世界が、許せませんでした。
けれど、今のウィッチェルニーで古代の記憶を持つのは、彼ひとり。歴史に残らぬウィッチの存在は、根拠のない妄想として小馬鹿にされるばかり。
エネアスは、孤独でした。
(ぼくの記憶にあるウィッチェルニーは、もう、滅んでしまったのだろうか)
言い知れない感情といっしょに、エネアスはまた、人間のことを思い出します。
(それもこれも、人間たちが、ウィッチェルニーを忘れたせいだ!)
ほとんどやつあたりのような気持ちで、地面を強く踏みしめ、落とした杖を拾いにゆくためにずかずか歩きます。
人間がウィッチェルニーを忘れなければ、ウィッチが力を失うこともなかったのに!
エネアスが心の中で人間を呪ったのは、今日が初めてのことではありません。
けれど、そのたびに、エネアスは自分が嫌いになりました。
ウィッチたちは、人間のことが大好きだったからです。
人間を呪うなんて、とうてい、ウィッチらしい心のありようではないのです。
(それとも、人間の力があったなら……)
杖を拾い上げて、エネアスが空を見上げました。
人間の子供と絆を結ぶことで変身し、より強力な魔法を身につけていたウィッチたち。
ならば、自分もまた、人間の力があれば、古代魔法を扱えるのだろうか……?
ふと、そんな考えが頭を過ぎりました。
(われながら、くだらない)
すぐさま、エネアスは気を取り直しました。
忘れられたウィッチェルニーが、再び人間の世界と繋がるはずもありません。
(たしか、人間の世界への扉を開く古代魔法が、あったっけな)
人間たちの忘却によって、その魔法はとっくに使えなくなったそうですけれど。
呪文が頭に思い浮かんだものですから、エネアスは杖を掲げて、唱えてみました。
「エカリフ・オウ・アリボツ・ウィッチェルニー!」
ひゅおう、ひゅおう。
やっぱり、返事をするのは、風の音だけ。
いつものように、エネアスは失敗してしまったのです。
「……はあ。帰って、呪文をまとめ直そう。記憶違いがあったかもしれない」
急に恥ずかしくなってきてしまって、エネアスは家へ向けてきびすを返しました。
その時です。
エネアスの背後で、激しい光が発生しました
「な、なんだ!?」
驚いて振り返っても、眩しくて目を開けていられません。しばらくしてようやく光が晴れると、英雄の像の根本あたりに、だれかが倒れ込んでいるのが見えました。
「侵略者か!」
デジタルワールドから新たな刺客が現れたと思い、エネアスが杖を構えます。次元の裂け目が閉じてからさらに侵略者が現れるなんて、初めてのことでした。
……ところが、倒れている暫定侵略者は、いつまで経っても起き上がりません。
勇気を振り絞り、おそるおそる、エネアスが暫定侵略者へと忍び足で近づきます。
起き上がってしまったら、どうしよう。他に誰もいない中、悩みが渦巻きます。
そばに寄ると、倒れていたのは、エネアスより一回り小さなデジモンでした。
二本の足、二本の腕、一つの頭、二つの目に、唇。黒くて長い後ろ髪は、可愛らしいリボンで、二本のおさげに結わえられています。
珍しい姿形ではありませんが、するどい爪も牙もなく、武器も持っておらず、なんだかとても弱そう。ひらひらした服も、動きづらそうです。
杖の先で小突いてみると、「ううん……」と小さく唸る声がして、エネアスが飛び上がります。違うぞ、決してびびったわけじゃあない! と心の声で言い訳しながら。
ふと見ると、その侵略者は、手のひらに何かを握り締めているようでした。
手を伸ばし、その手のひらに握られたものを理解したとき……。
エネアスは、息を呑みました。
見間違うはずもありません。エネアスは何度も、それを夢で見たことがありました。
手のひらに収まるほどの大きさをした、青いカバーの、小さな本。表紙には、水属性、アクエリー族の紋章が刻まれています。
それは、ウィッチたちと人間の世界を繋ぐのに使われていた機械仕掛けの魔道書。
ウィッチェルニーからは、とうの昔に失われてしまった、古代のアイテム。
「ウィッチデバイス……!」
つまり、答えはもう、一つしかありません。
目の前で倒れているこの生き物は、人型デジモンなどではなく。
ウィッチたちを忘れ去った、古き友人——人間、そのものなのです。
それは、エネアスが初めて本物の人間と出会った瞬間であり。
彼にとって、生涯忘れることのできない日々の、はじまりでした。
3 エネルージュの章
夢で見た古代エネルージュ荒野の姿を、ぼくはよく覚えている。
とりどりの色の炎を咲かすロウソク花が一面に咲き誇る、幻想的な風景。
夢だというのに、どうしてか、ぼくはそれが本物の風景だという確信があった。
「隙あり! エスルク・イニブアク・エネルージュ!」
荒野の花々に見惚れていると、いきなり後ろからウィッチの呪文が聞こえる。
一瞬で、ぼくの視界がガラスに覆われてしまった。正確には、巨大な空きビンに閉じ込められたのだ。ウィッチたちが扱う、呪い魔法のひとつだ。
「へへっ……『魔法の呪文に気をつけな』ってな。ウィッチの基本だぜ!」
エネルージュ族のやんちゃな赤いウィッチがしたり顔で現れる。その手には機械仕掛けの赤い魔道書、ウィッチデバイスが握られていた。
人間界への扉にもなるそれは、ウィッチたちが用いる魔法の触媒にもなる。
辻斬りならぬ辻魔法はウィッチェルニーの文化。反撃して返り討ちにするか、治療や防御の魔法でやり過ごすことで、ウィッチたちは魔法の経験値を積んでゆくのだ。
観念した、ぼくの負けだ。早く出してくれ。淡々と赤いウィッチへ懇願する。
「ちぇっ、張り合いねえなあ」
治療魔法はまだ覚えていないというので、赤いウィッチが懐から栓抜きを取り出す。蓋を外すと、ビンはたちまち消えた。つくづく、魔法とは奇妙だ。
しかし、どうしてウィッチというのは、イタズラばかりするのだろう。
毎度懲りずにイタズラを仕掛けてくるのが不思議で、ぼくは彼に尋ねた。
「うーん……ほら。イタズラしたら、相手のいつもと違う顔を見れるじゃんか?」
確かに、それはそうだろう。驚いた顔や、呆れた顔、怒った顔。
「オレたちは、それが好きなのさ。相手をビックリさせて、まだ見たことのない表情を引き出してやるのが、楽しくてしょうがない! ウィッチの親愛表現さ!」
親愛表現で相手をビン詰めするのは過剰ではなかろうか。
そうも思ったが、同時に納得してしまうのは、ぼくもまたウィッチだからだろう。
少し過激な魔法もあれど、ウィッチの掟で、相手を直接傷つけるのは禁じられている。
ぼくはウィッチの、ウィッチェルニーの、そういうところが好きだった。
いつかぼくも、とびきりのイタズラ魔法を覚えて、このウィッチを驚かせてやろう。
夢の中だというのに夢想をしながら、ぼくは彼と語らい続けるのだった。
○○○○○○○○○○
かつてないほど周りの視線を気にしながら、エネアスは家路を急いでいました。
エネアスの家があるのは、南方のエネルージュ荒野。彼が族長を務めるエネルージュ族……主に火にまつわるデジモンが住んでいる、荒涼とした土地です。
そのエネルージュ族の集落が、ブロッケン山のふもとにありました。
ブロッケン山からの下山だけなら、魔力式昇降機のおかげで簡単です。ウィッチたちはみんな箒で飛行できたのでこんなものは不要でしたが、デジモンたちの世になってから昇降機が作られたようです。今日ばかりは、エネアスもデジモンの文明に感謝しました。
けれど、問題はそこからです。なんたって、今日のエネアスには大荷物があります。
眠りから目を覚まさない人間という、大荷物が。
先端に炎がゆらめくロウソク花がぽつぽつ咲く荒野を、エネアスは急ぎ足で、けれど抜き足差し足の、見るからにヘンな動きで進んでゆきます。
「よっす、族長。辻バトルだ、俺と勝負しろ! ボンファイア!」
ロウソク花に混じり、ロウソク姿のデジモン、キャンドモンがひょっこり現れました。そしていきなり、炎の弾を放ってきます。
辻バトルは、ウィッチェルニーに住むデジモンたちの文化。通りすがりに他のデジモンにバトルを仕掛けることで、実戦経験を積んで、強くなってゆくのです。
「おおぉっ!? やめないか、今は構っている暇はないんだ!」
「なんだよ、今日は古代魔法とかいうの、やらないのか?」
「は、はははっ! なあに、今日はやり返す気分じゃないのさ!」
「えー、つまんねーの。またあのバカみてーな呪文で失敗するとこ見たかったのに」
舐め切った態度に本当に怒りそうになるエネアスですが、もはや慣れたものです。デジモンはたいがい、実在も定かではない古代魔法と、その復活を試みるエネアスのことを、馬鹿にするのですから。
「……ところで族長、なんかマント逆じゃね?」
「新世代のファッションさ! ではこれにて失敬!」
これ以上の追及を避けるべく、エネアスがムーン・ウォークで歩き去ります。
キャンドモンの言った通り、エネアスはいつも背中に羽織っているマントを体の前にかけるという、斬新なファッション・スタイルを披露していました。
たいへん目立つ装いですが、幸い、エネルージュ荒野には数えるほどしかデジモンが住んでいません。廃れゆくウィッチェルニーにおいでも、随一人口(デジこう)が少ないのです。嘆かわしい事実に、エネアスも今日ばかりは、これまた感謝していました。
「やあ、族長。果樹園の世話のことなんだけど……」
次に岩陰から姿を現したのは、青く燃える体のゴースト型デジモン、ゴースモン。
いつもは帰り道なんて、デジモン一体に出くわすかどうかなのに!
「あー、きみが当番だったね、どうかしたのかな!」
「……ねえ族長。なんか、太った?」
さて。エネアスはどうして、マントを体の前になんて、かけていたのでしょう。
……ええ、そうです。
彼は、人間を抱き上げ、マントで包むことで、無理やり隠して運んでいたのです。
そんなわけで、エネアスのマントは、お腹が突き出たみたいに膨れ上がっていました。
「いやあそうなんだよ、ぼくとしたことが、ケーキを食べすぎてね!」
「そ、そうなんだ。で、果樹園のことなんだけど、収穫量が減ってて……」
「カラスの羽のエキスを撒きたまえ! 古代から伝わる果樹にはてきめんだ! では!!」
怪訝そうな顔をするゴースモンを置き去りに、再びムーン・ウォークが披露されます。今のエネアスなら、後ろ歩きウィッチェルニー選手権、金メダル間違いなしでしょう。
そんなこんなで、妙ちきりんな移動は続き。
精神的に疲れ切りながらも、エネアスはようやく、我が家に辿り着きました。小高い丘の上に建てられた、石造りの小さな家。
扉を開き、中に飛び込むと、エネアスは明かりもつけずに重荷をベッドに寝かせます。
見つけた時と変わらず、小さな人間は、目を閉じたままほとんど動きません。
ときどき唇の合間から空気を吸う音がして、胸がゆっくり動いているので、呼吸はしているようです。
長い髪や顔立ち、やわらかい体、スカートつきの洋服。改めて観察すると、この人間は、まだ幼い少女のようです。
デジモンに性別はありませんけれど、古代のウィッチにも、人間の少女に近い姿のものがいました。だから、エネアスにも判別がつくのです。
「えらいことになってしまったぞ……!」
エネアスがこの少女をこそこそ連れ帰った理由は、大きく三つありました。
一つ。エネアスが、彼女を元の世界に帰せなかったこと。
人間界への扉を開く呪文を再び唱えてみても、今度は何も起こりませんでした。
状況から考えれば、古代魔法の成功には少女とウィッチデバイスが関係しているはず。理由を解明するためにも、連れて帰る必要がありました。
二つ。人間が、デジモンたちに恐れられていること。
人間は、簡単にデジモンを死に至らしめると信じられているような存在。この少女のことを知られたら、ウィッチェルニーは一瞬で大パニックです。
そして、三つ目の理由。エネアスは、この少女を、放っておけなかったのです。
デジモンが少し力を込めただけで砕けてしまいそうな、弱々しい体つきもそうですが。
エネアスは、彼女を間近で見たとき、その目元が涙で濡れていることに気づきました。そんな少女を置き去りにすることが、彼にはどうしても、できませんでした。
もしかすると、彼の中のウィッチとしての記憶が、そうさせたのでしょうか。かつてウィッチたちの大切な友達だった人間に、手を差し伸べたいと。
(事が露見する前に、この少女を、元の世界へ帰さなければ……!)
エネアスの最終目的は、つまり、それです。
うっかり自分のミスで召喚してしまった人間を、元の世界へ帰さないと。
そのためには、まず……。
(だめだ。頭が回らない……!)
あれこれと思考は止まりませんでしたが、先に疲労の限界が訪れました。肉体以上に、精神が疲れ切っています。
ブロッケン山まで赴き、侵略者と——何も貢献しなかったとはいえ——戦い、人間を見つけるなんて前代未聞の経験をして、あまつさえその人間を抱えて帰ってきたのです。当然の結果と言えるでしょう。
(ぼくも少し、眠ろう。隣で寝れば、こいつが起きても気づけるだろう……)
よろめく体を引きずって、入り口にかんぬきをかけて、窓を閉じ、外からも見えないようにカーテンを閉め切って、念入りな戸締り。
それからようやく、エネアスもベッドに倒れ込みました。エネアス一人用のベッドですから、少女が隣にいると、いささかならず狭いのですが。
隣で誰かの呼吸を聞きながらまぶたを閉じると、エネアス自身も信じられないほど穏やかに、そしてあっという間に、夢の世界へ誘われてゆきました……。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
夢の中で、ぼくはこの手に魔槍を握る、英雄となっていた。
幾千のロウソク花が揺れ、真白い砂漠が広がり、湖は透明な水をたたえ、吹き渡る風がどこまでも広がる草原の草花を揺らす、各地の風景。
ウィッチェルニー。穏やかで美しき、守るべき世界。
そこに暮らす、愛おしくもか弱き、ウィッチたち。
かれらの笑顔を、美しい風景を守るべく、握った槍に力を込める。
空には紅い月が妖しく浮かび、次元の裂け目から次々に侵略者が現れる。
次々に押し寄せる侵略者……デジモンたちを貫き、薙ぎ払い、蹴散らして。
魔槍を前には、どれほど凶悪なデジモンとて、相手にはならない。
自分の背中には、ウィッチたちがいる。敵を通せば、かれらの命が奪われてしまう。
だから、ぼくは、振り返ることなく、敵だけを見据えて戦い続けた。
向かってくる敵も、逃げ惑う敵も、容赦なくそのデジコアを突き砕くのだ。
そのたびに、えも言われぬ高揚が全身を駆け巡り、槍はいっそう冴えわたる。
斬り、突き、払い、殺し、散らし、砕き、殺し、貫き、殺し、殺し、殺し。
疲れ果てながらも、ようやく敵の攻勢をさばき切った。
ぼくはようやく振り返り、ウィッチたちのもとへ凱旋してゆく。
そして……ウィッチたちに出迎えられ、かれらの表情を目にした瞬間。
決まって、絶望的な感情に苛まれながら夢は終わり、目が醒めるのだ。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「……っ!」
全身冷や汗まみれになりながら、エネアスがベッドから跳ね上がるように起きました。
(また、この悪夢か……)
紅い月の後には、エネアスは決まって同じ悪夢を見ました。
魔槍を持つあの英雄となり、侵略者たちを蹴散らしてゆく夢。
恐ろしいのは、夢の中で、英雄となった自分が暴力に酔いしれていることでした。
圧倒的な力でデジモンたちを屠る感覚の、なんと心地よかったこと。
(最悪だ。あんな本能が、ぼくの中にもあるというのか?)
ふだん夢で見るのは、かつてのウィッチェルニーの日常だというのに。。
そして悪夢は決まって、ウィッチたちと顔を合わせたところで終わりを告げます。
華々しい勝利の凱旋だというのに、英雄は最後には絶望し、膝をついてしまいます。
(もしかすると、あのとき、ウィッチたちはデジモンへ変わったのか?)
エネアスの記憶では、かの英雄の溢れんばかりの力が、ウィッチをデジモンへ変えたはずです。英雄はそれを嘆き、いなくなってしまったとも。なら、あの夢の終わりに、英雄は変貌したウィッチを目にして、絶望したのかもしれません。
(……まったく。あの英雄のことを考えるほどに、腹が立つ)
どうしてか、エネアスは英雄のことを考えると、苛立って仕方ありません。
それはほとんど、本能的な嫌悪でした。ウィッチェルニーを侵略者から守ったのもわかっているのに、どうしてか、あの英雄が心の底から許せないのです。
これもまた、エネアスが持つ古代の記憶と関係しているのかもしれません。
ゆっくり深呼吸をして、エネアスは身だしなみを整えました。
それから、ベッドランプの灯りをつけたところで……ベッド脇から、こちらをじっと覗き込んでいる少女と、目が合いました。
「……あっ」
思わず、エネアスの口から間の抜けた声が漏れます。
悪夢に気を取られ、エネアスはすっかり忘れていました。
自分が昨日、気を失った人間の少女を、この家に連れ帰っていたのだと。
そして彼女を、自分のベッドに寝かせていたのだと。
エネアスが寝ている間に目を覚ましたらしい少女は、アクエリーの色を思わせる青い瞳で、じっとエネアスの顔を見つめています。
「……あの。大丈夫、ですか?」
たどたどしい敬語で、少女がエネアスに話しかけてきました。
「大丈夫、って……何がだ」
「うなされてた、から。……あの。ここ、どこですか?」
「ぼくの家だ。……ああ、いや。ウィッチェルニーだ」
寝ぼけ頭で、エネアスはどうにか少女の質問の意図を察しました。
少女も混乱しているのでしょう。何せ目を覚ましたら、知らない家にいたのですから。ましてやその家には、彼女にとって未知の生き物が眠っているのです。
「うぃっちぇる、にー」
「わかりやすく言うなら、きみにとっての異世界だ。きみは、人間だろう?」
「はい! そういうあなたは、魔法使い?」
戸惑いに満ちていた少女の表情が、少しずつ明るくなってゆきます。青い瞳は、期待に満ちてきらきらと輝き始め、宝物を見つけたみたいに、エネアスを見つめていました。
「見ての通りさ。ぼくは、このウィッチェルニーでもっとも偉大なウィッチだからな」
悪夢にうなされていたのなんて、なかったかのように、エネアスが威張ります。
〝もっとも偉大なウィッチ〟だなんて大袈裟ですけれど、エネアスは嘘をついているつもりもありません。だって、他の住民はみんなデジモンなのですもの。消去法です。
そして、その言葉で、いよいよ少女の瞳はガラス細工のように煌めき始めました。
「すっ…………ごい! じゃあ、わたし、魔法の世界に来ちゃったの!?」
少女が、興奮を抑えきれないといったように、その場で飛び跳ね始めました。
「おい、きみ、ちょっと落ち着いて……」
「すごい、すごい! じゃあ、あなた、魔法が使えるんだ!」
「それは、まあ……使えるが!」
一人で古代魔法に成功したことなんて一度もないのに、エネアスは見栄を張りました。
「じゃあ、魔法は、ほんとにあるんだ!」
「当たり前だ、誰に向かって言っている!」
迷いなく肯定するエネアスに、いよいよ少女の笑みが爛漫に咲き乱れます。
「よく見たら、お家だって、絵本に出てくる魔女の家みたい! すっごおい!」
「こら、勝手に家のものに触るんじゃない!」
少女の言った通り、エネアスの家の中は、まるで童話に出てくる魔女の家そのもの。
ワンルームの家で、とんがり屋根、本棚には古ぼけた本が詰め込まれ、窓際には名前もわからないへんてこ植物の鉢植え。半開きのクローゼットにはボロのマント、黒板には見知らぬ文字列。そして部屋の中央には、怪しげな大鍋まであるのです!
エネアスには知るよしもありませんが、年頃の子供を喜ばすには十分な内装です。
「ねえねえ、夢じゃないよね! ほっぺつねってみてもいいかな!」
「ぼくに許可を求めるな、好きにしろ!」
「わかった、えいっ!」
「痛(い)った、なんで僕のをつねるんだ、普通逆だろうが!」
「あ、そうだった! えいっ! ……あはは、ちゃんと痛い! 夢じゃなあい!」
ついさっきまでの敬語まで、いつの間にやら消えて、少女は大はしゃぎ。
エネアスにとっては日常風景でしかありませんから、彼は困惑するばかりです。
どうしようかと悩んでいると、コンコンと、入口のドアがノックされる音がしました。
「おうい、族長、ゴースモンだよ。なんだかずいぶん、騒がしいけど……」
これは、まずい! エネアスがドアと少女を、交互に見ました。
人間がいるだなんてバレてしまったら、ただごとではありません。
エネアスは慌てて、クローゼットから予備の帽子とマントを取り出しました。
「きみ、これを着ろ!」
「わ、魔法使いの帽子!」
「いいから早く!」
大急ぎで少女にマントを羽織らせ、帽子を被せてみると、どちらもぶかぶか。けれど、それが逆に幸いしてか、なんだかミニマムウィザーモンといった風体です。かわいらしい服が覗き見えているので、印象はずいぶん違いますけれど……。
「いいか、きみは絶対喋るんじゃないぞ! 喋ったら、呪いをかけるからな!」
エネアスが少女の口元に指を突きつけて脅してみせると、当の少女は心の底から嬉しそうな表情でコクコクと頷きました。
(本当にわかっているのか……?)
一抹の不安を覚えながらも、エネアスがかんぬきを外して、玄関扉を開きました。
扉の前には、カゴいっぱいに桃のような果実を詰め込んだゴースモンの姿があります。
「やあ、族長。カラスの羽のエキス、効果てきめんだったよ! 大きい果実が採れたから、おすそわけに来たんだ」
「それはありがとう! 古代から伝わる味は最高だよな! そこに置いといてくれ!」
「えっ」
「な、何だね、今の『えっ』は」
「いや、だって、族長が『ありがとう』だなんて……」
「………………」
エネアスはデジモンが嫌いでしたから、エネルージュ荒野のデジモンたちにも日頃からきつく当たっていました。話をさっさと切り上げようとしたのが、裏目に出たようです。
「ぼくだってそういう気分の日もあるさ! さあさあ、さっさと帰りたまえ!」
「お、よかった、いつもの族長だ。……あれ、後ろにいるのは?」
そして結局、隙間から覗き見えたミニマムウィザーモン少女を隠しきれませんでした。
「あれは、ええと……ぼくの弟子の、見習いウィザーモンさ!」
「え? 族長、『デジモンなんか死んでも弟子にするもんか』って言ってなかった?」
「気が変わったのさ、なんたってほら、ぼくと同じウィザーモンだ! 古代魔法の深遠さを共に学んでくれているんだよ!」
「じゃあ、族長と一緒で変なやつかあ。名前はなんてえの?」
「名前……?」
「弟子っていうから、族長と一緒で、変な名前ついてるのかなーって」
デジモンはふつう、自分だけの名前というものを持ちません。ゴースモンの名前はゴースモンですし、仮にウィザーモンへと進化すれば、名前はウィザーモンに変わります。
エネアスという名前は、デジモンという存在から遠ざかるために、彼が自分で自分につけたものなのです。
「あ、あー……見習いの……ミナ……そう、ミナだ。見習いウィザーモンの、ミナ!」
「おー、やっぱ変な名前! 族長のセンスだ!」
ストレートに無礼な物言いをするゴースモンですが、いつもエネアスが刺々しい態度を取っているせいなので、言い返すこともできません。
咄嗟にでっち上げた名前に、少女が驚いた顔をしていましたが、構う暇もなし。
「でも、ウィザーモンってことは、成熟期だろ! すごいじゃないか!」
「そ、そうだね……実はずっとこの家に住んでたのが、最近進化したのさ」
「へえ、全然知らなかったよ。おうい、オイラはゴースモンだよ。よろしく!」
ゴースモンが手を振ると、少女はすこし悩んでから手を振り返しました。喋ってはいけないとは言われた約束を、しっかりと守っております。
「悪いねゴースモン、ミナは古代魔法の修行で疲れてるんだ! 休ませてやりたいから、今日のところはお引き取り願えるかな!」
「それなら、仕方ないや。おうい、見習いのミナ! うまい果実食べて、元気出せよな!」
玄関に果実の入ったカゴを置き、ゴースモンがふよふよ浮きながら去ってゆきました。
その場を乗り切り、エネアスが深いため息をつきます。
「これでは心臓(デジコア)がいくつあっても保たない……!」
少女の様子はといえば、ゴースモンが去ってからも黙りこくったまま。
エネアスが果実のカゴを拾い上げて扉を閉じ、椅子に腰掛けました。
「……きみ。もう喋っていいぞ」
「あ、よかった! 静かにしてるの、しんどかった!」
「律儀なコドモだな、きみは。……コドモで合っているよな?」
「うん、九つだよ」
九つ、つまり九歳。人間の九歳がどれほどのものか、エネアスにはぴんときません。
「あ……いけない! 初対面なのに、挨拶してなかった!」
はっとした顔で、少女が口元を手で覆います。
「はじめまして! わたしの名前は……」
「待った!」
自己紹介を始める少女を、エネアスが遮りました。
「悪いが、名乗るのはやめてもらおう」
「え、どうして?」
「勢いで、きみのことを〝見習いウィザーモンのミナ〟と紹介してしまった。本当の名前を知ったら、きみのことを呼び間違えかねない」
「呼び間違えないよお」
「きみが決めるな! 名前を呼び間違えたら、怪しまれる……もしそれで、きみが人間だというのがばれてみろ。大変なことになるんだぞ!」
「人間だってばれたら、いけないの? どうして?」
「……そうだな。まずはこの世界のこと、ひととおり説明する必要がありそうだ」
エネアスは、テーブルを挟んで少女と向かい合い、ゴースモンのくれた果実を齧りながら、少女にすべてを説明しました。
ウィッチェルニーという世界のこと、侵略と英雄の登場に連なる簡単な歴史、ウィッチやデジモンのこと。そして、彼女が持つウィッチデバイスのことや、自分が彼女を、この世界に召喚してしまったらしいことまで。
一方、ひとり未知の異世界に召喚されてしまった少女の様子はといえば。
「はああぁぁ……すごい。ほんとのほんとに、魔法の世界なんだ……! このフルーツも、はじめて食べるフシギなお味……!」
すっかり聞き入って、果実の甘さにうっとりしながら、夢見心地の表情でした。
発見したとき、泣き腫らした後のような目元だったのが、嘘のようです。
「知らない土地に迷い込んで、何故そんなに嬉しそうなんだ……」
「だってだって、わたし、大好きなの! 魔法とか、魔女とか! ママがいっつも、絵本で聞かせてくれたの!」
「ママ……親のことか。魔法に憧れるとは、殊勝な心がけだが……」
さりとて、今のウィッチェルニーで、魔法とは敵と戦うためのもの。
だから、エネアスは決して、断じて……この少女が魔法に憧れたぐらいで、嬉しくなったりはしないのです。相手をやっつけるための魔法が、エネアスは大嫌いなのですから。
「それよりまずは、これからの話だ。ぼくは君を、元の世界に送り返す必要がある」
「ええっ、どうしてどうして! せっかく魔法の世界に来れたのに!」
「いや、ふつう、帰りたがるものじゃないのか……? きみ、モンスターたちの住む世界に迷い込んでしまったんだぞ?」
「でも、あなたの顔、ぜんぜん怖くない。なんだか、お人形さんみたい」
向けられたことのない感想に気恥ずかしくなって、エネアスは帽子で顔を隠しました。たしかに、エネアスは少しつぶらで、愛らしい瞳をしているのですけれど。
「とにかく……きみ。いま説明した、ウィッチデバイスを出してくれるかい」
「これのこと?」
少女が、テーブルの上に、青いアクエリーのウィッチデバイスを置いてみせました。
間違いなく、エネアスの記憶にある通りの形状です。
「きみは……これを、どこで手に入れた?」
「ママがくれたの。わたしの宝物。ママも、緑色のを持ってたよ」
緑色ということは、バルルーナの紋章を宿すウィッチデバイスでしょう。どうやら人間界には、まだウィッチデバイスを持つ人間がいたようです。
手のひらサイズの青い魔道書を開いてみると、カバーの内側には画面と、三つのボタンが並んでいます。ボタンの右上のあたりに、くすんだ色の宝石が嵌め込まれていました。
これもやはり、エネアスの記憶にある通り。ただ一点異なるのは、宝石の色がくすんでしまっていることです。
「やはり……マジクシルが、輝きを失ってしまっている」
「まじくしる?」
「ウィッチデバイスの動力となる、魔法の宝石さ。こいつは、きみのママの持ち物だと言ったね。長い時間が経ったせいで、魔力が尽きかけていたんだろう」
「電池切れってこと?」
「まあ、そんなところだ」
ウィッチェルニーにも魔力電池があるので、エネアスも理解できる概念です。
「ウィッチデバイスは、人間界とウィッチェルニーを繋ぐ扉だ。こいつを復活させないと、きみを元の世界に帰せない」
「じゃあ、電池を交換すればいいの?」
「ああ……だが、マジクシルの材料というのが、難儀でね。ウィッチェルニーじゅうをめぐって、集める必要がある」
マジクシルの材料についても、エネアスは記憶していました。
エネルージュ荒野で採れる、ロウソク花の根。
アースリン砂漠に生える、アスリンサボテンの結晶花。
アクエリー湖の水から作られる、聖水。
バルルーナ森林周辺で採取できるキノコ、バルルダケ。
これらを全て大鍋に放り込むことで、マジクシルを作り出すことができるのです。
ひとしきり少女に説明すると、彼女はこてりと首を傾げます。
「鍋で煮込んで、宝石になるの……?」
「食べ物でも薬でもなんでも、鍋にぶち込んで作るのがウィッチェルニー流さ」
「つまり、魔法ってことだね!」
少女はあっさり納得してくれました。実際、その通りなのですけれど。
「気が滅入る話だが……きみを元の世界に帰すために、これを全部集める必要がある」
「じゃあ、もしかして……ウィッチェルニーを、旅するの!?」
「必然、そういうことになるな……」
材料そのものは、様変わりした今のウィッチェルニーでも手に入る代物です。
問題は、そう……いまエネアスの目の前にいる、この少女でした。
家にひとりで置いてゆくわけにも、ゆきません。荒らされでもしたらたまったものじゃないですし、この落ち着きのないお子様、エネアスの目がなければ、あっさり人間であることがばれてしてしまいそう。
ついて来るつもりはあるか……という問いかけを口に出しかけて、エネアスは途中でやめました。だって少女は身を乗り出し、鼻息を荒くし、完全に〝その気〟です。
「……今のウィッチェルニーの環境は、過酷だ。楽な旅にはならないぞ」
「大丈夫だよ、師匠。魔法の世界を見て回れるなんて、夢みたいだもん。どんな苦労だって、わたし、へっちゃらだよ!」
「威勢のいいことで……待て、師匠だって?」
いきなり師とあおがれたものだから、エネアスの目が点になってしまいます。
「だって、ゴースモンさんに言ってたでしょ。わたしが、弟子だって」
その場を乗り切るための出まかせだったというのに、少女は真に受けたようです。
けれども……と、エネアスは考えました。
本当にそういうことにした方が、便利かもしれません。
エネアスは、デジモン嫌いの偏屈デジモンとして有名。他のデジモンと顔を合わせないために、いつも家に引きこもって実験をしていたのです。道連れをともなって旅をするには、それなりの説得力が必要でしょう。
「……いいだろう。なら、旅の間、きみはぼくの弟子だ」
「やったやった! わたし、魔法使いの弟子になっちゃった!」
「あまり喜ぶなよ、事態は深刻なんだ。きみが人間とバレたら、どうなることか……」
「わたし、師匠に触っても平気なのに……」
「向こうはそうは思わないさ。だから、きみにはデジモンのふりをしてしもらう。さっきも言ったが、きみの名前は今日から見習いウィザーモンの〝ミナ〟だ。いいな?」
「わかった!」
「それに言っておくが、ぼくは人間が嫌いなのでな。きみの本名など、知りたくも……って、なに? い、いいのか?」
「うん! わたしは、見習いウィザーモンの、ミナ!」
少女……もといミナが、あんまりあっさり受け入れるので、エネアスも拍子抜けです。
しかも面と向かって「嫌い」とまで言われたのに、ミナはにこにこ、嬉しそうな様子。
(人間は、名前にこだわりがないのだろうか?)
ますます人間のことがわからなくなったエネアスですが、話が早いのは結構なこと。
「さて……出発前に、何か聞いておきたいことはあるか?」
「はい、師匠っ! 弟子って、どうやったら一人前になりますか!」
「気が早いな! そうだな、一人前のウィッチの証というなら……」
エネアスが思い出したのは、夢で見た古代エネルージュ族との会話。イタズラで相手をビックリさせるのが、ウィッチの生き様であるならば……。
「……魔法を覚え、そして師匠であるぼくを、驚かせること。それが、きみの課題だな」
「わーっ!!」
「誰がそんなんで驚くか! 魔法を覚えろ、まずは!」
「へへー。じゃあ、わたし、どんな魔法教えてもらえるの?」
エネアスが硬直しました。
ご存知のとおり、エネアスは古代魔法にこだわりながら、一度たりともそれを成功させたことがありません。
「ぼくが教える、魔法は……」
答えかけて、エネアスは言葉に詰まりました。
エネアスが愛する古代魔法は、デジモンたちからすれば、低俗でくだらない、戦いにもまるで役立たないもの。エネルージュ族のデジモンたちに話しても、馬鹿にされるばかりで、誰も学ぼうとはしてくれませんでした。
彼が愛する古代ウィッチェルニーの文化を馬鹿にされるのは、とても腹立たしいこと。だから、エネアスは余計に、デジモン嫌いを拗らせていったのです。
「……ウィッチェルニーの、古代魔法だ。ウィッチたちの、使っていた魔法」
「それって、どんな魔法なの?」
「いろいろさ。呪いの魔法から、守りの魔法、治療の魔法まで……」
「たとえば、たとえば?」
「……相手を空きビンに閉じ込める魔法」
「空きビンに? すっごく大きなビンなんだね……!」
「ウンチが止まらなくなる魔法や、相手を踊らせてしまう魔法に……」
「ひゃあ、汚いけど、呪いっぽい! 相手を踊らせるのも、魔女みたい!」
「それらから身を守る魔法や、相手を眠らせる魔法……」
「あ、眠りの魔法! お話でも定番!」
「……きみ。笑わないのか?」
「笑ってるよ! だって面白い魔法ばっかり! ウィッチってほんとに、イタズラ好きだったんだね!」
ミナは、古代魔法の話を、どれも、心から楽しそうに聞いていました。
そんな彼女を前に、ほんの一瞬、エネアスの顔が、今にも泣き出しそうに歪みました。
初めてだったのです。
古代魔法を……ウィッチたちの素晴らしさを、こんなに真っ直ぐ肯定されたのは。
「師匠……?」
「……魔法を。魔法を使うのに必要な、三原則を教えよう!」
誤魔化すように、エネアスが立ち上がり、チョークを手に取ります。
書いてみせたのは、魔法を扱う必須条件こと〝魔法の三原則〟……でしたが。
「はい、師匠! 読めないです!」
「なっ……人間たちはデジ文字を使わないのか!」
デジモンの文字を使ったものだから、ミナに伝わるよう音読することになりました。
〝魔法の三原則〟は、以下のとおり。
ひとつ。自分は魔法を使えると、心の底から信じること。
ふたつ。杖や魔道書など、魔法の触媒を掲げること。
みっつ。魔法の呪文を口に出して唱えること。
「呪文って、どんなのがあるの?」
「追々教えるが、例えば、そうだな……エスルク・イニブアク・エネルージュ!」
エネアスがミナに杖を向け、呪文を唱えてみせました。「わ」とミナの小さな声。
……もちろん、なあんにも起きやしないのですけど。
「これが、相手を空きビンに閉じ込める呪文だ。……今の姿では、成功した試しがないのだが」
「今のすがた?」
「ああ。ぼくには……ウィッチとしての、真の姿があるはずなんだ」
「古代魔法が使えたら、それになれるの?」
「そうとも。ぼくは真の姿になり、ウィッチたちが実在したことを証明するのさ!」
「真のすがた……!」
「デジモンなどという、戦いのために生まれた姿ではない。気高く尊い、ウィッチの……魔法使いとしての、真の姿だ。心が躍るだろう!」
英雄の溢れる力により、ウィッチたちはデジモンへ変わり、古代魔法が失われました。
ならば、逆だって成り立つはず。ウィッチの記憶を持つエネアスが、もう一度古代魔法を使えるようになれば、ウィッチとしての姿を取り戻すことができる。
それが、エネアスの考えでした。
「ウィッチになったぼくを見れば、もはや、誰もぼくを笑えまい。ウィッチェルニー最後のウィッチとして、ぼくは永遠に歴史に名を刻むのだ……!」
「師匠は、みんなに信じてほしいんだ」
ミナが、エネアスの目をまっすぐ見て言いました。
声を失ったのは、エネアスです。
エネアスの捻くれてひん曲がった気持ちと言葉の一番奥にある、本当の気持ちを、さらりと撫でられてしまったような心地でした。
「……馬鹿を言え。ぼくはただ、あるべき形に戻りたいだけだ」
「できるよ。だって、師匠とわたし、ふたりも魔法を信じてる。パワー二倍だよ!」
「何のパワーだ、何の……」
呆れながらも、エネアスはどこか、ミナの言葉に勇気づけられつつありました。
ウィッチにまつわる伝承が途絶えた現在のウィッチェルニーでは、古代魔法の手がかりは、エネアスの記憶と、彼の夢だけ。
彼はずっと、自分が夢に見た魔法の呪文を、諦めることなく唱え続けてきました。
あの夢が、本当にあった出来事なのだと、証明するために。
もし、それをやめてしまったら……古代魔法を、信じられなくなったら。
その時、「ウィッチたちのいる世界」が、彼の中から、永遠に失われる気がました。
存在を信じられなくなることは、その世界が滅びるのと、同じことなのです。
だから、たった一人でも、あの世界を信じてくれる者に出会えた。それはエネアスにとって、はかりしれないほど、大きな希望でした。
エネアスが、ミナのウィッチデバイスをちらりと見やります。
「どうしたの?」
「……いや、なんでもない」
ウィッチデバイスとミナの力があれば、古代魔法の復活に、より近づけるかも。
エネアスは、そう言いかけて、やめました。目的はあくまで、彼女を元の世界に帰すこと。人間の力に頼るなんて、エネアスのプライドが許しません。
心の中で言い訳を重ねて、近道から目を逸らしました。古代魔法復活の助けになるはずなのに、エネアスはなぜか、そこに近づくことに不安を覚えていたのです。
「あっ……空きビンの呪文忘れちゃった。どんなだっけ、師匠」
「人間は物覚えが悪いな。エスルク・イニブアク・エネルージュだ」
「えするく・いにぶあく……えねるーじゅ?」
「唱えるなら、もっと自信を持って。もっとも、これはウィッチたちの呪文。人間が習得するのは、無理だと思うがね……」
「エスルク・イニブアク・エネルージュ!」
ミナがウィッチデバイスを手に取り、もう一度詠唱してみせました。
すると、エネアスが目を見開きました。ほんの一瞬、ウィッチデバイスが輝きを放ったように見えたからです。
けれど、それだけで、結局は何も起きませんでした。
つい今しがた思い浮かべていた仮説を裏付けるような現象に、どきりと心臓(デジコア)が跳ねそうになるのを、強引に抑え込みました。
「……というか、ぼくに向かって唱えようするな!」
「ふふん、さっきのお返し! びっくりした?」
「この程度で驚くものか! もういい、さっさと荷物をまとめて出発だ!」
ミナがイタズラっぽく笑い、エネアスがぷい、と顔を背けました。
でこぼこ師弟が、早くも出来上がりつつあるようでした。
それから、ふたりは旅支度を整え、エネアスの家を出ました。
エネアスが背負った鞄には、食べ物やら、テントやら、旅の道具がたくさん。
「まずは、アースリン砂漠……知識の館を目指そう。あそこに住むデビモンが、アスリンサボテンを栽培している」
エネアスが、ウィッチェルニーの地図を広げてみせました。
ウィッチェルニーは、ブロッケン山を中心に東西南北のブロックに分かれています。
南ブロックにあるのが、ここ、火のエネルージュ荒野。
目的地であるアースリン砂漠は、エネルージュ荒野の隣、西側のブロックです。
それから北のアクエリー雪原、東のバルルーナ森林を巡り、ぐるりとウィッチェルニーを一周してマジクシルの材料を集めるのが、旅の計画です。
「たっぷり数日はかかる旅になるぞ、覚悟はいいね?」
「はい、師匠!」
ウィッチェルニーは小さな島ほどの大きさをした、箱庭のような世界。徒歩の旅とて、ぐるっと一周するのは、そう難しい話ではないのです。
歩き出してみると、歩幅にはずいぶん差があるので、エネアスがミナに合わせて歩いてやらねばなりません。
これは思ったより、時間を食うかもしれないぞ。エネアスが、心の中で思いました。
「ねえねえ師匠、あの燃える花はなあに?」
「ロウソク花も知らないなんて、これだから人間は。ぼくらが集める材料の一つだぞ。どうせここに戻るんだから、帰りに採ればいいが」
「ねえねえ師匠、お月様の形がさっきと変わってる!」
「無知だな、きみは。ウィッチェルニーの住人は、月の満ち欠けで時間を計るのさ。月が満ちて欠けるたび、一日が終わる。人間界とは、時間の流れが違うんだ」
「ねえねえ師匠————」
なんて、ミナが質問しては、エネアスが大きな態度で講釈を返しながら。
自称ウィッチのデジモンと、魔法が大好きな少女。
奇妙な師弟の、短くて長い旅路が、幕を開けるのでした。
4 アースリンの章
夢の中。砂糖まみれの純白の砂漠で、ぼくは友たるウィッチと歩いている。黄色い頭巾をかぶった、小さなアースリン族だ。
「わたあめ、食べる?」
結構だ。ぼくは甘いものが、あまり好きではない。
「変わってるなあ。甘いもの食べないと、キミも疲れちゃうよ」
アースリン族はシャイで、守りの魔法に長けている。
マイペースなウィッチたちの中でも、かれらは特にのんびりした性格だ。
「あーあ。人間さんにも、このわたあめをごちそうできたらなあ」
頭巾ウィッチの言葉に、ぼくは疑問を呈する。
きみたちはなぜ、そんなに人間が好きなのだ。魔法も使えず、戦う力もないのに。
ぼくは人間界へ遊びに行ったことがないので、これがとんと理解できない。
ぼくが生まれたときにはもう、人間たちはウィッチのことを忘れていたのだ。
「うーん、好きなのに理由なんてないけどなあ。あえて言うなら〝信じる力〟かな?」
信じる力? どういうことだい、それは。
「サンタクロースって知ってる? 人間界で一番有名なおじいさん。毎年、クリスマスって日に、世界中の子供にプレゼントを配るんだ」
世界中に? 人間界はウィッチェルニーより遥かに広いのだろう。不可能だ。
「でも、サンタクロースがほんとにいるって信じてる人間は、たくさんいるよ。魔法だって、人間界にはないのに、信じてる人がたくさんいる。だから、ボクは人間が好きなの。フシギなものを、心から信じられる。これって、〝魔法の三原則〟みたいでしょ?」
……にわかには信じがたいな。ぼくは人間の実在だって、疑わしいぐらいなのに。
魔法だって、ぼくはなかなか、他のウィッチのように覚えられない。
「大丈夫だよお。最初はどんなウィッチも、ろくな魔法が使えないもん」
頭巾のウィッチがぼくを慰めるように、へらりと笑う。
「キミにもいつか、人間とお話してほしいな。信じ合えるって、ステキだよ。……おや、いけない! トケトルプ・エマク・アースリン!」
頭上から砂糖が降り注ぐのに気づいて、頭巾のウィッチが守り魔法の呪文を唱えた。
アースリン砂漠では、減った分だけ、空から砂糖が降ってくるのだ。
ぼくと頭巾ウィッチの周りに亀甲のような半透明のバリアが展開される。
……そして、体格の大きなぼくだけバリアから頭がはみ出て、砂糖を被った。
頭巾ウィッチが噴き出すのを横目に、だが、ぼくは満たされた気持ちになった。
この笑顔と、これからも一緒に並んで歩いてゆければいいと、そう思ったのだ。
○○○○○○○○○○
お話はようやく、冒頭にお話した旅路の直後にまで進みます。
砂漠に設置したテントの中で、エネアスは目を覚ましました。
隣では、ミナが寝息を立てながら、体を卍の形にしています。すごい寝相です。
「何度直させる気だ、まったく……」
盛大にずれた毛布をミナにかけ直し、エネアスがテントを出ました。
予定ではとうに知識の館に着いているはずだったのに、早めの野宿となりました。
エネアスにとって、人間の体力のなさは、計算外だったのです。まさか数時間歩くと、それだけで疲れ切ってしまうなんて。
果たして次の紅い月までに帰れるだろうかと、エネアスが不安を抱きます。
空には半月が浮かんでいました。エネアスはいつも暗くなる新月時に眠り、半月時になると起きる、といったペースで生活しています。
「ししょお……?」
エネアスがテントを出たせいでしょうか、ミナも、もぞもぞ起きてきます。
寝ぼけ眼をこすって、髪はぼさぼさに寝癖がついています。
「こら、外に出るときは帽子とマントを忘れるな」
「んー。師匠、髪とかしてー」
「自分でやりたまえ! ブラシは鞄の中だ!」
「ちぇー」
いつもは帽子に隠れておりますけど、実はエネアスにも長い髪があります。だから鞄にも、身だしなみを整えるブラシは、ちゃんと入っているのです。
ミナのおめかしと着替えが終わったら、テントを畳んで、出発の時間。
「ウィッチデバイスは持ったな?」
「うん。ポッケに入れてる!」
砂漠を歩き、目指すのはウィッチェルニーの長老、デビモンが住む〝知識の館〟です。
旅の目当てであるアスリンサボテンは、たいそう美しい花を咲かせます。それを気に入ったデビモンが、館の庭で栽培しているのです。
「わ、見て、師匠。空から砂が降ってる!」
しゃっきり目覚めたミナが、さらさら、遠くで滝のように降る砂を指差しました。
「……昔は、真白い砂糖が降って、それは美しかったのだがな」
「でも、砂が降るのだってキレイだよ。金色で、キラキラ!」
ウィッチェルニーのどんな風景を目にしても、ミナは心から楽しそう。魔法が大好きな彼女には、それこそ、すべてが魔法のかかったように見えているのでしょう。
失われた古代ウィッチェルニーの姿を愛するエネアスにとっては、面白くありません。
「馬鹿を言え。きみも、古代の景色を知れば、同じことは言えなくなるさ」
拗ねたようにエネアスが砂を蹴ろうとすると、何かが足に当たりました。
嫌な予感と共に目を向けてみれば、すぐにその正体がわかります。
「げ……スナリザモン!」
エネアスは、砂に潜む爬虫類型デジモン、スナリザモンを蹴ってしまったのです!
「エネルージュ族の、ヘタレ族長じゃないか。辻バトルを仕掛けるとはいい度胸だ!」
「ええい、ただの事故だ! 走れ、ミナ!」
エネアスがミナの手を掴み、走り出しました。
辻バトル、ああ、なんたる悪習。ウィッチェルニーの辻魔法文化への冒涜!
心の中でなじりながら、エネアスはミナの手を引き、全力で逃げます。
「こら、成熟期のくせに逃げるな! サンドブラスト!」
スナリザモンがふたりを追いかけ、砂の弾を吐き出して攻撃を仕掛けます。
エネアスはともかく、こんなもの、ミナに当たっては大変です!
「師匠、あれってデジモン?」
「そうとも! これが現ウィッチェルニーにおける、最低の過酷さだ! 道ゆくデジモンがいちいち戦いを仕掛けてくる!」
「でも今の、師匠が蹴ったせいじゃない!? ごめんなさいしようよ!」
「謝ったところで、デジモンが戦いをやめるものか!」
エネアスとミナが言い合う間も、スナリザモンは攻撃をやめません。砂の上ではあちらの方が素早いから、逃げ切るのも一苦労。
「なんだ、弟子がいたのか! 逃げるばかりで、弱虫同士だな!」
「弟子に野蛮を教えるつもりは、ないのでね!」
「必殺技を使ってみろ、弱虫族長!」
「嫌だね! 防御魔法をお披露目しよう……トケトルプ・エマク・アースリン!」
エネアスが杖を構え、守りの呪文を唱えました。
……もう、おわかりですよね。当然、なんにも起きやしませんでした。
「噂通り、バカみたいな呪文だな! サンドブラスト!」
「おのれ……!」
弾がミナを狙ったものですから、今度はエネアスがミナを抱き抱えて逃げ始めます。
切迫した状況だというのに、抱き抱えられて、ミナはちょっと顔を赤くしました。エネアスの抱き方は、いわゆるお姫様抱っこだったのです。
「し、師匠、どうするの!?」
「くそ、これは使いたくなかったが……砂よ、弾けろ!」
エネアスが杖を掲げると、今度は砂漠の砂が弾け飛び、小さな砂嵐を生みました。たちまち、砂嵐がスナリザモンの視界を覆います。
「うわ、前が見えねえ!」
「今のうちに逃げるぞ、ミナ!」
スナリザモンがこちらを見失っているうちに、エネアスが全力疾走!
腕の中のミナはといえば、今度は魔法を直接目にして、大興奮で顔を赤くしています。
「すっごい! 師匠、あんなのできたんだ!」
「ぼくは炎と大地の魔法を収めた、ハーフマスターなのさ。戦うための魔法というのも、腹立たしいが……攻撃に使わなければ、セーフだ!」
デジモンの中には、必殺技でなくとも、いくつか特殊な能力を持つものがいます。ウィザーモン……エネアスもまた、炎と大地を操る、簡単な魔法を使えました。
〝火と土〟と呼ばないのは、古代魔法と分けるための、エネアスなりの意地です。二つの属性を操る〝ハーフマスター〟の方は、古代からの称号なのですけれど。
「炎と大地……エネルージュと、アースリン……あっ。だから、エネアス?」
「妙なところで耳ざとい子だな、きみは……」
「ふふん。師匠、ネーミングセンスはけっこう安直だね?」
「やかましい!」
さて、走り続け、大きな砂丘を滑り降りて、ずいぶん距離を稼いだ頃。
もう、スナリザモンが追ってきている様子はありません。
エネアスがミナを地面に下ろし、体についた砂を払いました。
「ねえねえ師匠、さっきの砂の魔法、私も練習したらできるようになるかなあ?」
「よせ、あんなもの……。戦うための魔法など、ぼくは弟子に教えないぞ」
「ちぇー。じゃあ、古代魔法はいつ教えてくれるの?」
「……そうだな。なら、これからは一日に一つ、古代魔法の呪文を教えてあげよう」
「わーい、やったあ!」
あっちの魔法がいい、などとごねることもなく、相変わらずミナは素直な少女でした。
古代魔法の教授を喜んでくれるのは、やっぱり、エネアスにとっても嬉しいことです。
顔がにやけそうになるのを隠して、エネアスが咳払いをしました。
「トケトルプ・エマク・アースリン……さっきぼくが唱えたのは、様々な魔法を遮断する万能な防御魔法だ。まずは、これから覚えるといい」
「とげとげ、えまく……?」
「トケトルプ・エマク・アースリンだ。復唱!」
「とけとるぷ・えまく・あーすりん!」
まるで輪唱するかのように、二人で交互に呪文を唱えながら砂漠を歩きます。
やがて、お月様の形もずいぶん変わった頃、目的地が見えてきました。タマネギのような形をした屋根を誇る、砂漠の宮殿を思わせる建物。
ウィッチェルニーの長老にして、アースリン族の族長であるデビモンが住まう場所……〝知識の館〟です。
エネアスが前に出て、知識の館の正門を叩きました。
数分後。エネアス、ミナ、そしてデビモンが、並んで廊下を歩いていました。
「あなたが、私を訪ねてくるというだけでも驚きなのに……まさか、弟子を取ったとは。今日は空から砂糖が降るやもしれません」
「驚くようなことじゃない。かつては本当に砂糖が降っていたからな」
「そこに食いつくんですか……」
知識の館を訪ねたふたりを、デビモンは驚きながらも中へと通してくれました。
ぴかぴかに磨き抜かれた、目もあやな白亜の内装。何かにつけて心躍らせるミナのことだから、また喜んで走り出しやしないかと、エネアスはひやひやしておりました。
ですが……。
「さて、ご挨拶が遅れました。はじめまして……でよろしいのでしょうか、お弟子さん。進化前に顔を合わせていたのなら、申し訳ない。ご存知でしょうが、私がアースリン族長にしてウィッチェルニー長老、デビモンです」
「……はじめまして。ミナです」
「あなたもエネアスのように、自分の名を?」
「えっと……見習いウィザーモンで、ミナ……です」
「ミナさん。つくづく、面白い名の持ち方だ」
上体を折り曲げて目線を合わそうとするデビモンから、ミナが目を逸らしました。
エネアスの想像に反して、ミナはこわばっていました。エネアスの服の袖をぎゅっと掴み、しきりにデビモンの方を気にしています。
(……そうか。人間の子供にとって、デビモンの姿は恐ろしいのだな)
エネアスは慣れっこでしたけど、ぼろぼろの黒い翼を生やした悪魔のような姿に、剥き出しの鋭い爪、恐ろしげな赤い瞳。なるほど、怖がる要素は十分です。
泣き出されても嫌なので、エネアスはミナとデビモンの間に立って歩きました。
「しかし、同じウィザーモンというのに、あなたがたの姿はずいぶん違いますね」
「……そういうケースもあるのだろう。ぼく以外のウィザーモンを、見たことが?」
「ありませんが、たいてい同じデジモンは同じ見た目ですから。……ふむ」
デビモンがもう一度、覗き込むようにミナの顔を見つめました。
間近に迫る赤い瞳に、びくりと小さな肩が跳ね、ミナは帽子でその視線を遮りました。
「エネアス。もしかすると、ミナさんは——」
デビモンの言葉で、エネアスに緊張が走ります。
まさか、もう、ミナの正体がバレてしまったのだろうかと。
「——X抗体の持ち主、かもしれませんね」
「「えっくす、こうたい」」
予想だにしていなかった、聞き覚えもない単語に、師弟の声が綺麗にハモりました。
「かつてデジタルワールドを襲った大災厄への抗体ですよ。まれに、この抗体を持った姿に進化するデジモンがいるのです。通常のデジモンとは外見も能力も大きく異なると言いますが……実物を見るのは初めてですね。興味深い……」
どうやら、デビモンの知識量が、かえって推理を誤った方向へ導いてくれたようです。
エネアスがほっと胸を撫で下ろします。
「そういえば、きみは外からやってきたデジモンだったな……」
「もはや、こちらで暮らした時間の方が長いですがね」
エネアスとデビモンの会話内容が気になったのか、ミナがおそるおそる、エネアスの影から顔を出しました。
「デビモンさんは、ウィッチェルニーのデジモンじゃないの……?」
「昔のことです、ご存知ないのも無理はない。かつての私はデジタルワールドの貴族……多くのデジモンを従える、支配者でした」
デビモンが、力を誇示するように、自分の爪をすらりと動かしてみせました。
口元に浮かぶ妖しげな笑みに、ミナがまた体を引っ込めます。
「ですが……より強いデジモンに敗れ、私は地位を失った。放浪の末、たどり着いたのがこのウィッチェルニー。はじめは侵略者として排除されかけましたが……先代の長老が私を受け入れてくれたのです」
ゆっくり、デビモンの手が下ろされます。表情は打って変わって、穏やかでした。
「私はウィッチェルニーの壮麗さに惚れ込みました。私の力を、この世界のために使うと決め……気づいたら、私が長老になっていました」
「古代ウィッチェルニーの美しさに比べたらチンケだがな」
「話の腰を折らないでください……」
隙あらば古代マウントを始めるエネアスに、デビモンもうんざり顔です。
そんなやり取りにようやく緊張がほぐれて、ミナもくすくすと笑いました。
「じゃあデビモンさん、結構おじいちゃんなんだ」
「おじいちゃん……ええ、長生きではありますが。デジモンには、寿命のある者と、ない者がいますからね。私はおそらく、後者なのですよ」
「デビモンさんは、どんな魔法が使えるの? アースリン族なら、土の魔法?」
「恥ずかしながら、私は元・よそ者。土の魔法は使えません。アースリン族に、他に妥当なものがいなかったから、私が族長の座についただけです」
「そっかあ……」
魔法に期待するミナとしては、肩を落とさざるを得ない答えです。
「ですが、そうですね……一つだけ、扱える魔法がありますよ」
「え、それってどんなの?」
「精神支配魔法です。私はそれで、ウィッチェルニーの全デジモンを操っているのです」
「ひえっ」
デビモンが悪魔じみた笑いを浮かべて言うものですから、ミナがすくみ上がり、またもやエネアスの袖を強く掴んで、彼の後ろに隠れました。
「……デビモン。きみが言うと冗談に聞こえないから、やめろ」
「おやまあ。やはりジョークというのは、難しいですね……」
デビモンとしては、場を和ます冗談のつもりだったのでしょうか。
顎に手を当てて、隠れるミナの姿を残念そうに眺めています。
「そんなことよりデビモン、例のブツは?」
「いかがわしい表現はおやめなさい。結晶花でしたね、わかっています。その前に、頼みがありましてね。我が知識の館が誇る、知識の間についてです」
廊下の最奥、両開きの大きな扉の前に着くと、デビモンが取っ手を引きました。鈍い音を立てて扉が開くと、その先に広がっていたのは、たくさんの本棚の並ぶ部屋。
長く連綿と続いてきた、デジモンたちの歴史書から、戦いの極意書、デジモンたちについて記した図録から、料理のレシピ本まで。
ウィッチェルニーのあらゆる書物が、この部屋に集められているのです。
知識の館が、その名で呼ばれるゆえん……この部屋こそ、知識の間。
……なのですが。部屋の中は、大変なことになっておりました。
「こ、これは……」
エネアスが言葉に詰まったのも無理はありません。
床じゅうに書物が散乱し、一部の本には焦げた跡まで。大惨事です。
「私の愚かな弟子たちが、あろうことが、この部屋で喧嘩をしたようで……ご覧の有様ですよ。頼み事は、ここの掃除です」
「侵略者との戦いより骨が折れそうだな……」
「骨を折ったこともないでしょうに。いつも戦いで貢献していないのですから、この程度の手伝いはしていただかねば、結晶花は渡せませんね」
ちくりと言葉の棘で刺されて、エネアスが目を逸らしました。要は「働かざる者食うべからず」です。
そして目を逸らした先、廊下の曲がり角から、こちらを覗き見るデジモンが二体。
コウモリのようなピコデビモンと、ツカイモン。デビモンの弟子たちです。あれが件の喧嘩の犯人なのでしょう。
片や一対の翼に二本の足を生やした姿で、片や四足歩行。なるほど、あれでは本を本棚に戻すのには苦労しそうです。
「……ぼくらに頼んだ理由が理解できたよ」
「話が早くてありがたい限りです。何か質問は?」
「結晶花は新月時に咲く。それまでに終わらせればいいんだな?」
「ええ、私も新月時までには戻ります。では、頼みましたよ。私は……あの愚かな弟子たちを、たっぷりしごいてやらなければ」
にたり、それこそ悪魔らしい獰猛な笑みを浮かべて、デビモンが弟子を振り返ります。
廊下の向こうで「ぴぃ」と悲鳴が上がり、二匹の弟子が逃げてゆきました。デビモンが翼を広げ、素早い低空飛行でその後を追います。
かわいそうに、小さな弟子たちは、決して逃げ切れることはないのでしょう……。
「……こ、怖いひとだったね」
「長老は、ウィッチェルニーで最強のデジモンの称号だからな。怖くもなるさ」
ため息まじりに、エネアスが大惨事となった知識の間へ向き直りました。
本棚ごとにデジ文字の記された金属のタグが付いており、本来はそれらに記された文字順に書物が並んでいたことがうかがえます。
散らばった本をすべて順番通りに本棚へ戻すのは、ひと仕事となりそうです。
「ミナ、きみは床に転がった本を机にでも積んでくれ。並べるのは、ぼくがやる」
「はあい」
デジ文字となると、並べ替え作業でミナをあてにすることはできません。骨を折るのはほとんどがエネアスとなりそうです。
もう一度ふかぶかとため息をついて、エネアスは作業に取り掛かるのでした。
作業開始から何時間か経ち、いくつかの本棚が元通りになった頃のことです。
「おい、ミナ。あまりウロウロするな」
「だって、探検でもしてないと、ヒマなんだもーん」
床の本を机に置くミナのお仕事は、とっくに終わってしまいました。
デジ文字の読めないミナに、もはや手伝えることはありません。どこかへ行こうとするとエネアスが「目の届くところにいろ」と言いますし、結果、読めない本とにらめっこをするか、知識の間をうろつくぐらいしか、やることがないのです。
「ん……何だ、この本は」
本の整理を続けるうち、エネアスはおかしな本を見つけました。
人間のような女の子と、カカシ、ライオン、鉄の人形が一緒に歩く絵が描かれた表紙。そして、エネアスにも読めない文字が、表紙に書かれています。
本はいささか古び、表紙は色あせ、ページもところどころ破れかけています。ずいぶん昔から収められているようです。
「わっ!」
しげしげと謎の本を眺めていると、ミナが大きな声といっしょに、後ろから顔を出してきました。どうやらまた、エネアスを驚かせようという算段のようです。
師匠を驚かせるのが一人前の証と知って、ミナは時々こういうことをしてきます。
「……あのな。魔法を覚えた上で驚かせろと言っただろう」
「だって、いくら唱えてもできなくって……」
「ぼくが何千回やってもできなかったのに、きみにできるものか」
「ちぇー。……あれ。それ、『オズの魔法使い』だよね!」
ミナが、エネアスの手にある謎の本を見て、驚いたような声を出します。
「……ミナ、この文字が読めるのか?」
「読めるよお。だってこれ、日本語だもん!」
「ニホンゴ……待て。じゃあこれは、人間の文字で書かれた本なのか?」
「うん。うちにあるのとおんなじ絵本だよ、これ」
嬉しそうな顔をして、ミナがぱらぱらと絵本をめくり始めます。
対するエネアスは、真剣な表情で考え込んでいました。
(人間界の本……もしや、古代にウィッチが人間界から持ち帰ったものか?)
もしそうなのだとすれば、この部屋にはまだ、ウィッチにまつわる本が眠っている可能性があります。この機会に、改めてじっくり調べる価値はありそうです。
にわかにやる気が湧き上がって、エネアスがてきぱきと作業を再開しました。
「ところで、ミナ。その本は、魔法使いにまつわる物語なのか?」
「うん。気になるなら、読んであげよっか!」
「いやに乗り気だな……」
エネアスにはわからないことですが、ミナはお姉さんぶりたくなるお年頃。師匠に教えてあげられることがあると知って、得意になっているのです。
「……作業の片手間程度には、聞いてやってもいい」
エネアスがそう言うと、椅子に腰掛けたミナがおほん! と咳払いをはさんで、『オズの魔法使い』の物語を読み上げてゆきます。
魔法の世界に迷い込んだ少女ドロシーと犬のトトが、大魔法使いオズに願いを叶えてもらうべく、不思議な仲間と一緒に、悪い魔女を退治するお話。しかし実はオズは偽物の魔法使いで、最後には魔法の靴によって、ドロシーは元の世界へ帰ります。
「……こうして、ドロシーとトトは家に帰ったのでした。めでたし、めでたし」
絵本を閉じて、ミナがふんすと鼻を鳴らしてエネアスの方を見ました。
対するエネアスは、なんだかとっても、ビミョウな表情。
「……色々と言いたいことはあるが、魔法使いが偽物だったのが気に入らん」
人間界の物語がいまひとつ響かず、不服そうに本棚を整理しています。
「でも、ママが言ってたよ。オズはニセモノだけど、本物だったんだって」
「どういうことだ?」
「だってドロシーたちはオズの頼みで旅をしたおかげで、絆を結んだの。その旅の中で、仲間たちがほしかった勇気や知恵、心も手に入ったんだって」
「オズという詐欺師に体よく騙されているだけじゃないか……?」
皮肉をひとこと飛ばして、エネアスは黙々と作業に戻りました。
エネアスの手際はよく、気づけば本は殆どが元通り、本棚に収まっています。
元通り……そう、元通りです。
「……皮肉だな。この本棚を元通りにしても、何も元通りにはならない」
「どういうこと?」
ミナの問いかけに応じるように、エネアスの手が本棚の背表紙たちをなぞります。
「ここに、古代の記録がひとつも残っていないからさ」
けっきょく、エネアスが整理を終えるまで、古代ウィッチェルニーにまつわる本は一つも見つかることがありませんでした。
綺麗に本棚に並び直された本の中に、ウィッチについて書かれたものはありません。
どれも『デジタルワールド図録』『デジモン魔法進化概論』『デジモンのための料理』『バトル戦術大全』など、デジモン向けのものばかり。カバーに『ウィッチェルニーの歴史』と書かれた本をぱらぱらとめくってみても、記されているのはデジモンの歴史。
「まるで、今のウィッチェルニーそのものだ。誰も、本物のウィッチェルニーの姿を覚えていない。偽物だらけで……ウィッチたちの入る余地が、どこにもない」
もの寂しげに、エネアスがつぶやきます。
「だが、今や異端はぼくの方だ。いずれぼくも、この歴史に呑まれるのだろうな」
エネアスとて、道理がわからないほど愚かではありません。
わかっているのです。デジモンたちの世界に馴染めない自分の方が、おかしいのだと。
それでも、自分の記憶を、夢に見たあの世界を、諦めることができませんでした。
「んっと……本棚に、デジモンの本しかないのが、イヤなの?」
エネアスの言うことが難しいのか、ミナはなんとかそれを噛み砕こうとしていました。
「……そうだな。ここにはもう、古代ウィッチェルニーの本は置かれない」
「そんなことないよ!」
勢いよく椅子を蹴って立ち上がったミナが、高らかに言いました。
手には『オズの魔法使い』の絵本を掲げ、自信満々といった表情。そして、ずかずかと歩いて、きょろきょろと辺りを見回して。
「師匠……〝オ〟で始まる本って、デジ文字だとどの棚なの?」
「その音なら、ちょうどこの辺りになるな」
「わかった。じゃあ……よいしょ、っと!」
一体何をしようとしているのかとエネアスが見守っていると、ミナは大きく背伸びをして、エネアスが示した棚に『オズの魔法使い』を差し込んでみせたではありませんか。
意図がわからず困惑するエネアスに、ミナがまた、得意げな笑みを向けます。
「ほら! 探せば、隙間ぐらい、いっぱいあるよ!」
エネアスは、きょとんとしておりました。
そして何秒かのあいだ考え込んで、ようやく気づきました。ミナはどうやら、自分を慰めてくれようとしているのだと。
「あのなあ。隙間って、そんな物理的な意味じゃあ……」
「えーっ、じゃあどういうことなの!」
「いや……。……でも、そうだな。これも、悪くないかもしれない」
収められた絵本は、横長なのもあって、すこし本棚からはみ出しております。
人間界の言葉で書かれた、『オズの魔法使い』の絵本。エネアスだけでなく、きっとデジモンたちも、これを読むことはできないでしょう。
古代のウィッチたちが持ち帰った本。見ようによっては、それもまた古代ウィッチェルニーの産物と言えます。証明するすべこそ、ありませんけれど……それがデジモンたちの本棚に堂々と収まっているのは、すこしだけ、愉快な気持ちになります。
だって、ウィッチなんていないと指差して笑うかれらは、こんなところに堂々たる証拠があるのに、てんで気づいちゃいないのです! これはなかなか、痛快です。
「ここにひとつ……古代の爪痕が、残されたわけだ」
デジモンたちはいずれ、〝オ〟の棚にこの本が収まっていることを、疑問に思うでしょうか。それとも今日のように、またひっくり返されてしまうだけでしょうか。
それでも、この本棚にはまだ、何かを差し込む余地がある。その事実が、ほんの少し、エネアスの心を温かくしました。
「……ありがとう、ミナ」
「んー? どういたしまして!」
ミナ自身、そんなに深く考えての行動ではなかったのでしょう。
どうしてお礼を言われたのかもよくわかっていない様子で、エネアスに向けて、にっこりと笑いかけてきます。
照れ隠しをするように、エネアスが咳払いをした、その時です。
「——素晴らしい。もう整理が終わったのですね」
エネアスの背後に、気配もなく立っていたデビモンが、ぬるりと顔を出しました。
していることはつい先ほどのミナと一緒なのに、デビモン低い声は、エネアスの背筋をぞわりとさせました。
「きっ、肝の冷える現れ方をするんじゃない!」
「これは失礼。私が茶目っ気を出そうとすると、どうにも上手くゆかない」
デビモンが、おどけて肩をすくめてみせました。
ミナの方も、いきなり現れたデビモンに驚いて、本棚の影に隠れています。とんがり帽子だけが本棚からはみ出して、体隠して帽子隠さず、といった様子です。
「おやおや、嫌われてしまったものですね」
「デビモン。頼まれた仕事が終わったからには……」
「ええ、承知しています。ついておいでなさい」
デビモンが背を向け、ゆったりとしたペースで廊下へと歩き出してゆきました。
エネアス、それからその背中にミナがついて来たのを確認すると、デビモンがまた口を開きます。
「時に……お弟子さんも、古代魔法とやらを探求しているので?」
「古代魔法……うん。練習、してます」
デビモンを相手にすると、やはりミナは辿々しい口調になってしまいます。
「当然だろう。戦いに明け暮れているようなやつを、ぼくの弟子にはしないさ」
間に立つエネアスが、ミナを庇うようにして会話に割って入りました。
「では……ミナさんも、ろくにバトルはしていないと?」
「それがどうした?」
「ウィッチェルニーのデジモンが、年々進化しづらくなっているのはご存知でしょう?」
「いつだったか、そんな話を聞いたな。魔力枯渇だったか?」
ウィッチェルニーのデジモンは、まれにデジタルワールドとは異なる進化を遂げます。大気中に漂う魔力がデジモンに特殊な進化と、魔法の力をもたらすのです。
けれど近年、その魔力が枯渇してきていました。結果、デジモンたちはどんどん進化しづらくなっており、ウィッチェルニーの防衛が困難なものとなりつつあるのです。
この魔力枯渇を戦闘経験で補うため、デビモンが広めたのが辻バトル文化でした。
「成熟期より先に進化したデジモンは、もう長い間、現れていません。戦わないあなたを族長に任命したのも、成熟期に進化した唯一のエネルージュ族だから……」
デビモンがエネアスとミナを振り返り、しげしげと眺めました。
デジモンには、大きく分けて五つの成長段階があります。
幼年期、成長期、成熟期、完全体、究極体。
ウィッチェルニーの族長たちは、全員、成熟期。ちょうど真ん中にあたる段階です。
「故に、あなたがたは興味深い。ろくに戦いを経験していないのに、成熟期にまで進化しているのですから。エネアス……あなた一体、ミナさんをどう教育したのですか?」
「それは……古代魔法をみっちり教え込んで、日々、練習に励んだだけさ」
もちろん、うそっぱちです。ミナは数日前に拾ったばかりの、人間ですから。
一瞬、デビモンが疑わしげに眉をひそめましたが、すぐに笑みをこぼします。
「エネアス。私はあなたに、期待しているのですよ。あなたの存在は、ウィッチェルニーにおける新たな進化の可能性を示すかもしれない……」
足を止めたデビモンが、じっと、エネアスの瞳を覗き込むように見つめてきました。
エネアスは、不意にふらつくような感覚を覚えました。
「ですから、もう一度問います。正直にお答えなさい」
デビモンの赤い瞳と目を合わせると、頭がぼうっとしてくるようです。
コクリと、からくり人形のようにエネアスが頷きました。
「エネルージュ族長、エネアス……あなたは、ミナさんをどう育て上げたのですか?」
エネアスの意思とは無関係に、口が開きそうになって……その視界の片隅に、心配そうに見上げてくるミナの顔が映りました。
はっと我に返ると、エネアスは変わらず、自信を持って嘘で答えてみせます。
「何度も言わせるな。ぼくらは、古代魔法の探究を、続けているだけだ」
一言一句、はっきり、強調するようにエネアスが言います。
デビモンは、しばらく黙り込んでいたかと思うと、やがてゆっくり首を振りました。
「……疑うような言い草、申し訳ありません。長老として、仲間たちの進化につながる情報に、熱くなってしまいまして」
「わかってくれたなら、いいさ。それより例のブツだ」
「だからいかがわしい言い方はおやめなさい……。まず展示室へご案内しましょう」
「げ」
「げ、とは何ですか」
デビモンが廊下の左手に見える扉を開くと、ミナが「わ」と小さく声を漏らしました。
そこは、いくつものショーケースが並べられた小さな展示室。ケースには、ミナが見たこともないであろう異世界の道具が、丁寧に並べられています。
「おい、デビモン。ぼくの目当てはアスリンサボテンであってだな……」
「手際よく終わらせてくださったおかげで、新月まで時間があります。時間潰しにはちょうど良いでしょう。ミナさんにも、紹介したい物が沢山ありますからね……!」
「……覚悟しておけ、ミナ。デビモンのコレクション自慢は長いぞ」
デビモンは、ウィッチェルニーの長老にして、珍品を集めることを何よりの趣味とするコレクターでした。アスリンサボテンもまた、デビモンのコレクションの一つなのです。
そしてデビモンは、自身のコレクションを他人にお披露目することが大好きでした。
「さあさあ、ご覧なさい、まずこれが砂漠で集めた星の形の砂を詰めたビン!」
「わあ、ホントにキレイな星形!」
「これはアクエリー雪原で取れる溶けない氷!」
「わあ、ほんとにちっとも溶けてない!」
「そしてこちらがブロッケン山の遺跡に残っていた壁画の破片!」
「わあ、ミステリアス!」
「砂漠で見つけた変な形の石!」
「わー、すっごい変!」
デビモンの嬉々としたコレクション紹介に、ミナは喜んで聞き入っていました。子供のように自慢げなデビモンの態度のおかげか、ミナの恐怖心も薄れたようです。
エネアスは呆れた顔で、一歩距離を置いてふたりを見守っていました。
「あれ、これって……」
ふと、ミナが部屋の一番奥にあるショーケースの前で足を止めました。中に入った品は他のものとは、どこか毛色が違います。手のひらに収まる長方形をした、機械なのです。上部には小さな画面があり、右側にいくつかのボタンが並び、側面には引き金のようなパーツと、突起部を備えているようです。
「ほう、デジヴァイスを目に留めるとは、お目が高い」
「でじばいす……?」
得意満面のデビモンに、ミナは首を傾けて、頭の上にはてなマークを浮かべています。
「私がデジタルワールドで支配者だった頃の、貴重なコレクションでしてね。唯一こちらへ持ってくることができたのですよ」
「これって、なんなの?」
「デジモンに強力な進化をもたらす神具……と、デジタルワールドでは言い伝えられていました。使えたことはありませんがね……」
「……そうなんだ……」
ミナがじいっと、デジヴァイスへ視線を注ぎます。それからふいに、ゆっくりとケースへ手を伸ばしてゆきました。まるで、磁力に引かれるかのように。
「おい、ミナ。勝手に触ったら……」
見守っていたエネアスが注意しようとして、目を丸くしました。気のせいでしょうか。ミナが手を伸ばしたのに呼応するかのように、デジヴァイスの画面が、ぼんやりと光を放ったように見えたのです。
それから、ぞくりと背筋が震えました。
横目に映ったデビモンが、その口の端を大きく吊り上げ、見たこともない妖しげな笑みを浮かべていたからです。
「……あ。ごめんなさい」
はっと我を取り戻したように、ミナが手を引っ込めました。もう一度エネアスがケースの中を見てみると、デジヴァイスはもう、光を放っているようには見えませんでした。
「構いませんよ。私のコレクションに興味を示してくださるだなんて、光栄なことです」
デビモンも元の穏やかな表情に戻り、胸に手を添えて柔和に答えました。
一連の出来事が、白昼夢だったかのようです。
「おっと、夢中になりすぎました。そろそろ時間ですね」
展示室の片隅に置かれた時計に目をやって、デビモンが思い出したように言いました。
「中庭へご案内しましょう。お二人とも、こちらへ」
改めて先導するデビモンに従って、エネアスとミナが、展示室を後にしてゆきました。
(……気のせい、だったのだろうか)
そして、あのデジヴァイスと、それに対するミナの反応が、どこかエネアスの心の中で引っかかり続けるのでした。
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星月に照らされた、知識の館の中庭。そこに築かれた小さな庭園に、目当てのアスリンサボテンが生えていました。
形こそ普通のサボテンですが、その色はなんと、目にも眩しい金色。天井のない中庭で月の光を浴びるそれは、どこかリッチな佇まいです。サボテンのてっぺんには、深い青色をした、大きな花が咲いていました。
「ほわあ……! アスリンサボテンって、こんなにゴージャスなんだ!」
人間界の図鑑には載っていないようなサボテンに、ミナが興奮して駆け寄ります。
あとに続いたエネアスとデビモンは、慌てず、騒がず。
彼らにとっては珍しい代物ではありませんし……何よりも。ふたりとも、アスリンサボテンの本当の美しさは、その金色でないと知っていました。
「ミナさんは初めてご覧になりますか。では、少しお待ちなさい」
「え?」
すらりと長い人差し指を立てるデビモンの仕草に、ミナが首を傾げました。
「……そろそろ新月時だ。宝石が咲くぞ」
エネアスが指し示してみせたのは、金色をしたサボテンのてっぺん……青い花。
新月が訪れ、空が陰ったのは、ミナが視線をそちらへ移したのとほぼ同時でした。
すぐさま、ミナの両目が驚きに見開かれます。
月明かりを失い、薄暗くなった中庭で……サボテンの花がピキピキと音を立てて、結晶と化してゆくではありませんか!
庭園に生える数十本のサボテン全ての花が、いっせいに宝石のようになってゆく様は、まるで夢の中の景色のようです。
「これって……!」
「マジクシルを作るのに、こいつが必要な理由がわかったろう?」
エネアスは、夢中になって花の結晶化に見入るミナを、横目で満足そうに見ました。
古代から現在に至るまで、形を変えることなく残ったアスリンサボテン。その麗しさは永久不変。デビモンでさえ、目を細め、咲き誇る宝石を愛でています。
「いつ見ても、心癒されるものです。これが拝めただけでも、ウィッチェルニーへ来た価値がある……そう思えるほどに」
恍惚とした表情のまま、デビモンが鋭い爪をつるりと花の根元に滑り込ませました。結晶と化した花が根元からこ摘み取られ、デビモンの掌へ転がり落ちます。
「いつまでも愛でたいものですが……花は散ればこそ、美しい」
その直後、再び、ピキピキという音が花々から漏れ始めます。ひび割れているのです。
「あっ、花が……」
ミナが名残を惜しむ暇もなく、あっという間に、結晶と化した花々は粉々に砕け散り、植った砂の上に落ちてゆきました。
宝石のような破片が、今は砂上に散らばり、星々のようにきらめいています。
「アスリンサボテンの花は、新月になると、溜め込んだ余分な魔力を吐き出