#鰆町奇譚
はじめに
本作は2018年にオリジナルデジモンストーリー掲示板という所でへりこにあんさんという方が主催していた企画「Human metamorphoses into a digimon.」(通称HMD)への参加作品を同掲示板の閉鎖に伴いこちらに再投稿させていただいたものです。テーマは企画名そのまんま「人間がデジモンになる」小説。そのあたりも踏まえてお楽しみいただけると幸いです。 また本作は作者が連載中の長編「木乃伊は甘い珈琲がお好き」と世界観を同じくしており、同作のキャラクターも登場します。「木乃伊」を読んでない方にも楽しんでもらえるようにしてありますが、要領を得ない点があるかもしれません。 「木乃伊」を読んでいる方には、本作をより楽しんでもらえると思います。これは「木乃伊」の主人公たちが立ち向かう街の裏側の、さらに裏側、不思議な世界の話です。 三十六度のれ・も・ね・え・ど 「ねえキジマ、私レモネードが飲みたいわ」 店の奥の薄暗いカウンターに突っ伏して、魔女がぼくを見上げた。 「レモネード?」 「こんな暑い日は、どうしても、ね」 魔女がその真っ黒い厚手の手袋(暑いなら取ればいいのに)の外からでも分かる長い指で店の外を指さした。まだ7月の半ばだというのに北東北のこの街は空前絶後の猛暑に襲われており、ぼくと魔女の住む古道具屋〈アエロジーヌ〉から見える鰆町商店街の景色も、熱でゆらゆらと揺らめいている。あの中に飛び出していくことを考えるだけで、めまいで地球が三回転した。 「なんでまたレモネードなのさ」 「別にいいじゃないの。あ、そこらのスーパーに売ってる粉で作るような奴じゃだめよ。カリフォルニアで、ちいさな子どもたちがお小遣い稼ぎに屋台で売ってるようなやつ」 なんだよそれ。夢見るような口調の魔女の言葉に、思わずぼくは肩をすくめる。どうせ何か本に影響されたのだろう。彼女の命じるいつもの「お使い」だ。 「〈ダネイ・アンド・リー〉でアイスコーヒー飲むんじゃだめなのかよ」 「私はレモネードが飲みたいって言ってるの。それにあそこは変にごみごみしてていや。いいから行ってきなさいよ。私今日は忙しいの」 魔女がその白い首をなまめかしく曲げると、それに合わせてそのブロンドの髪も揺れた。雑多なものがあふれかえった店内の薄明りの中見ると、本当に真っ白な肌、輝くような髪だ。 「その肌、少しくらい太陽で焼いた方が健康的なんじゃないの?」 「あんた正気? 私が肌を焼かないためにあんたがいるんでしょう? 私の代わりに表の仕事はぜーんぶやってもらうんだからね」 相変わらずの憎まれ口である。どう見ても地毛にしか見えないブロンドの髪と蒼い目の持ち主のくせに、やたら日本語の語彙が豊富だ。 「そんなにでかい帽子被っといて……」 ぼくがそう言った途端、魔女がその人差し指をぼくに向けて振る。とたんにぼくの口は何かで縫い留められたように開かなくなり、その後の言葉を続けることは断念せざるを得なかった。 「口答えはよしてくれるかしら? それにこの帽子はそんな実用の為のブツじゃないわ。魔女のイコンよ。イコン」 魔女が再び指を振り、唇が再び自由に動くようになったと同時に、ぼくは大げさにため息をついて見せた。 「そんな店番がしたいわけ?」 「あんたのお父様のお店が今もこうして成り立ってるのは、私がこうして店を切り盛りしてるからでしょうが。いいから行ってきなさいよ。どうせ最初から行くつもりなんでしょ?」 ぼくはふんと鼻を鳴らし、帽子掛けにかかった売り物のキャップの、比較的安いのを選んで被る。 「あ、ダメダメ、せっかくなんだから、もっといいのを被っていって。〈アエロジーヌ〉の若旦那が安物の帽子なんか被って歩いてるなんて噂が広まったらことよ」 「はあ? いつもは高い商品には手を付けるなって、……はいはい、分かったよ」 魔女が再び人差し指を立てて見せたので、ぼくは慌てて口を閉ざした。 ぼくはまた聞こえよがしにため息を吐いて、一番いい値段のするアメリカン・ヴィンテージの帽子をひっつかむと、日差しの中に踏み出した。 魔女の言う通り、彼女の白い肌を無粋な太陽の光に晒すくらいならば、ぼくは火の海に飛び込んだ方がマシだ。 でも、ぼくがそう思っていることは、魔女に知られてはいけないのだ。 ***** 三年前、父が死んだ。 母は元からいなかった。商店街の古株によると、それまで女っ気などなかったように見えた父が、ある日突然どこかの女に産ませた子供を連れてきたらしい。それが他ならぬぼくだ。 ぼくに遺されたのは古道具屋〈アエロジーヌ〉と、そこに残された雑多な道具たちだけだった。 ぼくの後見人には、仲の良かった叔父がなった。彼は裏表のない人で、『こゝろ』の要領でぼくの遺産を誤魔化したりはしなかったらしい。もっとも、誤魔化すだけのお金もなかったらしいが。 しかしその叔父は東京で働いており、彼には彼で子どもがいた。古道具屋を売り払って東京に来ればいいという叔父の申し出を僕は断固断り、地元で中学二年生まで過ごしてきた。もっとも、この後どうするかの見通しは立っておらず、漠然と、しかし頑固に父の古道具屋を継ぐのだと思い続けてきた。 そして一年前、ぼくは魔女と出会った。 ***** 商店街を日陰から次の日蔭へと跳び回るぼくの頬から、汗が一筋垂れ落ちた。それはコンクリートに黒い染みを一瞬だけ作り、すぐに消えてしまう。 「あっつい……」 思わず独り言が漏れる。何か実りのあることをしに行くのであれば焼け付くアスファルトに踏み込んでいく気にもなろうというものだが、魔女のお使いのためとなると気も滅入ってくる。 「レモネードって言っても……」 魔女に曰く『カリフォルニアで、ちいさな子どもたちがお小遣い稼ぎに屋台で売ってるようなやつ』ということだ。これは今までの魔女のお使いの中でも指折りの、『ベルリンの下町の下宿で太ったハウス・キーパーが作る肉入りうどん』、『小型飛行機だけが行くことができる北欧の森の真ん中の湖で釣れる鱒』並みの難題だ。いったいどこでそんなものが買えるのやら、さっぱりわからなかった。 「そういうのに詳しいとしたら、やっぱり〈ダネイ・アンド・リー〉のマスターかな」 近所の古書店の店主の老人に店の外から会釈をして、ぼくは呟いた。あの髭面の喫茶店店主は東京住まいが長く、インターネットが普及し東京と地方の情報格差は無くなったと言ってもいいこのご時世にあっても、商店街の老人たちの間では小粋な通人として通っていた。 ぼくは自分の思い付きに心底満足してうんうんと独りで頷いた。『ルート66のガソリンスタンドでトラックの運転手が齧っているコンビーフ』を持ってくるよう頼まれた時は、マスターに輸入品を主に扱う食品店でそれらしいパッケージのモノを用意してもらい、魔女をそれなりに満足させることができた。彼ならレモネードのことも何かわかるかもしれない。それに何よりも、このうだるような暑さから逃れたかった。自然、足は勝手にくすんだ屋根の喫茶店に向くことになる。 喫茶店〈ダネイ・アンド・リー〉のドアを開けると、70年代イギリスのロック・ミュージックが耳に流れ込んできた。悪くない雰囲気だが、我らが古道具屋のレコード・コレクションが奏でる店内音楽に比べればちゃんちゃらおかしいといったところだ。 マスターは高校生らしき青年と話し込んでいたが、店に入ってきたぼくに気づくとこちらを向き微笑んだ。 「キジマくん。また芳子ちゃんのお使いかい?」 芳子、一年前に商店街の組合に乗り込んだ魔女は組合員たちにそう名乗り、ぼくの保護者兼〈アエロジーヌ〉の新店主の地位に納まった。どう考えても見た目にそぐわない純和風の名前とはっきりしない出自から最初こそ怪しまれたものの、年齢不詳の美貌と商売の手腕、そして組合の懇親会における見事な酒の飲みっぷりは商店街の老人たちに高く評価され、彼女は敬意と親しみを込めて「芳子ちゃん」と呼ばれるようになった。それ以来、酔った爺さん連中が魔女に向けるいやらしい視線が気にかかり、ぼくは夜遅くまで組合の酒盛りに付き合う羽目になっている。 「芳子サマのお使いのさぼりってとこ」 ぼくはそう言いながらカウンターの先程までマスターと話していた青年の隣の席に腰かけ、帽子を膝の上に置いた。青年は一瞬ぎょっとしたような目でこちらを見つめたが、やがて手元の文庫本を開いて読書を始めた。彼の前にはブラック・コーヒーが置かれている。それは芳子のお気に入りでもあったが、ぼくにはまだ飲めなかった。 「ご注文は? おすすめはカフェラテ……」 「ジンジャーエールで」 「値段の心配はしなくていい。いつも通り組合員サービスで」 「ジンジャーエール」 「ま、まあ、暑いしね」 ぼくの有無を言わせぬ調子に、マスターは肩を落として氷の入ったグラスと自家製のシロップ、そして炭酸水を取り出した。マスターがシロップと炭酸水をかき混ぜるさまを、隣の青年が目を丸くして眺めているのを見て、ぼくは愉快な気分になる。マスターが夏に自分で飲むために少量作るジンジャー・シロップを使った絶品のジンジャー・エールは商店街の中でもごく一部しか知らない裏メニューなのだ。 「それで、芳子ちゃんは今回どんな我儘を君に課したんだい?」 レモンのハチミツ漬けを添えたジンジャーエールのグラスをぼくの前に置き、マスターが尋ねた。ぼくはその甘酸っぱいレモンをつまみ上げ。口にくわえて言う。 「ふぇふぉふぇえふぉ」 「口からものを離して喋りたまえ」 「れもねえど、じゃないですか?」 不意にぼくの隣の青年が言った。ぼくが彼のほうを向いてレモンをくわえたまま頷いて見せると、彼はくすくすと笑った。 「正解ですって」 「さすがは探偵クンだね」 探偵? マスターの言葉にぼくはもう一度青年を眺める。彼は顔を赤くしながら、ぼそぼそと言った 「そう、探偵。キジマくんだっけ? 何か困ったことがあったら、この喫茶店に来れば僕が話を聞くよ」 なるほど、要するにちょっとアレな人というわけだ。 「探偵なら、レモネードがどこで飲めるか知りませんかね?」 「そんなの、そこのデパートで」 「ああ、ダメダメ。芳子ちゃんのことだから、また面倒なことを言ってるんだろ?」 探偵を遮ってマスターが言った言葉に、ぼくは頷いた。 「カリフォルニアでちいさな子どもたちがお小遣い稼ぎに屋台で売ってるようなやつ、とのお達しだよ」 「ああ、なるほど」 言いたいことは万事承知したという調子で探偵がうなった。ちょっとアレな人のみに伝わる符号のようなものがあるのかもしれない。 「手作りのレモネードなら、私が簡単に作ってあげれるけど」 「多分その人が求めてるのは、それとはまた別の、なんかこう、浪漫でしょうね」 「なんだろう? 概念としての夏、みたいな?」 「ああ、分かります。分かります」 マスターと探偵はなにか理解したらしく二人で盛り上がっているが、正直ぼくにはさっぱり分からない。魔女や彼らの言う「レモネード」はぼくの知っているそれとは違う、何かぼんやりとした夢そのもののような液体のようだった。 「で、結局ぼくはどうすればいいのさ?」 「今時、それも日本で屋台のレモネードねえ」 「マスターが作ってあげればいいじゃないですか、いい感じのエピソードをでっちあげて一緒に出せばそれでいいでしょ」 「そ、それは無理」 探偵の発言にぼくは首をぶんぶんと振った。 「あの女、ぼくがなにか誤魔化すと一瞬で見抜きやがるんだ。それで、その後には恐ろしい罰が待ってる」 ぼくの魔女への好意、その白いうなじや、たまに手袋を取ったときの長い指先に抱いている感情を考慮に入れても、彼女の罰は震え上がるほどに恐ろしいものだった。 「そんなに?」 「まあ、なんとなく嘘が通じなさそうな雰囲気だよねえ」 探偵の半信半疑の言葉に、マスターものんきに頷く。このままではぼくは手ぶらで〈アエロジーヌ〉に帰らなくてはいけない。 「ほんとに、なんとかならないかな」 「あ、そういえば」 探偵が不意に顔を上げた。 「今日、赤十字病院の前の公園でバザーやってましたよね」 「そうなのかい?」 「そういえば」 ぼくは呟く。父が生きていたころは毎年この季節にバザーに行っていた。幼いぼくは父の車がバザー会場までたどった道は良く見ていなかったが、あれは赤十字病院だったらしい。 「レモネードがあるとは考えにくいけど、今日屋台が出てる可能性が一番高い場所はあそこだろうね」 「へえ、やるじゃん、探偵」 「え、そ、そう?」 得意げな探偵を放っておいて、ぼくはジンジャーエールを飲み干すと帽子をかぶった。 「もういくのかい?」マスターが眉をあげる。 「うん、希望があるなら行ってみないと。お代は店につけといて」 「あ、ねえ、ちょっと」 立ち去ろうとしたぼくを、探偵が呼び止めた。振り返ったぼくの顔を、彼は目を細めてじろじろと眺める。 「ぼくの顔になんかついてる?」 「ん、いや、なんでもないよ」 それでも彼は、どこか怪訝そうな顔のままだった。 ***** 一年前、ぼくは魔女に出会った。 最初は驚いた。逃げようとした。それがいけなかったのかもしれない。しかし、今思い出すと、魔女はあの時ぼくが逃げ出すことを選んだことを喜んでいたように見えた。 とにかく、魔女はぼくが逃げられないように、ぼくに呪いをかけた。言葉も、身体も、彼女の思い通りになる呪い。 ──呪いを解いてほしかったら、私の言うことを聞くことね。 そんなわけで、ぼくは魔女の為に炎天下を走り回っている。 でも、彼女がぼくをつなぎとめるためには呪いなんか必要ないことは、魔女に知られてはいけないのだ。 ***** いささか冷房の効きすぎたバスから降りると、うんざりするほどの熱と共に病院の真白い建築が視界に飛び込んできた。その前の駐車場に、熱気でゆらゆらと揺らめく多くの人々の影が見えた。 沢山の人々がそれぞれに広げたブルーシートの上で食器や洋服、黄ばんだ箱に入った古い玩具がきらきらと輝いていた。人々は和やかな雰囲気ながらそれぞれ違う種類の熱をもって商品に向かっており、独特の活気が場を満たしている。 バザーのことなど探偵に言われるまではほとんど忘れていたけれど、その景色を見た瞬間に様々な記憶が鮮明によみがえってきた。死んだ父は、このバザーの出店者であり客でもあったはずだ。店の中からいくつかの商品を運び出して自動車に運び込んだ父が、その天辺に幼いぼくを乗せたのを覚えている。 バザー会場では父はぼくと古道具を商店街の知り合いに任せて、仕事仲間と思しき人々と忙しく歩き回っていた気がする。そうしていつも沢山の「掘り出し物」を持って上機嫌で帰ってくるのだが、炎天下の下で知らない人とともに置いてきぼりを食らったぼくは上機嫌どころの騒ぎではなかった。 記憶の中でむくれて頬をふくらませて見せる幼いぼくに、父は必死で謝りながら紙コップを渡す。そこに満たされた、透き通った、甘く冷たい液体──。 「レモネード…」 そうだ、ぼくはここでレモネードを飲んだことがある。紙コップに入ってきたということは、屋台か露店で売っているもののはずだ。 その記憶が何年前のものなのかすら判然としなかったが、魔女の求めているレモネードがあるとしたらそれはここだ。記憶の中のレモネードのぼんやりとしたイメージ──少年の夢をそのまま氷と一緒にグラス閉じ込めたような甘い液体──は、魔女の求める液体のイメージにぴったり当てはまるように思えた。 ぼくは歩を速めて人混みの中に入っていく。屋台を探してあちこちを眺めるぼくに、横から声がかかった。 「おい、もしかしてキジマのとこの坊主か?」 声の方に目を向けると、麦わら帽子を被った痩せ型の中年の男が、様々な食器を並べたブルーシートに座っていた。蘇った記憶の奔流の中のどこかにそんな顔がいた気がしないでもないが、はっきりとは分からない。 「父を知ってるんですか?」 ぼくの言葉に、男はああやっぱりかと満足げに頷く。 「奴とは仕事仲間だったよ。商売敵だったけど、この日だけは親友だった」 まあ座りな、と彼がブルーシートの脇のスペースを開けた。軽く会釈をしてそこに座り、店主の視点から食器類を眺める。銀食器や陶器の類の中には、中々に良質なものもあるようだった。 「バザーにも、こんな高価なものを並べるんですね」 ぼくの問いに彼はけらけらと笑いながら、煙草に火をつけた。 「審美眼は父親譲り、ってか。ムカつくねえ。その辺の商品はうちでも持て余してるのさ、見る目のある人か、同業者にそれなりの値段で売り付けられればって思ってな」 審美眼は父親譲り、その言葉が妙に暖かく心に残った。ぼくにとっての父親とはいつも襟のついたシャツを着た青白い優男であり、古道具屋としての父は良く知らなかった。商店街の人々もおおむね同じ認識だったようである 「父は、どんな古道具屋だったんですか?」 「誰よりも目が良い奴だったよ。でも、商売は下手だったね。息子の前でこんなことを言うのもあれだが、俺も奴の人の好さにつけこんだことがなかったわけじゃない」 男はそう言って少し上を向き、煙を吐いた。 「そんで、今日は何しに来たんだ? 父親に代わって俺の市場を荒らしに来たか?」 いずれはね。口が勝手にそう言おうとするのを慌てて飲み込んだ。これまで古道具屋としての自分を明確に意識したことなどなかったのに。 「そんなつもりはないです」 「なんだ、残念。ま、あの店はもう閉まったって聞いてたしな」 「やってますよ、というより、またやり始めました」 男はしばらく黙って、煙草の火がゆっくり、ゆっくりと自分の手元に近づいてくるのを見つめていた。 「やってるって、お前が?」 「いえ、別の人が」 彼はすうっと目を細めた。 「乗っ取られたか?」 「そういうわけじゃないんですけど」 まあ確かに今の〈アエロジーヌ〉は魔女に乗っ取られたと言えないわけではない。でも、魔女のことをそんな風に思ったことはなかった。 「新店主の元で、それなりに繁盛してますよ」 「どういうやつだ」 「え、ええと」まさか、魔女なんて答えるわけにもいかない。 「芳子っていう、若い女の人です」 若い女、という言葉に彼は少し眉をあげた。 「あの男の後妻か何かか?」 「どう思ってくれてもいいです」 父や魔女の名誉とぼくの気持ちの為に、この無粋な予想は是非とも否定してやりたいところだったけれど、じゃあなんなんだと返されたらぼくとしても困る。この男には好きに想像させておくことにした。 「ま、いいんだけどよ。大事なのはここだ」 男はそう言って自分の目を指さす。 「ああ、そこは大したことないですよ。あの人の場合はむしろ、こっちじゃないかな」 ぼくは苦笑して自分の口を指さした。魔女は趣味こそいいものの、その審美眼は門前の小僧程度の知識しか持たないぼくから見ても大したことはない。店に転がり込んでくる品物の中から高価なものを見分けることは彼女にはできない芸当だった。こじんまりとしていた父の時代とは対照的に、今の〈アエロジーヌ〉は彼女が二束三文の品を大量に仕入れてきて、そのよく回る口で大量に売りさばくという強引なやり方で回っている。 「はは、そんなら当分は心配いらないな。で、今日はその新店主のお使いってとこか[京平1] ?」 「ま、そんなとこです」 「そうか、じゃあその辺の家具やらなにやら、買ってってくれ。特別に安くしてやる」 ぼくは彼が指さした方に目をやって、うへえと息をついた。 「どれも高そうだけど、ウチには置きませんよ。あんな悪趣味なの」 ぼくの忌憚のない意見にも気を悪くすることなく男はからからと笑う。 「俺もそうやってお高くとまってたいもんだね。だが実際、ああいうのは置いとくだけで風向きが悪くなるうえ、大して売れやしねえからな。いつだか鰆町で古本屋をやってるっていう爺さんが来て、金にあかせて成金趣味の時計やらなにやら買っていったのが最後だ。まったく、どっかれあんな金を稼いできたんだか」 ぼくは彼の話に適当な相槌を打って、それから本題を切り出した。 「お使いって言っても、今日のぼくは仕入れできたんじゃありません。今日は、レモネードを探しに来たんですよ」 ぼくの言葉に、男はしばし口をぽかんと開けてこちらを見つめていた。当然だろう。商売敵かと思っていた相手の用事が、こんなに子どもじみた、くだらないものだなんて。恥ずかしさに顔が熱くなるのを感じる。 ところが、ぼくが思わず前言を撤回しようとした瞬間に、彼はくすりと笑った。その笑いはやがてはっきりと聞こえるようになり、やがてはブルーシートの前を通る客が怪訝そうにこちらを見てくるほどの爆笑になった。 「ど、どうしたんですか」 「いや、さっきは妙な勘繰りをして悪かったよ。お前のとこの新店主は、間違いなくやり手みたいだ」 「は、はあ」 レモネードのお使いが、どうして魔女の技量の証明になるのか、ぼくが首をかしげている間にも彼はレモネード、レモネードねえと繰り返しながら目の前で笑っている 「そうか、そうなったらこっちも教えてやらないといけないだろうな」 「レモネードが飲める場所? 知ってるんですか?」 「ああ、知ってる。知ってるとも」 そう言って、彼はまじまじとぼくの頭を見つめた。 「ときに、そのキャップは結構なヴィンテージ物に見えるが、ひょっとしておたくの商品か?」 「あ、はい」ぼくはそう答えて頭に手をやる。 「なかなかいいものだ。それだけあれば十分だろう」 「十分って?」 「まあ、ついてきな」 そういうと、男は自分の前の品々から上等そうな香水瓶を取って立ち上がる。そして隣のブルーシートの主に目配せをして、自分はそのままサンダルを履いてつかつかと歩き出す。 「え、あ、どこいくんですか?」 「いいから黙ってついて来いよ。レモネード、欲しいんだろ?」 ぼくはため息を吐き、靴に足を通すと、男の後を追った。
*****
このバザー会場は、こんなにも広かっただろうか? 飄々とした調子で歩く男の麦わら帽子を、ぼくはくらくらとする目で何とか追っていた。砂埃が混じった熱い空気が口に入り、思わずせき込む。 「どこまで行くんですか?」 ぼくの問いに、男は笑ってこちらを振り返る。 「どこ、って、坊主、ここがどこか分かってんのか?」 彼の言葉に、ぼくは反射的に顔をあげ、辺りを見回した。 「えっ」 そこには、一面の深い緑が広がっていた。アスファルトはいつの間にやら途切れており、先ほどぼくが吸い込んだ砂ぼこりは地面から巻き上がったものだ。どれだけ目を凝らしても、緑が途切れる場所は見えない。 「ここは……」 「トウモロコシ畑だ。広さの単位はエーカーだな。いや、ヘクタールか?」 「いや、そうじゃなくて!」 ぼくは思わず声を荒げて振り返る。そこには先ほどまでぼくがいたはずのバザー会場にはどこにもなかった。 「おいおい、そんなにビビるなよ。レモネードを飲ませてやるって言ってんだ」 「いや、そんな落ち着いていられないでしょう!」 ぼくの必死の訴えを男は鼻で笑う。 「まあいいじゃんかよ。別に鰆町からそう離れたわけじゃない」 「嘘だ」 「嘘じゃねえよ。俺たちの生きてる街からカーテンを一枚めくれば、こういう場所がある。そしてここは、俺たち古道具屋の仕事場の一つなんだよ」 男の平然な調子は、ぼくを落ち着かせるには十分だった。ただ、自分をわけのわからないところに連れ込んだ男に敬語で話す余裕はもはやなかったが。 「“俺たち”って言うけど、あんた達結構ここに来てるの?」 「年に一回、バザーの日にな。どういうわけでここまでの道が開くのかは知らねえが、今んとこ俺たちが知ってるここに行く手立てはこれだけだ。バザーの日に“対価”を持って、特別な方向にまっすぐ歩き続ける」 「“対価”?」 「そうだ。坊主、自分の頭のことをもっと気に掛けろよ」 「え?」思わず自分の頭に手をやると、先程迄かぶっていたはずのキャップが消えている。 「あ、あれ」 「そういうこと」 男も笑って手をひらひらと振った。ここに来るときにその手に握っていたはずの香水瓶も消えている。 「あれ、商品なのに」 「諦めろよ。お前んとこの店主も、多分それを知っててあれをお前に持たせたんだろうさ」 男の言葉に、〈アエロジーヌ〉を出る前に魔女がぼくに強引にあの帽子を押し付けてきたことが脳裏をよぎった。 「彼女は、ここのことを知ってたの?」 「多分な。驚いてる場合じゃねえよ。言っとくが、お前の親父もここの常連だった」 「父さんも?」 その驚きと共に、父がバザーの間どこを見てもいなかった記憶がよみがえってきた。 「こんなとこにいたら、そりゃ、見つからないわけだ」 「そういうこと。ほら。そこだ」 彼の言葉に再び前に目を向けると、先程まで何もなかった道の端に、小さな黄色の屋台があった。 「あれは?」 「お求めの場所だよ。レモネード・スタンドさ」 男は慣れた調子でつかつかと歩いていき、その屋台を覗き込む。ぼくもうろたえながらもあわてて彼を追いかけた。 屋台の低い屋根の下には長机が置かれ、その上に大量の丸いレモンが積み上げられていた。眩しいイエローの山を見ていると、自然と唾が口の中にわいてくる。 「よう、一年ぶりだな」 そういう男の声に応え、レモンの山から赤い矢印がぴょこんと飛び出す。次に緑の矢印、そして次の瞬間には二人の子どもの頭がこっちを見ていた。二人の子どもは丸っこくつるりとした真白い肌で身をつつみ、頭にはそれぞれ赤と緑の矢印のような二本の触角をはやしている。そんな二人の内、赤いほうが明るい声をあげた。 「あ、おじさん。こんにちは。外ではもう一年も経っちゃったの?」 「ああ、赤いのも緑のも元気にしてるか?」 「ザクロとミドリ、だ。ちゃんと名前覚えてくれよ。なあ?」 「うん」赤色の問いに緑色の方が幾分おどおどとした声でそう答え、目をこちらに向けた。 「そ、そっちは、新しいヒト?」 「ああ、そうだ。……って、坊主、大丈夫か?」 そういう男の声は呆然としているぼくの耳には良く届かなかった。 「あちゃあ、こりゃ完全にいっちゃってるな」 「おじさんも俺らを始めてみた時はこんな感じだったよね」 「まあ、しょうがないさ。おい坊主、気持ちは分かるが目の前の現実を大人しく受け入れちまう方が楽だぜ。こいつらはプッチ―モン、着ぐるみでも幻覚でもねえ」 「……られますか」 「は?」 「これが落ち着いてられますか!」 なるほど普通なら彼らを見て着ぐるみだろうかと思うところなのかもしれないが、ぼくはそれどころではなかった。怒りに震える両手で、机の向こう側のプッチ―モンと呼ばれた子ども、その緑色の方の肩を掴む。 「お、おにいさん、なにするの⁉」 「君も呪いにかかったんだね、大丈夫かい? ちくしょう、あの魔女。こんな小さな子どもまで手に掛けるなんて!」 「え、え、ま、魔女とか、ボク知らないよ。ザクロ、助けて!」 「おい! ミドリをいじめる奴は許さないぞ!」 そういって掴みかかってくるザクロと呼ばれた赤の妖精の頭をぼくは抑え、慈しみを込めて撫でまわす。 「君も、もう大丈夫だよ。ぼくもあの女の被害者なんだ。呪いにかかった君たちがどんな気持ちか、わかるよ」 涙ながらにザクロを抱きしめようとしたぼくの後頭部を、男がはたいた。 「いて」 「ちょっと落ち着けって。呪いって何の話だよ? こいつら元からこの姿だぜ」 「え」ぼくはもう一度二人の子どもに目を向ける。怯えるミドリを背後に隠しながら、ザクロが言った。 「そうだよ、俺とミドリはもともとこうさ。お兄さんこそ、なんでそんなに慌ててんのさ」 「だって……」 ぼくがそう言いかけた瞬間、地面が大きく揺れた。ミドリが驚いて飛びあげる。 「あ、アイツが来るよ」 「ああ、思ってたより早いな」ザクロも舌打ちをしたて、男の方に目を向けた。 「悪いな、おじさん。今日はもう終わり。おじさんたちも早く逃げたほうがいい」 「マジか」男はこちらを見て肩をすくめた。 「なんでもここでこうやって地震が起きると、ヤバいバケモノが来るらしいんだ。プッチ―モンたちは店じまいをして、俺たちも帰る。そういうルールさ」 「そう、なんですか」 何も飲み込めないままに撤退とは、納得のいかない話だが、変にルールを破ってここから帰れなくなったらことだ。 「さ、早く逃げるぞ」 「ええ、ところでこの地響き、だんだん大きくなってません?」 「は?」 「というより、これ、足音っぽくないですか?」 「何言ってんだ」 容量を得ない会話を交わすぼくたちに、ミドリの切迫した調子の声がかかった。 「二人とも、上!」 その言葉にぼくと男は頭上を見上げる。 巨大な恐竜の巨大なあごが、そこにあった。 ブルーで彩られ、その顔はどこで覚えたのかエスニックな飾りがつけられている。あれは結構な値段がしそうだ。そんなことを思うぼくの横に、恐竜のよだれがぼたぼたと落ちる。 そんな奇妙にゆっくりと静かな時間が続くはずもなく、やがて隣の男が裏返った悲鳴をあげた。 「ひ、ひいっ」 その声に応えるかのように、恐竜がぼくたちをなぎ倒そうと大きくその尾を振る。それは、とても、避けられそうには見えなかった。 妙に時間がゆっくりと流れる。 砂埃交じりの風を、トウモロコシの葉のざわめきが、はっきりと感じられる。 ザクロが、何かを叫んだ気がした。 恐竜が、不思議そうにこちらを振り返る。 「どうしたんだい?」 君の自慢の尾っぽが、ちっぽけな人間に受け止められたことが、そんなに不思議かい? 「ぼ、ぼうず、お前それ……」 「ああ、大丈夫ですよ」 ぼくがそう言って恐竜の尾を押さえていた片腕に力を込めると、恐竜の体は大きくトウモロコシ畑に倒れ込んだ。 「おにいさん、何それ!?」 「だからこれが、“呪い”さ。ぼくはこの呪いは単に人をバケモノに変えるだけだと思ってて。君たちみたいなやつらがいることを知らなかったんだ」 でも、それはつまり。 「この力も、無駄じゃないってことだ」 ぼくの身体を、炎が包んだ。 ***** 「なあ、マミーモン」 ──なんだ、探偵サンよ? 「今日会った、あの男の子だけど」 ──ああ、あの妙にすかしたガキか。それがどうした? 「なにか、感じなかった?」 ──どうだろうな、大して気にしてねえよ。 「そっか」 ──なんだ? デジタル・モンスターは憑いてなかっただろ? 「うん。そういう感じはしなかったんだけど」 ──じゃあなんだよ。 「人とデジタル・モンスターと、混ざってる。そんな感じだった」 ***** 「あの子に呪い、って、そんなの聞いてないわよ。ウィッチモン!」 ──なに、あの子を一人前にするためよ。 「約束が違うわ。私の息子に何かしたら……」 ──それ、自分の間違いで生んだ子どもを父親一人に押し付けて、父が死んだら今度は自分に憑いてるモンスターに面倒を見させてる女の台詞? 笑えるわね。 「う……」 ──そんな顔しないでよ。あんたの家柄と、それをあんたがどんな風に思ってるか、私は良く知ってるから。でもこれに懲りたら、母親面はしないこと。 「ウィッチモン、あの子は……」 ──親がなくとも子は育つ。あの子は立派に育ってるわよ。今日もお使いに行ってくれてるわ。 「……そう、これからも、よろしくね」 ──勘違いするんじゃないわ。私があの子を気に入っただけ。 「うん、そうだね。ウィッチモン」 ──ええ、そうよ。今は私があなたの代わり。忘れないでね? “芳子”。 ***** 体中の血液が沸騰したように沸き立つ。でもそれは、そう悪い気分じゃない。少なくとも、炎天下の商店街を歩くよりは辛くない。血液全部が何かふわふわとした、それこそレモネードのような何かになったような、そんな気分だ。 周りではあの男やザクロ、ミドリが何か言っているが、ぼくにはもう答えられない。唇は糸で、人形のように縫い留められているから。 そして最後に、ぼくは自分の頭にいつの間にか乗っている帽子を押さえた。魔女の帽子のように、これもぼくのイコンなのだろうか。炎の魔導士──フレイウィザーモンのイコン。 そう思うと、不思議と悪い気はしなかった。 ***** 手に持ったマッチ棒で恐竜をボコボコにするのに、そう長い時間はかからなかった。 逃げ去る恐竜を見送って人間の姿に戻り、プッチ―モンの屋台に戻ると、先程まではなかった折り畳み椅子に、見慣れた顔が座っている。 「ああ、キジマ、終わった?」 「……店番してるんじゃなかったのかよ」 「日焼け止めは塗ったわ」 「そんなこと心配してない!」 まさに魔女の白い柔肌を心配していたのを見抜かれ、ぼくは真っ赤になって叫んだ。 「おう、坊主。お前さんすげえな」 先ほどまでビビっていたことなど忘れたように、麦わら帽子の男も声をかけてくる。 「ほんと、メチャクチャ強かったじゃん。アロモンを追い払ってくれてありがと。ほら、ミドリも」 そうやってザクロに促され、ミドリもこわごわとこちらに頭を下げた。 「あ、ありがと……」 「いや、いいよ」 久しぶりに賞賛の集中砲火を浴び、ぼくは熱くなった顔を押さえる。 「今日はサービスさ。ほら」 ザクロがぼくに小さな紙のコップを手渡した。透明の液体が、その中を満たしている。 「これが……レモネード?」 「そうだよ。俺とミドリのお手製さ」 「そっか、ありがとね」 ぼくは笑顔でそれを受け取り、そのまま魔女に向き直った。 「ほら、お使いの品」 「いや、私もう飲んでるわよ。それはあんたの」 「はあ? それじゃあ何のためにここまで来たのか……」 「飲んどけ、坊主」 隣から男が声をかけた。 「この街の古道具屋に伝わるジンクスでな。ここのレモネードを飲むと、掘り出し物に恵まれるって話がある。俺たち古道具屋はみんな、一年に一度ここに来て、レモネードを飲むんだよ」 「はあ?」ぼくは絶句した。 「そんな迷信の為に……」 ほとんど怒ったような調子のぼくに、男は吹き出す。 「いやあでも、この話言い出したの、お前の親父だぜ」 「はあ!?」 「そうだよ。あのおじさんが最初に俺たちのとこに来て、その時に素敵なフルドウグ? を見つけたんだってさ」 父にそんな茶目っ気があったなんて、今まで考えてみたこともなかった。衝撃の事実を一度に告げられたせいで二の句も告げないぼくに、魔女が笑う。 「にしても、キジマがちゃんとあのバザーを見つけられるくらい成長してて、安心したわ」 「え?」 「これできっと、立派な店主になれるわよ」 今まで見たことのない魔女の笑顔に、勝手に目頭が熱くなる。もしかして、これまで魔女が無理難題を押し付けてきたのも、ぼくを〈アエロジーヌ〉の店主として育てるため──。 「いや、ありえないな」 「あ、バレた?」 魔女が手に口を当ててしとやかに笑う。それに思わず見とれるぼくの服の裾を誰かが引いた。下を見ると、ミドリがこちらを見上げている。 「の、飲まないの」 「えっ、あ」 「坊主、いつまでも飲まないと失礼だぞ!」 「そうよキジマ、ほら、さっさと」 「二人ともせかすなって、おにいさん、ゆっくり飲んでよ」 そんな言葉と共に、沢山の目がこちらを見つめてくる。 ぼくはため息を吐いた。とんでもない話だけど、どうもこれがこれからぼくが生きていく世界らしい。 ほんとにコレ効くんだろうね、父さん? ぼくはそんな風に呟いて、コップを口に当て、その中を満たしている夢そのもののような液体を、勢いよく──。 〈おしまい〉