彼の祖母が亡くなったのは神無月の二週目、残暑も終わり上着が恋しくなる頃であった。
彼が生前の祖母と最後に会ったのは、祖母が亡くなる二日前のことであった。病院の個別室で扉とは反対側を向いて横になっていた祖母の体には一本の点滴が繋がれ、その体は寝返りすら打てないほどに衰弱していた。家族が声を掛けても「アー」としか返せず、もはや会話などできなかった。
そんな祖母に彼がしてあげられることと言えば、ただただその手を握るだけであった。嗚咽を必死に堪える彼は祖母に話しかける余裕など無かった。両手で包み込んだ皺だらけの手は確かに温もりを持っていた。
亡くなった二日後には早々に葬儀が執り行われた。暖かかった手はすっかり冷たくなっていた。遺影に使われた写真は六十代の頃のものだった。まるで極道の妻のような凛とした威厳を持ち、口元は固く結ばれていた。対照的に、棺に納められた祖母の遺体は穏やかな顔つきであった。死化粧を施されたのが嬉しかったのか、口角はわずかに上がっているように見えた。
火葬場へ送る前の最期の別れには、たくさんの花が遺体に添えられた。棺には白と薄桃色の花も添えられたが、彼はそれらより一回り小さい青紫色の花に特別目を惹かれた。棺が窯の目の前まで来た時、他の親族と同様に手を会わせた彼はまた涙を流した。 祖母の入院から葬儀までの日数はわずか十日間。それは彼が心の準備をするにはあまりにも短すぎた。
一週間が経過した。大学四年生である彼は、大学のパソコン室で卒業論文に勤しんでいた。だがキーボードを打つ手はなかなか進まずパソコンに背を向ける。
彼は生前の祖母の様子を思い出していた。家族で外食に出掛けた際、彼は必ず祖母に歩幅を合わせて店まで歩いた。それでも彼の方が歩くのは速かったため、時折振り返ってはちゃんと着いてきているか確認した。その帰りに車から家まで送るのも彼の役目だった。だが、祖母は彼の自宅から徒歩20分圏内の場所に住んでいたにも関わらず、特に用事が無ければ会おうとはしなかった。彼はその事をひどく後悔していた。
そう、思い返すと彼は祖母と二人で会話した記憶がほとんど無かったのだ。病院では声を掛けられなかったため、最後に会話をした時期を探ると高校生まで遡る必要があった。その時はどんな話をしていただろうか。彼は当時を振り返りながら再びパソコンと向き合った。
ふと、彼は自分の目を疑った。ディスプレイに大きな裂け目が開いている。画面中央から左右に無理矢理こじ開けたようにその裂け目の周りの画面は歪み、向こう側は星が消滅した宇宙のような暗黒空間が広がっている。
他の人に相談しようにも、土曜の早朝に大学を訪れる者などそうはいない。別のパソコンを使えばいい話ではあるが、下手にUSBを抜いて卒論のデータが消えては困る。仕方なくディスプレイを叩いてみようかと彼が手を伸ばすと、突然指が長くなった。実際は指が画面の向こう側に吸い寄せられているのだが、まだ彼は気づかない。次の瞬間には視界がブラックアウトし、そこでようやく自分の体がだんだんとパソコンに吸収されていることを自覚した。
考える隙もなく壮絶な非日常を体験した彼の意識は、一度ここで途絶えることとなる。
目を開けると、いや正確には自分の目が本当に開いているのかどうかすら分からなかった。だが辺り一面真っ黒な世界に直面した時、原因として自分の視覚が失われたとは誰しも考えたくないだろう。皮膚の感覚は機能しており、とりあえず寒いという事だけは分かる。
そのうち目が慣れてきて、なんとか多少の明暗は判別できるようになった。……とはいえ先刻までと殆ど変わらない。見上げると青紫色の雲が視認できるようになった程度で、未だに一寸先は闇である。
彼は当てもなく歩くのは流石に危険だと判断し、体力を温存する意味でもその場に座り込んだ。死後の世界もこんな具合に真っ暗なのだろうか。そう考えながら真冬のような肌寒さをひたすらに耐え忍び続けた。
どうやら聴覚も失われていないらしく、何かの足音が聞こえてきた。恐らく四つ足の動物が走っている音だろう、少しずつ大きくなってくるその音の方向を彼はなんとか見定めようとした。だが見定めるまでもなく、足音の正体は既に彼の目前に鎮座していた。
犬だ。巨大な犬。前足から彼の太ももほどはありそうな鉤爪が三本ずつ伸び、双肩にも本体と同じような顔を宿している。全身はこの暗黒空間にも劣らないほど濃い艶消しのブラックで、三つの頭にある目が各々鋭い眼光を発している。神話に登場するケルベロスを彷彿とさせるその獣に睨まれ、彼の体は蛇に見込まれた蛙のごとく固まった。
「お迎えが遅くなり申し訳ありません。我が主はこちらでお待ちです。貴方のお婆様もこちらにいらしております」
犬がそう言って彼に背を向け歩き出した。外見に似つかわしくない紳士的な声だった。彼は犬が喋ったことと話の内容で頭がパンクしそうになったが、一先ず犬に着いていくことにした。祖母と会えるかもしれない。今の彼にはそれだけで十分理由になった。
体感で十分ほど歩いた先で、彼は巨大な城を目の当たりにした。灰色を基調とし、随所に金の装飾が施された西洋風の立派な城である。この辺りまで来ると比較的明るく、その城の後方は崖になっていることが伺える。敵に攻め込ませないためには有効な配置だ。そんなどうでもいいことを考えながら、彼は案内されるままに城へ足を踏み入れた。
シャンデリアや高そうな絵画は無く内部は決して豪華ではないものの、権威のある者しか入ることを許されない荘厳な雰囲気を感じる。
「主は二階の廊下を進んだ先の部屋にいらっしゃいます。くれぐれも粗相のないように」
犬は彼にそれだけ伝えると、足を揃えて深くお辞儀をし、足早に城を去っていった。そのお辞儀が彼に向けられたものではないことは彼自身も理解した。服装に乱れが無いか確認し、普段より背筋を伸ばして城内を歩き、犬が言っていた部屋の前に着いた。呼吸を整えノックを二回。失礼しますと声を掛けると重厚そうな扉はひとりでに開いた。
部屋に入ってまずは一礼。犬が主と呼んでいたであろう御方は、部屋の奥のデスクに腰かけて彼を見据えていた。デスクと言ってもパソコンではなく大きな天秤が置いてあり、デスク自体の材質は石のようであった。主が立ち上がり、扉とデスクのちょうど真ん中に位置するソファーに彼を導いた。
やはり顔は犬だった。古代エジプトの壁画に見られる特徴的な装いを纏い、背中からは自身の背丈ほどありそうな一対の黄金の翼が生えている。手足は細長く、身長は二メートルほどだろうか。歩くのではなく、僅かに浮き上がって滑るように移動している。
彼がソファーに腰掛けると、主はデスクに戻って天秤の片方に何かを乗せた。一枚の白い羽だった。
「私はアヌビモン。この世界で肉体を失った魂を導く者。だが今回は……少し想定外の事態だ」
主が唐突に自己紹介を始めたため、慌てて彼も名乗った。そして何が想定外なのかを訊ねた。
「そちらの世界の魂が意図せずこちらの世界に来た。私にはそれを正しく導く義務がある。貴方に来てもらったのもそのためだ」
訳が分からなかった。彼はここが死後の世界なのかを訊ねた。
「死後に世界など存在しない。現実と呼ばれる空間と、電脳と呼ばれる空間が、それぞれ世界と呼べるものを構成している、それだけだ」
ますます訳が分からなかった。
「案ずる必要はない。私は仏の教えも心得ている」
彼から見て左手にある本棚から、見えない糸に引っ張られるように一冊の本がアヌビモンのもとへ飛来した。
「死者の魂はまず、裁判をもって再誕の可否を決める。その後、可決された場合は四十九日の間このダークエリアに留まる権利を与えられる。否決の場合は魔王の糧となる」
アヌビモンは本を捲りながら説明するようにそう話した。四十九日という単語はなんとか彼にも聞き取ることができた。
「留まった魂は再びあるべき世界へと帰る。簡単なことだ。魂がこの羽より重ければそれで良い」
説明を終えたアヌビモンが、本棚とは反対側の壁に掛けられた額縁に向かって手招きした。額縁の中から、ぼんやり光る青い火の玉のようなものが現れた。恐らくこのふわふわと浮いている火の玉が魂なのだろう。魂は招かれるまま天秤の片方に着いた。先に乗っていた羽は動かなかった。
アヌビモンはそれを確認するや否や、突然魂を掴んで後ろの窓から外に放り投げた。魂は城を出た途端、重力を持ったように崖の下へ真っ逆さまに落ちていった。彼が青ざめた顔で立ち上がる。
「……では本番といこう」
仕切り直すように腰掛けたアヌビモンを見て、彼はほっと息をつきながら座り直した。作業的にアヌビモンが手招きし、先程同様に魂がやって来る。今度の魂は青紫色で、先ほどのものより二回りも小さかった。彼はその魂を見て、不安に押し潰されそうな気持ちを抑えながら祈った。
魂が天秤に乗ると、羽は勢いよく宙を舞った。さらに天秤が重さに負けデスクから転がり落ちた。彼とアヌビモンは互いに目を丸くして顔を見合わせた。
「……善い命だったのだな」
天秤を拾い上げたアヌビモンがそう言って、魂を彼に手渡した。
「これから四十九日、貴方にはその魂の世話をしてもらう。現実世界からの客だ、少しばかりのもてなしはさせてもらおう」
アヌビモンが指で宙に円を描くと、複雑な紋様が刻まれた白銀の門が姿を現した。門が開き、アヌビモンが中へ入るよう促す。
「後のことは私の使者に伝えてある。元いた世界と行き来する際はこれを使えばよい」
アヌビモンから天秤に乗っていた白い羽を授かると、門は静かに閉まり姿を消した。門が完全に閉まる瞬間まで彼はアヌビモンに頭を下げ続けた。
目を開け辺りを見渡すと、真っ白な空の下に明るい平原が放射状に広がる空間であった。百メートルほど進むと平原が途切れており、見えない壁にぶつかった。どうやら平原は大きな円の形になっているようだ。
「───―」
彼は名前を呼ばれた気がした。誰だと声を上げながら振り返ると、平原の中央に一匹の白い犬がいた。今度は普通のペットサイズで、見た目も普通の犬と遜色無い。
「主にここへ案内された方ですね? 私はラブラモン、貴方のサポートをいたします」
やはりと言うべきか、この犬も喋った。流暢な日本語でラブラモンが続ける。
「魂をここに置いてください。これより転生、すなわち失われた肉体を修復し最適化するための儀式を始めます」
ラブラモンが言い終えるより先に、彼の手から離れた魂がふわりと地に降りて淡い光を発し始めた。
───キュアーリキュール
ラブラモンが目を閉じると、その体が魂と共鳴するように淡い光を抱いた。
魂の周りを様々な色彩のモザイクが包囲し、手足や頭を次々と構成していく。一つの生き物を象ったモザイクは皮膚の緑や瞳の黒が色づき、最後に帽子のように頭部に青紫の花を作り上げた。鋭い爪に大きな目を持つその姿は二足歩行の爬虫類のようだが、掌と思わしき部位は脈打ち、足の先は植物の根のように分岐している。その生き物は彼を見て「アー」と小さく産声を上げた。
「アルラウモンです。貴方の魂に対するイメージがこのデジモンの姿を創りました」
かがんで一部始終を見ていた彼には、ラブラモンの説明など殆ど耳に入っていなかった。彼はアルラウモンの手を両手で包み込んだ。脈打つその手は確かに温もりを持っていた。震える声で祖母の名を呼ぶとアルラウモンはきょとんと首を傾げたが、彼は構わずアルラウモンを抱き締めた。青紫の花からは、最後に祖母と話をした時の懐かしい部屋の匂いが香っていた。
ラブラモン曰くこの世界と現実世界の時間はリンクしているらしく、彼は一度現実世界に戻ることにした。目が覚めると目の前にはデスクトップ。卒論のデータは無事に残っていた。
時計は土曜の朝十時を示している。彼は壮大な冒険をした気分でいたが、実際その時間は一時間にも満たなかったようだ。ポケットに手を入れると、白い羽はしっかり彼の手に握られた。
それからというもの、彼は毎朝欠かさずアルラウモンのもとを訪ねた。ラブラモンに何か変わったことは無かったかと聞いた後、その日起きた出来事や家族の様子など、とりとめの無い話を嬉しそうに祖母に話した。アルラウモンはそれを聴いて時々「アー」と返すだけであったが、毎日必ず彼と手を繋ぎながら話に耳を傾けていた。
一日、また一日と時は過ぎていき、あっという間に四十九日目、つまり最後の別れの日がやって来た。
「今日が最後の日です。悔いの残らないよう」
ラブラモンが改めて忠告し、彼と祖母の会話が始まった。この日も話の内容は変わらず、最後に手を繋いだまま平原をぐるりと一周歩いて回った。やはり彼の方が歩くのは速いため、時々立ち止まってアルラウモンが追いつくのを待った。
「お疲れ様でした。これにて四十九日は終了しました。この後アルラウモンは新たな命となって、再びデジタルワールドに解き放たれます。貴方のお婆様の魂は現実世界へとお返し致します。本当にお疲れ様……」
ラブラモンが改めて彼を労ったその時、突如アルラウモンが眩い光に包まれた。彼とラブラモンはその眩しさに目を閉じた。彼らが目を開けると、そこには先程までとは比べ物にならない大きさの花が咲いていた。顔から直接青紫の花弁が広がり、体は刺が生えた無数の触手から成っている。
「ブロッサモン!? 信じられない……! このダークエリアで、しかも一度に二段階の進化をするなんて!」
ラブラモンが驚嘆の声を上げた。彼も驚きを隠せない様子だが、それは恐怖によるものではなかった。
ブロッサモンが触手の間から何かを取り出し、彼に手渡した。それは彼が祖母の棺に納めたものと同じ、そしてアルラウモンやブロッサモンと同じ青紫の花を束ねた花束だった。彼は花束を受け取ると、ブロッサモンと抱擁を交わした。彼の体に刺の付いた触手が絡み付いたが、不思議なことに痛みは伴わなかった。
「───―」
彼は名前を呼ばれた気がしたが何も言わなかった。四十九日の間会話を交わしてきた彼らには、もう言葉は要らなかった。
ラブラモンが一吠えし、デジタルワールドへのゲートが開く。ブロッサモンは予めそう決まっていたかのようにゲートをくぐり、ブロッサモンにとっての元の世界へ帰っていった。その後ろ姿に、もう祖母の面影は無かった。祖母の魂が無事に現実世界へ帰ったことを悟った彼は、ラブラモンに一礼し白い羽を放り投げた。彼の体を暖かい光が包む……
現実世界での四十九日は既に終わっていた。祖母の遺骨は、実家があった長野の霊園で他の先祖と共に眠っている。彼はブロッサモンから受け取った花束を持って、数年ぶりにその墓を訪れた。
墓石を掃除し両手を合わせ、先祖代々に身辺報告を終えると、持ってきた花束を墓の前に置いた。……が、少し考えた後、五十ある花の中から一本だけ抜き取って左の花立に挿した。他の花より一回り小さいたった一本の青紫の花は、他のどの花よりも凛とした威厳を醸していた。桶と柄杓を片付けた彼は、残りの花束を持って満足そうに帰っていった。
束ねられた四十九本の青紫一つ一つには、彼が祖母と過ごした日々が鮮明に刻まれている。いつの日かそれらが枯れてしまったとしても、彼がそれを忘れることは決してないだろう。