思いがけない出来事がもし予想できるのなら、生きることはもっと退屈で、死の前日というのは遠足の前夜みたいにワクワクして眠れないものだったかもしれない。だからこそ彼はこうして今までぐっすり眠っていたし、目を覚ました瞬間には頭が真っ白になっていた。
目の前で無数の光が点いたり消えたりしている。彗星かな?と彼は思った。だが彗星であれば、もっとバーッと光るはずだ。残念ながら、それ以外に思い当たる何かを想像するためには、彼はこの世界を知らなさすぎた。
少しずつ目が慣れてくると、周りに異形の生物の存在を確認できる。よく見ると光の向こうにも異形の生物が群がっていた。皆一様に彼の方を見ながら、体の一部を叩いて音を出している。何かの儀式だろうか、と彼は思った。だとすれば自分はその生け贄であり、無数の光は生け贄たる自分にもたらされる最後の手向けとでも言うべきか。
これまで幾度となく死線を潜り抜けてきた彼にも、いよいよ年貢の納め時が来たようである。そうしていよいよ儀式も大詰め、異形の生物の一体が今まさに、幅広の紐を彼の首に掛けたのである。
生まれながらに背負う宿命は、時に命すら脅かす。ウィルス種として生まれた彼も例外でなく、いや、むしろこの世界のあらゆる生物────デジタルモンスター、通称デジモン────の中で最も過酷な運命を歩んできたと言っても過言ではないかもしれない。
あるところに、アルラウモンという一体のデジモンがいた。便宜上は彼と表記するが、頭に青紫の花を咲かせた可憐な植物型であった。彼は周囲を森に囲まれたこじんまりとした花畑で、他のデジモン達と呑気に悠々と暮らしていた。そしてそれを咎める者もいなかった。
だが堕落した生活を送っていたからには、当然その報いもやって来る。ある時彼は姿を変え、ザッソーモンというデジモンに進化した。通常デジモンは成長に伴って姿を変え、より強い力や大きな体を手に入れる。だが彼の場合、体の大きさはさして変わらず、力に至ってはむしろ弱くなっていた。
それだけならまだ幸せだったのかもしれない。ぬるま湯に浸かっていた彼の一生は、ここから刺激に溢れたものとなっていく。
最初に彼を襲ったのはストライクドラモンというデジモンだった。ストライクドラモンは、「ウィルス……殺ス」と呟きながら彼の顔面に思いきり蹴りを入れた。突然理由のない暴力に見舞われた彼は、逃げ出すために初めて花畑の外へ出た。
当てもなく森をさ迷い、ようやく平原に出た頃には追い付かれて腹を抉られた。今まで感じたことのない苦痛に彼は顔を歪めたが、それでも逃げ続けた。
次に出会ったのはトゲモンというデジモンだった。彼はトゲモンと体色が同じであることを活かし、トゲモンに匿ってもらうことにした。おかげでストライクドラモンは諦めて去って行ったが、彼の体はトゲモンの全身から伸びる刺が刺さって穴だらけになっていた。刺を抜く度に激痛が走ったが、それでも彼は帰路についた。
道に迷って歩いているところを、今度はサイクロモンに襲われた。サイクロモンは「お前がレオモンか!?」と叫びながら、いきり立って異様に太い右腕を何度も彼に叩きつけた。自在に伸びる腕の攻撃は地面にヒビができるほどの強い衝撃で、彼の全身はグシャグシャにひしゃげた。視界を揺らされる感覚の中で、自分の伸びる触手もこのぐらい強ければいいのにと彼は思った。ようやく彼がレオモンでないことに気づき、サイクロモンがその場を去った後、彼は這いずりながらその場を後にした。
その後も彼は行く先々で散々な目に遭った。ある時はピヨモンに頭の葉を啄まれ、ある時はメラモンに挨拶と称して握手したばかりに全身が焼け爛れ、ある時は同じ植物型であるはずのペタルドラモンに共食いされ、ある時は空腹のあまりギロモンが投げた爆弾を食べて体の内部から爆発した。
森を歩けば木にぶつかり、山に登れば転落し、工場では漏電が原因で100万ボルトの電流を浴び、興味本位で海に入れば溺れ、うっかり砂漠に足を踏み入れれば枯れ、スカモンの村ではウンチに潰され窒息した。
あらゆる刺激を何度も経験してきたが、それらを予想することなどできず、また痛みに慣れることもできない。故郷の花畑の場所すら忘れてしまった彼は、とうとう立ち上がることに意味を見出だそうとしなくなった。
彼が常に笑顔を見せるようになったのは、ちょうどその頃からである。そうでもしなければ、どれだけ痛い思いをしても死ぬことのできない自分の体を、尽きることのないだろう怒りに任せていつまでも傷つけてしまいそうだったのだ。
進化するためにはあまりにも弱く、死ぬためにはあまりにも生ぬるい。そんな彼の前に、文字通り天からの手が差し伸べられたのは、彼がいつから笑い続けるようになったかすら思い出せなくなっていた時だった。
十枚の白銀の翼に身を包んだ天使は彼の運命を嘆き、彼の身を案じた。そして死ぬことができないのなら、いっそ別の世界に飛ばしてあげるべきだと考えた。天使にはそれを実現するだけの力があった。天使は門を開き、「望むならば」と彼に伝えて姿を消した。彼は迷わず門に飛び込んだ。それは、彼がザッソーモンに進化して初めて、痛みを伴わなかった日でもあった。……この世界では。
一色 緑(いっしき みどり)は、退屈な日常に飽き飽きしているごく普通の女子高生である。今日もいつも通りの時間に家を出て、交差点の横断歩道を渡り学校へ向かうはずだった。交差点と言ってもさほど大きなものではなく、近くに駅やバス停も無いため人通りは少なかった。前日の夜から未明にかけて雨が降っていた影響で、道はまだ濡れている。
「……んん?」
緑は自分の目を疑った。交差点の真ん中から草が生えている。あんまり珍しかったので、歩道の信号がちょうど青になったのをいいことに、交差点の方へ小走りで駆け寄った。その時、突然草がモゾモゾと動き出した。
「ひいっ!?」
緑は思わず後ずさった。草だと思っていたそれは、よく見ると顔がついている。細長い目につり上がった口角、口先は尖っていて白い歯がまばらに生えている。その人面草は白目を剥いていることから気絶しているらしく、もっと近くで観察して見ようと緑は距離を詰めた。
キキィー!
突然タイヤが道路を擦る音が響き渡った。緑が顔を上げると、目の前には軽トラック。見間違えていなければ、車道の信号は確かに赤を示していた。
残念ながら彼女は、目を瞑るには時間が足りず、神に祈るには信仰心が足らず、走馬灯が流れるには退屈した人生を送りすぎていた。ふと、彼女の視界の下から緑色の触手が二本、伸びてきたように見えた。軽トラックは緑の数センチ脇を通りすぎ、ガードレールに衝突して停止した。
その場に座り込んだ放心状態の緑が恐る恐る目だけ動かして道路を見ると、タイヤの跡がくっきりと残っているのが分かった。気絶していた人面草にもくっきりと。
程なくして数台のパトカーが交差点を封鎖した。近くの銀行に強盗が入ったらしく、金を積んだ軽トラックがこの交差点に信号無視で進入したとの情報が入っていたのだ。ガードレールに衝突した、ナンバープレート「93-87」の軽トラックからは、計三百万円相当の紙幣が回収された。
運転手と助手席に座っていた中年男性二人は、シートベルトをしていなかったため頭を強打したが、幸い一命は取り留めたようだ。
人面草は濡れた道路を四、五メートル引き摺られていた。緑は制服のスカートが前後共に濡れていたこと以外、全くもって無傷であった。
警察庁では、銀行強盗の動きを止め、一人の少女の命を救ったとして、人面草改めザッソーモンが表彰を受けていた。もし緑が事故の後ザッソーモンに駆け寄らなければ、誰も彼がまだ生きているということに気づかなかっただろう。もし緑が「この人が助けてくれたんです!」と警察に訴えなければ、彼は現場検証の際に「トラックを滑らせた雑草」という物的証拠として扱われていただろう。もし彼が警察庁でも気絶したまま目を覚まさなければ、報道陣は諦めて帰っていただろう。
緑をはじめとする人間達は、彼に惜しみ無い拍手と賞賛の言葉を述べた。彼からしてみれば、異形の生物が体の一部を叩いて音を出している儀式の一部に見えるかもしれない。また多くの報道陣が、彼の姿を号外に載せようといくつもの写真を撮った。彼からしてみれば、無数の光が点いたり消えたりしているように、もっと言えば彗星か何かに見えるかもしれない。最後に警視総監が、彼の首にメダルを掛けた。彼からしてみれば、生け贄として首を絞めて殺すつもりに見えるかもしれない。
どの世界でも自分の生き方を変えることはできないと痛感(勘違い)した彼は、それから暫くしない内にデジタルワールドへ帰ったのであった。
思いがけない出来事がもし予想できるのなら、生きることはもっと退屈で、死の前日というのは遠足の前夜みたいにワクワクして眠れないものだったかもしれない。だからそこ彼はこうして今まで刺激に溢れた生命を謳歌し、いつ訪れるともわからない死など考えずに毎日を過ごせている。
彼にとって最も過酷な運命は、彼がザッソーモンというデジモンであるばかりに、その価値に気づけないということだ。