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終-1 放課後/最後の仕掛人/残された語り手のこと
「あ、早苗くん、やっほ」
翌日、業間の休み時間に学校の廊下をぶらぶらと歩いていた僕に、前から歩いてきた少女が声をかけた。
「……奈由さん」
初瀬奈由、その姿は二日前に見ているはずなのに、なぜだかその澄んだ声を聞いた途端に、僕は力が抜けてその場にへたり込みそうになった。なんでこんなことをしているんだ。さっさと全部放り出して、普通に彼女にみっともない方恋慕をすればいいじゃないか。そんな思いが脳裏でこだまする。平穏を取ったところで別に彼女との恋路を遂げられるわけではないのは我ながら情けの無い話だ。
「その痣、どうしたの?」
「なんでもないよ、ちょっと転んでさ」
僕はなるべくそっけなく聞こえるように、そう答えた。
「奈由さんは、移動教室?」
「そうそう、体育ね」
彼女は手に持った体操着の袋を持ち上げて、にこりと笑った。
「そう、それじゃあ」
「え、あ、うん。それじゃ」
不愛想にそれだけ言って立ち去ろうとする僕に、奈由は何か言いかけて俯く。
──普段ならぶん殴ってやるところだが、今はそれで正解だ。あんまデレデレするんじゃねえぞ。
分かってるって。マミーモンの声に舌打ちしながら、僕は話を続けようとする彼女を振り切って歩き出す。
「ちょっと、早苗くん!」
と、奈由が僕を呼び止める。僕が振り返るよりも前に、普段マミーモンの声が聞こえるような位置から、彼女の声が聞こえた。
「週末のこと、よろしくね」
僕が驚いて振り返ると、もう彼女はぱたぱたと走り去っていた。彼女の走る後ろ姿から、左右に揺れるポニー・テールが消えてしまったことに一抹の寂しさを覚えながら、僕は呆然とそれを見送った。
「……え? え!? なに今の、なんか割と近かったよな。マミーモン!」
──癪だから教えてやんねえ。
いつもの無機質な廊下が極彩色の音楽で溢れ、わくわくと胸が高鳴るのを感じる。さながら「プレイバック」の最後の場面のマーロウのような気分だ。
──おい、早苗。
「うん? なんだ?」
──後ろだ。
マミーモンのその言葉と共に不意に音楽が止み、僕は人気の無い廊下に引き戻された。そして僕の背後、人が出払ったはずの奈由のクラスの教室から、数人の男子生徒が出てくる。そのうちの一人は、蒼く燃え立つような毛を身に纏った、獣人の姿をしたデジタル・モンスターを背後に従えていた。
「いいよ、やってくれ」
──はいよっと。
その瞬間に、僕の背後でマミーモンが動く。最初に彼の足が蹴り飛ばしたのは、獣人を連れた生徒だった。いかにデジタル・モンスターを連れているといっても、実体化させる前に宿主の狐憑きから意識を奪ってしまえばいいだけの話だ。やはり他の人間の連れているモンスターを霊体の内に見ることができる〈死霊使い〉の力は僕にとって大きなアドバンテージだ。
予想のできていたことだが、今朝目を覚まして学校に辿り着いてから、僕はカシマと同じような組織の回し者から尾行を受けていた。向こうとしても襲うタイミングには迷うようだったが、組織は思ったよりもこの学校に深く根を張っているらしく、人気の少ない場所に行くとすぐに誰かが襲い掛かってくる。そんなわけで、今日の僕はトイレに行くにも人が多い時間帯を選ばなければいけなかったのだ。
僕がそんなことを考えている間に、マミーモンはあっという間に襲撃者たちを平らげてしまっていた。
「よし、一丁上がりっと。あの女の方は大丈夫か?」
「追われてはいないね。さっきそっけなくしたのが効いたみたいだ。それに、もうここまで来たら、奈由さんを襲ったところで向こうにもメリットはないだろ。彼女は、いつも友達と一緒にいるし大丈夫さ」
「誰かさんと違って、な」
「うるさいな。この期に及んでなんだよ」
睨みつける僕の視線を交わしながら、マミーモンは気を失った生徒たちを三人まとめて担ぎ上げた。予め、気を失った追っ手のことは、校庭の隅の体育倉庫に並べて寝かせておくことに決めていた。この時期には授業で使われることはない。放課後、部活で校庭を使う連中がそこを開ける段になって、はじめて発見されるという仕組みだ。沢山の学生が気を失った状態で体育倉庫から発見され、そして彼らに皆裏社会との接点があったということが明らかになるという怪事件は、既に伊藤刑事相手に“予言”済みだ。僕の言葉を聞く伊藤のげんなりとした顔を想像するだけで、いくらか愉快な気分になった。
廊下に注意深く気を配りつつ学生たちを運びながら、マミーモンは少し厳しい調子で言葉を続ける。
「分かってるのか? 今日の放課後までに追手の連中どうにかしないと、お前の言ってた計画はどうしたって実行できないだろ。モンスターを連れた連中に尾けられてるお前を放っといて、探りに行くことは出来ない」
「分かってるって、何とかするよ」
僕はため息を吐いた。昨夜相棒に明かした僕の推理と、それを証明するための方法は、この上なく悪趣味で、卑劣なものだ。それでも、それに力を貸してくれると言ってくれた相棒の思いを無駄にはしたくなかった。
「それなら、お前も少しは明るく振舞え。第一、今日の計画のためには、アイツと連れ立って帰んなくちゃダメなんだろ」
「別に復唱してくれなくていいよ」
「言っちゃ悪いけど、できんのか? アイツが女どもに囲まれてる中、「一緒に帰ろう」って、早苗、ほんとに言えるか……?」
「う」
僕は思わず言葉に詰まる。その時が来ればできるだろうと軽く考えていたものの、いざそれを目の前にしたときに、果たして勇気を出せるかは怪しかった。
「な、何とかなるよ」
僕はたじたじとなりながら言う。そう、なんとしても、僕は今日の放課後、彼を誘って帰らなければいけないのだった。
*****
「なんかさっき、校庭にパトカーが来てたな」
「ホントか?」
帰り道、他にも幾人かの生徒がいる路地を歩きながら、僕は富田昴に白々しく聞き返した。
彼と連れ立って帰るのは、思っていたほど難しい話ではなかった。結局のところ、僕のいるのは現実の田舎町で、コーデリア・グレイの訪れたケンブリッジでも、V.I.ウォーショースキーが立ったシカゴの大学でもないのだ。容姿の整った感じのいい青年の隣には常にブロンドの頭の巡りの悪そうな美人がいるというのは、僕の妄想に過ぎなかったらしい。
もっとも、彼の隣を歩くのは中々に辛いものがあった。決して僕が自分と富田と比較される周囲の視線を意識してしまうほどに自意識過剰なわけではない。僕がこれからしようと考えていることは、富田に僕がほんのわずかでも友情を感じているのなら、すぐにでも取りやめるべきことなのだ。
「どうした、春川、変だぞ」
それはそうだろうさ。顔にできた痣から始まり、一緒に帰ることを持ちかけられたことまで、彼にとっては今日の僕はおかしなことだらけなはずだ。
──おい、この期に及んで悩んでるのかよ。この時の為に組織の回し者もあらかた始末したってのに。
分かってるよ。僕は深々と息を吐く。
探偵というのは本質的に孤独なものだ。誰が言ったのかもう思い出す気にもなれない文句が、これほどひしひしと身に染みることになるとは。多くの物語で、探偵は外からやってくる介入者だ。事件にかかわるすべての人間を疑う代償として、すべての人間から、真の意味での信頼を得ることができない。知らない人々の物語の中で事件に挑むなら、それはまだいいだろう。しかし、それが親しい人々の近くで起きた事件だったら? 一人の学生でなく、探偵として初瀬奈由や富田昴に向き合うことは、思ったよりもつらいことだった。僕のしようとしていることは、目の前の青年を、幸福で誰からも愛されている青年の、僕のような人間相手にも友人と呼ぶべき人間でいてくれる青年の人生に、暗い影を落とすことになるのだ。
「春川」
「ん、なに?」
互いに無言のまま、ぽつぽつと歩く中で、不意に昴が話しかけてくる。誘った身で何一つ気の利いた話題を出せずにいた僕にとって、それはありがたいことだった。
「春川はさ、この街が好きか?」
「この街って……」
「そのまんまの意味だよ。この市、いや、鰆町だけでいいな。春川は他所から来たんだろ? この街をどう思ってるのか、気になってさ」
僕は肩をすくめる。そうだ。こいつはこういう話題を真っ直ぐな表情で持ち出せる奴だった。
「そういう聞き方するってことは、富田はここが好きなんだな」
「ああ。好きだよ」
僕の問いに、彼は迷いなく答える。
「俺は生まれも育ちもこの辺りでさ。昔から、地域の行事にも参加したりしてさ。いろんなことをこの街から教わったよ」
「お父さんも、ああいう仕事をしてるし、か?」
「やめてくれよ。親父の仕事は関係ない……とは言い切れないな。親父も、親父の仕事も好きだよ。でも、大人に言い聞かされてそう思ってるわけじゃない。この街が好きだから、この街の為になる親父の仕事が好きなんだ」
「そう。僕は──」
僕は彼から目を逸らし、自分の足元を見る。老人の殺しを探り、未来のない夫婦の像を見せられ、少女のエロ写真を売りさばく連中に関わって自宅に押し入られ、救急救命士に殺されかけた一人の無力な男子高校生が、彼に皮肉な笑み以外の何を返せるだろう。
けれど。僕は微笑む。僕は男子高校生である前に、今は一人の探偵だ。決して住む街を愛するタイプの探偵ではないけれど、リュウ・アーチャーがそうであったように、この街のねじまがった神経のつながりを見つけ出し、繋ぎなおすのが今の僕の役目だ。
僕はこの一週間足らずで、沢山のつながりに出会った。その多くは失われてしまっていたけれど、僕が(そう、なんとこの僕が!)結ぶことができたものもいくつかある。坂本弥生のことを想う伊藤の言葉や、マスターとワイズモンの和気藹々とした会話を思い出すならば──。
「……うん。そうだな。僕も好きだよ。この街」
「……そうか」
昴はそう呟くと、すっかり薄暗くなった路地に輝く街燈を見上げる。いつの間にか周りから人はいなくなっていた。目の前に現れたT字路を前に、昴が口を開く。
「あ、俺、ここ右だ」
「僕は左」
僕と彼はお互いに顔を見合わせる。
「じゃ、また明日な」
「うん、また、明日」
小さく手を上げ去っていく昴の背中を見送りながら、僕は深く、深くため息をついて、小さく口を開いた。
「オーケーだ。マミーモン、行ってくれ」
──おうよ。
僕の隣でつむじ風が巻き起こり、マミーモンがふわりと地面に降り立つ。。
「霊体のままなら、尾行に困ることもないんだがな」
「でも、そうしないと“コレ”を運べないだろ」
僕はポケットから一枚の紙を取り出し、マミーモンの背中に向けて差し出す。
「知りもしない人の顔を、覚えていられるわけでもなし、持っとけよ」
「ま、それもそうか──」
その紙を受け取ろうと振り返ったマミーモンの顔が、薄暗がりの中でもそうと分かるほどに歪んだ。
「──早苗、伏せろ!」
その言葉と共に彼が僕の腕を引っ張り、地面に引き倒す。何かがぶうんと音を立てて僕の頭を掠め、その風圧に、マミーモンに渡そうとした紙片が手を離れ、宙を舞った。
「あっ」
慌てて手を伸ばすも、紙片はひらりと僕の手をすり抜ける。ソレを追って顔を上げた僕の視線が、その先で、険しい顔を浮かべた人物──富田昴を捉えた。
「富田……」
「なんだ、これは?」
彼は掴んだ紙片に目を落とす。その途端、彼の顔がひどく歪んだ、すぐに、怒りの表情が、僕に向けられる。
「春川、お前か、お前だったのか」
僕は肩をがっくりと落とした。僕がマミーモンに渡そうとした紙片──遠野古書店で入手した、あの幼い少女の写真を見れば、大抵の人はぎょっとして顔を歪めるだろう。けれど、怒りに震える昴の顔は、真っ当な道義心から生まれる怒りだけによるものとは思えなかった。
「やっぱり、そうだったか」
僕はそう呟き、その口調の冷静さに自分でぞっとした。昴の反応は僕の推理の正しさを裏付けていて、けれど、それはちっとも嬉しいことではなかった。
「その写真の女の子、やっぱり」
「ああ、そうだよ」
昴は一度頷き、今度は前よりもっと鋭い、殺意さえ帯びた瞳で僕を見つめた。
「セナ。俺の、妹だ」
僕は深く、深くため息を吐いた。
「春川、お前が!」
「昴、話を聞く頭は残ってるよな。僕はその写真を撮っても売ってもいない」
今にも殴り掛からんとする昴に向け、なるべく早口で言う。しかし、僕のその言葉を遮るように、背後で聞き覚えのある声がして、僕の背筋は粟立った。
「スバル、騙されてはいけないよ。目の前のその少年こそが、我々の探していた敵だ」
「おいおいおいおい、勘弁してくれ!」
僕は思わず、薄暗い夜に向けて大きな声を上げた。僕の背後にいる“彼”に目を向けながら、隣でマミーモンが声を絞り出す。
「どういうつもりだ……ネオヴァンデモン!」
*****
「リアライズして人間を襲うなんてちょっとした賭けだったが、おかげで証拠の写真を奪うことができた。スバル、我々の勝利だ」
「ああ、喜ぶ気にはなれないけどな」
仲の良い友人に語り掛けるような調子で、ネオヴァンデモンは昴に話しかける。それに対する彼の返事から見ても、ネオヴァンデモンが憑いていたのは彼で間違いがないらしい。
「気色悪い声出しやがって」
隣でマミーモンが小さく呟く。僕も目を昴に向け、声をかけた。
「富田、ネオヴァンデモンに何を吹き込まれたかは知らないけどな。こいつはお前を騙してる」
「騙してる、だって? それはお前じゃないか! お前、あのカシマってやつに俺を仕向けたろ。あの時アイツと一緒にいた奴を後で問い詰めたら、全部教えてくれた。連中は違法な写真の撮影や売買をする組織に関わってて、カシマはその仕事をしくじったって」
僕は顔をしかめる。その通りだ。富田はがカシマの取り巻きと話をする可能性を考えておくべきだった。
「お前に言われてカシマを懲らしめた次の日には、アイツは学校に来なくなった。お前、組織の為にアイツに何かしたんだろう!」
「馬鹿なことを……」
「それだけじゃないな」
背後でネオヴァンデモンが口を挟み、昴もそれに応えて頷く。
「この間の土曜日もだ。あの時のお前、約束の時間をすっぽかしたり、その後、変なとこ歩いてたりしてたよな?」
「それは……」
「あの晩、ちょうどあの辺りで、人殺しがあったそうじゃないか。この場合、もっとも疑われるべき人物は誰か、はっきりしていないかね。理由もなく、あの時間、あの場所にいた人物」
「おい、冗談はよせ!」
満足げに話す吸血鬼に向け、マミーモンが叫んだ。
「俺たちにあの場所を、あそこに坂本がいることを教えたのは、ネオヴァンデモン、お前だろうが!」
「なんのことだい?」
吸血鬼は白々しくそう言って、けらけらと笑った。
「クソが……何がしたい!」
「私がしたいことは、最初からずっと変わっていないよ」
「……ああ、そういうことか」
僕は背後のネオヴァンデモンの言葉に、顔を歪めて息をついた。隣に立つマミーモンが不思議そうに、それでも視線を吸血鬼に向けたまま尋ねてくる。
「どういうことだ、早苗?」
「ネオヴァンデモンの目的は、最初に僕らがアイツと出くわしたあの夜から変わっちゃいないんだ。マミーモン、お前を自分の下に連れ戻すことだよ。それ以外のことは、全部嘘だ」
僕のことを気に入ったとか、仕事を代わりに僕たちにやってもらうとか、あんなのはただの方便に過ぎない。
「アイツは初めから気づいてたんだよ。お前を連れ戻すために僕を殺すっていうやり方は、立場を考えてもマズいし、お前の心が決定的に自分から離れてしまうことにもなりかねない。だから、僕たちをわざと泳がせて、疑われる理由をでっちあげ、人間の世界のやり方で始末しようとしたんだ」
僕の言葉に、マミーモンは軽く頷く。
「なるほどな。牢屋に閉じ込められたら、俺が早苗についていく理由もなくなるってか」
彼はははっと乾いた笑いを上げ、いつの間にか手に持っていたマシンガンを、目の前の吸血鬼に向けた。
「舐められたもんだぜ」
「マミーモン、本気で私にたてつこうというのかい?」
「ああ、本気さ」
僕はその会話を聞いて、ほっと息をつくと目を前に向けた。マミーモンの声の調子には、前のような恐怖は感じられない。依然状況は絶望的だが、僕は僕にできることをやるべきだ。
「富田、本気で僕を疑ってるのか」
「話を聞かなければいけない、と思うだけだ。その理由は、さっき聞かせたろ」
ああそうさ。僕は頬の裏を噛む。まったく、完璧な推理だ。レストレード警部とおんなじくらいに完璧な推理だ。でも、僕の用意した趣味が悪いジョークに比べれば、ずっとずっとマシだ。
でも、僕は唇を噛む。「あの写真の少女は富田セナ」、それを証拠に、僕の推理は全て裏付けられた。本当はマミーモンに彼の後をつけさせ、誰にも気づかれずに確かめたかったが、富田を傷つけたくないがための全ての配慮も、これで全ておじゃんだ。
「……いいよ、話を聞かせてやる」クソッタレな、真実を。
「ここじゃないどこかでな!」
僕の言葉に重ねるようにマミーモンが叫び、宙に飛び上がる。彼がはくるりと一回転してマシンガンを昴の足元に打ち込むと同時に、僕は真っ直ぐに走り出した。
「ぐっ……おい、待て!」
後ろで富田の声が聞こえる。振り返る時間はなかった。その必要も、感じなかった。
*****
「いまの、止められたろ」
二人が走り去った後に、マミーモンは再びネオヴァンデモンに相対した。
「別に、勝手にやればいいのさ。博打みたいなものだよ。我々の行く末は、あの二人の少年の喧嘩に託されたというわけだ」
「我々? 俺の行く末の間違いだろ」
彼は大きく息をつく。ネオヴァンデモンはずっと気やすい口調になって、かつての部下に話しかけた。
「マミーモン、私がどれほどお前を連れ戻したいと思っているか、これで分かったろう? こんな状況に持ち込んでおいてから言うのもなんだが、本当に、戻ってくる気はないのかね?」
「ねえよ。どうせ、人間界に来た時にたまたま俺がいたから、玩具にしただけだろ」
マミーモンはそう答え、マシンガンを持ち上げて相手の顔に向ける。ネオヴァンデモンはその長い指を顎に当て、小首を傾げた。
「どうした? 我々には戦う必要はないだろう? 賽は投げられた。決着はいずれ勝手につく。お前もわざわざ、勝ち目のない戦いをする必要はないはずだ」
「……なかった」
「なんだ?」
「早苗とあのガキ、アイツらにも、戦う必要なんてなかった!」
マミーモンの叫びに、ネオヴァンデモンは苦笑を浮かべる。
「おいおい、本当にあの人間に入れ込んでしまったようだな。探偵だか何だか知らないが、自分の牙に名前を付けても、それを振るうのにためらいが生まれるだけだよ」
「かもな、でも、理由もなく牙を振るったやつがどうなるか、最近散々見せられたもんでな。流儀を持つのも、悪くないと思うのさ」
ネオヴァンデモンは嘲るように笑う。
「流儀? 人間の受け売りの流儀か?」
「受け売りでも、俺の相棒はそれなりによくやってるぜ」
マミーモンは肩をすくめ、背後で迷いなく変えだしていった相棒のことを思う。最初と同じ、背中合わせで逆方向に走っていく仲間。そうだ、俺の“欲しいもの”は、もう手に入ってたんだ。
「フィリップ・マーロウ曰く“撃っていいのは撃たれる覚悟のある奴だけだ”。手慰み程度の気分で人を散々駆けずり回らせたからには、その胸に一発ぶち込まれても文句は言えねえよな」
「……それなら構わないさ、お前には私の翼に傷の一つもつけられない。かかってきたまえ」
木乃伊は大きな笑みを浮かべ、アスファルトを蹴った。
*****
不意を突いて駆けだしたとはいえ、こちらは日ごろから運動不足な中にここのところ無茶を重ねていた身だ。運動神経抜群で万全のコンディションを保った昴に追いつかれるのは時間の問題だった。しかし、いつまでも逃げる気はこちらにもない。 とうとう追いつかれ、襟首を強い力でぐいと引っ張られた瞬間に僕は鞄に手を突っ込んだ。昴がものすごい勢いで僕を塀に押し付ける。 「捕まえたぞ」 「本当にそう思う?」 僕のその言葉に視線を下に向けた彼の顔が大きく歪む。その喉元には、僕の手に握られた長いナイフ──僕の部屋を荒らした組織の人間が残して言ったやつだ。 彼が怯んだ瞬間に、僕は膝を彼の腹にいれる。うめき声と共にうずくまる彼を、僕はナイフを突きつけたまま壁に押し付け返した。 「少しは冷静になったかよ」 こんな状況でも昴は怯むことなく僕を睨みつけてくる 「春川、こんなことして、楽しいか?」 「こんなこと、だって?」 「大人の世界に首突っ込んだ気になって、人の生活を引っ掻き回すのが、そんなに楽しいかって言ってるんだよ!」 僕のことを犯罪者だと思っての発言だろうが、その言葉は別の方向から、僕に突き刺さった。 「僕は何もしちゃいないよ。ある人の為に、真相を探ってただけだ」 「そのために、セナの写真を持ってたっていうのか! あの写真が、どれだけあの子を貶めると……」 「だから、なるべく彼女を傷つけずに今回の事件を……」 「誰がそんなこと頼んだ? 頼まれたとして、お前にそんなことをする権利があるのか? ただの部外者の、お前が!」 「分かってるさ。だけど、こっちにも意地がある。だからこうしてるんだ」 僕は彼の目を真っ直ぐと見据え、口を開いた。 「話を聞かせてくれ。富田。真実を求める、この僕に」 彼の言う通り、ぼくは部外者だ。けれど、人々が探偵を求めるのは、彼が部外者だからこそなのだ。事件の当事者たちは、皆一様に話を聞く余裕なんて持っていない。だから探偵がいるのだ。悲しい物語の中で、唯一誰かの為に話を聞ける人物、誰かの思いを背負うことのできる人物。 昴こそ、この事件の中で探偵に向けて最後に語る人物だった。そうしたら、僕の番がやってくる、今まで話を聞くだけだった探偵が、最後に語る時間がやってくる。 僕の目を真っ直ぐに見つめ、富田は立ち上がり、厳しい顔のまま、一つ頷いた。
終-2 最後のステップ/哲学と拳銃/残された聞き手のこと
警察署を訪れるのには、僕もこの一週間でもうすっかり慣れっこになっていたが、夜の八時を回った警察署を訪れるのはまだ緊張していた。何と言ったって今週まだ二回目なのだ。 東警察署はこの小さな街の官庁が集まった通りにある。緑の木々に囲まれた中央通りの中で、署の建物は古くからある裁判所や市役所、県庁の大きな建物達の端の方にすっくと立っている。建物は小さく見えたが、白井が一人、それに準ずる人間が数人あの中にいると思うだけでその埋め合わせには十分に思えた。それよりなにより、この時間になっても光がともっているのは、ここと、少し先の新聞社程度のものだ 僕は少し息をして、隣の昴に目をやる。建物から漏れる光を受けて、彼の肩は大きく上下しており、緊張が伝わってくる。かく言う僕自身の心臓の鼓動(ブルー・ハンマー)も、その持ち手をブランコから落ちたばっかりのピエロに預けてしまったかのようにめちゃくちゃな代物だった。僕も、そして多分昴も、こういう場面で後ろに自分だけに見えるおしゃべりなデジタル・モンスターがいることが普通になってしまっていて、自分の身一つで緊張に立ち向かうことがどんなにキツいことだったか忘れてしまっていたようだ。 「富田、大丈夫か?」 「……ああ」 「段取り通りやればいい。話すべきことを、話すべき相手に話すだけだ」 僕の問いかけにも、彼は軽くうなずくばかりだ。しかし贅沢は言っていられない、もし再びネオヴァンデモンが彼の背後に戻ってきたら、すべてが台無しになってしまう。マミーモンが彼と戦っている間にすべてのカタをつける必要があった。昴なら、彼の話を聞いて僕が即席で立てた段取りにもうまく乗ってくれるはずだ。そう願いながら、僕はスマートフォンをポケットから取り出し、伊藤を呼び出す。 「……ああ伊藤さん、僕です。春川です。警察の皆さんはお元気にしてますか? 情報提供者を一人引っ張ってきましたよ。ええ、そうです、学校帰りにです。そういう部活やってるもんで。情報提供者引っ張り部。分かったらさっさと出てきてください」 そうまくしたて電話を切ると、僕は再び昴の方に顔を向けた。 「よし、警察がきたら、何を話せばいいかはわかってるよな? 大丈夫だ。伊藤は話の分かる警官だから」 彼は無言でこくりと頷き、大きく深呼吸をすると、僕と共に自動ドアの開閉音の中に踏み出す。そして広間の奥のエレベーターが開き、伊藤が僕に向けて手をあげて挨拶をした瞬間に──。 「──ッ!」 昴が、僕のみぞおちに手刀を叩きこんだ。 「お。おい、何するんだ!」 うずくまってせき込む僕の頭上で、伊藤の声が響く。肩にかけた鞄の紐を昴が引っ張るのに気づき、必死にそれを握り締めたが、その瞬間に、二度目の衝撃が、今度は腹にきた。357マグナムでもくらったみたいな感覚だ。しかし少なくともそれは拳銃じゃない、結果として僕はまだ生きている。雨ざらしのボール紙に火をつけたみたいにくすぶった息をしながら、僕は目に浮かぶ涙の向こうに、自分の鞄が取り上げられるのを見た。 「おい、彼から離れろ!」 「離れますよ。でも俺は脅されてたんだ。この中身を見てくれ!」 昴の声に続いて、がさがさと鞄の中身を探る音がする。結果は見なくとも分かっている。いくら天下の不良警官と言えども、第三者の前で明らかに法に触れる刃渡りのナイフを見逃す度胸はないはずだ 「早苗君。これは……」 「言わなくてもいいです」 呆気にとられた様子の彼の前で、僕は立ち上がり、制服についた土を払う。大丈夫。どんな探偵たちだって一発くらってうずくまるくらいはしている。そう自分に言い聞かせて顔をあげると、視線の先に、昴の鋭い眼があった。そこに浮かんだ普段の彼からは想像もつかない怒りに、背筋が粟だつのを感じる。 「……二人とも、とにかく署の中にくるんだ。手錠は掛けないでおこう」 そう言って伊藤は僕たちの視線の間に割って入ると、半ば強引に背中を押して、僕の体を警察署の方に向けた。 「そんなに押さなくても、自分で行きますよ」 そう言って、僕は小さく短く口笛を吹く、信じがたいという目を向けてくる伊藤と昴に見えないように、僕は唇の端を大きく引き上げた。 全てが思い通りに行かないのは初めから分かっている。もとより切札ジョーカー不在、負けの込む中で僕が始めたテキサス・ホールデムだ。笑顔でショウダウンを迎えるには、鉄板の上で踊る奴隷さながらに、必死のステップで道化ジョーカーを演じ切るしかない。 みぞおちはまだずきずきと痛み、息をするのも苦しい。それでも、しっかり立ち上がって澄ましていられたのなら、立派にマーロウ映画の代役をこなせる。一番はボギー、二番は僕。合言葉は決まっている。 “タフでなければ生きていけない”。 鞭を取るのは僕。席に着くのは君。さあ、哲学(ハード・ボイルド)の時間だ。 ***** 「……まったく、よくやるものだね」 目の前に現れたマミーモンの蹴りを、手のひらに作った紫の逆巻く渦で軽くいなしながら、ネオヴァンデモンはくすくすと笑う。少しも指を触れていないのに大きく地面にたたきつけられた体をアスファルトから起こしながら、マミーモンは土気交じりのつばを吐き、悪態を突いた。 「ったく、俺よかずっと死霊の扱いがうまいんじゃねえのか」 「当たり前だろう。体が腐り落ちたとて、私は“月光将軍”だ。いや、腐り落ちたが故に“月光将軍”なのかもな」 「へっ、勝手なこと言ってやがる」 「そう言えば君は決して腐らない男だったね。私の最高の木乃伊。そういうところが、私は好きだったのかもしれないな。誰しも、自分とは違うものを欲するものだ」 「俺はモノじゃない。ましてやテメェのモンじゃねえ!」 そう叫んで彼は手の中に生成した鉄の塊を放る。それ──銃口の口をふさがれ、ただの鉄の棒になった“オベリスク”──を軽く受け止めると、ネオヴァンデモンは呆れたように軽く笑う。 「しかしどうだ? 腐り落ちた私と、決して腐らぬ君との戦いは、ここまでお粗末じゃないか。使えなくなった銃を私に投げつけて、それが奥の手か?」 「勝手に言ってやがれ。その気ならすぐにでも俺を狂わせられるくせに、放っておいて弄んでるつもりなんだろ」 「違うね。元より今の君は私には理解できない。狂わせたところで、面白みはないさ」 「自分に分かんないことを言う奴はみんな狂ってる、ってか」 肩で息をしながら、マミーモンは鋭い目で相手を見据える。 「忘れんなよ。あんたと俺は真反対さ。でも、一つだけおんなじことがある」 そう言って、彼は再びネオヴァンデモンにとびかかる。紫色に輝く渦の向こう側のネオヴァンデモンを見据えながら、彼はにやりと笑みを浮かべた。 「──あんたも俺も“不死身”なのさ。でも俺のは、あんたのとはわけが違う」 「ほう? どう違うんだい?」 「魂が、さ」 彼の言葉に、ネオヴァンデモンはけらけらと笑う。 「そんな風に青臭いことを口にするようになるとはね。バカげている。私のお気に入りの木乃伊は、どこかに行ってしまったようだ。そういう君には、もう興味はない」 そう言って彼は、だらりと下げた腕を持ち上げた。その手に、何かを握りつぶすように力がこもる。その瞬間に、マミーモンは悲痛な叫び声をあげた。掌の中の容積が小さくなるに連れて、その声が大きくなっていく。 「お望み通り、これで終わりだ」 ネオヴァンデモンが手にぐっと力を籠めようとした瞬間、彼の手の中に感覚がなくなった。ふっと彼が眉を上げた瞬間に、その懐の中、彼の顎の下で、マミーモンが鉤爪を振り上げた。その手の軌道に走る紫電を目で追いながら、ネオヴァンデモンの瞳に初めて屈辱の色が浮かぶ。 「……なんだい、今の動きは」 「さァな、俺も知らねえ。……とにかく、テメェに一発入れてやった。一発入れてやったぞ!」 ネオヴァンデモンから距離を置いて着地しながら高笑いをあげるマミーモンの耳元で、一陣の風が吹いた。 ──ははは、ぼくのおかげでお前は奴に一撃決められたってわけだ。 「……おい、待てよ。まさかブラックラピッドモンか? 勘弁してくれ」 ──死霊の声を聞けるってことは、当然ぼくの声も聞けるってことだ。考え付かなかったかい? 「こんな風に話しかけられるとはな。確かに早苗に同情したくなってきたぜ。……おい、なんで手を貸した。このクソ野郎」 ──ぼくをあんな風に殺した奴に意趣返しがしたかった。ってとこかな。本当は直接文句を言えればよかったんだけど、ネオヴァンデモンの奴は死霊の力を使うばっかりで、ぼくらの声なんか聞けないらしいぜ。 「おいおいマジか。そいつは……とんだお笑い種だな」 そう言いながら笑い続けるマミーモンを、ネオヴァンデモンは怪訝そうに見下ろす。 「何がそんなに可笑しい?」 「アンタにもできないことがあると知って嬉しいのさ。これは早苗の受け売りなんだが──」 その言葉と共に、彼は鉤爪を天に掲げる。 「“悲しい物語の中で、唯一誰かの為に話を聞ける人物、誰かの思いを背負うことのできる人物“。どうやら、それが俺の、探偵の役目らしいぜ。聞こえたか! 死霊ども!」 彼の言葉に呼応するように、その手の先の鉤爪に紫の雷撃が集まり始める。 「よお、サイバードラモン、元気してたか」 ──気にしてないよ。キミが怒りに任せてボクを殺したことについてはね。実のところ、他の誰より、キミの味方をしたい気分なんだ。 「それは嬉しいね。デスメラモン。テメェはどうだ?」 ──ヤヨイはどうしている? 「ま。それだよな。ネオヴァンデモンたちに任せるより、俺たちに任せる方がマシだ。ま、そこんとこ分かれよ」 ──今のヤヨイはそれなりに笑っている。それを信じよう。 「みんな物分かりが良くて何よりだ。」 そう言いながら死霊との会話を続けるうち、マミーモンの手に紫電が走り、やがてそれが一つの形を成す。次の瞬間には一丁のリボルバー──死霊たちの思いを託した銀の弾丸を込めた銃口が、ネオヴァンデモンを向いていた。 「……ほう、予想外の展開だ」 「それはもっと後に、こいつを喰らってから言うセリフだぜ。ネオヴァンデモン。こいつはテメエへの憎しみ、或いは俺への想いで作られた拳銃だ。死霊の話を聞かずに、ただ利用するだけのお前には一生作れない、“探偵”の俺だからこそ作れた拳銃だ」 そう宣言し、彼は今だ笑ったままの敵に拳銃を構える。 「──さあ、行くぜ、ネオヴァンデモン。拳銃(ハード・ボイルド)の時間だ」
終-3 桃色の虫/示された真実/灰色の部屋のこと
「しかるべき人に話をさせてください。どういうことなのか、説明します」 「当然だ。でもその前に、ぜひ君から説明を聞きたいね」 もう来るのは何度目かの取調室。先日の白井との話の時のような余裕はもうない。目の前の伊藤の質問をいなすので精いっぱいだ。 「富田はどこです?」 「今の君と彼を引き合わせられると思うのかい? 被害者と加害者だよ。彼とは金沢警部が話をしてる」 「……僕の家族には連絡しましたか?」 こればっかりは僕にはコントロールができない事柄であり、探偵が高校二年生に向かない職業である理由の一つだ。声に滲んでしまった不安を感じたのか、伊藤は皮肉気な笑いを浮かべた。 「僕の仕事になってるが、今はこっちが先だ。天下の春川君と言っても、パパママは怖いのか」 「しょうがないでしょう。実家の母を鰆町行のワンマン電車に乗っけるのは忍びないですからね」 ふんと笑いながら、伊藤は椅子の背もたれに体を預けた。 「正直、君に説明の時間を与えたいのはやまやまだ。俺たちには説明できない事情がごまんとあって、こうなったんだろうからな。俺個人の感情としては、守ってやりたいのも確かだよ。けれどさ、こうなったからにはどうしようもない。」 さて。そう言って伊藤は机に肘をつく。 「まもなく富田源治議員がやってくる。単に被害者の保護者としてだが、我々も代議士には弱いんだよ。加害者には厳しい処置をということになるかもしれない」 「分かりますよ」 その通り、警察がいかに無力か、僕は十人の探偵の十通りの言葉で説明できる。折角だから十一個目も加えるとしよう。十戒を書き換えるわけじゃなし、ノックスも許してくれるだろう。春川早苗曰く、このクソッタレ、だ。 「君は富田昴くんとそのお父さんの前で、状況の弁明をすることになる。もちろんその前に、君のご両親に連絡したうえ、立ち合いを求めたり弁護士を雇ったりすることが……」 「その必要はありませんよ。やってもいいけど、多分後悔するのはあなたたちだ」 「……随分余裕みたいだ。いいのかい? 強がったって誰にも届きやしない。今は、より良い手を考えるべきだと思うけれど」 「分かってないなあ。伊藤さん」 僕は目の前で呆気にとられた顔をしている伊藤の顔を見上げると、唇の端を引き上げた。 「最後の手は、もうすでに打ってるんです。僕が目下考えているのは、次のデートのことですよ」 「……そううまくいくといいんだけど」 彼が息を吐くのとほぼ同時に、短いノックが静寂を破った。やってきた警官を何やら話をして、彼は僕の方を向く。 「そら、議員がやってきたよ」 僕は頷いて椅子を立つと、大きく息を吸う。このトラブルともそろそろお別れだ。せいぜい立派に踊るとしよう。 「ところで、伊藤さん」 「……なんだい?」 ドアの光の一歩手前で立ち止まり、僕は唇を引き上げると、小さく口を開いた。 「僕の桃色の虫は、この部屋まで上がってきましたか?」 伊藤が何か言おうとする前に、僕は灰色の光の中に飛び出した。
*****
「……何の話をしているのかな」 真っ白い面会室、僕の真向かいに座った富田源治議員はゆっくりと息を吐きながら、怒気を含んだ声を発した。その隣で頬杖をついている昴も、緊張を隠してはいるようだが、その肩はこわばって震えている。僕の背後の伊藤はきっと訳が分からなくて頭を抱えたくなっているだろう。ほんとの話、この警官をさんざんに振り回すことのできる喜びを原動力に僕は前に進んでいるのだ。 「私はてっきり、息子への謝罪を聞けるものだと思っていたんだがね」 「やめろよ親父、今日はもう一つ、話があるんだ」 「そう。略式法廷で僕を死刑にするなら、悪いけどまた今度ってことで」 「口を慎みたまえ。謝罪をしないのは自由だが、高校生にもなって、しかもこういう場で滑稽な夢物語を語りだすのは恥ずかしいと思わないのか。人間に取り憑く怪物で、それが人を殺して回っているって? そんな話を聞きに来たんじゃない」 「……本当なんだよ、親父」 唐突に昴がぽつりとつぶやいた言葉に、源治は驚きを隠す暇もなく振り返る。 「昴、お前まで何を言ってるんだ。彼に何を吹き込まれた? 交友関係には気を使っているものと思っていたがな」 「春川はまともだよ」 「夜中に人気のない通りをうろついて、一日二日で顔に痣を作ってくるような人間がか?」 「ちょっとちょっと、親子喧嘩はやめてくださいよ。とにかく今は僕が完璧に正気だって仮定の下に話を進めましょうよ」 「君の方に話をする気がまるでないのに?」 「話をする気がないのは貴方の方でしょう? 富田源治さん。あなたはもっと前にここに座って。もっと別の話をしているべきなんだ」 「何の話だ」 鋭い目で僕を見据える彼を睨み返す気にもなれず、僕は息を吐く。小さいころからあこがれていた科白がある。何度も自分がそれを言うシーンを夢に見たものだ。でも、実際にこの場にあるのは、その科白を言うのが嫌で嫌で、無駄話で本題をなるべく先送りにしようとするガキの姿だ。 でも、言わなきゃいけない。
「富田源治さん。──あなたが、坂本を殺したんですね」
ああ、まったく、最悪の気分だ。
*****
「この数日間、色々なことを考えてみました」 何を言う、そもそも坂本なんて奴のことは知らない。大声でそんなことを言おうとした富田源治をきっぱりとした口調で遮り、僕はすぐに話を続ける。小説の探偵なら、犯人を名指しした後たっぷりと余韻を持たせるのだろうが、僕にはとてもそんな真似はできない。隙間なく語れ。余計なことまで詰め込んでとにかく語れ。散々人の話を聞いたこれまでの分語りまくれ。そうすることでしかハイに慣れないクソッタレのジャンキーに、エドガー・アラン・ポーが探偵と名を付け、アーサー・コナン・ドイルがヒーローに仕立てやがったんだ。二人とも死んでなかったら僕が殺してるとこだ。
「事件に関係する人物の中で、非合法の写真を売る組織とコネクションを持てたのは誰か。ただのコネクションじゃない。特別で上等でないといけない。遠野さんは貧乏人相手の稼ぎでロレックスを買ったんじゃない」
『良くわかんねえけど、これ、そんなに儲かるのか?』 『さあね。小説では、こういうのは議員や医者によく売れるけど』 パンドーラ・ダイアログの中で初めて例の写真を見たときに僕が何気なく言った科白。そこが鍵の隠し場所だった。戯言まみれの妄想から出発した探偵にとって必要なものは、妄想の末にうそぶく戯言の中に初めからそろっていたのだ。 リズムはもう決まった。マーロウにもアーチャーにもなれない、いつだってワン・ツー・スリーで躓く格好のつかないミステリ・オタク。でもそれが僕の在り方だ。そんな僕自身としてなら、フレディにも負けない無様な足踏みをきめられる。ウィ・ウィル・ウィ・ウィル・ロック・ユーといこう。
「セオリーを重視するんだったらここに“作家”も加えたいところだけど、生憎今回の登場人物に作家はいません。なんにせよ、その人物はかなりの有力者だった。」 「おい君、このバカ話を終わらせろ! それが君の仕事だろう!」 僕の話を遮り、富田源治は僕の背後にいる伊藤に声をかける。正直、振り返るのが怖かった。伊藤に話を止められ、部屋を叩きだされて家庭裁判所に送られる可能性について、僕はこれっぽっちの対策も練っていない。伊藤の好奇心と、ここ数日で彼との間に生まれた奇妙な親近感だけを信じるしかなかった。 背後で音はしない、伊藤はいつものように壁にもたれて、あの憎たらしい顔で憮然としているようだった。 「まあまあ議員。最後まで話を聞いてみましょうよ。どうせ穏やかに話をまとめて彼を帰すつもりはもうないはずだ。法廷に備えて彼の異常行動を集めておくのは、そう悪くない選択だと思いますね」 その言葉に、こっそりと不安そうな目を向けてきた昴を、僕は小さく首を振って安心させる。確信できる、伊藤はもうすっかり、このパーティの踊り娘だ。でも奴はせいぜいバックダンサー、メインは僕だ。奴には僕がロシアの外交官を誘惑し、その首に誰にも気づかれず蛇毒を注射するのを傍観することしかできない。ああ、少しだけ気分が晴れた。 「弁護士ならもう間に合っている。君は警官だぞ。こんなことが許されると……」 「ほら、もういいでしょう。貴方は貴方の科白をしっかり喋るべきだ。僕の推測に対する答えは“なんでそんなことが言える?”の一択です。そこで僕が再び語りだす」 伊藤をなおも攻めようとする源治を制し、僕は言葉を続ける。 「なぜ僕たちの話題の中心にいるミスターXが有力者だと言えるのか? 彼は盤石で大きい組織を“急かすことができる”からです」
『こっちからの異常事態の説明に、向こうは焦っていたようだった。そうだな……。外部の誰かに、せっつかれているような感じだった。ぼく達に、本来やるべきでない仕事をさせようとしたりね』 坂本の失踪を知ったときの組織の上役の反応を、白井はそう表現していた。
「組織の部外者でありながら、組織を焦らせ、おまけに金を払って急ぎの殺しまでやらせようとした。誰のことか分かりますか。僕ですよ。自分に二千万の賞金首だった瞬間があったことを、僕は一生忘れないでしょうね」 僕の科白に、昴が具合が悪そうな顔を僕に向け、何事か言おうとして口を開く。彼には最小限のことしか話せていない。父親が犯人である事件の全貌は、他の聞き手と同じくこの場で知るのだ。酷い顔なのは無理もなかった。そんな中で、僕に対する心配を表そうとしてくれるとは、まったく奇跡みたいな青年だ。
──でも、うるさいな。少し黙れよ。語り手は僕だ。
僕がぶつけた鋭い視線に、昴は驚きと、少しの恐怖を目に浮かべ、やがて諦めたように肩を落とした。 「……それで? 春川、長々喋ってるだけで、まだミスターXは“組織につながりのある金持ちの有力者”ってことしか俺には分からない」 それでいい。百点満点だ。僕は語り続ける。 「良い指摘だよ。富田。ここからは駆け足で行こう。この事件を複雑にした二つの要素。一つはみなさんご存じ“デジタル・モンスター”」 「まだそんな妄想を……」 僕は首を振って富田源治の抗議を無視する。もとより彼に納得してもらおうとは思わない。嘘をついているだけでモンスターのことはしっかり知っているはずだし、ここで言う“みなさん”に含まれるのは、僕と昴、即ち、ホームズ気どりとハリボテのワトスンの二人だけだ。 「──そして、もう一つの要素は“複数の犯人”です」 背後の伊藤の視線が突き刺さってくるのを感じる。分かってるじゃないか。ここからが見せ場なんだ。 「組織の存在に気づいたときから、僕はずっと敵は一つだと思っていた」 いや、正確には、ビルの上で遠野老人を見下ろすデスメラモンを見た時からだ。まあ、それは必要のない話だ。 「でも、調べるにつれ、不可解なことが増えてきた。犯人像がまるで焦点を結ばないんです。当然ですね。焦点は幾つもあったんですから。いや、具体的な数で行きましょうか。三つ、焦点は三つです」 ふう。ちいさく息をついて、僕は指を一本立てる。 「一つ目の焦点は社会の裏で暗躍し、利益を追求する組織。彼らは何をするにも細心の注意を払い、尻尾を掴ませない。救急救命士を殺し屋に仕立て、不本意にも急がなくてはいけない殺しにも、決して捕まらない暗殺者──デジタル・モンスターを使う」 サイバードラモン、そしてブラックラピッドモン。彼らは組織のとっておきの殺し屋として、見事に仕事をこなしてきたのだろう。 「二つ目は恋に焦がれた男。彼は今回の事件のしがらみにはほとんど関係ありません。けれど、彼の狂愛からくる行為は、結果的には事件を、他の全ての人物の思惑から大幅に逸れた場所に運んでいきました。彼については多くを語る必要はないでしょう。彼はデジタル・モンスターで、既に死んでいます。実際のところ、彼は三つの焦点の中で僕が最も同情を寄せる男です」 デスメラモン。二つの世界を渡り、どちらでもはみ出してしまった男。彼の最期については詳しく聞いていない。彼がどこかに居場所を見つけることを祈るばかりだ。 そして僕は唇を噛んで今なお毅然とした表情で座っている富田源治に目を向ける 「そして三つ目──われらがミスターXですよ。彼はずっと焦っていました。実際のところ、今も焦っています。彼は持ち前の権力で組織の尻を蹴飛ばし、連中の窓口である遠野さん、ひいては逃げた坂本を殺させようとしました。でも結局、彼は、自分の手で坂本を見つけ出し殺した。出会い頭にナイフで胸を三回。あまりに衝動的だ。坂本はミスターXの逆鱗に触れてしまったんだ。なぜなら彼は坂本に──」 そう言って、僕は胸ポケットに右手を差し込み、白い四角形の紙片を取り出す。 「自分の大事な人を……」 「……その写真を出すんじゃない!」 紙片を机に置こうとした僕の目の前で、富田源治が声にならない叫びをあげ、動いた。僕の手から紙片を奪おうと拳を向けてくる彼の隣の昴、そして僕の背後から飛び出した伊藤に押さえつけられながら、彼は大声で叫んだ。 「やめろ、何の為に、これ以上セナを汚す必要がある!」 涙を流しながら、彼は子どもの様に続ける。 「学校帰りに、奴はあの子を攫った。あの子は、何かを注射されたそうだ。殆ど覚えちゃいない。だが、これがどういうことか分かるか? あの子はな、あんなに小さい歳で、自分が女だということを思い知らされたんだ。最悪の形でな!」 「あなたが組織の客として消費してきた、他の多くの女の子と同じように、ね。あなたと組織の繋がりはそれだ。あなたは、客だったんですね。それも、上得意の」 僕はそう言って、手の中の紙片──何も映されていない只の真っ白な写真紙を彼に見せる。それをぽかんとした顔で見つめ、彼は力なく椅子に腰を下ろした。 「どうやら、部屋を変えた方がよさそうですね。……春川くん、あとで話がある」 そう言って伊藤が肩に手を置いても、源治は力なく従うばかりだ。ただ、部屋を出る直前に、彼は振り返り、きっと議会でも振りまいていたであろう強い視線で僕を射抜いた。 「……楽しかったか? “登場人物”に“科白”、そして推理ショーだ。物語の主人公になるのは、さぞいい気分だったろうな。我々の人生をお遊び気分でひっかきまわすのは、楽しかったのか?」 フィリップ・マーロウなら黙って見送るところかもしれない。けれど僕は、そこまで上等な主人公ではいられなかった。 「実際のとこ、あなたの質問に答える気にはとてもなれません。同じ質問を、少し前に友人から受けましたよ。僕は答えて、彼は受け入れてくれた。立派な奴です。忘れませんよ。そんな立派な奴の前で、あなたが同じ問いを憎まれ口に使ったことはね。奴の父親の、あなたがです」 その瞬間になって初めて、彼は椅子の上でこぶしを握り締めて、虚空を凝視しながら座っている昴に気づいたようだった。そんな顔だった。 「待て、昴。私は──」 その言葉が届く前に、ばたり、と音を立てて、灰色のドアが閉まった。僕は、ぴくりとも動こうとしない昴に何か声をかけようとして、思いとどまり、ポケットに手を突っ込んで、壁にもたれると、変わりばえのしない灰色との、永遠にも似たにらめっこを始めた。
*****
「よお、いい傷こさえたじゃねえか」 「ふん……」 そう言って、ネオヴァンデモンは胸から流れる黒い液体を拭う。 「私の体に傷をつけるとはね。まったく、大したものだ」 そう言っている間にも、彼の胸の穴は少しづつ埋まっていく。 「……ったく、憎たらしいったらねえぜ」
──同感だね。さあ、もう一発と行こうじゃないか。
──とはいえ、このままじゃいくらも持たないだろう。
──ヤヨイを守ってもらうために、生きて帰ってもらわないと困るんだが。
「全員黙ってろ。てめえらの誰とも相棒になったつもりはねえ」 「新しい得物にはまだ慣れないかい? まあ、なんにせよ……」 勝負は変わらない、そう言ってネオヴァンデモンが伸ばした手の先に、一匹の蝙蝠が降り立った。小首をかしげ、彼はもう片方の手の指で蝙蝠の喉を撫でる。 「うん、おかえり。どうしたんだい? ……そうか」 何かを語り終えた蝙蝠の体が崩れ、どろどろの液体になって自分の手の中に吸い込まれていくのを見届けると、彼はマミーモンの方を向いた。 「少年たちの方だが、決着がついたらしいよ」 「おう、どっちも生きてるか?」 「ああ、おまけに二人は協調路線を取り、事件を見事に解決したという。……つまらないね」 彼の言葉に、マミーモンは大きな笑い声を夜に響かせる。 「早苗、やったか。じゃあ俺たちも……っておい!」 マミーモンがリボルバーを向けると、そこには既に誰もいなかった。夜の風に乗せて、彼の耳に声が吹き込む。 「今日はこれで終わりにしよう。なんだか興をそがれてしまったよ」 「おい、ふざけんなよ! 続けてたら負けるかもしれないから逃げたのか?」 「面白い冗談だね。しかし確かに、君がそんな無粋な銃を手にしたとなると、部下への勧誘も考え直さないといけないな」 「はっ、よく言うぜ。また何か思いついたら来るんだろ?」 「私に執着されていると思いこめるとは、君もまた幸せ者だね。それでは、私はこれで」 その挨拶と同時に吹き去ろうとする風に向けて、マミーモンはにやりと唇を引き上げると、声をかけた。
「おい、ネオヴァンデモン、楽しめたかよ?」 「ああ、もちろん楽しんだよ」 そうして、ワンテンポ置いて、夜風が悔しそうに付け足した。
「……君たちほどではなかったけどね」
エピローグ
「いつ、富田議員を怪しいと思ったんだい?」 喫茶〈ダネイ・アンド・リー〉のカウンターの向こうでマスターの発した問いに、僕はコーヒーを一口啜って首を振る。今日の彼は上機嫌でルー・リードのレコードを朝からひっきりなしにかけていて、たった今も、もうすっかりうんざりしたような声のフォー・カウントと共に今日何回目かの『ロミオ・ハド・ジュリエット』が始まったところだった。ロミオにはジュリエットがいて、ジュリエットにはロミオがいた。 「正直自分でもわかりません。ただ、坂本と話した時からずっと引っかかっていたんですよ。アイツはいったいどんな虎の尾を踏んでしまったのか、ってね」
『うるせえ、アレは仕方なかったんだよ。意味わかんねえ。ジジイも急に俺を組織に突き出すとか言い出しやがって。自分も散々やってきたことじゃねえか』
あの時、坂本はそう言った。彼がとんでもない何かに手を出したのは間違いがなかったのだ。 「そう考えていた時、たまたま車に乗った彼が目の前を通った。それだけのことです。昴に聞いたら、時間はぴったりだった。彼は少し、昴達を迎えに行くのが遅れたそうです。ちょうど坂本が殺された時刻、彼は一人だった。あとは動機だけ、それで思い付きで娘のことを調べてみたら、ビンゴだったってわけです」 「彼が坂本を見つけたのは、偶然だったのかい?」 「そうだったんだと思います。もしかしたら、組織が居場所を探り出して、真っ先に彼に知らせたのかもしれません。あの時点で、彼は既に完全に組織の動きを掌握できていたでしょうから」 僕の言葉に首をかしげるマスターに、隣で何個目かの砂糖をカップに放り込みながらマミーモンが言う。 「あの時ブラックラピッドモンが狙ってたのは、女の方じゃない、あの昴ってガキの方だったんだよ」 慎重な組織にしては、大きな下手を取ったことになる。おそらくは、坂本の首を銀の皿に乗せて出せと要求してくる源治との関係に嫌気がさしたのだろう。彼の息子にも手を出し、自分に有利な形で関係を清算しようとした。彼が顧客であるという情報自体が組織にとっては既に切り札だ。うまくやれると思ったのだろう。 「でも、組織の連中もびっくりしたでしょうね。ターゲットには、とんでもなく強いデジタル・モンスターがついていた。あの時ブラックラピッドモンとマミーモンの戦いの現場にネオヴァンデモンが居合わせたのは、たまたまなんかじゃない、始めからブラックラピッドモンを殺すつもりだったんですよ」 結局のところ、富田源治がモンスターたちの存在を知っていたかは分からない。僕はそんなのお構いなしに喋ってしまったし、今となっては知る術もない。けれど、僕の話に対する反応を見る限り、きっと知っていたのだろう。組織が使っている便利な殺し屋とでも認知していたのかもしれない。 「ちょっと待ってください。その犯人さんは、どうやって昴さんが襲われかけたことを知ったんです? そしてどうやって、早苗さんが坂本さんの殺害現場にいたことを知ったんです? だって知ってたから、彼は殺し屋を早苗さんに差し向けたんでしょう」 僕の手元で、文庫本の中から特大の疑問符を僕にぶつけてくるのはワイズモンだ。この数日間で鰆町の住人一同──悲しいことに彼の告訴状にあるリストには僕もマスターも含まれている。でも、本をぶん投げたのはマスターの方だ。僕じゃない──から、本が本来受けるべき扱いとはおよそかけ離れた扱いを受けてッ吹っ切れたのか、声のボリュームは前よりも大きくなっている。客の大半は耳が遠いのは知っているが、僕としてははらはらせざるを得ない。僕とは対照的に、周りの客には無頓着な様子のマミーモン(本人が包帯ぐるぐる巻きの顔で普通に席についてるのだ。当然と言えば当然だ)が、僕の代わりに質問に答えた。 「ネオヴァンデモンだろうさ。あのおっさんに早苗のことを吹き込んだのも、テメェの息子が襲われたことを吹き込んだのも、きっとアイツだ。案外、あのおっさんに取り憑いたふりで取り入ってたのかもしれないぜ。デスメラモンが坂本に使った手口だ」 とにかく、彼は自分の息子がデジタル・モンスターに襲撃されたことを知るや否や、行動に移った。組織はしらをきりとおしたんだろう。だが、暗殺しようとして失敗したことはバレている。とんでもなく強いモンスターが彼の側についていることも分かっている。彼の言うことに従い、僕を殺そうとするより他になかったのだろう。 「もっとも、これに関しちゃ証拠は何一つねえがな」 「でも、他の可能性は存在しないことも確かです」 「“すべての不可能を除外して残ったものがどんなに奇妙なことでも、それが真実だ”だね」 「マスター、早苗に言わせてやりゃいいのに、人が悪いなあ」 「……別に、今更ホームズの手あかのついた言葉なんか引用したくないです」 「ほおら、拗ねちゃっただろ」 「うるさいぞ、マミーモン」 と、笑いに満たされた一座の真ん中で、文庫本が不安そうにつぶやいた。 「……で、当のネオヴァンデモンはどこに行ったんですか?」 「ああ、結局あれ以来行方知れずさ。依り代になってたあのガキも、その親父も、日に一回は俺が霊体として様子を見に行ってるが、それらしい気配はねえ」 「もう狙われる心配はないと?」 「さあな、でも俺も、もうアイツに無力じゃねえ」 「ば、ばか、拳銃しまえって」 マミーモンがにやりと笑って、紫の電撃と共に手の中に作りだしたリボルバーを、僕は慌てて引っ込めさせる。新しい武器を見せびらかせずに不服そうな彼を抑えながら、僕は苦笑いをマスターに向けた。 「奴のことだ。元の世界に戻ったかもしれないし、他所の誰かの事情をひっかきまわしてるのかもしれない。不安要素としては、奴に約束した組織に与するデジモンの捜索がまだだけど、それはおいおい探していけばいいですよ」 「でも、リミットがあるでしょう? “月に飽きるまで”、あまりのんびりは……」 「心配すんな、エロ本」マミーモンが肩をすくめる。 「そのあだ名、風情がなくて嫌なんですけれど」 「なんか言ったか? とにかく、大方今頃奴は、“月に飽きるまで”って約束そのものに飽きちまってるよ。そういう奴なんだ。だから心配すんな」 「だけど、早苗さんご自身だって脅迫されてたことに変わりはないわけですし、悠長には……」 「ああ、その事なんだけど……君たちに見せたいものがあったんだよ」 そう言って彼は、店の奥から引っ張り出してきた今朝の朝刊の見出しを示す。彼の指の先の記事を覗き込んで、僕とマミーモンは絶句した。 「昨夜遅く、市内某所で複数の銃声が聞こえたという通報があって、警察は裏通りに面するオフィスビルに踏み込んだらしい。不思議なことに死者はおらず、そのビルに勤務していた人々は全員、銃、ナイフ、あるものはボールペン、手近なもので自らの足の甲を貫いて泣きじゃくっていたそうだ。未だに錯乱状態のものもいて、警察は調査を続けているそうだよ」 「そして押収された証拠から、そのビルは殺し屋救命士騒ぎで新聞を日夜にぎわせている組織との間に繋がりがあったと」 「繋がりどころじゃない、ほとんど本拠地って話だ。おまけに、これは客から聞いた話なんだけどね」 今更秘密の話をするように、彼は声を潜めた。 「通報した人の多くは、銃声の他に、なにか動物の叫び声のようなものを聞いているそうなんだ。それはまるで……」 「やめてくださいよ。今の僕には妙なたとえ一つで思い出すものが多すぎる」 「ああ、悪いね」 「とにかく、あのクソ野郎は言われた仕事をきっちりこなしたってわけか。アイツが向こうの世界でちまちま中間管理職やってると思うと気分がいい。今回の件じゃ、アイツに引っ掻き回されて勝ち逃げされちまったからな。おまけにいつ戻ってきてもおかしくないと来てる」 ため息を吐くマミーモンに、僕は笑いかける。 「大丈夫だよ。フィリップ・マーロウ曰く“夜の空気の権利を取っているものはまだ誰もいない”。そのあと彼は、誰かがいつか権利を取ってしまうだろうとシニカルにきめてるけど、僕らがいるうちは、夜の権利書は、少なくとも奴にはわたりませんよ。そのための銃もある」 「お、やっと触れてくれたな。見ろよ。俺はこいつで奴の脳天をだな……」 「バカ、しまえって」 もみ合う僕とマミーモンをを眺め、マスターはにやりと笑う。 「本当の探偵や刑事は、そんな風に銃は見せびらかしたりしないものさ。相棒クン。君もまだまだだね」 「なんで人間に銃の扱いを教えられなきゃいけねえんだよ……。ま、とにかく俺らがいる限り大丈夫さ。それに、警察の連中も忙しくて、俺なんかにゃ目もくれないだろ」 「たしかに、これから警察は忙しいだろうね。……それで思い出した。警察に用があるんだ。正確には、警察官に。僕らはこれで行きますよ。マスター、お会計」 僕が取り出した財布を、マスターは目を丸くして見つめた。僕は息を吐いて、テーブルに代金を置く。 「もう依頼は終わりました。いつまでも報酬を受け取るわけにもいきませんし」 「……ああ、そうだったね。だが、今日までは私のおごりということでいいよ」 そう言って彼は右手を僕に差し出した。 「依頼を受けてくれたことへのお礼がまだだったね。ありがとう。またいつでも来てくれ、探偵クン」 僕は少し俯いて、その手を取った。握手を終えると、彼はマミーモンとも拳を突き合わせる。僕は、この数日間何度もそうしたように、彼からもらった肩掛けカバンの紐を強く握り締めた。 「鞄を、ありがとうございました。色々、大切なことを教えてもらった気がします」 「いいんだよ。それより、ワイズモンはここにいていいのかい?」 「ああ。……どうする、ワイズモン?」 一堂に見つめられ、文庫本はきまりが悪そうに少し震えた。 「うーん、まあ、そうですね……ワタクシはもう依り代も失った孤独な身なわけでありまして、目指していた静かな場所での探求もこのようになってしまったからには到底不可能になってしまったわけでありまして……」 「ワイズモン」 「……マスターがよろしければ、もう少しここにいさせていただけないかと思います。どちらの世界でも、一人は寂しいものですから」 「決まりだ。ま、俺たちもちょくちょく顔出しに来るけどな。おい、エロ本、マスターに妙な本調達させるんじゃねえぞ」 「妙な本とは何ですか! どれも高尚な……」 「わ、ワイズモン、流石に声が大きいよ」 僕は一度店内を見渡して、そしてまた賑やかな仲間たちを見てくすりと笑うと、ドアに手をかけ、ルー・リードに別れを告げた。ロミオにはジュリエットがいて、ジュリエットにはロミオがいた。
*****
「きみが無事でよかった」 真っ白い病室のベッドに腰かけたグレーのパジャマ姿の坂本弥生が、軋んだ長い髪を撫でながら言ったのは、意外にもそんな言葉だった。僕が知っている彼女は、自分と、自分の作り上げたガラスの宮殿の中のことしか話さないイカレた女だ。それを思えば、ここ数日での病院の治療は確実に効果を上げているらしい。 「それは僕の科白です。あなたが無事で、本当に良かった。気分はどうです」 「うん、元気。本当は、こんな風にする必要もないのよ。……でも、前よりは食欲も出てきたかな。三食もしっかり食べてるの。嘘、ほんとは伊藤君が毎日三回やってきて、私がご飯を食べるのを見張ってるのよ」 彼女の病的な細さ軽さを自らの背中で味わっている僕としては何も笑い事ではなかったが、それでも、彼女のくすくす笑いにつられて僕も自然と笑った。 「署からここからじゃあ、往復の時間を抜いたら昼休みは十五分も残ってませんよ」 「そうよ。でも、彼は毎日来てくれるの」 「……本当に、元気そうでよかった」 「……そう見えたなら、私もよかった。でも今でも考えちゃうの。今ここにトキオもいたら、どんなにか幸せだろうって。バカみたいでしょ? 見捨てられたのにね」 自嘲気味に笑う弥生を見て、僕は軽くうなずいた。“時間がいずれ解決する”なんて、五つも六つも上の女性に僕みたいな若造が言えた台詞ではない。でも、確かにそんな気がした。彼女がまた幸せになることを、僕は息をするように即席の神様に祈ることができた。 「なんにせよ、今のあなたは前を向いてる。それが全てですよ」 「ほんとに、きみのおかげよ。私をおぶって走ってくれた時の記憶は、正直曖昧なんだけど、それでもとても頼もしかった。恰好よかったわよ」 そう言って彼女が見せた笑顔に、僕は虚を突かれた。初めて彼女と会った時には気づくのに時間がかかったが、彼女はこんなにも綺麗なのだ。勝手に頬が熱くなる。畜生、顔に出てないといいんだけど。僕の動揺を知ってか知らずか、弥生は何かを思いついたように微笑し、部屋の中を見回した。 「あとは、あの背の高い透明人間さんね」
──おう、俺か?
愉快そうに彼女は小首をかしげる。 「彼が音もなく部屋に忍び込んできたときは驚いたわ。ひょっとして彼、今もこの部屋にいるのかしら?」 「ここだけの話、いますよ」 「きみに命を救われて、あの人に心を救われたわ。ほんとの話、病室での最初の夜に一人きりで眠ってたらと思うと、ぞっとするわ。伝えておいてくれる? 素敵な一夜をありがとう、って」
──別にそういうつもりはなかったんだがな……。ま、お前がまともでいてさえくれれば、あのクソッタレのデスメラモンも浮かばれるだろ。
その瞬間に、宙に包帯まみれの手が現れ、弥生の頭にブラウンのハットを乗せた。彼女はその、自分の頭には大きすぎる帽子を呆然としたように眺め、やがて顔を輝かせると、頭から外したそれを胸に抱きしめた。 「……ありがとう。彼がくれたのね」 「え? あ、ああ、そういうことになりますね。あ、僕たちそろそろ行かなきゃ」 「あら、そうなの? それじゃあね。……彼によろしく」
手をふる彼女に一礼して病室から出ると、僕は毒気のある声を背後に向けた。 「おいマミーモン、なんだ今の。彼女、デジタル・モンスターに抜群で効くフェロモンでも出してんの?」
──っば! そんなんじゃねえ!
「あれのどーこが“そんなんじゃねえ!”だよ。え、なに、惚れたの? デスメラモンの霊とチャンネル繋いでおかしくなったの?」
──だから違うっつの! ただ、あれはなんかサービスしないといけない雰囲気だったってだけで……。
「それでマスターのくれた帽子渡しちゃうのもそれはそれでどうなんだよ。ちゃんとお前がマスターに説明するんだぞ。いや、僕がしてやってもいいぞ。マミーモンがキレイなお姉さんに目が眩んで……」
──お、おいよせ! 分かった。マスターには俺から言っとくから。この話はこれっきりだ!
「えー、どうしよっかなあ」 「……一人で何を言ってるんだい、春川君」 「え?」 ふと振り返ると、弥生への見舞いの品らしき果物を抱えた伊藤が、苦笑いを浮かべていた。
「金沢警部は、納得してくれましたか」 市立病院の真白い、と呼ぶには少し古びた廊下に置かれたベンチ。僕は壁に背中を預け、隣に座る伊藤にそう尋ねた。 「とてもそうとは言えないな。特に、君と富田昴くんが、事件の犯人を告発するために一芝居打ったってとこについてだ」 「本当のことなのに」 「芝居に説得力を持たせるために、たまたま拾ったナイフを使ったっていうのも本当だっていうのかい」 僕は肩をすくめる。自分でもお粗末すぎるウソに聞こえるが、数少ない真実なんだから困ったものだ。まあ、僕の部屋の机の上で拾ったんだけど。 「本当ですよ。昔拾ったナイフを、いけないと思いながらもずっと持ってたんです。今回の芝居を考えた時に、すぐあれを使うことを思いつきましたよ。ついでに警察にも届け出られて一石二鳥。僕の中の罪を憎む心は前からこういう機会を待ってたんです」
──馬鹿も休み休み言えって。
「でも、厳重注意のあと、ご両親からはこっぴどく叱られたんだろう?」 「ええ、まあね」
──ありゃ、マジで傑作だったな。
「君の母さん、詫びの電話の中で“早苗は昔からああいう子なんです”って言ってたよ。そうなのか?」 「その話はしたくないです」
──おい、あとで俺には教えろよ。おい!
伊藤の苦笑いよりも先に、脳の裏側で声が響き、僕はくすりと笑った。 「なんだい、随分余裕だね」 「皮肉ですか」 「皮肉くらい言わせてくれ。この狂った事件の解決に至る狂った顛末をきれいにカットして警察のデスク向きにパック成型するために、俺はここ数日碌に眠れてもいないんだ。もっとマシなやり方は出来なかったのか」 「結果論で言えばできたんですけどね。でも、機会があれば犯人が僕を躊躇なく殺すことは分かっていたし、何とかして不意を突くしかなかった。殺人事件の犯人と路地裏で渡り合うんじゃ命がいくつあっても足りない。彼を“富田議員”として呼び出す必要があったんです」
──ほんとは誰にも知らせず渋くカッコよく渡り合いたかったんだろ。できなくてマジ残念だな。
うるさいな。僕は頭を掻く。本当だったら、昴も巻き込まずにこっそり議員と組織の間の怨恨の証である富田セナの顔を確かめ、マミーモンと共に身の安全を確保したうえで対決し、自首を促すつもりだった。けれど、もう散々な運命のめぐりあわせで、それは叶わぬ願いに終わり、僕は小指で人を殺せるモンスターどもが介在する事件の決着に、護衛なしの身一つで立ち向かわなくてはいけなくなったのだ。 「その末に、決着の舞台に警察署の一室を、ギャラリーに犯人の息子を選んだってわけか。一つだけ聞かせてくれ。富田昴くんは、君の企みを知っていたのかい?」 「……彼の父親を出し抜く協力をしてもらうこと。そして父親が何をしたかということについては、ちゃんと協力を求めるときに話しました」 あの時には互いに蹴ったりナイフを突きつけたりした直後だ。そんな状況で、彼は僕に賭けてくれた。いや、もしかしたら父親に賭けたのかもしれない。結局のところ、彼は本当に最後の瞬間になってから、やっと父親のやったことを理解したのだ。 「議員は、モンスターのことを話したりはしてないんですか?」 「ああ、組織の客として女の子を回してもらっていたこと、坂本が娘を攫い復讐のために殺したこと、ここだけに絞った実に見事な話をしてくれている。モンスターだのなんだのの話はしてないよ。仮にしたとして相手にされっこないし、なにより息子に飛び火させたくないんだろう」 「今更、ですね」 「今更、だな。……彼はどうしてる?」 「今週は学校に来てません。連絡には答えてくれます。親戚の家に世話になってマスコミの目を避けつつ、セナちゃんの転校先、それにカウンセラーを手配してるということです」 「立派だな。彼自身も街を去るのかい?」 「まだ、分からないですよ」 「とにかく、君の無茶に付き合わされたんだ。最後まで傍にいてやれよ」 伊藤の言葉に頷きながら、ふと、僕は首を傾げた。 「そういや伊藤さん、デジタル・モンスターのこと何も聞かないんですね。やっぱり知ってたんですか?」 「いや、まさか、初めて聞いたよ」 「それならなんで……」 「でも、聞いたときにはどこかほっとしたんだ。弥生は、錯乱して幻覚を見たわけじゃなかった」 「……」 「正直、そのモンスターに関して聞きたいことは山ほどある。一個人の興味としても、刑事としてもだ」 そうして、彼は立ち上がると、改まったように僕に向かい合った。胸から、いつぞやもらったのと同じ名刺を取り出し、僕に差し出してくる。 「春川君、もし君がこれから、そのモンスター絡みで面倒に巻き込まれたのなら、俺を頼ってくれ。今回みたいな無茶はこれっきりで勘弁願いたいけれど、利かせられるだけの融通を利かせるよ」 僕は黙って、その名刺を眺め、口を開いた。 「そうして、その引き換えにあなたは何を?」 「今回と同じさ。事態の解決だよ」 そう言って、彼は唇をひき上げる。 「安心しろ。僕はこっそり作った合い鍵を現場に置き忘れるようなヘマはしない」 「それを言われると弱いなあ……」 僕は笑って立ち上がり、彼の名刺を受け取ると、踵を返して廊下を去ろうとした。と、彼の言葉が背後で響く。 「僕の桃色の虫」 立ち止まった僕の背中に、彼は笑って続けた。 「持ってくる箇所は悪くないセンスだけど、もし言うなら今のタイミングが正しいよ。事件の終わり。結末について語り合う刑事と探偵。去り際、探偵は言う」 「──では、ぼくは帰るぜ。ぼくの桃色の虫はまだこの部屋まで上がって来ないかね?」僕はそう引き継いで、呆気に取られて振り返った。「マーロウファン?」 「なんて顔してるんだ。君は信じられないかもしれないけど、警官にだってフィルのファンはいるんだよ。それに前に言っただろ。“俺は君とおなじ”」 ──答えは“拗らせきったミステリ・オタク”か? おい、殴っていいか? 二人ともだ。殴っていいか? なんとか言え早苗。せめて俺の代わりにこいつをぶっ飛ばせ。お前の分は俺が担当するから。
すっかり呆気に取られて開いた口が塞がらない僕の後ろで、マミーモンがわめきたてている。そんな様子を見て──伊藤が見たのはがっくり来ている僕だけだけれど──彼はにやりと笑った。 「それにもう一つ君の引用にはミスがあった。マーロウは事件の中での自分の孤独な立ち位置を、部屋にいた一匹の桃色の虫に重ねたんだ。ところが、だ」 そこで一息つき、彼は肩をすくめる。 「どうやら君は孤独じゃない。じゃ、上手くやれよ、“探偵”」 「はっ」 格好をつけてみせた伊藤を、僕は鼻で笑い飛ばして見返す。 「そっちこそ頑張ってくださいね。僕の相棒が、弥生さん狙ってるっぽいんで」 「は? なんだ、どういうことだ」
──おい早苗! さっきから違うって……。
「それじゃ!」 僕は踵を返して歩き去る。伊藤が大声で僕を止めようとして看護師にたしなめられるのを背中で聞きながら、僕は唇の端を引き上げた。 「勘違いしないでよ。最後に決めるのは、僕の役目さ。“警官”さん」
*****
「よお、富田」 僕の通学路からは少し外れたところにある道。国道に跨る歩道橋の上で、僕は手すりにもたれて夕日を眺めている富田昴に声をかけた。そろそろ十一月、部活をはじめとする課外活動にしっかり勤しんだ学生が帰るころにはすっかり暗くなっている。冬に向かうこの季節に夕日をのんびりと楽しめるのは、本来は僕のような帰宅部の特権なのだ。 「……春川」 彼は少しやつれた顔を僕に向ける。事件から一週間近くが立とうとする今日、彼が不意に登校してきたというニュースは、違うクラスの僕の耳にも電光石火で入ってきた。彼に関するいかなるゴシップも聞きたくなくて、僕はこの一週間、彼を案ずる初瀬奈由の問いにも聞こえないふりをしたのである。週末にデートを控えているのにだ。 「ここまで来たってことは、俺と話す気満々ってことだ」 「そういうこと、全ての悩める市民にとっての最悪の聞き手にして最高の語り手、探偵春川早苗がお前と話をしに来たんだ。ときに富田、お前、コーヒーにミルクっていれるか?」 「いつもブラックだけど……」 「じゃ、こっち」 僕は右手に握っていたブラックの缶コーヒーを彼に放る。左手にはミルクと砂糖が入った缶コーヒーが収まっている。昴の好みが分からなくて両方買ってきたはいいが、結局これで僕が甘い方を飲むことになったわけだ。親切というのは割に合わないものだ。 小気味の良い音ともに僕の投げた缶を受け取ると、昴は再び夕日に目を向けた。学ランに趣味のいいマフラーを巻いただけで夕日に照らされている姿が様になる。まったく、二枚目というのはどんな小さな試合でも勝ちを取っていくものだ。早々と試合放棄した僕は、白い息を吐きながら手すりにもたれ、夕日を浴びる車の群れを眺めながら、小さく口を開いた。 「学校、どうだった」 「……ああ、みんな心配してくれたよ。良い奴らだ」 白く細い息と共に彼が短く吐き出した答えに、僕は超弩級の塊を伴うため息で応えた。 「そうか、学校は良かった。世にこともなし。で、お前は?」 昴は俯き、車の音にかき消されそうな、小さい声で答える。 「……最低の気分だった。満足か?」 「いいや不満だね。どのくらい最低だったか教えろよ。クラスメイト全員の首をへし折りたいくらいにか? 余計な気休めを言う教師の指を一本ずつ潰したいくらいに? 道具はどうしたかった? 頼むからありきたりな答えはやめろよ。お互いに言いあってどっちがより凶悪な道具を言えるか競争しようぜ。僕からだ。“スコップ”なんてどう? さ、お前の番だぞ。……なーに笑ってんだ」 オーバーな身振りと共に隙間なく喋る僕にたまらず噴き出し、昴は頭を掻く。 「ったく、春川、どうやったらそんなに次から次へと台詞が出てくるんだ? 真似したいよ」 「簡単に真似できると思わない方がいい。僕はこの域に至るまで、足掛け四年かかってる」 勿体ぶって言う僕に昴はまた笑い、やがていつも見せていたような百点満点の笑顔にいくらか近い、そう、六十五点くらいの笑みを浮かべた。人生とはきっとこういうものなのだ。死ぬときに、生まれ持った笑顔をどれだけ失わずに持っているかを競う過酷な減点方式のテスト。公平性も何もあったもんじゃない、知らないうちに、誰の顔からも笑顔が差っ引かれている。けれど、それでもこのテストは、少なくとも学期末の前野の生物のテストよりかはよっぽどマシにできている。六十五点の笑顔でだって、人は結構幸せになれるからだ。六十五点なんてとってみろ。前野はCをつける。平均点が四十点でも、だ。 「ありがとな、春川」 「別に」 と、彼は一気にコーヒーを喉に流し込み、特別白い息を吐くと、思い切ったように僕に顔を向けた。 「俺さ、街に残るよ。学校にも残る」 「……本気か? 妹さんは?」 「セナは県外の叔父さんの家にやることにした。カウンセラーも評判のいい人がつく。小学生の女の子にはきつい話さ。でも、必要なことだ」 「きついけど必要なこと」 「そうさ。その繰り返しで、世界は動いてる」 「そうかもな。でも、たまには、きついけど必要ないこともしたほうがいい。その道のプロからの忠告だ」 僕の言葉に、彼はからからと笑う。 「分かってるさ。だから俺はここに残る。この街の為にだ」 「……街の為にね」 「バカにしてるか?」 「いいや。僕が大好きな人物もおんなじこと言ってた。“接続を正し、この死んだ街を蘇らせる。フランケンシュタインの花嫁のように”。でもそいつは自分でその事を“きちがいじみた考え”って呼んでたよ」 「そんな話ばっか聞いてると、お前みたいなのが出来上がるんだな」 「言ってろ」 昴は再び夕日に向かい合い、連なる車の列を見下ろす。 「この街は、俺が思ってるほどいい場所じゃなかったみたいだ。でも、俺が知ってるいい街が一部でしかなかったように、醜い部分だって一部でしかない。そこを見てしまったからって、潔癖症みたいに街を捨てたら、一生腰抜けだ」 僕は微笑む。まったく、いちいち言うことのデカい奴だ。 「ま、上手くやれよ。初日でノイローゼなんて、格好つかないぞ」 「ああ、週末もよろしくな」 「え?」
──は?
マミーモンと同時に素っ頓狂な声を上げた僕に、昴は首をかしげる。 「え、いや、だから週末に遊ぶ約束だよ。春川と俺と、初瀬で」 「いやいやいやいやちょっと待ってくれ。来るのか? お前?」 「ああ。聞いてなかったか・」
──あー、そういや「今度どこかで会わない?」みたいな感じで、“二人で”とは一言も言ってなかったな。あの女。
「ああ、そもそもあのライブの後で初瀬が提案したんだ。春川が来なくて残念だから、また近々会う機会を作りたいって」 「え、あ、そうなの?」
──早苗、小さい勝利で敗北から目を逸らすな。早苗。
「あんなことがあったから断ろうと思ってたけど、やっぱり行くことにした。初瀬も何も言ってこないし、予定通り決行てことでいいんだよな。気まずかったらやめるけど」 「わ、悪い。そういう話じゃないんだ。まず、奈由さんにはまだ何も確認してない」
──がっつり無視してたからな。
そそそそういうわけじゃないんだよ。 「な、なんか悪いな。今から俺だけキャンセルしてもいいぞ? ごく自然なことだろうし」 「いや、それは流石に良心がとがめる。待ってくれ、色々整理するから。えっと、まずは奈由さんに連絡して……あん? それは僕がやるに決まってるだろ! 断じてお前には代筆なんてさせないからな!」 「……あー、春川」 「なんだよ!」 「俺、そろそろ行かなきゃ。セナが心配する」 「あ、そ、そうだな。悪い。それじゃ、週末に」 「ああ、コーヒーどうも」
呆然とした面持ちで昴を見送って、気が付いたときには、すっかり日は落ちて、あたりは闇に包まれていた。
──あー、その、まあ良かったんじゃないか? あの女がお前のこと気にかけてるのは間違いないみたいだし。
「安いフォローをするな。惨めになる」
──まあまあ、こういう時こそ……。
「分かってるよ。ハード・ボイルドに、だろ」
僕はウィンド・ブレーカーのポケットに手を突っ込み、夜に向けて歩き出す。
──まあまあ、元気出せって。一緒にメール考えてやるから。
「それは僕一人でやる。絶対だ」
──なんだよ。相棒だろ?
「そうさ。でも、線引きがある」
──へっ、そうかよ。ところでお前、さっきの珈琲どうした? あのガキに渡してない方。
「まだあるけど。すっかり冷めてる」
──飲まないのか?
「飲まないよ。今の僕はハードボイルド入ってるからね。砂糖とミルクの珈琲風味なんて飲まない」
──その発言が既に大分ソフトだな。じゃ、俺にくれよ。甘いんだろ?
「こんなんばっか飲んで、虫歯になるぞ」
──知ってるか、木乃伊は虫歯にならない。
「へえ? 初耳だね」 僕はそう言って、缶コーヒーを頭上に放り投げる。マミーモンは慌てたような声を出して感を受け止める。
──おおっと。
缶が開く小気味よい音に合わせ、僕は唇を引き上げた。
「それじゃあこれは知ってるか? 相棒、木乃伊は──」
木乃伊は甘い珈琲がお好き 終