序 ロードスター/拳銃/芋虫の血のこと
(BGM:えーと、なんか適当に。ほら、あれ、ムーディな? ジャズとかそういうの)
サンセット・ブルーバードの道路はいつになく静かだった。あるいは僕がいつもの喧騒に気づかないだけだったかもしれない。なにしろ、黒のコンバーティブルのハンドルを握りながらも、頭の半分は眠っているのだ。二日前の夜はホテルの一室でコカインの売人の股座を蹴り上げていたし、昨日の夜はマキャルヴィ警部補のクソッタレに取調室で証人の身柄確保に関する法律を教えてやっていたのだ。前に髭を剃ったのが何年も昔のことに思える。熱いシャワーと暖かなベッド。僕はそれを神に祈った。聖書の文句のことを考えるのは睡魔と取っ組み合いをしてる時だけだ。 こちらのそんな願いを踏みにじるように、緑のロードスターは私の家から逆方向の郊外に向けて、癇癪を起こしたハチドリみたいなスピードで走っていた。対向車線のトラックがクラクションを鳴らすのが少なくとも三度、僕の頭を現実に引き戻した。 いい加減に車通りも減り、夜の薄闇の中にロードスターを見失なったかと思った時、通り過ぎたログハウスの脇に緑色の車が止まっているのに気づいた。そのまま100メートルばかり車を走らせ、道の脇に停めた。車を降り、ダッシュボードから拳銃を取り出す。意味もなく拳銃を持ち歩くのは嫌いだったが、この疲れ切った体では殺人犯人相手にボクシングは到底できない。 ログハウスの前までくると、今まで追っていた緑のロードスターを眺めた。これと同じものを僕は前にも見たことがある。あのコカインの売人を蹴りつけたホテルでだ。 建物の脇に回り込み、体を屈めて窓の下に頭を当てた。室内には明かりが灯っており。低いバリトンの男の声とヒステリックな女の声が交互に聞こえてくる。 「やめてよ、本当に知らないんだったら。わたしはあの男がそんなことしてたってことすら…」 「嘘をつくな。おめえはこの三年間、シェリダンの女だった。あの野郎が俺たちのコカインを黙って持ち逃げしようとしてたことに、気づかないはずがねえ」 女のヒステリーに拍車がかかる。 「“シェリダンの女”ですって! 言っておくけど、最初の半年を除いたらあの男とは家の中で顔を合わせたこともないわ。あいつがまだあんた達みたいなゴロツキとつるんでると知ってたらなおさら…」 女の言葉はどんどん甲高くなり、何を言っているのかもわからなくなった。そろそろ潮時だと僕は思い、玄関に回り込んだが、遅過ぎた。銃声が夜の闇に響いた。私はドアを開け、部屋の奥に進んだ。もうノックは必要ないだろう。 部屋の奥には、血だまりが広がっていた。頭に穴を開けた男が倒れている。彼はもう、ギャングの威光を借りて自由に駐車違反をすることもできないのだ。 リボルバーを持った女は、部屋に入って来た僕に気づくと明るい声をあげた。たった今男を一人撃ち殺した女にしては、彼女はあまりに美しかった。 「サナエじゃない! あんたが来てくれて助かったわ。この男、私がギャングのコカインを隠し持ってるなんて言うのよ」 「それはスレイターのところから盗まれた、三万ドル分のコカインのことか?」 自分の境遇に、或いは美貌に見合うだけの優しさを僕が見せなかったのが気に入らなかったのだろう。女は不機嫌そうに口を尖らせた。 「そんなの、私が知るわけじゃないじゃないのさ」 「いいや、僕は知ってると思うね」そして、男の死体に目を向けた。なんのためらいもなく、五発撃ち込まれている。女のリボルバーの弾倉には、入っていて一発ということだ。 「随分殺し方が手慣れているな。無理もないか、この一週間で他に二人も殺してるんだから」 女が銃を僕に向けるより早く、僕は女の手めがけて一発撃った。血飛沫が飛び散り、悲鳴が上がる。手を撃ち抜かれた状態で見てみると、そこまで美しい女だとは思えなかった。 「もう諦めた方がいいぜ。コカインと一緒に自首すれば、警察もいくらか優しくなるさ」大量のコカインという証拠があれば、グレアム警部はスレイター・ギャングを永遠に葬ることができる。もっとも、それだけで三人殺した女が電気椅子を逃れられるとは思わなかったが。 「どうしてこんなことするのよ!」止血のためにハンカチを持って近寄る僕に、女は叫んだ。 「私だって、好きでやったんじゃないわ! 仕方なく…」 「仕方なく? 君の足元に転がっている男は君をまだ痛めつけようとはしていなかった。他の二人もそうだったんだろう。そのうちの一人は、僕の友達だった。虫も殺せないような男だ」 女が僕を睨みつける。 「ハルカワ・サナエ、とんでもない冷血男ね。あんたの手に噛み付いたら、何色の血が流れるかしら」 「きっと赤いさ。あんたの血だって、ちゃんと赤いぜ」 外からサイレンの音が聞こえて来た。僕はため息をつく。依頼人に、この女の母親に事の一部始終を語るという大仕事が、まだ残っているのだ。
あとがき(当サイトの前身となる掲示板に掲載したものを抜粋)
どうも、マダラマゼラン一号です。「木乃伊は甘い珈琲がお好き」第一話を読んでくれた皆さん、ありがとうございます。
どうしてわざわざミイラを木乃伊と漢字表記するのか? 作中で執拗に漢字で書かれる珈琲はカタカナじゃダメなのか? 前作「六月の龍が眠る街」といい、どうしてこう長くてまどろっこしいタイトルなのか? 気にしてはいけません。なぜなら意味なんてないから。
昔から、ミステリーが大好きでした。小学校の頃はシャーロック・ホームズやポワロに憧れ、中学に上がると憧れの対象はフィリップ・マーロウやリュウ・アーチャーといったハードボイルドなヒーローに移りました。
そんなわけで、ハードボイルド・ミステリを昔から書きたいと思っていたのです。というか、書いてました。実際、この作品のプロローグの春川くんの夢のシーンの文は中学二年生の頃に書いていた小説を殆どそのまま持ってきたものです。ああいうのを、大真面目に延々書いてたわけです。思い出すだにイタい。
しかし、自分の中で納得のいくものはいつまで経っても書けませんでした。昨年デジモン小説を書き始めてからも、ハードボイルド感、ミステリー感を作品の中に出そうと奮闘してきましたが、なかなか上手くいきません。もう自分にはミステリーは無理なのかと半ば諦めていました。
そんな矢先、Twitterでデジモン小説の先輩であるぱろっともん氏(現在nextで「それは悪魔のように黒く」を連載なさっています)に僕をモチーフにしたキャラクターを「それは悪魔の~」の世界観で作っていただくという機会がありました。
そして出来上がった設定を見てびっくり仰天、そこに居たのは、学校そっちのけで喫茶店に篭ってミステリーを読み耽り、全く向いていないことを自覚しているにも関わらず探偵を自称するアイタタタな少年でした。そのまんま高校の頃の僕です(流石に高校で自称探偵はしてない。中学まで)。
そして、僕の高校生活の実態を見抜いてしまったぱろっともん氏の慧眼に恐れ慄くと同時に、「これなら書ける!」と思いました。ハードボイルドな探偵は書けなくても、ハードボイルドになりたいズッコケ高校生なら書けると。そうやって生まれたのが本作の主人公、春川早苗君です。
また、ぱろっともん氏の許可をいただいた上で、パートナーのマミーモンやキーキャラクターの喫茶店のマスターなどのキャラも氏の作った設定から頂いております。しかし、本作の世界観は「それは悪魔の~」とは異なるものですので、ご了承ください。
長くなりましたが、僕の趣味と苦い記憶と黒歴史を詰め込んだ作品になっております。今回は導入で終わりましたが、次回から本格的にミステリーが展開していくので、皆さんも春川君と一緒に謎に挑んでいただけたらと思います。
1-2 商店街の終末論/ロレックス/撃たれる覚悟について
鰆町(さわらまち)商店街は緩やかに滅びゆく商店街の一つだ。どこの地方都市にも一つはこういう商店街がある。ショッピングモールやスーパーマーケットに客を致命的なレベルで奪われたわけでもなく、交通の弁が悪いわけでもない。地域の住民に今でも愛されている。ただ単にその商店街がある地域自体が滅びようとしているだけのことだ。いずれ平日の昼間から通りを彷徨く老人達が人生から退場し、店が一軒一軒と消えていき、パチンコ屋とドラッグストアだけが残る。この二つだけは世界が滅びても無くなることはないだろう。
遠野古書店は商店街の中でも古株の店だ。商店街にはもう一軒、伝統ある書店である西山書店があるが、五冊百円で投げ売りされているボロボロの岩波文庫から、その年の芥川賞のピカピカの単行本まである抜群の品揃えで古本屋ながらなんとか経営を保っている。 僕は一度、入れ歯をくちゃくちゃいわせた老婆が、西山書店で買った人気作家の新刊を隣の喫茶〈ダネイ・アンド・リー〉に三時間篭って読破し、そのままその本を遠野古書店で売却して帰る一部始終を見た事がある。いつか、この商店街独特の経済体系をテーマに論文にを執筆してやろうと考えている。
さて、その遠野古書店だが、店主である赤ら顔の遠野老人の他に、坂本という若い店員がいる。この男が僕は苦手だ。僕が店に入る度に、ガキはお呼びじゃないとでも言いたげに大きくため息をし、僕と今では絶版となったサラ・パレツキーの文庫との間にハタキを持って割り込んでくる。古本屋勤務のくせに妙にガタイが良く、髪の先を金色に染めているので文句を言う勇気も起きない。
そんなわけで僕は遠野古書店には長居をすることなく、新入荷の推理小説だけを確認し、適当なバラ売りの文庫を購入して帰るだけに留めていた。
しかしその日は、いつもいる坂本が居らず、店先で遠野老人が大判の画集の山を持ち上げようと一人奮闘していた。見かねて手を貸してやると、老人は僕の顔を覚えていたのだろう。赤ら顔をこちらに向け、笑いながら禿頭をなでた。
「おお、君か。ありがとうね」 その声には、いつものような快活な余裕が感じられず、僕は少し首を傾げた。老人の顔色がいつもよりも悪いのは気のせいだろうか。
笑顔を返しつつ、坂本はどうしたのかそれとなく聞いてみる。その名前を出した途端に、老人の顔が露骨に歪んだ。
「あいつは昨日首にしたよ。身内のよしみで働かせてやっていたが、お客さんへの態度が悪くてね。私の手には負えない」
ザマアミロ。そう心で呟きながら、僕は画集を老人の言う場所に置く。いつもはよく見えない彼の手元をそばで見て初めて、その腕で輝く時計に気づいた。ロレックスの文字が目に留まり、思わず本棚に目を向ける。一週間前から何か商品が増えた様子もなければ、減った様子もない。常連客がいるとはいえ、名高い高級時計を腕につけられるほど儲かっているとも思えない。経済学は、やはりまだ田舎の商店街における金の回り方を少しも解明できていないのかもしれない。
小さな違和感を感じながらも、僕は店を後にした。我らが安息の地、喫茶〈ダネイ・アンド・リー〉はもうすぐそこだ。
*****
その喫茶店は商店街の丁度真ん中あたりにある。地域の老人達の憩いの場で、どの時間に行っても必ず四、五人の老婆達が席を囲んで、亭主がどこに癌を患ったとか自転車で転んでどこの骨を折ったとか、そんな話をしている。そんな世間話の前では、マスターが店内BGMとして流すロック・ミュージックも、挽きたての珈琲の香りもなんの意味もなさない。店には終始、マスターの思惑とは大きく方向の外れた、いかにも庶民的な居心地の良さが漂っていた。
僕が初めてこの店を訪れたのは一年前、高校に入学して半年がたった頃だ。買いたての本を読むために立ち寄っただけなのだが、還暦を迎えていない客の来訪は久し振りだったらしく、マスターはいたく喜んで僕に会話を振った。僕が店名の由来を指摘したことをきっかけに我々は本格的に意気投合し、マスターはこの店を僕の探偵業の拠点とすることを承諾してくれた。
──要するに、イタいガキ同士気が合ったってことだな。
いつの間にか背後に戻ってきていたマミーモンの言葉を黙殺し、僕は店のドアを開けた。ルー・リードの音楽の中で、いつも通り数人の老人が駄弁っている。僕を見て、髭面のマスターが笑顔を向けてきた。
「よお、探偵クン。首尾はどうだい?」 「上々ですよ。今日も、何事も起こってくれないまま終わりました。珈琲、ブラックでお願いします」 「ウチの一推しはカフェラテなんだがね。ミルクにも凝ってるんだよ。県内の牧場から…」 「珈琲、ブラックで」
僕に言葉を遮られ、マスターはすごすごと退散した。先程図書館で借りた小説を開く僕に、マミーモンが囁きかける。
──早苗はいつもそれだよな。珈琲、ブラックで。カッコつけて言ってみたいだけだろ。
「……否定はしないよ」
──でも、どうなんだ? ブラックコーヒーって、苦いんだろ?
「そりゃあね」
──俺、苦いのは苦手だな。
インディ・ジョーンズの映画か何かに出てきそうな見た目の癖に、苦いものが苦手とは。僕は苦笑する。
「ミイラに水分は大敵じゃないのか。それ以前に、君達って食事できるわけ?」
──その辺はまあ、どうにでもなるんだ。必要はないけど、その気になれば、色々食うこともできるぜ。
「マジで? これまで黙って僕の食事を我慢しながら眺めてきたってこと? もっと早く言えよ」
──いやだから、別に無理に食事する必要は…
「でも、食べてみたいものあるだろ?」
──否定はしないな。とりあえず、その珈琲っていうの、飲んでみてえ。
「今度家で飲ませてやる。インスタントでよければ」
とびきり苦くしてやろうと、僕は密かに誓った。と、いつの間にか目の前にマスターが立っていて、僕は飛び上がらんばかりに驚いてしまった。マミーモンとの会話を聞かれてしまっていたかと冷や汗を流しながら僕は彼の差し出すカップに手を伸ばす。
「何ぶつぶつ言ってるんだ。ほら、珈琲だよ。なあ、本当にミルク、いらない?」 「このままで十分美味しいですよ」僕は本心から言った。 「そ、そうかい?」 僕の言葉に気を良くしたのだろうか、マスターは顔を綻ばせ、その次に僕の読んでいる本に目を止めた。 「ジョン・ダニングか。どうだ?」 僕は肩をすくめる。 「面白いですよ。ジェーンウェイの古書薀蓄にはうんざりしますけど。たまに自分が小説を読んでるのか、スティーヴン・キングの悪口を読んでるのか分からなくなります」 マスターは苦笑する。 「大衆的な本の象徴として、色んな作家の小説でキングは叩かれてるからなぁ。適当に読み飛ばせばいいよ。その本、遠野さんのところで買ったのか?」 「いや、これは学校で借りたんです」 そう言ってから僕は、今日の遠野古書店で感じた違和感、坂本が首になったこと、遠野老人の振る舞いに元気がなかったことを思い出し、マスターに語って聞かせた。彼はううむと唸りながら髭を撫でる。 「あんまり元気なんで忘れがちだが、遠野さんも結構な歳だからなぁ。気苦労の種は減らしたいんだろう。あの坂本とかいうのが働き出してから、柄の悪い客が増えたっていうし」 「羽振りは良さそうでしたけどね。ロレックスなんかつけて、よく分からないけど、あれ多分新しいやつですよ」 僕の何気ない言葉に、マスターは眉をひそめた。 「なんだって? まさか。あの店がそんなに儲かってるわけが…」
その時、近くで響いたガラスの割れる音が響き、マスターは言葉を切った。僕もコーヒーカップを置いて、店の外に目を向ける。 「なんでしょう?」 「さあな」 僕たちの会話はそれで終わったが、店にいる老人達はそれだけでは済まさなかった。新しい話の種ができたと言わんばかりに、荷物を店に置いたままどやどやと外に出て行く。あっという間に、僕達を残して店は空になった。
「あ、ちょっと! ……困った人達だなぁ」 こういうことは慣れっこなのか、マスターも肩をすくめただけだった。そして、目を僕に向ける。 「我々も、見に行ってみようか?」 「別に、僕はいいですよ」 「そんなことを言うんじゃない。探偵たるもの、事件の匂いには敏感じゃないとね」 そう言うマスターに引き摺られるまま、僕は、店の外に出た。
*****
自分が探偵に向いていないことに、僕はかなり早い段階で気づいていた。物語の中の彼等のように頭の回転は速くないし、根気や腕っ節にも欠ける。 かといって、シャーロック・ホームズにとってのジョン・ワトソンや、ネロ・ウルフにとってのアーチー・グッドウィンのような「優秀な探偵助手」になるというのも無理な話だった。彼等は推理や心理分析は全く駄目で、主人公の探偵達からいつもからかわれる。それでも彼等が探偵助手でいられるのは、正確な観察眼、そしてそれを描写する能力を持っているからだ。生憎、そのどちらについても僕は全く自信が無かった。
そんなわけで、店を出た僕が遠野古書店の前で老婆たちに囲まれて倒れている禿頭を見た時、僕の心はが最初に感じたのは、僅かな喜びだった。やった。僕の観察は正しかった。遠野老人は胸の病気か何かで体に負担を感じており、それで顔色が悪かったのだ。我ながら不謹慎にもほどがあると思う。
しかし、そんな僕の気持ちも、老人の禿頭の一部が赤黒く染まっていることに気づくまでのことだった。それに気づいた途端、思わず老人の方に駆け寄る足がすくむ。あっという間に頭が真っ白になった。 僕の後からついてきたマスターは老人の容体に気づくと、歩調を速め彼に駆け寄った。数人の老婆に鋭い声で救急車と警察の手配を頼み、自分は止血を始めるらしい。それを、僕はすぐ後ろから突っ立って見ていた。
──おい、早苗!
「…え、なに?」
マミーモンの荒い呼びかけにも、僕は間抜けな声しか出すことが出来ない。
──しっかりしろ、後ろだ! ビルの上!
呆然としながら彼の言葉のままに後ろを振り向き、上に目を向ける。いくら頭が真っ白でも、屋上に立つそれを見なかったふりをすることは不可能だった。
「あれは…デジモン?」
──デスメラモン、完全体だ。
その仮面と、派手な炎の柄のズボン、鍛え上げられた上半身に巻きつけられた鎖を遠目に見る分には、どこかのプロレスラーに見えないこともない。しかし、“死霊使い”の力を借りた僕には、それが人ならざるものであることがはっきりとわかった。そうでなくとも、この距離から見てあそこまで巨大に見える時点で、人間の体格ではない。そして何より、僕が目を引きつけられたのは──。
「あれ、霊体じゃないね」
──ああ。実体化してやがる。
マミーモンが吐き捨てるように言った。
──それに……血の匂いだ。おい、あの古本屋の爺さんの頭を叩き割ったのは、アイツらしいぜ。おい、早苗!
心臓が癇癪を起こしたみたいに早鐘を打っていた。なんとかしなきゃ、いや待て、なんとかする必要があるのか? このまま黙って喫茶店に戻り、珈琲を飲むことはできないか? そうしたっていいんだ。僕は思う。あんな化け物相手になにができる?
──おい、早苗。俺を実体化させろ。
不意にマミーモンが言った。
「実体化? 出来るのか」
──お前が、そう望むなら。このままアイツを逃すのはマズイだろ。俺なら、アイツを足止め出来るかもしれない。
わざわざどうも、マミーモン。君のせいで、もう言い訳は出来ない。このまま僕がなにもせずに逃げたら、それは臆病な負け犬だ。
──おい、なんとか返事しろ! お前のお待ちかねの狂気の沙汰だ。それとも、ビビってるのか?
畜生め、なんとでも言え。足はすくむし息はどんどん荒くなる。目をデスメラモンに向けるだけで精一杯だ。
と、その時、デスメラモンが顔を動かした。地上から自分を見つめる者の存在に気づいたらしい。仮面の向こうに、こちらを凝視する目を感じる。しかしその瞬間、彼はこちらに背を向け、逃走を開始した。
──気づきやがった。おい、早苗、いい加減にしろ!
「ああ、もう。うるさいったら!」
マミーモンの言葉に、僕は思わず大声を出していた。老人の手当てをしていたマスターが驚いたようにこちらを見ている。
僕は大きく息を吸った。ああそうだ。そうですよ。これが、僕の望んだ狂気だ。 空を見上げ、大好きな探偵の台詞を呟く。
「……フィリップ・マーロウ曰く、撃っていいのは撃たれる覚悟のある奴だけだ」
──おお。覚悟、出来たか?
「分かんない!」
でも。
「ハルカワ・サナエ曰く、覚悟があるかどうかは事後報告で構わない!」
──滅茶苦茶だな……。
「……いいから、行くぞ」
──おうよ。
マミーモンがそう答えた瞬間に、僕の隣の空間が渦巻く風で満たされた。
隣に立つ見慣れたミイラは、それが現実のものとして現れると、なおさら不気味だった。霊体だった頃と違い、頭に巻いた紫色の布が現実の風になびいている。僕は彼の姿を頭から足まで眺め回し、最後にその手に握られた黒い銃器に目を向けた。
「それ、マシンガン? 探偵の武器はリボルバーって相場が決まってるんだけど」
「おう、いつもの調子が出てきたな」 マミーモンは唇を歪め、ぞっとするような微笑を浮かべた。
「俺はデスメラモンを追う。お前は少しでもあの爺さんに何があったか調べとけ。それも、探偵の仕事だろ? それに──」
マミーモンは親指で後ろを指す。振り向くと、目を見開きながらマミーモンを見るマスターがいた。 「あのオッサンに色々説明しないと、後で面倒だ」
僕はため息を一つつき、体を老人の転がる事件現場に向けた。 僕が足を踏み出したの同時に、反対の方向に風のような速さでマミーモンが駆け出すのを感じた。
*****
遠野古書店の周りにはまだ人はいなかった。マスターが人払いをしたのだろう。物見高い老婆たちも、彼がどうにか追い払ったらしい。
「探偵クン、今のは……」
問いかけようとするマスターを手を振って制止し、質問を飛ばす。 「あとで説明します。それより、遠野さんは?」 マスターは眉をひそめながらも頷き、古書店の奥に目を向けた。横たえられた老人の喉から、大きな声が放たれる。
「私はここだ! 全く元気そのものだよ!」
てっきり死体が転がっていると思っていたのだが、遠野老人は無事らしかった。殺人でも起こればいいのにと数時間前に考えたことも忘れて安堵の息を漏らした僕に、マスターが首を振ってみせる。
「止血もしたし、滅多なことはないだろうけど、まだ予断を許さない状態だ。頭を殴られたわけだしね。元気なのも、興奮しているせいだろう」
そう言った矢先、救急車がサイレンとともに猛スピードで駆けつけてきた。一応この時間の商店街は歩行者天国の筈だが、そのけたたましいサイレンの前では、誰もここが天国だとは思わなかったのだろう。そのすぐ後ろから、パトカーも一台駆けつけてきた。
車から降りてきた救急隊員にマスターが手早く状況を説明し、店の奥の老人を指し示す。この場には、マスターと僕しかいない。ということは、僕はパトカーに目を向ける。警官は僕の担当という事だろう。 車から降りてきたのは、二人の警官だった。運転席に座っていたのはにきび面の若い警官で、その後ろから額に痣のある陰鬱な顔の初老の警官がついてきた。初老の方が僕の前に立ち、警察手帳を開いた。
「市警の金沢と言います。こっちは伊藤」
伊藤と紹介されたにきび面の若い警官は、金沢の右斜め後ろであたふたとしながら同じように警察手帳を取り出してみせた。
「軽く状況を説明してもらえませんか?」 金沢の問いに僕は、いかにも怯えた発見者という風な声でいくつか答えた。殆ど正直に供述したものの、犯人らしき人物を見たかという問いにははっきりとノーを返した。先輩の隣で几帳面にメモを取ってた伊藤が僅かに顔を上げ、僕を見る。あまりにも強く即答したせいで、帰って疑われたらしい。金沢も、優しい声で同じ質問を繰り返した。
「本当に? 何事も確実という事はあり得ませんからね。よく思い出して、怪しい人影を見なかったか?」
僕は考えるふりをして、再び否定した。身体中が青い炎で覆われた巨体の怪人に殴られたのだと言っても、信じてはもらえないだろう。
金沢はまだ疑わしそうな様子だったが、その時横から聞こえた大きな声のために、質問は終了を余儀なくされた。僕に取っては幸運なことと言っていいだろう。
声の主は遠野老人だった。僕が目を離していた間に、彼は既に担架に乗せられ、救急車に運び込まれようとしていた。彼は、それに抵抗の声を上げていたのである。
「やめてくれ! 私は大丈夫だ! どこも悪くない!」 「そう言われてもなぁ。お爺さん、大丈夫だ。病院でちょっと見るだけだからね」 「いやだ!」
救急隊員の宥めにも彼が応じる様子はない。 その様子を見ていた僕と金沢の横で、伊藤と呼ばれた若い警官が動いた。担架に駆け寄ると、親しげな様子で遠野老人に声をかける。
「爺さん、嫌がることはないよ。すぐ帰れる」 「嘘をつくな!」 「大丈夫だ。爺さん。大丈夫」
それだけで、遠野老人は驚くほど大人しくなった。サイレンを鳴らして走り去る救急車を見送りながら、伊藤はしれっと金沢の右斜め後ろの位置に戻った。一部始終を見届けた金沢も、再び僕に目を向ける。
「春川さん、でしたっけ? この後警察署で詳しく話を聞かせてもらいたいと思います。なに、大したことはありませんよ。ご協力してくれますね」
僕は小説の探偵達が無能な警察にそうするように、出来る限り消極的に見える頷き方をしてみせた。
*****
商店街から少し外れたところにある予備校の屋上。マミーモンはその手足を何回か振り回し、久しぶり感じるリアルな空気の感触に手足を馴染ませた。ミイラの乾燥した軽い体のおかげで、三ヶ月の霊体暮らしから開けたばかりでもそれなりに軽やかに動くことができた。
「俺の方はそんな感じで、万事オーケーなんだが、お前さんの方はどうだ?」
彼はそう言って、目の前に立つ仮面の男に話しかけた。仮面の男--デスメラモンは黙ったまま、表情のない仮面の顔をマミーモンに向ける。彼は包帯が巻きつけられた腕を大袈裟に振ってみせた。
「いや、言わなくて良いよ。俺の方がかなり遅くスタートしたってのに、あっという間に追いつかれてるんだもんな。体が慣れてねえのか、それとも、単にお前さんがノロマなだけかな」
マミーモンはデスメラモンの仮面の内側に挑発に対する怒りを読み取ろうとしたが、そこにはどこまでも続く闇があるだけだった。
「なあ、いちいち返事をしてくれなくても俺は構わねえよ。でもさ、これだけは答えてもらわなくちゃいけねえ」
彼は手を伸ばし、巨大な鉤爪の一本で彼の体に巻きつけられた鎖を指差した。そこに、乾いた血がべっとりとこびりついている。
「なんであの爺さんをぶん殴った? なんで一撃で殺さなかった?」
そして。
「それは誰の指図でやったことだ?」
仮に上手く人間に取り憑きこの世界に漕ぎ出しても、デジモンは単体では実体化できない。もし、そこに実体化したデジモンがいるなら、それが示すことは一つしかない。
「お前の実体化を望んだ人間がいた。お前が憑依した人間。そいつが、お前がその生身の体で鎖を振り回し、あの爺さんの頭を凹ませるのを望んだんだ。さあ、答えろよ。そろそろ俺も、我慢の限界だぜ」
ふいに、デスメラモンが動いた。マミーモンは躊躇わずにマシンガン『オベリスク』の引き金を引いたが、それはデスメラモンの立っていた辺りのコンクリートに幾つかの傷をつけるだけだった。
マミーモンは舌打ちをし、咄嗟に地面を蹴ると前に飛んだ。振り返ると、先ほどまで彼がいた場所に拳を振り下ろしたデスメラモンと、その拳がコンクリートにいれた無数のヒビが彼の目に入った。
「思ったよりは、早いみたいだな」
それなら、と彼は再び地面を蹴り、まだ先程の攻撃から態勢を立て直していないデスメラモンへの頭上へと高く跳び上がった。デスメラモンの体重では、ここまで跳んでくることは出来ない。 デスメラモンの丁度真上にくると、自分のことを見上げた鉄仮面に笑いかけ、彼はマシンガンをデスメラモンを中心とした円を描くように乱射した。鉛玉の雨が、デスメラモンの動きを封じる。 頭上から敵に迫ったマミーモンは、その巨大な右手でデスメラモンの顔を掴んだ。
「狂気の中で、好きなだけ喋り散らしてもらうぜ。〈ネクロフォビア〉」
マミーモンに掴まれたデスメラモンの頭に、紫の電撃が走る。仮面から初めて漏れた苦悶の呻きに、マミーモンは唇を歪めた。相手の脳裏には、言葉では言い表せない悪夢の光景が浮かんでいるに違いない。
しかし。
「おい、冗談だろ」
デスメラモンが自分の顔を掴む彼の手にしがみつき、そのまま走り出したのだ。あまりの力に、彼はそのまま引っ張られるしかない。そして、その進行方向にあるものを見て、マミーモンは叫ぶ。
「おい、馬鹿力なのは良いけど、頭まで馬鹿になるこたねえだろ! あれか? 俺の技でおかしくなったのか?」
マミーモンの制止も虚しく、デスメラモンは彼を押さえつけたまま屋上のフェンスを突き破り、二体のデジモンは空に放り出された。
「お前がここに居るのは、指図されたからか?」
重量に引きずられて落下していく中、不意にデスメラモンが口を開いた。
「はあ?」
「お前は、誰かに指図されてここに居るのか?」
「いいや! それは違うね!」
早苗の背中を押したのは俺だ! マミーモンが叫ぶ。
「それなら、俺も、それと同じだ」
不意に、デスメラモンの拘束が緩んだ。マミーモンはデスメラモンの胸を蹴りつけ、彼から距離をとった。デスメラモンがその鎖を彼に向けて伸ばしてくる。
「〈スネーク・バンテージ〉!」
そう叫ぶと、マミーモンは自分に巻きつけられた包帯をデスメラモンに向けて伸ばした。
二体の距離の丁度中央に位置する空間で、鎖と包帯が絡みついた。その瞬間、マミーモンの体が大きな力で引き摺られる。馬鹿だった。彼は再び舌打ちをした。体重の差を見ても筋力の差を見ても、デスメラモンは空中で綱引きをするのに向いた相手ではない。
身体が大きく空を舞い、次に気がついた時には、マミーモンは裏路地にあるラブホテルの白い壁に叩きつけられていた。人通りが少ないせいか、誰にも見られずに済んだらしい。
「畜生が!」
そう毒づくと、彼は痛む身体を起こし、空を見上げた。秋の夕焼けに、デスメラモンの台詞がこだまする。
「あいつが、俺と同じだって?」
デスメラモンは、自分も誰の指図も受けていないと言いたかったのだろうか、彼に同調し、協力する人間がいただけで。
「馬鹿にするんじゃねえ……」
並一通りのデジタル・モンスターの、野生の倫理観を持つマミーモンには、他者の死を悼む気持ちはない。それでも、デスメラモンの行いには腹が立った。彼は全力を振るうこともなく、自分よりも弱い生き物の頭を小突いただけだ。撃っていいのは、撃たれる覚悟のある奴だけだというのに。
怒りに燃えながらも、彼の唇には微笑が浮かんでいた。俺の見込んだ通りだ。早苗、お前のおかげで、楽しめそうだぜ。
「待ってろ、デスメラモン。お前がどれだけちっぽけで、しょうもない奴か、暴いてやる」
なんてったって、こっちには探偵がいるんだからな。彼は呟いた。
次の話≫≫≫
1-1 夢/木乃伊憑き/クリフォード・ジェーンウェイのこと
「おい、春川、起きろ!」 突如、頭上から浴びせかけられた声と共に、学生服の背中に何か固い板が差し込まれる。無理矢理に背筋を伸ばされた僕は霞んだ目を上げて、こちらを睨んでいる生物教師の前野にごにょごにょと朝の挨拶をした。この男はいつも三十センチメートル定規を持ち歩いていて、授業中眠っている生徒の背中にそれを差し込むのだ。 「あ、おはようございますです」 「何がおはようだ。今は午後の二時だぞ、五時間目。もっとも、他の先生の話を聞く限り、この時間は春川にとっては寝てる時間らしいけどな。幸せな夢は見れたか?」 教室が笑いに包まれる。ウエスト・ロス・エンジェルスの私立探偵になって悪女を追い詰める夢を見ていたと、わざわざ正直に説明する気にはならなかった。 日本国内における植物の分布についての説明に戻りながら満足そうに教壇に戻っていく前野を、僕は仏頂面で見送った。周りの連中は慌てて僕から目をそらす。こんな事で日陰者の恨みを買っては割に合わないというのだろう。低血圧の為に寝起きの僕はいつも機嫌が悪いのだ。 ──授業中に自分で寝といて、それを起こされて不機嫌になるってのもとんでもない話だな。まるっきりガキじゃねえか。 脳の裏あたりで聞こえた声に、僕は小さな舌打ちで返した。数人のクラスメートが非難がましい目を僕に向ける。 --おい、シカトすんじゃねえよ。 再び聞こえたその声を無視し、僕は前野が黒板に書き散らす汚い字を読み取る作業に意識を集中させた。 ***** 放課後、僕はひどいなで肩から滑り落ちていこうとするリュックサックを押さえ、灰色の廊下を早足で歩いていた。向こうからは、授業が終わって十分も経っていないのにどう着替えたのだろうか、バドミントンのユニフォームに着替えた生徒の一団がラケットと笑顔を携えて向かってくる。彼らに道を譲る為に、僕は奨学金やその他諸々の案内が貼り付けてある掲示板に体を殆どくっつけなければいけなかった。 ──おい、今日も〈ダネイ・アンド・リー〉に行くのか? 「そうだけど。文句ある?」 再び脳裏で響いた声に僕は囁き声を返す。 ──別に。ただ、他の連中はみんな放課後にはスポーツやら何やら、やってるじゃねえか。それをお前は爺さん婆さん達と一緒に煙草臭い喫茶店に篭って、本ばっか読んで… 「依頼を待ってるんだ」 ──そうは言ってもよ。依頼なんか来るわけねえじゃねえか。誰もお前の、その、探偵業のことを知らないんだから。宣伝しろよ。ほら、そこの掲示板にでも貼って貰えば… 「なんて宣伝するんだよ。『何をそんなに悩むのか? 何にそんなに苦しむのか? あなたの喉元につっかえた困難は、どうか探偵・ 春 川 早 苗 ハルカワ・サナエにご相談ください! 格安で対応いたします。ただし面白い事件に限ります』とか?」 ──良い文句じゃねえか。 分かってないな、と僕は首を振る。すぐにその行為が周囲からは不自然に見えることに気づいて、空咳をしてごまかした。 「そんなイタいことできるか! そういうのは中学生で卒業したんだ」 ──自覚あったんだな。そして、中学の頃はやってたんだな。 「中学の頃の話は忘れろ。蒸し返すんじゃねえぞ」 僕は精一杯のドスの効いた声を出した。 ぶつぶつと脳裏で響く声に応えながら歩くうちに、いつのまにか近年増築された新校舎に入っていたのだろう。くすんだ灰色の床に変わって、吐き気がするほど退屈な白のタイルが僕の進行方向に敷き詰められていた。 早足で賑やかな廊下を通り抜け、僕は突き当りにある広い教室に入る。本棚に囲まれたその部屋に入ると、幾らか心が安らいだ。長机で真っ赤な問題集とにらめっこしながら自習している連中がいなければ、もっと安心できただろう。図書室を自習に使うなんて、とんでもない連中だ。 ──いや、正しい使い方だろ。 いちいち茶々を入れてくる声に無視を決め込み、僕は図書室の薄暗い一角。古い文庫本が並ぶ一角に入る。僕の他に、そこには誰もいない。古い紙の匂いを吸い込むのもそこそこに本を一冊手に取り、快活な笑顔を振りまく図書委員の元に向かう。俯いたままぼそぼそと本を借りる手続きを終え、僕はその本を抱えて廊下に飛び出した。 ──今日はなんだ? 「ジョン・ダニングの『愛書家の死』だよ。このシリーズは読もう読もうと思いながら今まで…」 熱を込めながら、古書店を営む元刑事クリフォード・ジェーンウェイが古書・稀書についての薀蓄を披露しながら事件に挑む物語について語る僕を声が遮った。 ──おい、勘弁してくれ。要するに、また探偵モノってことか。ほんと好きだな。 「なんだよ、悪いか?」 僕は唇を尖らせる。この声の主のお節介はいつものことだ。我慢しろ。僕はもうこいつに対して癇癪は起こさないと誓ったんだ。今日一日付き合ってこられたじゃないか。この程度でカリカリしていては、ハード・ボイルドな探偵にはなれない。 ──別に悪かないけど、そういうのは本の中だけにしとけよ。現実じゃ小説に出て来る探偵の必要な場面なんて… 先ほどの誓いなど忘れて、あっという間に僕は我慢の限界を迎えた。 「現実じゃ探偵の出番はない? ミステリーとスリルは結局物語の中だけの話だって?」 ──いや、そこまでは……。 「僕だってそう思いたいさ!」 大股で歩きながら、再び放課後の人混みの中に踏み込んで行く。なんの迷いもなく、たった一度の青春を謳歌するティーン・エイジャー達。ただ、彼らのうちの何人かは、頭上に奇妙な影を浮かべていた。 ワックスで髪を馬鹿みたいに立てたサッカー部員の上には、銀色に輝く兜で頭を覆ったドラゴン。 「サイバードラモン、サイボーグ型のワクチン種」 教師に進路について相談している、真面目を絵に描いたような眼鏡の委員長の上には、狐の顔をして東洋風の服に身を包んだ獣。 「タオモン、魔人型のデータ種」 肩まで髪を伸ばし、この世の何も面白くないという顔をして歩く女子の上には、黒いマスクで顔を覆い、目のやり場に困るような服装をしたグラマラスな女性。 「レディーデビモン、堕天使型のウィルス種」 そうやってぶつぶつと呟きながら人混みを抜けたあたりで、僕は拳を握りしめ、自分の頭を強く小突いた。 「そしてお前だ、マミーモン。アンデッド型のウィルス種」 ──いや、わざわざ教えてもらわなくても、自分のことは自分でわかるぞ。 というかさっきの台詞も、全部俺が前に説明してやったことじゃねえか、頭の裏側で、声は呆れたようにそう続ける。 「どうかしてるだろ! “デジタル・モンスター”だかなんだか知らないけど、こんな化け物どもがうろついてる学校で、なんでみんな普通に青春出来るんだよ。ずるい、じゃなくて、おかしいだろ!」 ──それで、探偵か。 「そうだ。この学校には、そういうのが必要だ」 ──それならなおのこと、宣伝をだな… 「いやだ! 恥ずかしい!」 ──マジでガキだな… 「聞こえてるぞ」吐き捨てるようにそう言って、僕は玄関口目指して荒い息を振りまきながら歩き出した。 ***** 校門の脇に立ち並ぶ銀杏の黄金色の葉を、気の早い木枯らしが揺らした。羽織ったウインド・ブレーカーがばたばたと音を立てる。多くの生徒が部活や委員会活動に励んでいるため、放課後にも関わらずこの時間の校門付近は閑散としている。 学校を出てすぐに左に進むと、地方から入学した学生向けのアパートがある。県北の山と荒れ野しか無いような寂れた故郷を出て、県庁所在地にあるこの高校に通っている僕も例によってそこに住んでいた。 もっとも、学校からまっすぐ家に帰ったことは殆ど無い。いつも、僕は決まって右に曲がる。喫茶〈ダネイ・アンド・リー〉がある商店街は、その道をまっすぐ数キロ進んだあたりにあるのだ。 ──おい、そんな怒んなよ。 「怒ってない!」脳裏で聞こえるマミーモンの声に、僕は強い語調で返す。 ──頼むからさ、俺が悪かったよ。 「マミーモンが悪いってことはないだろ」 彼の意外な謝罪に、ムキになっていたことを一瞬忘れ、きょとんとした声が喉から漏れた。 ──いや、俺の力のせいだろ。他の“狐憑き”の連中に見えるのは、自分に取り憑いたデジモンだけだ。他の人間に憑いてるデジモンが見えるのは、早苗だけだよ。毎日いろんなモンスター見せられて、相当参ってるだろ。 僕はため息をつく。 「その“狐憑き”っていうのやめてくれ。自分が本当に狂っちゃったみたいな感じだ」 ──この呼び方を考えたの、早苗だぞ。 「それは仕方ないよ。大通りのネットカフェでマミーモンに初めて会った時は、マジで自分がおかしくなって、ヘンな幻覚を見始めたんだとしか考えられなかったし」 そう、今でも。僕は小さく呟く。右斜め後ろを歩く不気味なミイラが見えるのは僕だけだ。 マミーモンはそれで良いのだと言う。インターネットで生まれた彼らデジタル・モンスターはこの現実の世界を歩き回る為にコンピュータの画面を通して依代となる人間に取り憑く。そうやって取り憑かれ、“狐憑き”になった人間について、モンスター達はこの世界をあちこち動き回れるようになるのだ。その身体は普段は霊体の様なもので、自分が取り憑いた人間の目以外に移ることはない。 「でも、僕だけは別ってわけだ」 ──そう。俺のこの “死霊使い” ネクロマンサーの力でな。 彼の力が依代である僕に影響し、それがこの世界においては霊体を見ることができるという力として顕れたらしい。そういうものなのだと彼は言う。 でも、そのマミーモン自体が僕の生み出した幻想だとしたら? マミーモンの説明は都合が良すぎる。全部が狂人の頭の中の妄想に過ぎないと考える方がよっぽど自然だ。 ──なぁ、早苗。いつも言ってるだろ。そんなに不安なら、他にデジモンを連れたやつに話しかけてみろって。あの学校、“狐憑き”がわんさかいるじゃないか。 「馬鹿言うな。本当に全部僕の幻覚だったらどうするんだよ」 ──友人の通報のお陰で、適切な治療が受けられるんじゃないか。 黙ってろ、と毒づいたタイミングで、僕はちょうど広い道路に出た。灰色のアスファルトの上を一生懸命に駆けていく人々の中にも、学校ほどの密度ではないが“狐憑き”がいた。 巨大なものから小さなもの、恐竜の姿から人型まで、彼らに取り憑いたモンスターの姿は様々だ。そんなクリーチャー・コレクションを見る度に不思議と僕は安心する。彼等の姿はあまりにもバリエーションに富み過ぎていて、全てを僕の想像の産物として片付けるには無理があった。 「なあ、マミーモン」 ──どうかしたか? 「君達は、何か欲しいものがあってこの世界にやってきてるんだったな」 彼等デジタル・モンスターがわざわざ一人の人間にくっついて離れない背後霊に身を落としてまでこの世界にやってくるのは、みなそれぞれの“欲しいもの”の為なのだと言う。 ──ああ、だから大抵の奴は、ガキに取り憑く。将来に期待できる若い人間にな。 「……マミーモンは、なにが欲しいんだ?」 欲しいものがある。三ヶ月前にふらりと立ち寄ったネットカフェで僕がマミーモンに初めて出会った時、彼はそう言った。でも、それが何なのかを彼は語らない。僕が果たして、その目的にかなった人間なのかも。 ──分かんねえ。 「は?」 僕は声を潜めることも忘れて素っ頓狂な声を上げた。周囲から向けられる奇異の視線に、必死の作り笑顔を送ってごまかす。 「なんだよ、分かんないって」 ──マジで分かんないんだよ。分かってたら、わざわざこんなところまで来ないさ。他の連中もみんなそうだ。なんだか知らねえけど、何かが足りない。喉が渇いて仕方ねえ。それが何か知りたくて、ここに居るんだ。 「だったら」それを見つけないと、と言おうとした僕を、ミイラは遮った。 ──慌てることはないさ。俺にも一つ、分かってることがある。 次の瞬間、マミーモンはいつもの定位置である右斜め後ろを外れて、僕の真正面に立ち塞がった。慌てて立ち止まる僕に、周囲の人の流れから舌打ちが飛ばされる。しかし僕の意識は、マミーモンの声だけに向けられていた。 ──早苗、お前といれば。それが見つかる。俺たちが欲しいものは、多分一緒だ。だから、出会ったんだよ。 言うだけ言って照れ臭くなったのか、マミーモンはどこかに気配を消した。呆然として、僕は呟く。 「僕の、欲しいもの」 それは、人並みの幸せだろうか。いつも僻んでいる奴等の持っているもの、友人、恋人、打ち込めるもの。 或いはそれは、ずっと憧れ続けた物語の世界だろうか。サム・スペード、フィリップ・マーロウ、リュウ・アーチャー。大好きな探偵達のように事件に飛び込んでいくことだろうか。 もしも後者なら、僕は思う。もっとこの状況を楽しんでいいはずだ。不気味なモンスター達は探偵小説にするにはちょっと現実離れしすぎているにしても、小さな頃からクラスの端っこで白い目を向けられながら、這々の体で逃げ込んだ世界が目の前にある。 自分の正気を疑う必要なんかない。狂ってるなら、それで良いじゃないか。正気のままで息をし続けるには、この世界は多分退屈過ぎたんだ。 でも。ベースを背負ったバンドマンの上に浮かぶ桃色の人型デジタル・モンスターを振り向きざまに眺めながら僕は呟く。 「……もっとこう、なにか面白いことが起きると思ってたのにな」 そう、例えば猟奇殺人とか、そういうの。もっとも仮にどんな事件が起きたとしても、物語の中の探偵のようにはいかないだろう。アル中探偵マット・スカダー曰く、八百万の人々が住む腐ったニューヨークの街には、八百万の違う死にざまがある。人口三十万人に満たないこの北東北の地方都市にも、その人口と同じだけの死にざまがあるのだろう。しかしそれでも、三十万人では格好がつかない。 我ながらとんでもないことを考えるものだ。こんなことを他人に話したら、不謹慎極まると非難されるか、遅れた厨二病として片付けられてしまうだろう。それでも、僕は心底そう思うのだ。 そうだ。僕は正気に戻りたいんじゃない。今の狂気に浸りたいわけでもない。 これじゃあ、狂い足りないんだ。