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5-1 選ばれた人々/三つの刺し傷/通りかかる車のこと
匿名の手によってなすすべなくログハウスの壁に叩きつけられる趣味はなかった。ただし、人間いつも自分の趣味に合うことが出来るというわけではない。そんなわけで、僕は自分の腕を掴むその手に気づいたときには既にログハウスの中に引きずり込まれ、なすすべなく壁に叩きつけられていた。ドアが閉まり、部屋を暗闇が満たす。汗ばんだ掌が、うめき声をあげようとする僕の口を勢いよく抑え付けた。後頭部を木造の壁に強打し、頭の裏側ががんがんと鳴る。
不意に眩しい光が僕の目を刺した。思わず目を瞑ると、今度は耳に耳障りな声が飛び込んでくる。
「なんだ、お前。よくジジイの本屋に来てたガキじゃねえか」
外の暗闇から不意に蛍光灯の光にさらされたせいで相手の顔はぼやけて見えなかったが、これで相手が誰か分からなかったとしたら、高級ホテルの御用探偵だってつとまりっこないだろう。
「(坂本か……!)」
じきに光に目が慣れ、やつれ果てた男の顔がはっきりとした輪郭を伴って目に飛び込んできた。油ぎった髪が光を反射しててらてらと光る。無理もない。僕の推理通り坂本が遠野老人の口を封じたうえで件のエロ写真を売りさばいている組織から隠れてこの家に閉じこもっているとしたら。この三日間ろくに風呂にも入れていないはずだ。
目に入ったのはそれだけではなかった。その坂本の頭を包み込むほどに大きい、骨ばった木乃伊の手のひら。僕が合図を出せばすぐにマミーモンは坂本を放り投げてしまうだろう。
と、そう思った瞬間に僕の眉間に重く冷たい金属があてられた。アドレナリンで沸騰した頭が一気に氷点下まで押し戻される。世間知らずなカシマに僕が押し当てたファイルの角とはわけが違う、リアルな銃口が目の前にあった。
「おっと、変なことを考えるなよ。俺が動けばすぐにこいつもおしまいだ。お前に言ってるんだ。このガキに取っ憑いてるバケモノさんよ」
彼はそういうと僕に目を戻す。
「おい、お前からも頼めよ。いるんだろ? 〈デジタル・モンスター〉が。最初にお前がこの家の前で俺のことについて一人でべらべら喋ってるのを聞いたときはワケが分かんなかったけどよ、デスメラモンの名前を出したときに分かったよ。なんとか言え! お前も『選ばれしもの』なんだろ? じゃないと俺がしたこと、全部分かるわけねえ」
そう言って坂本が僕の口に当てた手を外した。新鮮な空気を求めて荒く息をつく度に、目の前で銃口がゆらゆらと揺れる。
──あっという間に自分の犯行を認める犯人は三流だと言ってやれよ。自分の推理を大声で言いふらして殺されかかっている探偵も、大概惨めだけどな。
マミーモンはこんな状況でも茶化してくる。それは逆に僕を安心させた。僕がネオヴァンデモンに捕まった時の彼は必死そのものだった。それに比べれば今の状況は大したことはないらしい。彼にしてみれば、坂本が引き金を引く前にその頭を握りつぶすくらいは簡単なことなのだろう。
──落ち着けよ早苗、怖がる必要はないさ。今のうちに色々聞きだしとけ。ただし急いでな。デスメラモンが来ると厄介なことになる。
オーケー、マミーモン。僕は呼吸を落ち着ける。銃口が目の前にあってはいつも通りとはいかなかったが、声は何とかのどから這い出してきた。
「……『選ばれしもの』か」
「なんだ?」坂本が眉をひそめる。
「あんたは、自分のことをそう呼ぶんだね」
「そうさ」坂本はニヤリと笑った。
「デスメラモンは俺にそう言った。俺は選ばれた。お前もそうだろ? だからバケモノを従えられるんだ」
──さっきのブラックラピッドモンの逆だな。こいつはデスメラモンの口車に乗せられて、調子に乗ってるってわけだ。
マミーモンが冷笑する。僕はそんなに笑えなかった。他の人にできないことが僕にはできることが分かったとき、僕にしか遠野老人殺害の犯人を突き止めることが出来ないと分かったとき、僕は確かに喜んでいた。伊藤を殺すことが頭をよぎったとき、僕は何を思った? 「僕には、それができる」と、僕はそう心で言ったんだ。
「選ばれしものだから、法に触れる写真を売りさばいてもいいし、昔世話になった老人を殺してもいいのか?」 坂本は露骨に顔を歪めた。 「うるせえ、アレは仕方なかったんだよ。意味わかんねえ。ジジイも急に俺を組織に突き出すとか言い出しやがって。自分も散々やってきたことじゃねえか」 「あんたが最後に撮ったあの小さな女の子の写真の、何がそんなにマズかったんだ?」 僕の言葉に、彼は驚いたように突然大声をあげた。 「なんであの写真のことを知ってる! アレはもう捨てたはずだ。ジジイが持ってたのか? あれだけ探して、デスメラモンに脅させても見つからなかったのに?」
──なるほど、これがどういうことか分かるよな、早苗? デスメラモンは坂本に言われてあの爺さんを拷問してたんだ。アイツに殴られて爺さんが即死しなかったのはそういう理由だったんだな。
ご丁寧に解説されなくても、もちろん分かった。それでも坂本が件の写真をこの世から消せなかったのは、デスメラモンに坂本の命令を真面目に聞く気はなかったからか、あるいは遠野老人がワイズモンへの友情の為に彼の探求の聖林(パンドーラ・ダイアログ)のことを黙っていたからか。
──どっちにしろ、坂本が消したくて消したくて仕方がなかった一枚は、早苗が持ってるってわけだ。…おいおい、そろそろ助けたほうがいいか?
動揺した坂本に銃口をぐりぐりと押し当てられ、僕はマミーモンの心配そうな声もろくに聞いてはいられなかった。
「お前が写真を持ってるのか? おい、さっさと出せ!」
「分かった、分かったよ! 胸ポケットの中だ」
坂本は銃を持っていないほうの手で僕の制服の胸ポケットを探り、写真を取り出すと満足げにうなった。その写真はコピーに過ぎず、原本はすでに警察の証拠品保管庫にあると教えてやる義理も勇気もなかった。
「その写真を奪ってどうする気だ?」
「お前には関係ねえよ。これから逃げるために必要なんだ」
「逃げられると本気で思ってるのか?」まさかその写真を売りさばいた金で一生ものの逃亡計画がもつと信じてるわけでもないだろうに。
「逃げられるさ。顔を変えて、遠くに、連中の手の届かないところへ行く」
「殺されるぞ」
「ンなことできるかよ。俺には化け物が憑いてるんだ」
──もういいだろ。化け物が憑いてるやつを殺そうとするとどうなるか、こいつに分からせてやろうぜ。
マミーモンの言葉に僕はかすかに首を横に振る。どうしても坂本に聞いておかないといけないことが一つあった。
「……弥生さんはどうなるんだ?」
「はあ?」
「あんたの奥さんだよ。あんたに何度も騙されて、それでもあんたが人殺しなんかしないって信じてるサカモト・ヤヨイさんだ。彼女はどうなるんだよ?」
「それは……」坂本は急におろおろとした口調になった。
「そ、そりゃあ、まあアイツには悪いけど、もう会うことはねえよ」
彼の言葉に、僕は少し声を出して笑った。サカモト・ヤヨイにとってはこの結末が一番いい。罪を犯した夫は、愛するに値しない男だったという方が、他のどの結末よりずっといい。
「そう、仕方ないね。あんたは選ばれたんだもの。それなら…」
──もうお前に用はねえよ。クソ野郎。
*****
どん、どん。
僕がマミーモンに合図を出そうとした瞬間、ログハウスのドアが二度強く叩かれた。坂本が驚いたように振り返る。
どん、どん。
なおも扉は叩かれる。しばしの逡巡の後、坂本は僕の顔に銃口を押し当てた。
「銃はずっとお前に向けてるぞ。妙なことを考えるな」
そう僕の耳元で囁くと、坂本は目を僕のほうに向けたままゆっくりと僕から離れ、扉を小さく開けた。
小さく扉を開けた坂本の身体が硬直したことに、最初は気づかなかった。その体が二回大きく揺れた時でさえ、僕は彼の手の銃しか見ていなかった。
──早苗、なんか変だぞ。おい!
マミーモンがそう言った瞬間、坂本の身体が大きく後ろに倒れ込み、その胸に浮かび上がった三つの赤黒い点が目に飛び込んできた。
*****
マミーモンが動くほうが僕よりも幾分早かった、彼はすぐに霊体のまま外に飛び出し、僕にも聞こえる大声で叫んだ。
──畜生、逃げられた! 相手は車だ。
「車種とかナンバーは?」
そう尋ねながら僕はあおむけに倒れた坂本に駆け寄り、首に手を当てる。
──んなもんわかんねえよ。とにかく車だ。坂本は?
「駄目だよ。死んでる」
少しでも彼が生きているように見えたなら、駆け寄ってすぐに銃をその手からもぎ取ることを忘れはしなかっただろう。彼の脈は完全に止まっていた。胸の赤黒い三つのしみはナイフによるものだろう。何回目の攻撃が坂本の息の根を止めたのかは分からないが、彼を刺した人物が念には念を入れたのは間違いないだろう
体が小刻みに震えていた。こみ上げる吐き気を何とか抑える。ここまで近くで人の死を見せつけられたのは初めてだ。
──早苗、しっかりしろ。あまり時間はない。お前の指紋やら痕跡やらを全部消すんだ。
分かっていた。今回の件に関しては僕は百パーセント被害者で、怯えて警察に保護を求めても何の問題もないはずだ。ただ、僕の行為はどの程度かは知らないが警察に知られてしまっている。坂本の死の瞬間に僕が彼の隣にいたという事実を金沢警部がどう捉えるか分かったものではなかった。
「そうは言っても、どこに触れたかなんて…」
──俺が見てた。とにかくわかる範囲だけでも消すぞ。あと、坂本から写真を取り返しとくのを忘れるなよ。
それからは、マミーモンの指示でてきぱきと現場の片づけをした。隣にいる死体に動揺することもなかった。あまりにも簡単にこの状況に自分が適応してしまったことは、僕を暗い気分にさせた。
──どうした。
「……別に、ただちょっと、慣れ始めてる自分が嫌になるってだけだよ」
──それで良いんだよ。こういう血なまぐさいことは俺が助けてやる。お前は人が死ぬ度にいちいち落ち込んでればいい。そうじゃなきゃダメだ。
マミーモンがきっぱりとした調子で言った。
「そういうもんかな……」
──そういうもんさ。さあそこの壁の隅で終わりだ。デスメラモンとは決着をつけたかったが、依り代の坂本が死んだ以上アイツもそのうち消えちまうだろ。真実を知る俺たちが警察に行かない以上、事件は迷宮入りだな。ついでにエロ写真の組織への手がかりも途絶えた。ネオヴァンデモンを満足させるために何か見つけなきゃいけないって言うのによ。
なあ? と木乃伊が僕の背後で言う。
「坂本を殺した奴を見つけなきゃいけないだろうな」
──どうせあの組織の下っ端だろ。
僕はため息をつく。
「組織はカシマのサイバードラモンに坂本を狙わせてた。こんなこそこそした手段じゃなくてデジタル・モンスターを使うはずだよ。死体をあっさり残して帰ったのも気に食わない。組織も警察とのごたごたは避けたいだろうし、坂本の居場所が分かったなら連れ去ってどこかで人知れず消すはずだ」
マミーモンに背を向けてハンカチで指紋をふき取っていても、彼が笑みを浮かべているのは知っていた。
「捜査は続行される。坂本はクソ野郎だったけど、それでもこいつを愛する人はいたんだ」
坂本弥生にあったのは失敗だった。あの時背負った彼女の思いに応えるのは大変そうだ。
「だからマミーモン、安心していい。もうしばらくは、君を退屈させないさ。それに、僕も命を狙われっぱなしじゃいられないよ」
──何の話だ?
マミーモンは素知らぬ素振りで言った。彼が不謹慎にもワクワクしていることは簡単に分かった。あるいは僕も心のどこかでそうだったのかもしれない
*****
住宅街の暗闇と静寂が満たす路地、突然現れた大型車がその二つを一度に破った。最初は唸りをあげる二つの小さな光源にしか見えなかった車は家々の間を通り抜け、僕の近くに来ると減速を始めた。
「……マミーモン、あの車ひょっとして」
坂本を殺した奴が乗り込んだ車ではないかという想像に緊張が走る。
──だからさっきはよく見えなかったんだって。とにかく用心しろ。
僕は頷き、鞄の紐を握り締める。果たして車は僕の前で止まり、そろそろと開いた後部座席の窓から聞きなれた声が飛び出してきた。
「やっぱり春川だ。何してるんだよ、こんなとこで」
「……富田?」
車の中のその整った顔の主は確かに富田昴だった。暗い路地に一気に眩しい光が差したような感じがする。
「そうだ、俺だよ。酷いじゃないか、三十分でライブハウスまで来るって言ったのに。電話にも出ないでなんでこんなとこにいるんだ?」
──おいおい探偵サンよ、何をやらかしたんだ?
「……あ」
僕は慌ててスマートフォンをポケットから取り出す。なるほど、画面にはずらりとSNSアプリを使った昴からの着信の通知が並んでいる。
──なんで通知音切ってるんだよ。別に普段誰からも連絡ねえのに。
時刻は十一時になろうとしている。昴に命を狙われた初瀬奈由のことを見ていてくれと頼んだのは九時過ぎ。つまり僕は彼らに待っていろと言っておきながらを二時間以上ほったらかしにしていたことになる。もっとも、僕にしてみればわずかに時間で二回別々の人物に殺されかけたことのほうが驚きで、昴に罪悪感を抱く気にもなれなかった。
「ええと、色々あったんだ」
「早苗くん、どうかしたの?」
後部座席の奥のほうから聞こえた声に、今度は空気が一気に華やいだ。昴には感じなかった罪悪感が一気に胸に押し寄せる。
「奈由さん」
社内のオレンジ色のランプに照らされてふんわりと笑いながらこちらに小さく手を振った彼女を見て、僕は安堵のため息をついた。良かった。彼女は間違いなく生きて笑っている。なぜ彼女が昴の車に乗っているかもそこまで気にならなかった。そこまで。
「もう遅かったからさ、迎えに来た親父の車で初瀬を家まで送るところなんだ。あ、セナもいるぞ。紹介するよ、俺の妹の…」
「セナはもう寝たよ」
不意に運転席の窓が開き、がっしりした体格の還暦近くに見える男が顔を出した。深い皴が刻まれたその顔はテレビとか新聞で見たことがあるようなないような。とにかく彼が市議会の重鎮、富田源治(トミタ・ゲンジ)議員であることは間違いない。その奥の助手席には小さな少女の顔が見える。顔は見えなかったが、あれが昴の妹、セナなのだろう。
「早苗君だったか? 君も乗っていくといい。もう子どもの一人歩きは危ない時間だ」
富田議員が口を開いた。全くその通り。たった今僕は夜の危険さを身をもって味わってきたところだ。とはいえ、僕は今現在狙われている身であるし、坂本を殺した奴はまだそう遠くに行ったわけではない。奈由を巻き込んでしまった前科もある。
──お言葉に甘えちゃってもいいんじゃないか? 俺たちの関係者ってだけでこいつらも狙われるかもしれないなら、俺たちがついていたほうがまだいくらか安全だ。…それに早苗、疲れてるだろ。ここだけの話、俺も疲れてるんだ。
確かに、今日一日だけで、学校でカシマを脅し、古書店でワイズモンと出会い、警察でマミーモンと喧嘩し、家が荒らされ、最後には二度殺されかけたのだ。マミーモンはマミーモンで、サイバードラモン、ブラックラピッドモンと二晩続けて戦い精神的に参る出来事もあった。二人とも帰って休む頃合いだ。
「…お願いします」
そう言って僕は車に乗り込み、外から見るよりずっと広い後部座席の、奈由の隣に座った。何やらいい香りがする奈由の隣で、本来保っていなければいけないはずの緊張がほどけたのだろう。一気に眠気が押し寄せてきた。眠ってはいけないと自分に言い聞かせても、頭には白いもやがかかる。
──なあ早苗、そういえば今お前の部屋って…。
マミーモンの言葉とそれと同時に湧いた荒らされた部屋のイメージが、そんな僕の眠気を一気に吹き飛ばした。見れば、富田家の誇る大型車は僕の家を目指し進んでいる。
「あ、あの! えっと! ここでいいです。叔父の家に泊まるんで、ここでいいです!」
僕が不意に上げた大声に、眠っている昴の妹以外の全員が僕に顔を向けた。車はちょうど、鰆町商店街のあたりで止まった。
5-2 まどろみ/コンビーフサンド/決死の闘争
「おい、何かあったのかい?」 〈ダネイ・アンド・リー〉の扉を十数回強く叩いたあたりで、既に寝間着に着替えたマスターが扉を開けた。目には驚きと、若干の迷惑そうな顔が浮かんでいる。無理もない。彼は三,四時間前に家に帰ってよく眠り、明日マミーモンと仲直りするようにと言って僕を送り出したのだ。僕がこんな夜中に焦燥の色を深めて戻ってきたことに困惑するのも当然だ。 「しばらく泊めてもらえませんか。実は……」 「ちょっと落ち着いて。とりあえず入りたまえ。何か飲み物は?」 「……あたたかいもの」 「相当疲れてるみたいだね」 「あ、俺も頼む」 僕の横に不意にマミーモンが現れて言った。マスターは驚いて彼に目を向けたが、彼が寝ぼけ眼で倒れ掛かる僕の身体を慌てて支えるのを見て少し笑った。 「待っててくれ。今毛布をとってくる」 「あ、マスター。電話貸してくれませんか」 「ん、いいよ。好きに使ってくれ」彼は厨房に据え付けられた電話を指さした。 マスターが部屋から消えると、僕はマミーモンに目配せした。 「電話番号の頭に184をつけるんだよ」 マミーモンは頷くとすべるように厨房に入り、受話器を取った。それを見ながら、僕は店内の本棚の脇のソファにゆっくりと腰掛ける。と、甲高い声が背後で響いた。 「なんでマミーモンさんが電話をかけてるんですか?」 「ああワイズモン、そういえばここにいたんだったな」 「早苗さんがここに置いて行ったんじゃないですか! 酷いですよ。ここはご老人の話で騒がしくて……」 「僕の家にいたら、君の入ったその本も、裂かれてたかもな」 「ほえっ!? どういうことですか?」 慌てたように説明を求めるワイズモンをはぐらかしていると、電話を終えたマミーモンが戻ってきた。 「なんだ、あのエロガッパここにいるのか」 「マスターの秘密の護衛にね」 「あのマスターさんはいい人そうですが、置いてけぼりは気に入りませんよ。今の電話は何だったんです? なんで早苗さんがかけないんですか」 不服そうに本棚が揺れた。僕は笑って答える。 「電話に出たのが僕の声を知ってる金沢警部や伊藤じゃマズいからさ」 「……それって」 「坂本の名前を出したから警察はすぐに調べるだろうな。明日の朝のニュースになっていてもおかしくない」 マミーモンが言った。匿名の通報だけは、眠りに落ちる前に絶対に済まさなければいけないことだった。 ***** 「……君を危険にさらしてしまったようだね。すまない」 「マスターは悪くないですよ。僕たちが好きでやってるんです」 僕は肩まで毛布を掛けてカウンターに座り、ホットミルクを一口すするとそう言った。 最初は今晩の出来事を細大漏らさず話すつもりだったのだが、自宅に侵入者がいたことを話した時点でマスターがかわいそうなほどに委縮してしまったために、そのあと二回殺されかけたことはさすがに言えず、坂本の死と彼の今回の事件における行いについても間接的に知った情報として話すしかなかった。 「坂本のことは、奥さんには話すのかい?」 マスターが気づかわしげに言った。 「話さなきゃいけないとは思います。でも、彼女も警察から改めて取り調べを受けるでしょうし、その時にそのことを知っているのはきっとまずい。秘密を守ろうとしてかえって動揺してしまうでしょう」 「要するに、先送りってこった」 マミーモンの言葉に僕はため息をついた。坂本の本当の姿を、彼が弥生を見捨てようとしたことを話すことは、彼女があのみすぼらしい家に過去の思い出を使って築いたガラスの宮殿を決定的に──もしかしたら坂本の死の事実よりも決定的に──破壊してしまうだろう。そのほうが彼女のためだ、と僕の心は言っていたが、自分にそんなことをする勇気と資格があるか分からなかった。大体彼女は僕に、彼の無実を証明してくれと頼んだのだ。 「探偵って難しいですね」 「そうじゃないタイプの探偵を目指すことだってできたんだよ。事実を淡々と解き明かして、去るだけの探偵にね。でも君はそうしなかった」 マスターはにやりと笑った。 「君は君らしくやってればいいんだ。探偵が謎解きの合間にいちいち“探偵とはどうあるべきか”なんてうじうじ悩んでると嫌われるよ。後期のエラリィ・クイーンみたいだ」 「マスター、エラリィのファンじゃなかったですか?」 「そうだよ。だから誰よりもああいうのにうんざりしてるのさ。とにかく今日は眠りなさい。長い一日だったろう。」 その通り、長すぎる一日だった。マスターが自室に引っ込むと、僕はあっという間にソファに倒れ伏した。まどろみの中で、僕の家に押し入った人物はどこで僕が奈由を好きなことを知ったのだろう、という疑問が頭に浮かび、そして消えた。 ***** 「いやいや、犯人への重要な手掛かりを思いついといてそのまま寝てんじゃねえよ」 翌朝の喫茶店のカウンターで、マミーモンが呆れた声をあげた。コートを着込んで帽子をかぶったその姿は、相変わらずほかの客の目を引いている。 「問題ないよ。ちゃんと朝に思い出してして考えてみた」 僕は胸を張って答えた。 「それで?」 マスターも興味津々に身を乗り出す。 「僕、基本的に学校で奈由さん以外の女の子と話したことないし、ちょっと観察すれば誰にでもわかると思う」 「……」 「女子というか、そもそも一緒に話す人が限られてるから、僕の感情までは知らなくても脅しに使う友人は自然と限られてくると思うよ。例の組織が学校にパイプがあるのは分かってるし、これだけじゃ犯人を絞れない」 「……」 微妙な沈黙が席を支配した。 その日は土曜日だった。僕は開店直前の九時に目を覚まし、マミーモンと共に朝のコーヒーとコンビーフサンドをつまんでいた(かなり高くついた)。人が死ぬのを見た翌朝というのがどんなものか知らなかったが、案外普通なものだ。しかし「昨日人が死ぬのを見た」という事実はもうすっかり頭の裏側にこびりついてしまった。多分この感触だけはいつまでも消えることはないだろう。いつまでも消えずに、それでいて少しづつ増えていくのだ。言葉や態度にそれを表す必要なんてないのだろう。 それに、僕には目下別の問題があった。先ほどからの沈黙に耐えかねたマスターが、明るい声でカウンターに置かれた僕のスマートフォンを指さしその問題を蒸し返す。 「ほ、ほら、今はこの華やかな予定のことを考えようよ」 「華やかな予定ねえ…」マミーモンが呟いた。 「そのはずなんですけどね…」 僕もうなった。目の前のスマートフォンはSNSアプリの、昨夜遅くに送られた初瀬奈由からのメッセージを表示していた。キュートな絵柄の絵と共に送られる散文たち。 『チケット買ってくれてありがとう!』 『昨夜はすぐ寝ちゃってたね』 『あんまり話せなくて残念だった』 『もし良かったら、今度どこかで会わない?』 「……認めたくないよ。奈由さんが犯人だなんて」 「なんで気のある素振りを見せた女を即座に犯人認定するんだよ」 マミーモンが呆れて言った。 「探偵とそういう展開になる女性は大抵被害者か犯人だよ。こんなこと認めたくはないけれど、それでも僕は彼女に被害者になるよりは生きてて欲しいんだ。例え罪人としてでもね」 「探偵が幸せな恋をする小説もいっぱいあるよ。というか探偵クン、ひょっとして見た目よりも大分浮かれてるね?」 マスターの問いから僕は目を逸らし、そしてその目を厳しくして隣の木乃伊に向ける。 「それより、なんなんだよ、これは」 『昨日はライブいけなくてごめんね。僕も会いたいな。来週の日曜日なんてどう?』 「人のメールを勝手に返すなよ!」 「いや、あの女からメッセージが来てるって何度教えても早苗が起きねえからつい」 お前どうせ適当な理由つけて逃げようとしただろと悪びれもせずにマミーモンが言う。 「ライブに行けなかったことを謝ってたり、結構行き届いてるよね。さすがは探偵クンの相棒クンだ」 「マスター、そういうことじゃないんです。なんて返せばいいかなあとか、こんなこと言って引かれないかなあとか、僕はそういうことで悩みたかったの! 顔文字使うか使わないかで小一時間悩みたかったの! 僕は!」 「お、おう。悪かったよ。」 反省した様子のマミーモンから視線をスマートフォンに戻すと、今度はその脇に置かれた文庫本が騒ぎ出した。 「ワタクシはナマモノには興味ありませんが、早苗さんの役に立ちそうな参考文献ならいくつも用意できますよ。その初瀬さんという女性は『ラティラハスヤ』的な分類で言うとどうやら……」 「ワイズモン、コーヒーかけるぞ」 「あんなに美味なマスターのコーヒーを、もったいない」 マスターはワイズモンの言葉に笑っていつの間にやら洒落たブックカバーの掛けられた文庫本の背を撫でた。ひっそりとマスターを守ってもらうはずが、ワイズモンは僕が朝寝をしている間に本棚で騒ぎ出し、あっという間にマスターと意気投合してしまったらしい。 坂本やその奥さんのことが繰り返し脳裏に現れては消える。それでも同時に僕の心は悦びで輝いていた。世界はなんて現金で冷たい場所なのだろう。かくいう僕も、自宅が敵の監視下に置かれていることは変わらないのだ。 「マミーモン、僕のスマホを勝手にいじったのはともかく、来週なんて安請け合いしてよかったのかな」 「デートの相手は待たせるもんじゃないだろう」 「いや、マスター、そういうことじゃなくて」 僕はため息をついた。マミーモンが軽い調子で肩を叩いてくる。 「気にするな、昨日も言ったじゃねえか。あの女のことはもう敵に知られちまってるんだ。付きっ切りで守れるほうが都合がいい。本当は今日や明日だって良かったんだぜ」 「それならなんで明日にしなかったんだよ? 僕のメールを勝手に見たんだから、日付だって好き勝手に決められたはずだろ?」 「悪かったって。……なんか嫌な予感がしたんだ。昨日色々あったばかりだしな」 「木乃伊の呪いかよ。冗談でもやめてくれ」 僕はそう言って大きく伸びをした。マスターはいつの間にやら僕たちの前から離れ、ご老人のお客の対応をしている。店もだんだんと混雑してきていた。 「そろそろ席を開けたほうがいいだろうね」 「同感だな」 「ワタクシはまた留守番ですか?」 ワイズモンが不服そうに尋ねる。 「そういうこと」 「ふん。まあいいですけどね。おじいさんを殺したデジモンも、それを命じた男も死んだんでしょう?」 「ああ、デスメラモンも、多分…」 すべての始まりであるあの午後に僕を見下ろしたデスメラモンの虚ろで真っ黒な二つの目を思い出す。彼がどういう意図で坂本に『選ばれし子ども』なんていう嘘を吹き込んだのか知りたかったが、それもかなわないだろう。 僕はそう言ってマミーモンに目を向けたが、突如耳を刺した陶器の擦れる音に思わずその目を閉じてしまった。僕の隣で突如立ち上がったコート姿の背の高い男に店中が奇異の目を向ける。 「どうしたんだよ、マミーモン」 「それだ、デスメラモンだ。畜生、昨日からずっと引っかかってたんだ」 彼の慌てたような調子に僕も思わず声が上ずった。 「おい、もしかして…」 「ああ、俺だって腐っても〈死霊使い〉だ。死んだデジモンのデータの気配は分かる。それなのに昨日からデスメラモンのそれは全然感じなかった」 「アイツがまだ生きてるのか? 坂本は死んだのに?」 「……依り代の死亡から憑依したデジモンの消滅までは時間差があるのかもしれませんね」 文庫本の中からワイズモンがぽつりと言う。 「それだけの時間があったら、デスメラモンには何だってできるさ。早苗、女のことではしゃいでる場合じゃねえみたいだ」 僕は頷いて財布から出した二人分の代金を机に置いた。デスメラモンが何をするにしても、坂本の関係者の身に被害が及ぶのはまずい。坂本の交友関係は良くは知らなかったし、その中で守るべき人物となると一人しか思いつかなかった。 「急ぐよ。マミーモン、弥生さんの家だ」 ***** 「やめて! こっちにこないで!」 この路地に来るのは二度目だった。一度目は伊藤が坂本を殺そうとしているという仮定の下に大慌てで駆けつけたのだったが、通りに響いた女性の甲高い声を聞く限り二度目の危機は一度目の比ではないらしい。 曲がり角を一つ曲がると同時に僕の隣でマミーモンが跳んだ。次の瞬間には彼の蹴りを屈強で青白い肌の男の腕が受け止めていた。デスメラモンがマミーモンを振り払った隙に、僕は彼の前で座り込んだ女性のもとに滑り込んだ。こちらを向いた鉄仮面にさらにマミーモンが組み付く。 「弥生さん!」 「君は……前の…」 坂本弥生はひどく震えていたが、頭ははっきりしているようだった。彼女は僕の伸ばした手をきつく握りしめると言った。 「……嘘つき」 「え?」 「今朝警察から電話が来て、トキオが死んだって言われたわ。あなた、トキオのことを助けてくれるって言ったじゃないの!」 「それは……」 「それに今度はデスメラモンが私のところに戻ってきてわけのわからないことを言い出すし……なんなのよ!」 弥生は頭を抱えて叫んだ。デスメラモンの拳をかわしたマミーモンが彼女に向けて吠え立てる。 「おい、勝手なことぬかしてんじゃねえぞ! 早苗はな…お前、なんでデスメラモンの名前知ってるんだ?」 その疑問が生んだ一瞬の間に、巨大な拳がマミーモンを殴りとばした。彼は吹き飛ばされて僕の横に転がったかと思うとすぐに起き上がり、背負っていたマシンガンを構えて僕たちを庇うように立った。 「お節介焼きの少年とマミーモンか。会うのは二度目だな。そこをどけ。」 デスメラモンが重い口を開いた。もっとも、鉄仮面のせいでその唇の動きは見えなかったが。 「やだね。この女とお前がどういう知り合いか分かるまで、危害を加えさせるわけにはいかねえ」 マミーモンの言葉に、デスメラモンの鉄仮面の浮かべる笑みが、少しだけ大きくなった。 「安心しろ、危害なんて加えるはずがない、違うか? ヤヨイは私のパートナーなんだから」 ***** 「どういうことだ? おい?」 僕たちに背を向けたままマミーモンが言った。 「僕に聞かれても」 「早苗に聞いてるわけねえだろ。隣の女だ」 僕は弥生に目を向けた。相変わらず僕の腕に縋りついたまま、無言で何度も首を振っている。 「知らない、ってさ」 「信じるのかよ」 「こういう時に女性を信じて痛い目を見た探偵のことは何人も読んでるよ」 「それで、お前は?」 「信じる」 「バカかよ」 その通り。坂本の死にも関わらずデスメラモンがこうしてぴんぴんしていることから見ても、弥生が奴の依り代であるというのは間違いないのだろう。 「それでも、奴の悪事を彼女が知っていたとは思えない」 僕の腕を抑える弥生の力が、少し強くなった。 「オーケーだ、大馬鹿野郎」 そう言うとマミーモンは、マシンガンをバットのごとく振り回し、デスメラモンが僕に向けて伸ばした鎖を弾き飛ばした。 「なぜだ、ヤヨイ? なぜ俺のことを拒む?」 デスメラモンは抑揚のない口調で言った。 「お前は俺に願ったろう? そして俺はそれを叶えようとしている。俺を怖がることなんてないんだ」 「あの時は……」 僕の隣で弥生がかすかに言った。僕よりも幾分年上のはずなのに、その声は幼い少女のようだった。 「あの時は夢だと思ったの。それで、せっかく夢なんだから、本当のお願い事を言おうと思った」 眉唾の言い訳にも聞こえたが、僕はやはり信じた。僕がマミーモンと出会った時もやはり同じようだったからだ。夢だと思ったから「探偵になりたい』なんて言葉が口をついて出たのだ。 「それ以来デスメラモンは私の前には現れなかったし、やっぱりあれは夢なんだって、そう思ったの、それに……」 彼女の声が不意に大きくなった。 「私は『昔みたいな三人組で遊びたい』って言ったのよ! トキオと私と伊藤君で。絶対にトキオを殺してなんて頼んでない!」 僕たちに伸びる鎖が不意に止まった。 「誤解があるようだ。私はあの男を殺してはいないよ」 「似たようなもんだろ」 マミーモンの言う通り、パートナーの振りをして坂本に近づき『選ばれし者』なんていう馬鹿げた考えを吹き込んだのはデスメラモンだ。坂本に一線を越えさせて、あのような状況に追い込んだのも彼だ。結果として彼は警察の指定安置所で胸にできた血の染みを気にしながら冷たくなっている。大体、坂本が危機に置かれている中、彼は何をしていたというのだろう? 「どうして坂本が殺されるのを黙って見逃がしたんだ?」 僕の問いにデスメラモンは高らかに笑った。 「誤解があるようだな。“坂本トキオ”は死んではいない」 「え?」 上体を起こした弥生の方に僕は手をかける。 「耳を貸さないでください。彼は間違いなく死んだ。殺されたんだ。僕は見ました」 声の調子に真実を感じたのだろう。彼女はうなだれてまた僕に身をもたれかけた。デスメラモンが厳しい苦笑で僕に問いかける。 「そこの少年、お前はあの下品な男のことを言っているのか? あいつが本当にヤヨイの夢見る“坂本トキオ”だとでも?」 「……何が言いたいんだ」 「俺はそうは思わない。わずかな時間をあの男と過ごしただけで俺にはそう分かった。くだらない誘惑に耳を貸して舞い上がり、身近な者も簡単に捨てるような男だと。事実、あいつはヤヨイをも見捨てようとしていた!」 再び、弥生の期待に満ちた目が僕に向けられた。僕は目を閉じて首を振る。 「あれは嘘じゃない」 僕の見た坂本トキオはデスメラモンの言う通りの男だった。誰かの無心の愛を受けるに値しない男だった。 「だから決めたんだよ。ヤヨイの夢を叶えるために、俺自身が“トキオ”になることにしたんだよ」 「はあ?」 僕とマミーモンは思わず同時に声をあげた。 「あの男が死んで、好都合だったよ。ヤヨイ、安心しろ。“トキオ”はここにいる」 「な、何言ってるのよ」 「伊藤という男もこれから調べて、場合によっては取り換えよう。ヤヨイの思い描く昔を取り戻して見せる。ヤヨイ、なぜそんな目で俺を見る? 全部ヤヨイのためにやっているんだ」 不意に銃声が鳴り響いた。マミーモンがマシンガンの引き金を引いたのだ。デスメラモンの胸にいくつかの小さな穴が空いたが、彼は痛みも感じていないようだった。 「もう十分だ。お前、人間に恋したのか」 「そのとおりさ、何かおかしいことでも?」 マミーモンの問いに、デスメラモンは質問で返した。 「前にお前に会った時に質問をしたよな、包帯男」 『お前がここにいるのは、誰かに指図されたからか?』 「俺は違う。俺は俺がヤヨイを幸せにしたいと思うから動いているんだ」 自信たっぷりに言うデスメラモンに、マミーモンはため息をついた。 「お前、気持ち悪いな」 「マミーモン、あまりいじめないであげろよ。恋愛が下手な奴は他人とは思えないんだ」 「なんだよそれ。とにかく、早苗、その女のこと頼んだぞ」 「はいはい」 マミーモンが「頼んだ」という言葉に込めた二重の意味に気づき、僕は少し苦々しげに言った。デジモンのこともよく知らず僕の腕の中で震えている弥生には分からないだろうが、彼女は僕たちにとっては人質でもあるのだ。彼女を盾にされてはデスメラモンは手を出せないし、彼女が死ねばデスメラモンも──。 「でも、お前はそうしない。俺がそうさせねえよ」 僕の心を読んだかのように、マミーモンが言った。その言葉に自然と笑みがこぼれる。 「オーケー、相棒」 僕がそう言うと同時にマミーモンが伸ばした包帯がデスメラモンに巻き付いた。弥生の手を引き、デスメラモンの横を通り抜ける。振り返る必要は感じなかった。