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マダラマゼラン一号
2019年11月01日
  ·  最終更新: 2019年11月29日

木乃伊は甘い珈琲がお好き 第四話

カテゴリー: デジモン創作サロン

#鰆町奇譚 #CoffeeTownTrilogy

 

        ≪≪前の話 後の話≫≫

 

4-1 灰色の廊下/合い鍵/甘い珈琲のこと




 最後に警察署の建物の前に立ったのは随分前のような気がした。頭で数えてみると、前に遠野老人殺害の目撃者として訪れてから二日も経っていなかった。しかし時間の問題ではないのだ。二日前の僕はあちこちの角に伊藤やその仲間が潜んで自分達を疑う探偵を消そうとしていないか気を配っていなかったし、バッグの中に変態の魔導師を封じ込めた文庫本を放り込んでもいなかった。変わらないのはそれがあの時と同じく夜だということだけだ。

 受付の女性職員は前に来た時と同じ人で、その事務的な愛想の良さが僕の正気を証明してくれた。金沢警部の名前を出すと彼女はにっこりと微笑んだ。

「六階の刑事一課にいらっしゃると思うわ。この証明書を胸につけて」


──俺もつけた方がいいかな、それ。


 背後でマミーモンが発した言葉に、余計なことを言ってないで周囲に気を配れという意を込めて僕は舌打ちをした。受付の女性が怪訝そうな目をこちらに向けたので、慌ててエレベーターに駆け込む。分厚い扉が閉まると僕は息をついて非難がましく声を上げた。

「マミーモン! 僕が人と話してる時に口を挟むなって言ってるだろ」


──なんだ、今更世間体なんか気にしてるのか?


「そりゃあ、気にするさ」僕は唇を尖らせる。


──気にするだけ無駄だろ。ほら、お前の好きな探偵だっていっつも一人でぶつぶつ喋ってるじゃねえか。


「マーロウ? アーチャー?」


──心当たりが沢山あるんじゃねえか。


「ハードボイルドの探偵なんて、そんなもんだよ。みんな意味もなく一人でべらべら喋るんだ」


──そいつらにも実はデジタル・モンスターが憑いてたのかもな。一人で喋ってるように見えるだけで、そいつらと会話してたんだよ。


 僕は肩をすくめた。

「それならお前も精々僕の一人芝居の相手をしてくれ。ただし、警察ではナシだ。目をつけられたくない」


──はいはい。


 マミーモンの気のない返事に続けて、エレベーターが開く。この世の中にキューブリックの映画より退屈なものがあるとしたら、それはこの廊下だろう。灰色の壁に貼られた指名手配犯達の写真、彼らそれぞれが多くの人の命をその手で奪ったという事実が、この廊下で唯一のユーモアだった。

「お前とキャパブランカ」僕は呟いた。


──何か言ったか?


 僕は首を振る。なるほど、見えないモンスターと会話していたと考えれば、マーロウが鏡相手にあんなことを言ったのも納得がいく。きっとそいつは無類のチェス好きで、洒落た、ムカつくやつだったのだろう。


*****


「部下を現場に確認に行かせた。君の言う通りだったよ」

 先程の廊下に負けじと退屈な灰色の部屋で、金沢警部がため息をついた。彼の向かいで僕は余裕ぶって足を組もうかとも思ったが、変に彼を苛立たせたくはなかったのでやめた。探偵的な振る舞いが時に人を不快にすることは、僕が今までの短い人生の中で身体を張って正しいと認めた鉄より硬い経験則だ。

「もう一度聞かせてくれ、店のどこであの写真を見つけたって?」

「床下です。妙にがたついてたんで、変だと思って調べてみたんですよ」

 そう言う僕を金沢警部は探るように見つめてくる。その視線を僕は余裕そのものの態度で受けた。僕の証言と古書店の様子に矛盾がないか確認しているのだろうが、細工は入念にやっている。あの床下に元々は何もなかったことを警察が知っているかどうかが唯一の気がかりだったが、


──油断するなよ。


 分かっている。物事が見え過ぎるくらいに見えるのは危険な兆候だ。そう言ったのは、確かクラリス・スターリングだったろうか。警部は僕には想像もつかないほどの数の嘘吐きを相手にしているのだ。

しかしそれでも、ここは攻めるべきだ。

「遠野さんを殴った犯人は見つかりそうですか?」

 警部は深くため息をついた。それは疲労のためのものというより、安堵のため息に聞こえた。

「これはここだけの話なんだが、検視の結果が出てね、遠野さんの死因だよ」

 僕は目を細める。警部は全てを見透かすような目で僕達を見た。その時僕は、そう思ったのだ。彼は僕ではなく“僕達”を見ていると。

「窒息死だった」


──思った通りだな。殴られて死んだんじゃない。


 お前の言う通りだ、マミーモン。でも、そう思ってることを警部に知られるわけにはいかないんだよ。

「何故それを僕に話すんですか?」

「いや、なんでもないんだ。気にしないでくれ」

「意味もなく捜査の内容を漏らすわけがないでしょう。僕の何を見たいんです?」

「本当になんでもないんだ。ただ…」

「ただ?」

 食い下がる僕を彼は真っ直ぐに見据えた。

「君はさっき、犯人のことを『遠野さんを殴った男』と言ったろう。『殺した男』じゃなくてだ。ひょっとして、遠野さんの死因が頭の傷じゃないことを知っているんじゃないかなと思ってね」


──早苗、落ち着けよ。ハッタリだ。


 警部の言葉に背中にひやりとした感触が走るのとほぼ同時に、マミーモンが耳元で囁いた。おかげで僕は表情を取り繕うだけの余裕を保つことができたが、一瞬間の表情の変化は相手に読まれたかもしれない。

「そういうことを考えていなかったといえば、嘘になります」

 僕は慎重に言葉を選びながら口を開いた。

「警部さんも見たでしょう? 遠野さんは救急車で運ばれる時も元気そうだった。だから、頭の傷のせいで死んだと言われた時、信じられなかったんですよ」

「まあ、確かにね」

 肩をすくめる警部に、僕は怒りの目を向ける。

「何が言いたいんです? 今日、僕は警察に協力しに自分の意思で来てるんです。そんな態度を問われるいわれはない筈だ」

「悪かったよ、でも」

 警部は遠野老人のエロ写真集をパラパラとめくる。

「これらの写真、そしてあの鍵、君が見つけたものはこれで全部かな?」

「僕が証拠を勝手に持ち去ったとでもいうんですか?」僕は机を叩いた。 


──おい、落ち着け。これじゃ相手の思う壺だ。


 マミーモンの言う通り、嘘を怒りで誤魔化すのはあまりうまい手段とは言えない。でも、構うもんか。

「そうは言ってないさ。でも、ここには自分が警察よりも賢いと思ってる連中が沢山来るんでね。それに、君は青少年だ。こういう写真には興味があるだろう──」

 僕は立ち上がった。

「帰ります。止めることはできないですよね」

「ああ。夜も遅い、家まで送らせようか?」

「結構です」その手には乗りませんからね。

「それじゃあ、気をつけて帰るように。…結局は私の言う通りになったろう?」

 ドアの前に立った僕は、彼の言葉に振り返った。

「なんの話です?」

「古書店の前で君に言ったろう。警察は悪役だ。君は私達への感謝と信頼を後悔することになるとね」

「その通りだ。警部さんも、あまり警察を信じない方がいいですよ」


──いい加減にしろ。もう十分だ。


 犯人はあなたの部下なんですから。そう言いかけた僕をマミーモンが止めた。僕はなんとか口をつぐみ、外に出ると荒々しく部屋のドアを閉めた。

 そこに伊藤が立っていた。ニキビ面に嘘っぽい笑みを浮かべ、気安く話しかけて来る。

「やあ、最近よく会うね」

「ええ、まったくです。あの証拠、知ってて僕に見つけさせたんですか?」

 口調に怒りがこもる。相手の罠かもと覚悟して古書店に向かったとはいえ、この男に踊らされたとなっては心穏やかではいられなかった。

「まさか、勘が当たっただけさ。まさか床下とはね。床下ねえ」

「言いたいことがあるならはっきり…」

 声を荒げる僕を伊藤は鋭い目で見据えた。

「嘘だね。それも下手な嘘だ。床板ががたついてただって? 俺たちもそれに気づかないほど馬鹿じゃない。それに、仮にそれが本当だったとしてだ。古本を譲ってもらいに行っただけの 君が、どうしてそんなものを見つけられるんだ?」

「偶々です。ありえない話ではない筈だ。それに、伊藤さんが自分で思うよりも警察は無能かもしれませんよ?」

 伊藤はけらけらと笑う。

「偶々、か。その脚本は下書きからやり直した方がいいな。君がどう言おうと、君の探偵ごっこは見え見えだ」

 探偵“ごっこ”だって?

 僕は伊藤に詰め寄る。こいつが犯人であることは間違いない。こいつが遠野老人にしたように、夜道でこいつを殺すのも悪くない。だって僕には、マミーモンにはそれができるのだから。

「そう怒らないでくれ。俺に止める気は無いよ、君が証拠を見つけたのは確かだしね。でも、警部はどうだろう?」

「疑うなら勝手にすればいいです。僕も、勝手に疑いますよ」

 伊藤の笑い声を背に、僕は早足で歩き出した。


*****


──早苗、おい、早苗!


「なんだよ!」

 警察署の前の通りで、僕は人目も憚らずに声を上げた。僕が署にいた二時間ほどの間に、街は秋の夜の冷たい風で満たされていた。


──なんだよ、じゃねえ! なんなんださっきのは。俺が何度も何度も落ち着くように呼びかけたのに、聞いちゃいねえんだな。


「話しかけるなって言ったろ」


──そうか。俺が黙ってお前一人にやらせとけば、もっとマシだったか? おまえ、すっかり相手の手玉に取られてたじゃねえか。情けねえ。


「余計なお世話だ」


──余計なお世話? お前、これからも俺の世話になる気だろ。俺を使って伊藤を殺そうとか、少しでも考えなかったか?


 図星だ。

「そんなこと、考えてないね」


──嘘が下手だよな。言っておくけど、俺はそんなことにいいように使われないからな。俺を利用してみっともない復讐をしようなんて…


「黙ってくれ」


──悪いけどさ、俺はお前の好きな時に口を開いたり閉じたりできる便利な機械じゃないんだ。


「じゃあ消えろ。一人にしてくれ。しつこいんだよ」

 しばしの沈黙の後、僕の背後から気配が消えた。振り返りたいという思いを抑え、まっすぐに早足で歩く。

 伊藤の「探偵ごっこ」と言う言葉が頭の中でこだました。秋の夜の冷たい空気が体を斬りつける。

 ウィリアム・アイリッシュ曰く、夜は若く、彼も若かったが、夜の空気は甘いのに、彼の気分は苦かった。

 そんな引用はクソ喰らえだ。僕は地面を蹴飛ばす。頭の中に渦巻く小洒落た引用句がかつてないほどに鬱陶しく思えた。いつもそれをかき消す背後の声も、今はもういなかった。


*****


 予め訪れることを告げておいた為に、閉店の時間を過ぎても〈ダネイ・アンド・リー〉には明かりが灯っていた。closedの札を無視し扉を開ける。

「いらっしゃい、警察はどうだった?」

「どうだったって聞かれてもなあ。ディズニーランドじゃないんですよ? 散々でした」

 マスターが明るい声をかけてくる、それだけで幾分心が安らいだ。皮肉を言う元気も戻ってきたみたいだ。彼は魔法瓶を取り出す。珈琲を淹れておいてくれたらしい。

「ブラックでいいかな? 相棒の木乃伊くんは?」

「僕はブラックで。…マミーモンはいません」

 マスターはしばし目を細めて僕を見ていたが、やがて黙って頷いた。

「何があったかは知らないけど、そういう時は甘い物が良い。ウィンナーコーヒーなんかどうかな?」

「…お願いします」

 僕は軽く首を縦に振った。こういう時に余計な詮索をしないのも彼の良いところだ。

 目の前に白い生クリームがのせられた珈琲が置かれる。スプーンでそれをかき回し、一口すすった。甘くて温かい液体が、まるでそれが僕の血管に流れる液体そのものであるかのように自然に身体に染み込んでいく。

「マスター、お願いしたこと、やってくれましたか?」

 彼は頷くと、一枚の紙と鍵をカウンターに置いた。紙の方は遠野老人のアルバムの中で一番最後にとられた幼い女の子の裸体の写真、鍵の方はワイズモンが遠野老人から預かっていたという鍵、いくつものエロ写真が撮られおそらくは現在坂本が潜んでいると思われる家の合鍵だ。警察に持っていく前に、マスターの友人がやっている商店街の鍵屋で作ってもらったのだ。

「大急ぎで作ってもらった。なんの鍵かとも聞かれたけど、黙っていたら秘密の用だと察してくれたよ。あいつなら警察にも口を割らないだろう。まあなんにせよ、鍵屋の名前が警察にバレないよう慎重に扱ってくれ。ついでに私の名前もね」

 僕は頷く。警察に提出する証拠をコピーしてくれというのは、共犯者になれということに等しい。無茶な願いだったが、マスターは快く引き受けてくれた。これで僕は警察とは別に坂本の居場所──少なくとも僕がそう考えている場所──に入る方法を手に入れたことになる。

 もっとも、問題が一つあった。

「それで、その鍵のはまる家をどうやって探すんだい?」

「…それなんですよね」

 僕はうなだれた。この街の鍵穴全てにこの鍵を差し込んでみるか。無茶な、そもそも目当ての家が市内にあるという確証も何もないのだ。

「鍵のタイプからある程度は絞れるって鍵屋のやつは言ってたけど、気休めにもならんよな」

 僕は頷いた。

「坂本や遠野さんの行動から洗い出すしかないでしょうね。あと、この写真とか」

 僕は件の写真のコピーを指でくるくると弄ぶ。

「おい、気をつけるんだよ。その写真を警察に見つかるだけでも一発でパクられる。提出すべき証拠から抜き取ったって事がバレたら重罪だ」

 呆れたように声をかけるマスターに僕は軽く頷き、写真を裏向きに机に置いた。見えない警察の目を恐れたわけではなかったが、望まぬ形でその身体を晒されている少女に申し訳ない気がしたのだ。

「万一の時は大丈夫ですよ。全部僕が一人でやったことにしますから」

「そういう問題じゃないさ。…しかし、その写真を遠野さんがねえ。あの人とは長い付き合いだが、そんなことをする人だとは思わなかったよ。誰にでも裏の顔はあるってわけだ」

「誰にでも裏の顔がある」伊藤や金沢警部の顔を思い浮かべながら僕はマスターの言葉を復唱する。それから一呼吸おいて、復唱すべき箇所はそこではないと気づいた。

「マスター、遠野さんとは長い付き合いだったんですか?」

 彼は頷く。

「そこまで親しくはなかったけれどね。あの人の店は商店街の古株だし、私もここで育った。顔は互いによく見知っていたよ」

 僕は彼の言葉を咀嚼するように何度も首をひねった。

「マスター。今から十年前、いや、十五年前かな、そのくらいの頃の遠野さんのことを聞いていいですか?」

「なんだってそんな…」

「理由はいいんです」

「私はその頃まだこの店を始める前で、東京で会社勤めをしていたんだ。盆や正月の時しか帰省していなかったから、あまり詳しくは話せないよ」

 僕の予想が正しければ、これは大きな手がかりになる。

「その頃、遠野さんの店によく遊びに来ていた子どもたちが居ませんでしたか? 多分三人組で、男二人に女一人」

 僕の予想に反して、マスターはすぐに頷いた。

「いたよ。この近所の子ども達みたいでね。遠野さんも面倒見が良かったから、店にある絵本なんかを読んであげたり、駄菓子屋に連れて行ってあげたりしていた」

「よく覚えてますね」

「実は当時から商店街に店を出したいと思っていてね。暇さえあればこの辺りをうろついて、あちこち見てたのさ」マスターは少し恥ずかしそうにはにかむ。

「遠野さんと子ども達が行っていたのは駄菓子屋だけですか? 他には?」

「あちこち行っていたし、話も聞いたよ。でも正確には…」

 僕はマスターから受け継いだ肩掛け鞄からこの付近を記した地図を取り出した。かつてのマスターはこの地図の中で様々な事件を夢想したのだろう。今ではもうない店の名前も多く載っていたが、当時のことを鮮明に思い出してもらうにはその方が好都合だ。

「彼らが行っていた場所の範囲を、この地図に書き込んでもらえませんか? 分かる範囲で構いませんが、なるべく細かい記憶までさらってくれると助かります」

「なあ、どうして…」

「いいから!」

 有無を言わせぬ僕の口調にマスターが鉛筆を片手に地図に向かい合ったのを見て、僕は席を立ち、カフェの本棚の方に行った。そこには古い漫画雑誌や週刊誌が並んでいる。その殆どが客が勝手に持ち込んだものだ。マスターの目指すカフェの雰囲気とはおよそかけ離れていたが、彼もとうに諦めていて、この一角には手も触れようとしない。

 僕はそこに鞄から取り出した「終着駅殺人事件」を忍ばせた。十津川警部シリーズの中でも人気の高いエピソードで、ドラマ化も数度されている。その色褪せた文庫本の背表紙は本棚の雰囲気にぴったりと合った。これを見ればマスターも十津川警部を放り出してジョン・グリシャムの小説を置けとは言えないだろう。完成された本棚というのは、何者にも侵すことのできない一つの生命であり、尊厳なのだ。

 もっとも、この小説に限って言えば、比喩的表現を抜きにしても本当に一個の生命体を抱え込んでいる。それを主張するかのように本の背表紙が震えた。あの甲高い声が小さく聞こえる。

「ワタクシをこんなところに置いて、どうするつもりです?」

「ワイズモン、君はここに居て、マスターを守ってくれ」

「守るといっても、何からですか?」

「マスターに危害を加える全てのやつと、あと警察がマスターを捕まえようとした時だ。ここにある雑誌はどれも廃品回収でも二の足を踏むような奴だから、好きに放り投げていいぞ。昨日僕にそうしたみたいに、頭めがけて本をぶつけるんだ。いいか、角を使え」

 抗議するように本棚が震える。

「それじゃあなんです? ワタクシはここで留守番? 置いてけぼりってことですか?」

「ちゃんと外に気を配ってさえくれれば、後は好きにしていいよ。その…なんだ、神秘の探求をしていればいい」

本棚が逡巡するように沈黙した。

「…ここ、居心地いいですか?」

「かなりね」十津川警部が雑誌にコーヒーをこぼすのが趣味の老人のお気に入りとならない限りは。

 その時、背後でマスターの声がした。ワイズモンを本棚に取り残し、僕は慌ててカウンターに戻った。

 彼の前には、商店街周辺の一帯をペンで囲んだ地図があった。

「かなり曖昧な記憶だけど、思いつく限りは書けたと思う」

「ありがとうございます」僕は改めて地図を覗き込む。マスターの記した範囲は狭いとは言えなかったが、その分布には偏りがある。鰆町商店街や大通りのある一帯からちょうど南東の方角だ。遠野老人と三人の子どもたちのお気に入りの場所、捜査の方針になるはずだ。

「なあ、教えてくれよ。これはなんなんだ? その三人の子どもと今回の事件、何か関係があるのか?」

 焦ったそうに尋ねるマスターに、僕は頷いた。

「その三人の子どもは、坂本とその奥さん、そして遠野さん殺害事件を担当している伊藤巡査なんです。勿論、ただの偶然かもしれませんが…」

「いつだって探偵は、ただの偶然に見える事象から謎を解くんだ。そうだろ?」

 そう言うとマスターはくつくつと笑った。

「どうしたんですか?」

「いや、なんでもないよ。ただ、君が私の思っていたよりもずっと立派に探偵の仕事をこなしているからさ」

 僕は面食らった。「そう、ですかね?」

「ああ、探偵ってものは事件の渦に飛び込むのがとにかく上手なのさ。その渦、狂った渦は誰の近くにもある。でも大抵の人にはそんなものに気づかないし、気づいたところでそんな危なっかしいものに近づこうなんて考えない。ところがそこに自分から飛び込んで行く物好きな馬鹿がいる」

「それが、探偵ですか」

「気にしなくて良いよ。昔探偵を目指していたオジサンの持論だ。ただね」

 マスターは僅かに言葉を切り、真剣な顔になる。

「その渦の中は危険な場所だ。物語の中の探偵ならまだしも、普通の人間なら粉々になってしまう。君は、とても危ない橋を渡っているんだよ」

「…犯人が僕を消そうとすると?」

「犯人とは限らない。君は頭の回転が結構早いみたいだから、遠野さんと坂本が二人だけであの仕事をしていたとは思わないだろう?」

「裏に、組織めいた連中がいるでしょうね」

「そうだ。君はこの鍵で入れる家を、遠野さんと坂本の両方の思い出の場所だと推理したみたいだけど、その組織が提供した場所だということも十分に考えられる。そうしたら、その場所を探すことはより困難に、より危険になるだろうね」

僕は頷く。今頃は留置所にいるであろうサッカー部の鹿島があれほど怯えていたもの、それはおそらく一人の人物ではない。集団だ。そして遠野古書店は、その末端に過ぎないということだろう。

「その組織が、鹿島を手なづけていたということは…」

マスターが頷く。

「奴等は学校にパイプがある。大方、不良の少年少女を多く抱え込んでいるんだろう。遠野さんのアルバムの中にあったという君の学校の女子生徒の写真を手に入れる為の窓口はおそらくそこだろうね」

そしてその生徒の中には、デジタル・モンスターを連れた“狐憑き”がいるかもしれない。鹿島とサイバードラモンに坂本を殺させようとしたということは、彼等もデジタル・モンスターの存在を把握して、意識的に使っているということだ。

「確かに、危険だ」

「だろう? 君一人で飛び込んでいける場所じゃないよ」

 その言葉でぴんときた。

「これってひょっとしてカウンセリングですか? それとも仲直りの指南?」

 マスターはにやりと笑う。

「そんなんじゃないよ。単なるお節介さ。私は素敵なコンビが出てくる探偵小説が特に好きなんだ」

「シャーロック・ホームズとジョン・ワトソン」僕は呟く。

「エルキュール・ポワロとヘイスティングス」

「ネロ・ウルフとアーチー・グッドウィン」

「そして君達だ。とにかく今日は帰って休みたまえ。明日になったらマミーモンと話をするといい」

 僕は黙って頷き、すっかり冷めたウィンナー・コーヒーを飲み干した。甘い珈琲も、悪くないものだ。そう思った。



4-2 月/残された帽子/足音の大きな猟犬のこと




 帰宅した時には既に夜の九時をまわっていた。空には満月が浮かび、白く冷たい光を街に投げかけている。いつもなら遅くに帰宅すると煩いことを言う管理人も今日はいない。結局初瀬奈由のライブには行けなかったな、そんなことを思いながら静かな廊下を静かに通り抜け、自室まで辿り着き、冷え切った体をベッドに横たえれば良いだけのはずだった。

 しかし、その願いは怒りの表情を浮かべて廊下に立っていた隣人によって見事に遮られた。彼は僕と同学年で、ここからは少し遠い私立の高校に通っている。

「春川くん!」その声の調子から、怒りの矛先が僕である事が分かった。

「どうしたの?」

「どうしたのじゃないよ! このマンションが連れ込み禁止なの知ってるだろ? それなのにあんなに騒いで…」

「騒いで?」

「ドタドタって音がうるさいんだよ! こっちは明日の小テストに向けて勉強してるっていうのに。君、ただでさえ最近部屋で妙な独り言喋ってるだろ?

気味が悪いし、邪魔なんだ」

「それっていつの話?」

「白々しいな、二時間くらい前だよ、とにかくやめてくれ」

「ありがとう」僕は心から隣人に礼を述べた。

「次こういう事があったら大家さんに……え?」隣人がきょとんとした声を出す。

「ありがとうって言ったんだ。君は僕の命の恩人かもしれない」

 呆気にとられた友人に部屋に戻るよう鋭く言うと、彼は案外大人しくそれに従った。ドアが閉まるのを確認すると、息を大きくつき、乾いた唇にゆっくりと舌を這わせる。通路を見回し、近くにあった消化器を取り外した。部屋の中にいるかもしれない侵入者のことを考えるとこのような上手に振り回せない鈍器では気安め程度にしかならなかったが、今の僕が求めているのはまさにその気安めだった。

 ドアノブを静かに捻る。思った通りと言うべきか、鍵は開けられていた。勢いよくドアを開けると、部屋の中には既に誰もいなかった。周囲を見渡しながら、部屋の奥に足を踏み入れる。侵入者はもう去った後らしかった。ほっと息をついた。

 僕の部屋は酷く荒らされていた。引き出しは全て開けられ、ベッドのマットはひっくり返されている。クリアファイルに 挟んだプリントの類まで一枚一枚調べられている。本棚もほとんどひっくり返されたような状態で、何か挟んでいないか乱暴にめくられた形跡のある推理小説達が床に転がっていた。

 しかし、目に留まったのはそんなものではない。僕の机に突き刺された、明らかに法律に違反している刃渡りのナイフ。その刃先によって固定された一枚の写真。

 初瀬奈由の笑顔が、そこには写されていた。

 愛する人を盾に取った脅し、マフィアのやり口、僕は呟く。そういうことね。

 とつぜん頬に吹き付けた風に顔を上げた。窓が開け放されている。犯人は僕の部屋を荒らすだけ荒らした後、窓から逃走したらしい。ここは四階、やはり人ならざるモノが絡んでいるに違いない。

 背中から汗が噴き出していた。震える手でスマートフォンを手に取り、SNSアプリの無料通話機能で富田昴を呼び出す。スマートフォンの画面の向こうで彼が電話を取ったのとほぼ同時に僕は彼にまくしたてた。

「富田! 大丈夫か?」

「よお、春川、どうしたんだ? 結局ライブには来なかったんだな」

「そう、それ、ライブ! 奈由さんは大丈夫か?」

「もう演奏は終わったけどさ、今そこで他のバンドメンバーと元気そうに話してるよ。電話代わるか?」

「いい。いや待って! やっぱり頼む」

 そこはライブハウスのすぐ外らしく、昴が電話を離した途端に喧騒が耳に流れ込んできた。まだそこには多くの人がいるらしい。流石に敵も衆人環視の中で人を狙おうとはしないだろう、と考えた瞬間に、遠野老人のことが頭によぎった。あの老人を殺した奴は僕や金沢警部が見ている中で、老人に手さえ触れずにそれをやってのけたのだ。

「早苗くん、どうしたの?」

「奈由さん! 大丈夫?」

「大丈夫ってなに?」おかしなこと聞くね、と彼女はからからと笑う。その笑い声を直接聞けたおかげで幾分心が落ち着いた。

「い、いや、なんでもないよ。今日は行けなくてごめん。もしまた機会があったら誘って」

「うん」

 その時、彼女の背後で別の女子の呼ぶ声が微かに響いた。

「ごめん、メンバーに呼ばれた。ライブハウスの人にノルマ支払わないと。じゃ、また明日ね」

「うん、またね」

 そして彼女は電話の向こうから消えた。彼女はバンドのメンバーと一緒に、名前の読み方もよくわからないバンドやライブハウスのノルマがぐるぐると回る正気な日常に戻っていくのだ。さっきの電話、誰? ひょっとして彼氏? ううん、そんなんじゃないよ。

 そして僕の方はまた、自分が一人で狂気の渦の中にいることを思い出すのだ。なぜなら、僕は、探偵だから。

 僕はため息をついた。高望みはしないさ。真実を知ることができれば。

 でも、君のことは絶対に守らなくちゃいけない。

「富田、頼みがあるんだ」電話が再び昴の手に戻ると、僕は早口で言った。既に足は玄関に向かっている。

「どうした、写真なら送ってやらないぞ」

 軽口を叩いてる場合じゃないんだよ。

「今から、そうだな」僕は自宅から大通りのライブハウスまでの所要時間を算出する。全速力で駆けて二十分、道中で三回の息切れ、いや、五回かもな。

「今から三十分くらいの間、奈由さんについていてあげてくれないか?」

「どうしてそんな…」

「いいから!」

「落ち着けよ…三十分か? あまり長居はできないんだよ。セナをあまり遅くまで連れ回したせいで、親父がヘソを曲げてるんだ。もう少しで迎えに来る。心配性なんだよ。こないだセナが友達と旅行に行った時も大変だったんだぜ」

 セナ? 昴の妹のことか。今はそんなガキの帰宅時間のことを気にしてる場合じゃない。噂の富田市議会議員のヘソの具合も知ったことではない。

「いいから頼む。緊急事態なんだ」

「どうしたんだよ?」僕の真剣な調子に昴も興味を持ったようだった。彼が眉をひそめるのが眼に浮かぶ。

「とにかく、頼んだからな」

 そう言って電話を切るのと同時に僕は靴に足を差し込んだ。ドアノブに手をかけ、一度自分の部屋を見回す。

そして気づいた。玄関先に立てられたコート掛け、その頂上に掛けられた、ハンフリー・ボガート風の帽子。

 僕は息を吐き、そっと笑みを浮かべた。この狂気の渦の中にいるのは、僕一人ではなかった。それが、たまらなく嬉しかった。


*****


 初瀬奈由のいるライブハウスのある大通りから少し外れた路地裏、冷たい秋の月明かりの中で、マミーモンはマシンガンを構えた。それを頭上に向け、ろくに狙いもすまさないままに引き金をひく。

 乾いた銃声、確かな手応え。彼は地面を蹴って飛び上がり、先ほど自分が弾丸を撃ち込んだビルの屋上に着地した。ふと横を見ると、明るい照明が地下のライブハウスに続く階段を照らしている。救急車も血痕もない。初瀬奈由の身にはまだ何も起きていないようだ。

「おい」マミーモンはそちらに目を向けたまま口を開く。

「おい、そこのお前に言ってるんだよ。三、四発ぶち込まれといてまだ隠れられるとでも思ってるのか?」

 沈黙。しかし、目の前五メートル先で先程から夜の空気が慌ただしく動いていることは疑いようもなかった。

「早苗の家に脅しのメッセージがあったから様子を見に来てみたら、馬鹿みたいに気配を振り回してる奴がいた。待ち伏せのつもりか? やめとけ、多分むいてねえよ」

「好き勝手言ってくれるじゃないか」

 その言葉とともに光った瞳が、闇に赤い点を二つ打った。その黒い金属質の体躯は闇に紛れてはっきりとは見えなかったが、マミーモンは声を上げて笑いながら相手の名前を当てることができた。

「ブラックラピッドモン、黒い身体は隠密部隊の証ってか。俺にあっさり気配を感づかれてる時点で、お前がこの世界に来るまでに落ちこぼれた理由は察しがつくな」

 電子音が混じった高い声で、黒い猟犬は笑う。

「目も耳も干からびてるミイラにこうもあっさりバレるなんて、流石に傷つくなあ。あまり人の短所を笑ってると、自分の弱点を見抜かれた時に辛くないかい?」

「どうだろうな。俺が興味あるのは今のところ、お前が一体誰の差し金でここで人殺しの準備をしていたかってことだけだ」

「差し金?」猟犬がけらけらと笑う。

「ぼくが? 人間の命令でここにいるって? それはきみのことじゃないのか?」

「どうかな、俺は自分で選んでここに来たぜ」探偵仕事の思わぬ進展に増長している春川にはまだ怒りがあったが、それとこれとは別の話だ。

「それじゃああれ? きみは自分がやりたくて同族の人殺しを止めてるってことかい? 笑っちゃうね。正義の味方でも気取ってるのか、それとも人間に良いように使われてることに気づかないほどの馬鹿なのか。そのふざけた人間の服を見るに、ただの馬鹿みたいだな」

「俺の身の上には面白い話なんてないよ。俺はお前の方に興味があるんだ。弱っちい落ちこぼれが、やり返す力のない人間を殺してるのか? もしそうなら…」

 マミーモンは銃を構える。

「お前を殺すよ。もうそういう手合いは散々見て、飽きちまったからな」

 そう口にして再び引き金を引こうとした刹那、彼の体が後ろに大きく吹き飛んだ。ビルから投げ出され、酷い体勢で地面に叩きつけられる。呻き声を上げながら横に転がった瞬間、先ほどまで自分がいた場所が光に包まれる。コンクリートが白い煙を上げる音、頬に感じる熱。〈ラピッドファイア〉か。そう呟く彼の上に、黒い金属製の体が落ちてきた。

「訂正しろ」

 彼の上に馬乗りになり、右手の銃口を突きつけたブラックラピッドモンは、不意にそう言った。荒く息を吐きながら、マミーモンは言い返す。

「訂正? なんの話だ?」

「弱っちい落ちこぼれって言ったな。これで分かったろ。ぼくは弱くない!」

 弱くないと言え、彼は高い声でそう訴える。

「不意打ちしといて、強いって言えってか?」

「黙れ! もっとよく分からせてやろうか?」

「おい、ちょっと待て! 分かったよ。あんたは強いらしい」

 鼻先の銃口が熱を帯びるような気がして。マミーモンは慌てて叫んだ。その場しのぎの単なる嘘ではない。彼の最初の体当たりを、マミーモンは見切ることができなかった。すぐ隣のコンクリートの有り様を見れば技の威力も測れるだろうが、一歩間違えればそれが自分の今の姿だったかと思うとそんな気にもならなかった。

「分かったならいいよ。寝っ転がりながらぼくの光弾を避けるなんて、きみも中々やり手みたいだしね」

「そりゃどうも」

 満足気なブラックラピッドモンがその言葉に自分へのシンパシーを滲ませているのに気づき、マミーモンは吐き気を抑えた。

 きみもぼくと同じだね。強いのに、事情があってこんなところに来てしまった。

 黙れ。一緒にするんじゃねえ。

「きみの言う通り、ぼくは強い。速さも、光弾の威力も。前線に立てば緑色の連中の誰よりも強い自信があった」

 それなのに! 彼はマミーモンのことなど忘れたかのように独白を続ける。

「ぼくの体が黒いから、それだけで奴等はぼくに下らない偵察任務を押し付けた。隠れるのは苦手でね。ぼくに気づいたやつは全員殺してたら、いつのまにか敵は壊滅してた。一騎で敵の基地を一つ潰したんだ。それなのにぼくは何を言われたと思う?

一人で突っ走るな、軍の規律を乱すな、ときた! いつだって、どんなときだって、ぼくがほかの誰よりもたくさん殺していたのに!」

 その“たくさん”の中にはいったいどれだけの抵抗する力や意思のないものが混じっていただろうか。マミーモンはそう聞く気にはなれなかった。おそらくブラックラピッドモンは殺した相手の顔すら見ていないだろう。

 そうに決まっている。俺だって、それを見ようともしなかった。

「…だから、この世界に来て、人間と組んだってわけだ」

「組んだ覚えはないね。あんな脆い生き物と仲良くして、何をしようっていうんだ?」

ブラックラピッドモンはふふんと鼻で笑う。

「でもまあ、あいつらにも良いところはある。銃で脅せば簡単に言うことを聞くところとかね」

「何をさせた」

「そういきり立つなよ。本気で疑問なんだけど、きみは何をそんなに怒ってるの? ぼくが人間をたったの一人殺そうとしてたこと? そうなの? なあ、マジで?」

 その通りだ。俺は何に苛立っているんだ? 今更、命をどうこう語れる立場かよ。

「…こっちの質問に答えろ。憑いた人間に何をさせた?」

「ぼくだって悪じゃない。普段はよそ者らしく、大人しくこの世界で暮らしてるよ。でもね、時々どうしても抑えられなくなる」

「殺しの衝動?」

「話が分かるね。きみも同じなのかな?」

「一緒にするなよ」

 一緒にするな? あのサイバードラモンをどう殺したか、忘れたのか? 俺は彼に突きつけた銃の引き金を“カッとなって”引いたんだ。痛いところを突かれて、ムカついて殺したんだろうが。

「憑いた人間に、殺していい相手を調達させてたってとこか?」

「まあそんなとこだね。今日もそんな人間の話を聞いて、殺しに来たんだよ。僕の久々の楽しみを邪魔するきみのことは許せないけど…」

 赤く輝き熱を帯びた銃口を向けるブラックラピッドモンの金属製の顔が、歓喜に歪んだ気がした。

「いつもより殺す相手が増えたと思えば、そう悪くないかな」

「なんだよ、もっといろいろ探れるかと思ったのに、結局はただの三下か」

 背後で聞こえた声に、ブラックラピッドモンは驚いて飛びのいた。振り返ると、マシンガンを肩に担いだ木乃伊がコートについた汚れを払っている。その唇は、僅かに震えていた。

「マミーモン、おまえ、どうやって…」

「素早いのはお前さんだけじゃないってことさ。それに、強いのもな」

 唸りを上げる猟犬に、彼は笑いかける。

「お前、自分じゃ人間を顎で使っていい気でいるんだろうが、とんだお笑い草だよ」

「どういうことだ!」

「お前、自分の憑いてる人間に興味持ったことないだろ」

 我ながら上手い手だ。偉そうに説教をして、自分を優位に立たせる。そういや俺は、早苗相手にもいつもこの手を使っていたな。

 彼が心の内で自嘲気味にそう呟いたことなど知らず、猟犬は再び鼻で笑い声をあげた。

「人間への興味? ああ、無いよ。そんなもの必要ないからね」

「そこがお笑い草だって言ってるんだよ。少しでも相手を知ろうとしていたら、そいつが犯罪組織の末端にいて、組織のお偉いさんに言われるがままにお前を都合のいい殺人マシーンとして使っていたことに気づいていたはずだ」

 都合のいい殺人マシーン、それはマミーモン自身が最も嫌う言葉だった。春川であれ誰からであれ、そんな風に扱われるのは我慢ならない。とはいえ、春川がそんな事情を知るはずもない。

 そうだ。俺が本当に都合のいい殺人マシーンだったなんてこと、早苗は知るはずがない。知られてはいけない。

 彼がそう小さく呟く間にも、目の前の出来損ないの猟犬は怒りに鼻息を荒くしていた。

「あいつ、帰ったら殺してやる」

「なにか勘違いしてないか? お前は帰れねえよ」

 彼はそう言ってマシンガンを持ち上げる。

 ああ、この瞬間がやっぱり楽だ。もう何も考えなくていい。ただ相手を殺せばいいだけの、この瞬間が。

「少し泳がしときゃ何か喋るかとも思ったが、その様子じゃ望み薄だな。さっきも言った通り、お前にはもう飽きたんだ。結構我慢したほうだと思うぜ」

 だから。考えるのはもう面倒だから。

「さっさと死ねよ」

 猟犬がその目を光らせて叫ぶ。

「勘違いしてるのはきみの方だよ。ぼくは強い。それは嘘じゃない!」

「だったら礼を言わなきゃな。もう少しだけ長く、お前で楽しめそうだ」

 満月が路地裏の暗闇を微かに照らし、二つの影が地面を蹴った。


*****


「なあ、一つわからないことがあるんだけど」

 先ほど二体のデジモンがいた路地裏の上空。両手から放った無数の光弾とともにマミーモンに迫りながら、ブラックラピッドモンが言った。

「なんだ?」

 マミーモンもそう尋ね返しながら左手の包帯を伸ばす。彼の〈スネーク・バンテージ〉は文字通り腹をすかせた蛇のように俊敏に光弾と光弾の間をくぐりぬけ、彼に迫る猟犬の黒い体に迫る。間違いなく包帯は敵の体に巻きつくはずだった。

「きみのことさ、きみがここに来た理由の話」

 ところが、予想とは裏腹に敵のその言葉は頭上から聞こえ、マミーモンはとっさに後ろ手に飛んだ。そのままその鉤爪に紫電を走らせ、目の前に現れた黒い体に向けて突き出す。手応えからして金属製の鎧に傷くらいはつけられたかもしれないが、それを突き通すとまではいかないようだった。気の急いた攻撃はうまく力がこもらなくていけない。

「話すことなんかねえよ」

 彼はその場で一回転し、至近距離で光弾を放とうとする猟犬の頭を強く蹴りつけ、下方に跳ぶ。包帯を避けられることは予想もしていなかったが、とにかくこれでこっちが一本先取といったところだろう。

「きみは強い、ぼくと張り合えるくらいにね。そんなきみがこの世界に来た理由は、やはりぼくと同じタイプのものだろうな。…強いのに、何かが足りないんだ。その種族が当然のように持っているものが」

 そう言って猟犬はまた弾幕と共に彼に迫る。なんだってこいつはこんなにも接近戦に持ち込みたがるんだ? マミーモンは眉を顰める。彼の戦闘スタイルは格闘技主体のものだ。御大層なマシンガンなど持ってはいるが、相手が格上だったりブラックラピッドモンのように硬い装甲を持っている場合には有効な決定打となることはない。頼みの綱、いや頼みの包帯とでもいうべき〈スネーク・バンテージ〉があっさりとかわされた今、高威力の銃火器を備えた敵にとっては遠距離戦のほうが都合がいいはずだ。

「ヒントはナシだ。そうやって自分で推理してみるんだな。俺の相棒はいつもそうやってるぜ」

 弾幕をかわし切れず、熱球がいくつかマミーモンの体を掠める。肌が焼けつく痛みに思わずうめき声を漏らしたが、すぐに気を持ち直し再び目の前に飛び込んできた敵を肩に担いでいたマシンガンで殴りつける。

「相棒? 憑いた人間のことをそんな風に呼ぶなんて、愚かとしか思えないね。でもまあいいや、きみたちの真似をしてみるとするかな」

 まずいな、マミーモンは呟く。「人間の真似をしろ」と言えば人間嫌いのこの猟犬は彼の欠点探しをやめるかと思ったのだが、当てが外れたようだ。敵の考えを逸らそうと銃を乱射するが、散弾が鎧にはじかれるむなしい金属音しかかえってはこなかった。

「きみと他のマミーモンとの違いはなんだ? デジタルワールドでアンデッドの一団と戦った時、他の連中はきみほど強くはなかった。でもそういうのじゃないな。ぼくが知りたいのは、連中にできて君にできないことだ」

 他のマミーモンとの交戦歴があるのか、最悪だ。

 飛び交う弾丸の合間を縫って言葉を投げ合っていた木乃伊と猟犬は、やがて始めと同じビルの屋上に降り立った。マミーモンは荒く息をつく。余裕のあるふりをして言葉を発していたが、飛行ユニットを持つ相手と跳躍力だけを武器に空中戦をするのはやはり厳しいものがある。見れば相手もかなり消耗しているようだったが、なおもべらべらと一人で話を続けていた。

「きみは強いよ。このぼくが言うんだから間違いない。術師でありかつ銃を武器に持つマミーモンは、大抵の場合肉弾戦に弱い。だからぼくも距離をなるべく縮めようとしたんだけど、近づく度にことごとくやられてしまったよ」

 そう語る猟犬の言葉が突然上ずった。マミーモンはその語調の変化が何を意味するか知っている。相棒が話の最中に何かを思いついたときも、いつもそんな感じだ。

「ぼくは隠密に適した個体のはずなのに隠れるのが下手糞で、だからそのほかの戦闘技術を磨いた。きみも同じか? 肉弾戦に優れているのは、マミーモンが本来得意とする遠距離戦がまるでダメだから?」

 ああ、その通りさ。クソッタレの名探偵。

「マミーモンは〈死霊使い〉だ。前にアンデッド供と戦った時は、沢山の仲間が不気味な力で発狂させられたもんさ。でも、きみはそうしない」

 そして最後に、彼は謎を解いた探偵よろしく宣言した。

「きみは〈死霊使い〉のくせにまともな術一つ使えないんだ。そしてそれはつまり…」

 彼はそこで言葉を切り、再び宙に飛び上がり、マミーモンと距離を置いた。そして両手を横に真っ直ぐ伸ばし、足をそろえる。二本の手と揃えられた足の先の三つの点が輝き、夜の闇を切り裂く黄金色の三角形をかたちづくった。

「ぼくの敵じゃないってことだ」

 推理を大人しく拝聴しなければいけない名探偵は、マミーモンには既に一人いた。

 敵が彼の弱みを言い当てるのを待つことなく彼の足はすでにアスファルトを蹴り、ブラックラピッドモンの〈ゴールデン・トライアングル〉に迫っていた。手には紫の電撃を纏わせている。死霊の力を紫電に変えその四肢に宿す〈ネクロフォビア〉は死霊使いとして彼が使える唯一の術式であり、敵に決定的な一打を与えるために残された最後の手段だった。

 話はいたってシンプルだ。彼がその鉤爪で敵を貫くのが先か、敵がその三角形から放つ光線が彼を消し炭に変えるのが先か。しかし、五分と五分の勝負だと割り切るには彼はあまりにも疲弊し、動揺していた。情けない話だ、彼は思う。自分の弱みを敵に指摘されたことでこんなに心が揺らぐなんて。

 敵まであと五歩の距離、彼は敵と同じ高さまで飛び上がる。三歩の距離、右手を振り上げるが敵の放つ輝きも一層増す。あと一歩、放たれる光線の熱に目を瞑る。ここまでか──。





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マダラマゼラン一号
2019年11月02日  ·  編集済み:2019年11月03日

4-3 黒紅の月/木を隠すべき場所/開いたドアのこと



 こわごわと目を開いたマミーモンが最初に捉えたのは、恐怖を浮かべたブラックラピッドモンの瞳だった。それとほぼ同時に背筋に言いようのない悪寒が走り、彼は思わず後ろに飛びのく。こんなことを言ったら春川は笑うかもしれないが、木乃伊だって恐怖を感じるのだ。

 目の前で先ほどまで余裕たっぷりに攻撃態勢をとっていた黒い猟犬は、先ほどまでのことなど忘れたかのように地面に立ち尽くしていた。その口から、言葉にならない言葉が漏れる。

「あ……あ…」

 マミーモンはじりじりと後ずさりをした。いくら落ちこぼれでも〈死霊使い〉なら、今この場を満たすモノの気配に気づかない者はいないだろう。おびただしい数のデジタル・モンスターの魂のデータ──それら全てが、身の毛もよだつほどの怨念を抱え込んでいる──が大きな流れとなって、ブラックラピッドモンの頭に流れ込んでいるのだ。猟犬の赤い目にどんな狂気の光景が浮かんでいるかは知りたくもないが、その目に僅かに残された正気の部分は憎悪をマミーモンに注いでいた。

「し…りょ……つかえる…じゃんか…………う……うそ、つくなよ…」

「違う!」

 彼は思わず叫んだ。俺じゃない!

「ほ……ほかに…だれが…………あ……」

 猟犬の言葉は途中で途切れた。その目が不意に大きく見開かれ、マミーモンの背後を見つめる。

 地震だ、その一連の風景が突然がくがくと震えだしたのを見て、マミーモンはそんなことを思った。もう一度考えてみると、ただ単に彼の体が震えているだけのことだった。

猟犬はなおも、その目を恐怖に見開いていた。その視線はマミーモンを通り越し、彼の背後にいる誰かに、ひたすら怯えている。

 俺のうしろに、誰がいるんだ?

「久しぶりだな、マミーモン」

 背後で聞こえた甘ったるい声に、彼は思わず飛び上がった。かつて幾度となく聞いた声。時には恐れ、時には羨望の対象。そして今は、捨て去った過去の象徴ともいえる声。

「なんで…」思わず声が漏れる。

「そんなに怖がることもないだろう。こっちを向け。古い仲だ」

 マミーモンは大きく一つ深呼吸をし、震える手を握り締めながら振り返った。

「…なんで、〈月光将軍〉が、ここにいるんだ。ネオヴァンデモン…!」

 蝙蝠の羽で長い腕と細い体を包んだ長身のデジタル・モンスターは穏やかに笑った。

*****

「久しぶりだな、マミーモン。お前が私の元を去ってからもうだいぶ経つが、まさか別の世界に来ていたとは」

 黒紅色の吸血鬼──ネオヴァンデモンは、古い友人に向けるような喜びに満ちた調子で言った。しかしマミーモンはきつい口調で叫びを返した。叫ぶように話さなければ、声は途中で恐怖に押しつぶされてしまっただろう。

「質問に答えてくれ! どうしてここにいる!」

「なに、デジタルワールドの月に少々飽きてしまっただけのことさ。見てみろ。こちらの世界の月もなかなか悪くないじゃないか、もっとも…」

 ネオヴァンデモンがその手を持ち上げ、指をぱちんと鳴らす。

 ばちん。

 同時にマミーモンの背後で、指の音よりも幾分大きい破裂音がした。思わず目を瞑った彼の頬に、夜風に運ばれてきた生暖かい粒子データが触れる。あれだけの死霊に悪夢を見されられていたブラックラピッドモンにとっては、死の訪れが一瞬で済んだことはむしろ救いだろう。

「流れる血を照らす時、月の光はもっとも美しい。これはどの世界でも変わらないな」

うっとりしたようにそう語る吸血鬼に、マミーモンは畏怖するような目を向ける。

「どうかしてるよ。相変わらずな」

「お前からそんな感想を聞くとは思わなかったよ。〈月光軍団〉にいた頃、お前は誰よりも率先して私の景色に血を散らしてくれたじゃないか。死霊を操れないことを気に病んで、格闘技まで覚えて……」

「黙れ!」

 唇をきつく噛みながら叫ぶマミーモンを吸血鬼は愉快そうに眺める。この木乃伊は、自分の配下のアンデッドだった時より幾分反抗的になったらしい。

「私にそんな口をきくとは、完全に〈月光軍団〉の不死者部隊から離反したということか。はっきり言ってくれよ。お前は何も言わずに出て行ったからな」

 言うまでもない、俺はもうあんたの部下じゃない。それをネオヴァンデモン自身の前で口にすることは、マミーモンにはできなかった。恐怖で唇が震え、言葉は形を取らない。

「…あんた、マジでどうしてここにいるんだよ。月がどうだとか、適当なこと言うなよ」

「やれやれ、つれないな。でも良いよ、教えてあげよう。お前は私の、誰よりも忠実で残忍な部下だったからな。全く見事な殺しぶりだったよ」

 こいつは俺に屈辱を与えたくてこんなことを言ってるんだ。そう頭ではわかっていても、肩の震えは止まらなかった。

「ここのところ、我々の世界〈デジタル・ワールド〉からこの世界〈リアル・ワールド〉に落ち延びるデジタル・モンスターが増えている。その殆どが、種族が本来持つべきプログラムを持たない者たちだ。所謂『落ちこぼれ』だな」

落ちこぼれ、という言葉の後に吸血鬼は一呼吸おいた。俺の顔を見ているんだ、マミーモンは思う。自分が落ちこぼれだと告げられて、俺の顔に苦痛が浮かぶことを期待しているんだ。結論から言えば、吸血鬼の目論見は見事に成功していた。

「世界を跨いだ逃避行自体は、別に悪いことじゃない。逆にこの世界からデジタル・ワールドに来る人間だってそう少なくないからな。でも、そいつらがこの世界で悪さをしているとなると話は別だ。私達と人間とでは力も生き方も違いすぎる。いたずらにそのバランスを崩されては困るのだよ」

「あんたの口からそんな正義の味方みたいなことを聞くとはな」

「そういうな。お前だって今は“正義の味方”なんだろう? 安心してくれていい。私の見立てではお前は間違いなくあのブラックラピッドモンに勝って、正義を守っていたはずだ。相当みっともない形で、だがね」

「そりゃどうも。話を続けてくれ」マミーモンは氷のように冷え切った体を無理に動かし、肩をすくめた。

「とにかくまあ、そういう事態が起こってしまったからにはホストコンピュータ〈イグドラシル〉も黙ってはいられない。しかしあのウドの大木は手駒の騎士様達を使ってデジタル・ワールドを管理するのに精一杯らしくてね。他所の世界の問題は別の誰かに押し付けようとしたんだ」

「それで? その面倒ごとの行