≪≪前の話 後の話≫≫
『結局私は、この街の破壊された偉大な肉体を横切って移動を続け、その肉体の何百万という細胞と細胞のつながりをみつけようと、同じような夜を幾晩も過ごしてきたのだ。死ぬ前に、いつか神経と神経の繋がりをすべて正しく接続させさえすれば、この死んだ街が生き返るかもしれないという、気ちがいじみた願いと妄想を、私はもっていた。フランケンシュタインの花嫁のように』
──リュウ・アーチャー(ロス・マクドナルド『一瞬の敵』より)
7-1 痣/本番台本/閉じたドアのこと
僕を襲った白井の殺人術がどこまで確実で、どこまで被害者に傷を残すものかは知りようもなかったが、そう大したものではなかったのだろう。その証拠に、襲われた翌日の日曜日の朝、僕はもう退院の準備を終えて病院の廊下を歩いていた。
退院の許可を出した医者はデスメラモンの鎖が僕の頬に遺した痣(それは一晩を経て青みを帯び、僕の顔に要らぬ凄みを与えていた)にも興味を持ったようだったが、その由来を説明するわけにもいかない。不安げに首をかしげる医者を残して、僕は病院の裏口からゆうゆうと退出し、朝の眩しい光の粒子が指先まで巡るように大きく息を吸い込んだ。
正門側ほどではなかったが、裏口前にも何人かの新聞記者や、腕章をつけてカメラを首からかけた男達が待機していた。当然と言えば当然だろう。テレビのニュースはまだ見ていないが、救急救命士が犯罪組織の手先として人を殺していたのだ。全国規模のニュースになっているはずだった。
「あの、ちょっといいですか?」
その声に振り返ると、実家でも取っている地方新聞の腕章をつけた男がこちらに寄ってきた。
「なんですか?」僕は少したじろいでそう答える。
「いや、この病院の事件はご存知ですよね。今回殺されそうになったのは、高校生くらいの少年だと聞いて」
なんてこった。金沢警部の頑張りも及ばず、情報はある程度は漏れているらしい。これは早く退散するに越したことはないだろう。
「僕は──」僕は咄嗟に自分の頬を指さした。
「これですよ。この痣。酷いもんでしょう? 昨日塾の帰りに階段から落っこちたんですよ。あんまり痛いもんだから、夜中の内にここに来て、今帰るとこなんです」
「あ、そうなんですか」記者の顔には露骨な失望の色が浮かんだ。
「それじゃ教えてほしいんですけど、病院の中の様子とか、警察官とか、被害者っぽい人とか……」
「いやほんと、あんな夜中に病院に駆け込んで申し訳ない限りでしたけど、ほんと良くしてもらえましたよ。なんで顔を打ったすぐ後に来なかったんだってお医者さんには叱られましたけどね」
「その……」
「看護士さんもいい人でしたよ。夜通し痛みで起きてたから、病室で少し休んでいったらどうかって。そりゃ眠くて仕方がないですけれど、お断りしましたよ。申し出はありがたいけれど、帰って寝る方がいい」僕はこれ見よがしに大きくあくびをして見せた。
「えっと……」
「まだなにか?」
「……いえ、お大事に」
「ええ、おやすみなさい」
僕は明るくそう言って、木漏れ日が形作る不思議な模様でめかしこんだ道の中に踏み出していった。と、後ろに何者かのあらわれる気配がして、脳の裏側で声が響く。
──まったく、ここ一週間で大分嘘が上手くなったんじゃないか? 早苗。
「お、マミーモン、おはよ。そっちはうまくいった?」
──おうよ、あのヤヨイって女はそこまで好きにはなれねえが、一人でかわいそうなくらい沈んでやがった。俺が来て多少ビビってたみたいだったけど、結局は安心してくれたな。最後には一晩中話し相手にさせられたよ。
「隔離病棟からも出してもらえたんだね」
──ああ、さっき本人の希望で伊藤と面会してたぞ。
「そりゃあよかった」そうじゃないと困る。僕は口の中で呟いた。
「もう余計なことは言わなさそう?」
──ああ、大分持ち直したようだったぜ。治療が必要だってことは最後まで分かってくれなかったがな。
「そう」
僕はため息をついた。搬送されたのち、誰彼構わずデジタル・モンスターのことを喋り散らして隔離病棟に放り込まれた坂本弥生。彼女がもう不当な扱いをされないようマミーモンは昨晩、“狐憑き”なりの振るまい方を彼女に滾々と教え込んだらしかった。それでも彼女がノイローゼになっていたのは間違いなかったし、僕としては、彼女がしっかりと現実を受け止められるようになるまで病院で治療を受けてほしかった。
「大丈夫かな」
少しばかり暗い声の僕の呟きに被せるように、マミーモンが明るい声を出した。
──気にしすぎても無駄さ。俺たちにできることは全部しただろ。後はあの女次第だ。
「ま、そりゃそうなんだけど」
──あと、伊藤もついてる。
「お前、昨日の今日でよくそんなこと言えるよな……」
昨夜僕のもとを訪れた伊藤の行動や言動は、秋の朝の心地よい風を浴びて冴えわたった頭でも到底理解できないものだった。今朝病室を去る間際に忙しそうに看護士に聞き込みをしていた金沢に一言挨拶をしたときには緊張で再び倒れるかとも思ったが、特段何も言われなかった。伊藤は確かに、僕が坂本殺害の現場に居合わせたという事実をひた隠しにしているらしい。
「あいつ、『俺は、君とおんなじさ』とかわけわかんないこと言いやがって、どういうことだよ」
──自分も“狐憑き”だってことじゃねえか? 昨日の騒ぎでお前に俺が憑いてることに気づいたのかもしれねえ。
「ぼくだってそう思ってたさ」
昨日までは伊藤がデジタル・モンスターと通じているということを信じて疑っていなかった。デスメラモンに追われながら助けを求めて伊藤に電話をかけた際には、焦っていたのもあるが、殆どモンスターの存在を前提にした調子で話をした。しかし、である。
「なんかいまいちしっくりこないんだよな……」
伊藤が遠野老人殺しの犯人であるという説を今までかたくなに信じ続けていたからだろうか、その前提が崩れ去った今、僕は彼に関して何一つ自信を持って語ることは出来なかった。
「奴がどういうつもりで行動しているかとなると、サッパリだ」
──じゃあ、メチャクチャな理由で動いてるやつ、ってことなんだろうよ。ところで、俺はそういうやつをもう一人知ってるぜ。
木乃伊の言葉に、一昨日に僕の体を掴んだ手のぞっとするような感触が体を駆け巡った。
「ネオヴァンデモン、って言いたいのか?」
──ま、今回のアイツの動きにはそれなりのタテマエがあるみたいだがな。でもそれは所詮タテマエだよ。アイツに取っちゃ、この世の全てが自分が楽しむためのタテマエなんだ。
マミーモンが苦々しげに言う。その“タテマエ”の為に、あの黒紅色の吸血鬼はどれほどの殺しを命じ、そしてマミーモンはその中の一体いくつを自らの手でこなしたのだろうか。
「ネオヴァンデモンにも、憑いてる人間はいるんだよな」
──ああ、アイツと俺の話、聞いてたんだろ?
僕は頷く。自分がこの世界に来た“タテマエ”を説明するネオヴァンデモンに、マミーモンが震える声で飛ばした皮肉と、それに対する吸血鬼の返答。
『じゃあ今のあんたは、この世界で好き勝手してる同族を殺すためにやってきたダーク・ヒーローってわけだ。カッコいいね』
『だろう? 私の憑いた人間もそう言ってくれたよ。あの人間は馬鹿だが。私は馬鹿が好きだしね』
「そりゃまあ、確かに伊藤は馬鹿だけど……」
──なんかこないだより伊藤に当たりが強くなってるな。
「そんなことないよ」からかうような木乃伊の調子に、思わず口からはムッとしたような声が漏れる。
──名探偵はアイツが何者なのか分かんなくてご立腹ってとこか?
「そういうんじゃないけど……」
からかうようなマミーモンの調子に、思わず眉間にしわが寄る。
──なんだよ、そんな顔すんなって。昨日よりシケてねえか?
「いや、これは」
僕は思わず言葉を濁した。思わず先程から痛んでいたふくらはぎに手をやる。
「筋肉痛が……」
──はあ?
「だ、だってしょうがないだろ。ここ数日ずうっと歩き通しだったし、昨日なんか弥生さん抱えて走ってたんだぞ」
僕の身体の節々から、昨日までは聞こえなかった悲鳴が聞こえる。あまりの耐え難い痛みに朝方湿布を貼ってもらったが(窒息しかけて運ばれたはずじゃないのか、と看護士は訝しげに眉をひそめていた)それでも痛みはおさまる気配がなかった。
──人間サマってのは難儀なもんだな。
「逆に、お前は何で平気なんだよ」
昨晩、マミーモンはここ数日ですっかり見慣れたトレンチコートも着ないで、真っ白な包帯に身を包んで僕の前に現れた。彼曰く、コートも今までの包帯も燃えたらしい。どんな無茶をしたらそんなことになるのかはわからなかったが、とにかくキツい戦いをしたことだけは確からしかった。
──霊体の時は平気さ。ただ、少しの間戦闘は勘弁してくれ。
なるほど、身体の方は大丈夫というわけにはいかないらしい。
「無茶すんなよな」
──そうも言ってらんないだろ。まだネオヴァンデモンのお望みも叶えちゃいない。
僕はさらに眉をしかめた。ネオヴァンデモンのために僕達が用意すると誓った、人間界で悪さをしているデジモンに関する情報は殆ど集まっていない。彼が課した『私が月に飽きるまで』というデッド・ラインがいつかは分からないが、少なくとも、昨日よりもそれに近づいていることだけは間違いなかった。あれからずっと、ふとした瞬間に目の前にあのシルエットがあらわれる錯覚に付きまとわれている。
「でも、糸口はあるよ」
昨夜は完全に希望が立たれたつもりでいたが、考えてみれば何ということはない。手がかりのある場所ははっきりしている。
──心あたりでもあるのか?
「もちろん。でも、それにはあの人の協力がいる」
痛む膝を引きずってすでに歩き慣れた通りに歩を向けながら、僕はポケットから取り出したスマートフォンに耳を当てた。
「……もしもし、伊藤さん、弥生さんと面会はできました? それは良かった。『弥生さんは一晩で面会可能になるまで回復する』って、僕の言った通りになったでしょう? それじゃ、約束通り、僕のお願いを……」
なおも伊藤と会話を続ける僕の背中を、唖然として口を開けた木乃伊が見つめていた。
*****
「それで……」
さすがにこの短期間で訪れるのが三回目ともなれば、警察署の受付の女性も僕の顔を覚えたのだろう。困惑した顔で僕の差し出した生徒手帳をまじまじと眺めていた。
「春川早苗さん、木曜日は殺人事件の目撃者、金曜日は事件の情報提供者。それで、一日置いて今日は……」
「殺人未遂の被害者です」
「えっと、それは、大変、です、ね?」
女性は引きつるような笑みを浮かべ、ふさわしい言葉を探すように途切れ途切れに僕の言葉への感想を述べた。彼女は手元のノートをぱらぱらと音を立ててめくり、首をかしげる。
「今日は特に前もって連絡は貰ってないけど」
「ああ、それなら……」
「おおい、早苗君」
僕達の間に流れた気まずい沈黙を破るように背後で音を立てて自動ドアが開き、伊藤の間延びした声が僕を呼んだ。
「伊藤さん、彼は」女性が咎めるようにすうっと目を細めて彼を見つめた。
「ああ、俺の客だ。面会したい人物がいるそうでね」
「それってまさか……」
「そういうこと」
絶句する女性に伊藤はにひりと笑いかける。
「金沢警部に話は通してます?」
「え? ああ、そこはもちろん、いつも通りにね」
女性は深く長いため息を吐いた。伊藤の“いつも”がどのようなものか、推して知るべしというところだろう。
「殺されかけた子が、まだ一日も経ってないうちにその犯人と会うなんて。皆さんがマスコミにせっつかれて事件解決を急いでるのは知ってますけど、正気の沙汰じゃないわ」
女性が心底同情するといった目で僕を見たので、伊藤は吹き出す。
「それに関しては大丈夫。この面会は彼の希望だ」
「……は?」
「なあ、早苗君」
伊藤の心底面白そうな問いかけに、僕はにっこり笑った。
「ええ。心配いりませんよ。僕、あの人とは友達なんです」
*****
「まったく、俺が思ってた以上に元気いっぱいな奴だな。君は」
伊藤の陽気な声が静まり返った署内に響く。警察の廊下は相変わらず灰色だったが、前に来た時ほど無機質には思えなかった。
「無駄口を叩いてていいんですか? 伊藤刑事」
「冷たいな。もう他人でもないだろう」
「友達でもありませんよ」
僕はあくまでそっけなく答えた。この風変わりな不良刑事に僕が親しみを覚えるようになっていたのは確かだったが、たったの一晩でそれまでの疑いを全てなかったことにするのはあまりに危険に思えた。
肩をすくめながら伊藤は白井がいる取調室の前に立ち、ポケットから鍵を取り出す。と、彼が一度、真剣な顔で僕の方を振り返った。
「本当に大丈夫なんだね?」
「あの人とは友達って言ったでしょう? 大丈夫ですよ」
軽い調子で答える僕に伊藤は眉をひそめる。
「なあ、ここからは……」
「大丈夫ですよ。それより伊藤さんも、お願いしますよ。この部屋で聞いたどんなことも。あなたには関係のない、街の噂話です」
「分かってるよ。君が弥生の件で賭けをしようって言ってきたときには、いよいよおかしくなったのかと思ったけどね」
僕は苦笑する。坂本弥生が一晩で真に自分の症状に見合った扱いを受けられるようになったなら、警察の力で自分の為に何か一つ融通してくれ。伊藤にそういう賭けを持ちかけること自体が、既に一つの賭けだった。だが、今のところはうまくいっている。
「僕が弥生さんを自分の目的のために利用したなんて、思わないでくださいよ。あの人のことは本当に心配だし、今も良心はチクチク傷んでるんです」
「気にしなくてもいい。弥生も君に感謝していた。今度会いに行ってあげてくれ」
僕は曖昧に頷く。彼女にまた会えるとしたら、それはすべてが終わった時であるような、そんな気がした。
*****
「やあ、白井さん、元気ですか?」
「君の方が元気みたいだ。まったく、忌々しい」
椅子に手錠でつながれた白井とそんな風に和やかな挨拶を交わし、僕は席についた。伊藤は白井の背後に回って壁にもたれかかり、格子付きの窓から外に目を向けている。
「聞きたいことがあるんです」
「ぼくの方じゃ、話したいことなんて何一つないけどな」
白井はすげなく返す。
「そんな台詞、台本にないでしょ。そうじゃないっけ?」
僕はわざと彼の右後ろの空間を見つめながら、くだけた口調でそう言った。白井の顔に縦線が走り、深いため息がその口から漏れた。僕の台詞に違和感を感じたのだろう、伊藤はちらりとこちらを見たが、すぐに視線を窓の外に戻す。
──そういうこと、ちゃんと筋書き通りやってもらわないと困るぜ。なあ、監督?
白井の背後、僕の視線の先に立ったマミーモンがおもしろくて仕方がないといった調子で僕にそう言った。そう、あらかじめ決めた段取り通りだ。マミーモンが僕の面会に先んじて白井のいる留置所に霊体として潜入して、白井の前で実体化。俺はずっとお前の後ろにいる、これからの取り調べで正直に事実を話さなければあっという間に殺してしまうぞと脅すという寸法。
「こんなことをして、いいと思っているのか?」
やがて白井の口から漏れたのはそんな台詞だった。彼の視線は自分の背後、伊藤に向く。
「あんたもだ。警官が一般人を取調室に連れ込んで尋問させるなんて。それも、こんな乱暴な方法でだ」
「これは面会だよ」伊藤はすげなく返す。
「いいのか? ぼくがこのことを裁判で洗いざらい……」
「裁判まで生きていたかったら、ちゃんと台本を読むことです」
彼の言葉を遮って、僕は声を張り上げる。こういう形での取り調べはもちろん気の進むことではなかったが。自分を窒息死させようとした男が相手だと思えば、無理をしなくても声は凄みを帯びるというものだ。
「……何が聞きたいんだ」
「警察が聞いたこととほとんど同じですよ。あなたが所属していた組織のことだ」
「組織なんてないさ」
「おい」僕は彼の声に言葉をかぶせる。
「警察にはそれで通用したと思うよ。でも、僕は無理だ。僕はその組織が遠野古書店を窓口に行っていた取引のことも、組織と古書店がもめた末に坂本が遠野さんを殺して逃げたことも知ってる。組織が坂本を殺そうとしていたことも知っているんだ」
僕は目を丸くしてこちらを見てくる伊藤に目を向け付け足す。「ま、全部街の噂ですけど」
「……ぼくが聞いたこともないことをそんなに並べられてもな」
強情な白井を、僕は強く睨みつける。
「あの女の子の写真のことも、知ってるよ」
これはひどく効いたようだった。白井はしばらくの間天を仰ぐようにしたかと思うと、こちらに視線を戻し、苦々しげに笑った。
「なるほど。そうなるとこちらも適当なことは言えないな。嘘なんか吐いたらあっという間に殺されそうだ。いいよ。俺のわかる範囲で教えてあげよう」
──随分手がかかったな。あんまり俺にビビってないってことかよ。
少しだけ悔しそうに言うマミーモンに向けて僕は肩をすくめ、視線を白井に戻した。
「そう怖がらないでくださいよ。僕は、“愚かな質問をして賢い答えを聞こうとしてるだけです”」ジョン・J・マローンがそう言ってたようにね、僕は心で付け足す。
「早くしてくれ」
「それじゃ一つ目。組織に入った経緯は?」
彼は少し首をひねって、答える。
「数年前だね。連中はぼくの乗っていた救急車をまるごと買収した。応じなかった救命士が、ぼくの最初の獲物になった」
背筋が粟だつのを感じる。この男は、先日脅かしたカシマや坂本といった子悪党とはわけが違う。本物なのだ。
「……二つ目です。あなたの組織での立ち位置は?」
白井は少しだけ考え事をするように眉間にしわを寄せた。見たところ、うまいウソを考えているようには見えない。
「……分からない、と言うのが正しいかな。ぼくは組織の末端に居座っているだけだからね。自分の上にどれくらいの人がいるのか想像できないし、するだけ無駄なことさ」
「じゃあ、下には? 下にはどれだけの人がいるんです?」
僕の言葉に白井は少しだけ笑った。
「組織の関係者でぼくが知っていたのは、同じ救急車の乗員を除けば、あの古本屋の爺さんと坂本だけさ。あの二人に組織の伝言──全部メールで送られてくるんだ──を伝えるのもぼくがやってた。別にぼくの立場が上ってわけでもないけど、その役割のせいかな、あの二人はやけにぼくにビビってたね。特に爺さんの方は」
彼の唇が吊り上がる。遠野老人が白井の担架で運ばれていく時の光景がフラッシュ・バックして、僕は乾いた唇をなめた。あの時点で遠野老人は白井が組織の人間だと知っていたのだ。あの時の取り乱した様子は、今思えば死刑台を無理に一歩ずつ登らされる恐怖からだったに違いない。その後やけに静かになったのは、諦めか、はたまた度を越した恐怖の為か。
──早苗、落ち着けよ。いくら相手がサイコ野郎だろうが、ビビッてんのがバレれば終わりだ。
分かってるったら、マミーモンの言葉に僕は口の中で呟く。
「──伊藤さん、メモは禁止です!」
動揺を誤魔化すために、僕は窓際で何やらごそごそとしていた伊藤に鋭く目をやってわざと大きな声をあげた。
「だってこれは殆ど自白じゃあないか、それに……」
「最後には警察に全部任せますから! 約束でしょう?」
「……分かったよ」
僕は頷き、白井に向けて再び質問を放る。
「メッセンジャーをしてる限りは、それがどのくらいの規模の、どんなことをしてる組織か見当がつくはずだ。教えてくれませんか?」
「どんなことをしてるか、はぼくにもよく分からないさ。でも、あの写真だけに限っても、扱ってる下請けがあの古本屋だけじゃないことは確かだ」
僕にも何となくその意味は分かった。
「下請けが違えば、客層も違う?」
「そういうこと、お偉いさんたちがあんな辺鄙な本屋に出入りしたら目立つからね」
「お偉いさん? 具体的には?」
「さあね。知らないに決まってるだろ? まあでも、あの本屋は特別だった」
「あの二人は撮影もやってたんですよね、あの小屋で」
「小屋?」
白井は眉を吊り上げる。となると、少なくとも白井は坂本の居たあの小屋のことは知らなかったのだ。これだけで組織が坂本殺害に関与していないと断ずることは出来なかったが、手掛かりにはなる。
「あなたが遠野さんを殺したのは、組織の命令? それとも勝手にやったこと?」
「言われてやったことだ。ぼくたちが人を殺すやり口はいつも一緒なんだよ。組織からメールでターゲットの写真が送られてくる。その次の日に、もうその人の家に向けて救急車の出動命令が出るんだ。組織から命じられた誰かが何かするんだろうな。基本的には一酸化炭素中毒とか、その手のが多い」
「でも、その日はいつもより早く救急車が呼ばれた?」
僕の言葉に彼はこくりと頷く。
「組織からあの古本屋を殺せと命令があった五分後には、もう119番があった。組織の人間の自作自演の通報にしては、妙に焦っていた」
マスターの連絡だ。僕は口の中で呟く。
「そうして行ってみたら、爺さんが頭を殴られてぶっ倒れてる。いつもよりずっと乱暴だし、ターゲットも片方いなかった。正直困惑したけど……」
「あなたはそこでできる限りのベストを尽くした」
「君がユーモアを解する人間で嬉しいよ。もう少し笑顔で言ってたら満点だ」
「ふざけるなよ」僕は舌打ちをして白井を睨み据える。「そのあと、組織に連絡を取ったんでしょ?」
「ああ、当然ね」
「そのときの答えは?」
「こっちからの異常事態の説明に、向こうは焦っていたようだった。そうだな……。外部の誰かに、せっつかれているような感じだった。ぼく達に、本来やるべきでない仕事をさせようとしたりね」
「例えば?」 そう尋ねながらも、僕には何となくその答えは分かっていた。
「端的に言えば、古書店の家捜しだね」
「そういう仕事は、普通はありえない話なんでしょうね?」
「勿論さ、きみ。ぼくらの組織が優秀で尻尾を出さなかったのは、それがマフィアじゃなくて工場だったからだ。仕事がレーンごとに細かく分けられていて、それぞれの構成員が自分の仕事しか知らない。隣のレーンで働いている人の名前なんか知らないし、自分の仕事の結果できる商品がどんなものかも分からない」
でも、それも過去の話だ。僕は口の中で呟く。
「利口なあなたは家捜しには同意しなかった。とある女の子のヌード写真のことを説明されて、それと引き換えに法外な報酬を払うといわれても」
「よくご存じで」
「その時に、その女の子の素性について説明されましたか?」
「いいや、なんにも。かえって、きつく口止めされた。仕事を断るのは勝手だが、写真のことは忘れろとね」
白井の言葉にううむと唸る僕の視線の先で、伊藤がさりげなく腕時計を突っついた。タイムリミットが近い、金沢警部が帰ってくるのだろう。でも、まだ粘らないと。
「次は、昨日の話です。僕を殺そうとしたときのことについてだ」
「へえ、やっとか。てっきりそっちが本題かと思ってたよ」
「黙れ。あなたがさっき言った殺害のプロセスと、僕を殺そうとしたやり方は随分かけ離れていますね。ガサツで、不完全だ」
「不完全、は取り消してくれよ。君は間抜けにもぼくに騙されて、そこの刑事さんがいなけりゃ間違いなく死んでいたんだからさ」
僕は肩をすくめる。
「僕の馬鹿さ加減についてはおいておくとしても、乱暴なやりくちであることには変わらないでしょう。また組織から無茶を言われたんですか?」
「ま、そんなとこだね。最初は組織とは関係ない仕事で、単に人命救助のためにいったのさ。ほら、君が心配してたなんとかっていう女性についての通報さ」
「サカモト・ヤヨイ」
「そう、それそれ」
白井の背後で伊藤が顔に縦線を走らせる。間違いなく、その救急車は僕に頼まれた伊藤が呼んだものだ。弥生が組織のターゲットではなかったとはいえ、危うく殺し屋の乗った救急車に彼女を乗せることになったかもしれないと考えると、僕も手に妙な汗が染みだすのを感じた。
「それで、それが何で急に僕の暗殺計画に変わったんです?」
「ようやくその質問をしたか」
白井は心底楽しそうに顔を歪め、手錠をじゃらじゃら言わせて精一杯僕の方へ身を乗り出す。
「組織から携帯に電話が来たのさ。お前が今助けに行こうとしてる女性には何もない。その代わり、どこそこで待っていろ。ボロボロになった少年が来るはずだから、“救助”していつも通り殺せ、ってね。ま、実際に来た君はずっと元気いっぱいだけど」
──おいおい、なんだそりゃ。
息をのむ僕の代わりに、木乃伊が僕と全く同じ感想を述べる。
「さてさて、素人探偵クンはこのことをどう推理するだろうか? これは君や、その周りの人間のその日の動きを監視していた人間じゃないと知らないことなんじゃないかな。そうだな、例えば」
彼は椅子にもたれると、視線を後ろに向ける。
「そこの刑事さんとか」
伊藤は黙って肩をすくめるが、その顔には険しい表情が浮かんでいる。その彼の気持ちを代弁してやるとでもいうように、白井が言葉を続ける。
「もしかしたら、古書店の事件の時君と一緒にいたあのおじさんかもね。いや、それよりも君が助けようとしていた女の線の方が濃いな。名字から察するに、彼女、坂本トキオの奥さんなんだろう?」
その口調や言葉選びはテレビや映画の探偵そっくりで、こちらのやり方に合わせてやるとでも言いたげだ。
でも、彼のいうことも一理ある。白井に指示を出した組織の人間は僕が“ボロボロになった少年”として登場すると言っていたらしい。それは、その時の僕を襲っていた者──デスメラモンの存在を知っていないとできない芸当だ。
「随分勝手なことを──」
「伊藤さん!」
白井に向けて踏み出そうとする伊藤を制止し、僕は淡々と言葉をつづける。
「こっちの質問にだけ答えてください」
──その通り、探偵は一人で十分だっての。いや、俺も入れると二人か?
マミーモンはそれを白井の耳元で、良く聞こえるように囁いたらしかった。彼の顔が青ざめ、張り付けたような笑いが崩れる。僕はそこに、勢いよく質問を叩きつけた。
「あなたに僕の殺害を指示した電話の相手の様子は? 遠野さんの時と同じく、焦っていた?」
「……ああ」白井は渋々といった感じで答えた。
「焦って、あなたに急な仕事を頼んだんですね。しかも今度は夜にこそこそとしながら行う家捜しじゃない、白昼の殺しだ。前よりもずっと危険だったはずです。それなのに、あなたはそれを受けた。自分の領分をわきまえていると自認していたあなたが、だ」
「……」
「よっぽど実入りが良かったんですか?」
「……二千万だよ」白井がぽつりと言ったその言葉は、僕には一瞬異国の言語に聞こえた。
「ドルで?」
「円に決まってるだろ」
──おい早苗、頼むから今は推理小説脳は勘弁してくれ。
僕は咄嗟に出たその馬鹿な質問を空咳で誤魔化す。でも許してほしい、いつの間にか自分が二千万円の賞金首になっていたと知らされたのだ。冷静でいられるわけがない。 「その金額を出すとき、電話の相手の様子は? ……おい、本当のことを言えよ」 きつい調子で尋ねる僕に、白井は観念したというようにため息を吐いた。 「こともなげに言ったよ。焦ってて、仕方なしに提示したって感じじゃなかった」 いくらその組織が大きいといっても、所詮は田舎町の商店街を窓口にエロ写真をばらまいている連中だ。いくらでも安く上げられる少年の暗殺に、そこまで太っ腹になれるとは思えない。 「……クライアント、僕を殺せと依頼した人間がいるんだ。二千万はそいつから出た金だ」 僕は伊藤の方を向いて頷く。坂本弥生にもマスターにも、そこまでの金はない。 「ありがとう、白井さん」僕は立ち上がった。「くだらない揺さぶりで僕の疑いを身内にもっていこうとしたんだろうけど、無駄ですよ」 「……どうやら、君の方が一枚も二枚も上手だったみたいだ」 「そういうこと」 伊藤と共に部屋を後にする僕に、マミーモンもついてくる。部屋を出るとき、白井の背後の何もいない空間に向けて、僕は大げさに「頼んだよ」と声をかけ、わざと音を立てて扉を閉めた。
7-2 鹿打ち帽/最後のヒント/古臭いジョークのこと
「なるほど、話は大体分かった」 僕とマミーモンの目の前に珈琲で満たされたカップを置き、マスターは何度も頷いた。 「つまり探偵クンは心配していた我々に連絡も入れずに、病院から警察に直行し、自分を殺そうとした犯人にインタビューを敢行したと」 「そう言わないでくださいよ」 どこか拗ねたような調子のマスターに苦笑して僕は珈琲をすする。くろぐろとしたその液体の香りが口の中で広がり、頭の中の靄が一気に晴れる。今の今まで自分が半分眠っていたような、今になって初めて完全に目覚めを迎えることができたような気分だった。 「笑い事ではないですよ」 手元の文庫本がからワイズモンが小さく言う。白井に襲われた時に僕の手から滑り落ちたその本は、どんな経緯を経てかは知らないが無事に回収され、戻るべきところへ戻ってきていたようだった。 「また目の前で友人が殺されていたかもしれないと思うと、ぞっとします」 「まあ、助かったんだからさ。それよりマスター、このコート……」 マミーモンがそう言った瞬間、僕はたまらず噴き出した。前までのトレンチを先の戦闘で失ったことをおずおずと話した木乃伊にマスターが眉一つひそめずに出してきたのは、ブラウンのインバネス・コートと鹿撃ち帽だった。もうどこからどう見てもシャーロック・ホームズのコスプレである。先ほどから他の客も珍しがってその視線を彼に注いでいる。 「おい早苗! 笑うな!」 「だ、だって、似合って、ない……」 「うーん、やっぱり無理があったかな」 「マスター! さっさと何か別の……」 「黒のコートとシルクハットないですか? グラナダTV版にしましょう」 「早苗!」 「ああ、持ってくるよ」 「あるのかよ!」 「ワタクシも見たいんですけど」 「今度こそ燃やすぞエロガッパ」 そんな喧騒の中で、マスターが再びマミーモンを店の奥に引きずり込む、やがて出てきたのは、グラナダTVの名作ドラマシリーズ「シャーロック・ホームズの冒険」風の服に身を包んだ木乃伊だった。先ほどよりはコスプレをしているという雰囲気は薄まっているものの、やはり時代錯誤な感じは否めない。 「……マスター、俺これからずっとこれなのか」 「あとで別のトレンチコートを持ってきてあげるよ」 「コート、一体何着持ってるんですか?」 「さあね? 若い頃の道楽の名残さ」 そう言って笑うと、マスターは再び話を事件の方に振った。 「それはそうと、さっきの白井の話はいかにも興味深いね」 「いかにも興味深くて、食いつきやすい話です。推理小説の後半になって出てくるあからさまな手掛かりみたいだ」 僕の皮肉な物言いに、マスターは少し首をひねる。 「というと、君はそこまで本気にしていない?」 僕は肩をすくめる。僕の行動をすぐそばで見ることができる人物が犯人だという彼の言には説得力があり、そのことを考えれば考えるほど気は重くなった。目の前のマスターでさえも、白井に言わせれば犯人の条件に当てはまるという。しかしどんなに筋が通った話でも、白井の話し方には僕を混乱させようという意図が見え透いていた。 「疑う理由は無いですよ。でも、あまりそれに踊らされてもいけない気がします」 「実際に話した君がそう言うなら、まあ間違いないだろう。“唯一の、真実の手がかりは心理的なものである”からね」 「ファイロ・ヴァンス」 僕はそう言って深くため息を吐いた。 「あまり好きではなかったかな?」 「まあ、好みじゃありませんね。その言葉自体はそれなりに共感できますけど。それにヴァンスはその言葉を、容疑者の話から見える心理に対してというより、現場に残された痕跡から犯人の心理状態を分析するという意味で使っていましたよ。意味合いとしては今のプロファイリングに……」 話を続ける僕に、マスターが苦笑いを浮かべ、マミーモンが僕の後頭部をはたいた。 「講釈はそこまでだ、ワトソン君」 しかし、彼の言葉は耳に入ってこなかった。僕は勢いよく彼の手を頭から払いのける。 「なにすんだ!」 「そうだ、現場だ。坂本が殺された現場だよ!」 「あそこにはもう行けないだろ。警察が捜査してるはずだ」 「そうじゃない。坂本が殺された場所、それに時間だ。二日前のあの家だよ。手がかりは全部あそこにあるんじゃないか? あの晩も、その後もいろんなことがありすぎて、僕たちはあの時のことをよく考えるのを忘れてたんだよ」 これにはマミーモンもマスターも、本の中のワイズモンも興味を持ったらしかった。 「……どういう意味だ?」 僕はコーヒーを啜って息を落ち着け、指を一本立てる。 「マミーモン、あの晩に君が戦ったブラックラピッドモンは、組織の回し者だったと考えていいんだよな?」 「ああ、間違いない」 「狙いは奈由さんを殺すことだった?」 「そうだったんだろうな」 「おい、しっかり思い出してくれ。せっかくだからホームズを使うぞ。“明白な事実ほど誤解を招きやすいものはない”。お前は何かを誤解して記憶してるんじゃないか」 僕はマミーモンの肩を掴み、彼の顔を覗き込んだ。マミーモンは困惑を顔に浮かべ、その手を振り払う。 「しっかりって、何を……」 「そいつは何て言ってた? 思い出せ。『初瀬奈由』って名前を、一言でも口にしたか?」 マミーモンはしばし顔をしかめていた。無理もない。あの時のブラックラピッドモンとの会話は、彼にとっては忘れ去ってしまいたいものだろう。でも、何が何でも思い出してもらわないといけない。僕の真剣な調子を読み取ったのか、マミーモンは表情を変えて記憶の海にその身を浸し、やがて眼を見開く。 「……言ってなかったな。憑いた人間に指定された人を『殺しに来た』とだけ、言ってた」 「殺しに? そう言ったんだな?」 「ああ、それは間違いねえよ。お前、ブラックラピッドモンの狙いはあの女じゃなかったって言いたいのか? 写真付きでご丁寧に予告までされてたのに」 僕は頷く。 「よく考えてもみろよ。あの晩、僕の部屋に組織があんなメッセージを残したのはなんでだ? 事件から手を引かせるためだろ。『余計な探りを入れるのをやめないと、初瀬奈由がどうなっても知らないぞ』っていうわけだ」 「なるほど」得心したようにマスターが言った。 「彼女は探偵クンを黙らせるための材料だった。それを脅しをかけた直後に殺そうとするのはおかしいね。もし見せしめだったとしても、効果は望めない」 「じゃあアイツは一体誰を……」 「さあ?」 「おい!」 マミーモンの抗議に僕はにっこり笑う。どっちがワトソンか、どうやらこれではっきりしたようだ。 「結論に飛びついちゃいけないよ。それに、僕の話はまだ終わってない。次はその後、坂本が殺された時刻だ」 「今度はなにがあるんだ」 「白井の話を聞いたとき、変だと思わなかったか? その前日の夜に僕たちの捜査をやめさせようと警告なんて手の込んだことをした組織が、急に強引な方法で僕を殺しにかかるなんて」 「それは……」マミーモンはしばらく俯きながら、その指先で小さなミルクポットに入った残りの牛乳を全て自分の珈琲に注いだ。 「白井が言ってたろ。外部の誰かから、金と引き換えにせっつかれたんだ」 「それは答えになってないよ。」僕は首を振る。 「少し質問を変えようか、僕を殺そうと依頼をした人物は、そんな大金を提示するくらいだったから、よほど焦っていたんだ。前の晩の脅しに僕が屈するかどうか判断するゆとりもなかった。それは何故だと思う?」 「そりゃあ、お前が嗅ぎまわってるのが邪魔だったんだろ」 「なんで邪魔だった?」 僕のしつこい質問に、マミーモンの顔がだんだん険を帯びてくる。もし苛立った彼に殴られて僕が死んだら、現代のソクラテスとして永遠に語り継いでもらうこととしよう。 「しつこいな……そりゃあもし自分たちの犯罪の証拠を掴まれたら……」 そう言いかけたマミーモンの目が、途中で見ひらかれる。 「……そうか。“もし”じゃない。そいつが焦ってたのは、自分にとってマズい何かを早苗が“もう”掴んだと思ったからだ」 「そう、脅しがあってから翌日までの間に僕が見たもので、誰かをそこまで怯えさせられることと言ったら、一つしかないだろ?」 「……坂本の殺害。じゃあ早苗を殺すように依頼したのが……」 僕は頷く。 「坂本を殺した犯人だよ」 「それはおかしくないですか?」 黙って話を聞いていたワイズモンが、不意に口を挟んだ。 「犯人は、なんで坂本さんの殺害現場に早苗さんがいるって知ってたんですか? もしその場で気づいていたなら、坂本さんと一緒に襲っていたはずでしょう?」 僕は頷く。「そこなんだよ。でも、だからこそそこに手がかりが……」 僕はそこで言葉を止めた。言葉の熱量の為に立ち上がらんばかりになっていた腰を落とし、ゆっくりと手をコーヒーカップに伸ばす。目の前がぐわんぐわんと揺れ、自分が果たしてまともにコーヒーを啜れたのかもわからなかった。 「早苗さん?」 「分からないな」やっとのことで、僕は一言呟いた。マミーモンが肩を落とす。 「なんだそりゃ、あんだけ勿体ぶっておいて」 「探偵は答えを言うのを勿体ぶるものなんだよ。それというのも、謙虚だからさ。はっきりわかっていることしか話さないんだ」 「お前のどこが謙虚だよ」 「なんだと、おんなじことはギディオン・フェルがちゃんと言ってるんだぞ」 「まあまあ、ふたりとも」 睨みあう僕とマミーモンの間に入って、マスターは苦笑して、僕の前に水の入ったグラスを差し出す。それを受け取るなり一息に飲み干すと、幾分気分は晴れた。 「探偵クンも、推理するにはまだ疲れてるんだろう。いったん根を詰めるのはやめて、他の話をしたらどうだい?」 マミーモンが僕の手を付けていないミルクポットを奪い、自分のカップに注ぎながらけらけらと笑った。 「マスター、こいつはこの数日でもう四、五回殺されかけてまだぴんぴんしてるんだぜ。今更になって……」 「いや、確かにそうかもしれません。部屋で頭をひねるには不向きな議題ですし」 大人しい調子でマスターに同意した僕にマミーモンがぎょっとした目を向ける。その視線を受け流しながら、僕は無理やりに話題を変えた。 「それより、来週の話をしましょう。初瀬さんとのデートの話」 「おお、忘れてなかったね。立派だ立派」 「何言ってるんですかマスター。鰆町の人口の半分が死体になっても、僕はデートに行きますよ。なにがなんでも。なにがなんでも!」 「うるせえな」 マスターは僕のグラスに水を注ぎながら、こちらの顔をまじまじと見つめてきた。 「それには、その痣が少し残念だね。かわいそうに」 僕はため息を吐いて。未だに少し熱を帯びているそれに持ち上げたグラスを押し当てた。気を取り直したのか、隣のマミーモンも僕をからかう。 「早苗、こないだ、なんとかっていう探偵みたいな痣が欲しいって言ってたよな。やったじゃないか」 「明日学校行くのが気が重いよ。何かと思われる」 「まあまあ、あまり気にするもんじゃないよ。もしも本当に脈があるなら、その子も痣なんて気にしないはずさ」 慰めるような口調で語るマスターに僕は頷き、席を立ちあがる。 「じゃあ、僕はこれで失礼しますよ」 「家は大丈夫なのかい?」 「マミーモンもいますし、相手がデジタル・モンスターならどこにいたっておんなじことですよ。マスターこそ、気をつけてくださいね。ワイズモン、頼んでもいいかな?」 僕の頼みに、文庫本からはつらつとした返事が返ってくる。 「ええ、もちろんですとも。マスターさん、枕元に本棚はありますか?」 「え? ああ、まあ、一応」 「それなら完璧です。マスターさんの身の安全は、ワタクシが保証しましょう」 「そ、そうかい? なら頼んだよ」 ぎこちなく言葉を交わす二人を見て微笑み、僕は代金を置いて店を出た。
*****
前を開けた僕のウインド・ブレーカーの裾が風になびく。寒さに震えて、そのファスナーを上まで引っ張り上げようとした瞬間に、脳の裏で声が響いた。
──おう、待ってたのか。
「そりゃあ待つさ。なんでこんなに時間食ってたんだよ」
──マスターに普通のトレンチコートを頼んだら、長いこと着せ替えごっこに付き合わされた。
「お気の毒」 くすりと笑って振り返ると、確かにマミーモンはいつものトレンチコートに戻っている。マスターは一体どれだけのコートを持っているのだろうか。
──で?
けれど、僕の苦笑いは、マミーモンのその問いにかき消されてしまった。 「で? って、なんのことさ?」
──しらばっくれるんじゃねえ。あの時、ヘタクソな嘘までついて、何を誤魔化したのか、ってことだよ。
「……」 僕はしばらく黙り込んだ後、口を開く。 「マミーモン、お前、霊体でなら、あちこちに忍び込めるよな」
──あ? まあ、そうだけど。
「でも、僕はその力を今まで一度も、悪用しようとはしなかった、そうだよな」
──ま、そうだけど。どうしたんだよ。急に?
僕はそこで振り返り、背後で不安げな声を出すマミーモンの、その包帯の奥の目を見つめる。 「……だから、今回も、信じてくれるか?」
──信じるって……。
「僕のやろうとしてることは、多分誰かを傷つけることだ。探偵ってのは、いつもそんなもんだよ」 僕は自嘲気味に笑う。そう、今この場所において、僕は探偵なのだ。それは嬉しいことだったけれど、同時に、自分が誰かに呼び込む不幸を認めなければいけない、ということでもあった。 「でも、それでも、マミーモン。お前が僕を信じてくれるなら、吐き気のする真実に突っ込んでいく僕と、一緒にいてくれるなら。頼みたいことがある」 僕の言葉に、やがて木乃伊はゆっくりと頷いた。
──いいぜ、言ってみろよ。相棒。
僕はくすりと笑って、夜も更けた街の冴えた空気に向けて、この世で最も使い古された、悪趣味なジョークを放り出した。僕たちが真実と呼ぶ、あの下らないジョークを。