≪≪前の話 後の話≫≫

6-1 逃走/ライター/欠けたピースのこと
家々に囲まれた狭い路地で、逃げ道を選ぶことは出来なかった。それは追う側にとってもご同様のはずで、マミーモンが少しでも隙を見せたなら、デスメラモンは僕と坂本弥生に向けて真っ直ぐに鎖を伸ばしてくるだろう。 つまりどういうことかというと、僕は後ろを振り返らないまま、かなり焦っていた。弥生はハイヒールを履いている上に涙を流しながら茫然自失としており、僕が強くその華奢な手首を引いても応える様子がない。 「ちょっと、急いでください! そんな靴脱いで!」 「トキオ、ほんとにそうだったの? ねえ、トキオったら……」 ぶつぶつと同じ言葉を吐き続ける弥生の目は、僕が初めて彼女の家を訪れた時と同じ目立った。僕の知らない、過去の幸せな時代の一点を見つめる目。彼女は何度も何度も、その光景を繰り返し瞼の裏で再生してきたのだ。多分、幸せだったのは最初の一回くらいだろう。 「ああもう、くそったれ!」 僕はそう叫ぶと、弥生を背におぶる。箸より重いモノは出来る限り持たないことを信条に生きている僕であったが、火事場の馬鹿力とでも言おうか、彼女のことは案外あっさりとおぶることができた。 ところどころに枝毛の見える彼女の長い髪の毛が頬にかかり、そこからふわりと香ってくる煙草の匂いが鼻を突いた。あいにく女性を抱えたりおぶったりした経験はなかったが、それでも彼女が平均以上にほっそりとしていて軽いのは分かる。 前のめりになりながら全速力で走る僕の背で、彼女はずっと坂本トキオの名を呼んでいる。こんなに細くなるまでに慎ましやかな生活をしながら、彼女はずっと坂本のことを思っているのだ。あのクソ野郎がなんでこんなに想ってもらえるのだか、僕にはさっぱり分からない。 その瞬間、僕の頬を鎖の冷たい感触が掠めた。頬がひりひりと熱を持つのを感じると同時に、視界が開ける。狭い通りを脱し、鰆町商店街に差し掛かったのだ。 「坂本、ずりいぞ!」 僕はそう声を限りに叫んで、横跳びに跳んだ。
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「……同感だ。坂本トキオがあんな風にヤヨイに思われているのは気に食わん。ずるい」 「いや、知ったこっちゃねえよ」 遠くで聞こえた春川の叫びに対するデスメラモンの共感を、マミーモンは呆れた顔で切り捨てた。大体早苗もなに叫んでるんだ。 それにしても、と彼は口の中で呟く。今のは危なかったな。もしも彼が木乃伊でなければ、冷や汗がつっと頬を伝っていたところだろう。彼の〈オベリスク〉の弾丸がデスメラモンの鎖の攻撃を弾いて僅かに逸らしたおかげで二人への直撃は免れたが、春川の体には少しくらい当たったかもしれない。 マミーモンは春川達が走り去った方に目を向ける。既に二人の姿は消えていた。とにかく姿を隠すまでの時間は稼げた、ということだ。デスメラモンも同じことを思っていたのだろうか、マミーモンをそのマスクの向こうの暗闇で睨みつけた。 「戦うのは二度目だな」 「前のはノーカンにしてくれねえか? 忘れたいんだ」 「お前のことは調べたぞ、〈死霊使い〉。月光軍団の下っ端がこんなところで人助けか?」 「その名前は捨てたんだ。よければ、探偵って呼んでくれよ」 そう云うなり、マミーモンはマシンガンを頭上に放るとアスファルトを蹴り、鉄仮面ににじり寄った。 木乃伊が自分の懐で無数の打撃をたたき込んでくるのをデスメラモンは動じるでもなく見下ろしていたが、マミーモンが右手に紫電を走らせるのを見ると咄嗟に腹部に向けられたその手を掴む。そしてもう一方の手で相手の顔を殴ろうとした瞬間、マミーモンの手が宙から落ちてきたマシンガンを掴み、銃口をデスメラモンの喉元に突き付けた。 「撃ってもいいぞ。どうせ俺の皮膚は突き通せない」 「その割には、ビビッて手を止めたじゃねえか」 「続きをしてもいいんだぞ? どうせ死ぬのはお前なんだ」 そう言ってデスメラモンが大きく腕を振る。木乃伊の軽い体は簡単に吹き飛ばされてしまったが、彼はすぐに立ち上がり再び相手に殴りかかった。 「前と同じだな。お前の軽い攻撃は俺には効かない」 「そうかよ」 にやりと笑ったマミーモンはその場で地面を蹴り、大きく一回転したかと思うと、前もって紫電を走らせていた右足でデスメラモンの顎を蹴り上げた。バランスを崩した大男が後ろに倒れると、大きな地響きが辺りの電線を揺らす。その音に耳をふさぐような身振りをしながら、マミーモンは鉄仮面の顔に語り掛ける。 「おい、そろそろ場所変えようぜ? あんまり人間の目についちゃお互いに困るだろ」 「……何を困ることがある? 俺は“坂本トキオ”なんだ。恥ずかしがることなんて何もないさ」 「おいおい、思った以上に重傷だな。やっぱあれか? 前に〈ネクロフォビア〉をもろに頭に食らったせいか?」 あきらめろよ、とマミーモンは続ける。 「この世界じゃどこに行ったって、俺たちはバケモノなんだ。それでもそれを受け入れて、俺たちは何とかやってくしかねえんだよ」 考えてみれば良くできたものだ。マミーモンは思う。たとえどんなに落ちこぼれて逃げてきたとしても、殆どのデジタル・モンスターは人間よりも圧倒的に力がある。それでも、モンスター達は人間とうまく折り合いをつけなければいけない。人間に受け入れられなければ、彼らはこの世界に留まることは出来ないからだ。 「お前さんがどういうつもりでやってることにせよ、あのヤヨイって女はそのせいで苦しんでる。それを認められないのかよ。それはルール違反ってもんだぜ」 「黙れ!」デスメラモンは勢い良く立ち上がる。 「お前のご立派な説教を聞く気はない。お前の連れの人間、ヤヨイを連れ去ってどうするつもりだ?」 「どうもしねえよ。どっかの誰かさんから保護するだけさ」 「信じられないな。やはり放っておけない」 そう吐き捨てると、デスメラモンはコンクリートに大きな凹みをつけて宙に跳びあがった。マミーモンはやれやれとため息をついてその巨体を目で追う。 「物分かりが良くて何よりだよ」 うまくやれよ、早苗。彼はそう口の中で呟くと、勢い良く地面を蹴った。
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周囲の怪訝そうな視線を一身に受けながら僕は全速力で足を前に運んでいた。休日の昼間はさすがの鰆町商店街もそれなりの人で賑わっている。そんな中を泣きじゃくる女性を背負いながら走っているのだ。人目につくに決まっていた。 とっさに商店街に出たはいいが、デスメラモンに見つかったときに沢山の人に被害が及ぶことを考えるといつまでもここにはいられない。〈ダネイ・アンド・リー〉に逃げ込むという案も同様の理由で却下だった。 悔しいが、一人ではどうすることもできないのは分かり切っている。マスターが頼れないとなると、どうすればいい? 僕はひゅうひゅういう喉の奥から呟く。そんな僕の耳に、背中でぶつぶつ呟いている弥生の声が耳に入った。 「トキオ……伊藤君……」 伊藤、そうだ。あの警察官がいる。財布には、彼が「またカツアゲに遭いたくなった時の為に」僕に渡してきた名刺が入っているはずだ。 僕が遠野老人の殺害犯人としてもっとも疑っていた相手。捜査を始めた僕の前に幾度も現れ、謎めいた言葉で挑発を繰り返し的たそんな彼も、一応は警察だ。昨日から様々な怪しい連中の相手をしすぎたせいで、昨日警察署で彼に怒りと疑いをぶつけたことも遠い昔のことのように思える。 彼の遠野老人殺害の疑いは晴れたわけではないが、少なくともデスメラモンと結託していることはなさそうだ。事の中心にいるらしいあのエロ写真の組織と彼に繋がりがあったとしても、彼らは坂本と敵対していたはずだ。それに何より、三日前に盗み聞いた彼と弥生の会話。そこでの彼の調子には弥生に危害を加えようとする様子はなかった。 一番信用ならない相手である以上に、一番話が早い相手でもある。形だけ迷ってみたところで、選択の余地が残されているわけではないことは分かり切っていた。 商店街を抜け、雑居ビルの軒下に駆け込んだ。財布から伊藤の名刺を取り出し、震える指でそこに記された電話番号をスマートフォンに打ち込む。三回のコールが、永遠よりも長く感じられた。 「もしもし──」 「もしもし? 僕です! 早苗! 春川早苗!」 電話の向こうに現れた伊藤に僕はまくしたてる。 「早苗君? いったい何を……」 「ちょっとカツアゲに遭ってて」 荒い息を吐きながらも、口からはくだらない冗談があふれてくる。こればっかりは持病みたいなもので、もうどうにもならないのだ. 「ちょろちょろしてるうちに、いよいよ何かやらかしたのかい?」 この野郎、冗談言ってる場合かよ。 「ヤバい人に追われてるんです」 「ヤバい人?」 伊藤の声が少し低くなった。あの目がすうっと細くなるのが目に浮かぶ。 「人間離れしてるくらいにヤバい人です」 伊藤がもしデジタル・モンスターのことを知っているのならこれで通じるだろうと思ったが、相手の声の調子には大して変わった様子もない。 「それで、俺にどうしろと?」 「僕は大丈夫なんですけど、伊藤さんに助けてもらいたい人がいまして」 僕のその言葉に、背中の弥生がふっと顔を上げた。 「伊藤くん? 伊藤くんと話してるの?」 その声はスマートフォンの向こう側にも届いたようだ。伊藤の声が少しだけ上ずった。 「弥生がそこにいるのか?」 「ええ。追われてるのは弥生さんです。僕一人じゃちょっと逃がすのに限界があります」 「なんで君が弥生を」 「そんなこと言ってる場合じゃないんだ! 大事な友達なんでしょう?」 焦りから思わずそんな風に声を荒げたものの、正直自信はなかった。僕は弥生によって聞かされた美化された過去の像のせいで、伊藤の弥生への友情について過大な評価を下しているのかもしれない。彼にとって弥生が「大事な友達」だったのが過去の話だったとしても、いや、そんなことは一度もなかったとしてもおかしくはないのだ。 「オーケー。今パトカーと、念のため救急車を向かわせる。なんとか持ちこたえるんだよ」 しかし、伊藤はそれ以上深く詮索することはなく、僕を励ますような調子でそう言った。 「分かりました」 「俺も自分の車で向かう、鰆町だな?」 「……ええ」 「早苗君? どうしたんだ」 「いいえ、何でも。それじゃあよろしくお願いします」 僕はそう言うと通話を終了し、ゆっくりとスマートフォンをポケットに収めると、もう一度目を前に向けた。 対向車線に建つコンビニエンスストア、その上に立つ巨大な筋肉質の男。その鉄仮面の奥の暗闇が、ちょうど僕と奴が初めて出会った時のようにじっと僕を見下ろしていた。 「マミーモン、どうしたんだよ」 僕はそう呟く。視線の先のデスメラモンが、にやりと笑ったように感じられた。
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空高くからアスファルトに叩きつけられ、マミーモンはうめき声をあげた。デスメラモンと彼では単純に力の差がありすぎる。有効打を与えるためには常に相手との距離を詰めている必要があるマミーモンには辛いところだった。腹に一撃食らっただけでこんなに吹き飛ばされてしまうとはまったく情けない。 「正攻法じゃ勝てないってのかよ、クソが」 意味も分からない呻きをあげながら起き上がると、マミーモンは再び空を見上げた。 正攻法以外、ということは一つしかない。この世界に来てる以上デスメラモンにも、“足りないもの”があるはずだ。そこを突けば相手に物理的にも精神的にも揺さぶりをかけることができる。もとよりデスメラモンは心が強いタイプではなさそうだ。 「それがあることは確かだ。でも、それはなんだ?」 再び空に舞うために呼吸を整えながら、彼は考えを巡らせる。他のデスメラモンにできて、彼にできないこと。しかし、気の利いたアイデアは何一つ浮かばなかった。 「やっぱり、早苗じゃなきゃダメか……」 彼は舌打ちをして空に飛びあがる。不覚にもデスメラモンのことを見失ってしまった今、たいして良くも知らないムカつく相手を探すよりは、良く見知った相棒を探す方が容易い。 彼は空から鰆町商店街とそこから伸びる細い通り、そしてそこに立ち並ぶ古びた家々を見降ろした。 どこに行くにせよ、春川は周りの人間への被害を気にして人混みを避けるはずだ。そして、空中から見つかることを避けるために軒下を通ることを選ぶだろう。彼が通ったであろう道を目で辿るのは容易かった だから彼の目は、コンビニエンスストアの上に立つ鉄仮面の男の巨体も、その男が何かを凝視していることも捉えることができた。そして、男が地面を蹴り、その視線の先に一瞬で迫ったのも。 「早苗!」
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目を閉じて、開いたときにはもうデスメラモンは目の前に立ちはだかっていた。獲物を追い詰めた猛獣を思わせるゆっくりとしたペースで、その足がゆっくりとこちらに近づいてくる。 「ヤヨイをかえしてもらうぞ」 「……やだね」 真っ白に塗りつぶされそうとされる頭の、その片隅が必死で何かを訴えていた。その答えが、ふっと鼻を掠める。僕はとっさに背中の弥生の体に手を這わせ、彼女のポケットに手を突っ込んだ。心のどこかで予期していた硬い感触をつかんで引き抜くと、その半透明のグリーンの中で、液体が小生意気にさらりと揺れた。 「ラ、ライター……?」 答えが出てみれば何ということはない。僕の頭をしきりに突っついていたのは弥生の服に染み付いた煙草の匂いで、僕が必死に探していたのは喫煙者の大半がもっているであろう、コンビニの使い捨てライターだったのだ。 溢れそうになる落胆のため息を、唇を噛んで抑えた。目の前の相手がカッターナイフとライターを危険な狂気だと思い込んでいるちょっとアレな中学二年生ならまだしも、怪物相手にこんなモノでどうしろというのだ。 馬鹿野郎、どうにかするしかないじゃないか。 顔を上げる。デスメラモンの脇の通り抜けられる隙間はもう僅かにしか残されていない。もう一瞬でも迷っている暇はない。 何事か自分でもよく分からない言葉を叫びながら地面にライターを叩きつける。こうすれば火花を散らしてライターが破裂することは知っていたが、思ったよりも破裂音はずっと小さく、失望が胸に湧き上がる。 しかし、意外にもデスメラモンは大きく怯み、その大きな手で顔を覆った。そのことに気づくか気づかないかのうちに足が勝手に前に出る。 その瞬間、足が再び勝手に止まった。鼻の先、数ミリの隙間を置いた場所で止められたデスメラモンの拳に、腰の力が抜ける。 「調子に乗るなよ」 へたり込んだ僕を見下ろしながら、鉄仮面がその手を広げる。その巨大な手のひらは、僕の頭ならゆうに五つは収まりそうだ。 迫ってくる暗闇に僕は思わず目を瞑る。どこかで僕の名を呼ぶ声が聞こえた気がした。
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思わず目を瞑ったものの、予期していた痛みも、その後の終わらない静寂も訪れなかった。代わりに耳に飛び込んできた大きな地響きに目を開くと、デスメラモンが横倒しに地面に倒れている。 呆気にとられる僕の手に、どこかから飛んできた一冊の本が収まった。洒落たカバーがかけられていても、そのあせたページをぱらぱらとめくれば、そしてその本が流ちょうに甲高い言葉を垂れ流すのを聞けば、何が起こったのかは容易に想像できた。 「……ワイズモン」 「早苗さん、ご無事ですか?」 ワイズモンの言葉にこくりと頷くと、遠くから聞き覚えのあるバリトンの声が耳に入った。 「話は後だ、早くこっちに!」 その声に引きずられるように慌てて僕はマスターに駆け寄る。喫茶店主のエプロンをつけたままの彼がワイズモンを収めた文庫本をデスメラモンに投げつけた、ということは想像に難くなかった。 どうしてそんなものであの大男をひっくり返すことができたのか、そもそもどうやってここまで来たのか、疑問はあった。命を救われたことへの感謝の言葉もあった。でも、僕が震える唇から引っ張り出せたのは、罪悪感にまみれた言葉だけだった。 「なんで来ちゃったんですか!」 「なんでって」マスターは苦笑する。 「あんな風に店を出ていった無鉄砲な探偵クンを放っとけるわけないだろう?」 「そんな……」 「とにかく、彼女をこちらに」 彼の言葉にうなずくと、僕は負ぶっていた弥生をマスターの背中に預けた。 「彼女のことは良くは知らないが、狭い街だ、小さなころから顔は見知っている。確かに保護させてもらうよ」 マスターの有無を言わせない頼もしい言葉に僕は思わずこくりと頷く。と、耳にデスメラモンの苦しげな声が響いた。 「ま、待て、逃がすか」 その言葉を遮るように、背後で一陣の風が吹き、数回の殴打の音がそれに続く。僕は深いため息をついて振り返り、デスメラモンに馬乗りにまたがったトレンチ・コートを睨みつけた。 「マミーモン。おおおおお前、来るのちょっと遅いぞ!」 「わりい、今度は逃がさねえよ」 相棒に向けて非難の声をあげたものの、やはり体は安心したのか、背中には今まで溜め込んでいた汗が噴き出してくる。 「早苗、俺がこいつを抑える。その間にこいつの弱点を見つけてくれ」 「弱点?」 「詳しくはその変態から聞け。さあ!」 マミーモンの強い調子に、僕は弾かれたように走りだした。
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「すぐに警察が来るので彼女を預けてください。話は通してあります」 「警察に行ったから安全という相手でもないだろう。私の店に……」 「駄目です! これ以上は巻き込めません!」 「いいや、今の彼女に必要なのはあたたかい飲み物だね。」 なにがなんでも店に連れていくという固い意志を見せつけ、マスターは商店街へと向かう角を曲がり、僕達と別れた。 「ワイズモン」 「はい、マスターさんのあれは不謹慎だと思いながらもちょっとうきうきしてる人の態度ですね」 多少落ち着きを取り戻した肺を鞭打って走りながら、僕はため息をついた。心配だが警察もいることだし、弥生のことは元気な人に任せるのが一番だろう。 「それで? どうやってデスメラモンをぶっ飛ばしたんだ?」 僕の問いに、少し自慢げに声の調子が上がる。 「〈パンドーラ・ダイアログ〉に記録された情報を、ワタクシは無限に再生することができるんですよ」 「再生?」 「有り体に言えば、一発殴られたらそれと同じだけの攻撃を何回でもやり返せるって感じですね」 分かったような分からないような話だ。僕の無言の疑問符を感じ取ったのだろうか、ワイズモンは我々モンスターはそういうものなのですよへらりと笑った。 「早苗さんたちが最初にワタクシの探求の聖林に乗り込んできたときに、マミーモンさんがワタクシの頬を二回殴りつけたでしょう?」 「そうだっけ?」 「特に一回目は相当必死だったみたいでして、中々痛かったですよ。まあおかげで、対して数を繰り返すこともなく、アイツを殴り倒せましたけどね」 確かに、あの時の僕達は突然に降りかかってきた無数の本から逃れるために必死だったし、〈パンドーラ・ダイアログ〉に踏み込んだマミーモンも、相手が誰かを確認しないままに本気の一撃をお見舞いしたはずだ。 「あとは喫茶店で靴屋の寺内さんにコーヒーをこぼされた分と橋本さんとこのお婆さんに栞代わりにページを折られた分と、あとそれと…」 「めちゃくちゃ根に持つじゃん」 「そうですよ、ワタクシは根に持つんです。そんなワタクシを差し置いて、勝手にお爺さんの仇討ちなんて許しませんよ」 「……ごめん」 「まあ、謝らなくてもいいですけど」 本の内側でワイズモンがふんと鼻を鳴らした気がした。 「それより、今はアイツの弱点探しです」 「それだよ、僕ちょっと未だによくわかってないんだけど」 そこまで言った僕の脳裏に、昨夜隠れ聞いたマミーモンとあの黒鉄の体を持ったデジタル・モンスター(ブラックラピッドモンと彼は呼んでいた)の会話が蘇る。〈死霊使い〉であるにもかかわらず碌に術のひとつも使えない、それがマミーモンが抱えていたコンプレックスで、そこを突かれた時の彼はひどく動揺した様子だった。 「おんなじモンスター達がみんな当たり前にできるのに、自分にだけできないこと」 「そういうことです。先日早苗さんのことを殺しかけたというネオヴァンデモンみたいな輩は例外と呼ぶべきで、この世界にわざわざやってくるモンスター達は普通そういうモノを抱えてますね」 「ワイズモンも?」思わずそう尋ねてから慌てて口を覆う。コンプレックスをそう気軽に尋ねる奴がいるものか。 「ワタクシの場合は単に周りと趣味が合わなかっただけのことで」 腕の中の文庫本は僕の失言にもそう答えてからからと笑った。そこには少しの公開もないように見える。彼は確かに、この世界で好きなことを調べながら幸せに暮らしているのだろう。 「とにかく、その弱点を見つけることが、アイツに勝つ近道でしょう」 「なんか気が引けるな」 マミーモンもワイズモンも、少なくとも僕にとってはいい仲間だ。そんな彼らが自分ではどうしようもない一点の短所の為に虐げられていたということには納得できなかったし、いくら敵とはいえデスメラモンの粗探しをしてそこに漬け込むのも気が進まなかった。 「大体それは弱点じゃない、個性だよ」 「早苗さんは、人間は優しいですね。でも、ワタクシ共の世界では、それは生きていくのに邪魔な足枷でしかないんです。それでも並一通りに生きていこうとすれば、色々と曲がったことをしなければいけませんでした」 ワイズモンの話は途中で一般論から彼自身の話になったようだった。僕は昨日聞いた話、マミーモンが彼の故郷でネオヴァンデモンに認められるために、誰よりも率先して殺しを行っていたという話を思い出した。彼らのようなモンスター達は、程度の差こそあれ皆そういう経験をしてきているのかもしれない。 「ワタクシはこの世界でお爺さんと出会って、それなりにうまくやっていました。マミーモンさんも、早苗さんと出会えて幸せみたいです」 彼は静かに続ける。その声の調子には、今まで感じなかった賢者の言葉の重みがあるように思えた。 「でもアイツは、デスメラモンはこっちの世界でもはみ出してしまった。ワタクシ共にはアイツに何かをしてやる理由もなく、また同時にその方法もないのですよ」 「……分かったよ。ここはハードボイルドにいこう」 僕は深々と息を吐いた。ワイズモンと話しているうちに僕はとうに大通りを通り過ぎ、大きな公園に差し掛かっていた。穏やかな秋晴れの下で、家族連れやカメラを首から下げた人々の声が聞こえる。ここには木々も多いし、上空から自分を探しているデスメラモンから身を隠すにはもってこいの場所だろう。頭上を多い隠す木の葉の冠がまだ茂っているベンチを選び、腰かけた。走っている間は感じなかった痺れがからだ中を駆け巡る。思い切り新鮮な空気を吸い込み、それから少しむせた。 「とにかく少し休むから、その間にデスメラモンという種について、君が知ってることを教えてくれ」 「ワタクシあまり詳しくはありませんが……」 「一般的なことでいいよ。というか、一般的なことじゃなきゃダメだ。その情報とあのデスメラモンとで食い違っているところが、僕らの探すべき弱点だ」
6-2 死の覚悟/二つの答え/最後の一撃のこと
「デスのつかない、メラモンってやつもいるのか」 「はい」 「えーっと、じゃあそのメラモンが死んだのがデスメラモン?」 「いや別にそういうことではなく……」 「でも、デスって名前に」 「早苗さん」 「うん」 「ちょっと無理がありますよ」 「……やっぱり?」 ワイズモンの言葉に僕はため息をついた。デスメラモンという種族についての知識をつらつらと聞いては見たが、そもそもデジタル・モンスターについて大した知識を持たない僕がそれを聞いてどうこうできるというわけでもない。 このまま何もせず、マミーモンの戦いに期待することしかできないのか。無念の気持ちに秋晴れの空を見上げた僕のポケットで、スマートフォンが着信を知らせて振動した。こんな時に、顔をしかめて画面を開き、通話に出る。 「もしもし?」 「探偵クン、無事かい?」 「マスター!」今のところ僕をそう呼ぶのは彼一人だけだ。 「僕は大丈夫です。そっちは?」 「ああ。うわごとばかり言っているが、とりあえず弥生くんも落ち着いたようだ。警察にも連絡して、迎えの先を店に変えてもらったよ」 「良かった」僕はとりあえずの安堵にそっと息をついた。 「それじゃあ、こっちも立て込んでるので」 「あ、待ってくれ」 電話を切り、あてどない推理に戻ろうとした僕を、マスターが引き留めた。 「どうしたんです?」 「あの、本の中の、ワイズモンといったかな? 彼は大丈夫かい?」 「え? ああ、はい、元気そうですけど」 「そうか、良かった」 「なんでまたそんなこと気にするんです?」 マスターの人が好いのは知っているし、二人の間に今朝若干の会話があったのも知っていたが、それでもワイズモンはマスターにとって出会ったばかりの得体のしれないモンスターのはずだ。それに本自体の無事は彼も自分の目で確認している。 「いや、お爺さんの仇を前にして、死ぬ覚悟を決めたようなことを言っていたから」 「死ぬ覚悟?」 思わず手の中の文庫本に目を落とす。 「あの大男から探偵クンを助けるために本を投げるよう私に言ったのは彼なんだ。その時の言葉が、まるで最期の言葉のようだったからね。無事ならいいんだ。くれぐれも気を付けて」 そう言ってマスターは電話を切った。ワイズモンがじれったそうに話しかけてくる 「時間がないのに妙に長電話でしたね。マスターさんでしたか」 「ああ、無事だそうだ。君のことを心配してたよ」 「私を?」ワイズモン自身にとってもやはりそれは不可解なことだったらしい。もともと甲高い声をさらに高くして疑問符を僕に飛ばしてきた。 「デスメラモンに投げつけられるときの君の言葉が、まるでこれから死ぬみたいな感じだったってさ」 「そりゃあ」ワイズモンが柔らかく笑う。 「あの時はお爺さんの仇の前で必死でしたからね。死んでもいいと思っていましたし、実際今でも生きてるのが不思議なくらいですよ」 その言葉に少しだけ違和感を感じた 「本当にそれだけ?」 「え?」 「君はその時、確かに死を意識したんだろ? そこにもしかしたら鍵があるかもしれない」 「よくわかりませんが……」 僕は頷いて、口を開く。それはもしかしたら何でもないことかもしれない。でも、誰もが当然のこととすることでも当然としてはいけない。探偵とはそういうものだ。 「君のその決死の覚悟に、何かしらの理由があるとしよう。そうだとすれば、それにもかかわらず今君が生きているということは、異常な事態だ」 「ふむ、だんだんわかってきましたよ」 僕はぶつぶつと言葉を続ける。確かに僕はデジタル・モンスターについて十分な知識を持たない。でも、知識を持っているワイズモンの行動から見える無意識を分析することならできる。例え無駄骨に見えても、これが僕にできる最善のことだ。 「デスメラモンといえば当然連想される物事の為に君は死を覚悟した。しかし、あのデスメラモンがその“当然”を持ち合わせていなかったために、君は今も生きてる。じゃあその“当然”はなんだ?」 「それは……」 文庫本が甲高い声でその答えを告げ、僕は大きく目を見開いた。 ***** デスメラモンを追って迷い込んだ小さな路地。巨大な拳で地面に突き倒され、マミーモンの前に今日何度目かの秋の青空が広がった。彼とデスメラモンとの力の差は明らかなもので、それを速さでカバーしようにも、人家に囲まれた狭い路地では到底無理な話だった。〈ネクロフォビア〉の応用で打撃の当たる場所に死霊の力を集めているために致命的なダメージこそ受けていないものの、このままでは勝機はない。 「どうした? 始めて戦った時のほうが骨があったぞ」 大の字でアスファルトに倒れている彼にゆっくりとした足取りで近づきながらデスメラモンが言った。 「俺が戦いにくい場所に誘導したのはお前じゃねえか」 「地形を言い訳にするとは、思ったよりも大した奴じゃないらしい」 そう言い放ち、デスメラモンは腕に巻き付いた鎖をマミーモンに叩きつける。しかし彼の鉄仮面には砕けたアスファルトの破片が当たっただけだった。 「舐めんじゃねえ」 いつの間にかその背後に立っていたマミーモンがマシンガンで思い切り彼の後頭部を殴りつける。よろめきながら振り返ったデスメラモンが大降りに振り回そうとした鎖の前に咄嗟にマミーモンが身体を投げ出す。鎖が木乃伊の体に巻き付いてその動きを封じたのを見て、鉄仮面の奥から満足げな唸りが漏れ出た。 「馬鹿なやつだ」 「危ねえじゃねえか。民家に当たったらどうする」 マミーモンの言葉にデスメラモンは声をあげて笑い、鎖を持った手を引いてぎりりと木乃伊の体を締め上げた。身動きの取れない敵の苦痛のうめきにますますその笑いは大きくなる。 「それは本当に、攻撃の機会をふいにして自分からわざわざ捕まるほどに重要なことか? 人間にかぶれすぎるのも考え物だな」 そう言いながら、デスメラモンは鎖をゆっくりと自分の下に引き寄せていく。少しづつ敵の手中に引き摺られながらも何とか踏ん張りつつ、マミーモンは不敵な笑みを浮かべて呻きの隙間から言葉を投げた。 「さっきさ、早苗を襲おうとして、お前さん本にぶっ倒されてたろ」 「忘れたな」不快そうにデスメラモンは短い言葉を返す。 「あれは無様だったな。笑えたよ」 「黙れ、もっと苦しみたいか」 「勘弁してくれ。で、その本のことなんだが」 ぶっきらぼうな言葉と共にさらに締め付けが強くなった鎖に思わず叫び声をあげながらも、マミーモンは笑みを崩さない。 「あれは中にデジタル・モンスターが入っててな、ワイズモン、お前さんが拷問したあの爺さんに憑いていたやつだよ」 「……それがどうした」 「変態同士趣味があったんだろうな、あいつは爺さんとは仲良しで、爺さんを襲ったやつを憎んでた。あの場でお前さんに一矢報いることができて、嬉しかったろうよ」 「『それがどうした』と俺は聞いているんだ!」 いつの間にか二者の距離は互いの手が届くほどに縮んでいた。鎖を持たないほうの手を伸ばしさえすれば、デスメラモンは簡単に相手の頭を握りつぶせるだろう。しかし、彼は何故かそうすることができなかった。 「お前は坂本の言うことを聞くフリをしていただけだった。あの爺さんを襲う理由は無かったはずだ」 でもお前はそうした、とマミーモンは続ける。 「本当に軽い気持ちだったんだろうさ。やり返せない相手の頭を指で少し弾くだけで十分だったろ」 「……」 「でもその事件がきっかけで俺と早苗は動き出した。ワイズモンも必死でお前にぶつかっていった。お前の計画は台無し、獲物ももう何度取り逃がした?」 「黙れ」 「やだね。お前、撃っていいのは撃たれる覚悟のある奴だけだ。って知ってるか」 「知らんな、興味もない」 「俺もまた聞きなんだけどよ。つまりはそういうことさ。力をふるうには、それなりの覚悟が必要なんだよ。誰彼構わず傷つけていたら、いずれ自分が痛い目を見る羽目になる」 「きれいごとはもう沢山だ」 うんざりしたようにデスメラモンが手を持ち上げ、マミーモンの頭部をゆっくりと掴もうとする。それでも、マミーモンは言葉を止めなかった。 「確かにきれいごとかもな。でもそれが、俺とお前との違いだ。俺がこの世界で見つけた、俺だけの流儀ハード・ボイルドさ」 そう言うなり、マミーモンは大きく、言葉にならない雄たけびをあげた。〈ネクロフォビア〉の紫の電撃が彼の体を駆け巡り、それは鎖を伝ってデスメラモンの体に届く。鉄仮面が、苦しみにうめいた。 「さあ、いつだかの悪夢の続きだ」 マミーモンは顔を前に出し、鉄仮面の額に自らの額をぶつける。 「狂気のなかで洗いざらい喋っちまえよ。お前の怖れるものは、なんだ?」 全身に流れる狂気の奔流に、デスメラモンのその深淵のような目に、剥き出しの筋肉質の胸に、鉄に覆い隠された眉間に、様々な感情があらわれる。悲しみ、怖れ、怒り、恐れ。 「…あ……あつ……」 二体はどれだけの時間そうやって向かい合っていただろうか、デスメラモンの苦しみのうめきの中から、言葉がぽろりとこぼれた。 「なんだ!」 「あ……あつい……いたい……やめて……くれ……」 その言葉にマミーモンの目が見ひらかれる。彼は紫電を止め、すっかり締め付ける力のなくなった鎖をその拳で打ち砕くと、無防備なデスメラモンの腹を鉤爪で差し貫いた。 「終わりだぞ、さっさと目ェ覚ませ」 「お、俺は……」 狂気から解放されたデスメラモンは、しばらく呆然としていたが、自分の腹から滲む血を見ると、怒りに満ちた叫びと共に腕を大きく振った。軽やかなバックステップでそれをかわしたマミーモンを彼は睨みつける。腹の傷は大したダメージではない、ということらしい。 「何をした!」 「別に、ちょっと覗いただけさ」 マミーモンは自分が息をついているのを気取られまいと、そっけなく返した。先ほどの電撃、そして腹への一撃はかなり効いたはずだが、彼自身ももともと不得手な死霊による術式を長時間使った疲れで相当参っていた。 「けど、その値打ちはあったな」 ふらふらのデスメラモンをみながら彼はほくそ笑む。“あつい”と“いたい”、デスメラモンが怖れるものについて、二つのヒントを手に入れた。 「ヒントはそろった。これで後は推理するだけ……」 「ちょっと待った!」 マミーモンの呟きを、背後で聞き覚えのある声が遮った。彼は口の端にそっと笑みを浮かべる。そうだな、それはお前の役目だ。 「間に合った?」 春川が息を切らしながら、彼に尋ねた。 ***** 「ああ、ギリギリだが、間に合ってるぜ」 マミーモンが僕の方を振り返らないまま答えた。 「お前らがわかりにくいところでドンパチやってるから、見つけるの大変だったぞ。この上に推理までお前にやられちゃたまんないよ」 「いいからさっさとしろ」 マミーモンが厳しい声で僕を促した。彼も、彼の前のデスメラモンもかなり傷を負っている。なるほど、本当にギリギリだったらしい。 デスメラモンはといえば、ふらつきながらもその仮面を真っ直ぐに僕に向けている。何があってそんなに疲弊しているのかは知らないが、体勢を立て直し次第真っ直ぐに僕を攻撃してくることは容易に想像できた。マミーモンの言う通り、急ぐに越したことはなさそうだ。 「オーケー。まずはワイズモン、一般的なデスメラモンについて説明を頼む」 「承知しました」 僕は文庫本を掲げた、そこから甲高い、いつもより少し芝居がかった調子の声が響く。 「デスメラモン、高熱の青い炎に身を包んだメラモンの進化系デジモンです。噴き出る炎のために、その体は青く燃え盛っています。攻撃力・防御力共にメラモンよりも格段に高く、炎の威力も合わせてすさまじい破壊力の持ち主ですね。火炎型系デジモンは水系や氷雪系に弱いのが定番ですが。こいつの場合は焼け石に水です」 「サンキュー。それじゃ次に、僕の推理を補強する事実だ」 僕はぴんと指を立てる。 「一つ、本の中の賢者ワイズモンは、デスメラモンに触れることと死とを無意識に直結することとして考えていた。 二つ、僕の頬を掠めたデスメラモンの鎖の感触は、ひやりと冷たかった 三つ、デスメラモンは、僕の投げたライターの軽い破裂に、不自然なほど驚いた」 「それと、さっきこいつが悪夢の中で吐き出した二つの言葉がある。“あつい”と“いたい”だ。これが四つ目」 マミーモンがそう口をはさんで、僕の方を振り返った。僕は笑みを返し、推理の締めくくりに移る。 「これらの事実と、さっきのワイズモンの説明とで、符合しない点が一つある」 僕はあらかじめ調達してきていた手の中の物体をマミーモンに放った。 「答えは“火”だよ」 マミーモンはそれ──使い捨てのライター──を受け取り、にやりと笑う。 「火が苦手なメラモン種だって? 早苗、お前やっぱりサイコーだよ」 その言葉とほぼ同時に、デスメラモンがよろめきながらも動き出す。 「後は俺に任せとけ。さあ、行くんだ!」 彼の言葉にはじかれたように僕は急いでその場を去った。 ***** 「……行ったか」 春川がその場を去ったのを確認し、マミーモンは息をつき、マシンガンを持った手を自分の横の空間に差し出す。すぐにずぶりという音がして、デスメラモンの巨体が彼の足元に転がった。春川を追うために慌てて駆け出したものの、マミーモンに注意を払わなかったために自分の目の前に差し出されたマシンガンに気づかなかったらしい。傷ついていてもその速さは大したもので、マシンガンは勢いよく突っ込んできた彼の体の、先程の刺し傷の箇所に突き刺さったというわけだ。 「お前の相手は俺だよ」 彼はそう言い捨てて、デスメラモンの腹に深々と刺さったマシンガンを引き抜き、代わりと言わんばかりにその傷口を踏みつけた。うめき声が鉄仮面から漏れる。マミーモンは思わぬ使われ方をしたマシンガンを眺め、目を丸くした。 そのマシンガンの金属部は灼けて真っ赤に染まっており、一部は融解している。それを見たのだろうか、足元のデスメラモンが苦しげに言った。 「お前に分かるか、熱が苦手な体に生まれたにもかかわらず、身体の内側から常に灼かれ続ける、この痛みが」 「……これは少し同情するぜ」 と、マミーモンの体が突然に引き倒され、その上にデスメラモンの巨体が覆いかぶさる。 「でも、それとこれとは話が別だ!」 彼は咄嗟に〈スネーク・バンテージ〉を放ち、包帯でデスメラモンを覆うと、手の中のライターを着火した。燃えた包帯で体を包まれ、デスメラモンは声にならない叫びをあげる。木乃伊の体を覆う包帯は乾燥していて、良く燃える。しかし、それは彼自身の体についても同様だった。あっという間に二体は炎に包まれ、一つの火だるまと化す。 「これで最後だよ。どっちが先に死ぬかだ」 雄たけびを上げ、デスメラモンが拳をふるう。マミーモンも同じように叫びながら、その一打を紫電を走らせた両手で受け止める。 「……こちらの世界でも、火は熱くて、痛いんだな」 「ああ、お前さんにとっちゃ残念な話だ」 彼は鉤爪で相手を突き刺そうとする。それをデスメラモンは、己を覆う唯一の鎧、顔の鉄仮面で受け止めた。 「でも、ヤヨイは違った」 「何を言ってる?」 鉤爪を弾いた勢いで、デスメラモンは相手の頭に頭突きを食らわせる。木乃伊の視界はちかちかと点滅したが、彼も最後の魔力を振り絞った〈ネクロフォビア〉で電撃を相手の体に走らせた。 「初めてこの世界で出会った人間がヤヨイだった。その時、俺の体に、これまで感じたことのないほどのあつい熱が走った。でもな──」 痺れに震える大男の腕が、したたかに木乃伊を殴りつけた。 「その熱はいたくなかった! 俺を、傷つけようとはしなかった!」 次の瞬間、マミーモンが全力でデスメラモンの体をひっくり返し、彼に馬乗りになると、高らかに笑った。 「恋の炎、ってやつか? ロマンチックなのは嫌いじゃないぜ」 でもな 「もう、手遅れさ」 木乃伊の鉤爪が振り下ろされた。 ***** 路地を抜け、鰆町商店街の入り口辺りに戻ってきたところで、僕の目に救急車が留まった。どうやら伊藤は間違いなく約束を果たしたらしい。 その後部座席から、一人の男が下りてくる。その顔に見覚えがあった。すべての始まりのあの午後に、遠野老人を搬送した救急隊員だ。その翌日に一度話をしたときには白井と名乗っていた。 「白井さん!」 僕はそう声をかけ、彼に駆け寄っていった。彼はその小じわの寄った目を細めながら僕を見ると、すぐにほほ笑んだ。 「ああ、春川君じゃないか」 彼のほうでも僕の名前を憶えていたのが、少し意外に感じられた。 「伊藤刑事に言われて来てくれたんですか?」 「ん? ああ、そうだよ」 僕はほっと息をついた。これで彼女も一安心だろう。 「それで、弥生さんは?」 「ああ、患者なら今救急車に運び込んだよ。もっとも、緊急性は全くないから、帰りもサイレンは点けないけどね」 そう言って彼は開け放たれたままの救急車の後ろの扉を指さす。 「君のことを心配していたよ、顔を見せてあげるといい」 「いいんですか?」 「もちろん」 それじゃあ失礼して、と言って僕は車両後部から薄暗い車内に乗り込んだ。確かに担架が置いてあり、その上の毛布にはふくらみがある。 「弥生さん?」 返事はない。眠ってしまったのだろうかとさらに担架に近づく。 担架の上には誰もいないと気づいた瞬間、背後で扉が閉まる音がした。 咄嗟に振りかえる間もなく、湿った手で口がふさがれ、僕は床に引き倒された。手からワイズモンの入った文庫本が滑り落ちる。 白井が僕の口と鼻を抑え、ゆっくりと体重をかけてくる。手足も既に手際よく押さえつけられており、抵抗しようにもどうにもならない。 ああ、僕はなんてバカだ。遠野老人は救急車に運び込まれるまでは元気だったのに、病院についたころにはもう瀕死だった。 デジタル・モンスターの力なんて関係ない。救急車の中で何かされたに決まっているじゃないか。 身体が手足の先のほうからゆっくりと痺れていき、視界がだんだんと白く染まる。 ああ、人っていうのはこんなに簡単に死ぬのか、そう思いながら、僕は意識を失った。
6-3 目覚め/仕掛けられた罠/包帯だらけの父親のこと
ゆっくりと目を開いた瞬間に、照明の無粋な白い光が目を刺し、僕は一気に覚醒した。横で、安堵したような男の声が聞こえる。 「ああ、起きたのか、良かった」 僕はゆっくりと目を声の方に向ける。見覚えのある額の痣が目についた。 「金沢……警部?」 「覚えてくれてるとは光栄だよ。昨晩話したときには、君をひどく怒らせたようだったから」 金沢は、そう言ってにっこりと笑った。 「……あんな聞き方されたら、誰だって怒りますよ」 「残念だが、そんなことはない。ああいう風にむきになるのは、後ろ暗いとこがある人だけだよ」 そう言われては黙るしかない。しかし金沢の声の調子はあくまで優しいもので、そのことで僕を追求する気はないみたいだった。 「それよりここはどこです? 今は何時? 何が起こったんです?」そしてマミーモンは一体どうしたのだ。頭がはっきりすると同時に疑問が一度に溢れてきたが、最後の質問は金沢にしたところで意味はないだろう。 「本当に元気みたいだな」僕の矢継ぎ早の質問に金沢は苦笑した。 「その元気に免じて答えてあげよう。ここは市の総合病院の病室、今は夜の九時。そして私は何が起こったかを逆に君に聴きたくてここにいるんだ」 「……救急隊員の白井に殺されかけたことまでしか覚えてないです」 金沢の目が鋭くなった。 「間違いないな」 「どう間違えろっていうんです? 知り合いが中にいるから入れって言われて、油断してついていったらドアを閉められて、覆いかぶさってきたんです。一体全体、僕はどうやって助かったんですか?」 僕の言葉を注意深くメモしていた金沢は、最後の質問に顔を上げ、少し笑った。 「伊藤だよ。あいつが救急車に踏み込んでいって、白井を殴りつけたんだ」 「伊藤さんが……」 金沢は少し伸びをすると、再び話し始めた。 「白井は、君が遠野古書店で見つけたあの写真を売りさばいていた組織の一員だったんだ。白井と、あと数人の救急隊員だな。遠野老人を殺したのも彼らだ。とんでもない不祥事だよ。今も病院はマスコミへの対応に追われてる。我々は我々で、連中がほかにも故殺した患者がいなかったか、必死で探っている」 ということは、完全に僕の見立て違いだったということだ。遠野老人とエロ写真の組織の関連まで見つけておきながら、犯行にデジタル・モンスターが関与しているというアイデア、伊藤を犯人だとするアイデアに固執し、簡単な事実を見逃してしまっていたのだ。フィリップ・マーロウ曰く、自分で自分に仕掛ける罠ほどたちの悪い罠はない。まったくよく言ったものだ。 「伊藤は君を助けた後、迅速に行動した。おかげで君のことはマスコミに一切知られちゃいない。バラしたいなら自分からバラせばいいし、そうでなければ問題なく日常に戻れる」 僕の思いを知ってか知らずか、金沢は少し厳しい声で続けた。 「アイツは仕事でやったんだから、今回の件で君は伊藤に感謝する必要はない。でも、謝る必要はあるかもな」 「……」 「君が伊藤をどう思っていたかは何となく感づいていた。どういう経緯でそう思ったのかは知らないが、アイツは頭も回るし行動力もある、将来きっといい警官になるんだ。昨夜君にああいう態度を取ったのは、疑いから伊藤を守るためでもあった」 僕は黙って俯くしかなかった。 その時、病室のドアをノックする音に続いて看護士が部屋に顔を突っ込んできた。 「あ、春川さん目が覚めたんですね、良かった。お父さんが来てますよ」 「お、そうか。ご実家への連絡はあの喫茶店の店主さんがどうしてもと言うからお任せしたが、間違いなくやってくれたようだな」 父親? 僕の背中に冷や汗が伝う。物腰穏やかで心配性だが怒ると妙に怖いあの父親が田舎から新幹線に乗って飛んできたとでもいうのだろうか。しかも、連絡したのがマスター? どういうことだ。 「それじゃあ私は退散するかな。春川君、人を疑うことには、それだけの責任が伴うってことを忘れないでくれ。もっとも、これは我々警察がしばしば忘れてしまうことなんだがな」 最後に柔らかい口調でそう言い残すと、彼は看護士と連れ立って部屋を出ていった。 「しかしあのお父さん、あんなに包帯ぐるぐる巻きで、自分が入院した方がいいんじゃないかしら」 扉の向こうで、そう言う看護士の声が聞こえた。
*****
「お前かよ……」 ベッドの脇に立つコートにハットといういで立ちの木乃伊を見て、僕は呆れと安堵が混じったため息をついた。 「なんで父親なんて嘘ついたんだよ」 「親族でもなきゃ病室に入れなかったからさ。マスターも門前払い食らったんだぜ」 「霊体になれば良かったんじゃないの」 「ああ、確かに」 僕はもう一度ため息をついた。 「せめて顔隠せよ」 「包帯の上からこれ以上どう隠せっつーんだよ」 「そういえば、なんか包帯、新しくなってる? コートも」 「前のは燃えたからな」 「……そう」 いつも通りの軽口を一通り終えて、幾分マシな気分になったところで、マミーモンが口を開く。 「デスメラモンは死んだよ」 「うん」 「とりあえず、終わりか?」 「どうだろうね」 僕は思い切り伸びをした。 「まだ坂本殺しの犯人が不明のままだ。伊藤についての推理はまるっきり外れてたし、組織への糸口は完全に断たれた。ネオヴァンデモンがまた現れた時に差し出す情報もないよ」 心配の種を羅列する僕に、マミーモンがくすりと笑った。 「……なんだよ」 「いや、元気そうで何より」 「そんなに元気でもないよ、推理は外すし、ここ数日で何回も死にかけてるし」 「その通り。とりあえず問題は忘れて、今日こそはゆっくり休もうぜ。俺もそろそろやべえよ」 「まあ、そうだな」 そう言いあってお互いに肩をすくめた時、マミーモンの目が急に鋭くなった。 「足音だ、誰か来るぞ」 「病院の誰かだろ」 「俺、霊体になった方がいいよな?」 「別に必要なくないか? 僕のパパなんだろ?」 僕の冗談にも彼は不安そうな顔をして、結局は病室の扉が開けられる瞬間にふっと宙に浮かんで姿を消した。 「お邪魔するよ」 そう言って入ってきたのは、この数日で散々対峙したにきび面、伊藤だった。彼は警察の制服ではなく、ジーンズに黒のジャケットを着こんでいた。 「……伊藤さん」 「早苗君、今日は災難だったね」 「伊藤さんが助けてくれたんですよね。ありがとうございます」
──早苗、油断するなよ。殺しの疑いが晴れても、こいつのここ数日の言動が怪しすぎることに変わりはないんだからな。
木乃伊の声に僕はかすかに頷く。伊藤は来客用の椅子に座ることはなく、ジャケットのポケットに手を突っ込んだまま立っていた。 「俺の方こそありがとうだよ。今日は弥生を助けてくれたんだよな」 「弥生さんは今、どうしてますか」 その質問に、伊藤の顔に影が走ったように見えた。 「この病院の精神科の、隔離病室だ。俺も会わせてもらえなかったよ。精神錯乱、幻覚、妄想と現実の区別がつかなくなってるらしい」
──そんなに酷かったか? ああ、デジタル・モンスターのことを誰彼構わず喋っちまったのかもな。
なるほどね、マミーモンの言葉に僕の顔も暗くなる。
──まあその点に関しちゃ、俺が病室に忍び込んで説明するより他ないだろうな。まあどっちにしろ、治療が必要なのは間違いないだろ。
僕はまた微かに頷く。弥生が錯乱していたのは事実だったし、あの腐った過去の吹き溜まりのような家よりは、病院のほうが今の彼女にはいいだろう。 「そういえば、トキオは死んだよ。殺されてた」 「……そうですか」 僕はなるべく初めてその事実を知ったような反応をするよう努めた。うまくいったかは知らない。 「それでさ、俺がトキオの死んだ家を最初に捜査したんだ。昔に弥生も合わせて三人でよく遊んだ家でさ、そこにトキオの死体が転がってるんだ。妙な気分だったよ」 その話になったとたん、ふっと、伊藤の纏う空気が変わった。昔馴染みの死、或いは精神錯乱を悲しんでいる雰囲気はそのままだが、今ではその上に悪戯っぽい、僕の良く知るムカつく伊藤の空気を纏っている。
──なんか、イやな予感するな。
「そこで俺は、最初にこんなものを見つけた。いや、普通にドアノブに刺さってたんだけどさ」 そう言うと、彼は、ジャケットのポケットにずっと突っ込んでいた手を出した。その手に握られているものを見て、僕はまた気を失いそうになった。 「それ……」
──おいおい、それまさか……。
伊藤の手に握られていたのは、僕が遠野古書店で入手した鍵をもとにマスターの友人の鍵屋で作ってもらい、坂本の隠れ家の扉を開けるために使った合い鍵だった。
──ドアノブに刺さってたって? 冗談きついぜ。早苗も、俺も。
なんてバカだ。細かい証拠の隠滅ばかり気にして、こんな重大なものを忘れるなんて。 伊藤はいかにも面白そうに続ける。 「俺は当然、指紋鑑定に回したね。興味深いことに、遠野古書店からも同じ指紋が出た。もっと興味深いことに、早苗君が見つけてくれた証拠物品からもだ」 当然、僕の指紋だ。僕の顔は真っ蒼になっているはずだった。これで、僕が坂本の殺害に居合わせたことも、証拠の鍵を複製したこともバレてしまった。それがどういう罪になるのかは知らないが、重罪であることは容易に想像できる。鍵の複製に協力してくれたマスターや鍵屋の店主にも迷惑がかかる。無論、探偵なんて言っていられない。 「と、いうわけで」 いまにも気を失いそうな僕に、伊藤がその鍵をほうった。 「え?」 慌ててそれを受け止めるのと同時に、伊藤の行為への疑問符が声になって飛び出す。 「返すよ。警部には言わないでおく」 「は?」
──はあ?
僕とマミーモンの声が、きれいに重なった。 「え、ちょっとちょっと」 「ん、どうしたんだい?」 「どうしたんだいじゃないですよ! こんなことしていいんですか!」 「え? そりゃあ」伊藤はへらりと笑う。 「駄目かもね」 「駄目に決まってるでしょう!」 「じゃあ警部にしっかりこの証拠を提出した方がいいかな?」 「う……」 半笑いでそう切り返してくる伊藤に、僕は口ごもるしかない。 「安心してくれよ、特に他意はない」
──いや、怪しすぎるだろ。
マミーモンが気持ちを代弁してくれたおかげで、僕はその言葉を伊藤に面と向かって放たずに、代わりに幾分落ち着いた質問を飛ばすことができた。
「なんでこんなこと……」 「君がどういう経緯であの家にいたにせよ、現場を見れば犯人が君じゃないことは明らかだ。それに、君が、君の行動が弥生を助けてくれた。それは警察じゃできなかったことだよ」 「……」 「要するに、俺は君に好きにしてもらいたくなったのさ」 伊藤はそうへらりと笑って立ち上がると、別れの挨拶をして病室を出ていこうとした。 「待てよ」 僕は彼を呼び止める、口調を取り繕う余裕はなかった。伊藤はこちらを振り返らないまま、しかし立ちどまった。 「あんたのやってることも言ってることも、僕にはやたらムカつくし、意味わかんないですし、意味わかんないのがさらにムカつくし」 要するに。 「あんた、一体何者だ?」 「俺?」 伊藤は僕の方を振り返ると、にやりと笑った。 「俺は、君とおんなじさ」 彼はジャケットのポケットに手を突っ込むと、呆然とする僕と相棒を残して、軽やかに病室を後にした。