タイトルのイメージ

まるで沈み込むようにして、使い古された簡素なベッドの上で眠る少女の許に俺は今日もやってきた。いや、厳密には、毎日会っているというよりも、住み込みで世話をしていると云った方が正しいかもしれない。もう彼女は、自分がいる限り逃げられないと理解してしまったからか、俺の命令を素直に聞くようになった。その代わり、血のように紅い眼の光は、以前よりも鈍くなりつつある。口数も少なく、大人しいので何を考えているのかは分からない。傷は治りつつある筈なのに、治そうとは考えないのか、包帯がほぼ完全に解ける日は遠いようだ。クッションにも使えそうな大きさの、つぶらな瞳をした白いアザラシのぬいぐるみを小さな手で抱きしめながら、彼女はすやすやと眠り続けていた。俺が地下のクローゼットの中から選んできた服を着たまま。肌着(スリップ)をつけることはなく、スカートの中からは柔らかな木綿のズロースのフリルが見えている。脚にも包帯を巻いてはいるが、ほんの少しほつれかけている箇所や、血が滲んで乾いた茶色に染まりつつある箇所がある。カフスの隙間からは点滴のチューブが繋がっているのが見えた。
本来なら怖いのだろう。現に、彼女の目からは一筋の涙が溢れている。暗くてよくは見えないが、ワンピースの袖は薄い水色ながらも透けていて、中からは白い包帯が巻いてあることがよく分かる。リボンは解いてしまったから、少女の髪は結ばれていない。ただ、彼女の首には黒い革の首輪がついている。ソイツに付いた輪っか状の金具から伸びた鎖は、シーツの上に垂れ下がっていた。一メートルはあるだろうか。
俺は小さくジャラジャラと音を立てるソレを優しく掴むと、彼女の髪を撫でた。大きな掌には細過ぎる、絹のような美しい髪。肩から胸の下までをアーチのように縁取る銀鼠色のフリル。薄紅に染まった頬。何より、小さくて可愛らしい躰。全てが全て愛おしい。
傷が治らない限り、俺の望みは決して叶うことがない。冷たくなった彼女の躰を人形のように抱きしめることなど出来ないし、声さえ聴けなくなるのは辛い。彼女が本当に自殺をしたら、俺は骨を拾って弔えるだろうか。その場に立ち尽くすだけだろうか。そのどちらでもないのだろうか。少女が目を覚まさないうちに、俺は彼女の小さな躰を抱きかかえ、病室を後にした。冷たい廊下に出て少し後に彼女が目を覚ました。お気に入りの、白いアザラシのぬいぐるみを強く抱きしめたまま。灯で照らされてはいないから、眩しさに目を細める必要はない。小さく呻き声をあげながら、彼女はこちらを見ている。
「……おはよう、お人形(ドール)。さあ、ポッドへ向かおうか」
「………どうして?」
「悪く思うな。お前の傷を治す為なんだ……」
「ん……」
俺は彼女を治療用ポッドがある部屋まで連れて行こうと、首輪から伸びた鎖を掴んだ。彼女は腕の中からゆっくり降りると、陸亀のような速度で歩き始め、やがて俺達は一枚の扉の前に辿り着いた。この向こうに、目的のモノがある。
この燈台の中には三つのポッドが存在するようだが、うち二つは使い物にならない。だから少女はそのうち真ん中に入ることになった。初めてこの部屋を訪れた時と変わらず、ソレは柔らかな緑の光を発し続けている。薬液で満たされた培養槽の中では、栄養や空気を送り込む為のチューブが揺れていた。暗いこの部屋の中に照明はなく、ポッドが照らす光だけが光源となって部屋の一部を照らしている。他にも、部屋の中には一人掛けで背凭れのない椅子が二脚と、端の方には簡素な、だがフレームの底部分が簀子になっている木のベッドが一つ置かれている。その上には、彼女が日頃から大事にしているぬいぐるみと、箪笥の中から引っ張り出してきた着替え、水のペットボトルと、缶詰や保存食といった食糧がそれぞれ二人分。俺の分と少女の分とで缶詰のラインナップは違う。目的の違いもあるかもしれないが、彼女が食べる為の缶詰には一つだけ小さなフルーツ缶詰が混ざっているのだ。その他にも、彼女が沢山食べられるようにと白米の粥も用意してある。缶の上には木のスプーンがあり、いつでも少女に食べさせる準備は整っていた。それ以外にも新しい包帯に、薄いベージュの毛布。決して治ることのない怪我を治す為に、彼女には二、三時間だけこの中に入って貰うのだ。
彼女は俺の介助を受けて、着ていたワンピースと下着を脱ぐと、その下に包帯で包まれた白い肌が見えてきた。首輪は既に外し、ベッドの上に置いてある。彼女は何も言わないが、緑色の光の所為だろうか。いつもはあんなに美しく見える筈なのに、今は病的にも不気味にも映る。巻きつけていた包帯も全て解くと、少女は俺の手を取って目の前のポッドへと入っていった。薬液の中にその身をゆっくり浸し、全身にチューブを繋げると、薄水色の長い髪を揺らしながら再び眠りへと入っていった。薬液の中で揺蕩い、目を瞑る彼女は妖精か女神を思わせる程に美しい。心無しか、いつもより嬉しそうに見える。口の中から時折吐き出す小さな泡も、とても可愛らしい。
ベッドの端から缶詰を二、三個持ってきて、椅子に座って食べようとすると、缶にプルタブが付いていないことに気がついた。どうも缶切りが必要なタイプだったようで、俺は急いで缶切りを持ってくるべく、一階の倉庫へと向かった。重い鉄の扉を開けると、六畳くらいのスペースに沢山のモノが棚の上に整然と並べられている。大半は缶詰や瓶詰め、漬物や干し肉、レトルトといった保存食で、後は金属製の調理器具がちらほら見える程度だ。俺はその中から缶切りを引っ張り出し、急いでポッドがある部屋へと戻った。
暗い中、缶をどうにか開け、左手で割り箸を持ちながら中の煮物に手を付ける。本来なら茶色や朱色、灰色といった無難な色ばかりで埋め尽くされている筈だが、ポッドが放つ緑色の光の所為で、不気味な色にしか見えなくなっている。蒟蒻一つとっても不気味な色をしている所為か、食べる気にはならない。目の前の少女がここまで酷い怪我さえしなければ、二人で感想を言い合ったり、食べ物を半分こにしたりと、少しは美味しく食べられたのだろうか。それでも俺は、水と一緒に無理矢理煮物を流し込むと、次の缶に手を伸ばした。本来ならば隣にある筈の温もりは感じられない。漸く粥以外の普通の食べ物が、少しだけ食べられるようになったというのに。俺は少しずつ瞼から零れてくる涙を堪えながら、中の炊き込みご飯を少しずつ口にした。米の粘りはおろか、味の染み込んだ筍や小さな茸さえ味わう気にはなれない。思い返せば、彼女に飯を食わせている時間は少しだけ楽しかったし、殆ど成り立たない会話でさえ俺にとっては甘い時間となり得た。結局のところ、俺自身も彼女のことを望んでいるのだろうか。
食べ終わった後に残ったのは幾つかのゴミだけだった。食器を洗う必要がないのはいいが、風情がない。部屋の隅に置かれた灰色のペールの中に全て投げるように捨てた後、俺は力無く椅子の上に座り込んだ。本当ならば今すぐにでもあの小さな躰を抱きしめてやりたいが、ソレが出来ない。怖い夢を見ていないだろうか。寂しくはないだろうか。眠る彼女を硝子越しに見ていると、様々な感情が湧き上がってきてしまう。きっと俺の中はどうしようもない寂しさで満たされているからこそ、彼女に望まれたいと思っているのかもしれない。怖くて心細いのは俺自身も同じなのだろうか。
椿柄の蝋燭が差し込まれた一対の灯台が周りを弱々しく照らす和室には、真っ白な褥と椿柄の衾が敷かれている。二十畳程もあるその部屋に、たった一人しかいない。齢十から十二歳位に見える少女が寝かされていて、枕元には一つだけぬいぐるみがあった。白いアザラシのぬいぐるみだ。部屋の調度品は桐の箪笥に、漆で黒く塗られた鏡台があるのみ。眠っている彼女は薄水色の髪を左右に広げているが、寝間着を着ている訳ではなさそうだ。着物を着ているように見えるが、パフスリーブや襟元を飾る白く小さなフリルからしてどうも違うらしい。そのうち、彼女は褥の中から起き上がり、ぬいぐるみを抱えて鏡台へと向かっていった。
鏡台の目の前に敷かれている赤紫色の座布団に座った彼女は、僕の顔を見るなり小さな悲鳴をあげた。左目は包帯で隠れていて見えないが、右目は僕らが好む血の色をしたルビーそのものの色をしていた。成る程、こんな色の瞳なら只の人間は好まないし、ソレどころか、恐怖や畏怖、下手をすれば迫害の対象にすらなり得る色だ。その上、人間とは思えない程に白い。そんな彼女がヒトの胎から生まれ出てきたのだ。コレを奇跡と呼ばずにはいられないだろう。座っているのでよくは分からないが、やはり彼女が着ている服は寝間着ではなかったようだ。帯は薄く太く、リボンのように結ばれていて、前髪には藍色の花飾りが結えられている。正座をしている所為で分かりづらいが、下はスカートのようで、裾には紺色の透けたフリルがあしらわれていた。部屋着にしては勿体無いくらいの豪華さからして、このドレスはどうやら他所行きのようだ。
僕は鏡の外にいる少女に向かって、
「やあ、こんばんは」と挨拶をしたが、僕を見るなり彼女は怯え、遂には涙目になってしまった。彼女は声を出すまいと必死に堪えているが、ぬいぐるみを抱える腕の力はどんどん強くなっていくばかり。僕には何が怖いのかは分からなかった。
「君は、アマリリスちゃんだよね?こうして逢うのは初めてかな?僕はノエル。幽世の王達でさえ手が出せないと表では噂されている、夜を統べる者達の王だよ」
「……私は貴方のことを知らない。どうして、私に?」
「僕はね、こうして二人っきりでお話したかったんだよ。けれども、君の傍には如何なる時でも護ってくれる魔王サマがいるからね。こういう形でしか話が出来なくて残念だよ」
「……ルナのこと?」
「そうだよ、ルナくんだよ。いつも君をお人形さんみたいに可愛がってくれている、あの口の悪いお兄さん」
「どうして、ルナが……、私のところにいるの?」
僕達の声以外は何も聞こえない。怖いくらいに。鼠が天井裏で這い回る音も、窓にひっつこうとしている虫の羽音も。風の音さえも。静寂の中、僕は目の前の少女が望む答えを与えた。
「望んだのは君でしょう?」
「……独りでも良かったのに。あんなことされるくらいなら、私……」
「でも、ルナくんを選んだ君は正しかった。ずっと独りで寂しい思いをしていたなら尚のこと。彼は誰よりも孤独の辛さを知ってるからね。僕はどうして君に選ばれなかったんだろうって思っているから、正直言ってルナくんには妬いてるけどね」
「そんなこと……」
「君は気づいてないみたいだから教えたげるけど、君は僕達がずっと待ち焦がれてた存在なんだよ。その赤い目が何よりの証拠だ。双子として産み落とされ、塔の中に幽閉されて育った君を、ね。過去を隠そうとしても無駄だよ。全て解ってしまうんだ。君の目を見てしまえばね」
「……やめて、やめて!怖い、よ……」
「僕を選べば良かったのに。そうすれば君に惜しみなく愛を注いであげられたのに。そのままの君を幸せに出来たのに。君の傷を癒してあげられたかもしれないのに。君に仇なす全ての者達を皆殺しに出来たのに。君に沢山のお友達を作ってやれたかもしれないのに。それでも君はルナくんを望み続けるのかい?」
「……怖い、けど優しいから。私を、ずっと好きでいてくれるから……。あったかい、から……」
「君の気持ちは変わらないのかぁ……、悲しいなぁ……。でも、僕のところに行きたくなったらいつでもおいでよ。お友達も連れて、ね。焦がれてやまない君が来るのを、僕は楽しみにしてるんだ。そうだ、今度いいこと教えてあげようか。何、そんなに身構えなくていいんだよ。僕は君を失いたくないからね。君がいないと困るんだ」
「……怖く、ない?」
「大丈夫だよ。君さえ良ければ。そろそろおはようの時間だ、ルナくんによろしくね」
ポッドの中から出てきた少女に、白いバスタオルを巻き付けてやり、俺は傷がほぼ無くなり、磁器のように美しくなった躰を拭いた。彼女の眼からは涙が僅かに零れている。
「どうした、アマリリス?怖い夢でも見たのか?」
「ルナ、怖かったよう……」
「そうか、傍にいてやれなくてすまない……。俺がいるからお前は怖がらなくていい」
言い終わった俺は彼女に着替えを渡した。フリルがたっぷりついた白い下着からドレスに至るまで、変わらず介助を受けながら着替えているが、やはり俺の目に狂いはなかった。リボンで髪の先端を結んだら、いつも通りの可愛らしい少女が目の前にいた。別に激しく動く訳でもないのだから、これ位で良いだろう。少女をベッドに座らせ、優しく髪を撫でてやる。着物のような華やかなドレスを着た彼女は一言、
「甘いもの、食べたい……」
とだけ呟いた。俺は沢山の果物が詰められた缶詰を開け、木のスプーンで一口ずつ掬ってやる。ソレを口にした彼女は美味しそうに口元を緩ませた。ほんの少しだけだが、紅い眼も笑っている。
「ルナ、ありがとう……」
小さな感謝の言葉が、暗い部屋の中で弾けて消えた。
潮凪編のスタートダッシュがこんなんでいいのか、と思うオイラッス
ノエルくんが登場してるッスけど、そういうやつだからしょうがないッス
ちなみにノエルくんは夢の奥深く、深層心理に語りかけてるッス
次はおにぎりと死亡フラグ回ッス
次回もしくよろッス