ーーー呪い。
それは、古くより多くのものが備え持ってきた、一種の概念。
それは例えば、敵に対するものだったり。
それは例えば、愛する者に対するものであったり。
人は、獣は、あるいはどちらでもない何かは、何かに呪いをかけてきた。
呪われればある者は死に。
呪われればある者は宿命を負う。
何万、何千、何百年。
それは決して変わらず、自然文明問わずその影にこびりつくもの。
どれだけの時が過ぎようとも消えないそれは、一種の永遠とも呼べるものなのかもしれない……。
こちら、五十嵐電脳探偵所 #7 射干玉(ぬばたま)の奥から這い寄りしそれは
午後16時。
いつより日暮れは薄暗く。
カラスが鳴き飛び立つのを仰ぎ見ながら、二人の小学生の少年と少女が歩いていた。
ブラウンの髪にダークブルーの目が印象的な二人。
少年はトニー。
少女は杏(アン)。
一歳離れの、日本人とアメリカ人の混血児の兄妹である。
とはいえ、日本で生まれ育った彼らは隔たりなく友達を得た、ごく普通の幸せな生活を過ごす子ども達だ。
今日、下校の際に友達の家へ翌日遊びに行く約束をとりつけた兄妹は、通い慣れた道を歩く。
途中で、必ず通りかかる場所から影が差してきた。
そこは、古い洋館だった。
金をかけたものであるのがひと目でわかる程立派な建築だが、無人となってから誰も住んでいない。
館の所々をツタが覆い隠していた。
かつては白かっただろう壁は汚く黄ばみ、窓も汚れの酷さに中を覗こうともすりガラスのように見えない。
鉄柵が設けられた向こうから、不気味なシルエットを惜しげもなく見せつける洋館の姿を見ながら、兄妹はため息をついた。
「誰か住めばいいのに」
「呪われてなかったらもう誰か住んでるよ、きっと」
「……うん」
何を隠そう、この館。
建てられた明治後期の頃に、ある事件を境に住む人が尽くいなくなるという"呪われた"館として有名だった。
いわく、この館に住んでいたある華族の一家が、全員惨殺されたとかで。
それ以降この館に住んだ人間は、住み始めてから三日足らずで行方不明になった。
一時はオカルトスポットとして一躍有名にさえなったが、入った人間が帰らぬ人となったという話が広まりだし。
その人気も、あそこは却ってヤバい場所だと認知されるや否や下火となった。
トニーとアンの家はこの洋館の近くにあるが、友達は皆、この洋館を避けている。
百年以上建ち続けた洋館の呪われた噂は有名であったし、子ども達はトニーと杏も含め親達からは常々と近寄ってはいけないと言い付けられていた。
そのため、トニー達は決まって、友達の家へ遊びに行くのが常である。
しかし、やはり彼らもたまには自分達の家に遊びに誘いたいもの。
ため息が漏れた。
鉄柵から手を離し、トニーが杏に帰ろうと促した時。
「ちょっと、良いかな?」
後ろから声をかけられ振り向く。
そこにいたのは、一人の若い女だった。
スーツを纏った20代前半頃と思しき女で、褐色の髪を白のシュシュでポニーテールに結い上げている。
記者だろうか、手にペンとメモ帳を持っている。
知らない人に声をかけられ、困惑する二人に女は目線を合わせつつ尋ねてきた。
「ごめんなさいね。あなた達の目の前にあるあの館について調べているんだけれど、この辺りであの館に詳しい大人の人はいないかな?」
「あの館?」
「うん」
兄妹は顔を見合わせたが、首を横に振った。
「そっか…」
女は少し考え込むような顔をしながら、なお聞いてきた。
「それなら、早く帰りなさい。暗くなって、危ないから。あなた達のお家は?」
「それなら、あそこ」
「あの白いお家」
兄妹が指差す方を女が見ると、確かに、まだ真新しい白い屋根の二階建て一軒家が見える。
「お父さんとお母さんはこの館について知ってる人?」
「この辺りの人なら皆知ってる。でも…」
「皆怖い顔して言うの。この館には絶対に近寄っちゃダメだって」
「そうなの…」
とても真剣な顔で考え事をした後、兄妹に一礼と共に早く帰るよう再度促して女は立ち去った。
ーーーー
夕食後、トニーと杏は兄妹共通の部屋で思い思いに過ごしていた。
そこで、思い出したようにトニーは呟く。
「あのお姉さん、館について調べてるって言ったけど、取り壊すとかできないまま百年以上経ってるんだぜあそこ。今になってなんで調べたがってるんだろう」
「でも、ほんと、あの館はどうなるのかしらね」
杏の声に不安が伴う。
トニーは立ち上がり窓を見た。
その窓から洋館がよく見える。
普段は、不気味さもあってカーテンを閉める事が多いのだが、どうしてか気になった。
「でも私は大人になっても住まないわ、絶対に!」
ふと、トニーは違和感を覚えて窓の外、洋館の窓に目を凝らした。
すりガラスのように向こう側の見えにくい窓。
その向こうに、白い何かが動いて見えた。
思わず、杏を呼んだ。
「杏!洋館の中に誰か居るみたいだ」
「うそ…ほんとうに?誰かいるの?」
震える声で杏も立ち上がり、トニーの後ろから窓の外を見た。
「もしかして………おばけ?」
洋館の窓の向こうに見える白いものは、すっと横切っていく。
「うん、おばけかもしれない。近くへ行ってみよう」
夜の21時。
両親は早めの就寝中である。
寝巻き姿であるが、とりあえず懐中電灯と野球のバットを持っていくことにした。
ーー
「中、見える?」
なぜか空いていた鉄柵の扉を抜け、玄関の窓から中を覗き見るトニーに杏は聞いた。
「いや……」
トニーはかぶりを振り、ドアを押してみる。
そのドアも、鍵がかかっているはずだが、あっさりと開いた。
開ければ、じっとりとした埃臭い空気が二人を出迎えた。
「中は見えても、おばけは普通見えないよ」
懐中電灯で中を照らすトニーが先に入り、杏はそれにくっつくようについていく。
「おばけが見えないなら…」
バタン!
背後で突然閉まるドア。
兄妹は振り向き、顔を見合わせた。
互いに、散々入るなと言われてきた場所に足を踏み入れてしまった事への緊張感がよぎる。
「……どうするの?」
「しーっ」
ともかく、歩くことに決めたトニーは懐中電灯で辺りを照らした。
豪華な調度品が置かれているが、どれもが埃まみれだ。
蜘蛛の巣が張っており、一度はその一つがトニーの髪にかかったのを杏はそっと手で払い除けてやった。
柔らかく厚みのある絨毯の上を歩みながら、入ってすぐ手前に見えた階段に向かう。
誰もいないため、聞こえてくるのは二人の息遣いのみ。
そこへ突然、ギイィと軋んだ音が響いた。
トニーがぎょっとし、すぐ後ろの杏を振り向く。
「…何の音!?」
「階段がミシッて…」
「もっとゆっくり歩けよ」
小声で話しながらも、古い階段を登り続ける二人。
野球のバットを持ちながら兄の後に続いて登ろうとした杏。
彼女の顔に突然黒いものが降ってくる。
それが大きな蜘蛛とわかった瞬間杏は叫んだ。
「きゃあああああーっ!!?」
「しっ!」
咄嗟に振り返ったトニーが静かにするよう人差し指を立てるも、大人の手と同じくらいの大きなサイズに身の毛がよだった。
そうした"ちょっとした"ハプニングがありながらも、二人は階段の上に気配を覚えた。
何かが上にいる。
「あそこだ」
トニーが言った。
少しばかり小声でなくなったのは、ハプニングこそあれど大して何も起きていない状況に少しばかり肩透かしを食らったからだろう。
トニーが指差した階段の向こうで、影が動いた。
「あの向こうだ。走れって言ったら、走れよ」
「Okay………どこへ?」
「とにかく走れ」
早足で階段を登り始める。
近づくうち、何かが唸り声を漏らしながら、鼻で嗅ぐような鼻息が聞こえてきた。
「……ねえ」
杏が聞く。
「おばけって鼻良いの?」
「バットを貸せ」
トニーが杏に懐中電灯を渡し、手にバットを持った。
おばけが現れたら殴るつもりらしい。
「おばけって叩けるの!?」
「しーっ!ごちゃごちゃと色々と聞くな!」
階段を登りきった先、前方のドアが開いた先。
白いものがいた。
間違いない、洋館の窓越しに見えたものだ。
だが、その白いものは、明らかに人よりも大きかった。
いや、姿ですら人のそれではなかった。
トニーは苦し紛れに笑う。
「ほらね、おばけじゃない。多分ただの……」
ドアの向こうにいたものが振り向いた。
「誰ダ!!」
光る鋭い目と牙。
四本足で立つ狼のようなものが振り返り、トニーと杏へ牙を剥いた。
「キャーーッ!!」
二人は叫んだ。
そして階段に戻り駆け降りた。
「オイ…待テ!?」
叫びながら階段を駆け降りる二人。
パニックに近い状態で足元が疎かになっていた。
つまづいた先からもつれて二人一緒に階段を転げ落ちていく。
「うわっ!ちょ、危ない!」
「きゃあああああ!!」
「何だ!?」
下から声がし、階段を転がり落ちた二人へ駆け寄る足音が聞こえた。
足音の主は近くに来ると、驚いた声音を張り上げる。
「子ども!?…おい、大丈夫か?」
二人が声の主を見れば、目元をカバーのようなもので隠した誰か。
しかし、よく見ればその下半身が人のものではなく、鳥のものであることに二人は再度の悲鳴をあげた。
「キャーーッ!」
「!」
思わず耳?を塞いだ足音の主。
そこへ、二人にとって聞き覚えのある声が聞こえた。
「シルフィーモン!今の悲鳴は何!?」
足音が近づき、懐中電灯がトニーと杏を照らし。
「…あなた達!夕方に館の前にいた子達じゃないの!」
「あ…」
トニーと杏も驚きを隠せず目をこすった。
「あの時のお姉さん!?」
……
美玖は驚きながら、夕方に会った二人の子どもが立つのを手伝ってやった。
「あなた達、どうしてここへ?」
「僕たち、家の窓から見てたらおばけがいて…」
「おばけ?」
美玖がシルフィーモンの方を向いた。
「おばけ、なんていた?」
「いや、それらしいものは見なかった…本当にいたのか?」
「いたよ!たった今この上で見たよ」
トニーが言いながら階段の上を指差した。
「大きくて!全身が真っ白で!青い縞模様があってーー」
ずしん
「すっごい目と牙してて僕たちを…」
「ソレハ俺ノコトカ?」
すぐそばで聞こえた低い声にトニーは硬直した。
杏が顔を真っ青にして後ろを指差す。
「ト、トニー…う、後ろ…」
トニーの全身から汗が噴き出る。
恐る恐る振り向いた先に。
抜けるような真っ白い毛並みに青い縞模様の、巨大な狼のような"おばけ"がそこにいた。
「ーーっ!!」
美玖がすぐ押さえた。
「大丈夫!グルルモンはおばけじゃない、デジモンよ」
「デ、デジモン…」
恐ろしげな姿を見上げる。
ふんっ、と鼻で息を飛ばし、グルルモンはブルブルと全身を震わせた。
「そちらはどうだった?」
シルフィーモンがグルルモンに尋ねる。
「デジモンノ臭イガアチコチシテイル。嫌ナ空気ダ」
「うん。ここ、ダークエリアのけはい、する」
グルルモンの背中で飛び跳ねたシャオモンにトニーと杏の目が釘付けになった。
美玖がシャオモンの方を向いた。
「わかるの?」
「うん。さっきより、もっとけはいがつよくなってきた。みんな、きをつけて」
トニーと杏は改めて美玖と一緒にいる三体を見た。
実物のデジモンを見たのはこれが初めてだからだ。
ーー
今回の依頼は、美玖達の暮らす地区のある県のひとつ隣の県から持ち込まれた。
依頼人は、トニーと杏が通う学校の校長。
呪いの洋館についての調査を依頼してきた。
「この館が建てられて百年。未だに行方不明者が絶えないまま、取り壊しもままならない」
「なぜ…?」
「取り壊そうとすると、現場担当の人間が何人も、原因不明の病に倒れてそのまま亡くなってしまうからです」
そんな事の繰り返しで、いつまで経っても問題を解決できないのではどうしようもない。
そんな時、デジモンの力を借りて解決できないか、と言う意見が持ち上がった。
そこで、あらん限り調べて、デジモンの力を借りて解決するスタイルであるこの探偵所を頼りに来たという次第だ。
「どうか、お願いします。あの洋館があっては、子ども達も安心して学校を行き来することが叶いません。どうか、どうか」
ネット検索してみると、件の洋館に関する情報はすぐに見つかった。
大型掲示板サイト発端の、10年もの前の過去のオカルトスレッドだ。
信憑性はともかく、このような場所から情報を探すより他はない。
「洋館が建てられたのは1895年。明治時代のものね。ある華族が住んでいたのだけれど…一族が全員虐殺…」
メモを取りながらスレッドの過去ログを辿る。
犯人は華族一家の当主の元友人で、諍いを拗らせ犯行に及んだ数日後に変死。
殺害された一家は、当主とその夫人、当時21歳になる長男と18歳の次男、そして15歳の長女。
ここまで仔細を書いた書き込みの人物は地元の人間だといった。
「殺害があってから三回、住む人間はいたがいずれも行方不明…」
そこからオカルトスポットとして有名になり、行ったと報告する書き込みもいく件か見られた。
「人間とは本当妙だな。いなくなったという噂があるのにわざわざ行くとは」
「心霊スポットもそうだけど、怖いもの見たさってのがあるから…」
訝しげな表情を浮かべながら、シルフィーモンは紅茶を口にした。
が、途中までスクロールしてある書き込みが目に止まる。
「この書き込みは…」
『やばい まじやばい
皆あいつにやられた ほんとだよまじでやばいんだ信じてくれ
一緒に行ったダチが皆殺されたのは間違いない
もう俺はあの館に近寄りたくない』
それに対していくつかの返信が寄せられる。
心配して尋ねるもの、ネタで返すもの、何がやばかったのかと詳細を尋ねるもの。
『わかんねえ。四人で行ったんだけど、N男とP子がすっげえ悲鳴あげてて何だって駆けつけた時には血まみれで。
でもそれより二人のそばにいた奴がヤバかった。
そいつがN男とP子を引きずってどっかへ消えてった』
数分空けて同一のIDによる書き込み。
『あれは人のように見えたんだけどよく見ると真っ黒な毛が生えてて、猫みたいな目でこっちを睨んでたんだ。
尻尾みたいなものも生えててさ、数本もあってさ』
さすがに現実離れした内容のせいか、冗談で返す返信が目立ったが。
『とにかくあそこはやばい。
おれも一緒にいたR太も全速力で玄関まで走ったけど、外へ出てすぐR太の悲鳴が聞こえて。
気づけばおれ1人だった。もうあそこに戻りたくない』
そこから先の数週間後の日付けで、複数の別のIDによる"目撃"の書き込みが幾つか散見されるようになる。
美玖はシルフィーモンの方を向いた。
「デジモンの仕業…なのかしら」
「可能性はあり得る」
シルフィーモンは文面を睨みながら続けた。
「獣人型デジモンが人間を襲っている、と考えるべきなのかもな」
ともあれ、その翌日のうちから洋館のある地区を訪れて聴き取り調査に数日を費やした。
しかし。
「何人か、よその人が洋館に入っていくのを見た者はいるようなのだが」
シルフィーモンが気難しげに話す。
「洋館そのものの話になるとだんまりになる人間が多すぎる。相当話したくないらしいな」
また、デジモンについて話してみても、同様だ。
洋館がある地区はデジモンの姿が皆無で、何人かはシルフィーモンを見るやコスプレか何かと訝しげな顔をしてくることがあったくらいだ。
「土地を管理している方がいたから、説明して鍵を借りてきたわ。これで中に入って、様子を見るしかなさそうね…」
「そうだな」
その日のうちに潜入するにあたり、シルフィーモンがある提案をした。
シャオモンを連れて行くという。
「なぜシャオモンを?だってシャオモンは…」
「さすがに幼年期デジモンが直接戦闘は無理だ。だが、シャオモンの技にはある副次効果がある」
「副次効果…?」
提案を請け負って、今回は留守番にせずシャオモンを連れてきたのだった。
シャオモンは、ずっと留守番だったこともあって、美玖達と一緒にいられるのが嬉しく跳び跳ねていた。
「おしごと!おしごと!」
「私とグルルモンが戦闘を担当するから、あまり前へ行かないように」
心配からかシルフィーモンが注意する。
「はーい!」
夜20時半に館へ訪れる。
暗い夜、長年人のいないために手入れがされていない洋館はとても不気味で。
「……雰囲気は確かにあるわね」
言いながら、美玖は鉄柵に借りた鍵とメモを括り付けた。
これで美玖達に何かあっても、管理者が鍵を回収に来れるだろう。
「予想はしていたけど…中は荒れてない」
人が訪れていたならば多少は捨てられたゴミも多いものだが、庭にゴミが落ちていないことからある程度想像はできた。
年代を感じさせる調度品やカーペット、カーテン、照明。
厚く埃をかぶっているものの、いたずらに手をつけられたような形跡が見られない。
「ここは少し広そうね。なら…」
呟くと、携帯電話を取り出して開く。
その画面から光があふれたと思うと、大きな獣のシルエットが飛び出した。
グルルモンだ。
現地到着の後、美玖の携帯電話からネット空間で待機していたのだ。
「よろしく、グルルモン」
「何ヲスレバイイ?」
「デジモンがいないか痕跡を探してくれ。匂いでもなんでも。私と美玖は階段周りのフロアを探そう。2階の捜索を頼む」
「イイダロウ、二階ダナ」
グルルモンが行こうとして、シャオモンがその背中によじ登った。
「! オイ、コイツハ…」
「今回の件は特殊な事情があるので連れてきた。シャオモンも、何か感じ取ったならすぐグルルモンに知らせるんだ」
「はぁい」
「マテ、イイノカ…」
困惑するも、有無を言わせぬシルフィーモンにグルルモンは肩をすくめた。
トニーと杏が見たのは、この後二階の回廊を探索していたグルルモンだったのだ。
ーーー
「探偵が、どうしてこんな所に?」
トニーが尋ねるのも当然だ。
行方不明者が出たのも、数年前の話。
ニュースにすら出てもないが、誰もが知っていて口に出したがらない事象。
「依頼があったの」
「君達子どもの安全のためにも、ということでね。私たちデジモンの力を借りたいと請われた」
トニーと杏は顔を見合わせる。
「それより、子どもがこんな時間に来てはいけないわ。帰りなさい。ご両親が心配しているでしょう」
美玖は言いながら、グルルモンを振り返る。
………それは、すぐ真上に迫っていた。
久方ぶりの侵入者。
闇の中、目を爛々と輝かせてそれは身を低くする。
獲物に飛びかかる事前動作。
「グルルモン、この子達を送って貰えない?…家は近かったのよね」
「う、うん」
梁の上から、ゆっくりと這い寄る。
手指の先に光る、薄い刃物のような爪。
身を乗り出し、飛びかかろうとして。
「!」
それに気づいた者がいた。
「美玖、伏せろ!」
「え!?」
シルフィーモンが素早く両腕にエネルギーを溜める。
「『トップガン』!」
「フギャアアアアアアオ!!」
梁から飛びかかったものに『トップガン』が直撃。
喚き声をあげてそれは落ちてきた。
「な、何!?」
トニーと杏も異常に気づいてお互いに抱き合った。
「フィギャアアアアアアオオオ…!」
身体をブルブルと震わせながら、そいつは立ち上がった。
身長は美玖より少し低いほど。
全身真っ黒な毛に覆われ、瞳孔が縦に割れた金緑色の目だけが光る。
身体つきは人間の女性にとても近く、顔立ちも人間そのものだったが、獣の目に限らず真っ赤な口から覗く鋭い牙が異形としての特徴を曝け出していた。
そして、その後ろに立ち上がる尻尾。
その数は七本に分かれていた。
「コイツハ…!?」
グルルモンが身構えて唸る。
美玖がすぐさまツールでスキャンを狙うが…。
「フギャアオ!!」
「!!」
素早い動きでそれは、自身の襲撃を妨害したシルフィーモンへ襲いかかった。
たちまち取っ組み合いになり、もつれた両者がカーペットの上を転がる。
「シルフィーモン!」
「…ぐっ!」
爪を立て、食らいつこうとするその牙から自身の喉を守るのに精一杯だ。
美玖は咄嗟に指輪型デバイスを構えた。
「…麻痺光線銃(パラライザー)コマンド、起動!」
指輪型デバイスの水晶体から光が放たれ、シルフィーモンへ上乗りになったそいつに当たった。
「…えっ!?」
そいつに光が当たった瞬間、パチっと静電気が走ったような光になる。
が、そいつは、何事もなかったかのようにシルフィーモンへ攻撃を加え続けた。
「効かない!?」
麻痺光線はデジモンのみならず人間や動物にも有効なものだ。
それが直撃したにも関わらずなお、相手は動いている。
「…俺ガヤル!嫌ナ予感ガスルガ」
グルルモンが駆けだし、シルフィーモンになお噛みつこうとするそいつへ食らいつき引き離した。
「フギャ!?」
咥えられたそいつが暴れるよりも早く、グルルモンは振り返りつつ反動を利用して投げ飛ばす。
派手に音を立ててテーブルの上を滑り、その先へ転げ落ちた。
「シルフィーモン!」
美玖が駆け寄ると、シルフィーモンの顔や胸元、腕におびただしい噛み傷と爪痕を前に絶句する。
鼻と口から出血までしていた。
「…あいつは…」
シルフィーモンがうめきながら、よろめいた。
「待って、今、修復(リペア)をーー」
「せんせい!!」
指輪型デバイスをシルフィーモンに向けようとしたところへ、シャオモンの叫び声。
そこへ、トニーと杏の悲鳴も続いた。
「あ、あれって…!」
美玖が杏の指差す方を振り返る。
壁際に何かがいる。
そこにいたのは、赤と灰色のローブのようなものを纏った何かだった。
その奥の目と首にかけた目玉のような飾りは禍々しい光を放ち、美玖達を見ている。
一歩遅れて、グルルモンに投げ飛ばされたものが、その脇で体勢を正した。
「アイツハ…!」
グルルモンが唸る。
「…グルルモン!子ども達と美玖をーー」
シルフィーモンが叫ぶ前に、赤と灰色のローブを纏ったものがどこからともなく大きな鎌を出す。
「…無駄だ。ここはすでにダークエリアと大きな繋がりを得ている。我らが僕となりし者どもよ!」
美玖の足元に生じた歪み。
そこから、複数の腕が美玖の足を掴んだ。
「きゃああああーっ!!」
「美玖!」
「探偵のお姉さん!」
たちまち闇の歪みの中へ引きずり込まれていく美玖にシルフィーモンは手を伸ばした。
だが、それをさえぎるように再び黒い猫のようなものが彼に襲いかかる。
「くそ…美玖!!」
「俺ガ…」
駆けつけようとしたグルルモンを、大鎌の斬撃が掠った。
「ク…!」
足を斬られ、バランスを崩すグルルモン。
両者の目の前で、無数に増えた腕に頭まで引きずり込まれて行く美玖。
「シルフィーモ……」
手を伸ばし、叫ぶも虚しく、彼女は歪みへ呑まれていった。
すぐさま閉じられた歪みに、グルルモンが怒りを露わにする。
「畜生!」
「ど、どうするの!?」
トニーが顔を真っ青に声をあげる。
「グルルモン!」
猫のようなそれを蹴り飛ばし、シルフィーモンが息を荒げながら叫ぶ。
「お前はその子達を連れてなんとか外に避難しろ!」
「オ前ハドウスルツモリダ!」
「私はこいつをどうにかして美玖を探す!早く行け!」
後ろを向けば、大鎌が見える。
「ぐるるもん!せんせいならだいじょうぶ!せんせいは、べつのばしょにつれてかれただけ」
「ナンダト?」
シャオモンの言葉に訝しむグルルモン。
「それより、ふぁんともんからにげなきゃ!」
「……ソレモソウダナ!」
ファントモン。
それが、今迫りつつある死神然とした存在の名前だ。
「あれも、デジモンなの?」
杏の言葉にグルルモンは短く応えた。
「ソウダ!」
「…うわっ!」
問答無用で襟首を咥えられた順に、兄妹はグルルモンの背中に乗せられる。
シルフィーモンは猫のようなものと未だ格闘中であり、奥の部屋で激しく物音がした。
「シッカリ掴マッテロ!」
「うん!」
「わ、わかった!」
ファントモンの追撃を避け、グルルモンは階段へと駆け上がる。
「……逃げるか。だが、ダークエリアの領域と化したここから逃げる事は不可能だ。じっくり、料理してやろう」
大鎌を手持ち無沙汰に提げながら、奥の部屋へ向き直った。
「貴様もいつまで遊んでいる!あれを追え!」
ーーーー
強い力に抗えず歪みに引き込まれた時。
数えきれない救いを求める声や嘆きが耳に響き。
まるで水中にいたかのような視界と息苦しさに気を失った後。
「……う………」
頭の中がズキズキする。
それに耐えながら、美玖は目を覚ました。
「ここ、は…」
そこは、本が積み上げられた部屋だった。
息苦しいくらいに埃の匂いが充満している。
「ここは…書斎、ではなさそう…」
所蔵庫、というべきだろうか。
足の踏み場がない程でないが、本の山の合間を縫うのは狭っ苦しい。
本棚を見れば、どれも古ぶるしい表紙の本ばかりだ。
タイトル一つをとっても、年代を感じさせる文体と表紙、ページの紙の質感。
「こんな所でゆっくり本を読んでる場合じゃないわよね…」
しかし、目は何か手がかりはないかと本一冊一冊を探る。
そこで、一冊の本が目に止まった。
「これは…」
紐で綴じられたそれは、ページが古びていて黄ばんでいる。
「……『江戸怪異録』?」
文体や手書きによる筆跡は読みにくささえあるものの、全く読めないものでもない。
目次の項目には、幾つもの怪異の説明が載っている。
その中に、猫の文字を見つけて、美玖は呟く。
「………猫……?」
思い出すは、先程シルフィーモンと戦闘していた、あの猫のような、女性のようなもの。
自分はあの時、データをスキャンできず、さらにはデバイスの麻痺光線機能が効かなかった。
まさか。
目次を元に、猫についてのページをめくる。
そこには、猫…化け猫についての記載がされていた。
「化け猫…」
そこで、引っかかるものを覚えた。
まさか。
(あれは、デジモンではなく……でも、まさか、そんな事が?)
「おおお…これは懐かしい…昔、爺さんの持ってたやつにあったなあ。そうか、美玖も本を読むのが好きになったか。昔は教科書読むのに頭が痛いと宿題をサボっておったのがなあ」
「………え?」
思わず、振り返った。
ふわふわと何かが浮いている。
それは、どこか懐かしさを感じる温かな小さな光だ。
光は美玖の周りをくるくると周りながら、再び聞き覚えのある声が聞こえた。
「美玖、大丈夫だったかあ?皆とはぐれて心配だろうから、ついついお彼岸から来てしもうたよ」
「………」
しばらくの間の沈黙。
頭が理解に及ぶのに時間がかかった。
光が再度呼びかけた。
「美玖、美玖や。わしだよ。春信だよ」
「………え?」
だめだ、あまりにも現実離れしている。
脳が理解することを拒否している。
だが、それが事実だと気づかなくてはいけなかった。
「お…おじいちゃん!?」
…………
「ぐ…うっ…」
声に反応して去っていった黒い猫のようなそれに、待てと叫ぶ余力がなかった。
シルフィーモンの身体は無惨に傷つけられていた。
生きているのが不思議なほどに。
「……」
近くにファントモンがいる事を警戒し、よろめく身体をかろうじて構えるも。
何も来ない。
「すぐに、追わない、と…」
美玖からの修復(リペア)による手当てが間に合えば良かったのだが、追撃に次ぐ追撃で戦闘の続行が不可能なレベルにまで追いやられている。
ファントモンがトドメを刺しに来なかったのは、反撃の余力が残っていない事を理由に後回しにされたからか。
「……くぅ、はぁ…はぁ…」
壁に手を付き、ふらつく足を引きずりながら部屋を移動した。
それにしても。
(あいつはなんだったんだ)
口の中に鉄の味を覚えながら、シルフィーモンは先程の敵に考えを巡らせた。
最初。
ネットで見たあの書き込みの特徴を読んで、思い当たる獣人型デジモンがいることからそのデジモンかと思っていた。
しかし、実際に見たものは。
特徴こそ確かに書き込みと合致する点があったが、それはシルフィーモンが思い当たった獣人型デジモンとは全く別物の存在だった。
(まるで、動物が人間になったかのような…)
美玖がいれば何かしらの答えは得られただろうが、その美玖がどこかへ連れ去られている。
美玖を探さないと。
ギリっ…と歯ぎしりし、壁に付いた手に力が入る。
暗闇の中とはいえ、ゴーグルとレーダーの画像処理機能は問題なく起動している。
階段まで上がろうとして、シルフィーモンの視界は二人の人影を捉えた。
(さっきの子達……いや……)
そこに立っていたのは若い男二人だった。
どちらも、短く刈り上げた髪型で顔立ちも似通っていたが、片方はまだ幼さが垣間見える。
二人揃って黒の学生服によく似た服装をしていた。
そして、心なしかぼんやりと光っているように見えた。
「……!」
顔立ちの幼い方が、シルフィーモンを見て驚くような表情。
「兄上!」
もう一人が呼びかけに振り向き、シルフィーモンに気づいて同じく驚きの表情を浮かべた。
「…君達は…」
シルフィーモンが声をかけながら一歩踏み出し、そのまま倒れ込んだ。
「…急いで、手当てを」
「はい!」
一人がシルフィーモンの元へ駆け寄り、傷を診る。
もう一人が、どこかへ走っていく。
しばらくして、どこから入れてきたのか温めた湯を満たした銀のボウルと、清潔な布を持ってきた。
「ヨードチンキは?」
「それが、どこにもなくて」
「仕方ない。…すまない、天狗と思しき方。どうか私と弟に貴方の手当てをさせていただきたく」
「それはありがたいが…天狗…?」
湯を浸した布で傷を拭く。
それを感謝して甘んじながら、シルフィーモンは尋ねた。
「天狗、というのは…?」
「いえ、貴方の御姿を見てそのように思ったまでです。なにぶん、あやかしというものを初めて目の当たりにしたので…でも不思議です。貴方には、人間を畏怖させるものがなく、毅然さと親しみやすさを覚える」
淀みない口ぶりで、年上な方の男はシルフィーモンの傷口を丁寧に拭う。
「申し遅れました。私は高蔵元長。こちらは弟の義宣です。御名前を伺ってもよろしいですか?」
「シルフィーモンだ」
「しるふぃーもん殿…名前の響きからして、舶来者ですか」
元長と義宣は手当てをしながら、不思議そうにシルフィーモンを見た。
…不可解である。
先程から、この兄弟の立ち居振る舞いと言葉づかいはどこか時代離れしている。
シルフィーモンは知るよしもないが、ヨードチンキという現在は使用されていない消毒薬の名前を、まるで常日頃からある物のように口に出しているのもおかしい。
「それより、君達は一体どこからこの館に?ここには…」
「はて…」
二人は顔を見合わせた。
「どこからと申されましてもここは…」
「私どもの家です」
「………なんだと?」
シルフィーモンの首筋に言いようのない感覚が毛虫の如く這い上がる。
まさか。
しかし、ここは。
(さっきのファントモンの言う通り、ここがダークエリアと繋がっているのなら)
「……君達に聞きたい。今は何年だ?年号も含めて答えてくれ」
「え…?」
「1901年、明治34年ではないですか」
やはり。
兄弟達の答えに、シルフィーモンは冷や汗を垂らした。
この二人は、おそらく。
「…今は、20XX年、平成2X年だ。君達が死んで百年ほどになる」
そう絞り出すのがやっとだった。
…………
「ねえ、追いかけてきたよ!」
「チィッ!」
後ろから迫ってくる黒い影に声をあげるトニー。
振り向くことなく回廊内を疾走するグルルモン。
背後からは金緑色の双眸をした影が迫ってきていた。
「あれもデジモンなの?」
「イヤ、アレハ…デジモンデハナイ!」
「えっ!?」
「匂イガ違ウ!」
遭遇した時点でグルルモンは既に気づいていた。
嗅覚が発達している分、シルフィーモンや美玖よりも早く相手が何ものなのかを把握している。
「デジモンじゃなかったら、じゃああれなんなの!?」
「俺ニ聞クナ!アンナ奴ハ初メテ見タ」
杏の質問に答えながら走り続けるが、回廊の先が見えない。
シャオモンが杏の腕から身を乗り出した。
「危ないわ!」
「だいじょうぶ!わたしはしるふぃーもんからたのまれたことをやらなきゃいけないから」
「やらなきゃいけないことって!?」
迫る黒い影に向かって、シャオモンは吠えるような仕草をした。
「『ツゥーモ』!」
「…ふぎゃっ!?」
シャオモンの発した高周波『ツゥーモ』を受けた黒い影が足を止めた。
二、三歩後ずさり、猫が牙を剥いて威嚇するように声をあげた後、闇の中へ消えていった。
「た、助かった…?」
「サアナ…シルフィーモンガヤラレソウニナル程ノ相手ダ。戦闘ガ避ケラレルナラアリガタイトコロダガ」
シャオモンの技『ツゥーモ』には、魔除け効果がある。
シルフィーモンはその効果を見込んで、危険を承知でシャオモンを同行させたのだ。
「しばらくはこないとおもうよ。それより、せんせいをさがそう、ぐるるもん」
「ダークエリアヲ通シテ連レテ行カレタノガワカルノカ?」
「うん」
グルルモンは背中にいるトニーと杏を振り向いた。
「俺ガ良イト言ウマデハ絶対ニ俺カラ降リルナヨ」
「うん…」
「わかった」
念には念だ。
先程の黒い何ものかがいつまた来るかわからないし、ダークエリアや闇と縁深いファントモンという格上のデジモンもいる。
油断は禁物だ。
「ドコニ美玖ガ連れテ行カレタカハワカルカ?」
グルルモンの問いにシャオモンは目を閉じて。
「んーっとね……んんーっ…」
耳と尻尾をぱたぱたさせて、シャオモンはまるで瞑想するようにそのままの姿勢を保った後。
目を開けて、回廊の先を前足で指した。
「あそこのおくを、まっすぐいって!」
その通りにしてしばらく、開けた部屋が見えた。
リビングのようだ。
ダンスホールのようにだだっ広く、上に付いた天窓から光が差して見える。
「そういえば今日は満月だったんだ」
トニーが言えば杏も
「素敵な部屋!こんな部屋うちにも欲しいくらい」
と呟いた。
天窓の下には、ピアノがある。
かなり古いピアノで、ビロードだろう光沢のある鮮やかな茜色の布で覆われていた。
「他ニ何モナイカ…」
「ちょっと、まって」
「! オイ、降リルナトサッキ…!」
グルルモンの背中から降りたシャオモンが、ピアノにかぶせてある布の端を口に咥えた。
「んぐぐぐぐーっ」
「何してるの?」
トニーが目を瞬かせる。
シャオモンは必死に布を引っ張るが、ビクともしない。
「何シテル?」
「これ、はずしたいの。とれない…!」
「ソンナモノ何ノ役ニ…」
頑張るシャオモンを見かねて、トニーと杏がグルルモンの背から慎重に降りていく。
「オイ!?ダカラ降リルナト…」
「私達でどかそう!」
グルルモンが抗議の声をあげるも、すでに背中から降りた子ども二人はシャオモンを手伝ってビロードを外し始める。
ビロードは重たく、ピアノから落とされた瞬間周囲に大量の埃を撒き散らした。
「ごほっ、こほっ!」
「こほっ…ごほ、う、わあ…」
ビロードの下から現れたそれは、年代ものだが傷一つない逸品。
杏がそっとピアノの蓋を開けば、中の鍵盤は使用感こそあれど綺麗だ。
ちょっと弾いてみたい。
そんな気持ちから、杏の指が鍵盤の一つを押した。
ーー♪
中のピアノ線は劣化していないようで、透き通った美しい音がした。
「わあ、こんなきれいなおと、はじめてきいたー!」
「何か弾こうかな?」
杏が得意げに備え付けの椅子に腰掛けた。
グルルモンは、子ども達をどうにかするのを早々に諦めたようで、代わりに周囲を警戒することにした。
「私、ピアノコンクールに優勝してるの!とびっきり良いの弾いたげる」
「きかせて」
シャオモンの言葉に杏は、再び鍵盤に指を触れーー
「!」
杏の脳裏に、突如よぎったもの。
それは、今、杏が腰掛けたピアノの前に座り、演奏をしている一人の少女の姿。
杏よりも年上の少女は、白いドレスのようなものを身にまとい優雅に鍵盤に指を踊らせている。
(上手い…)
ピアノに自信のある杏から見ても、その指先から少女の腕前の良さが感じられた。
弾いている曲は聴いた事はあるが、題名が記憶から出てこない。
少女の脇には、一匹の真っ黒な猫が座っていた。
まるで耳をすますかのように、ピアノの曲に耳を動かしている。
その猫の目が光った。
金緑色の目が。
「…杏!?」
「!?」
トニーの声に意識が引き戻される。
杏は慌てて姿勢を戻した。
「大丈夫、杏?」
トニーが心配そうに尋ねる。
「う、うん…なんでも、ないわ」
誤魔化すように笑って、杏は一曲弾くために鍵盤に指を置く。
何を弾こうか。
あれを弾こうかな?
あの黒い猫の金緑色の目を、杏は思い出した。
(もしかして、さっき襲ってきたあれって…)
……………
ライトで暗い廊下を照らしながら、慎重な足取りで蔵書庫を出る。
どこもかしこも光が差しておらず、身震いするほどに冷たい空気が満ちみちていた。
「…ここがどこか、把握しておかないと。多分ここは、一階ではない気がする」
「そうじゃのう。この空気はちょっと堪えるなぁ」
ーー先刻。
改めて目の前に現れた光が、祖父・春信のものであることを確かめた美玖は驚きと涙を隠せなかった。
それをなぐさめながら、春信はこれまで美玖の身の周りで起こった事と自身を轢いた人物への処断を聞き知って。
「そうか、そうか…辛かっただろ…」
そうこぼした。
グルルモン…春信が御眷属様と呼び敬ったデジモンの報復を止め、探偵所の一員となった経緯を以ってこの館に同行していたことを伝えると。
「おお、御眷属様も…!美玖とはうまくやってくださっておるかの?」
「怖いところはありますが…上手く、やっているかなぁってとこ」
「そうか!ああ…有難い…この拙い願いを聞き届けて下さって、ありがとうございます。御眷属様…!」
ちょっと涙ぐんだような声で、光の球のようなそれがふるふると震えていた。
「それより、どうしておじいちゃんがここに…?」
「それなんだがおれにもよくわからないんだよ。気がついたら、冷たくて暗い場所におってなあ。そこへ美玖が沢山の人に引きずられていくのを目にして助けねば、と」
「たくさんの人……」
そういえば。
先程闇の中に引きずり込まれた時の事を思い出す。
「さっき、死神みたいなデジモンがここはダークエリアと繋がっているって言っていたから…もしかしたら」
「ダークエリア?」
「私もよくは知らないんだけど、デジモン達の死の世界みたいな場所らしくて」
美玖のたどたどしい説明に、春信はうんうんと相槌を打ってうなずいて。
「それでね、おじいちゃん。御眷属様だけじゃなくて、私の助手のシルフィーモンっていうデジモンと、事情があって預かっているシャオモンってデジモンと。さっきこの館に入ってきちゃった小学生の子達とはぐれたの」
「なんと」
「それで、急いで合流しなくちゃ。死神みたいなデジモンの他に…デジモンなのかもよくわからない猫っぽいものがいたの。それがとっても危険なものだから、早く行かないと」
「おう、おう。なら急がんとなあ」
ーーー
「死神っぽいデジモンが言っていた事が本当なら、この館に入った人達は…」
廊下に並ぶドアをひとつひとつ照らしながら、美玖はそっとその一つを開けた。
濃厚な酸っぱい臭いと、木の匂い。
「ここは…」
中を照らすと、樽のようなものが目に入る。
「ワインセラー?」
「明治と言っとったな、そんな頃にもうあったとは初耳だのう」
華族とはいえ、そんな施設はまだの筈。
当時、日本のワイン醸造の技術は未発展の段階だ。
貯蔵しているものがあるとすれば、大体輸入品だろう。
「こんなものも置いていたなんて、この家、相当にお金あったのかな…?」
「そうだのう。当時の華族といえば、経済的に決して裕福とは言い難い家があったとは思うのだが…」
かたりっ
部屋の隅で物音。
美玖がライトを向けたが、ちょうどワインセラーの棚にさえぎられた向こう側だ。
「なにかしら?」
「気をつけなさい。あまり良くない予感がするなあ」
そろり、そろり。
足を忍ばせながら、棚の向こう側を覗き込み…
「!」
視界の隅に"それ"を捉えるよりも早く、床に転がる美玖。
すぱりと紙でも切るかのように近くの棚とそこに収められたワインの瓶が両断され、中の芳醇な香りを放つ液体が床を濡らす。
身を起こした美玖の目前に光る、巨大な鎌。
「……!」
「お前の魂をある方へ献上しなくてはならん契約でな…」
それは、先程の死神のような存在。
春信の声が響いた。
「美玖、逃げなさい!!」
部屋を飛び出した後ろから、ポニーテールの先を刃が切り裂いた。
構わず暗い廊下へ出て走る。
「この辺りがどうなってるのかわかれば…!」
「ライトは点けないの?」
「点けたら居場所を知られるから点けない!」
「むう…そうか…」
そんなやりとりの間にも後方から追う気配。
どうする、考えろ。
闇雲に走り回れば、先程シルフィーモンと戦ったあの黒い猫のようなものと鉢合わせないとも限らない。
廊下の突き当たりにある部屋のドアへ、直感に任せて入り込む。
なるべく音を立てないようドアを閉め、辺りを見回した。
窓一つない部屋は非常に暗く、怖い。
「隠れる場所!」
目に入ったのはクローゼット。
すぐに駆け寄り、中を開けると咽せるような匂いが鼻につく。
スーツのような洋服が何着もかかっているのがわかる。
その中を掻き分けるようにして、春信も入ったのを確認した美玖は閉めた。
クローゼットの中は狭く、スーツに挟まれながら美玖は息をひそめた。
しばらくして、ドアの開く音。
「どこへ行った…」
足音はしないが、動き回る気配はわかる。
間近まで来る気配に、美玖は口を手で覆った。
「………」
死神のようなものはしばらく部屋を睨んだ後。
「逃げ足の速い人間め。だが、逃げ場はないぞ」
そう呟くなり部屋を出て行った。
そこからしばらく続く沈黙。
「…………」
「のう、美玖」
「おじいちゃん、もう少し声を小さくして」
手を口から離し美玖は息を整えた。
ゆっくりクローゼットを開けて出る。
「もう出て大丈夫だけど、まだ近くをうろついてるかも」
「大丈夫かのう」
「わからない」
確かなのは、あれがデジモンであればあるいは。
デバイスによる麻痺光線機能の効き目があるだろうということ。
それよりせめて。
「シルフィーモンがいてくれれば…」
「その、助手さん、か。強いんか?」
「うん。さっきはあの黒猫っぽいのにやられかけてたけど…それだけは心配なのだけど」
けれど。
「彼は、強いよ。何度も助けてもらったもの」
「そうか…そうか…」
春信は何度もうなずくように上下して、そして。
「そうか…美玖を支えてくれておったのだな…」
「ん?」
「ふふ、なんでもない。さて、廊下で出会わんといいが」
そっとドアを開けて隙間から外を覗く。
限られた視界のうちに、いる様子はない。
ドアを押し、ゆっくりと出た。
「ここからは静かにね、おじいちゃん」
「おう、おう。わかっとるよ」
…………
「まさか、当世までの間そのような事になっていたとは」
「でじたるもんすたあ…でじもん。なんとも驚きです」
元長と義宣の兄弟は、シルフィーモンから今の自分達の館の現状と、デジモンについての説明に深くため息を吐いた。
自分達が殺されたのもショックだが、住んでいた館が曰くつきのもの扱いとされていることもショックのようだ。
「私はこの館の事を調べに同行した、人間の女性と仲間とはぐれた」
シルフィーモンが事の次第を話すと、元長は首を傾げた。
「人のような身体に七つの尾をした黒い猫のようなものですか…とんと心当たりがありません」
「黒い猫というだけでしたら、雪子が可愛がっていた烏猫がおりましたが」
「カラス?猫?」
シルフィーモンが義宣の方を向いた。
「どういう猫なんだ?」
「真っ黒な猫のことでございます。いつしか館に住み着いたのを、追い払おうにもすぐ戻ってきてしまう困り者でして。それを雪子が飼おうということで以来、家族の一員に迎えたのです」
「雪子、というのは?」
「私どもの妹です」
猫の名前はコマと名付けられ、可愛がられた。
真っ黒な毛並みは艶やかで、金緑色の目がその中にぱっちりと映えた猫だった。
可愛がってもらえているのがわかってるからか、いつも雪子のそばを離れなかったと元長は語る。
「コマは、雪子がぴあのを弾く時もそばにおりました。それだけ、雪子が好きだったのです」
「………黒猫…女性」
引っかかる。
先程襲ってきた、あの黒い猫のようなものは人間の女性によく似た身体をしていた。
まさかとは思うが。
「館の呪いと言われたものに関わりがあるのか…」
「と、申しますと」
義宣の言葉にシルフィーモンは向き直った。
「美玖を探すついで、そのコマという猫について調べたい」
ある程度時間を置いて回復した身体に、喝を入れて立ち上がる。
義宣が慌てて押しとどめた。
「しるふぃーもん殿、まだ無理は…」
「心配するな。体力はある程度余裕は持てた。傷を治してくれた事に感謝はする。ともかく、美玖を探さないと」
シルフィーモンの言葉に兄弟は顔を見合わせる。
「それでだが、元長」
「はい」
「地図というか、見取り図のようなものはないか」
シルフィーモンの問いに元長は思い出そうとして。
はっと別の部屋から来たものを見た。
間違いない、さっきの。
「フゥゥウウウウウウ…!」
黒い毛と、それと同化した髪を逆立ててそいつは威嚇する。
それを見た元長と義宣は、我が目を疑ったような表情の後叫んだ。
「コマ!」
「お、お母様!?」
「何?」
シルフィーモンが二人を振り向く。
「一体どういうことだ?」
「フシャアアアッ!!」
コマとも、あるいは。
お母様と呼ばれたそいつが、再びシルフィーモンへ襲いかかる。
「…くっ!」
再び飛びかかられたものの、先程よりは落ち着いて対処ができた。
あごの下と右側の脇の下を押さえ、後ろ向きへ投げ飛ばす。
「ふぎゃっ」
身を翻して態勢を整えたそれが、再び牙を剥いて襲いかかろうとして。
義宣がシルフィーモンとの間に割って入った。
「やめてください、お母様!!」
「フーッ!」
義宣の姿を認めると、一歩後ろへ下がり視線をそらさず横へ移動する。
しかし、義宣がそれに合わせて動くと、一瞬目をそらした後どこかへ消えて行った。
「今のはどういうことだ?」
「義宣、お前にはあれがお母様に見えたのか?」
シルフィーモンと元長が尋ねる。
義宣も困ったように、
「私も一瞬は、コマのように見えました。あまりにも変わり果てておりましたが。ですが…」
消えた方を見ながら。
「あの御顔立ちは、お母様のものでした」
「一体どういうことだ…」
「私にもわかりません」
シルフィーモンは闇の向こうを見た。
あの猫の異形の正体は。
「…なら、なおのこと突き止めないとな」
「あまり無理はなさらないでください」
「わかっている」
義宣の言葉に笑って返し、歩き出した。
どうにか戦いができる程度に力も回復している。
ならば。
「お待ちを」
「?」
元長はズボンのポケットから折り畳まれた紙を渡してきた。
「見取り図です」
「感謝する」
受け取るとシルフィーモンは踵を返した。
「お気をつけて」
「……ああ」
闇の中、見取り図に目を通してシルフィーモンは目星をつけ始めた。
(美玖が連れ去られた場所の特定ができれば)
そこで気づいた。
見取り図の一部に、不自然な空間がある。
そこは、地下へ続いているようだ。
そこへ行くには、一度外へ出る必要があるようだが。
「…グルルモン達が外へ出ていれば良いが」
連絡をとろうにも、四つ足姿勢のグルルモンは連絡手段を持ち合わせていない。
ならば。
「仕方ない」
一度、外へ出るか。
幸い、玄関まではすぐそこだ。
妙な力で閉じられたわけもなく、ドアは開いた。
……………
ーーー♪
ーー♫
ーーー♫ーー♪ーーー♬
ピアノの演奏が広い室内に響き渡る。
演奏する杏のすぐそばで、シャオモンは耳をそばだてていた。
「きれい……」
それより少し距離を置くように、手持ち無沙汰なトニーがグルルモンの脇に座っている。
「なんだか、静かだよね」
「ソウダナ」
杏がピアノを弾き始めて先程、やはりシルフィーモンを追い詰めたあの黒いものが姿を現したのだが。
シャオモンの『ツゥーモ』に加え、演奏している杏の姿を見て動きが止まり。
すかさずグルルモンが体当たりを加えたことで我に返ったように身を翻して消えていった。
「あれがおばけだと思う?」
「サアナ。サッキモ言ッタガ、アレハデジモンジャナイ。闇ニ生キタ存在ナノハワカルガ、アンナ奴ハ初メテダ」
「じゃあなんだと思う?」
「……」
グルルモンはすんっ、と鼻をうごめかして答えた。
「猫ト人間ノ匂イガシタ」
「猫と人間?」
「ソウトシカ俺ハ答エラレナイ」
トニーはグルルモンの毛並みにそっと手を当てる。
抜けるような白い毛は見た目以上に硬く、こんなに硬い動物の毛を触ったのは初めてだとトニーは思った。
ガルルモンの体毛は魔法の金属ミスリル並みの硬さと言われているが、グルルモンの毛もそれに準じた硬さなのだろう。
それを撫でながら、ぼんやり妹の方に目を向けた時。
「……!?」
まるでフラッシュバックのような暗転。
そこに座ってピアノを弾いていたのは、妹ではなく妹や自分より歳上と思しき女の子。
後ろ姿だけで顔は見えないが、髪型や洋服は今時からして古臭く覚える。
しかし、その指先は、滑らかに鍵盤の上を踊っていた。
何を弾いているかわからない。
その姿を見てほんの30秒ほど。
少女が何かに気づいたように演奏を止め、顔を上げた。
そこへ、和服姿の男がどこからともなくトニーの後ろから少女へと向かってくる。
少女が行動を起こすよりも早く、その髪を男の手が掴んだ。
床の上に引きずり倒し、その上から男が乗りかかり手を振り上げる。
その手には血で染まった短刀が握られている。
それが、もがく少女の背中を滅多刺しにした。
まるでサイレント映画を観るかのように無音で行われる殺人。
目を閉じたくとも閉じられない。
五、六回刺したのち、男は倒れた少女を足蹴に立ち去った。
「……ニー!トニー!」
「!?」
我に返ると、いつのまに演奏を終えたのやら杏が心配そうに見ていた。
「大丈夫?なんだか顔色悪いし変よ」
「ご、ごめん」
さっきのはなんだったんだ?
そんな疑問が少年の頭に浮かぶが答えが返ってくるはずもない。
「とにかく外へ……」
「!」
何に気が付いたかグルルモンが突然立ち上がった。
「何カイル!」
グルルモンが身構えた先はピアノの方。
そこに確かに先程まではいなかった何者かがいた。
「あれは……」
白い古風なドレスに身を包んだ、15歳ほどの少女。
栗色の瞳を悲しみに滲ませたその少女は、ぼんやりと霞みがかったように実体がない。
「……まさか」
杏とトニーは、思い当たるものを感じ声が出た。
幻として見た、ピアノを弾いていた少女。
今、目の前に立つ少女の腕には、楽譜のようなものが抱えられている。
それを少女は、杏に差し出した。
「……お願い」
少女の唇が震えた。
「コマを、お母様を、助けて」
「え…どういうこと?」
訳が分からず顔を見合わす。
グルルモンが尋ねた。
「オ前ガ言ッテイルノハ、アノ黒イ奴カ」
少女はグルルモンに怯えることなくうなずく。
そして、ぼんやりと消えていく。
「お願いします…この楽譜を、あの子の…前で……」
「……」
受け取った楽譜に杏は目を落とした。
「……この曲…」
その楽譜に杏は見覚えがあった。
いや、その楽譜の曲を聞けば、トニーも一度は聞き覚えのあるものだ。
なぜなら。
「……『ベルガマスク組曲 第三曲』……」
それは、世界的に有名な作品の名だった。
………
「これは…」
目に入った部屋で何かを蹴転がした美玖は、それを拾い上げた。
それは、防犯スプレーだった。
誰かが来た時に落としたのだろう。
軽く振ってみれば、中身はさほど減っていない手応えがあった。
「こんな所に捨てたらダメだぁ」
「そうだね…でも、これは良いかも」
あのデジモンや黒い猫のようなものから身を守る手段になるのは間違いない。
防犯スプレーを片手に、美玖は部屋の中を見回す。
そこはどうやら物置部屋のようだ。
かなり荒らされている。
「ひどいなあ。人の家で絶対にしちゃダメなのに」
「もう百年も誰も住んでないし、相当マナー悪い人だったんだと思うよ」
「うーん」
春信は無念そうに揺れた。
そこで、再び美玖の足が何かに触れる。
「……?これは?」
ころんっ、と転がったそれを拾い上げる。
元は美しい金色だっただろう、リングのようなものだ。
「何かのう?指輪にしては大きいし、腕輪にしては小さいの」
「それに、随分朽ちてる…」
それでも、元は装飾品だったのだろう。
なぜかわからないが、そのリングも美玖はそっと懐にしまった。
「持ってくのかい?」
「うん…なんでかわからないけど、ここの物じゃない気がするの」
「ううん…」
リングは確かにボロけていたが、そこに刻まれた文字に美玖は見覚えがあった。
(前にシルフィーモンが言ってた、デジ文字…)
それが明治時代の建築物から見つかるのは、どうも不自然な気がしてならなかった。
エジプトでデジタマが遺跡から見つかった時のように。
ギイィ…
部屋を出て、再び廊下へ戻ったその時だ。
「そこか!」
「!」
どうやらタイミングが悪かったようだ。
先程の死神のようなデジモンが迫ってきた。
美玖の目の前まで迫り、大鎌を振り上げたところで目を覆った。
「ぐぅ…!?」
美玖が突き出した手には防犯スプレー。
ついでにとばかりにツールによるスキャンがされた。
『ファントモン。完全体。ゴースト型。ウイルス種。巨大な鎖鎌を持った死神のようなデジモン。バケモンとは違い……』
「おのれ、逃がすか…!」
目を押さえながらファントモンが叫ぶ。
踵を返して走る美玖に、春信はふわふわと回りながら喋った。
「美玖はああしてデジモンのことを調べとるんか」
「うん。知らないデジモンもまだまだいるの」
「そうかあ」
ファントモンが後ろから追ってくる。
スプレーによる目の痛みがまだ引いてないためかそこまで速くない。
気づけば回廊の先を、駆け抜けていた。
ただ、その先のドアを抜けたところで、美玖の身体は一瞬固まった。
「行き止まり…!」
そこは兄妹とグルルモンがたどり着いた部屋よりも広い部屋だ。
倉庫とも客間とも言い難い内装。
そのすぐ後ろへファントモンの気配が迫ったため、部屋の奥へと追いやられる形となった。
「袋の鼠だ、もう逃げられんぞ」
そう宣告するファントモンの後ろで、扉はひとりでに閉じた。
…………
少し遡って。
「…ここだ」
庭へ出て数分ほどの探索。
シルフィーモンは遂に探り当てた。
そこは、玄関を出て西側にある庭。
芝生に隠された中から格子状の扉が見つかった。
南京錠が掛けられているが、デジモン、それも完全体であるシルフィーモンにはあまり意味のないものだった。
錠はあっさり引きちぎれ、格子の扉が開かれる。
下は真っ暗だが、構わず降りた。
空気は冷たく、カビ臭い。
床は石畳になっていて、細い通路を通っている。
その先にも、錠の掛かったドアがあったが…。
めぎっ…!
…それも、シルフィーモンではあまりにも意味がなかった。
少しドアが破損した程度だが、錠を破壊し中に入る。
そこは、通路が入り組んだ構造になっていた。
美玖はここを逃げ回っていたのである。
念のためシルフィーモンは携帯電話を手に出すが。
「……やはり」
携帯電話の電波は文字化けのような状態で表示されている。
デジタルワールドやダークエリアでは、人間の持つ機器はまともに機能しない。
受信する電波のレベルや端末を弄ってやっと機能する。
ダークエリアと同調したこの建物内でも、そのようになっているのだろう。
「美玖がこの中にいるのなら…… !」
突如の奇襲。
咄嗟に爪を払い除けた目の前に、一つの影が着地した。
「フゥゥウウウウウウ…!」
揺らめく七つの尾。
黒い煙のようなものを立ち昇らせ、黒い猫のようなものは威嚇した。
「お前が襲ってきたということは、やはり美玖のいる場所はここで間違いないということだな?」
シルフィーモンのその言葉に、相手は答えず。
答え代わりと振るわれた爪を再び払い除けた。
奇襲や動物らしい我が身を顧みない攻撃に一時はやられっ放しだったがそうもいかない。
「手加減はなしでいいな」
シルフィーモンの再度の言葉に答えることなく、黒い猫のようなものは再び襲いかかった。
………
ーー♫
ーーー♫♫
ーーー♬?
「ああ、だめ…違う…!」
ピアノの前で杏は少し苛立たしげに声を出した。
少女の霊が消えた後、杏は楽譜を手に再びピアノに向かっていたのだ。
この曲は弾かねば。
有名な曲ゆえに知ってはいたが、まさかここまで難しい曲だったとはと杏は歯噛みした。
ベルガマスク組曲、第三曲・月の光
ドビュッシーの作曲した作品の中でも多くの人々に慣れ親しまれてきた一曲。
しかし、その弾き手になるとなればまた話が違う。
少なくとも、ぶっつけ本番で弾こうとしなくて幸いだった。
ピアノの心得がないトニーとグルルモンはただ見ているしかない。
ここには、杏にいつもピアノを教えている教師がいないのだ。
シャオモンだけが、ピアノと杏のそばにいた。
………
「…くっ」
上腕を浅く切り裂かれ、痛みにうめく。
初手で防犯スプレーを切り裂かれて使い物にならないようにされたのが痛い。
「……まさか、あなたが!」
迫る大鎌をかわしながら美玖は口を開く。
「あなたが、あの黒い猫を使ってここへ来た人達を閉じ込めたの!?」
「……ほう?」
ファントモンの目に不穏な光が灯った。
「以前にエジプトに来た時、フェレスモンというデジモンが同じような事をしていたからよ!」
…そうだ。
あの壁画の解釈が正しければ、フェレスモンはダークエリアのデジモンの手を借りてカイロの人々を攫わせて魂を奪っていた。
なら。
「ここへ興味本位でやってきた大型掲示板のスレッドの住人を、あなたがここに閉じ込めて魂を奪っていたんだ。私にやってる事と同じ手口で!」
ああ…、と思い出したようにファントモンは笑った。
「確かにここは私が狩場にと決めた場所の一つだ。完全なる趣味だよ。あの猫と女も哀れなモノだが良い拾い物をした」
「…"拾い物"?」
その言い方に美玖は違和感を覚えた。
「あれは、私がここを狩場に決めた前から棲みついていたものだ」
猫の身体に人間の怨念が混ざったモノ。
元は年経た化け猫だったものが、怨念と呪いによって人のような姿に変容したもの。
それが、あれの正体だったのだ。
「あいつにはほとほと手を焼かされたが、あるお方が言うことを聞かせる枷を着けてくれた。おかげで今やあれは私やあの方の言いなり、道具だ」
「なんてこと…!」
そして、とファントモンは目を細めた。
「あのお方は、お前の魂をご所望だ。五十嵐美玖。なるべく絶望に染め切ったものをお望みとの願いでな」
「…!」
そのお方とは。
春信が前に出ないよう押さえるも、足がガクついた。
誰なのか疑いようがない。
自分を狙っているのは…。
「メフィスモン…」
同僚達を尽く殺害したデジモン。
自分を絶望に堕とすと宣告して消えたデジモン。
そうだ、とファントモンの目は笑うように答えた。
「ここにお前の望む助けは来ない。そこの成仏損ないのジジイの魂はいらん。お前の絶望に染まった魂をメフィスモン様にお届けするのだ」
「……そんなこと……」
足が震えている。
先程ファントモンをデバイスで足止めした隙間に開けようと試みたことで、ドアから脱出が不可能な事はわかっている。
大鎌は自分を弄ぶように、少しずつ切り裂いていく。
少しずつ精神が、削がれていくのを感じた。
誰も、助けに来ない
「………でも……」
ここで、諦めたら?
「美玖や」
耳元で春信が言った。
「どうにもならない時のために、ひとつおれから言っとこう。目を閉じて、地面を足に感じて、深呼吸するんだ」
「………」
目の前にファントモンがいるが、その通りにした。
目を閉じて。
足が地面についているのを感じながら。
胸から深く、深呼吸。
吸って、吐いて。
吸って、吐いて。
「ほう、その様子からして根を上げたか」
ファントモンの声が聞こえるが意識の隅に追いやり。
そうだ。
大丈夫。
きっと、やれる。
シルフィーモンか誰かが現在進行形で助けに向かっているのならきっと。
その時間稼ぎを自分はできるはずだ。
目を開けようとして…
「何だ!?」
ファントモンの驚愕の叫びに加え、突如強い金色の光に目をやられそうになった。
「こ、これ…!?」
光の発生源は、先程美玖が朽ちたリングをしまったポケット。
光があふれて、そこからリングが目に見えない力に動かされたように飛び出した。
「ホーリーリング!?」
朽ちたはずのリングは、輝くばかりの美しい金色を取り戻していく。
ファントモンが叫んだ。
「しかも、堕天した天使型デジモンのものではないか!それが…いや、お前のその"光"は何だ!?」
ファントモンに見えたのは。
美玖の胸元に光る二つの色。
薄桃色と、その後ろに重なるオレンジがかった金色。
その発言に美玖が疑念を抱くよりも前に。
ホーリーリングは太く、長く、その形を変えていく。
そのまま自身の前に浮かび続ける筒状のそれに、美玖は手を伸ばした。
「!」
手の中にリングが収まったと同時に、リングの両端から細長く光が伸びた。
まるで、弓の形に。
矢はないが、現れた弦を手指で引く。
引き絞ると同時に、その手の中に現れたは金色の稲妻を思わせる光。
「まさか…メフィスモン様はなぜこれを知らせなかった!?」
ファントモンの言葉にこもるは動揺、困惑。
「ただの人間が"紋章"の力を発現させるなどありえない!ましてや、このような形で!」
全神経からの強い警告。
あれを、撃たせてはいけない!
「貴様ぁあああああ!!」
ファントモンが大鎌を構えて肉薄した。
それと同時に、弦を引き絞る手指が離れる。
「ぐおっ!?」
放たれた光の一矢はファントモンの身体に浅く突き刺さった。
(……焦るな!幸い電脳核(デジコア)を貫かれたとまではいかない。しかし)
今受けたことで確信した。
聖なる光の矢。
それはまさしく、大天使型デジモンのエンジェウーモンが放つ『ホーリーアロー』に近しい一撃だ。
なぜそれを目の前の人間が放てるのかはわからないが、ともかく。
「願いに添えなくなったのは遺憾だが、貴様の魂奪わせてもらう…!」