ーーー呪い。
それは、古くより多くのものが備え持ってきた、一種の概念。
それは例えば、敵に対するものだったり。
それは例えば、愛する者に対するものであったり。
人は、獣は、あるいはどちらでもない何かは、何かに呪いをかけてきた。
呪われればある者は死に。
呪われればある者は宿命を負う。
何万、何千、何百年。
それは決して変わらず、自然文明問わずその影にこびりつくもの。
どれだけの時が過ぎようとも消えないそれは、一種の永遠とも呼べるものなのかもしれない……。
こちら、五十嵐電脳探偵所 #7 射干玉(ぬばたま)の奥から這い寄りしそれは
午後16時。
いつより日暮れは薄暗く。
カラスが鳴き飛び立つのを仰ぎ見ながら、二人の小学生の少年と少女が歩いていた。
ブラウンの髪にダークブルーの目が印象的な二人。
少年はトニー。
少女は杏(アン)。
一歳離れの、日本人とアメリカ人の混血児の兄妹である。
とはいえ、日本で生まれ育った彼らは隔たりなく友達を得た、ごく普通の幸せな生活を過ごす子ども達だ。
今日、下校の際に友達の家へ翌日遊びに行く約束をとりつけた兄妹は、通い慣れた道を歩く。
途中で、必ず通りかかる場所から影が差してきた。
そこは、古い洋館だった。
金をかけたものであるのがひと目でわかる程立派な建築だが、無人となってから誰も住んでいない。
館の所々をツタが覆い隠していた。
かつては白かっただろう壁は汚く黄ばみ、窓も汚れの酷さに中を覗こうともすりガラスのように見えない。
鉄柵が設けられた向こうから、不気味なシルエットを惜しげもなく見せつける洋館の姿を見ながら、兄妹はため息をついた。
「誰か住めばいいのに」
「呪われてなかったらもう誰か住んでるよ、きっと」
「……うん」
何を隠そう、この館。
建てられた明治後期の頃に、ある事件を境に住む人が尽くいなくなるという"呪われた"館として有名だった。
いわく、この館に住んでいたある華族の一家が、全員惨殺されたとかで。
それ以降この館に住んだ人間は、住み始めてから三日足らずで行方不明になった。
一時はオカルトスポットとして一躍有名にさえなったが、入った人間が帰らぬ人となったという話が広まりだし。
その人気も、あそこは却ってヤバい場所だと認知されるや否や下火となった。
トニーとアンの家はこの洋館の近くにあるが、友達は皆、この洋館を避けている。
百年以上建ち続けた洋館の呪われた噂は有名であったし、子ども達はトニーと杏も含め親達からは常々と近寄ってはいけないと言い付けられていた。
そのため、トニー達は決まって、友達の家へ遊びに行くのが常である。
しかし、やはり彼らもたまには自分達の家に遊びに誘いたいもの。
ため息が漏れた。
鉄柵から手を離し、トニーが杏に帰ろうと促した時。
「ちょっと、良いかな?」
後ろから声をかけられ振り向く。
そこにいたのは、一人の若い女だった。
スーツを纏った20代前半頃と思しき女で、褐色の髪を白のシュシュでポニーテールに結い上げている。
記者だろうか、手にペンとメモ帳を持っている。
知らない人に声をかけられ、困惑する二人に女は目線を合わせつつ尋ねてきた。
「ごめんなさいね。あなた達の目の前にあるあの館について調べているんだけれど、この辺りであの館に詳しい大人の人はいないかな?」
「あの館?」
「うん」
兄妹は顔を見合わせたが、首を横に振った。
「そっか…」
女は少し考え込むような顔をしながら、なお聞いてきた。
「それなら、早く帰りなさい。暗くなって、危ないから。あなた達のお家は?」
「それなら、あそこ」
「あの白いお家」
兄妹が指差す方を女が見ると、確かに、まだ真新しい白い屋根の二階建て一軒家が見える。
「お父さんとお母さんはこの館について知ってる人?」
「この辺りの人なら皆知ってる。でも…」
「皆怖い顔して言うの。この館には絶対に近寄っちゃダメだって」
「そうなの…」
とても真剣な顔で考え事をした後、兄妹に一礼と共に早く帰るよう再度促して女は立ち去った。
ーーーー
夕食後、トニーと杏は兄妹共通の部屋で思い思いに過ごしていた。
そこで、思い出したようにトニーは呟く。
「あのお姉さん、館について調べてるって言ったけど、取り壊すとかできないまま百年以上経ってるんだぜあそこ。今になってなんで調べたがってるんだろう」
「でも、ほんと、あの館はどうなるのかしらね」
杏の声に不安が伴う。
トニーは立ち上がり窓を見た。
その窓から洋館がよく見える。
普段は、不気味さもあってカーテンを閉める事が多いのだが、どうしてか気になった。
「でも私は大人になっても住まないわ、絶対に!」
ふと、トニーは違和感を覚えて窓の外、洋館の窓に目を凝らした。
すりガラスのように向こう側の見えにくい窓。
その向こうに、白い何かが動いて見えた。
思わず、杏を呼んだ。
「杏!洋館の中に誰か居るみたいだ」
「うそ…ほんとうに?誰かいるの?」
震える声で杏も立ち上がり、トニーの後ろから窓の外を見た。
「もしかして………おばけ?」
洋館の窓の向こうに見える白いものは、すっと横切っていく。
「うん、おばけかもしれない。近くへ行ってみよう」
夜の21時。
両親は早めの就寝中である。
寝巻き姿であるが、とりあえず懐中電灯と野球のバットを持っていくことにした。
ーー
「中、見える?」
なぜか空いていた鉄柵の扉を抜け、玄関の窓から中を覗き見るトニーに杏は聞いた。
「いや……」
トニーはかぶりを振り、ドアを押してみる。
そのドアも、鍵がかかっているはずだが、あっさりと開いた。
開ければ、じっとりとした埃臭い空気が二人を出迎えた。
「中は見えても、おばけは普通見えないよ」
懐中電灯で中を照らすトニーが先に入り、杏はそれにくっつくようについていく。
「おばけが見えないなら…」
バタン!
背後で突然閉まるドア。
兄妹は振り向き、顔を見合わせた。
互いに、散々入るなと言われてきた場所に足を踏み入れてしまった事への緊張感がよぎる。
「……どうするの?」
「しーっ」
ともかく、歩くことに決めたトニーは懐中電灯で辺りを照らした。
豪華な調度品が置かれているが、どれもが埃まみれだ。
蜘蛛の巣が張っており、一度はその一つがトニーの髪にかかったのを杏はそっと手で払い除けてやった。
柔らかく厚みのある絨毯の上を歩みながら、入ってすぐ手前に見えた階段に向かう。
誰もいないため、聞こえてくるのは二人の息遣いのみ。
そこへ突然、ギイィと軋んだ音が響いた。
トニーがぎょっとし、すぐ後ろの杏を振り向く。
「…何の音!?」
「階段がミシッて…」
「もっとゆっくり歩けよ」
小声で話しながらも、古い階段を登り続ける二人。
野球のバットを持ちながら兄の後に続いて登ろうとした杏。
彼女の顔に突然黒いものが降ってくる。
それが大きな蜘蛛とわかった瞬間杏は叫んだ。
「きゃあああああーっ!!?」
「しっ!」
咄嗟に振り返ったトニーが静かにするよう人差し指を立てるも、大人の手と同じくらいの大きなサイズに身の毛がよだった。
そうした"ちょっとした"ハプニングがありながらも、二人は階段の上に気配を覚えた。
何かが上にいる。
「あそこだ」
トニーが言った。
少しばかり小声でなくなったのは、ハプニングこそあれど大して何も起きていない状況に少しばかり肩透かしを食らったからだろう。
トニーが指差した階段の向こうで、影が動いた。
「あの向こうだ。走れって言ったら、走れよ」
「Okay………どこへ?」
「とにかく走れ」
早足で階段を登り始める。
近づくうち、何かが唸り声を漏らしながら、鼻で嗅ぐような鼻息が聞こえてきた。
「……ねえ」
杏が聞く。
「おばけって鼻良いの?」
「バットを貸せ」
トニーが杏に懐中電灯を渡し、手にバットを持った。
おばけが現れたら殴るつもりらしい。
「おばけって叩けるの!?」
「しーっ!ごちゃごちゃと色々と聞くな!」
階段を登りきった先、前方のドアが開いた先。
白いものがいた。
間違いない、洋館の窓越しに見えたものだ。
だが、その白いものは、明らかに人よりも大きかった。
いや、姿ですら人のそれではなかった。
トニーは苦し紛れに笑う。
「ほらね、おばけじゃない。多分ただの……」
ドアの向こうにいたものが振り向いた。
「誰ダ!!」
光る鋭い目と牙。
四本足で立つ狼のようなものが振り返り、トニーと杏へ牙を剥いた。
「キャーーッ!!」
二人は叫んだ。
そして階段に戻り駆け降りた。
「オイ…待テ!?」
叫びながら階段を駆け降りる二人。
パニックに近い状態で足元が疎かになっていた。
つまづいた先からもつれて二人一緒に階段を転げ落ちていく。
「うわっ!ちょ、危ない!」
「きゃあああああ!!」
「何だ!?」
下から声がし、階段を転がり落ちた二人へ駆け寄る足音が聞こえた。
足音の主は近くに来ると、驚いた声音を張り上げる。
「子ども!?…おい、大丈夫か?」
二人が声の主を見れば、目元をカバーのようなもので隠した誰か。
しかし、よく見ればその下半身が人のものではなく、鳥のものであることに二人は再度の悲鳴をあげた。
「キャーーッ!」
「!」
思わず耳?を塞いだ足音の主。
そこへ、二人にとって聞き覚えのある声が聞こえた。
「シルフィーモン!今の悲鳴は何!?」
足音が近づき、懐中電灯がトニーと杏を照らし。
「…あなた達!夕方に館の前にいた子達じゃないの!」
「あ…」
トニーと杏も驚きを隠せず目をこすった。
「あの時のお姉さん!?」
……
美玖は驚きながら、夕方に会った二人の子どもが立つのを手伝ってやった。
「あなた達、どうしてここへ?」
「僕たち、家の窓から見てたらおばけがいて…」
「おばけ?」
美玖がシルフィーモンの方を向いた。
「おばけ、なんていた?」
「いや、それらしいものは見なかった…本当にいたのか?」
「いたよ!たった今この上で見たよ」
トニーが言いながら階段の上を指差した。
「大きくて!全身が真っ白で!青い縞模様があってーー」
ずしん
「すっごい目と牙してて僕たちを…」
「ソレハ俺ノコトカ?」
すぐそばで聞こえた低い声にトニーは硬直した。
杏が顔を真っ青にして後ろを指差す。
「ト、トニー…う、後ろ…」
トニーの全身から汗が噴き出る。
恐る恐る振り向いた先に。
抜けるような真っ白い毛並みに青い縞模様の、巨大な狼のような"おばけ"がそこにいた。
「ーーっ!!」
美玖がすぐ押さえた。
「大丈夫!グルルモンはおばけじゃない、デジモンよ」
「デ、デジモン…」
恐ろしげな姿を見上げる。
ふんっ、と鼻で息を飛ばし、グルルモンはブルブルと全身を震わせた。
「そちらはどうだった?」
シルフィーモンがグルルモンに尋ねる。
「デジモンノ臭イガアチコチシテイル。嫌ナ空気ダ」
「うん。ここ、ダークエリアのけはい、する」
グルルモンの背中で飛び跳ねたシャオモンにトニーと杏の目が釘付けになった。
美玖がシャオモンの方を向いた。
「わかるの?」
「うん。さっきより、もっとけはいがつよくなってきた。みんな、きをつけて」
トニーと杏は改めて美玖と一緒にいる三体を見た。
実物のデジモンを見たのはこれが初めてだからだ。
ーー
今回の依頼は、美玖達の暮らす地区のある県のひとつ隣の県から持ち込まれた。
依頼人は、トニーと杏が通う学校の校長。
呪いの洋館についての調査を依頼してきた。
「この館が建てられて百年。未だに行方不明者が絶えないまま、取り壊しもままならない」
「なぜ…?」
「取り壊そうとすると、現場担当の人間が何人も、原因不明の病に倒れてそのまま亡くなってしまうからです」
そんな事の繰り返しで、いつまで経っても問題を解決できないのではどうしようもない。
そんな時、デジモンの力を借りて解決できないか、と言う意見が持ち上がった。
そこで、あらん限り調べて、デジモンの力を借りて解決するスタイルであるこの探偵所を頼りに来たという次第だ。
「どうか、お願いします。あの洋館があっては、子ども達も安心して学校を行き来することが叶いません。どうか、どうか」
ネット検索してみると、件の洋館に関する情報はすぐに見つかった。
大型掲示板サイト発端の、10年もの前の過去のオカルトスレッドだ。
信憑性はともかく、このような場所から情報を探すより他はない。
「洋館が建てられたのは1895年。明治時代のものね。ある華族が住んでいたのだけれど…一族が全員虐殺…」
メモを取りながらスレッドの過去ログを辿る。
犯人は華族一家の当主の元友人で、諍いを拗らせ犯行に及んだ数日後に変死。
殺害された一家は、当主とその夫人、当時21歳になる長男と18歳の次男、そして15歳の長女。
ここまで仔細を書いた書き込みの人物は地元の人間だといった。
「殺害があってから三回、住む人間はいたがいずれも行方不明…」
そこからオカルトスポットとして有名になり、行ったと報告する書き込みもいく件か見られた。
「人間とは本当妙だな。いなくなったという噂があるのにわざわざ行くとは」
「心霊スポットもそうだけど、怖いもの見たさってのがあるから…」
訝しげな表情を浮かべながら、シルフィーモンは紅茶を口にした。
が、途中までスクロールしてある書き込みが目に止まる。
「この書き込みは…」
『やばい まじやばい
皆あいつにやられた ほんとだよまじでやばいんだ信じてくれ
一緒に行ったダチが皆殺されたのは間違いない
もう俺はあの館に近寄りたくない』
それに対していくつかの返信が寄せられる。
心配して尋ねるもの、ネタで返すもの、何がやばかったのかと詳細を尋ねるもの。
『わかんねえ。四人で行ったんだけど、N男とP子がすっげえ悲鳴あげてて何だって駆けつけた時には血まみれで。
でもそれより二人のそばにいた奴がヤバかった。
そいつがN男とP子を引きずってどっかへ消えてった』
数分空けて同一のIDによる書き込み。
『あれは人のように見えたんだけどよく見ると真っ黒な毛が生えてて、猫みたいな目でこっちを睨んでたんだ。
尻尾みたいなものも生えててさ、数本もあってさ』
さすがに現実離れした内容のせいか、冗談で返す返信が目立ったが。
『とにかくあそこはやばい。
おれも一緒にいたR太も全速力で玄関まで走ったけど、外へ出てすぐR太の悲鳴が聞こえて。
気づけばおれ1人だった。もうあそこに戻りたくない』
そこから先の数週間後の日付けで、複数の別のIDによる"目撃"の書き込みが幾つか散見されるようになる。
美玖はシルフィーモンの方を向いた。
「デジモンの仕業…なのかしら」
「可能性はあり得る」
シルフィーモンは文面を睨みながら続けた。
「獣人型デジモンが人間を襲っている、と考えるべきなのかもな」
ともあれ、その翌日のうちから洋館のある地区を訪れて聴き取り調査に数日を費やした。
しかし。
「何人か、よその人が洋館に入っていくのを見た者はいるようなのだが」
シルフィーモンが気難しげに話す。
「洋館そのものの話になるとだんまりになる人間が多すぎる。相当話したくないらしいな」
また、デジモンについて話してみても、同様だ。
洋館がある地区はデジモンの姿が皆無で、何人かはシルフィーモンを見るやコスプレか何かと訝しげな顔をしてくることがあったくらいだ。
「土地を管理している方がいたから、説明して鍵を借りてきたわ。これで中に入って、様子を見るしかなさそうね…」
「そうだな」
その日のうちに潜入するにあたり、シルフィーモンがある提案をした。
シャオモンを連れて行くという。
「なぜシャオモンを?だってシャオモンは…」
「さすがに幼年期デジモンが直接戦闘は無理だ。だが、シャオモンの技にはある副次効果がある」
「副次効果…?」
提案を請け負って、今回は留守番にせずシャオモンを連れてきたのだった。
シャオモンは、ずっと留守番だったこともあって、美玖達と一緒にいられるのが嬉しく跳び跳ねていた。
「おしごと!おしごと!」
「私とグルルモンが戦闘を担当するから、あまり前へ行かないように」
心配からかシルフィーモンが注意する。
「はーい!」
夜20時半に館へ訪れる。
暗い夜、長年人のいないために手入れがされていない洋館はとても不気味で。
「……雰囲気は確かにあるわね」
言いながら、美玖は鉄柵に借りた鍵とメモを括り付けた。
これで美玖達に何かあっても、管理者が鍵を回収に来れるだろう。
「予想はしていたけど…中は荒れてない」
人が訪れていたならば多少は捨てられたゴミも多いものだが、庭にゴミが落ちていないことからある程度想像はできた。
年代を感じさせる調度品やカーペット、カーテン、照明。
厚く埃をかぶっているものの、いたずらに手をつけられたような形跡が見られない。
「ここは少し広そうね。なら…」
呟くと、携帯電話を取り出して開く。
その画面から光があふれたと思うと、大きな獣のシルエットが飛び出した。
グルルモンだ。
現地到着の後、美玖の携帯電話からネット空間で待機していたのだ。
「よろしく、グルルモン」
「何ヲスレバイイ?」
「デジモンがいないか痕跡を探してくれ。匂いでもなんでも。私と美玖は階段周りのフロアを探そう。2階の捜索を頼む」
「イイダロウ、二階ダナ」
グルルモンが行こうとして、シャオモンがその背中によじ登った。
「! オイ、コイツハ…」
「今回の件は特殊な事情があるので連れてきた。シャオモンも、何か感じ取ったならすぐグルルモンに知らせるんだ」
「はぁい」
「マテ、イイノカ…」
困惑するも、有無を言わせぬシルフィーモンにグルルモンは肩をすくめた。
トニーと杏が見たのは、この後二階の回廊を探索していたグルルモンだったのだ。
ーーー
「探偵が、どうしてこんな所に?」
トニーが尋ねるのも当然だ。
行方不明者が出たのも、数年前の話。
ニュースにすら出てもないが、誰もが知っていて口に出したがらない事象。
「依頼があったの」
「君達子どもの安全のためにも、ということでね。私たちデジモンの力を借りたいと請われた」
トニーと杏は顔を見合わせる。
「それより、子どもがこんな時間に来てはいけないわ。帰りなさい。ご両親が心配しているでしょう」
美玖は言いながら、グルルモンを振り返る。
………それは、すぐ真上に迫っていた。
久方ぶりの侵入者。
闇の中、目を爛々と輝かせてそれは身を低くする。
獲物に飛びかかる事前動作。
「グルルモン、この子達を送って貰えない?…家は近かったのよね」
「う、うん」
梁の上から、ゆっくりと這い寄る。
手指の先に光る、薄い刃物のような爪。
身を乗り出し、飛びかかろうとして。
「!」
それに気づいた者がいた。
「美玖、伏せろ!」
「え!?」
シルフィーモンが素早く両腕にエネルギーを溜める。
「『トップガン』!」
「フギャアアアアアアオ!!」
梁から飛びかかったものに『トップガン』が直撃。
喚き声をあげてそれは落ちてきた。
「な、何!?」
トニーと杏も異常に気づいてお互いに抱き合った。
「フィギャアアアアアアオオオ…!」
身体をブルブルと震わせながら、そいつは立ち上がった。
身長は美玖より少し低いほど。
全身真っ黒な毛に覆われ、瞳孔が縦に割れた金緑色の目だけが光る。
身体つきは人間の女性にとても近く、顔立ちも人間そのものだったが、獣の目に限らず真っ赤な口から覗く鋭い牙が異形としての特徴を曝け出していた。
そして、その後ろに立ち上がる尻尾。
その数は七本に分かれていた。
「コイツハ…!?」
グルルモンが身構えて唸る。
美玖がすぐさまツールでスキャンを狙うが…。
「フギャアオ!!」
「!!」
素早い動きでそれは、自身の襲撃を妨害したシルフィーモンへ襲いかかった。
たちまち取っ組み合いになり、もつれた両者がカーペットの上を転がる。
「シルフィーモン!」
「…ぐっ!」
爪を立て、食らいつこうとするその牙から自身の喉を守るのに精一杯だ。
美玖は咄嗟に指輪型デバイスを構えた。
「…麻痺光線銃(パラライザー)コマンド、起動!」
指輪型デバイスの水晶体から光が放たれ、シルフィーモンへ上乗りになったそいつに当たった。
「…えっ!?」
そいつに光が当たった瞬間、パチっと静電気が走ったような光になる。
が、そいつは、何事もなかったかのようにシルフィーモンへ攻撃を加え続けた。
「効かない!?」
麻痺光線はデジモンのみならず人間や動物にも有効なものだ。
それが直撃したにも関わらずなお、相手は動いている。
「…俺ガヤル!嫌ナ予感ガスルガ」
グルルモンが駆けだし、シルフィーモンになお噛みつこうとするそいつへ食らいつき引き離した。
「フギャ!?」
咥えられたそいつが暴れるよりも早く、グルルモンは振り返りつつ反動を利用して投げ飛ばす。
派手に音を立ててテーブルの上を滑り、その先へ転げ落ちた。
「シルフィーモン!」
美玖が駆け寄ると、シルフィーモンの顔や胸元、腕におびただしい噛み傷と爪痕を前に絶句する。
鼻と口から出血までしていた。
「…あいつは…」
シルフィーモンがうめきながら、よろめいた。
「待って、今、修復(リペア)をーー」
「せんせい!!」
指輪型デバイスをシルフィーモンに向けようとしたところへ、シャオモンの叫び声。
そこへ、トニーと杏の悲鳴も続いた。
「あ、あれって…!」
美玖が杏の指差す方を振り返る。
壁際に何かがいる。
そこにいたのは、赤と灰色のローブのようなものを纏った何かだった。
その奥の目と首にかけた目玉のような飾りは禍々しい光を放ち、美玖達を見ている。
一歩遅れて、グルルモンに投げ飛ばされたものが、その脇で体勢を正した。
「アイツハ…!」
グルルモンが唸る。
「…グルルモン!子ども達と美玖をーー」
シルフィーモンが叫ぶ前に、赤と灰色のローブを纏ったものがどこからともなく大きな鎌を出す。
「…無駄だ。ここはすでにダークエリアと大きな繋がりを得ている。我らが僕となりし者どもよ!」
美玖の足元に生じた歪み。
そこから、複数の腕が美玖の足を掴んだ。
「きゃああああーっ!!」
「美玖!」
「探偵のお姉さん!」
たちまち闇の歪みの中へ引きずり込まれていく美玖にシルフィーモンは手を伸ばした。
だが、それをさえぎるように再び黒い猫のようなものが彼に襲いかかる。
「くそ…美玖!!」
「俺ガ…」
駆けつけようとしたグルルモンを、大鎌の斬撃が掠った。
「ク…!」
足を斬られ、バランスを崩すグルルモン。
両者の目の前で、無数に増えた腕に頭まで引きずり込まれて行く美玖。
「シルフィーモ……」
手を伸ばし、叫ぶも虚しく、彼女は歪みへ呑まれていった。
すぐさま閉じられた歪みに、グルルモンが怒りを露わにする。
「畜生!」
「ど、どうするの!?」
トニーが顔を真っ青に声をあげる。
「グルルモン!」
猫のようなそれを蹴り飛ばし、シルフィーモンが息を荒げながら叫ぶ。
「お前はその子達を連れてなんとか外に避難しろ!」
「オ前ハドウスルツモリダ!」
「私はこいつをどうにかして美玖を探す!早く行け!」
後ろを向けば、大鎌が見える。
「ぐるるもん!せんせいならだいじょうぶ!せんせいは、べつのばしょにつれてかれただけ」
「ナンダト?」
シャオモンの言葉に訝しむグルルモン。
「それより、ふぁんともんからにげなきゃ!」
「……ソレモソウダナ!」
ファントモン。
それが、今迫りつつある死神然とした存在の名前だ。
「あれも、デジモンなの?」
杏の言葉にグルルモンは短く応えた。
「ソウダ!」
「…うわっ!」
問答無用で襟首を咥えられた順に、兄妹はグルルモンの背中に乗せられる。
シルフィーモンは猫のようなものと未だ格闘中であり、奥の部屋で激しく物音がした。
「シッカリ掴マッテロ!」
「うん!」
「わ、わかった!」
ファントモンの追撃を避け、グルルモンは階段へと駆け上がる。
「……逃げるか。だが、ダークエリアの領域と化したここから逃げる事は不可能だ。じっくり、料理してやろう」
大鎌を手持ち無沙汰に提げながら、奥の部屋へ向き直った。
「貴様もいつまで遊んでいる!あれを追え!」
ーーーー
強い力に抗えず歪みに引き込まれた時。
数えきれない救いを求める声や嘆きが耳に響き。
まるで水中にいたかのような視界と息苦しさに気を失った後。
「……う………」
頭の中がズキズキする。
それに耐えながら、美玖は目を覚ました。
「ここ、は…」
そこは、本が積み上げられた部屋だった。
息苦しいくらいに埃の匂いが充満している。
「ここは…書斎、ではなさそう…」
所蔵庫、というべきだろうか。
足の踏み場がない程でないが、本の山の合間を縫うのは狭っ苦しい。
本棚を見れば、どれも古ぶるしい表紙の本ばかりだ。
タイトル一つをとっても、年代を感じさせる文体と表紙、ページの紙の質感。
「こんな所でゆっくり本を読んでる場合じゃないわよね…」
しかし、目は何か手がかりはないかと本一冊一冊を探る。
そこで、一冊の本が目に止まった。
「これは…」
紐で綴じられたそれは、ページが古びていて黄ばんでいる。
「……『江戸怪異録』?」
文体や手書きによる筆跡は読みにくささえあるものの、全く読めないものでもない。
目次の項目には、幾つもの怪異の説明が載っている。
その中に、猫の文字を見つけて、美玖は呟く。
「………猫……?」
思い出すは、先程シルフィーモンと戦闘していた、あの猫のような、女性のようなもの。
自分はあの時、データをスキャンできず、さらにはデバイスの麻痺光線機能が効かなかった。
まさか。
目次を元に、猫についてのページをめくる。
そこには、猫…化け猫についての記載がされていた。
「化け猫…」
そこで、引っかかるものを覚えた。
まさか。
(あれは、デジモンではなく……でも、まさか、そんな事が?)