その夜の天気は雨だった。
まるでバケツの中身を上からぶちまけたような豪雨。
地面に溜まったものは至る所を埋め尽くし、干し尽くされるまでに数日はかかるだろう。
ばしゃり、ばしゃりとゴム長靴を半ば水に浸からせながら車道を歩く人影。
青のレインコートが光を吸って濡れ光った。
「こんなに降るとはなぁ…苗が心配でしかたねえ」
レインコートの下に手を差し込み、汗を拭う。
雨にぐっしょりと濡れた先から重くなったズボンを引き上げていた時。
突如のライト。
視界を真っ白に染めながらそれは突っ込んできた。
ーー
「が……ぁ……」
走り去るタイヤの音。
後には先程のレインコートの人物が残されていた。
「ぁ…あ…」
レインコートの人物は立ちあがろうとするが、手足に力が入らない。
1トンに近い重量に押し潰されて身体の半分はすでに機能していなかった。
そのとき、闇に光る二つの目があった。
目の主は、レインコートの人物の元へと足早に駆け寄り、鼻を近づける。
「……っ、ぁ…ぐ、す…さ…」
レインコートのフードが跳ねあがる。
御歳70〜80は超えていよう老人だ。
その老人に鼻を近づけて鳴らす、巨大な狼のような獣。
「……殺ス。必ズ」
その目に宿るは強烈な殺意。
その殺意に老人は刹那に思いを馳せることなく息絶えていた。
ガツッ
鋭く頑強な爪がアスファルトを削る。
獣は走り出した。
こちら、五十嵐電脳探偵所 #6 その罪裁くは兇牙か人の法か
五十嵐探偵所に電話が入ったのはある午後の事。
クマのぬいぐるみにじゃれついて遊ぶパオモン。
…否。
その姿はすでにパオモンではない。
パオモンの丸みを帯びた身体は生き物らしい形になり、四つの足が生えた姿となっている。
子犬をミニチュア化したようなその姿は、シャオモンというデジモンのものだった。
そのシャオモンとクマのぬいぐるみを脇に、美玖は受話器を取る。
「お電話ありがとうございます。こちら五十嵐探偵じ…」
『もしもし、美玖?』
「お母さん?」
美玖は少し驚いた。
美玖の実家はB地区にある。
元々あるデジモンの暴走によって更地となる前に避難したが、家が無事なため戻ってきた人たちのうちの一世帯だ。
農家であるためすでに復活した畑では苗植えのため多忙と聞いていたが…。
「美玖、最近身体とか大丈夫?お仕事ちゃんとやっていけてる?」
「大丈夫、仕事もこなせるようになってるの。とても頼りになる助手がいて…それで、どうしたの?」
「実はね……」
少し短くも長い時間。
「おじいちゃんが…!?」
ーーー
「いい加減、車買おうかしら」
「そうだな」
後ろからしがみつきながら呟く美玖に、シルフィーモンは肩をすくめた。
今、シルフィーモンは美玖とシャオモンを肩にしがみつかせながら飛んでいる。
なぜこんなことになったのか。
「おじいちゃんが死んじゃったなんて…それも、事故みたいなの」
詳細を聞くと。
土砂降りの夜、午後21時を過ぎた時間に畑の様子を見に行った祖父の帰りが遅いことに気づいた家族。
そこで、五十嵐家で一番下の兄弟である建人(たけと)が様子を見に行くと、道路の真ん中で倒れた祖父を見つけたとの事である。
「まだ警察が来てないから話はこれから聞きに行こうと思ってる。今はお通夜が先」
そのために、急ぎ黒のフォーマルスーツに着替え、正面口に留守中のプレートを掛けた後は車代わりにシルフィーモンにB地区へ飛んでもらったのである。
今回はシャオモンも一緒だ。
「あそこ、あの青いトタン屋根がうちの倉庫。家はその隣」
場所はB地区でも農家が多かった場所。
B地区は五つの区画の中でも自然が多く、山が近い立地だ。
畑ともほど近い地点に着地することにした。
降りた場所が家の位置的に勝手口の近くであるため、玄関へと大きく回り込んだ。
戸と鍵は今となっては非常に珍しい、引き戸と回すタイプの鍵であり、美玖は勝手知ったそれをガラガラと開ける。
「ただいまー」
足早に駆ける音が聞こえたかと思うと、高校生ほどの少年が出てきた。
「姉ちゃん、お帰り」
「ただいま、卓也。…お母さんは?」
「父ちゃんと奥で……………」
そこで少年…美玖の弟である次男の卓也は固まった。
美玖の後ろにいるシルフィーモンとその腕に抱えられたシャオモン。
「どうしたの?」
「………母ちゃーん!父ちゃん!兄ちゃんに建人ーっ!!!」
どたどたどたどたどた!!!
ダッシュで廊下を走っていく卓也。
「卓也!こら、走らな…」
「姉ちゃんが!姉ちゃんがぬいぐるみ抱っこしたコスプレの男連れてきたあー!!」
「こら!!卓也!!言い方ぁあ!!!」
黒のパンプスを脱ぎ、弟の後を追いかける美玖。
足拭き用のタオルを用意されるまで、シルフィーモンは玄関に立たされる羽目になった。
ーー
「……改めて!この人…デジモンはシルフィーモンさん。私の仕事の助手で、とても頼りになる人。こっちもぬいぐるみではなくてデジモンのシャオモン。どちらも、今いる私の職場で一緒に暮らしてるの」
「あらあら、始めまして!デジモンのお客さんは珍しいわ。どんどんあがって頂戴な」
「…どうも」
「わーい!」
美玖の母の葉子が、茶呑みと茶請けの煎餅を出す。
煎餅を一枚バリバリと齧りだすシャオモン。
シルフィーモンが会釈すると、卓也がぼそり。
「デジモンだったのかよ。姉ちゃん男の趣味めっちゃ変だって思ったんだけどなあ」
「んもう!コスプレじゃなくてデジモンのちゃんとした武装だから。失礼なこと言っちゃだめ!」
「それにデジモンは性別がないよ」
大学生である長男の陽介が言うと、卓也と建人がにわかに食いついた。
「え、じゃあアレないの?」
「へえ、変なの!」
「……アレ?」
シルフィーモンが聞くと、ニヤニヤ顔をしながら卓也が顔を近づけて。
「アレったらアレ!ひひひっ、ち・ん・ち……いただだっ」
「バカ言わないのっ!それより、おじいちゃんの御顔見に行くわ、お母さん」
卓也の言葉を顔真っ赤に羽交い締めでさえぎる美玖。
葉子は神妙な顔で頷いた。
「ええ、御顔も、お身体も綺麗にしてあるから……ご挨拶にいってらっしゃい。美玖が帰ってくるの、おじいちゃんずっと待ってたのよ」
仏間まで、シルフィーモンとシャオモンを連れて歩く。
自然と足が重く感じた。
仏間に入った瞬間鼻につく線香の強烈に香る匂い。
改めて白木の棺を前にすると、辛かった。
「…おじいちゃん…」
棺の窓を覗けば、目を閉じて眠る顔がある。
そばでシャオモンが鼻を棺に近づけた。
「せんせ、なか、なにはいってるの?」
たどたどしくあるが、言葉を口にするシャオモン。
そんなシャオモンを抱き上げ、棺の窓から花に囲まれ安らかに眠る老人の顔が見えるようにした。
「私のね、おじいちゃん。子どもの頃から私が…大好きだった人」
シルフィーモンは仏間を見回した。
仏壇とその上には神棚が備え付けてある。
「おじいちゃん?」
「うん…わかりやすく言うと…お父さんの、お父さん」
「おとうさんのおとうさん?」
「お母さんのお母さんが、おばあちゃんね」
「おばあちゃん?」
シャオモンは目をぱちぱちしながら棺を覗き見る。
デジモンは生殖行為を必要としないため、頭の中を捻り出しつつもシャオモンに説明する美玖。
「おじいちゃんはね、のんびり屋で優しい人。私が子どもの頃、よく一緒にデジモンが空飛ぶとこ見に行ってくれたの」
今思えば、孫の嬉しそうな顔が見たかった、というのもあるのだろう。
それでも思い出す。
まだデジモンが人間の世界に移住し始めた頃の事。
多くの空を飛ぶデジモン達が頭上を横切っていったものだ。
『おじいちゃん!あそこにかっこいいデジモンが飛んでる!はやく、はやく!』
はしゃぎながら祖父の手を引っ張って、困らせていた頃が懐かしい。
それ以外にも、祖父と過ごした時間は多い。
畑仕事を手伝っていた事。
アケビや山ぶどうなどを採って初めて食べたその反応を祖父に微笑まれた事。
大好きな豆大福を弟達と祖父とで一緒に、縁側で食べた事。
「……おじいちゃん、こうなる前に一度帰ってくれば良かったな…」
涙ぐみ、ハンカチで目元を拭う。
「これは、どういうものなんだ?」
シルフィーモンの問いになに?と振り向くと、神棚を見上げている。
「それはね、おじいちゃんが実家の頃からずっと通っていた神社の神様とかお祀りしているもの」
「神を…?」
「ちょっとややこしいけれど、うちは神様も仏様も祀っているのよ」
美玖はシルフィーモンの隣へ歩き、指差した。
「人間の宗教というのはまた複雑で分かりづらいな」
「でも、デジモンにも神様や仏様はいるんでしょう?」
「そうだが…」
「うちは仏教だからお葬式も仏式でやるけれど、おじいちゃんは神様をよく崇めてたの。毎年一回は、神社に行って"御眷属様"を拝借してる。あそこに置いてるのが、御眷属様ね」
「御眷属様?」
シルフィーモンが美玖の指差すものを見ると、そこには墨で字が書かれた様々な木の札があり、そのうちの一つに神社の名前と共に『御眷属守護』と書かれたものがある。
「おじいちゃんの実家が通っていた神社には、神様の使いである狼が祀られているの。それが、御眷属様。お犬様とかオオカミ様とか呼ばれてるって言ってた」
「護符のようなものか?」
美玖は頷いた。
「年に一度、御眷属様を拝借して、火事とか盗難とか家に降りかかる災いから護ってくれるようお祈りする。それで、ちょうど一年経ったら、御眷属様を神社へお返しに行くの」
「大層な受け売りだな」
「霊験あらたかな神社として昔から有名だったりするのよ」
そういえば、まだその神社に行ったことがなかったな…と美玖。
「今年分はもう拝借しているはずだから、返納する来年にお母さんに頼んで一緒に行こうかしら」
「遠い場所なのか?」
「遠い…し、高い山の上にあるっておじいちゃんは言っていた。シルフィーモンならひとっ飛びで行けると思うけどね」
神棚を見上げながらそう話していたところへ、美玖の父親である康平が顔を見せた。
「美玖、お昼ができたから食べよう。シルフィーモンさんもご一緒でしょう?」
「そうね」
「すまない。美玖の付き添いゆえ厄介になる」
「もうじき、左東さん達がやってくるし、夕方に親戚の人達も集まるから忙しくなるよ」
ーー
美玖にとって家族との食事は実に2年ぶりだった。
まだ探偵の師匠たるアグモンが来る前、アパート暮らしだったのを引き払って戻ってきたのだ。
今思い出せば、随分と迷惑をかけてしまったと思いつつ、美玖はやけに賑やかな隣を見る。
「へぇー、しっかしデジモンとはねえ!」
「は、はあ」
「綺麗な顔したいい男じゃないか。歌舞伎の女形に負けねぇなあ」
「お、おんながた…?」
「おう、歌舞伎座に興味あるんなら今度連れてったらぁ。ほれ、一杯やらんか?んん?」
……三人の男がほろ酔いもそこそこに顔を赤く染め、シルフィーモンに絡んでいた。
美玖もよく知る三人で、祖父の友人であり農家仲間である。
三度の飯より呑むことが大好きな酒豪揃いだ。
「伊東さん、ちょいと時期には早いけれどウドの天ぷらができましたよ」
葉子が大皿にいっぱいの天ぷらを載せてくる。
「やあ葉子さん、すまんの!やれ、ノブの奴も、珍妙な格好しとるがこんな綺麗な顔した男がみっちゃんの連れ合いと聞いたらさぞたまげたろうに!」
「あ、あの、左東さん…デジモンに、性別は…」
美玖が流石に横から訂正を求めるものの、酔っぱらい達の耳には入らない。
シルフィーモンはひとまずと美玖に勧められた烏龍茶をコップに注いでもらっただけで、三人から立て続けに絡まれている。
「んで、みっちゃんとは付き合っとるんか?」
「さっきからみっちゃんとは…美玖の事か?」
「うんよ」
三人が一様に頷く。
「私は、あくまで彼女の助手であり、用心棒だ。さすがにそこまで深い関係には」
「なんだとぉ!?みっちゃんこんなにめんこいのに勿体ないなあ!なあっ!?」
「加東さん、それ以上はもうそこまでにしてください!」
恥ずかしさに聞きかねて美玖が腰をあげた時。
「ちょっと外へ出るわね」
葉子が言いながら勝手口へ行く。
手に持っているものに気づき、美玖は尋ねた。
「それなに?お赤飯?」
「ええ」
葉子が返した。
「美玖には言ってなかったっけ。美玖が警察学校受かったって時から、おじいちゃんが『御眷属様が出た』って嬉しそうにして、それ以来お赤飯を出しに外へ行くの」
「え?」
美玖は目を瞬かせた。
そんな話、初耳だ。
「私が、警察学校受かった頃…?」
「そう。その頃、美玖まだ高校生なのにうちから離れて一人暮らし始めてたでしょ。美玖はいないけどお祝いしようって、お赤飯炊いたの。…それ以来ね、おじいちゃん、週に一回、お赤飯を外に持ってくようになったのよね」
「でも、なんでお赤飯?」
「さあ…」
葉子は首を傾げながら、勝手口を開けた。
「でもね、そのおじいちゃんが呼んでる『御眷属様』、今もいるのは確かなの」
「今も?」
「ほら、こないだの雨でだいぶ形がなくなっちゃったけど、足跡があるでしょ?」
葉子が指差す場所に、美玖は目を凝らした。
それは犬よりも非常に大きい獣の足跡だった。
ーーー
夕方になると、続々と他の地区や県から親族達が集まってきた。
血縁の遠近に差はなく、顔が集まれば挨拶が交わされ取り止めのない話が始まる。
こういう場において、集まりに連れられてきた子供たちは遊びやケンカに興ずるわけなのだが。
今回は事情が違った。
「すごい!パパのより高ーい!」
「次、ユウ!ユウが乗るー!」
「あすかも!」
「……頼むから、騒がないようにな。それとそこの子、名前は…アキラか。アキラは近くを走り回らないでくれ。危ないから」
シルフィーモンとシャオモンはたちまち子供たちに群がられていた。
デジモンを間近で見た事のない子どもが多いせいだろう。
もの珍しさに注目を浴びていた。
シルフィーモンに至っては、彼の見た目そのものも注目の的だった。
「デジモンってさ、名前の最後に必ずモンって言うんでしょ?」
「そうだな」
「ねー、ねー!デジモンって何食べるのー?」
「…デジモンによるな」
「シルフィーモンは何食べるの?」
「私は…」
「ねー、ねー!」
「シルフィーモンって強いー?」
「デジモンっていつ寝てたりしてるの?」
「質問は順番に頼むよ、一度に何人も答えられないだろ」
肩車をしたり、質問されたりと忙しいシルフィーモン。
シャオモンはというと、女の子達に人気で代わる代わる順番に触られたり抱っこされている。
「ふかふかであったかい!」
「あたしも触りたーい!」
「じゅんばーん!」
「むぎゅう…」
あちらこちら触られたり、強く抱っこされたり。
住職のお迎えや通夜の準備のため家族を手伝っていた美玖は、横目に見て冷や汗を垂らしていた。
今も、シルフィーモンは子ども達にたかられながら、肩車をしてやっている。
葉子もその様子に苦笑いしながら声をかけた。
「すみませんね、シルフィーモンさん。子ども達の相手をしてもらって」
「私はいいのだが、シャオモンが…」
「きゅううう…」
子ども達の間を回されて目を回すシャオモン。
美玖は間に入ると、シャオモンを抱いている女の子たちに声をかけた。
「ごめんなさいね。この子、すっかり疲れちゃってるみたい。休ませてあげて」
「えー…」
「はーい…」
惜しげな顔をする少女達からシャオモンを受け取ると、美玖は台所へと連れていった。
「大丈夫?ここで休んでてね」
「せんせえ、ありがと…」
「ジュース飲む?」
「うん」
「まってて…オレンジジュースが良いか」
その間に、シャオモンが抜けたため女の子達もシルフィーモンへと標的が変わっていた。
「その足ってほんものの鳥の足?」
「鳥…ああ、アクィラモンのことか」
「それもデジモン?」
「ほんとだー、にわとりの足みたい!羽ふかふか!」
「あ、あまり触らないでくれ…」
さしものシルフィーモンもタジタジだ。
子ども達による質問責めは延々と続き、シルフィーモンはその対応に追われながら次の子どもを肩車に担ぐのだった。
ーーー
「…まさか、五十嵐の所のじいさんだったとはな」
通夜が明け、告別式が済んだ翌日。
警察署を訪れた美玖に、阿部警部は俯いた。
「…ご家族に協力頂いた事に感謝を」
阿部警部は言いながら、美玖に署から出ることを促した。
外でシルフィーモンが待っている。
「ここ数週間前から、B地区で同一犯による轢き逃げ事件が起こってる。今回のもそいつの仕業に間違いない」
「轢き逃げ犯…!?」
「目撃者の証言によれば使われた車両は白の軽量トラック。犯行が行われるのは夜。それも地域を転々としてやってやがる」
「……」
ぎゅっ、と拳を握る。
言いようのない怒りが込みあげた。
「それでお前達にも調査を依頼したい。大丈夫か?」
「…美玖が良いのなら」
シルフィーモンも美玖を見やりながら応える。
家族を殺されたのだ。
たとえ血縁関係というものがないデジモンであろうと、理解できないわけがない。
「…やります」
絞り上げた声で、美玖が答えた。
「すまんな。辛い思いをさせてしまうが…」
「いいえ。でも、必ず捕まえましょう」
「そうか。…それでなんだが、気がかりなことがあってな」
阿部警部は煙草を一本取り出し、火をつけた。
「お前のじいさんが轢かれた日から、B地区で一体の獣型デジモンの目撃情報が相次いでいる」
「獣型デジモン?」
シルフィーモンが聞き返す。
「うむ。狼のような姿をした、四本足で走る大きな獣型デジモンだ。俺はまだ直接姿を見てないんだがそいつが度々目撃されている。特に被害があるわけではないが…」
阿部警部は煙草を一服。
紫煙をゆっくり吐きながら、続けた。
「そいつは必ず、轢かれた被害者のいる場所に姿を現す」
「つまり、それは」
「そいつと犯人になんらかの関係があると言う事だ」
「……御眷属様…」
美玖は呟いた。
通夜の日に見た、大きな獣の足跡。
祖父が御眷属様と呼び、周に一回赤飯をあげていたという存在。
「まさか、おじいちゃんを轢いた犯人を、探して…」
「何か心当たりがあるようだな」
阿部警部は美玖の顔を見ながら言った。
「ひとまず、そいつについての手がかりもあればお前達に収集を任せたい。何か進展があったら連絡してくれ」
「わかりました」
阿部警部と別れると、シルフィーモンは美玖に尋ねた。
「美玖、先程なんて言ったんだ?」
「……通夜の時になんだけど…」
美玖は顔を上げ、シルフィーモンと視線を合わせた。
「お母さんから聞いたの。8年前に私が警察学校に受かった時に、おじいちゃんが御眷属様に会ったって話を」
「神の使いだという狼の事だったな?」
「それで、足跡を見せてもらったんだけど…あれは…」
美玖は少し言い淀みながら、続けた。
「…あれは、間違いなくデジモンのものよ」
「獣型デジモンか」
シルフィーモンが唸る。
「シルフィーモン、デジモンにも狼のようなデジモンっていたわよね」
「ああ。それなりに数は多い」
「だから、会ってみる必要があるの」
美玖は空を見上げた。
「…明日、うちに行こう」
…………
昔語りによれば。
昔、ある大工がいた。
明日必要になる道具を取りに行くため峠へ向かう途中、子どもが産まれた友人の家へ立ち寄る。
提灯を借りて夜中の峠を越えると言う大工に産婆が言った。
『今、夜道を歩くとお産の血の匂いを嗅ぎつけて山犬が出る。行っちゃならねえ』
しかし、大工は急ぎの暇を告げて、友人と産婆に見送られながら峠を越えはじめた。
暗い山の中を歩いてしばらく、大工は恐ろしげな二匹の山犬に出会い、道を塞がれてしまった。
万事休す、と思ったその時。
亡くなった爺様の言葉を思い出す。
(山犬にもし出会ってしまったならば、親しい友人のように振る舞え)
大工がその通りに振る舞ってみると。
山犬たちはすぐ襲いかかるそぶりもなく、大工の後へついていく。
途中で足を踏み外した際とっさに休もう、と言えば、山犬たちも大工の両脇に座ってその通りに休んだ。
そうして家の近くまで来た大工は、山犬たちにお礼として赤飯を炊くので食べに来るよう言うとそのまま無事に帰り着く。
大工は早速山犬たちのために赤飯を炊き、外へ置いておいた。
翌朝には赤飯は綺麗にたいらげられていたという。
今は見かけられなくなったが、人々から恐れられた山犬にも、人の言葉や気持ちは伝わるのだという話。
………
「あら美玖、おかえり。シルフィーモンさんもいらっしゃい」
「ただいま。お母さん、おじいちゃんが呼んでた御眷属様の事なんだけど…」
美玖が尋ねると、葉子はああ、と声をあげた。
「おじいちゃんがいなくなっても、お赤飯、食べてくれたわ。お通夜から明けた朝に見たら、綺麗になくなっていたもの」
「足跡って新しく残ってる?」
「もちろんよ。くっきり残ってるわ」
勝手口を開けると、土の上に美玖が前に見たものより新しい足跡。
「…失礼」
一言告げると、シルフィーモンが勝手口を出て足跡を見た。
足跡は、犬のものにしても狼にしても大きすぎる。
かといって、熊にしては形も爪痕もまるで違う。
「…美玖、足跡から主のデジモンを検知はできるのか?」
「やってみる」
ツールのライトを当てると、足跡の輪郭はくっきりと浮かぶ。
しかし。
「…だめ、該当データがないって出るわ。多分、何のデジモンか検知するには他のデータが必要なのかも」
「そうか…私で試せるか?」
シルフィーモンが言うなり、土に自身の足を踏みしめて足跡を作った。
美玖が試しにシルフィーモンのつけた足跡にライトを照らす。
「…該当データ、有り!」
先程までは【NO DATA】と出たのに【DATA EXIST】という表記と共にワイヤーフレームで構築されたシルフィーモンの全身の3Dモデルが表示された。
「となると、直接そのデジモンのデータを収集する必要がありそうだな」
シルフィーモンが言いながら、土を足で慣らし自身の付けた足跡を消す。
葉子が不思議そうな顔で見ているのを、美玖は説明した。
「おじいちゃんを轢いた犯人がいるの」
「それを、御眷属様、とかいうものが追跡しているらしく美玖の祖父が轢かれた日にちを境に、ある獣型デジモンの目撃情報が相次いでいる。私達はそれについての詳しい情報も集めて欲しいと頼まれた」
「あら…そうなの…」
葉子は瞠目した。
「そう…そうね。おじいちゃんは御眷属様をとても大事にしていたんですもの。オオカミ様は恩に厚いなんて言ってたこともあったわ。……そう。御眷属様って、デジモンのことだったのね」
「誰も姿を見てない?おじいちゃん以外、誰も?」
「そうね。おじいちゃんは私にもお父さんにも誰にも見せたがらなかったわ。でも、お赤飯をあげに外へ出た時、怖くて低い声で誰かがおじいちゃんと話してるのは何度も聞いた」
シルフィーモンが尋ねる。
「具体的に何を話していたか覚えて…?」
葉子は思い出しながら続けた。
「確か…おじいちゃんが天気のことを言うと、おれは神の使いじゃないからわからない、とか。おじいちゃんが今日は塩気がよくきいてるぞ、って言えばもう少しない方が良い、って」
「塩気…お赤飯の?」
「そうみたい。濃いめにお塩を入れて出すの。身体に悪いんじゃないかって思うわ」
美玖も不思議げな顔になった。
赤飯に初めから塩を入れるなど初耳だ。
覚えている限り、いつも赤飯にはごま塩をかけるのが常である。
「私が警察学校に受かったってお祝いに炊いたお赤飯は…」
「もちろん、ごま塩かけて食べたわ。その後、外に出ていたおじいちゃんが、大喜びな顔で帰ってきて塩を入れたお赤飯をーー」
「!」
何者かの気配。
シルフィーモンがとっさに振り返る。
がさっ、と近くの茂みが揺れた。
「今のは…?」
「野うさぎかしら。最近暖かくなってきたから、近くの山から降りてきたのかも」
「………」
シルフィーモンは動いた茂みをじっと見ていたが。
やがて首を横に振った。
「探すしかないな」
……………
ーーー俺は腹が減っていた。
むしょうに、むしょうにひもじくて仕方なかった。
デジタルワールドからここへ彷徨い出て以来、腹の足しになるようなものに満足してありつけていない。
ゴミを漁ることも考えたが、人間どもに俺の姿は恐ろしく映るらしく、一度はそれで騒がれて逃げた。
…面倒だ。
デジタルワールドと人間の世界との取り決めで、俺達デジモンが人間に手を出すことは正当防衛以外は基本ご法度。
おかげでままならない。
が、都合の良い事にどうにか食いでのある獲物にありつけそうな場所へ来た。
人間からすれば恐ろしいらしいが、俺からすれば実に狩りやすいものばかり。
耳の長い小さい奴は捕まえづらいので、それよりもでかい奴を狙った。
一番食いでがあったのは黒い毛皮を着た一番大きな奴。
いくぶんかしぶといが、すぐ逃げないので却って楽な奴だ。
しかし、それでも気がつけば腹が減っている。
なぜだ。
骨までかじりきっても、なお満たされないまま。
……いや、原因は、わかっている。
俺達デジモンは普通、デジタルワールドのものしか食べない。
それ以外は、他のデジモンを殺して得るデータくらいだ。
それ以外のものの摂取に、身体が順応してないのだろう。
「……アア、腹ガ、減ッタ」
でかい奴(人間はそいつを熊と呼んでいた)の味にも飽きてきた。
なら、どうする?
俺の頭はそんな問いに答えられないまま、堂々巡りを繰り返していた。
そんな、ある昼のことだ。
俺は、人間が猪と呼ぶ獲物を追い回し、仕留めた。
だが、場所が人間の家から近い。
食ったらすぐに離れようと思った時だ。
「おお、これは、…御眷属様ですか!なんと喜ばしい!」
…なんだと?
ゴケンゾクサマ?
俺が振り返ると、一人の人間が顔を真っ赤にしながら俺の方へ歩いてくる。
その人間は十分俺を戸惑わせた。
これまで俺を見た時の人間の反応は決まって、逃げ出すかその場で腰を抜かすかのどちらかなのに。
「御眷属様がデジモンの姿でいらしてくれた…!」
なんだと?
「オマエ…俺ニ何ノ用ダ?」
「申し訳ない。私は五十嵐春信と言いまして…あああ、御眷属様がデジモンの姿で現れたと知ったら、美玖が驚いたろうに…!」
名前はどうでもいい。
正直に訳がわからない。
「御眷属様、ここへおいでになられたのも何かの御縁。お赤飯を召し上がられては?」
……セキハン、とはなんだ?
人間の説明を聞くところ、どうやら食べ物のようだが。
「ちょうど、孫娘が警察学校に受かりまして、その祝いに娘が赤飯を炊いたのですよ。持って参りますので、お待ちを」
どうでもいい。
腹が満たせるなら、早くしろ。
そうして人間が持ってきたのは、豆の入った赤い飯。
俺は困惑の眼差しを向けたが、人間はにこにこと笑うばかり。
ええい、くそ。
毒入りだろうが俺達デジモンが人間の仕込む毒なんぞでそうそう死ぬものか。
「はぐ…はぐっ、はぐっ…んぐ…」
飯はしょっぱかった。
とりわけ美味い、というものでもなかった。
が。
(何ダ…コノ、満タサレタモノハ)
なぜか、不思議と腹が満たされるものを覚えた。
見た目は、豆を入れただけの赤い飯なのに。
「如何ですか、御眷属様。少し多めにですが、御眷属様の好きなお塩を入れておりまして」
そう人間は言いながら、俺に向かって両手を叩いて拝んだ。
正直変な人間だと思ったが、腹の足しがマシになった事を思えば無視はできん。
「…腹ノ足シニハナッタ」
そう一言だけ言って去ろうとした俺の後ろからそいつは
「週に一度。ここへおいで下され。赤飯を必ず用意して、待っております」
……それ以来、俺はその人間と会うようになった。
人間は俺に赤飯の塩加減がどうか聞いてきたり、やたら世間話をするなど変わった奴だった。
気がつけば、8年。
8年もそいつに付き合ってしまった。
だが、それだけの年月の間、俺は人間から色々と話を聞いた。
人間がよく話すのは、自分の"孫娘"のことだった。
俺には何のことだかわからんが、人間には血のつながりというものがあるらしい。
「美玖が貴方様を見たらきっと喜びます」
「あの子はデジモンが、それはそれは大好きな子でしたので」
「あの子の子どもの頃を思い出します。毎日、空を飛ぶデジモンを見ては私の腕を引っ張り一緒に眺めに行ったものです」
それから、あっという間だった。
残酷なまでに、あっという間だった。