ーーー5年前、某県E地区警察署襲撃事件から一週間後
暗く冷たい世界。
そこには陽の暖かな日差しはなく。
そこには暖かな思いやりを持つ隣人はいない。
闇の世界、冥府。
ダークエリア。
そこは弱肉強食の世界。
そこは光を嫌ってなお静けさでは満たされないデジモンどもの領域。
その一角で、一体のデジモンが佇んでいた。
デジモンの目前に、大きな時空の歪みが見える。
まるで旧式テレビの砂嵐のようにそこは耳障りなノイズを絶え間なく垂れ流していた。
「ーー奴め、リアルワールドへ…」
ぎりりっ、と歯軋りをたてる。
「すでに血は流れた。時間の問題だ」
ばさり…と大きな鳥の翼が広がる。
かつん、かつんと空虚の空間を踏みしめながら、デジモンの身体をデータの粒子が包み込んだ。
「ロイヤルナイツらに知らせる時間も惜しい。ましてやリアルワールドの問題ではあるが、デジタルワールドの問題となるまでに彼らが動く保証もない。不本意だが、この手で」
データの粒子がデジモンの全身を包み込み、圧縮させていく。
「まさか、この権能を私自身に用いることになろうとは。だがこれしか他に、ダークエリアからリアルワールドへ私自身を顕現させる手立てはない」
その間、この世界の管理は手薄になるが。
そう呟くのを最後に、デジモンはある形へと変わる。
データの粒子は殻のように固まり、丸みを帯びたシルエットへ自らを整えながら歪みの向こうへと消えた。
ーーーー
午後14時。
穏やかな空間に電話が鳴り響く。
受話器を取り、美玖は応対した。
「お電話ありがとうございます。こちらは五十嵐探偵所です。御用件をどうぞ」
『……お久しぶりですね、五十嵐美玖さん』
受話器の向こうから聞こえたのは、穏やかで優しげだが厳格さの伴う老婦人のそれだった。
「…!三澤警察庁長官!?」
椅子を跳ね上げる勢いで美玖は立ち上がった。
『五十嵐さん、先日の殺人事件調査の一件は此方の耳に入ってきておりました。見事だった、と』
受話器の向こうにいる女性の名は三澤恵子。
もうじき60という御歳であるが今なお現役を張る、警察庁においての最高指揮官の一人。
政治家三澤幾三の娘であり、その見かけの柔和さとは裏腹に辣腕と負けん気の激しい事で知られる烈女。
「お久しぶりです。5年前は…その節はお世話になりました。三澤警察庁長官のおかげで、今こうして再び仕事を見つけて励んでおります」
ふふ…と受話器の向こうで笑みが聞こえ、そしてその声音はより一層厳格なものに変わった。
『あなたの調査での貢献ぶりを見込み、私からあなたへ依頼を申し込みたいのですが…よろしくて?』
「依頼…」
『エジプト大使館から報せが入りました。エジプトの考古学の権威の一人が、消息を絶った』
美玖は瞬きした。
「エジプトから?」
『名前は立石晴彦、ニュースでご存知でしょう?ピラミッドでデジタマを発見し、その研究をしている考古学者ですよ』
美玖は新聞の記事を思い出した。
「はい。発掘で新たに発見された石室からデジタマを発見したと…その人が?」
『デジタマそのものも消えた事は、エジプト政府にとっても大事です。しかし、デジモンが関わっている可能性が濃厚であるため、人間だけで動くには力不足。そこで、あなたを推薦し、派遣しようという話になったのです。デジモンを所属においているのは、あなたくらいでしたし』
「…お引き受けします」
美玖は答えた。
デジモンを所属におく警察署はあるにはあるが、三澤の意図によりデジモンの力を借りての調査や公務執行に制限が設けられている。
何故彼女がそうしたか、理由を美玖は知っている。
『ありがとう、五十嵐さん。旅費は此方で全額負担しますわ』
「出発は明後日以内を予定します」
シルフィーモンは今、買い出しで外出中だ。
戻ってきたら、伝えようと美玖はメモに記す。
『……五十嵐さん』
「はい」
『わかっているとは思いますが』
ピリッとした空気に全身が硬くなる。
『良いですか。デジモンは非常に危険な生き物。信じるなとは言いませんが、気を許してはいけませんよ』
美玖は静かに目を閉じた。
『彼らがどんな存在であるのか、あなた自身、身を以てわかっているはず。あなたの助手は大変優秀なデジモンのようですが、所詮は人間と相互理解のできないモノ。その意識は常に保ちなさい。……いいですね?』
5年前。
当時三澤は被害者たる警察官のアフターケアに奔走した。
美玖や当時は巡査だった阿部も含む生き残りの警察官の多くがトラウマを抱えていた中で肉体的、精神的どちらもの介護の支援に三澤は心を砕き尽力していた。
『夢はいつか覚めるものです。その自覚はきちんと持ちなさい』
「…はい」
『では、エジプト大使館には話を通しておきます。現地に着いたら連絡をお願いします』
通話を終え、受話器を置きながら美玖は一人項垂れる。
三澤は彼女にとって恩人だ。
それゆえに、言葉が強く美玖の心に突き刺さる。
「…三澤警察庁長官……でも、私、は…」
喉がカラカラになるのを覚えながら、帰ってきたシルフィーモンに声をかけられるまで美玖はそうしていた。
こちら五十嵐電脳探偵所
第四話 謎のデジタマを追え
初めてのカイロに降り立つも、観光気分とはいかなかった。
「三澤警察庁長官、五十嵐です。只今、エジプト航空に着きました」
『ありがとう、五十嵐さん。エジプト政府からエージェントが迎えに来ているはずです。頑張ってくださいな』
「はい」
三澤への連絡を終え、美玖は携帯電話を懐にしまう。
美玖にとって、大きな都市を見るのは初めてだったが彼女とシルフィーモンが空港へ到着してすぐ一人の人物が出迎えた。
「あんたがミス・イガラシか?エジプト大使館から迎えに来たアラン・K・ミーガンだ。よろしく」
「よろしくお願いします、アランさん」
エジプト大使館に務めるエージェント・アランは一言で例えるなら危険な男だった。
ラテン系の血が入っているのだろう、雰囲気に浅黒い肌、彫りの深く目鼻の通りの良い顔立ちにしなやかな身体。
そのどれもが色香を放っていて、美玖は少しばかり気後れした。
ハリウッド映画俳優かセレブにいてもなんら違和感はない。
「シルフィーモンだ」
「ああ、よろしく」
握手を済ませ、美玖とシルフィーモンはアランの車に乗り込んだ。
白色のボディにスライド式のサンルーフが取り付けられたごく普通の軽自動車。
車体には自動車産業でも著名の日本の会社の名前。
少し古い年代の車種のようだ。
シルフィーモンには少しばかり窮屈だがそこは我慢だとアランは苦笑いを浮かべる。
「デジモンも乗るならワゴンでも用意するべきだったんだろうが…これしかなくてな」
「いや、お構いなく」
「そうかい。文句垂れられてもおかしくないんだが…何かあれば遠慮なく言ってくれ」
雑談を交わしつつ、アランはハンドルを手に大使館へと向かった。
ーーー
「失礼します」
白い建物の中へ通され、美玖は部屋で待つ人物に一礼した。
「よく来られた、五十嵐探偵所長、デジモンのシルフィーモン。私は在エジプト外交官の毛利だ」
「初めまして、よろしくお願いします」
毛利外交官から依頼の概要を聞く。
「デジタマの所在及び教授の身元の捜索をお願いしたい」
「こちらも三澤警察庁長官からお話は伺っております。協力致しましょう」
「ありがとう。実はもう一つ懸念している事がある。こちらは日本政府へ連絡の際必要はなしという判断から話さなかったが…」
毛利外交官は少し物憂げな表情になりながら、続けた。
「立石教授が失踪し、デジタマの所在が不明した頃に前後して今このカイロは化け物の噂で広がっている」
「化け物?」
怪訝な表情で美玖がオウム返す。
「毎晩に渡り化け物が徘徊しているとカイロ中で噂になっているのだ。行方不明者も出ている」
「行方不明者?すでに実害が出ているならなぜ噂のままにしているんだ?」
シルフィーモンの言葉に毛利外交官は俯く。
「事を表わにすれば混乱が起きる。その防止と思っていただければ」
「此方も捜査しようにもままならなくてね。気苦しいがその背景も呑んでもらいたい」
シルフィーモンのその納得のいかぬ面持ちにアランが口を聞く。
「エジプト政府はまだデジモン絡みの事象を解決できなくてな。今回以前から山積みの問題ばかり抱えている程に。対抗策となるデジモンの力を借りたくともこっちに移住しているデジモンの数は少ない。そういう意味でも力をお借りしたいって話だ」
「…なるほど。全面的に納得したわけではないが、わかった」
シルフィーモンは渋々ながら頷いた。
ーー
「カイロでの化け物の噂…」
「デジモンの仕業だろうが、政府が動けないとはな…」
ホテルで昼食を摂りながら美玖とシルフィーモンは調査の予定を話し合っていた。
「立石教授が失踪したと確認がとれたのは1週間前。現場発掘と調査は同じ大学の長野助教授が引き継いでいると」
「ひとまずその化け物の噂を調査もしてみようか。デジタマと何らかの関係性もあるかもしれないからな」
「そうですね。…けれど、デジタマが人間の世界で、遺跡から発掘されるなんて事があるのですか?」
美玖の疑問にシルフィーモンは唸る。
「私も初耳なんだ。デジタマが人間世界になぜ…」
シルフィーモンは言いながら紅茶を口にする。
独特の香りがするフレーバーで、美玖も初めて口にする代物だ。
日本人が口にするには癖があるが、香り高さからして良質な茶葉が使われているのだろう。
人間と違い"ちぐはぐ"な味覚をしている事の多いデジモンからしてはウケは良いようで、シルフィーモンはこれで四杯目のおかわりだ。
「普通、デジタマはデジタルワールドのファイル島にあるはじまりの町に保管される。それが人間世界にあるなど、ありえないはずなんだ。デジモンか、デジタルワールドの安寧を保つ機構ホメオスタシスのエージェントを始めとしたデジタルワールドに関わる者の手によるものか」
「デジタマの件も含めて、まず立石教授と同じ調査チームである長野助教授の元へお邪魔した方が良いでしょうね」
「そうだな」
ホテルはとても広く、手配された部屋も綺麗に整えられている。
ベランダから見えるカイロの風景は非常に見晴らしが良い。
依頼でなければゆっくり観光したかったと美玖は思うのだった。
ーー
ホテルのラウンジを出てすぐ、美玖は向かい側から飛び出してきた人物に危うくぶつかりかけた。
「きゃっ」
「おっと…」
相手は40歳ほどの白人男性。
髪型から黒のスーツに革靴と身綺麗に整えられている。
「大丈夫か、美玖」
ラウンジで受付とのやりとりを済ませてきたシルフィーモンが追いついた。
「すみません、大丈夫でしたか?」
手ぶりでシルフィーモンに応えた後、美玖は男性に詫びる。
男性も涼しい顔をしながら、何処か意味深い笑みで返した。
「此方こそ急いでいたものでして申し訳ない。失礼します」
その直後、男は小声で言葉を紡ぎながら、美玖とシルフィーモンを見やりつつ立ち去る。
シルフィーモンはその一連に不可解なものを覚えた。
彼の耳は、確かにその言葉を捉えていた。
「……幸運を」
意味ありげな笑みをより深く口元に浮かばせながら、男は美玖と自身を見たのである。
それに美玖は気づかない。
「シルフィーモン?どうしたの…?」
「……そこで待っててくれ」
「え?」
シルフィーモンは美玖に一言言うと、ロビーへ向かった男の後を追った。
しかし。
「…どこへ…」
広いロビーには視界を遮るものはほとんどない。
だが、そこに男の姿はなく、シルフィーモンは困惑する事となった。
ーー
「何か忘れ物でも?」
戻ってくると、アランがやってきている。
そのまま美玖と談笑していたようだ。
「すまない、気になる事があったがどうやらこちらの気のせいだったようだ」
「合流したところで早速ナガノ助教授の研究室に行くとしよう。ギザのカイロ大学にある。引き続き窮屈な車の中ですまないが勘弁してくれ」
ーーー
太陽を反射し煌めく美しいブルーの水面。
カイロの街並みの中、ひときわ大きな流れで揺蕩うナイル川。
それを見下ろす影がある。
それはかなり大きな影だったが、紛れもなくデジモンのものだった。
「…ここにいたか」
そのデジモンの元へ、別のデジモンが姿を見せる。
あまりにも速く、人間の目では捉えることも難しい。
「まだあれは見つからぬか」
「此方がエジプト政府との交渉を持ち掛けようとした矢先に間の悪い…」
そうやりとりを返しながら、揃ってナイルの流れを見下ろす。
人類史において非常に長い時間と共に人間の暮らしに恵みと脅威を与え続けてきたこの大河は、彼らの目にどう映っているのか。
「他の者は?」
「ダークエリアからこの街に出没しているデジモンの対処に回っているが、数が多すぎる。管理者の存在が不可欠であるというのに、なんと怠慢な」
「まずは所在を突き止め、理由を問うしかあるまいよ。……私は先に動こう」
クールホワイトに輝く姿は、そう言い残してたちどころに飛び去る。
その速さはたった今来たばかりのデジモンを凌駕しかねない。
それを見届け、残された方のデジモンは呟いた。
「ダークエリアの管理者よ。なぜお前はこの世界へ下りた?それほどに急を要する事態が起きつつあるというのか……」
ーーー
「ナガノ助教授の研究室はこちらです」
「ありがとう」
職員に案内される二人と一体。
そこで、美玖はある事に気づき、鍵を開けようとした職員を止めた。
「すみません、少し良いですか」
「…はい?」
戸惑う職員を前に、美玖は注意深く取っ手と鍵穴の周囲を見る。
細かな引っかき傷のような痕跡がある。
警察官であった美玖にはあまりにも見覚えのあるもの。
アランも気づいたようで、取っ手に触れた。
「…開いている。誰かが中に入っていたようだな」
「まさか」
血の気が失せた顔の職員に一礼し、アランを先頭に美玖、シルフィーモンも入った。
この日、長野助教授は研究室を空けており、一度も戻ってきてなければ誰かが入れて欲しいと申し出があるのも美玖達以前に誰もいない。
研究室の中は荒らされていた。
「これはまた酷いな」
「でも一体、誰が…」
本棚からあらゆる研究本と資料が落とされ、引き出しという引き出しが全て開けられて中を乱雑に掻き回されている。
「不審な物音の届け出はなかったのですか?」
「いいえ」
「となると、これは手慣れてるな奴さんは」
美玖がツールのライトを起動した。
つぶさに研究室の中をライトで照らして回る。
しかし。
「……デジモンの痕跡はないようですね。ですが、靴跡が複数人分あります」
「ナガノ助教授と連絡は?」
アランが職員に尋ねる。
「先程電話はしたのですが、生憎留守のようです。掛け直しを検討します」
「頼んだよ」
シルフィーモンは床に落ちた一枚の写真を見つけた。
拾いあげ、そこに写るものを見た。
「これがそのデジタマか?」
遺跡から発掘されたばかりの所を撮影したものだろう。
日付は三週間前。
一緒に写っている人間と比較するとボウリングの球をひと回り大きくしたような、大きな卵がそこに写っている。
殻は白地に黄土色と紫の幾何学模様が描かれていた。
とてもではないが、自然界にある動物の卵に近いものだと言われても信じる者はそういないだろう。
大きなイースターエッグの模型と思われてもおかしくない。
「これがデジタマ…」
気づいた美玖が横から覗き込んだ。
シルフィーモンが写真を渡すと、美玖は記憶にある新聞の写真と比較する。
記事が載っていた写真は撮られた時期が異なるものだったが、特徴的な模様からして同じものに間違いない。
「今は、このデジタマも立石教授の身元同様行方がわかっていない…」
「しかも、こうして場所が荒らされているとなれば、まずい事になっているのかもしれないな」
侵入者の痕跡は靴跡の他はない。
目ぼしい成果もなく、美玖達はアランの車へと乗り込んだ。
「先程掛け直しをした職員から、ナガノ助教授への連絡がないと言われたよ。こちらから出向くしかないようだな」
シートベルトを締めながらアランは助手席の美玖を振り返る。
「ナガノ助教授はタテイシ教授と一軒の家を共有で過ごしている。そこへ向かうか?日を改めても良い」
美玖は時計を確認した。
時刻はもうじき夜も更ける頃で、周囲は暗い。
それにかぶりを振ったのはシルフィーモンだ。
「いや…こういう時は夜中の方が何かと都合が良い。普段は昼間の光を嫌う奴らが活発になるからな。糸口が掴めるだろう」
「変わった理由だが…まあ良い。ミス・イガラシもそれで良いか?」
「……行きましょう。私も嫌な予感がします」
ーー
移動に使われた時間は一時間半。
ナイル川を一望しつつギザからカイロへ戻る。
カイロの南方面、かつては古代エジプトの都市メンフィスがあった場所からほど近い位置に立石教授達が借りている家があるはずだ。
夜のカイロは昼間に見たそれとは景色が一変し、車のライトの連なりやビルの灯りが美しく映える。
車から出てすぐ、あまりの寒さに美玖は持参してきていたカーディガンを羽織った。
教授達の家は白壁に軽薄なオレンジ色の屋根があり、余分な物は置かれていない。
ガレージがあるが、もぬけの殻だ。
「長野助教授は……」
ドアの前まで来て、美玖はすぐに錠前にライトを照らす。
錠前にそれとわかる傷痕。
ピッキングがされた証拠だ。
「…こちらも研究室と同じ!既に手が回ってる…!」
「だとしたら、…お邪魔するぜ!」
家の中も研究室ほどではないが、酷い荒れようになっている。
ツールのライトが炙り出した靴跡は、長野助教授の研究室で見つけたものと同じだ。
ライトを手に家中に入り、美玖は手近の机を探し始めた。
「何か手がかりがあれば…」
アランも頷き、美玖が探すものとは別の机を探りだす。
「デジタマもタテイシ教授も、そして今ナガノ助教授もなぜ行方知らずなのかその訳もわからないんじゃ仕様がないしな!」
シルフィーモンも手伝いに入り、紙の山とメモを漁る。
しかし、どれ一つとして調査の要点や参考書の取り寄せ、領収証と関連が薄い。
「これは…発掘現場の進捗を記したもの…こちらは…」
「ダメだ、これだけ大量の紙が散らばっていると探しづらい。シルフィーモン、あんたの方はどうだ」
アランの問いにシルフィーモンは首を横に振りかけ…そこで、遮るように二人を手で制した。
「どうし…」
「静かに。音が聞こえる」
静かな夜更けの中。
二人の耳は、シルフィーモンよりはるかに遅れてその音を拾い上げた。
ブロロロロロロロロロロロロ………
(車の音?)
シルフィーモンが目配せし、頷き返したアランが美玖の腕を引き窓の側へ隠れる。
車の音は近づき、やがてエンジンをふかしながら家の近くで止まった。
複数人の降りる気配。
美玖の耳に、幾らか聞き覚えのあるイントネーションの言葉が聞こえた。
英語ではなく、エジプトで共用語として使われるアラビア語でもない。
(……中国語?)
一人、大きく声を張り上げた男の声があり、足音が近づいてくる。
「相手は?」
「四人だ。そのうち二人がこちらにやって来る。どちらも武器は持っているようだな」
「面倒だねえ」
外の様子を窺うシルフィーモンの言葉に、アランは肩をすくめた。
「ナガノ助教授の研究室を荒らした奴だと思うか?」
「…私は違うと思います。ひとまず、身を隠さないと」
「身を隠す……美玖、前に使った偽装(クローク)のコマンドは使えないか?」
シルフィーモンの言葉に美玖は指輪型デバイスをさする。
「…使えます」
緑の光と、0と1の数字で構築されたテクスチャが二人と一体を覆う。
ステルス迷彩が如く、周囲と溶け込むように姿が消えた。
「へえ、便利だな」
「でも、気をつけてください。これはーー」
美玖が説明しようとしたその時。
玄関、目と鼻の先の距離から二人の男の声が聞こえた。
「くっ、既に先を越されたか。鍵が壊されている」
「ともかくデジタマと立石教授に関わりのある物を探せ!持ち去った奴らに関係する手がかりも!」
二手に分かれ、男達も美玖達が既に探した後を探し始める。
どうしたものか。
美玖は自身達に近い机を探す男の後ろ姿を見ていた。
暗い中で顔まではわからないが、頭髪の色や肌色からして東洋人とわかる。
そして、話し声で再度確認がとれた事により、美玖には男達が中国語、それも共通語として使われたものではなく数ある方言のうち広東語で話しているものとわかった。
(この人達は一体…デジタマと立石教授を探している…?)
シルフィーモンとアランの位置は、彼らを覆う緑のテクスチャでわかる。
どうやら同じ偽装をした者同士でなら視認は可能のようだ。
男はしばらく机を漁っていたようだが、何かに気づいたらしい。
「これは!」
美玖が脇から見ると、男が開けた引き出しの奥にはハードカバー表紙の大きなノート。
(…日記かもしれない、なら)
足を忍ばせ、男の側へ近寄る。
そして、男がノートを手に取ろうとしたその瞬間、横から手早く取りあげた。
「!?」
その瞬間、アランが動いた。
美玖と男の間へ割って入るや、拳で男の頬を力強く殴りつける。
「アランさ……!」
あっ、と自身の口を押さえた時にはもう遅い。
複数人に張る分脆くなる性質により、テクスチャは彼女からも剥がれ落ちていく。
殴られた男が顔を押さえながら、もう一人のいる隣の部屋へ叫んだ。
「くそ!不意打ちだ、助けてくれ!」
全力疾走で近づく足音。
駆けつけた男と二人、腰から外すは警棒のようなもの。
テクスチャが剥がれた美玖とアランに対して、二人が襲いかかる。
一人をアランが持ち手を押さえて投げ飛ばす。
もう一人も、身を守ろうと反応が遅れた美玖に容赦なく棒を突き出した。
バチィイ!!
ただの警棒ではなく、スタンガンと同様の構造を内包したスタンロッドだ。
スタンロッドの電流が迸り、一瞬だけ昼間のように眩く。
「シルフィーモン!」
美玖の目の前にはシルフィーモン。
美玖を庇いスタンロッドの先端を身体に受けた事で、彼にかけられたテクスチャが剥がれ落ちた。
「く…」
シルフィーモンがくずおれる。
(これは…)
全身に感じる硬直感。
美玖の麻痺光線を受けた時に近い感覚。
「おい、車まで逃げるぞ!」
「シルフィーモン!」
「…少し身動きが取りづらいが私に構うな!」
拳銃を抜いた一人に気づき彼は叫んだ。
「走れ!!」
切迫した声にアランと美玖は走る。
シルフィーモンも二人の後方から続いて、どうにか自由の利く脚を引きずるように、二人が出た勝手口へと走った。
「…おい、今の見たか?」
スタンロッドを手にガタガタと一人が震えた。
「女を殴ったと思ったら何もないところから突然デジモンが現れるとか聞いてないぞ。何がどうなってる?」
拳銃を抜いた方の男が怒声をあげる。
「バカかお前は!デジモン用にモードを切り替えられなかったとはいえ、あのデジモン、身動きが取りづらくなっている。お前は楊さんに知らせて来い!予定は狂うが、あのデジモンの確保も視野に入れる!」
「りょ、了解!」
スタンロッドの男は踵を返し、大慌てでドアから外に出る。
それを見届けて拳銃を持った男が勝手口から飛び出した。
車に向かって走る美玖とアラン、その二人の後ろからよろけるように走るシルフィーモンの背中へ乱射を仕掛けてきた。
シルフィーモンの脚を幾度となく銃弾が掠める。
完全体デジモンともなれば決して大したダメージにはならないし、元より二人への射線を遮る意図で後方を走る事を選択した彼だが。
(意図的に私を狙うか!)
「シルフィーモン!乗って!!」
美玖が後部座席に先んじて入り、彼を呼ぶ。
間一髪、頭を低くしながら搭乗し、ドアが閉まったのを合図に発車した。
ドアに火花が散る。
「大丈夫!?」
「心配ない、脚を少し撃たれただけだ」
応えるシルフィーモン。
美玖は、指輪型デバイスを彼の脚部に向けた。
「……修復(リペア)コマンド、起動」
指輪の水晶体からシルフィーモンの鳥の脚へ目に優しいミントグリーンの光が照射される。
続けて、今度は先程スタンロッドを受けた脇腹へ。
「……さっきまで痺れていたのがだいぶ良くなった。ありがとう」
「それより奴さん追ってきたぞ!」
バックミラーに映る車を視認し、アランが声を出す。
後方から聞こえる銃声、少し遅れて窓にほど近い部位から火花が散る。
「きゃっ…!」
小さく悲鳴をあげる美玖をシルフィーモンが抱き寄せる。
「弾に当たらないよう屈んでろ!少し飛ばすが舌も噛むなよ」
ギギィィィィィイイイイイイッ!!!
タイヤが力強く回り、グウっと二人と一体の身体に軽く重力がかかった。
後ろから追う車も、一人が身を乗り出して発砲するに任せて爆発的な速度で迫る。
ギィィィィィィィイイイイイイッ!!
ギギィィィギギィイイイイイイッ!!!
留まる車の少ない道路を猛スピードで走る二台。
夜間に忙しく音が響く。
時速70キロを軽く超えたスピードと手荒な運転に激しく揺れる車内で、美玖は片腕にハードカバーのノートをしっかりと抱きしめた。
激しい攻防を繰り広げながら、後方を走っていた車はアランの車に追いつき並走する。
「お前達は何者だ!立石教授とデジタマはどうした!?」
助手席にいる男が英語で問い叫ぶ。
この男がどうやら統率を纏めているようだ。
周りの者も含め、全員東洋人である。
「教える奴がいるかよ!立石教授とデジタマがどこに行ったかなんてのも俺達だって知りたい」
ハンドルを切りながらアランが憎まれ口で返しに出た。
「どのみち我々の邪魔だ。消されたくなければ、そこのデジモンを我々に寄越せ。それでなかった事にしてやろう」
「……なんですって?」
美玖はカッと血の気が上るのを感じた。
「あなた達、デジタマや立石教授が目的のようだけどシルフィーモンをどうするつもりなの?」
「知る必要はない、女。命が惜しければとっとと…」
「ふざけないで!!」
美玖は猛然とシルフィーモンの腕から乗り出して叫び返す。
「美玖!」
「まるでデジモンを道具のような言い方もだけど、信頼も信用も、貴方達よりも彼の方が上よ…!信用できない要望に応えるつもりは毛頭ないわ!!」
「…なら、始末してやる」
シルフィーモンが美玖を抱え直した。
美玖が乗り出しかけた位置に散る火花。
アランが口笛を吹く。
「正直ヒヤヒヤしてるが良い啖呵だ!良いね、シルフィーモン。可愛い所長さんにすっかり愛されてるじゃないか。羨ましい!」
「冗談を言ってる暇はないぞアラン!全くーー」
呆れて言い返しかけたシルフィーモン、だが。
「…!」
突如、彼の背筋が凍りついた。
周囲の空気のせいだ。
アランも、美玖も、異変に気づいた。
「おい、なんだ、このーー」
「凄く嫌なものが…シルフィーモン、これって…」
「…これは」
シルフィーモンの顔を汗が伝い落ちる。
知っている、この寒々とした空気。
知っている…この気配を。
「これは…この、闇の気配は!」
その時である。
シルフィーモンに抱きかかえられながら、車窓の外を見た美玖が悲鳴をあげたのは。
「おい、今度はなんだ!」
「デ、デジモンです!それも……かなりの数が!!」
「な…んだと…!?」
アランも横を見て、愕然とした。
街の隙間から現れる白い影。
一体や十体ではとてもじゃない。
数十…いや、数百。
黒い三角帽子を被った白い布のようなものが、街の至る所から現れた。
瞬く間の出来事で、それらがアランと謎の追跡者達の車にも迫ってくる。
「あ、あれは…!」
美玖がシルフィーモンの腕を抜け出し、後方へツールのカメラを向ける。
『ソウルモン。成熟期。ゴースト型。ウイルス種。呪われたウィルスプログラムで構成されたゴースト型デジモン。ファンタジーに登場する魔法使いのデータを取り込んだバケモンで、黒い帽子のおかげで魔力がアップしている。そのため……』
「間違いない、あれはダークエリアからの者達だ!」
「えっ!?」
シルフィーモンの声に美玖は振り返る。
「どういうこと!?」
「あのソウルモン達はダークエリアから出てきているんだ!この空気は、闇のデジモン達の領域であるダークエリアのもの。だが、なぜーー!」
その疑問に答えられる者は誰もいない。
一方、追跡者達の方も混乱に陥っていた。
車は大きく蛇行し、アランの車との車間距離も離れていく。
「今のうちに彼らから逃げた方が良いだろう。最も、この数からは…」
そう呟くシルフィーモンの脇で、美玖は後方からあの男の叫びを聞いた。
「くそっ!なんだ、あの怪物は!!」
運転手、そして二人の武装した者の声にならない悲鳴。
美玖が後ろを見ると、有翼に四つ足歩行の骨だけの身体を持つ巨大なデジモンが武装した一人を咥えて車から引きずり出すところだった。
「なっ…!?」
なす術もなく口から放り出された男はソウルモン達の絨毯に呑まれたちまち姿が見えなくなる。
車も巨大なデジモンの前脚に跳ね飛ばされ、激しく横転を繰り返しながら近くの建物の壁に激突した。
「あ、あの骨だけの身体のデジモンは…」
「あれはスカルバルキモン!本来はダークエリアのデジモンではない!」