ーーー5年前、某県E地区警察署襲撃事件から一週間後
暗く冷たい世界。
そこには陽の暖かな日差しはなく。
そこには暖かな思いやりを持つ隣人はいない。
闇の世界、冥府。
ダークエリア。
そこは弱肉強食の世界。
そこは光を嫌ってなお静けさでは満たされないデジモンどもの領域。
その一角で、一体のデジモンが佇んでいた。
デジモンの目前に、大きな時空の歪みが見える。
まるで旧式テレビの砂嵐のようにそこは耳障りなノイズを絶え間なく垂れ流していた。
「ーー奴め、リアルワールドへ…」
ぎりりっ、と歯軋りをたてる。
「すでに血は流れた。時間の問題だ」
ばさり…と大きな鳥の翼が広がる。
かつん、かつんと空虚の空間を踏みしめながら、デジモンの身体をデータの粒子が包み込んだ。
「ロイヤルナイツらに知らせる時間も惜しい。ましてやリアルワールドの問題ではあるが、デジタルワールドの問題となるまでに彼らが動く保証もない。不本意だが、この手で」
データの粒子がデジモンの全身を包み込み、圧縮させていく。
「まさか、この権能を私自身に用いることになろうとは。だがこれしか他に、ダークエリアからリアルワールドへ私自身を顕現させる手立てはない」
その間、この世界の管理は手薄になるが。
そう呟くのを最後に、デジモンはある形へと変わる。
データの粒子は殻のように固まり、丸みを帯びたシルエットへ自らを整えながら歪みの向こうへと消えた。
ーーーー
午後14時。
穏やかな空間に電話が鳴り響く。
受話器を取り、美玖は応対した。
「お電話ありがとうございます。こちらは五十嵐探偵所です。御用件をどうぞ」
『……お久しぶりですね、五十嵐美玖さん』
受話器の向こうから聞こえたのは、穏やかで優しげだが厳格さの伴う老婦人のそれだった。
「…!三澤警察庁長官!?」
椅子を跳ね上げる勢いで美玖は立ち上がった。
『五十嵐さん、先日の殺人事件調査の一件は此方の耳に入ってきておりました。見事だった、と』
受話器の向こうにいる女性の名は三澤恵子。
もうじき60という御歳であるが今なお現役を張る、警察庁においての最高指揮官の一人。
政治家三澤幾三の娘であり、その見かけの柔和さとは裏腹に辣腕と負けん気の激しい事で知られる烈女。
「お久しぶりです。5年前は…その節はお世話になりました。三澤警察庁長官のおかげで、今こうして再び仕事を見つけて励んでおります」
ふふ…と受話器の向こうで笑みが聞こえ、そしてその声音はより一層厳格なものに変わった。
『あなたの調査での貢献ぶりを見込み、私からあなたへ依頼を申し込みたいのですが…よろしくて?』
「依頼…」
『エジプト大使館から報せが入りました。エジプトの考古学の権威の一人が、消息を絶った』
美玖は瞬きした。
「エジプトから?」
『名前は立石晴彦、ニュースでご存知でしょう?ピラミッドでデジタマを発見し、その研究をしている考古学者ですよ』
美玖は新聞の記事を思い出した。
「はい。発掘で新たに発見された石室からデジタマを発見したと…その人が?」
『デジタマそのものも消えた事は、エジプト政府にとっても大事です。しかし、デジモンが関わっている可能性が濃厚であるため、人間だけで動くには力不足。そこで、あなたを推薦し、派遣しようという話になったのです。デジモンを所属においているのは、あなたくらいでしたし』
「…お引き受けします」
美玖は答えた。
デジモンを所属におく警察署はあるにはあるが、三澤の意図によりデジモンの力を借りての調査や公務執行に制限が設けられている。
何故彼女がそうしたか、理由を美玖は知っている。
『ありがとう、五十嵐さん。旅費は此方で全額負担しますわ』
「出発は明後日以内を予定します」
シルフィーモンは今、買い出しで外出中だ。
戻ってきたら、伝えようと美玖はメモに記す。
『……五十嵐さん』
「はい」
『わかっているとは思いますが』
ピリッとした空気に全身が硬くなる。
『良いですか。デジモンは非常に危険な生き物。信じるなとは言いませんが、気を許してはいけませんよ』
美玖は静かに目を閉じた。
『彼らがどんな存在であるのか、あなた自身、身を以てわかっているはず。あなたの助手は大変優秀なデジモンのようですが、所詮は人間と相互理解のできないモノ。その意識は常に保ちなさい。……いいですね?』
5年前。
当時三澤は被害者たる警察官のアフターケアに奔走した。
美玖や当時は巡査だった阿部も含む生き残りの警察官の多くがトラウマを抱えていた中で肉体的、精神的どちらもの介護の支援に三澤は心を砕き尽力していた。
『夢はいつか覚めるものです。その自覚はきちんと持ちなさい』
「…はい」
『では、エジプト大使館には話を通しておきます。現地に着いたら連絡をお願いします』
通話を終え、受話器を置きながら美玖は一人項垂れる。
三澤は彼女にとって恩人だ。
それゆえに、言葉が強く美玖の心に突き刺さる。
「…三澤警察庁長官……でも、私、は…」
喉がカラカラになるのを覚えながら、帰ってきたシルフィーモンに声をかけられるまで美玖はそうしていた。
こちら五十嵐電脳探偵所
第四話 謎のデジタマを追え
初めてのカイロに降り立つも、観光気分とはいかなかった。
「三澤警察庁長官、五十嵐です。只今、エジプト航空に着きました」
『ありがとう、五十嵐さん。エジプト政府からエージェントが迎えに来ているはずです。頑張ってくださいな』
「はい」
三澤への連絡を終え、美玖は携帯電話を懐にしまう。
美玖にとって、大きな都市を見るのは初めてだったが彼女とシルフィーモンが空港へ到着してすぐ一人の人物が出迎えた。
「あんたがミス・イガラシか?エジプト大使館から迎えに来たアラン・K・ミーガンだ。よろしく」
「よろしくお願いします、アランさん」
エジプト大使館に務めるエージェント・アランは一言で例えるなら危険な男だった。
ラテン系の血が入っているのだろう、雰囲気に浅黒い肌、彫りの深く目鼻の通りの良い顔立ちにしなやかな身体。
そのどれもが色香を放っていて、美玖は少しばかり気後れした。
ハリウッド映画俳優かセレブにいてもなんら違和感はない。
「シルフィーモンだ」
「ああ、よろしく」
握手を済ませ、美玖とシルフィーモンはアランの車に乗り込んだ。
白色のボディにスライド式のサンルーフが取り付けられたごく普通の軽自動車。
車体には自動車産業でも著名の日本の会社の名前。
少し古い年代の車種のようだ。
シルフィーモンには少しばかり窮屈だがそこは我慢だとアランは苦笑いを浮かべる。
「デジモンも乗るならワゴンでも用意するべきだったんだろうが…これしかなくてな」
「いや、お構いなく」
「そうかい。文句垂れられてもおかしくないんだが…何かあれば遠慮なく言ってくれ」
雑談を交わしつつ、アランはハンドルを手に大使館へと向かった。
ーーー
「失礼します」
白い建物の中へ通され、美玖は部屋で待つ人物に一礼した。
「よく来られた、五十嵐探偵所長、デジモンのシルフィーモン。私は在エジプト外交官の毛利だ」
「初めまして、よろしくお願いします」
毛利外交官から依頼の概要を聞く。
「デジタマの所在及び教授の身元の捜索をお願いしたい」
「こちらも三澤警察庁長官からお話は伺っております。協力致しましょう」
「ありがとう。実はもう一つ懸念している事がある。こちらは日本政府へ連絡の際必要はなしという判断から話さなかったが…」
毛利外交官は少し物憂げな表情になりながら、続けた。
「立石教授が失踪し、デジタマの所在が不明した頃に前後して今このカイロは化け物の噂で広がっている」
「化け物?」
怪訝な表情で美玖がオウム返す。
「毎晩に渡り化け物が徘徊しているとカイロ中で噂になっているのだ。行方不明者も出ている」
「行方不明者?すでに実害が出ているならなぜ噂のままにしているんだ?」
シルフィーモンの言葉に毛利外交官は俯く。
「事を表わにすれば混乱が起きる。その防止と思っていただければ」
「此方も捜査しようにもままならなくてね。気苦しいがその背景も呑んでもらいたい」
シルフィーモンのその納得のいかぬ面持ちにアランが口を聞く。
「エジプト政府はまだデジモン絡みの事象を解決できなくてな。今回以前から山積みの問題ばかり抱えている程に。対抗策となるデジモンの力を借りたくともこっちに移住しているデジモンの数は少ない。そういう意味でも力をお借りしたいって話だ」
「…なるほど。全面的に納得したわけではないが、わかった」
シルフィーモンは渋々ながら頷いた。
ーー
「カイロでの化け物の噂…」
「デジモンの仕業だろうが、政府が動けないとはな…」
ホテルで昼食を摂りながら美玖とシルフィーモンは調査の予定を話し合っていた。
「立石教授が失踪したと確認がとれたのは1週間前。現場発掘と調査は同じ大学の長野助教授が引き継いでいると」
「ひとまずその化け物の噂を調査もしてみようか。デジタマと何らかの関係性もあるかもしれないからな」
「そうですね。…けれど、デジタマが人間の世界で、遺跡から発掘されるなんて事があるのですか?」
美玖の疑問にシルフィーモンは唸る。
「私も初耳なんだ。デジタマが人間世界になぜ…」
シルフィーモンは言いながら紅茶を口にする。
独特の香りがするフレーバーで、美玖も初めて口にする代物だ。
日本人が口にするには癖があるが、香り高さからして良質な茶葉が使われているのだろう。
人間と違い"ちぐはぐ"な味覚をしている事の多いデジモンからしてはウケは良いようで、シルフィーモンはこれで四杯目のおかわりだ。
「普通、デジタマはデジタルワールドのファイル島にあるはじまりの町に保管される。それが人間世界にあるなど、ありえないはずなんだ。デジモンか、デジタルワールドの安寧を保つ機構ホメオスタシスのエージェントを始めとしたデジタルワールドに関わる者の手によるものか」
「デジタマの件も含めて、まず立石教授と同じ調査チームである長野助教授の元へお邪魔した方が良いでしょうね」
「そうだな」
ホテルはとても広く、手配された部屋も綺麗に整えられている。
ベランダから見えるカイロの風景は非常に見晴らしが良い。
依頼でなければゆっくり観光したかったと美玖は思うのだった。
ーー
ホテルのラウンジを出てすぐ、美玖は向かい側から飛び出してきた人物に危うくぶつかりかけた。
「きゃっ」
「おっと…」
相手は40歳ほどの白人男性。
髪型から黒のスーツに革靴と身綺麗に整えられている。
「大丈夫か、美玖」
ラウンジで受付とのやりとりを済ませてきたシルフィーモンが追いついた。
「すみません、大丈夫でしたか?」
手ぶりでシルフィーモンに応えた後、美玖は男性に詫びる。
男性も涼しい顔をしながら、何処か意味深い笑みで返した。
「此方こそ急いでいたものでして申し訳ない。失礼します」
その直後、男は小声で言葉を紡ぎながら、美玖とシルフィーモンを見やりつつ立ち去る。
シルフィーモンはその一連に不可解なものを覚えた。
彼の耳は、確かにその言葉を捉えていた。
「……幸運を」
意味ありげな笑みをより深く口元に浮かばせながら、男は美玖と自身を見たのである。
それに美玖は気づかない。
「シルフィーモン?どうしたの…?」
「……そこで待っててくれ」
「え?」
シルフィーモンは美玖に一言言うと、ロビーへ向かった男の後を追った。
しかし。
「…どこへ…」
広いロビーには視界を遮るものはほとんどない。
だが、そこに男の姿はなく、シルフィーモンは困惑する事となった。
ーー
「何か忘れ物でも?」
戻ってくると、アランがやってきている。
そのまま美玖と談笑していたようだ。
「すまない、気になる事があったがどうやらこちらの気のせいだったようだ」
「合流したところで早速ナガノ助教授の研究室に行くとしよう。ギザのカイロ大学にある。引き続き窮屈な車の中ですまないが勘弁してくれ」
ーーー
太陽を反射し煌めく美しいブルーの水面。
カイロの街並みの中、ひときわ大きな流れで揺蕩うナイル川。
それを見下ろす影がある。
それはかなり大きな影だったが、紛れもなくデジモンのものだった。
「…ここにいたか」
そのデジモンの元へ、別のデジモンが姿を見せる。
あまりにも速く、人間の目では捉えることも難しい。
「まだあれは見つからぬか」
「此方がエジプト政府との交渉を持ち掛けようとした矢先に間の悪い…」
そうやりとりを返しながら、揃ってナイルの流れを見下ろす。
人類史において非常に長い時間と共に人間の暮らしに恵みと脅威を与え続けてきたこの大河は、彼らの目にどう映っているのか。
「他の者は?」
「ダークエリアからこの街に出没しているデジモンの対処に回っているが、数が多すぎる。管理者の存在が不可欠であるというのに、なんと怠慢な」
「まずは所在を突き止め、理由を問うしかあるまいよ。……私は先に動こう」
クールホワイトに輝く姿は、そう言い残してたちどころに飛び去る。
その速さはたった今来たばかりのデジモンを凌駕しかねない。
それを見届け、残された方のデジモンは呟いた。
「ダークエリアの管理者よ。なぜお前はこの世界へ下りた?それほどに急を要する事態が起きつつあるというのか……」
ーーー
「ナガノ助教授の研究室はこちらです」
「ありがとう」
職員に案内される二人と一体。
そこで、美玖はある事に気づき、鍵を開けようとした職員を止めた。
「すみません、少し良いですか」
「…はい?」
戸惑う職員を前に、美玖は注意深く取っ手と鍵穴の周囲を見る。
細かな引っかき傷のような痕跡がある。
警察官であった美玖にはあまりにも見覚えのあるもの。
アランも気づいたようで、取っ手に触れた。
「…開いている。誰かが中に入っていたようだな」
「まさか」
血の気が失せた顔の職員に一礼し、アランを先頭に美玖、シルフィーモンも入った。
この日、長野助教授は研究室を空けており、一度も戻ってきてなければ誰かが入れて欲しいと申し出があるのも美玖達以前に誰もいない。
研究室の中は荒らされていた。
「これはまた酷いな」
「でも一体、誰が…」
本棚からあらゆる研究本と資料が落とされ、引き出しという引き出しが全て開けられて中を乱雑に掻き回されている。
「不審な物音の届け出はなかったのですか?」
「いいえ」
「となると、これは手慣れてるな奴さんは」
美玖がツールのライトを起動した。
つぶさに研究室の中をライトで照らして回る。
しかし。
「……デジモンの痕跡はないようですね。ですが、靴跡が複数人分あります」
「ナガノ助教授と連絡は?」
アランが職員に尋ねる。
「先程電話はしたのですが、生憎留守のようです。掛け直しを検討します」
「頼んだよ」
シルフィーモンは床に落ちた一枚の写真を見つけた。
拾いあげ、そこに写るものを見た。
「これがそのデジタマか?」
遺跡から発掘されたばかりの所を撮影したものだろう。
日付は三週間前。
一緒に写っている人間と比較するとボウリングの球をひと回り大きくしたような、大きな卵がそこに写っている。
殻は白地に黄土色と紫の幾何学模様が描かれていた。
とてもではないが、自然界にある動物の卵に近いものだと言われても信じる者はそういないだろう。
大きなイースターエッグの模型と思われてもおかしくない。
「これがデジタマ…」
気づいた美玖が横から覗き込んだ。
シルフィーモンが写真を渡すと、美玖は記憶にある新聞の写真と比較する。
記事が載っていた写真は撮られた時期が異なるものだったが、特徴的な模様からして同じものに間違いない。
「今は、このデジタマも立石教授の身元同様行方がわかっていない…」
「しかも、こうして場所が荒らされているとなれば、まずい事になっているのかもしれないな」
侵入者の痕跡は靴跡の他はない。
目ぼしい成果もなく、美玖達はアランの車へと乗り込んだ。
「先程掛け直しをした職員から、ナガノ助教授への連絡がないと言われたよ。こちらから出向くしかないようだな」
シートベルトを締めながらアランは助手席の美玖を振り返る。
「ナガノ助教授はタテイシ教授と一軒の家を共有で過ごしている。そこへ向かうか?日を改めても良い」
美玖は時計を確認した。
時刻はもうじき夜も更ける頃で、周囲は暗い。
それにかぶりを振ったのはシルフィーモンだ。
「いや…こういう時は夜中の方が何かと都合が良い。普段は昼間の光を嫌う奴らが活発になるからな。糸口が掴めるだろう」
「変わった理由だが…まあ良い。ミス・イガラシもそれで良いか?」
「……行きましょう。私も嫌な予感がします」
ーー
移動に使われた時間は一時間半。
ナイル川を一望しつつギザからカイロへ戻る。
カイロの南方面、かつては古代エジプトの都市メンフィスがあった場所からほど近い位置に立石教授達が借りている家があるはずだ。
夜のカイロは昼間に見たそれとは景色が一変し、車のライトの連なりやビルの灯りが美しく映える。
車から出てすぐ、あまりの寒さに美玖は持参してきていたカーディガンを羽織った。
教授達の家は白壁に軽薄なオレンジ色の屋根があり、余分な物は置かれていない。
ガレージがあるが、もぬけの殻だ。
「長野助教授は……」
ドアの前まで来て、美玖はすぐに錠前にライトを照らす。
錠前にそれとわかる傷痕。
ピッキングがされた証拠だ。
「…こちらも研究室と同じ!既に手が回ってる…!」
「だとしたら、…お邪魔するぜ!」
家の中も研究室ほどではないが、酷い荒れようになっている。
ツールのライトが炙り出した靴跡は、長野助教授の研究室で見つけたものと同じだ。
ライトを手に家中に入り、美玖は手近の机を探し始めた。
「何か手がかりがあれば…」
アランも頷き、美玖が探すものとは別の机を探りだす。
「デジタマもタテイシ教授も、そして今ナガノ助教授もなぜ行方知らずなのかその訳もわからないんじゃ仕様がないしな!」
シルフィーモンも手伝いに入り、紙の山とメモを漁る。
しかし、どれ一つとして調査の要点や参考書の取り寄せ、領収証と関連が薄い。
「これは…発掘現場の進捗を記したもの…こちらは…」
「ダメだ、これだけ大量の紙が散らばっていると探しづらい。シルフィーモン、あんたの方はどうだ」
アランの問いにシルフィーモンは首を横に振りかけ…そこで、遮るように二人を手で制した。
「どうし…」
「静かに。音が聞こえる」
静かな夜更けの中。
二人の耳は、シルフィーモンよりはるかに遅れてその音を拾い上げた。
ブロロロロロロロロロロロロ………
(車の音?)
シルフィーモンが目配せし、頷き返したアランが美玖の腕を引き窓の側へ隠れる。
車の音は近づき、やがてエンジンをふかしながら家の近くで止まった。
複数人の降りる気配。
美玖の耳に、幾らか聞き覚えのあるイントネーションの言葉が聞こえた。
英語ではなく、エジプトで共用語として使われるアラビア語でもない。
(……中国語?)
一人、大きく声を張り上げた男の声があり、足音が近づいてくる。
「相手は?」
「四人だ。そのうち二人がこちらにやって来る。どちらも武器は持っているようだな」
「面倒だねえ」
外の様子を窺うシルフィーモンの言葉に、アランは肩をすくめた。
「ナガノ助教授の研究室を荒らした奴だと思うか?」
「…私は違うと思います。ひとまず、身を隠さないと」
「身を隠す……美玖、前に使った偽装(クローク)のコマンドは使えないか?」
シルフィーモンの言葉に美玖は指輪型デバイスをさする。
「…使えます」
緑の光と、0と1の数字で構築されたテクスチャが二人と一体を覆う。
ステルス迷彩が如く、周囲と溶け込むように姿が消えた。
「へえ、便利だな」
「でも、気をつけてください。これはーー」
美玖が説明しようとしたその時。
玄関、目と鼻の先の距離から二人の男の声が聞こえた。
「くっ、既に先を越されたか。鍵が壊されている」
「ともかくデジタマと立石教授に関わりのある物を探せ!持ち去った奴らに関係する手がかりも!」
二手に分かれ、男達も美玖達が既に探した後を探し始める。
どうしたものか。
美玖は自身達に近い机を探す男の後ろ姿を見ていた。
暗い中で顔まではわからないが、頭髪の色や肌色からして東洋人とわかる。
そして、話し声で再度確認がとれた事により、美玖には男達が中国語、それも共通語として使われたものではなく数ある方言のうち広東語で話しているものとわかった。
(この人達は一体…デジタマと立石教授を探している…?)
シルフィーモンとアランの位置は、彼らを覆う緑のテクスチャでわかる。
どうやら同じ偽装をした者同士でなら視認は可能のようだ。
男はしばらく机を漁っていたようだが、何かに気づいたらしい。
「これは!」
美玖が脇から見ると、男が開けた引き出しの奥にはハードカバー表紙の大きなノート。
(…日記かもしれない、なら)
足を忍ばせ、男の側へ近寄る。
そして、男がノートを手に取ろうとしたその瞬間、横から手早く取りあげた。
「!?」
その瞬間、アランが動いた。
美玖と男の間へ割って入るや、拳で男の頬を力強く殴りつける。
「アランさ……!」
あっ、と自身の口を押さえた時にはもう遅い。
複数人に張る分脆くなる性質により、テクスチャは彼女からも剥がれ落ちていく。
殴られた男が顔を押さえながら、もう一人のいる隣の部屋へ叫んだ。
「くそ!不意打ちだ、助けてくれ!」
全力疾走で近づく足音。
駆けつけた男と二人、腰から外すは警棒のようなもの。
テクスチャが剥がれた美玖とアランに対して、二人が襲いかかる。
一人をアランが持ち手を押さえて投げ飛ばす。
もう一人も、身を守ろうと反応が遅れた美玖に容赦なく棒を突き出した。
バチィイ!!
ただの警棒ではなく、スタンガンと同様の構造を内包したスタンロッドだ。
スタンロッドの電流が迸り、一瞬だけ昼間のように眩く。
「シルフィーモン!」
美玖の目の前にはシルフィーモン。
美玖を庇いスタンロッドの先端を身体に受けた事で、彼にかけられたテクスチャが剥がれ落ちた。
「く…」
シルフィーモンがくずおれる。
(これは…)
全身に感じる硬直感。
美玖の麻痺光線を受けた時に近い感覚。
「おい、車まで逃げるぞ!」
「シルフィーモン!」
「…少し身動きが取りづらいが私に構うな!」
拳銃を抜いた一人に気づき彼は叫んだ。
「走れ!!」
切迫した声にアランと美玖は走る。
シルフィーモンも二人の後方から続いて、どうにか自由の利く脚を引きずるように、二人が出た勝手口へと走った。
「…おい、今の見たか?」
スタンロッドを手にガタガタと一人が震えた。
「女を殴ったと思ったら何もないところから突然デジモンが現れるとか聞いてないぞ。何がどうなってる?」
拳銃を抜いた方の男が怒声をあげる。
「バカかお前は!デジモン用にモードを切り替えられなかったとはいえ、あのデジモン、身動きが取りづらくなっている。お前は楊さんに知らせて来い!予定は狂うが、あのデジモンの確保も視野に入れる!」
「りょ、了解!」
スタンロッドの男は踵を返し、大慌てでドアから外に出る。
それを見届けて拳銃を持った男が勝手口から飛び出した。
車に向かって走る美玖とアラン、その二人の後ろからよろけるように走るシルフィーモンの背中へ乱射を仕掛けてきた。
シルフィーモンの脚を幾度となく銃弾が掠める。
完全体デジモンともなれば決して大したダメージにはならないし、元より二人への射線を遮る意図で後方を走る事を選択した彼だが。
(意図的に私を狙うか!)
「シルフィーモン!乗って!!」
美玖が後部座席に先んじて入り、彼を呼ぶ。
間一髪、頭を低くしながら搭乗し、ドアが閉まったのを合図に発車した。
ドアに火花が散る。
「大丈夫!?」
「心配ない、脚を少し撃たれただけだ」
応えるシルフィーモン。
美玖は、指輪型デバイスを彼の脚部に向けた。
「……修復(リペア)コマンド、起動」
指輪の水晶体からシルフィーモンの鳥の脚へ目に優しいミントグリーンの光が照射される。
続けて、今度は先程スタンロッドを受けた脇腹へ。
「……さっきまで痺れていたのがだいぶ良くなった。ありがとう」
「それより奴さん追ってきたぞ!」
バックミラーに映る車を視認し、アランが声を出す。
後方から聞こえる銃声、少し遅れて窓にほど近い部位から火花が散る。
「きゃっ…!」
小さく悲鳴をあげる美玖をシルフィーモンが抱き寄せる。
「弾に当たらないよう屈んでろ!少し飛ばすが舌も噛むなよ」
ギギィィィィィイイイイイイッ!!!
タイヤが力強く回り、グウっと二人と一体の身体に軽く重力がかかった。
後ろから追う車も、一人が身を乗り出して発砲するに任せて爆発的な速度で迫る。
ギィィィィィィィイイイイイイッ!!
ギギィィィギギィイイイイイイッ!!!
留まる車の少ない道路を猛スピードで走る二台。
夜間に忙しく音が響く。
時速70キロを軽く超えたスピードと手荒な運転に激しく揺れる車内で、美玖は片腕にハードカバーのノートをしっかりと抱きしめた。
激しい攻防を繰り広げながら、後方を走っていた車はアランの車に追いつき並走する。
「お前達は何者だ!立石教授とデジタマはどうした!?」
助手席にいる男が英語で問い叫ぶ。
この男がどうやら統率を纏めているようだ。
周りの者も含め、全員東洋人である。
「教える奴がいるかよ!立石教授とデジタマがどこに行ったかなんてのも俺達だって知りたい」
ハンドルを切りながらアランが憎まれ口で返しに出た。
「どのみち我々の邪魔だ。消されたくなければ、そこのデジモンを我々に寄越せ。それでなかった事にしてやろう」
「……なんですって?」
美玖はカッと血の気が上るのを感じた。
「あなた達、デジタマや立石教授が目的のようだけどシルフィーモンをどうするつもりなの?」
「知る必要はない、女。命が惜しければとっとと…」
「ふざけないで!!」
美玖は猛然とシルフィーモンの腕から乗り出して叫び返す。
「美玖!」
「まるでデジモンを道具のような言い方もだけど、信頼も信用も、貴方達よりも彼の方が上よ…!信用できない要望に応えるつもりは毛頭ないわ!!」
「…なら、始末してやる」
シルフィーモンが美玖を抱え直した。
美玖が乗り出しかけた位置に散る火花。
アランが口笛を吹く。
「正直ヒヤヒヤしてるが良い啖呵だ!良いね、シルフィーモン。可愛い所長さんにすっかり愛されてるじゃないか。羨ましい!」
「冗談を言ってる暇はないぞアラン!全くーー」
呆れて言い返しかけたシルフィーモン、だが。
「…!」
突如、彼の背筋が凍りついた。
周囲の空気のせいだ。
アランも、美玖も、異変に気づいた。
「おい、なんだ、このーー」
「凄く嫌なものが…シルフィーモン、これって…」
「…これは」
シルフィーモンの顔を汗が伝い落ちる。
知っている、この寒々とした空気。
知っている…この気配を。
「これは…この、闇の気配は!」
その時である。
シルフィーモンに抱きかかえられながら、車窓の外を見た美玖が悲鳴をあげたのは。
「おい、今度はなんだ!」
「デ、デジモンです!それも……かなりの数が!!」
「な…んだと…!?」
アランも横を見て、愕然とした。
街の隙間から現れる白い影。
一体や十体ではとてもじゃない。
数十…いや、数百。
黒い三角帽子を被った白い布のようなものが、街の至る所から現れた。
瞬く間の出来事で、それらがアランと謎の追跡者達の車にも迫ってくる。
「あ、あれは…!」
美玖がシルフィーモンの腕を抜け出し、後方へツールのカメラを向ける。
『ソウルモン。成熟期。ゴースト型。ウイルス種。呪われたウィルスプログラムで構成されたゴースト型デジモン。ファンタジーに登場する魔法使いのデータを取り込んだバケモンで、黒い帽子のおかげで魔力がアップしている。そのため……』
「間違いない、あれはダークエリアからの者達だ!」
「えっ!?」
シルフィーモンの声に美玖は振り返る。
「どういうこと!?」
「あのソウルモン達はダークエリアから出てきているんだ!この空気は、闇のデジモン達の領域であるダークエリアのもの。だが、なぜーー!」
その疑問に答えられる者は誰もいない。
一方、追跡者達の方も混乱に陥っていた。
車は大きく蛇行し、アランの車との車間距離も離れていく。
「今のうちに彼らから逃げた方が良いだろう。最も、この数からは…」
そう呟くシルフィーモンの脇で、美玖は後方からあの男の叫びを聞いた。
「くそっ!なんだ、あの怪物は!!」
運転手、そして二人の武装した者の声にならない悲鳴。
美玖が後ろを見ると、有翼に四つ足歩行の骨だけの身体を持つ巨大なデジモンが武装した一人を咥えて車から引きずり出すところだった。
「なっ…!?」
なす術もなく口から放り出された男はソウルモン達の絨毯に呑まれたちまち姿が見えなくなる。
車も巨大なデジモンの前脚に跳ね飛ばされ、激しく横転を繰り返しながら近くの建物の壁に激突した。
「あ、あの骨だけの身体のデジモンは…」
「あれはスカルバルキモン!本来はダークエリアのデジモンではない!」
スカルバルキモンの頭骨、その眼窩がボウッと赤く灯り、アラン達の車に狙いを定めた。
シルフィーモンが自身に近い方のドアに手をかける。
「シルフィーモン!」
「スカルバルキモンは私が迎え撃つ。先程美玖に手当てをしてもらってから、身体が楽だ。いける」
「それならサンルーフを開ける!そこからならあんたも迎撃は楽だろ」
がしゃり、がしゃりと足音を立てながら、スカルバルキモンが後方から迫ってきた。
まるで骨格標本をツギハギにしたような見た目ながら俊敏な動きで追いつき、サーベルタイガーのような口からはみ出す長く大きな牙を車体へ突き立てようとする。
「『トップガン』!!」
展開されたルーフから飛び出したシルフィーモンがすかさず攻撃を浴びせた。
顔面に直撃し巨体が怯む。
しかし、スカルバルキモンはそれでもなお追いすがる。
再度シルフィーモンの『トップガン』が飛ぶが、サイドステップでかわしシルフィーモンに向けて跳躍。
『トップガン』を放った直後から動けないシルフィーモンに向けて牙を……
「グギャウッ!」
跳躍したその身体が不自然に強張り、スカルバルキモンは道路の上でもんどりうって墜落した。
「…!美玖」
足元から身を乗り出して指輪型デバイスをスカルバルキモンに向けた美玖を見る。
そこへソウルモンが数体頭上から襲いかかってきた。
「どけっ!」
シルフィーモンの腕が大きく空を薙ぎ、脚が跳ね上がる。
たちまち風船のようにかちあげられ、ソウルモン達は吹き飛ばされていった。
「どうにか振り切れそうだ。それにしても、なんだったんだあいつらはよ!」
アランが悪態をついた。
ルーフの窓から車内に戻りつつ、シルフィーモンが答える。
「死んだデジモン達が行き着く闇の世界、ダークエリアから来たデジモン達だ。スカルバルキモンに関しては本来、ダークエリアのデジモンではないはずだが…おそらく死んで送られたもののデータをサルベージしてるんだろう」
「それにさっきの東洋人はやられたってのか、冗談じゃない!」
美玖は後方を振り返る。
追跡を諦めたか、ソウルモンの姿は見当たらなくなっていた。
「とにかく、このままホテルへ戻るのはまずいと思います。尾行されてるのかもしれない。近くの民家か何処か、泊まれる場所があればそこに行きましょう」
「賛成だ。あいつらが全滅した保証もないしな」
車は夜のカイロの街を走っていく。
その夜の喧騒がけたたましく悲鳴に近いものとなっているのは決して気のせいではない。
ーー
「くそ…」
足を引きずりながら、一人の男の影がビルの片隅に落ちる。
助手席にいた、あの東洋人だ。
「まさか、あれほどのデジモンが街の中に…なんとしてでも、本部に連絡を」
「何を連絡するつもりだ」
背後から声。
足を庇いながら、男は振り返る。
そこにいたのは、鎧を纏った人のようなモノ。
「…デジモン…!」
「お前達の動きは以前から連絡があった。デジタルワールドへ幾度となく侵入しようとしている事もな」
紫を基調とした色合いの重厚な造りをした甲冑に加え、頭骸骨のような意匠の兜に一振りの巨大な槍。
「お前は今ここで捕縛させてもらう。おとなしくする事だな」
「まさか、ロイヤルナイツ……くそっ…ここまで、か」
ーーー
その夜。
小さな格安のホテルに駆け込んだ二人と一体。
シルフィーモンに見張りをして貰い、美玖とアランは眠りについた。
それを遠まきに見ている者に、気づく事もなく夜は過ぎた…
翌朝。
何もない朝を迎えた美玖達は、長居もそこそこに宿泊先だったはずのホテルへと時間をかけて戻ってきた。
念には念をとアランが遠回りの道や土地勘がなければまず迷うような道を選んで行ったためである。
ーー
「お客さま、昨日は部屋へお戻りにならなかったようですが何かありましたか?」
美玖達に気づくなり、ラウンジにいたホテルマンが心配した面持ちで訊ねてきた。
大きなホテルのため客一人一人を記憶するのは大変だろうが、デジモンを伴った宿泊客が美玖以外にいないため覚えられたのだろう。
「外出先でトラブルがあり長引いてしまったんです。ご心配をおかけしました」
美玖が詫びると、ホテルマンは安堵した顔を見せた。
彼にチップを渡すと、美玖達は会議も兼ねて先日昼食を済ませたホテル内のビュッフェスタイルのレストランへと移動した。
「俺はちょっと用事で外す。何かあれば連絡してくれ」
「わかりました」
レストラン前でアランと分かれ、美玖とシルフィーモンは席に着く。
食事を取りに行く時は、ノートが何かの拍子に持っていかれる事がないよう交代することで対策をとった。
「シルフィーモン、それ、気に入った?」
聞きながら、昨日とは違う紅茶を美玖は口に飲む。
エジプトでは砂糖を入れて飲むのが主流だが、一度に大量に入れるため倣った飲み方をするには抵抗があった。
「これは良いな。好きだよ」
シルフィーモンが言いながら、昨日のものと同じ紅茶を飲む。
「それなら、帰る時に買っていきましょうか。ちょうどホテル内で売っているようですし」
昨日にホテルマンからフレーバー名と売っている場所は聞いてある。
「本当かい?…楽しみだ」
そう呟く言葉が心から嬉しそうで、美玖は思わず笑みを浮かべる。
食事を摂りながら、美玖はノートを開いた。
「あの人達が何者だったかにしても、どうにかして教授とデジタマの所在を突き止めないと…」
ーーー
その頃、アランはカイロの郊外へと向かっていた。
そこの一画に住む裏社会の情報通、アーリフ・アッ・サルカーウィーを訪ねるためだ。
アーリフは金に汚い悪党で悪い噂が絶えないが、小心者のため情報屋としてエジプト政府のエージェント達から重宝されている。
「さて、アーリフの奴さんはいるかね…と」
知りたい事は多いが、まずは昨日遭遇した東洋人のグループについてだ。
(ミス・イガラシから聞いた限りじゃ、中国人かもしれないって話だしな)
こじんまりとした家の前まで来て、アランは言いようのないものを覚え、足を止めた。
ドアから漏れる、饐(す)えたような臭い。
重々しく何か引きずるような音も聞こえた。
「アーリフ!いるのか?」
声を張り上げ呼ぶが、静かなままだ。
いつもならすっ飛んできて開けて、出迎えるだろうに。
嫌な予感を覚え、拳銃を抜く。
そして。
ダァンッ!!
勢いよくドアを蹴破り、銃を構えた。
そこにいたのは、確かにアランの知る姿…アーリフの姿だ。
クーフィーヤと呼ばれる頭衣を着たその姿は、見慣れたもののはずだ。
しかし。
「あんた…」
その姿は変わり果てていた。
両手を前方へダラリと垂らし、ぎこちない動きで歩いている。
よく見れば胸に血の痕。
すでに乾いているがまだ日の経ったものではないらしい。
身体もまだ腐敗が始まっていないのか、腐臭もない。
「B級映画じゃないんだぞ…!」
BLAM BLAM!
拳銃が火を噴き、右胸と腹部から赤く血煙が噴き出す。
しかし、それを受けてなお生ける屍はアランへと向かう。
「……」
(頭でも狙うか?いや、しかし、それで倒れなかったら?)
「あううつあがあぉああああ!」
近寄るアーリフにアランは距離をとる。
今度は頭に狙いを定め発砲。
BLAM BLAM!
一発目はそれたが二発目はこめかみに命中。
三発目を撃とうと、狙いを定めた時。
ビュウッ!!
「ぐぅああ!!」
何処からともなく飛んできた、一本の弓矢。
それは、人間が射るにはかなり大ぶりのもので、アーリフの身体を中央から打ち貫いた。
叫びをあげながら、アーリフの身体はたちまち四散し消える。
「!」
アランが振り返ると、赤い鎧を着た馬のような何かが一瞬だけ見えた。
「今のは…なんなんだ、くそっ」
中へ入ると、そこかしこに血痕が飛び散っており、中で何があったか頭を抱えたくなるような惨状だ。
「すでに死んじまった後だが邪魔するぜ」
中へ踏み入ったアランは、小さな机の上に積み重なったメモを見つけた。
血がいくらか付着しているものの、読めなくはない。
「これは…」
そこには、乱雑に描かれた絵があった。
アーリフが描き残したものだろうか。
「なんだ、これは」
そこに描かれていたのは、土煙のようなものの中で吠えているなにものか。
目を凝らせば、人の身体に四つ足の獣の下半身を備えているように見える。
絵の下にはアラビア語でこう書かれていた。
『我等が神、全能なるアッラーよ どうか我々をお守りください』
「こいつは…」
絵に描かれた影に、嫌なものを感じる。
それを無造作にポケットに押し込み、アランはアーリフの家を出た。
それを見下ろす、人のような胴体に六本の脚が生えた馬の下半身と頭部を持つもの。
赤い鎧を纏い、弩を手にそれはアランを見た。
アランが車へ乗り込んだ後、そのデジモンは踵を返す。
「エジプト政府のエージェントに動きがあった。そちらは任せたぞ」
ーーー
ノートは立石教授がつけている日記で間違いなかった。
日記には細かに、その日の発掘で見つけたものや人員の裁量に関する所感など丁寧な筆跡で書かれている。
それは、遺跡発掘という大仕事の中で、平凡な一日としての部分を楽しむような内容だった。
……ある日付までは。
(日付は……デジタマを発見してから数日くらい)
『昼食中、一人のベドウィンがこんな話をしてくれた。5年前、リビア砂漠のあるオアシスで突如爆音と共に大きな土煙が起こった』
『始めは皆、どこかの国か部族の攻撃かと思っていたのだが、そうではなかった。土煙の中、巨大な何かが地響きと共に恐ろしい声で吠えた。今まで生きてきた中でも聞いたことのない声で』
『その声、山を思わせるその巨大さに皆一様に恐慌状態に陥った。誰もがアッラーに祈りを捧げ、目の前のものがただの幻である事を祈った。そして皆が再び顔を上げたとき、それは本当に幻のように消えていた、と』
『そんな話を聞かされ、私の胸によぎったのは言いようのない恐怖だった。そのベドウィンが描いてくれた、巨大な何者かの姿が、脳裏にこびりついて離れない』
ノートの下部に描かれた絵を美玖とシルフィーモンは見た。
それは、土煙の中、人のものに似た上半身を大きくのけぞらせるように吠えた四本足の獣。
「これは……デジモン?」
「……何処かで見覚えがある」
「本当ですか?」
「ああ。絵はかなり抽象的なものだが、似たような姿のデジモンがいたはずだ。…ダークエリア……まさか、な」
シルフィーモンは言いながら、日記を読む続きを促した。
「……次の日付は一週間前。これが、最後の日付け…」
『私の元を訪れたのは旧友のフェレス氏だった。私が胸の内を明かすと、彼はそれに対し的確なアドバイスをくれ、公私に渡って力を貸してくれた。彼のお陰で私の中の不明瞭な恐れは払拭された気がする。
こんなに素晴らしい友人を持てた事を誇らしく思い
そういえば、彼とどこで会っただろうか
よく
オモイ 出せ ない』
その筆跡は乱れ、最後にはぐちゃぐちゃともはや文字の形すら成していない状態で日記は終わっていた。
「……これって……」
「このフェレス、という奴が立石教授の失踪に関わっている?」
美玖とシルフィーモンは顔を見合わす。
そこへ、アランが急ぎ足で駆けつけてきた。
「おい!大使館へ急ぐぞ」
美玖とシルフィーモンが振り向くと、アランは息急き切って続ける。
「占い師の婆さんがあんたを呼んで欲しいとやってきたんだ、ミス・イガラシ!」
「占い師?…が、私に?」
美玖は目を瞬かせた。
「何の前触れもなく大使館にやってきて、夢に見たものがあるからあんたに知らせたいと名指しで呼んだと連絡があった」
アランの言葉に美玖とシルフィーモンは席を立った。
「すぐに向かおう」
「そうし…あんた達まさかずっと食べてたのか!?」
食器とトレーを片付けに走る一人と一体に、アランは呆れ顔。
日記を読むのに時間をかけ過ぎて片付けるのを忘れていただけだったが…。
二人と一体は車に乗り込み、大使館へ急いだ。
ーー
遡って、二日前。
冷たい空気と薄暗い電灯以外何もないがらんどうとした個室。
パイプ椅子の上に座らされた一人の日本人の男を、人影が取り巻いていた。
座らされている男は三十歳ほどで、丸眼鏡をかけた丸顔。かなり日の焼けた肌とそうでない肌の分け目が目立つ。
それを取り囲む人影のうち、一人が男へ尋問した。
その一人の男こそ、ホテルのラウンジで美玖がぶつかった、あの白人男性に他ならなかった。
「さあ言え、ナガノ助教授。お前だけが抱えている秘密を!」
口を固く引き締めながら震える男。
それを遠巻きに見ていた人型の何かが、唇を歪ませ笑うと両目を怪しく光らせた。
不気味な入れ墨の走る赤い肌。
その目と目が合うと、数度ほどびくりと身体が強張ったのち、長野助教授は抑揚のない声で話し始めた。
「私は立石教授の脇で通訳として招いたベドウィンの民から、不気味に吼える山のように巨大な怪物の話を聞いた時あるデジタルワールドの伝説を思い出した。それは今のデジタルワールドより古い昔」
「それは、全ての生命と進化そのものの理を憎んだとされる非常に強大な力を持ったある存在の話だ。その存在は勇敢で強力な二体のデジモンとの熾烈な戦いによって、闇の世界に封印された。とても、とても古い話」
「ところがその存在のデータを受け継ぐあるデジモンがいた。そのデジモンも同じくあまねく全ての生命を憎んでいた」
「新たに生まれ落ちたそのデジモンは闇の世界で成長し、やがて山のように巨大な身体と、歌い、吠えるだけで並のデジモンならば悉く死滅させるほどの強力な存在となった」
「そのデジモンの名はガルフモン。七日間で世界を滅ぼすといわれる大魔獣。それが人間の世界に本当に姿を現すことになればどうなるか」
「ガルフモンはダークエリアと呼ばれる闇の世界の底に潜んでいる。だがいつか、デジタルワールドを、ひいては人間の世界を危機に陥れる事になるだろうと私は危機感を覚えた。立石教授もそうだった」
「ベドウィンが描いたものがガルフモンである保証はない。だが多くの類似点を抱えている」
男が再び問うた。
「我々が探している場所こそ、そのガルフモンが出現したオアシス。それは何処にある!?」
ーーー
大使館へと駆けつけ、二人と一体はその占い師と面会した。
かなりの高齢とおぼしき老婆で、黒いガラビアというワンピース型の民族衣装を纏っている。
皺だらけの顔が笑顔になる。
「こんにちは。よく来たね、可愛いサイイダ(お嬢さん)。あなたを待ってたのよ」
占い師はアラビア語でそう美玖に話しかけてきた。
美玖はアラビア語に通じていないため、アランが通訳する。
「初めまして、おばあさん。私に用事があるとお伺いしたのですが、私のことをどこから?」
「それはね」
占い師は言いながら、ある物を大事そうに取り出した。
それは、ビロードだろう上品な光沢のある布に包まれた、くすんだ金色の鳥の羽根。
「これを、あなたに届けるよう夢の中で御告げがあったの」
「御告げ?」
「さあ、受け取って。詳しく話してあげるわ」
美玖が受け取ると、占い師は続けた。
「昨晩、夢の中で、大きな鳥の翼にジャッカルのような獣の頭をした方がいらしたの。そして、私にこう頼んできたわ」
『私の声と姿がわかるお前に頼みがある。五十嵐美玖という名の異国の人間が訪れているから、大使館へ行き彼女と会わせてもらうように。私の翼から一つ羽根をお前から彼女に渡せ』
「その方って…」
羽根をしばし見た後、美玖はツールを起動しその場で羽根の解析を行った。
解析は2分とやや長めだったものの、ホログラムが展開される。
それは、占い師が言ったような外見で、ゆったりとした白い布のズボンと垂れ布、足には翼の意匠のサンダルを履いている。
「おばあさんの夢に、この方が?」
美玖の問いにそうだと占い師は頷いた。
シルフィーモンがホログラムを前に信じられないといった様相で言う。
「まさか、アヌビモンが…ダークエリアの監視者にして守護者、デジタルワールドの裁判官がなぜ?」
「アヌビモン…エジプト神話の、アヌビス?」
美玖はホログラムに目を奪われながら聞いた。
シルフィーモンは頷いた。
「アヌビモンは死んだデジモンのデータを常に管理している。善いデータならばデジタマに変え、悪いデータならばダークエリアに送る裁判官。滅多に他に干渉してくることのないはずなんだが」
「まさにアヌビス神と似た事をしてるってわけだ。そいつがなんか関係あるのか?」
アランが言うと、占い師は静かに話した。
「私もその方の事を初めて知りましたが、目の当たりにして心の安らぐ方と感じたのはそのせいかもしれません。サイイダ、その方は、こう言っていました。私が眠っていた場所へおいでなさいと」
「その場所は…」
「デジタマが発掘された場所か!」
二人と一体が顔を見合わせる。
占い師はもう一つ、と続けた。
「その方は、さらに夢を見せてくれたの。深い闇の中を行く何人もの人を。先頭に白人の男と、赤い身体に入れ墨のある人間によく似た悪魔がいた。その人達が大きな扉の前に来たところで、夢は終わったの。そして、私は目が覚めた」
アランが懐から写真を出す。
「その中に、この写真に写っている二人の日本人の男はいなかったか?」
「どれどれ…………ええ、確かにいらっしゃったわ。揃って、後ろ手に縛られて」
美玖とシルフィーモンは頷き合った。
「間違いないな」
「なら、すぐデジタマが発掘された場所に向かいましょう」
占い師は美玖にそばに来るよう手招きをした。
その通りにした美玖の手に、上部分がループ状の楕円となっている十字架を握らせた。
見覚えのある形、アンクの護符。
「御守りに持って行きなさい。冥界に足を踏み入れるのだから」
「ありがとう、おばあさん」
互いに抱きしめ合い、背中を優しくさする。
「急ぐぞ!照明を持っていく」
ーーー
車で片道三時間。
カイロから南西を下り、吹き荒れた土地の中にその遺跡はあった。
焼けるように暑い地面に降り立ち、美玖は周囲を見渡す。
「ここが、その遺跡…」
本物の発掘現場に来るのはこれが初めてだ。
掘り起こされた地面から見える街のようなもの。
足場や風から遺跡を保護するためのシートはそのままだ。
監督を務める教授と助教授、どちらも揃ってない現状である。
「遺跡と聞いてはいたが、随分と質素なんだな。思っていたものとは違う」
「長い年月と共に地面に埋まっちまったものもあるからな。学者さん達は大変だ」
アランとシルフィーモンのやりとりを後ろにもう少し見晴らしの良い地点から遺跡を見回そうと歩きかけたその時。
「な、何!?ツールが!」
ツールのモニター部分が突如輝きだしたかと思うと、アヌビモンのホログラムが飛び出してきた。
シルフィーモンの頭二つ分ほどにまで大きくなるホログラム。
ホログラムは穏やかな面持ちで美玖を見下ろすと、背を向けて歩き出した。
「一体どこへ……」
後ろ姿を追っていくと、アヌビモンのホログラムは階段を降りてその先の闇の中で立った。
美玖達が追いかけると、後ろを確かめるようにちらりと目を向けてから再度歩きだす。
「俺達を導いているのか?」
美玖達も後を追って遺跡へと入っていく。
その後ろへ、ついていく存在があった。
遺跡の中は暗く、ひんやりとした肌寒い空気が流れていた。
外の焼けるような暑さとはまるで違う。
照明にと持ってきたライトを頼りに、ホログラムの後ろをついてくる。
「…あそこ!」
大きな門が見え、美玖が指差す。
そこに横たわる二つの人影。
…立石教授と長野助教授だ。
ホログラムをすり抜け、駆け寄った美玖は二人の脈を確かめ…首を横に振った。
「間に合わなかったか」
アランがかぶりを振る。
美玖は二人それぞれのまぶたをそっと閉じると、少しの間を黙祷に費やして冥福を祈った。
「で、今度は…」
ホログラムは門をくぐり、その先にある部屋の一角で立ち止まった。
何もない壁に見えた、が。
「…"来い"?」
黙祷を終えた美玖が、ホログラムの手振りに気づき、立ち上がる。
ホログラムが頷く。
美玖が近づくと、ホログラムは壁を指した。
触れろというのか。
「でも、この部屋、なにも…きゃ!?」
言いながら美玖が触れた部分から、サッと光が迸る。
そして、ヒエログリフではない別の文字のようなものとピラミッドのような三角形の立方体が表れたと思うと。
すうっ…
壁が消えて、その奥にさらにある道を曝け出した。
ホログラムがその奥へ歩いていく。
「これって…」
「隠し部屋か?よくこんなものがあったな」
「……いや」
シルフィーモンが否定した。
「これはおそらく、始めからアヌビモンが作り出した空間だろう。だからここに美玖を誘導したんだ」
「でも何のために?」
「そこまではわからない、が…」
通路の奥を見る。
「進もう。アヌビモンが見せたがっているものがこの先にあるのなら」
「わかった」
通路を進めば進むほど、空気そのものががらりと変化していった。
霊廟のような、静かで厳かな空気。
ダークエリアの空気を知るシルフィーモンは、似通ったものを憶えながらも包み込まれるものを感じた。
「昨日あのデジモンどもが現れた時のような空気を感じるが…嫌なものを一切感じないな」
「ええ」
アランの言葉に頷く美玖。
通路を抜けると、そこは広々とした空間だった。
至る所に先程と同じ象形文字に似たようなものが刻まれている。
ホログラムは消えていた。
「これは?」
「デジモン文字だ。ほら、私のゴーグルを見てみろ」
シルフィーモンが自身のゴーグルを指す。
その両脇には確かに、赤い印字で壁に刻まれたものと似通うものが刻まれている。
「デジ文字は我々デジモンがよく使うものだ。全てのデジモン達が読めるわけではないが」
美玖はおびただしい文字列に圧倒されるものを憶えながら歩いた。
そして。
「あれ?」
壁に文字とは違うものがあるのに気づいた。
どこかで、見たような…。
どこかで、知ってるような…。
否。
「わ、私!?」
美玖の大きな声にアランとシルフィーモンが振り返る。
そこにあったのは壁画だ。
そこには、自分達の姿が刻まれていた。
壁画の立ち関係は、今の二人と一体の位置そのままだ。
「…!」
「アヌビモン、一体何を…」
しかし、そこにはもう一つ、シルフィーモンとは別のデジモンの姿が刻まれている事に気づいた。
布のようなものを巻いた、小さな竜の姿をしたデジモン。
「…………おい。そこにいるんだろう?何者かの視線を感じてはいたが、そろそろ出てきて話をした方が良いんじゃないか?」
その場に立ち止まったまま、シルフィーモンが誰にともなく呼びかけた。
背後に生じる気配。
「どうやって俺に気づいた?ともあれ、確かに後を尾けていたことは事実だが、俺はお前達の敵ではない。潮時として、協力を持ちかけたい」
姿を現したのは、クールホワイトに輝く身体をした白い竜型デジモン。
鼻先に一本ある黒い角。
首元には赤いマフラーめいた布を巻いている。
成長期デジモンのようだが、その貫禄は成熟期や完全体もかくやというもの。
シルフィーモンは振り向かず、続けた。
「あれを見たからな」
「"あれ"?……こ、これは!?」
白い竜型デジモンが壁画を見て、愕然とした声をあげる。
まるで自身達がここへ来ることを想定していたかのような壁画。
「なるほど、この瞬間を表してるのか……なんてこった」
「あ…ああ……」
「ともあれ落ち着け、ミス・イガラシ。それより」
アランは震える美玖を落ち着かせながら、新たに現れた白い竜型デジモンを見遣った。
「あんた、見たことないデジモンだな。何者だ?」
「……俺はハックモン。お前達エジプト政府側の協力者だ」
その名乗りに美玖は目を瞬かせた。
「私達の……?どうして、尾行していたんですか?」
「俺と、他に同……仲間がいて、お前達エジプト政府とは別にダークエリアの異変の収拾のために奔走していたのだ。そこで、お前達がダークエリアのデジモンに追われているのを見て得る物があるだろうと見込んだ」
言いながら、ハックモンは壁画を見上げた。
「まさか、こんなものを目の当たりにする事になろうとは。差異はあるが、お前達はデジタマを取り戻し、俺達はデジタマを破壊しようとするダークエリアのデジモン達を元いた場所へ押し戻す。たどり着く場所は同じだ」
壁画に描かれているのは、ここに来た事を予知していたかのようなものだけではない。
明らかに特定の出来事に関わるものまであった。
「これ…!」
美玖がすぐ隣の壁画に血の気を失う。
そこには、二本足で立つ山羊のような外見のデジモン。
その周囲には倒れた複数人の警察官と拳銃を構えた美玖、ロケットランチャーを構えた阿部がいた。
「これは…」
「まさか、美玖。君が警察にいた頃の…?」
美玖の顔色に気づいたシルフィーモンが気遣うように、その肩に手を置く。
ハックモンが口を開いた。
「これは…メフィスモンか」
「メフィスモン?そいつもデジモン、か?」
アランが尋ねる。
日本で起きた事件の事は彼も知っている。
ハックモンは頷いた。
「…メフィスモンは、デジタルワールドの黙示録に記されたある存在のデータから生まれたとされるデジモンだ。俺は師匠から聞いた限りでしか知らないが…」
「そいつが美玖のいた警察署を襲った事に関して心当たりは?」
「おそらく、他の壁画が、その答えだろう」