ーーデジモンに関われる仕事がしたい。
小学生の時、私はそんな事を口にした。
『将来の夢』についての発表。
自分にとって、これが大事だとそう口にしただけだった。
けれど。
その頃、まだデジモンが人間の世界に暮らす事に抵抗を覚える人が多かった頃。
私は変わり者扱いされ、爪弾きにされた。
友達だった子も離れていって、気づけば一人でいる時間が多くなった。
それでも、中学に進めば、また新しい友達はできたのだけど。
変わり者と思われるのは相変わらずで、それでも。
(デジモンと人間は仲良くできないだろうか?)
そんなことをずっと、思っていた。
たとえ誰かに嘲笑われたとしても。
こちら、五十嵐電脳探偵所 #21 なにかが違ったタイタニック
(*今回、1997年公開の映画『タイタニック』のネタバレが含まれます。ご注意下さい)
「わーい、おちばー!!」
秋の気配が近づき、木の葉も色付いてきた景色。
広々とした公園の中を歩くは、美玖、シルフィーモン、ミオナ、ラブラモンの二人と二体だった。
「もう衣替えの季節かあ…冬になっちゃったら色々とキツイなあ」
そんな事を言いながらミオナがため息をつく。
冬になれば空気も乾燥するからだ。
乾燥を弱点とするホムンクルスには何かと厳しい季節といえる。
そんな彼女を気にもせず、ラブラモンは先行き落ち葉を踏んで楽しんでいた。
「そうね…私も寒いのは少し苦手だし、今の方が過ごしやすいから秋が好きなのよね」
「美玖、冬が苦手なんだね。少し意外かも」
「一年通して過ごしても、そうは思ってたから…シルフィーモンは?」
「私か?…春かな。逆に夏は駄目だ」
どうしても、暑さが羽根にキツい、とはシルフィーモンの弁だ。
砂漠の巨鷲という別名を持つアクィラモンとのジョグレス体として知られるデジモンには意外である。
「正直この国の空気が良くない。どうも合わないんだ。まだアラブとかあちらの方が肌に合う」
「全然気候違うじゃん!?」
(というか、アラブ行ってたんだ…)
そんな事を思った美玖だったが、ふと、視線を感じて振り返った。
公園のベンチに座った一人の男。
歳は40才程で短くも豊かな黒い髭を蓄えて、黒のサングラスをかけている。
その目が向けられた先にいたのは、どうやらシルフィーモンらしい。
(あの組織の?……ううん、違う、わよね)
顔つきや雰囲気は日本人のものだ。
そっと、シルフィーモンの腕に触れて引いた。
「どうした?」
「あの人…」
「えっ?」
「あそこの、ベンチに座ってる人だけど…」
シルフィーモンがそこで男に気づくと、先に動いたのは男の方。
視線に気づかれた事にベンチを立つと、そのままこちらへやってきた。
ラブラモンが足を止めて身構える。
「すまない、私を見ていたとのことだが、何の用だ?」
美玖とミオナを後ろ手に回して尋ねるシルフィーモン。
男は申し訳なさげに頭を掻いた。
「いやあ、すみません。ワタクシは春陽劇団の主催者をしている中嶋英夫と申します。実は、あるプロジェクトのために必要な、デジモンを探しておりまして」
「プロジェクト?」
「ひとまず、お時間が良ければ私達の職場で詳しい話を聞かせていただけませんか?」
「ええ、構いませんよ」
ーーーー
探偵所のオフィスに通された中嶋は、探偵所のメンバー構成やスタンスを聞くや目を輝かせていた。
彼はどうやら今まで人間とデジモンが協力する場というものを、選ばれし子どものような例を除き目にしたことがなかったらしい。
「なるほど、こういう探偵所があったとは…いやはや、普段と違う場所に行ってみるものですな」
「それでは、改めてプロジェクトというものについて詳しく聞かせていただきませんか」
中嶋の話によれば、人間世界に暮らすデジモン達に少しでも人間との認識の"ズレ"を減らそうという試みがあるという。
それは、例えば能力の違いからよるもの、危機管理能力の違いからよるもの。
そういったものを、演目を通じて矯正を試みようというわけだ。
そのプロジェクトの一環として、デジモンにも演目を観て貰ったり、演者としての参加の勧誘を積極的に行ってきた。
しかし……。
「観客としてならともかく、問題は演者探しでしてね…なにせ、人型デジモンは多いのですがこれ!というデジモンが中々いないのですよ」
「それはどういう?」
「ほとんどのデジモンって何かしらの装備を持っていますし、中でも一番困るのは……武器、なんですよね」
「でもそれだけじゃ演者としての条件に当てはまらないのかって言われても…」
「もちろんそれだけではないんですよ。……サイズも重要でして。なるべくなら人型デジモンが良いんですがデカいのが」
「サイズ?………ああー……」
人型デジモンでも2mを優に超える個体は少なくない。
それを考えれば、シルフィーモンはギリ及第点というところなのだろう。
「…そのプロジェクトの件はひとまず理解しましたが、一体なんの演目かお聞かせ願えますか?」
「ずばり、タイタニックです」
「…ええっ!?」
ーー1912年、4月14日、夜11時40分。
北大西洋上のニューファウンドランド沖で一隻の大型客船が、氷山に衝突。
約2時間40分後に、乗客船員問わぬ約1500から1600名もの人々と共に海に呑まれた。
…その船の名はタイタニック号。
20世紀最大の海難事故として歴史に名を残すとも知らなかった、"不沈"の銘を与えられた船だった。
当時最先端の更に先を行く技術に加えて、数々の豪華な施設やデザインが惜しみなくこの船に積まれていたという。
しかし、不沈というこの名も、数々の当時の安全性への認識や思い違いからのものであり、これまた今からは到底考えられないようなミスや些細な問題の積み重ねの結果からは免れなかった。
しかしながら、読者諸君におかれては、本作と今回の話の趣旨としてここで一気には語らず少しずつ語っていくものとしよう。
「……情報屋からの連絡だが、春陽劇団はちゃんと存在する中小劇団のようだ」
中嶋とのやりとりから数日後、C地区から帰ってきたシルフィーモンが持ち帰ってきたのはそんな話。
「じゃあ、詐欺とかそういうのはないのね?」
「実績も残っている。過去にデジモンに向けてのミュージカルなんかも何作か行っているそうだ。…ただ、デジモンはともかく人間の客からの評判は…かなりブレがあるらしい」
「ブレ?」
早い話、原作ありきのミュージカルをやらせると原作崩壊が起きやすい傾向にあるという。
プロジェクトの為だけに動いている劇団であり、あくまでデジモンに向けた演劇を行っているためかは不明だが演劇指導中デジモンの演者に向けてアドリブを任せるのが常だという。
当然、そうなった場合のトラブルやアクシデントも相まって悪い意味でも有名のようだ。
「……どうする?」
美玖が尋ねる。
その視線を受け取り、シルフィーモンは首を横に振った。
「以前のシュートモンの時と同じことになりそうだな……とはいえ、今回は戦闘沙汰になりそうにもないから私としては強く断る理由はない」
「いや、断ろうよ…」
ミオナがツッコむ。
今回の件、シルフィーモンは中嶋から頼まれたのである。
春陽劇団が出す演目、かのあまりにも有名な超大作のミュージカルの主役にだ。
だが、シルフィーモンだけではない。
問題は、美玖がその主役と恋に落ちるヒロイン役にとその場で頼まれたのである。
「なんで美玖も断らなかったのさ!?だってやりたくないんでしょ?」
「そ、そうだけど……」
実際、この超大作の二人は美男美女であり、そしてその片割れたるヒロイン・ローズ役にと選ばれた美玖は恐縮の限りとなっていた。
にも関わらず、断れなかったのはなぜか。
「…う、うーん…シルフィーモンがやるっていうなら…かな?」
「どういう意味よ?」
ジト目で美玖を睨みながらため息するミオナ。
美玖としては、自分がヒロイン役を演るなどとは思ってもみなかったことで。
"地味な"自分が大役を演るなど恐れ多いとは今も思っている。
そう、話を持ちかけられた時断ったのだが中嶋からは
「本来の演者でした女性が事故に遭って全治五ヶ月の怪我を負いましてね。役を降りざるを得なくなりまして…どうしてもお願いしたい」
などと押し切られた。
(もしかして美玖……詐欺とかそういうの遭いやすいタイプじゃ?)
そうミオナが思っても致し方ないことである。
断るにせよ、所長である美玖が決めたのならとはシルフィーモンの弁だ。
ミオナはラブラモンと顔を見合わせ、もう何度目かもわからないため息をまたついた。
………誰かに好意を寄せた事もなかったし、自分にそんな資格もなかった。
爪弾きにされてきたために。
なのに。
『お前、優斗さんにチョコレート持ってくんなよ?デジモン狂い女』
『あんたが寄るとバカが移るのよ。ほんと近寄ってほしくないわ』
『持ってきたら即、ゴミ箱行きな』
そんな事を言って立ち去る女の子達の後ろ姿をただ見ているだけしかなかった。
多分、私を見かねた宮子とのやりとりが聞こえてたのだろう。
私には、そんな気はなかったのに。
バレンタインデー前日の、放課後の夕暮れで私の独り言だけが教室に響いて。
『…なんで皆、そんなにデジモンや彼らのために頑張ろうって人達を嫌うのよ。…なんで…』
ーー結局、私がチョコレートを学校へ持っていくことはなかった。
……けれど。
この後で私は、友達を守るために自分の人間としての尊厳を投げ打つことになるとは思ってなかった。
……それを取り戻すために、ほとぼりの冷めないうちから必死に、勉強もしたけど。
……全ては、デジモンの近くで彼らの為に何かをしたいという、その望みだった。
だから、きっと、この時も……。
「うわあ……これ、セット、なんですよね。本当にこの上に?」
隣の県の公民館。
そこで初めて見るものを見上げ、美玖は気抜けした声をあげていた。
それは、タイタニック号の船首のセット。
さすがに現物大ではないが、それでも下から見上げた時の迫力は中々のものだと美玖は思っている。
ーータイタニック号は全長269.0m、全高53m。
新大陸に夢を望んだ当時の人々は、どんな想いでこの巨船を見上げたのだろうか。
「本物はこれ以上に大っきいのよね…」
そんなことを呟いていると、シルフィーモンの呼ぶ声。
結局、シルフィーモンと美玖は共にタイタニックの寸劇に参加する羽目となりその打ち合わせを頻繁に行うこととなった。
公演は一人と一体が来た公民館のステージで行われることが決まっており、すでに演者もその顔を見せに来ている。
うち数人は、俳優を目指していたり、現役だが知名度の低い顔ぶれがほとんどだ。
「やあ、あなたが、この劇に参加してくれると聞くデジモンですか。初めまして!」
言いながらシルフィーモンに握手を差し伸べてきたのは、ヒロイン・ローズの婚約者を演じるライル・カートレット。
日本に住んで10年目となるアメリカ人で、日本語も堪能、普段はエキストラとしての参加が多いそうだ。
「こちらこそ」
シルフィーモンがその握手を受けると、ライルはうなずき握り返した。
彼が演じることになるローズの婚約者・キャルドンは高慢で私利私欲なタイプだがそれを感じさせない好漢さである。
「で……」
シルフィーモンと美玖の目線が集中する。
演者の中で明らかに浮いた顔がそこにいた。
「なんでお前がいるんだ、ホーリーエンジェモン」
「ははは、なぜというのは心外だな。いや、シスターに尻を蹴られてここにいるだけなのだがな。慈善活動、というやつだよ」
言いながらホーリーエンジェモンが苦笑いを浮かべた。
身に纏ったカソックコートが様になっている。
「お知り合いでしたか」
「ええ、まあ」
ライルの言葉に曖昧な答えで返す。
「で、何の役なんだ?」
「カソックコートということは…聖書を読むシーンですよね。映画で観ました」
「そう……新約聖書のヨハネ黙示録第21章!それを甲板の上で読み上げる役ですよ、美玖さん」
史実にて多くの人々により目撃されたとされる、印象的な場面か。
見ればホーリーエンジェモンの手には確かに聖書がある。
傾いてゆく甲板の上、乗客達の前で聖書を読み上げた神父もまた船と運命を共にした一人だ。
だが、それを聞いたシルフィーモンは一言。
「どうあってもこいつは船と一緒に沈みそうにないだろ」
「中々の塩対応だね、面白い」
「…そうでしょうか」
確かに、飛ぶための翼を持つ天使型が沈みそうにない。
だが、ホーリーエンジェモンが来たのは、ある意味では重畳だった。
「あれから二週間程だがどうかな?」
「今のところ、発作は起きていないです。まだ不安が拭えませんが…」
「チェックしておこう。ああ、着けたままで構いませんよ」
言いながら、彼の手が美玖の胸元で光る護符に触れる。
護符の仕組みは、美玖の体内に溜まる闇のエネルギーを吸い上げる事で発作を予防するものだ。
そのエネルギーは定期的に抜く必要があるとホーリーエンジェモンは事前に説明している。
「ふむ、二週間とはいえ結構蓄積していますね。今回は時間を共有する機会も多いですし進行度合いを見ておくとしよう」
ホーリーエンジェモンの護符に触れた手が光を放つと、禍々しい紫の煙が立ち昇った。
「ひとまず瘴気抜きはしておきました。これで様子は見ておきましょう」
「ありがとうございます」
「こちらも初めての試みですからね。問題が発生した時に備えておきたいので」
ーーーー
さて、それからは練習だ。
台本の読み込み、監督からの厳しい指示、失敗のたびのリテイク。
演劇経験など皆無のシルフィーモンや美玖は苦戦させられる事となった。
実際には幾つかの場面ごとにセットを切り替える仕様だが、セットを必要とするシーンは数日ほどの仕込み以外はアドリブでやる方針とは中嶋の弁である。
「あ、あの、一つ聞きたいんですが…」
「どうしました?」
「次にやるシーンって、デッサンのシーンですよね?ローズがジャックに依頼して……」
映画の中でも冒頭で見つかったデッサンがこの過程で描かれる事を示すシーンだ。
サファイアめいた青いダイヤ、碧洋のハートを着けた若く美しい裸婦のデッサン……
美玖の顔が羞恥で赤く染まっている。
「ま、まさか、脱ぐんですかっ!?」
「脱がなくて大丈夫ですよ。極めて肌色に近いベージュの薄物で対応しますので」
「よ、良かった……」
胸を撫でおろす美玖。
それにシルフィーモンが尋ねた。
「裸ではダメなのか?」
「色々とダメ!!」
「そうなのか…」
そうですね、と苦笑する中嶋。
「お子さんの観客も来るかもしれませんので、裸とかラブシーンは流石に演るわけにはいきませんから」
「うん……大人なシーンはね、変に影響与えると思うし」
「……意味はわからないが、ダメだというのは理解したよ」
そうシルフィーモンは肩をすくめた。
そうでなくとも、美玖としては平静として演れる自信はない。
ましてやシルフィーモンが相手となれば尚更だ。
(とてもじゃないけど……俳優さんは本当に凄いって思うな)
いくら何度もシルフィーモンと交わっているとはいえ、呪いの発作によって理性が飛んだ状態の上だ。
記憶がなくなるのである。
正常な状態の意識で交わってない以上は、どうしても恥じらいが勝ってしまう。
(シルフィーモンは……多分、そこまで意識してないよね)
そう思いながら、シルフィーモンを横目で窺った。
彼は特にこれといった変化を見せる様子もなく中嶋に演技について色々と尋ねている。
「どうしてもダメか?」
「ええ、さすがに女性の裸を晒すわけにはいきませんから」
「美玖の裸を見るなら私は一向に構わないよ」
「そういう問題では…」
「もっとも、好きな人間の裸を私以外の奴の前に晒すのだけは良くないがな」
瞬間湯沸かし、一瞬でゆでダコの如く顔真っ赤。
美玖の叫びが響いた。
「シルフィーモンー!!!!」
一方、ミオナ達は美玖とシルフィーモンが不在の間を任されている。
元々ミオナの探偵所での立ち位置は同居人程度のものだったのだが、やむおえぬと手伝うことになった。
「全くもう………あの二人、ホントに大丈夫なのかな」
「へんなひとたちなのはたしかだけど…さぎじゃなくてよかったね」
「そうだけどさ…なんか納得できないっていうか」
唇を尖らせながらミオナはメモを取る。
電話の受付で来た、浮気調査の相談予約だ。
「予約日は○月○日の14時と。ひとまず二人に知らせておけばいいのよね」
「あとでふせんにかいてれいぞうこにはっておくね」
「……随分、家庭的……」
美玖とシルフィーモンのスケジュールは、変動こそあるが大体午前8時から9時に春陽劇団の元へ行き19時に帰ってくる。
ミオナ達はこの間、美玖とシルフィーモンの代わりにデスクワークや電話による相談受付を請け負っていた。
「早く終わらないかなあ…」
そんな事をミオナはつぶやいた。
流しているテレビでは、大人気ドラマシリーズの数年前に放送された分のシーズンが再放送されている。
最近は経済や治安等で重いニュースばかり扱われているのが億劫になり、明るいテンポと魅力ある登場人物、緻密なストーリー構成で人を惹きつけるこのドラマを流すことが増えた。
ラブラモンはそんなミオナを手伝いながら、ため息をつく。
(こんな事をしている場合ではないんだがな……)
アヌビモンとしての姿に戻るためにも、美玖の協力を得る必要がある。
しかし、それが叶うことが難しい現状は、アヌビモンとしても非常に招かれざることだ。
(メフィスモン(奴)の行方もわからずじまい。ロイヤルナイツの追跡がどこまで進んでいるかも不明。……これは、あいつの尻を蹴飛ばす必要があるかもしれないな)
そう思いながらヴァルキリモンの方を睨む。
ーーー何をそんな怖い顔で睨んでるんだい?
「後で話があるから覚えていろよ」
ーーー藪から棒に怖いなあ。
………………
「へぇー!五十嵐さんって元は警察の人だったんだ」
「いかにも仕事真面目そうだもんね、中嶋さんの指導にもついてってるし」
「シルフィーモンさんは、初めは依頼人として来たんですね」
「……まあな」
控室にて。
ライルを含む劇団の人々が美玖とシルフィーモンにあれこれと話しかける。
中嶋同様彼らも、選ばれし子供でもないのにデジモンと共同して生活している美玖に興味を示しており、矢継ぎ早の質問が飛ぶ。
「なんか、私達が聞く事情と違うね」
「人間とデジモンが一緒に住んでるって、選ばれし子供を除いたら全然聞いた事ないな。大抵のデジモンは、人間への接触に消極的だし」
「警察がデジモンと協力しないっていうのは、五年前の事件がきっかけらしいんだけど……その辺、五十嵐さんの探偵所はどうなんだろう?」
「………」
五年前。
その言葉に目を逸らす美玖。
見かねてシルフィーモンが代わりに言った。
「私が見ていられなかったからな。初めは、彼女一人だけだった」
探偵所には彼女一人しかいなかった。
それなのに、たった一人で完全体デジモン相手にカチコミを入れようとさえした無謀さに放って置けなくて。
「で、気づけばそこそこの所帯さ。とはいえ現状集った働き手がデジモンばかりなんだが」
「それ、凄いですよ。デジモンばかりって状況なのも」
「うんうん」
彼らは知る由もないが、これら全てが美玖と結ばれた縁によるものだ。
ラブラモンもといアヌビモンも。
グルルモンも。
ヴァルキリモンも。
そしてシルフィーモン自身も。
気づけば美玖との縁が築かれて集っていたのだ。
「皆さーん、そろそろ時間です。お疲れ様でした!」
中嶋が入ってくる。
解散の時間だ。
解散しての帰り道、途中で立ち寄ったスーパーで足りない物や夕食に足せそうな一品を買いに寄る。
この時間となると買い物に来る人間もまばらで、値下げシールが貼られた商品が目立ちだす。
シルフィーモンと二人並んで買う物を見ると、視線がちらちらと向けられていることに気づいた。
(……やっぱり珍しいのかな)
買い物に寄ったスーパーは隣県にある。
デジモンの存在が目立った場所ではなく、それゆえか物珍しさから視線を向ける人が多いようだ。
「あ、このお刺身安いな」
「美玖、こっちはどうだ?」
「キャベツひと玉100円かあ。最近、野菜も値上げしてきてるし、悩むわね」
相談を交わしながら、一人と一体の意見一致で買うと決めた食材や備蓄品をカゴに入れていく。
ーー劇も二日後に始まる。
台本の読み込みや演技はライル達経験者の手伝いやアドバイスもあって形にはなったが、ちゃんとできるかどうか。
美玖は不安を覚えながら、肌寒い風の中、シルフィーモンの背中にしがみついた。
ーーーあっという間に、二日は過ぎた。
開演当日。
朝早く公民館へ向かうと、タイタニック号の場面ごとの部位のセッティングや機具のメンテナンスが行われていた。
開演時間は朝10時。
ミオナ達が来たのは、その20分前となる。
「今、美玖達は中で最後の練習かしら?」
つぶやきながら席につく。
集客はこれまたまばらで、地元の人らしき顔ぶれの他は数体のデジモン達が座っている。
成長期が2、3体、成熟期が4体ほど。
「いちおう、きてることはきてるんだね」
そうラブラモンが言った時。
「すみません、こちらの席は空いていますか?」
「あ、はい」
女性に声をかけられ、振り返る。
そこにいた顔を見て、ラブラモンが訝しげな表情を浮かべた。
「……なにをしにきたの、けいさつちょうちょうかん」
「えっ?」
「久しぶりですね、アヌビモン。今日は春陽劇団の視察に来たのですよ」
言いながら三澤警察庁長官が席に腰掛けた。
ミオナは目を丸くする。
「ラブラモン、この人、知り合いなの?」
「せんせいのしってるひと」
「あなたは…見ない顔ですね。最近探偵所に来た方かしら?」
三澤警察庁長官はミオナの方を向いた。
「私は三澤恵子といいます」
「み、ミオナです」
「ミオナ……あら、五十嵐さんからあなたのお名前は伺っていました。よろしくお願いしますね」
上品ではあるが、厳格な佇まいも感じる。
ミオナは気後れして挨拶以上の返しを躊躇うことになった。
ーー
「美玖、台本の方は大丈夫か?」
「ギリギリだけど、間に合いそう」
「なら良いが、…肝心の一部のシーンはぶっつけ本番なんだよな」
「うん、そこはちょっと心配かな…」
映画を観たことのある美玖には知っているシーンばかりだが、問題はシルフィーモンだ。
実は中嶋から、事前に原作たる映画視聴をさせないよう指示された背景がある。
それを、ぶっつけ本番でやらねばならないとは。
(どう考えても原作崩壊の要因ってこれじゃ)
嫌な予感が早くも沸々としたがもう時間だ。
アドリブでどうにかやっていくしかない。
幸い、シルフィーモンが演じるジャックは超能力者でもヒーローでもない、ごく普通の画家を志した青年だ。
シルフィーモンがデジモンとしての能力を発揮しかねない事はないはず…である。
(でも、ちょっと心配)
そう思っていると、聞き覚えのある音楽が流れてきた。
ーー物語はまず、タイタニック号の遺品を求めていたトレジャーハンター達の前で、一人の老女…ローズが若かりし思い出を語るところから始まる。
タイタニック号のセットが登場し、ググッと観客席に迫ると少しばかり客の驚いた声があがった。
成長期デジモン達が息を飲んで見上げる。
まずは若かりし頃のローズが母親と共に船に乗る。
続いて、ポーカーの勝負でタイタニック号への乗船チケットを勝ち取ったジャックとその友人が乗り込む。
運命の衝突事故が起きる4日前、史実によればタイタニック号はイギリス南部の都市サウサンプトンの港から出航した。
多くの乗客と郵便物、動物達を積み込んで、タイタニック号はニューヨークに向かうことになる。
劇の合間合間に、マイク音声によるナレーションが入る。
劇の邪魔にならないタイミングで、タイタニック号の基本的な知識を、簡潔に観客へ伝えた。
シルフィーモンも美玖も、演技にミスはなく、滞りなく進んでいた。
正直なところ美玖は戦々恐々としていたが、中嶋は問題ないと言う。
だが、その不安要素は、別の形でジャックとローズが出逢った後のシーンにより確実なものになった。
二人がローズの母親とキャルドンと食事を挟みながらの会話を交わす過程で、ローズがジャックに心を開くきっかけとなるシーンなのだが……
バキッ
(((バキッ?)))
席に着いた途端、耳に入った異音にライル以外の二人と一体が怪訝な顔をする。
ライルが若干強張った表情になった。
彼の全身が間近で見て震えている。
ちらり、と彼の下半身に目をやって、そこで理由を知った。
(い、椅子が…!)
彼の座った椅子の脚が二本折れている。
木製の、古い椅子を拝借してきたとの話だったが、運悪くも壊れてしまったようだ。
だがライルはこれを空気椅子で乗り切った。
その上で淀みなく台詞を言えるものだがら経験者って凄い。
そんな事を美玖は思った。
「大丈夫でしたか?」
「うん。結構びっくりしたけどね」
控室でライルに話しかけると、彼は苦笑いしながら応じた。
「壊れた備品はすぐに回収するそうだよ」
「それにしても椅子が壊れるなんて…」
「ここはリサイクル品などから備品を引っ張ってくるからね。経費を節約するためだって言ってたけど」
「ダメじゃないですか!?」
しかし、それもあるシーンの演技で少しだけ和らいだ。
(……うわあ)
初めて公民館で見てから、初めて踏み込む船首の上。
演出の為、上から大型扇風機による風が強く一人と一体に吹きついた。
事前にシルフィーモンへ、どうするシーンかを簡潔に伝えておいた美玖は先立って船首の上に立つ。
演者が掴まることを想定してか、船首のセットはそれなりに丈夫なようだ。
船首の手すりを構成する四本の横棒の一段目に足を乗せる美玖。
シルフィーモンはその後ろから支えるために立った。
本来のジャックよりかは身長が高いため、ローズに続いて手すりに足をかける必要がない。
落ちないように手すりからワイヤーに腕を回し、美玖の身体に掛ける。
美玖を見れば、このシーンを演じるのを楽しんでいるのか、ゆっくりと両腕を鳥の翼の如く広げリラックスしているようだ。
…元々このシーン自体が映画の中でも有名ゆえ当然だろう。
(……ん?)
ふと、観客席を見下ろして、シルフィーモンはミオナ達を見つけた。
そして、その脇にこの場にいるとは思えない顔も。
(三澤警察庁長官!?なぜここに)
だが美玖の方は気がついていない。
むしろ、憧れのシーンを演じる機会を得て雰囲気に浸りきっている。
シルフィーモンが三澤警察庁長官の存在に一抹の警戒心を抱く間もなく、物語は進行していく。
問題のデッサンの場面は、中嶋の言葉通り肌の色に近いベージュの薄物と、その上からコートを着てシルフィーモンの前に立つ。
(……これ、裸じゃないから良いけど、それでもめちゃくちゃ恥ずかしい…!)
着替えの際にブラジャーは外して置いてきている。
そのため不特定多数の人間とシルフィーモンの前でコートを脱ぐのは勇気が要った。
映画内ではローズがジャックをからかう場面があるが、このままではローズがジャックにからかわれかねない。
対するシルフィーモンが赤面すらしないのでなおさらである。
「うわっ……美玖、あれは……ブラ、着けてない?」
遠目からではあるが、ミオナはすぐさまそう判断した。
明らかに胸の形が違う。
劇としての視点は、モデルとしてソファに横になるローズとそれをデッサンするジャックを横から見る構図になるのだがコートを脱いだ時点で気づいた。
顔も真っ赤である事から大丈夫ではないな、と察した。
横で、三澤警察庁長官の目が鋭く光る。
(……この人も気づいたわね。怖いわぁ〜……)
初対面とはいえ、初印象が実際の彼女の性質に違わぬ事を確信しミオナの頬を冷や汗が伝う。
ラブラモンと椅子がないので直に床に座るグルルモンは気づかない。
(この人、さっきラブラモンが警察庁長官って言ってたから、警察でもかなり偉い人よね?…後が怖い)
そして、映画中盤に当たる場面であり運命の時間。
史実にて実際に起こった事ーーそう。
氷山がタイタニック号に激突するシーンである。
こちらも専用に用意された横向きの船体。
タイタニック号の右舷側、船首に近い部分のみのセットだ。
…史実によれば。
出航した11日からしばらく、タイタニック号には幾度も氷山の情報が入っていた。
多くはタイタニック号がこの後通過する事になる海域を中心に発見した氷山群についてのものであったが、この警戒の呼びかけはあまり重視されなかった。
海図に氷山の発見された情報こそ記入されていたが、明確に伝達されたのは11日の夜にフレンチ・ライン社の定期船ラ・トゥレーン号からのものと14日朝にキュナード・ライン社の定期船カロニア号からのみ。
無線こそあったものの、乗客から故郷への私信に殆どを割かれてしまってもいた。
当時無線通信を重要視していた者はタイタニック号には少なかったようで、肝心の警告は受け取られたものの船長への報告やその船長自身の情報の扱いもおざなりであった模様。
航海士達も外への注意に必須とされる双眼鏡を何故か渡されていなかったことが判明している。
これについて、船員達の証言によれば、サウサンプトンを出航する前まで双眼鏡はあったがその後の紛失について詳細を聞かされなかったのだとか。
説明を一旦おいて。
美玖とシルフィーモン、そして一部のエクストラ達がセットの上に立つ。
この時氷山を発見する事になる二人の見張り員が見張り台へ。
氷山も個別のセットとして、ステージ端から距離を縮めるように船へ激突する演出となっている。
合図は、ステージ端、裏側にいる中嶋が行った。
美玖がシルフィーモンの方を向いた時、上からけたたましい警報の鐘と見張り員役の声が聞こえた。
「真正面に氷山!!」
この日の海はベタ凪といって風もなく波も立たなかった。
視界を頼りにするなら氷山の裾に当たる波による反射の光も必要だが、それが見えないとなればぶつかる危険性が高まる。
船首に合わせて、ステージの裏側、端から"氷山"が距離を詰める。
氷山は発泡スチロール製で、ぶつかる部分には幾つかの破片を詰め込み敢えて崩れやすいよう工夫している。
この時までタイタニック号は船長からの指示を受けて全速力で進行しており、見張り員から連絡を受けた航海士を通じて操舵手が左への全力回避を試みていた。
だが間に合わず氷山へぶつかる直前、シルフィーモンが美玖を抱えて走り出した。
「シ……!?」
船と氷山が衝突する。
予定通り、ぶつかった氷山の部分から発泡スチロールの破片がデッキに飛び散り、エキストラ達の足元へ転がる。
セットの船体が揺れ、いかにも実物の氷山にぶつかったように見せた。
激しく船の壁へぶつかったシルフィーモンは揺れに微かな吐き気を覚えつつも、美玖を慎重に下ろす。
「シ、ジャッ…」
映画でのジャックの行動からいささか違った行動ではある。
それを美玖は指摘しようとしたが、物語の進行はそれを許さない。
この後二人はキャルドン達と鉢合わせることになる。
この時ジャックは碧洋のハートを盗んだかのように濡れ衣を着せられ、警備室にて手錠で拘束されることになるのだが……。
(あっ……)
手錠を掛けようとした執事役が不意に止まる。
手錠は本物ではないが、サイズはごく普通の手錠基準だ。
(どうした?)
シルフィーモンも小声で尋ねる。
(その、腕が)
……そう。
シルフィーモンの腕は太く逞しく、手首そのものは人間のそれよりサイズを上回る。
手錠のサイズが全く合わず、嵌まらない。
この異変にライルも気づいた。
(どうしましょう)
(ロープで軽く縛りましょう。中嶋さんと五十嵐さんにも伝えておくので!)
(はい!)
こうしてジャック・ドーソン、手錠ではなくロープで腕を拘束され、ローズが助けに来るまでの間待つこととなった。
「……なんというか、しまらないなあ」
ミオナがため息をつく。
三澤警察庁長官は何も言わないが、目を光らせて見つめていた。
浸水の様子には大きなビニールプールや大きな水槽を使う。
美玖はジャックを救出しに、パニック状態の客達の間を塗って浸水した場所をじゃぶじゃぶと移動することになる。
水を吸った衣装が肌に重くまとわりつく感触。
救命ボートに人々が殺到する一幕や、ホーリーエンジェモンが聖書を読む場面、楽師達が演奏する場面を挟みながらセットは目まぐるしく回転した。
ジャックを救いに行こうとキャルドンに止められる場面も美玖はどうにかこなして。
途中で渡された小道具の消火斧を手に腰の高さまで浸水した警備室へ入った彼女が見たのは、パイプ越しにロープで拘束されたジャックことシルフィーモン。
(ホントに手錠でやるのは無理だったんだ…)
逃げろ、と叫ぶシルフィーモンだが、状況を考えればあまりにもシュールだった。
彼の力ならばロープを引きちぎる事は決して不可能ではない。
そうしないのは演じるジャックが本来人間であるからだが、デジモンが演じているばかりにどうしようもなくシュールさが先立った。
更にこの後。
救出後、船内の脱出を目指す二人の目の前を格子がさえぎる。
本来ならばここで二人を助ける人物が現れるのだが、生憎もここもアドリブ任せとなっているためにまたしても。
「少しの間下がってろ」
「えっ?!」
ここでシルフィーモン、格子に手をかけるや否や。
力を込めて曲げてしまった。
「……」
さっきのロープに拘束された姿は何だったのかとツッコミたくなる。
これには、二人を助ける人物の役を演じる男性もステージの隅で苦笑い。
(すみません!!)
心の中で詫びつつ、美玖はシルフィーモンに手を引かれる羽目となるのだった。
……タイタニック号の沈没が始まるまで、幾つもの出来事が起こっていた。
船員達の多くは、自己保身より船となるべく多くの客の助けを優先。
例えば通信士の二人、ジョン・ジョージ・フィリップスとハロルド・ブライドは衝突してから二時間以上もの間間断なく救助の要請を打電し続けた。
例えば、機関長を始めとした機関士達も、乗客達の精神の支えとなる明かりを絶やさぬ為沈没寸前まで電力の供給を絶やさないことを優先した。
そうして多くの船員は船と運命を共にした。
機関士達の生命を賭けた勇敢な行動により絶やされなかった電力が絶えたのは、完全に船が海に没する前。
この時に、ジャックとローズは船尾へ辿り着き、辺りは闇に包まれることとなる。
タイタニック号の沈没はまず、船首が完全に没したところから始まった。
この時取り残された何人もの船客が海に投げ出される。
生存者の一人であるローザ・アボットが船体の裂ける瞬間を知ったのは午前2時20分少し前の出来事だった。
鉄が裂け、弾けるような音を聴いたと。
電気の光が一斉に消えて、百雷が一時に落ちたような凄まじい音と唸り声が、下の方から聞こえてきたと。
巨大なタイタニック号が真っ二つに裂けて沈む。
映画でも迫力を以て描かれた場面であり、…ジャックとローズの恋の終わりを知らせるシーンでもある。
エキストラ達がビニールプールの中、セットの船尾の縁や甲板にしがみついていく。
「私達はどうすれば良い!?」
シルフィーモンが中嶋を捕まえて尋ねる。
「引き続きアドリブで頼むよ!」
「本当にか!?」
「ああ、有名なシーンだからね!」
……中嶋は、正直予期していなかった。
この後のシルフィーモンの行動を。
ジャックとローズが取り付いたは船尾の縁。
手すりにしがみつきながら、ほんのわずかでも零下2℃の冷たい海へ落ちる時間を先伸ばすために。
予定通りに、エキストラの何人かは傾く船体から滑り落ちていく。
縁にしがみついていた者も、自然と装うようにスクリュー側へと落ちる。
下が深めのビニールプールなので落ちても怪我はない。
ここで、シルフィーモンは美玖を振り返った。
「ローズ!」
「何!?」
「どうにかして助けを呼ぼう!」
「えっ!?」
……これは、と美玖は直感した。
アドリブである以上、必ず何か違う事になるだろうと思っていた。
けれど。
「ジャーーーーーーーーーック!!!」
脚にグッと力を入れたと思うとジャック・ドーソン、ステージの上へ"飛んで"フェードアウトした。
観客席は今度こそシーンとなった。
ステージの裏側も、気まずい空気が流れる。
「おい……」
「どうするの、これ…」
ヒソヒソ声がステージ裏で飛び交う。
完全不測の事態だった。
映画の終盤、ジャックとローズの恋は死別によって終わる。
冷たい海の中に投げ出され、ローズを壊れたドア枠に譲りジャックの生命は冷たい海水の中で途絶えるはずだった。
ところがここで中嶋も、シルフィーモンに飛行能力があることを全く把握していないばかりにアドリブ任せにしてしまった。
その結果、映画とは完全に違った結末が待っていようとは。
「シルフィーモン……」
「困りましたわね」
ミオナ、そして今までずっと無言で劇を観ていた三澤警察庁長官もため息をついた。
(確かにアドリブで頼むとは言ったが、まさか飛ぶとは……えっ、ていうか飛べたの!?)
中嶋も困惑しながら頭を抱える。
まさかのジャック生存ルートの予感に、映画を実際に観た観客も動揺を隠せない模様。
「……どうしましょう」
「仕方ない、このまま進行してくれ。飛んだジャックはカルパチア号に行ったって事で!!」
このタイミングならば、史実にてタイタニック号からの救難信号を受け取った汽船カルパチア号が向かっているはずである。
この船が到着したのはタイタニック号が沈没してから二時間後の4時。
途中、救命ボートを救助する際に氷山を避ける為の行動を取った事を入れても、たどり着いたとこじつけるには良いだろう。
そう判断した。
船尾が沈み始めるように見せかけながらフェードアウトした後、美玖が舞台の上を見上げながら呼んだ。
「シルフィーモン!」
「ああ、今行く」
声に応じてシルフィーモンが着地すると、皆一様に困った顔になった。
「いや、まさか飛べたとはな…」
「この先、しばらくローズだけになるけど大丈夫?」
さすがに今、ジャックが戻ってきたという事にはできない。
了承以外に選択肢はなかった。
「やり…やれます」
「ごめんね…まさかこういう流れになるとは思ってなくて」
「いいえ……なんとなく、わかっていた事でしたので」
場面転換として、ビニールプールの中で数人のエキストラと入る美玖。
船の沈没直後、真っ暗で冷たい海の中を浮上したローズは偶然近くにいた船客の男に突如としてしがみつかれ海に沈みかける。
状況を考えれば致し方のないことだが、パニック状態の男をジャックが殴って彼女を救助する、というのが本来の展開だった。
しかしジャック不在の場合、ローズはどうするか。
彼女にしがみつくパニックに陥った状態の男を演じるエキストラには、演者が溺れないよう配慮の心掛けが指示されている。
なら、どうにか自力で抜け出せる状況を作っておくべきだろうと事前に船客役の男性エキストラと相談はしてあった。
(…ごめんなさい!)
「ンゴっふ!?」
…打ち合わせ通り、払いのけざま拳が男の顔へ。
もちろん力は加減したが…相手は少し、面食らっていよう。
男を払い除けた後、本来なら近くにあるドア枠を見つけたジャックがローズをそこへ誘導、わずかなスペースしかないその上をローズに譲って登らせるのだが。
これもローズが自力で探し、よじ登ることとなった。
(これ、何気に退屈になりそう)
本来なら、ここでローズと、冷たい海に浸かりながら震えるジャックが会話を交わすシーンがあるのだが……それすらないのでなんとも言えない気分になる。
ある意味、ジャックが死ぬまでの時間を過ごすより辛いかもしれない。
そこで、ナレーションが入る。
沈没後の出来事についてだ。
先程述べた、汽船カルパチア号がタイタニック号からの救難信号を受けて向かう旨。
カルパチア号の船長を務めたアーサー・H・ロストロンは連絡を受け取るや冷静かつ速やかな救援準備を行い、遭難地点へ全速力で急ぐよう指示を送った。
この時当船は地中海のナポリ方面に向けて航海中で、船客を抱えた状態での即座の決断にして即行。
そして、遭難地点に到着するとそこでタイタニック号の救命ボートを引き揚げた。
明るくなってから初めて、周辺に点在する氷山群を見つけたという。
全速力で駆け抜けてこれらの氷山に一つもぶつからなかったことは、奇跡と言える。
これに、ナレーションはこうこじつけた。
カルパチア号に飛んだジャックが氷山と沈没について報せ、彼が発見した事で回避させたのだ、と。
こじつけもここまで来ると清々しい。
事実、ロストロン船長は、同僚の船長にこう語っていた。
『夜が明けた時、自分たちが夜中に走ってきた海域に沢山の氷山があるのを見て、身の毛がよだつ思いがした。そしてあの夜は、自分以外の"誰かが"舵をとっていたに違いないと思ったものだ』
と。
全速力での急行前に、船長自身も含める見張りの人員を強化させていたが下手をすればタイタニック号の二の舞となるリスクはあった。
それを、ジャックの働きによるものだと中嶋はこじつける選択をするしかなかったのである。
さて、ローズがこの後どうなったか。
映画を実際に観た事のある者なら誰もが"本来の"この後について知っていよう。
ジャックを失い、救命ボートに救われた彼女は、彼の姓を取ってローズ・ドーソンと名乗り自身の家やキャルドンと改めて決別し新たな人生を送る。
そして結婚し、家族に囲まれ100歳まで生きた。
しかし、ジャックがもし生きていたらどうなっていたか。
ローズは他の男性と結ばれたものの、ジャックの存在は彼女の中に"生きていた"のだ。
なら、若かりし思い出の決着は、これしかないだろう。
ーージャックとローズがその後、円満に結ばれるか、結ばれこそしたもののなんらかの要因で離別となった未来を。
こうして、かなりドタバタし、グダグダとなったミュージカルは終幕となった。
「お疲れ様でした」
「お疲れ様!…すまないね、最後の最後でこうなるとは思わなくて」
滝汗を流しながら、中嶋は改めて美玖に労いの言葉を送った。
今、ステージではセットの片付けが行われている。
ライル達はその手伝いに回っている。
一番の問題は、ビニールプールの水と大きなセットの始末だろうがどうにかなるか。
「こちらこそ…なんといいますか、すみません。うちの助手が」
「いやいや、むしろ今までで一番良い演技してくれたよ。最後のアレ以外は、ほぼ完璧だった」
シルフィーモン自身、ミスも少なく、なんならアドリブ部分も劇団の皆からは少なからず好ましく覚えられているとのこと。
「さすがに僕も最後の沈没時の展開については、衝撃だったけどね。いや…まさか、飛べたとは思わなくて」
「能力について、お話するべきだったかもしれませんね。反省します…」
お互い頭を下げ合っていたところに、スタッフが来客を告げる。
通された相手を見た瞬間、美玖は思わず声をあげた。
「三澤警察庁長官!?」
「こんにちは、五十嵐さん。まさかこういう事にまであなたが働いていたのは、驚きでした」
「け、警察?」
言いながら入ってくる三澤警察庁長官に、中嶋が驚きの表情。
「どうしてこちらに?」
「春陽劇団の噂は以前から耳にしていましてね、そこへこの県の生活課からのPRを受けて知ったのですよ。直にこの劇団の活動を目にできる良い機会でした」
「機会、ですか」
「映画の方は私も息子夫婦と観に行った思い出がありましたので、どう変わるかという興味も幾許か」
言いながら流し目で中嶋を見やる三澤警察庁長官。
中嶋もここで初めて相手が悪い手合いである事に気づいたか、自然と冷や汗が流れている。
「まさか五十嵐探偵所からお二人を勧誘するとは、中々見どころがありますわね」
「いえ、そんなに知られた探偵所だったとは存じませんでした」
「そ、そもそもそんな有名な探偵所ではないです!私自身もまだ探偵としては、未熟でっ…!」
中嶋の言葉に美玖は慌てながらフォロー。
三澤警察庁長官はくすりと笑む。
「そういうところは相変わらずのようですね、五十嵐さん。…デジモンへの思いも、信念も」
正直に申せば、三澤警察庁長官はデジモンについて近頃思うところがあった。
香港で美玖の身に起こった事は三澤警察庁長官の耳にも届いている。
女性としての立場からすれば責苦というべき状況。
それをシルフィーモンがその身を以て鎮め、押し留めている。
それが、三澤警察庁長官には歯がゆい思いでもあった。
…克服どころか、苦しみの深みへ突き落としたのは自分なのだから。
「最近は私も、こういう活動に思う所があります」
三澤警察庁長官は言いながら、美玖の胸元に光る護符を見た。
「デジモンを信じるのは危険だ。その考えは変わりませんが、彼らの力無くして解決できない事象があることを知ってしまった。時として彼らを必要とせざるを得ない。それゆえ、この春陽劇団の方針を咎めることもいたしません」
ただし、と付け加え。
「デジモンを演者として採用する事と劇の指導については修正するべきでしょう」
「修正、ですか?」
「デジモンにも我々人間の文化や互いの相違性について知ってもらうという方針は悪くないと思うのですが。やはり、原作崩壊は宜しくないかと」
「…ですよね」
「それについては、後で改めて春陽劇団とお話の時間を設けましょう」
そう告げ、三澤警察庁長官は去っていった。
……その後、後片付けが済んだライル達と歓談の後、お別れとなった。
「また今度、機会があった時に一緒に演りましょう!」
確かに最後の最後でとんだ路線変更があったとはいえ、彼らからすればこれまでのデジモンと比べても安心して演技を共にできたらしい。
シルフィーモンが行くのを惜しむ者もいた。
帰ると、ミオナ達が先に夕食を準備していた。
「お疲れ、二人とも」
「おつかれさま、やっとおわったね!」
ミオナ、ラブラモンが迎える。
特にラブラモンは、声音に嬉しさが隠しきれていない。
アヌビモンの心境を考えれば相当に焦れていたのは言うまでもないが、気づいた者はヴァルキリモン以外いない。
二人と二体が夕食の席につくと、ミオナがリモコンを取り出した。
「ミオナ?」
「劇からの帰りに借りてきたのよ。観たことのない映画だから、この機会にって」
リモコンを向け、ビデオに切り替え。
再生が開始されると、美玖もシルフィーモンも画面に目がいった。
(久しぶりだ…)
彼女がこの映画を観たのは高校生の時。
勉強ばかりの美玖を、朝奈と宮子の二人が気晴らしの為と映画館へ引きずっていったのがきっかけ。
放映まもなくあまりの大盛況から席に座れず3人揃って立ったまま観る事になったが、それすら気にならない程の感情の洪水が美玖の中で沸き起こった。
言葉にならないくらいの感情と情報の洪水。
海を進むタイタニック号の威容。
船内で繰り広げられる人間ドラマ。
ジャックとローズが恋に落ち、沈没直後の死別から数十年後の老いた彼女が取ったある行動。
それらを、美玖は必死に意識で追い、脳に押し寄せる感情と情報を整理しようとした記憶がある。
泣いていた事を朝奈に言われたのは、映画館を出てからだった。
それを今からもう一度。
「へえ、たいたにっくってほんとうにおおきなふねだったんだね」
映像で海の上を進むタイタニック号の姿にラブラモンが少し驚く顔をする。
「でじたるわーるどだと、あまりうみにふねはだせないってゔぁるきりもんがはなしてたな」
「そうなの?」
「海には凶暴なデジモンが多いしな」
シルフィーモンが代わりに答えた。
「ネットの海はディープセイバーズの領地だ。略奪や縄張り意識から攻撃を受けることも少なくなくて、好き好んで船やイカダで海に漕ぎだそうなんて奴はいなかった。これほど大きな船ならカモにされかねないな」
シルフィーモンがジャックに注目しているのはおさらいをする為のようだ。
「でも本当…本当に、こうしてまた、観る機会があるなんて思わなかった」
"あの出来事"があって以来の美玖は、それによって奪われた時間を取り戻すべく勉学に必死になっていた。
タイタニックを観た影響は非常に強く、それまで以上に勉強に励むようになったのは皮肉というべきだろうか、何だろうか。
そして、問題のシーンまであっという間だった。
シルフィーモンが、ぼそりと言う。
「彼は……飛ばなかったんだな」
「「当たり前よ!!」」
即座に二人のツッコミが飛んだのは言うまでもない。
船尾が最後に沈没するというクライマックスシーンに、なんともしまらない空気が漂った。
だが、ジャックがローズを自身の生命より優先する様に、思う所があったか。
「美玖」
「何?」
「……君は、私が例え仕事でなくとも君の生命を守る事を優先するような事があればどうする?」
暗く冷たい海の底へ沈んでいくジャックに、シルフィーモンはゴーグルの裏でまぶたを閉じる。
同じような状況で、自分が彼ならどうするか?
ーーけれど。
リリスモンから自分を助けようとした事を思い出し、ため息を吐いた。
「…いや、私が君を助けようとしたところですぐ君は無理をしたがるから聞くだけ無駄か」
「ちょっとシルフィーモン、ここ泣きどころなんだから雰囲気ぶち壊さないの、もう」
そう振り返るミオナの顔は少し泣き腫らしていた。
けれど実際そうする、と美玖は答えた。
「だって、…シルフィーモンがいなくなったら、寂しいし悲しい、もの」
そう返すと、何ともいえない表情で返された。
(……少なくとも)
美玖は思い、ラストシーンを観る。
(シルフィーモンに本当の事なんて言えっこない。…私の気持ちなんて)
きっと、迷惑に思われる。
ぎゅっと手を握りしめる。
バレンタインでの件だけでない。
男子に告白された事を断った後で、その当人が他の男子にこう言ったのを聞いてしまった。
可愛いし釣れると思った、と。
それがどういう意味か、ふざけた声音やそれを聞いた周囲の馬鹿笑いから察せた。
(私を好きになってくれる人なんていない)
だから。
映画を観た後、その夜の夢の中で。
美玖はウェディングドレスを纏い、今夜も"花婿"の前に立つ。
(ああ……やっぱり、あなただったのね)
顔はあごの輪郭くらいしか浮き出ないが、全体的な容姿が浮かび上がった以上もう疑わなかった。
それだけに、涙が出そうになる。
(シルフィーモン…私は…)
これが正夢だなんて思えない。
自分が彼に好意を告げたのならばきっと、今までの関係が壊れるに決まってる。
(私にあれこれしてくれたのだって、仕事だから。ホーリーエンジェモンさんから頼まれた事もあるのだから…だから)
この夢の中だけで、せめて完結させたい。
そう思いながら、夢の中の自分に自身の想いを投影させる。
夢の中の自分は変わらず、シルフィーモンの傍らに歩み寄り。
彼の傍らで誓いの言葉を述べ。
彼と誓いの口づけを。
(……この夢が、醒めなければいいのに)
無駄だとわかっていても、どうしてもそう願ってしまう自分を恨めしく思うのだった。
I’m the king of the world! 夏P(ナッピー)です。
今までの展開からして劇団の中に悪いデジモンか刺客がいて舞台が大混乱になるものかと思ったら全然違ったのでした。いや三澤長官が来ていた時点で「事件が起きることを知っていたのですか!」的な展開だと思っていたのに! 結果から見れば平和と呼べる話、けれど探偵事務所を含めた今までの美玖サンを取り巻く関係の総括でもあったのではないでしょうか。
アドリブ塗れながら上手く舞台を熟しているなぁと思ってたら突然のI can fly!でダメだった。本番で初めて手錠ハマらねーと気付くのと同じぐらいノリでやっておられる。あの一連のシーンは映画史に遺してもいい名シーンの嵐なのに台無しだよぉ! そしてアドリブだらけで評判が賛否両論と言われつつも、それで上手く繋ぐナレーションと他スタッフの練度が高すぎる。そして所々で穿り返される美玖サンのトラウマ。しかし最後の描写的に一歩進めたのでしょうか。なんとなくむしろ執着的な意味でいかん方向に進んでいる気もしますが。
んほおおおお散るも夢でえんだああああああ。
それでは今回はこの辺で感想とさせて頂きます。