『宇宙では、あなたの悲鳴は誰にも聞こえない』
そんな映画のキャッチコピーがあるが、この山の中でも、悲鳴が誰にも聞こえることはない。
そんな事を頭によぎらせながら、一人の男が山を駆け降りていた。
恐怖に足はもたつき、脂汗が服をじっとりと濡らし、目は限界を超えんばかりに見開く。
周囲は明かり一つもない、真っ暗な山の中。
テントに置いてきた他の者の安否など思いを馳せる余裕もない。
逃げる、そう、逃げるしか選択肢はなかった。
ざわざわざわざわ………
はぁっ、はっ、はあっ、あっ、はっ、はっ……!
木の根に幾度も足を取られ、それでも山を降りようと走る男。
男の後ろ、その真上を、巨大な影が追いかけていた。
………りん……
りりん、りん……
微かに男の耳に届いたそれは、嗚呼、鈴の音か。
やがて、男は開けた場所へと転び出た。
その先にあったのは、大きな、見るに深そうな淵。
そこで、男の真後ろから大きな影が音もなく飛び降りてきた。
「ひっ!」
男は引き攣らせた表情で目の前の影を見上げる。
影の頭、真横に伸びた大きな角の先端。
そこに吊り下がった鈴が揺れる。
……りん、りりん……
男は迷う事なく淵へ飛び込んだ。
だが腕はもたつき、思うように水を掻くことができない。
波が後ろからぶわりと大きくかぶさった瞬間。
その影の主が大きく水を蹴立て、男に覆い被さっていた。
「がぼっ、ぶぁっ、だ、ばれがっ、だれがっ、だずっ、ぐぇ……ごぼっ…ぼっ…!」
下半身を影の下の大きな口に咥え込まれた男は、そのまま影と共に淵の中へ沈んでいった。
……やがて。
ぷかり、と。
男の着ていた服が、浮かび上がった。
こちら、五十嵐電脳探偵所 #20 牛鬼の淵に鈴は鳴りて
「ただいま!」
探偵所のドアが開き、迷うことなく美玖はラブラモンへ駆け寄った。
ぎゅっと抱きしめ、毛並みに顔を埋める。
「せんせい、おかえり…!ごふ、もらってきたんだ?」
「うん!これで、ようやく…ううっ、ようやく皆に触れるぅ…!」
そう涙目でラブラモンに顔をすり寄せた美玖。
その首元には十字架を付けたチョーカー。
これが、ホーリーエンジェモンが用意した呪いを抑えるための護符だ。
見た目はシンプルだが、その内部には高位の神聖系デジモンによる力が込められている。
これでどうにか発情に苦しめられなくなるはずだ。
…だから。
「シルフィーモン、…本当にごめんなさい」
美玖が一番先にシルフィーモンへやるべきと感じたのは、謝罪だ。
美玖が苦しむのが見てられなかったからといって、知人からの提案で自らのデジモンとしての定義をフイにしたのだ。
どれだけ快楽に苛まれようと、終われば痛感して思い起こされる罪悪感。
……だが。
「謝るな。君のせいじゃないって」
「いたっ」
デコピンをかまされ、美玖は額を押さえた。
ため息をつきながら、シルフィーモンが腕を組む。
「良いか、この探偵所は君がいなければ成り立たない。それに、雇い主に倒れられたら困るのは私だ。力不足を省みるのは悪くないが、そう思うなら最初から……」
「ハイハイ!二人ともそこまで!」
ミオナが間に割って入る。
「それより、お客さんよ美玖。警察だけじゃどうにもならないから、ウチを頼ってきたんだって」
美玖がミオナの指し示す方を見ると、一人の根暗そうな表情の青年が客室のソファに腰掛けている。
その隣には、小柄な鳥型デジモンがちょこんと腰かけていた。
ピンクの羽毛…ピヨモンだ。
「あんたがここの所長さん?」
気怠げに青年が尋ねる。
その腰には…デジヴァイスがあった。
「お待たせして申し訳ありませんでした。所長の五十嵐美玖です。此度は、どういったご用件でしょう」
自然と声が浮ついてしまったと感じる。
なにせ相手は、依頼主として初めての…選ばれし子供だからだ。
青年の名前は高瀬雁夜。
大卒を迎えたばかりで、管理人を務めることになった山間キャンプ場にて問題が起きた。
「キャンプに来た客が、ここ数日の間に何者かに襲われて殺されている。状況からして、人間の仕業ではないのは確かだ」
一番新しい襲撃があったのは昨日。
利用していたのは学生達だった。
テントは無惨に引き裂かれ、非常に粘着質の強い糸が縦横無尽に張り巡らされた中死体が数人分転がっていた。
いずれも大きな獣に貪り食われたような状態。
さらに、キャンプ場内にある大きな淵からは、客の一人のものと思われる服が見つかった。
捜索が行われたが、死体は見つからず……。
「こんな感じでキャンプ場で殺しがあったまでは良いとして、デジモンの仕業だと認定された瞬間に警察は手を引きやがった。そこで、デジモンの事件ならここが良いって噂の探偵所にお邪魔したってわけ」
鷹揚な物言いで、雁夜は肩をすくめた。
彼のパートナーのピヨモンが続ける。
「私達もね、何日か見張ったの」
しかし、すぐに沈んだ声音になる。
「でもね……」
「姿を一向に現さねー。相当こっちを警戒してるのか知らないが、……ほっとけばこっちの面子が立たない。てな訳で、依頼を受けてくれるとありがたいんだけど」
「なんていうか…失礼な奴ねえ…。どうする、美玖?」
呆れ果てた顔で尋ねるミオナ。
美玖は少し考えた後、尋ねた。
「念の為、現場を見させては頂けませんか。それと、いつ頃から殺害事件が起こったかについての情報の纏めと、キャンプ場そのものの地形についても詳しい情報が欲しいです」
「てことは、受けてくれるのか?」
「そう思って貰って結構ってことだ」
シルフィーモンが答える。
それなら、とピヨモンがファイルを取り出した。
「警察の人達が纏めてくれたものがあるわ。それと、キャンプ場の地図も……あった、これよ」
そう言いながらピヨモンが取り出した大きなサイズの地図。
地形としては山に囲まれ、その間に先程話に出たものだろう淵と思しきものが書かれている。
「これが先程言っていた淵か。犠牲者の一人は服だけここで見つかってるんだったな?」
「ああ。結構深くて、20mくらいだったかな。死体がないか、さらってみたがダメだった」
「ともかく、行ってみた方が早そうだね。場合によっては私達が張り込むってのも良いんじゃない?」
ミオナの言葉にシルフィーモンは首を横に振る。
「張り込むのは何のデジモンか判明してからだ。でないと相手に不意を突かれてこちらに犠牲が出る可能性もある。……今回は下手人の判定基準が絞られてるから、特定は容易そうだが」
「そうなの?」
「さっき言ってただろう、糸が張り巡らされてたと。……糸を武器にするデジモンとなると、な」
候補は何体かいる。
最も可能性が浮かぶのは、蜘蛛型デジモンのドクグモン。
次に、知性と戦闘能力どちらも高くドクグモンを統率する能力を持った完全体のアルケニモンなど。
糸を操るデジモンは、いずれも凶暴で攻撃性の高い存在ばかりだ。
「そういえば、この淵には何か住んでいたりしませんか?」
「いや、何もいない。……けど」
雁夜は思い当たりがあってか答えた。
「俺、この手の話は正直嘘くさいと思って信じてないんだけど……爺婆連中は、昔からこの淵には牛鬼が住むって伝説があるって言うのさ。だから、今回の事件もその牛鬼の仕業だって騒いでる」
「う、うしおに?」
って何?
そんな視線がいっぺんに美玖へ集まる。
「……え、私が説明を?」
「せんせい、しってるならおねがい」
仕方なく、美玖は気を取り直して説明を始めた。
「うしおに…または、ぎゅうき、という妖怪のことですね。頭が牛で身体が鬼とも、頭が牛で身体が蜘蛛とも言われていて昔見たアニメだと自分を倒して相手に取り憑いてその人が牛鬼になるなんて事もできてしまってました」
「自分を倒した相手に取り憑く?宿主が新しく成り替わるのか?」
訝しげにシルフィーモンが問う。
「ええ…あれは、子供の頃とても怖かったです」
「うーん、何か関係あれば良いけどね、それ…」
「……ちなみに、だ。この淵に住んでるっていう牛鬼って奴は、夜な夜な淵から出てきては凄い声で吠えたり、人を襲ってたらしい。その、襲われた時の話ってやつがまた、子供騙しより怖いんだ」
雁夜は、話しながらソファを立った。
「で、いつから始めてくれる?」
「明日からだ」
「へぇ!なら、キャンプ場への案内を渡す。ちょっと待ってろ」
ーーー
現場とキャンプ場があるのは三重県のとある山近く。
距離があるため早朝から車で行かねばならなかったが、着いてみれば見晴らしは素晴らしくとても陰惨な事件があったとは思えない程の眺めだった。
「来た、来た!」
キャンプ場の駐車場で待っていたピヨモンが、大きく手を振り出迎える。
車を停めて降りると、ピヨモンは近くの建物を指差した。
「カリヤが待ってるよ、こっち!」
建物は予約の受付の他、薪や一部の道具の貸し出し、トイレや風呂などの施設もある。
山の中へ深入りさえしなければ不自由はしないだろう。
その関係か、バンガロー形式ではなくテント形式のようだ。
雁夜は建物の前で腕を組みながら立っていた。
「こっちだこっち。待ってたよ」
合流と共に、雁夜とピヨモン、一同は現場へと歩き出した。
「ここから少し離れてるから、昨日言った、牛鬼が人を襲ったって話をしてやるよ」
……それは、昔、むかしのこと。
二人の木こりが山奥で仕事をしていた。
ベテランの老いた木こりと、若い木こりの二人組で、二人は昼は仕事をし、夜にいつも決まったことをして過ごしていた。
老いた木こりは次の日に備えてノコギリの手入れを。
若い木こりは焼いた川魚を肴に酒を飲んでいた。
そんなある夜、二人が寝泊まりしていた小屋を訪れる者があった。
それは、不気味な目をした見知らぬ男で、何をしているのかと尋ねてきた。
これに答えたのは老いた木こり。
「ノコギリの手入れをしとるんじゃ。硬い木を切ると傷むんでな」
すると不気味な男がまた尋ねた。
「そのノコギリは木を切るんじゃな?」
そうだ、と老いた木こりが答えると男は小屋へ入ろうとしてきた。
しかし。
「だが、32本目の、大きな刃がな」
言いながら老いた木こりはノコギリの持ち手に一番近い最も大きい刃を見せた。
「このデカいやつだ、わかるか?これは鬼刃(おにば)ちゅうて、鬼が出てきたらこれで挽き殺すんじゃ。どうじゃ、もう少し近くで、見てみんか?」
すると、男は無言で引っ込んでいったという。
「で、男は次の日もやって来た。そして、同じ事を聞いてきて、これもじいさんの木こりがまたノコギリの鬼刃の話をしたら引っ込んでいった…て具合にな」
「でも、何で急にノコギリの刃のことを言い出したのかな?確かに、すっごい怪しそうな人だったからってのもあると思うけど」
「さてな。なんせ男が小屋へやってくるのが連続して真夜中、それも今はもちろんだが昔なんて余程の理由がなきゃ限られた人間以外立ち入らない山奥なんだからな。この時点でじいさんの方は怪しんだんだろう。ただ、若い方は全く気にしてなかったらしい」
その明くる日。
二人の木こりは手強く硬い一本の木に取り掛かっていた。
だが、そこで無理な挽き方をしたばかりに、ノコギリの鬼刃が欠けてしまう。
そこで、老いた木こりは、ノコギリの修理のために山を下りることにした。
だが、そうなると心配なのは若い木こりの方。
あの男は今夜もやってくるだろう。
老いた木こりは、牛鬼の言い伝えを知っていたために男の正体が牛鬼ではないかと疑っていた。
鬼刃がないと知れば、本性を表して襲ってくるに違いない。
そこで老いた木こりは、若い木こりを誘ったが、彼は一緒に下山することを断った。
仕方なく一人で山を下りる時、老いた木こりはこう言い聞かせたという。
「いいか、鬼刃の事は絶対に言うんじゃねえぞ!」
「ここだ」
着いた現場は、山でいえば麓より一合高いくらいの場所。
そこに建てられていたテントの惨状は、昨日説明された通り。
無惨に切り裂かれ、所々血に染められている。
すでに遺体は回収されているが、どこにあったかを示す白線はそのままだ。
糸が陽光に照らされて光っている。
「糸からサンプルを取るわ」
糸はそのまま取ろうとすれば、粘着力で引き剥がせなくなる。
適当な小枝に糸を絡ませると、それを美玖はプレパラートに付着させた。
「何するつもりだ?」
「デジモンの特定だ。ああして、デジモンが残した痕跡から特定する」
「ただの糸を?」
「ただの糸からな」
美玖がツールを起動すると……。
ツールの画面からホログラムが浮かび上がった。
それを見たシルフィーモンに剣呑な表情が浮かぶ。
「こいつは…ギュウキモン!?」
それは、牛の頭部に人型の胴体と蜘蛛のような多足動物の身体が合わさった姿をしていた。
顔を覆い隠す白布には漢字で牛鬼と読める。
「え、ぎゅうき…ってことは牛鬼のこと?これが?」
「想像と随分違うぞ」
言われてみれば、牛鬼と呼ばれているものの要素がごちゃ混ぜに掛け合わされているようにも感じる。
その中で特徴的なのは、頭に生えた二本の角の先端に結え付けられた鈴だ。
「ギュウキモンは何日もの間、目をつけた獲物をつけ回す習性を持つデジモンだ。私もまだこいつの襲撃に遭ったことはないが…」
夜には背後から奇襲を仕掛けることもあり、攻撃の時に鈴が鳴るためギュウキモンに狙われた者はいつ鳴るかわからない鈴の音に怯えなければならない。
「襲撃がギュウキモンの仕業ならこちらも張り込みの手段を考えなくてはな。強力なデジモンで、陰湿でズル賢く、頭も良い。姿を見せないのはそれだからだろう」
雁夜とピヨモンが張り込んで見つからなかったのは、選ばれし子供とパートナーの関係を警戒してのことだろう。
なら、他のデジモンが同行しても姿を見せない可能性がある。
そこで、美玖はある事を思いつき、手を上げた。
「それなら、さっき雁夜さんが話してくれた事、参考になるかも」
「えっ」
ーーその一方。
見事な鍾乳石の垂れ下がる闇。
その奥で、ドス黒い靄がうずくまっている。
とめどなく瘴気を放ち続ける全身は焼け爛れ、獣の爪痕が消えぬ腕は黒い靄に覆われていた。
それがあのメフィスモンのなれの果てだと、ひと目で判別などできまい。
化け猫コマの呪いは、今なおメフィスモンの構成データを蝕み続けている。
コマ自身は中国から来た化け猫だが、日本には化け猫のたたりにまつわる話は多い。
人間に成り代わって人間を呪う。
または。
何代も先まで男児が生まれぬようにと一つの家を祟り続ける。
といった話が多い。
メフィスモンを倒すには至らなくとも、三百年の齢を経た化け猫の呪いの強さは想像以上のものだった。
それを遠まきに眺めながら、フェレスモンは呟く。
「……いよいよか」
そこへ、一人の男が歩いてきた。
湯田悟その人だ。
「フェレスモン様……白羊(はくよう)教の規模の拡大は順調です。寺門(しもん)とアンドレに管理を任せるよう言付けました」
「ほう、出だしは思いのほか順調というわけか」
現在、フェレスモンはメフィスモンの現状を観察する傍ら、自らの目的の為の下拵えをしている。
だが、メフィスモンを蝕む呪いがいよいよ強くなるとなれば、そろそろ同盟者への本腰を入れて然るべきだろう。
「では…湯田よ。"ピクニック"に行くとしようか。支度するがいい」
「ピクニック、ですか」
「左様」
フェレスモンの口元に笑みが浮かんだ。
「同盟者の力を確実なものとするべき地へ下見だ。すでに移動手段は手配してある。……ほれ」
大きな羽音。
広い鍾乳洞の天井から黒い皮膜状の翼を広げて降り立つは、黒い身体に鋭く長い爪を備えたデビドラモン。
「その地というのは?」
湯田の問いに。
フェレスモンはデビドラモンの方へ歩みながら答えた。
「ここを遠く離れたスコットランドたる国にあるスカイ島。なんでも風光明媚と知られる島だそうだが……目指すは影の国。戦士にして女王、女王にして番人たるスカアハという女の座する死と魔の異郷にな」
……雁夜が依頼に来てから三日後。
再びキャンプ場へ乗り込んできた美玖達の乗ってきた白いワゴン車には、様々な物が載せられていた。
テント一式、工具箱一つ、三日分の食事に食器や調理用器具。
そして監視カメラが5基。
雁夜とピヨモンはこれを見るや少し驚いた顔をした。
「何だ、うちの客になりにか?」
「詳しく説明させていただきますので、中へ入らせてください」
「…ああ」
管理者用の部屋まで通された所で、美玖が説明を始めた。
「先日のキャンプ場の現場を実際に視察しながら確立させた張り込みの方法についてプランをお話しさせていただきます。今回の張り込みには、監視カメラを使います」
シルフィーモンがキャンプ場の地図を広げた。
管理者用施設と淵の中間、少し山奥に近い地点にマーカーを置く。
「見張りを行うために泊まるのはこの地点。一番新しく襲撃が遭った場所に少し近い」
「ここにテントを張って、監視カメラを設置した後、私とミオナ、シルフィーモンでここを過ごします」
「待って。私とカリヤが見張って出てこなかったのよ。他のデジモンが見張っても結果は……」
「同じだろう。何も策を講じなかったら」
そうシルフィーモンはピヨモンの言葉をさえぎる。
「だがこちらには、デジモンの目を誤魔化す手段がある。それで最長三日間は様子を見て、何もなければ引き上げるつもりだ」
「それで、どうするんだ?」
「もし我々の他に客が利用しているなら、異常がないか見回りで確認しておく。殺人が発生したならこちらに連絡して、新たな現場を調査して張り込み方法を再考する方針だ。……少なくとも、最善としては今回の張り込みでケリをつけるのが一番の理想だ」
長引けばその分事態も悪化する。
ましてやギュウキモンやアルケニモンのような知能の高いデジモンは、逃せば逃すほど事態を悪化させる可能性が高まる。
一度の失敗で二度も同じ手段が効かなくなるからだ。
「監視カメラの設置も、テントの周囲と生き物に三基ほどと淵からテントまでの道に二基を設置するつもりです」
「生き物?」
ピイッ
鳥の鳴き声に雁夜がぎょっと振り向く。
テーブルの上に気づけば停まっていた金色の鳥。
その胸の下にレンズがくるように固定された監視カメラ。
「おい、この鳥……」
「あるデジモンの連れている鳥だ。危機管理能力の高さから採用した。暗い夜にも対応可能であることは実践済み」
ピヨモンが不思議そうに金色の鳥ーーフレイアを見つめる。
「この鳥…デジモンが連れてるってことはデジタルワールドの?」
「そうだろうな。詳しくは我々も知らない」
「話を戻しますが、テントとカメラの設置を完了した後、私達三名は客としてテントとその近くで三日間過ごします」
この間、ラブラモンとグルルモンを管理者用施設に残し、雁夜やピヨモンも交えて監視カメラの映像をモニターで見てもらうことになる。
深夜の監視やキャンプ側の見張りは交代制を取り、異常が見つかればすぐ他の者を起こして対応する。
……そして最後の三日目は。
「シルフィーモンに、離れてもらう」
これには無論、意図がある。
そしてこの三日目こそが本番だ。
「それまでにギュウキモンが現れた時が、私達の勝負です」
その時ギュウキモンがどう出るか。
この時に併せて救援を要請してあるとはシルフィーモンの弁である。
「これらの物も、ツテやコネで用意したものだ。時間はかかったが始めよう」
作戦が実行されたのは午後13時。
美玖と擬装(クローク)コマンドにより人間の姿となったシルフィーモンがテントを張っている間、ミオナは監視カメラの設置を担当した。
最初に設置に訪れたのは、牛鬼が潜んでいるとされた淵の近く。
「……なんというか、不気味ね」
黒く淀んだ水面にぽつり。
波一つ立たず、泥の強い臭いが鼻につく。
警察が底までさらっただろうから牛鬼などいる訳がないだろうが、それでも。
何か得体の知れぬモノが潜んでいるのでは、という心持ちにさせる雰囲気があった。
「……まずは、この辺と」
テントを張る位置に向きを合わせ、途中の茂みに隠すように一基を置く。
更に、距離を空けてもう一基カメラを仕掛ける。
ギュウキモンは必ず、この道を通るはずだと。
テントの近くへ戻れば、テントの骨組みは組み終わっている。
近くの木の上で、フレイアがそれを見下ろしていた。
胸の位置に固定し装着されて光るカメラのレンズ。
なお、今回の調査に用いるカメラは全て特製だ。
デジモンとは、存在するだけで電子機器に強い影響を及ぼす。
現在はだいぶ人間側の方で調整ができるようになっているが、デジモンが人間世界に移住し始めた時は酷い有様だった。
マトモに電子機器が機能しなくなるのは、人間としては死活問題。
それでも原因は判明し、軽減はできている。
しかし……完全体クラスともなれば絶対影響が出ないという保証はない。
むしろそれを利用して意図的に電子機器の機能を麻痺させてくる者もごく一部存在するのだ。
今回は、完全体デジモンであろうと影響の出にくい仕様に調整されたカメラを使用している。
その調整は、ミオナの手によって行われた。
科学者である裕次郎を影ながら手伝っていた事もあり、ミオナは電子機器や実験器具の扱いに長けている。
カメラの調整のため、シルフィーモン、及び自身の中に内包されたドルグレモンのデータを参考にした。
「こんなところかな…」
テントを張り終えると、美玖はシルフィーモンの方を向いた。
「それじゃお昼ご飯にしましょう。おにぎりがバッグの中にあったはず」
「ちょっと待って……、あったあった」
朝に握ってきたおにぎりを、テントの中で食べながら二人と一体は外を眺めた。
テントの中にまで流れてくる木々の濃い香り。
いつかのエジプトの時のように、こんな時でなければ…。
「…なんか、考え事してるけど大丈夫?」
ミオナが話しかける。
「えっ……あ、うん…ちょっとね」
余程考えに耽っていたのだろう。
焼き鮭が具のおにぎりを一口食べ、美玖は言葉を続けた。
「仕事じゃなくて、休日みたいな、何の事件もない時だったら良かったなって。そうしたら、こんな時間も」
「美玖」
シルフィーモンが向き直る。
それでも、続けた。
「師匠から探偵として始めても良いって言葉を貰って、シルフィーモンが来て、一緒に探偵としての仕事を始めるようになってから…仕事じゃない時に来たかった場所が増えたの。キャンプはとっても久しぶりだし、その前の、エジプトの時も」
「エジプト!?」
「依頼で行ったの。綺麗だったよ、ナイル河」
だからね、と少しオレンジ色になった日差しを見つめる。
「いつか、仕事抜きで、皆で、思い出になるような場所へ行って…ね。人間もデジモンも関係なく、一緒に食べたり飲んだりとか、話したりとか、そういうのができたらって」
「……どうして、そんな事が言えるんだ」
シルフィーモンが目を背ける。
「美玖。君は我々デジモンに傷つけられた。身も心も。普通の人間ならそんな事は言えないはずだ。それは、リリスモンから受けた呪いにしても、君も目にしただろう組織の拠点で起きた件についても」
「………」
長い沈黙。
ミオナは、どうしていいかわからず、一人と一体を見ているしかない。
まだ自分はこの探偵所に来たばかりだ、だからわからない事がほとんどで。
それでも、寿命が近いと自棄になっていた自分を引き止めてくれた事に感謝したからこそ。
「……私は、ね」
ようやく、美玖の口が開く。
「困ってたりとか、迷ってる人の事はそれはそれでほっとけないの。何もできないままが、一番嫌。だから、私にとって苦しい事は今も沢山あるんだけど……それを理由に目を背けたりとか、逃げるのだけはしたくない」
「……だけど君は、」
言いかけて、シルフィーモンは口をつぐんだ。
それ以上言えないものを、触れてはいけないものを躊躇うように。
そこへ突如携帯が鳴り響いたのは、ミオナにとってありがたいことだった。
『いま、もにたーにかめらがうつってるのかくにんしたよ!』
ラブラモンだ。
「そ、そうか。明暗や角度はどうだ?」
『そっちももんだいないよ』
「わかった、なら今から監視を始める。頼んだぞ」
「うん!」
改めて時刻を確認。
現在は15時……まだ、日は落ちない。
「…二人が良かったらさ」
ミオナが切り出す。
「今まで二人が解決した事件の事とか、いっぱい聞かせてくれる?」
これで良かったのだろう。
過ぎていく時間と共に、そして今摂っている食事と共に彼女らの口から語り出されていく事件の数々に耳を傾けながら。
ミオナは和らいでいく一人と一体の空気を肌で感じた。
美玖もシルフィーモンも、お互いを強く案じている。
側から見ていて苦しくなる程に。
深入りするに自身はまだ彼らを知らない。
だからこそ、今のうちはまだこういう時間が必要なのだ。
「……それで、今はそのイーターって奴についての調査もしてるんだね」
「最近得た情報から、メフィスモンとは無関係でないことが判明してね。それで、並行して行っているところだ」
香ばしい匂い。
鉄の串に刺したアスパラガスとそれに巻かれた豚肉。
塩と胡椒を適度に振ったそれを焚き火の上で回しながら焼く。
ご飯を炊いた飯盒も、火から下ろされ蒸らした状態だ。
もうすぐで、できあがるだろう。
「……たとえ、危険な調査の途中だとしても」
シルフィーモンはつぶやく。
「もっとこういう時間が必要だったんだ。…彼女にこれ以上苦しい目に遭ってほしくない」
そう、耳元で言われた。
だから、ミオナは少しばかりだがシルフィーモンの人となりを察せた。
(いつもクールな感じに思ってたけど…こんなに、感情のある優しいデジモンだったんだな…)
と。
ーー食事を終えた後、二人と一体は揃って管理施設へ戻った。
器具の洗浄と、監視カメラの確認を行っておくためだ。
全員揃っているのは、万が一の襲撃のためでもある。
「…それで」
美玖達が器具を洗う音をBGMにシルフィーモンは尋ねた。
「監視カメラには未だ何も映ってないんだな?」
「ああ、今のところは何も」
雁夜は言いながらモニターに目線を向けた。
そこには五分割の映像が映っている。
テントを高い視点でみおろし、時々揺れているのはフレイアの身体に固定してあるものだ。
「淵の方も特にな。けど、本当に上手くいくのか?」
「何もしないよりはマシだろう」
なお、今のところは宿泊客はいないとのこと。
これがはたして、どう影響されるか。
「もしギュウキモンに襲撃目標の条件があった場合は、何もないことを考えなくてはいけない」
「ああ、デジモンがいたら手を出してこないって可能性か」
「今回とは違うが過去に意図的にデジモンを避けた事例がある」
ブギーモンによるデスゲームへの強制参加には、デジモンを弾く軽度のセキュリティシステムが使われていた。
しかし、今回は電脳世界ではなく現実の世界。
デジタルポイントでもないため美玖のツールのモーショントラッカーも機能しない。
「今夜一晩あたりが勝負だと思っている。これまでの犠牲者もおそらく一晩で…」
先日の調査の際に、他の襲撃場所にも訪れた。
犠牲者はいずれも一般人ばかり、うち一件は大型犬二匹を連れていた。
愛犬家でなくとも目を背けたくなるような有様の痕跡が残されていた記憶が蘇る。
血に塗れた毛の一房、ズタズタに食いちぎられた首輪……。
「戦闘においても厄介な相手だ。早期決着をつける」
ーーーー
管理施設からキャンプへ戻った時にはすでに19時を過ぎていた。
美玖とミオナがコーヒーを手に取りとめのない話をしている傍らで、シルフィーモンは脇に工具箱を置いていた。
キャンプで過ごすにしては、少しばかり異様なサマではある。
「……それで、今度ね……」
友達と行く予定を話す美玖。
せめてこれが、ごく普通の会話であれば良かったのだが。
耳を傾けながらそう思い、気を張り詰めさせているシルフィーモン。
そこで、通信が入る。
≪ 淵の方で反応を確認した。何かが淵から出てきたぞ。 ≫
「!」
いよいよか、とシルフィーモンは目線で美玖達に知らせる。
「…それで?」
≪ 今、別のカメラにも映った。デカい何かが通ってく。鈴の音もするな。 ≫
シルフィーモンが工具箱を開ける。
中から取り出されたのは……ノコギリだ。
美玖はミオナと目を合わせてうなずき、テントの奥へ移動していく。
数分後。
≪ 近くに誰か来てる。デカい奴じゃなーー
「誰だ!」
シルフィーモンが声を張り上げた。
テントの向こう側に写る人影。
緊張と沈黙。
しばらくして、何者かがテントの中を覗き込んできた。
「何しとるんじゃ?」
覗き込んできたのは男だった。
薄暗い中、その目は明かりに照らされて不気味に光る。
いかにも百姓風といった格好だが、あまりの違和感に美玖は背筋が凍る思いだった。
間違い、この男は……
「ノコギリの手入れだ。明日DIYの為にな」
シルフィーモンが答える。
「でぃー、あい、わい?」
「え、ええと…大工さんみたいな事をね」
ミオナが答える。
若干笑顔が引き攣ってはいるが。
「なら、そのノコギリは、木を切るものだべか?」
「そ、そう!」
ミオナの返事を聞いた男が、テントの中へ押し入ろうとした。
美玖が身構える。
だが、先手を打ったのはシルフィーモンだ。
入ってこようとする男の目前で、ノコギリを自分の手元に引き寄せる。
「ところで、このノコギリの、32本目の刃が何て呼ばれているか知ってるか?ここは鬼刃(おにば)というらしい。これで鬼を挽き殺すそうだ。…もっと近くで見てみるか?」
すると。
男は、何も言わずにすうっとテントから退いていった。
ーー時刻は21時。
しばらく沈黙が続いた後、シルフィーモンは無線の向こうの雁夜に連絡した。
「……テント周辺の様子は?」
≪ …あ、ああ。さっきの男はカメラからも消えた。淵の方にデカい影が通ったから戻ったんだろう ≫
「…そうか」
そして、また沈黙。
(これで推測は合った)
シルフィーモンは思う。
間違いなく、今のはギュウキモンだ。
ーー今回、ある推測が立てられていた。
いずれの襲撃場所もテントの中で人間が殺された状況だ。
ギュウキモンがすんなり入れるサイズではない。
とすると可能性は一つ。
(ギュウキモンは、牛鬼の伝説を模倣した狩りを行っている)
デジモンの中には人間に擬態する者がいる。
過去であれば、人間の目を隠すためにやっていただろうが、公に人間の目前で歩くことができるようになったため現在ではやる必要性がない。
…ならば可能性は二つだ。
一つは、人間を危険視したデジモンが人間を避けるため。
もう一つは、…アルケニモンが特にこの手合いゆえに有名だが、人間に警戒心を抱かせずに近づき襲うため。
雁夜から聞かされた牛鬼の伝説も、まさにそのようなものだった。
鬼刃を失い、たった一人残った若い木こりがどのような末路を辿ったかも。
その夜は、交代制で眠ることにした。
一人、または一体が二時間置きに見張りをし、何か異常を察知したら他の者を起こす姿勢だ。
特に美玖かミオナの場合、優先してシルフィーモンを起こすことが取り決められている。
ーーそれから、午前二時頃。
最初に見張りをしていたのはミオナ。
あくびを噛み殺し、コーヒーをすする彼女の傍らに端末が鳴った。
すぐに出ると、ラブラモンの声がした。
≪ あ、みおな!おきてたんだ、よかった ≫
「どうしたの?」
≪ ふちのちかくにせっちしたかめらから、なきごえがするんだ ≫
「鳴き声?」
……その時である。
ーーーォォオオオオオン……
「!」
思わずコーヒーを落としそうになった。
悲しそうな、獣が吠えるような鳴き声が、わんわんと響いてきたのである。
「…シルフィーモン、起きて。起きて!」
「……どうした?」
揺さぶられ、体を起こしたシルフィーモン。
ーーおおおおおぉぉぉぉぉん……
「!」
ただちに身構える。
≪ さっきからこのなきごえがするんだ。そっちはどう? ≫
「こっちも今聞こえ始めた。淵ってここから1kmは離れてるんだよね。だから結構声が大きい」
「…にしても、ギュウキモンにしては随分と大仰だな。獲物を取り逃がした事への当てつけか?」
ーーウォオオオオオオォォォォン……
「……これ、美玖も一度起こしていい?」
「そうしてくれ。おそらく今晩だけとは限らない」
「わかった。美玖、起きて。美玖!」
「ん……」
その夜。
鳴き声は朝6時まで響いた。
今までもこのような事があったかと、雁夜に確認したところ。
「爺婆連中が言ってたな…」
夜中、淵から悲しげな鳴き声が響くという。
それは、牛鬼の鳴き声なのだと。
≪ ……ギュウキモンと牛鬼は別モノなのよね? ≫
≪ そこまでは考えてなかったな。私は別モノだと思うが ≫
「俺も。爺婆の言うことは信じてないけど、ここまで再現されるのは流石に気味が悪い」
雁夜はため息をついた。
「どうぞ」
「おっ、ありがとう」
香ばしく焼けたトースト。
ラブラモンが持ってきてくれたそれに、マーガリンとマーマレードを塗ってかじる。
ピヨモンが同じく焼いてもらったトーストを食べながら、ラブラモンに話しかけていた。
「このトースト、こんがり焼けてて美味しいわ!」
「えっへん」
「ワタシもこんなに美味しく焼きたいなあ。いっつもこんがり焼けなくて…」
「せんせいからおそわったんだ。おしえるよ!」
「やったあ!」
………トーストを朝食にした後、二人と一体は地図を開いた。
「今日は、打ち合わせ通りに罠を仕掛けて回る。ルートはテントを離れて左周りに三ポイントずつ」
シルフィーモンは言いながら、ミオナへ目配せした。
彼女はうなずき、脇に置いたカゴのようなものを見やる。
「調整は一通り済んだわ」
カゴの中で何かが息を潜めるような気配。
「これ…中に何が入ってるの、シルフィーモン?準備してた間ずっと、ネットの中を探し回ってたようだけど」
「これは、肉食獣(カニボア)だ」
「カニ……ボア?」
目を瞬かせる美玖。
シルフィーモンは続ける。
「こいつを一つのポイントに五、六体仕掛ける」
元々はネット中にばら撒かれたトラップであり、小型のデジモンがこれに捕らわれる事がある。
それを、大量に回収しミオナの調整によってウイルス種デジモンのみにしか反応しないようにした。
「でも、そんなのでギュウキモンをどうにかできるの?」
「これは三日目用のものだ。君達の為のな」
三日目のためにテントの奥に切れ込みを入れ、美玖達が潜れるようにしてある。
ギュウキモンは遠距離攻撃も得意とするため、普通に逃げたのでは確実に捕まるだろう。
そこで。
「この肉食獣(カニボア)に、自律的に獲物へ食らいつくようにしてある。逃走ルートに設置して逃げた後を奴が追えば…」
それに反応して肉食獣(カニボア)が食らいつく。
トラップとはいえ決して頑丈なものではないが、床一面に敷かれたネズミ捕りが一斉にバチバチと床の上で跳ねるようなものだ。
多少の注意逸らしにはなろう。
「……まあ、この探偵所にウイルス種デジモンがいないからできたことよね」
「……言われてみれば、そうね」
美玖は今更ながら思い返して苦笑いを浮かべた。
探偵所にいるデジモンはフリーかワクチンばかりだ。
ミオナに組み込まれたドルグレモンのデータをカウントに入れても、データ種が一種入っただけである。
「ともかく、昼食を済ませたら逃走ルートを確認だ」
さて、この後の昼食は何かといえば……。
「これで、ラブラモンやグルルモンも呼べたらなあ」
用意された鉄板に油を敷き、熱が通る頃合いに肉や野菜を並べていく。
久しぶりのバーベキューだ。
「バーベキューはよく話に聞くんだけど、食べるのはこれが初めて!」
「そうなのね」
喜ぶミオナに美玖は表情を綻ばせた。
ミオナはずっと、直美に自身の存在を知られないよう目立たずにいたのだろう。
「美味しい!外で食べてるだけなのにいつもより美味しく感じる」
「焼けたものはどんどん取ってくれ。美玖、そっちのエリンギが焦げそうだ」
「ありがとう」
肉焼きを交代したシルフィーモンの言葉に、美玖とミオナは焼けたものを取っていく。
「そういえばシルフィーモンって肉食べるの好きなの?牙生えてるし」
「…別に食べられないわけではないよ。ただ、そこまで血と肉が好きじゃないってだけだ」
シルフィーモンは言いながら豚肉をひっくり返した。
「じゃあ意外とヘルシーが好きなんだ」
「かな…」
「最近は焼肉屋も結構ヘルシーなメニュー出してるらしいのよね。またお肉焼く時にやってみる?サラダとか」
「良いね、良いね!」
昼食を終え、片付けを済ませて出発したのは午後13時。
肉食獣(カニボア)が収納されたカゴをシルフィーモンが背負い、その少し後ろから美玖とミオナがついていく。
テントの奥を切り裂いて開けた後ろには道はなく、あっても獣道のように整理されていない。
だからこそ、肉食獣を設置しやすいのだとシルフィーモンは話す。
「まずはこの辺り……茂みに隠れるように設置するぞ。テントを抜けたら真っ先にここへ逃げてくれ。それと、あまり奴との距離を離さないように」
「なんで?」
「意図的に気配を消して、一気に距離を詰めてくる可能性もあるからだ。逃げ切ったと油断させるためにな」
ギュウキモンは一度狙いをつけた獲物はどこまでも追い回す。
動きも決して速くはないが、その分狡猾に立ち回ろうとするはずだ。
「だから、逃げる時は距離を保つよう意識するんだ」
眩しく暑い日差しが木々の合間から差してくる。
鳥のさえずりが聞こえ、肌がじんわりと汗ばむ。
その中を歩きながらトラップを設置して回った。
「……ひとまず、こんな所かな」
「本番は明日だ。今晩に何も起こらなければ、な」
それからキャンプに戻ればもう夕方。
管理施設の方には行かず、戻ってすぐに夕食に取りかかった。
「他の肉と野菜はそのままでいいの?」
「明日のお昼にカレーにしようかなって」
「カレーかあ…」
今、作り始めたのは焼きそば。
焼いて残った肉と野菜があるため、麺に合わせて味を整える。
麺はソースなどが付いていないタイプだが、それゆえに柔軟に味付けができる強みがある。
「どうかしら?塩焼きそば風にしてみたんだけど…」
「塩加減、私はこれくらいがちょうど良い」
「心配しなくていい。悪くない」
ちょっと麺が固めに感じたが、一人と一体からの評価はそこそこ。
片付けを終えると、テントへ入った。
シルフィーモンは昨日同様、ノコギリを手近に置いておく。
この日のうち、肉食獣を設置する時の台として木材を加工するのに使ったため手入れの口実になる。
二人と一体がそうして時間を過ごして、もうじき21時近くになった時。
端末に通信が入る。
≪ 昨日と同じだ。淵から何かが出てきた。多分、そっちへ行くぞ ≫
美玖とミオナがテントの奥へ移動。
シルフィーモンがノコギリを取り出す。
三分後。
≪ テント近くで足音が……昨日と同じ男だ ≫
美玖がすぐに気づいた。
テントの戸口に浮かび上がる人影。
「誰だ!」
シルフィーモンの声。
しばらくして、テントの戸口が払いのけられた。
「何しとるんじゃあ?」
昨日と全く同じ問いかけをしながら、百姓風の不気味な男は覗き込んできた。
明かりの中、その目は陰気にもぎらぎらと光る。
シルフィーモンは昨日と同じ答えを返した。
「ノコギリの手入れだ」
昨日も言ったが、DIYで木材を切ったからな。
そう答えるシルフィーモンに、男は覗き込みながら少しずつ体をテントの中へめり込ませてきた。
「そのノコギリは、木を切るんじゃな?」
「そうだーーだが」
…明らかに速く侵入しようとしてきた男に、昨晩と同様ノコギリを見せる。
鬼刃が見えるように。
「この、32本目の、一番大きな刃が見えるな?ここは鬼刃といって、鬼が出たらこいつで挽き殺すそうだが」
そこまでシルフィーモンが言うと、男は何も言わずテントからすうっと身を引いていった。
美玖もミオナも、冷や汗が止まらず互いを見合わせる。
「……テント近くに変化は?」
≪ いや、何も≫
ーーーー
その夜、深夜2時に昨日と同じく咆哮が聞こえた。
カメラを監視していたグルルモンからは、吠え声の他にバシャバシャと水の大きく跳ねる音がすると言う。
「でもどうしよう……フレイアを飛ばして様子見に行かせる?」
「いくら究極体デジモンの供とはいえ、何かあった時が怖いかな…」
美玖は香港での出来事を思い出す。
組織の人間によってフレイアが銃撃された時の事を。
だが、シルフィーモンは切り出した。
「念の為だ。ともかくフレイアを淵へ飛ばそう。ここでウダウダ言った所で情報を取り逃がしては本末転倒だ」
外へ出ると、彼は木を見上げる。
梢に止まったフレイアに向かい声を張り上げた。
「フレイア、淵の様子を見に飛んでいってくれ!上の視点が欲しい」
それを聞いて黄金の鳥が飛び立っていく。
淵の方向、闇の中を飛んでいくのを見送って、シルフィーモンはぼつりとつぶやいた。
「…これで何か進展があれば良いが」
………
「フレイアはどうだ?」
≪ ドコニ停マッテイルカワカランガ、水面ガ見エル。音ガハッキリト聞コエルナ。ダガコノ暗サダ、波ガ大キク揺レテルノハ見エテモ何ガ泳イデイルカマデハ…… ≫
「フレイアが無事なら問題ない、本番は明日だ。朝までカメラが無事なら位置と照らし合わせてフレイヤを迎えに行こう」
ーーーー
夜が明けて。
カメラの状態を確認した後にシルフィーモンが淵へと訪れる。
すでに鳴き声も水音もせず、変わらぬ不気味な静けさばかりが支配していた。
フレイアは淵から30mほど離れた地点の木に停まっている。
それを見上げて指笛で呼ぶと、ひと鳴きと共に舞い降りてきた。
「よし、戻るぞ」
カメラの結果は……特になかった。
確かに、何者かを写してはいた。
赤外線等の暗所の撮影に対応済みであったにも関わらずだ。
(……だが、もう三日目だ。この日に決めるしかない)
予定としては、シルフィーモンが離脱してグルルモンと合流、美玖達のために用意した逃走ルートで待機する手筈である。
鬼刃が、ノコギリがないとわかれば、ギュウキモンは今度こそ本性を表して襲いかかってくる。
美玖達の無事の確保ができるよう最善の手は尽くしているが、実際にどうなるかまでは…襲われるまでわからない。
「……だが、必ず仕留める」
そうつぶやくシルフィーモンの隠された目は、鋭く細められた。
シルフィーモンがフレイアを連れてテントに戻ると、ちょうど朝食の最中だ。
鉄板を使って焼いたホットケーキとコーヒー。
「良かった、本当にどこも怪我してないのね」
フレイアを見て美玖はホッと胸を撫でおろす。
カメラの確認によれば、鳴き声と揺らぎ続けた水面以上の異変はなかったのだ。
朝食を食べながらも、二人の様子には緊張がある。
最後の三日目にシルフィーモンが離れていなくてはいけない。
牛鬼の伝説、それを再現するためにだ。
……伝説の最後、老いた木こりと共に山を降りなかった若い木こりは。
鬼刃がない事を口にしてしまい、本性を表した牛鬼によって殺された。
ここまで過程をギュウキモンが真似ている以上、おそらく最後も。
「ひとまず、最終チェックといこう」
と、シルフィーモン。
「ギュウキモンは今夜も現れる。奴は獲物をどこまでも追い続ける習性がある以上必ず来るだろう。これまでと違う動きを見せるかもしれない」
「そういえば昨日、一昨日よりも積極的にテントに入ろうとしてた…」
「あれは私も少しヒヤリとしたよ。鬼刃について言うのが間に合わなければどうなってたか」
美玖の指輪型デバイスを使えば一時的にギュウキモンを足止めはできる。
使うとすれば、テントの中で襲われた時だ。
「肉食獣(カニボア)は昨日のうちに所定の場所に全て仕掛けた。あとは、悟られないよう祈るだけだ」
……昨日。
管理施設でシルフィーモンは雁夜と内密に話をしている。
むろん、ピヨモンに関してだ。
雁夜のピヨモンは完全体にまで進化できるという。
あまり自慢できた話ではないけど、と雁夜は苦言を漏らした。
「俺の実家、熊野神社と縁があってさ…多分それがピヨモンの進化先になってる」
雁夜は、実家とは複雑な事情があり離縁中だという。
それが、ピヨモンの進化系統に影響を与えているなど、なんの冗談かと。
「結局家から逃げらんねえって事なのかな……あ、いや、悪い。こんなこと言ってる場合じゃなかったな」
「ああ、そうだ」
「戦力としては、俺のピヨモンとあんたと…」
グルルモンだ、とシルフィーモンは付け足す。
ラブラモンはおそらくアヌビモンへ一気に到達するためだろうが成熟期以上への進化の兆しがない。
となると、戦力として期待はしづらいのがネックとなる。
ヴァルキリモンは今回は探偵所に待機だ。
「……となると、完全体二体と成熟期一体で相手か」
グルルモンも決して弱いデジモンではない。
それは依頼を共にして知っている。
「ともあれ、今回は頼らせてもらうよ。あいつにキャンプ場を好き勝手にされるわけにはいかない。……就活が上手くいかずに困ってた俺にとっちゃ、仕事があるってチャンスのようなものなんだ。それを無駄にされちゃ困る」
夕陽が差す時間はあまりにも短い。
そんな事を思いながら、美玖とミオナはいつも以上に足の速度を早めていた。
早い夕食だったが、シルフィーモンが戦う準備のため致し方ないことである。
「……今夜も、同じ時間にきっと来る」
「ひとまず、鬼刃というかノコギリをなくしたって事でいいのかな?」
「シルフィーモンがいない事はすぐ気づかれると思うから、伝説の時と同じように鬼刃が欠けたから修理に出したで良いと思う」
「…そうね」
時刻はもうじき19時。
すでに途中の山道は真っ暗闇だ。
何が潜んでいてもおかしくはない。
テントへ着いた時には、すでに19時半を回ろうとしていた。
時間通りに男が現れるなら時刻は21時。
30分ほど前を目安にテントの脱出口近くに位置取り、そこで男が現れるまで待機。
この間、シルフィーモン達は美玖達の逃走ルートへと移動し、グルルモンが先立って肉食獣(カニボア)を仕掛けたポイントの近くに待つことになっている。
それまでは……。
「…ねえ、美玖」
その、待機の間。
テーブルに細工をしながら尋ねるミオナを美玖は振り返る。
「美玖って、いつもこんな危険な依頼受けてたの?」
「いつもって訳じゃないけどね」
「……そう」
ミオナの表情に曇るものを見いだして、問い返す。
「どうかしたの?」
「どうかって…どうもないよ」
細工を終えてミオナは顔を上げて睨む。
「シルフィーモンから聞いたの。美玖、前にも傷ついたりした事いっぱいあったって。銃で撃たれたり」
「あ…あの時は、…油断してたのもあるけど」
「そうじゃなくても死にそうな事もいっぱいあったんでしょ。なのに、探偵だからって危ない目に遭うのは普通?」
「……それ、は」
5年前以前から。
もっと遡ること14年前から。
友達の為ならと身を投げ出したことはあった。
それからも、そうでなくとも危険に晒されたことは多くて。
けれど。
「きっと私の運が悪かったとか、そんな」
「自分の運のせいにしないで、美玖。それは絶対違う」
言葉に詰まった。
ミオナは剣呑な眼差しで美玖の目を見る。
まるで、目の前に巨大なデジモンがいるかのような威圧感を、美玖はなぜか感じた。
「絶対に違う。私、わかるもの。美玖は優しすぎるし、忠実すぎる。だからシルフィーモンはーー」
そこで、ミオナの携帯が鳴る。
雁夜からだ。
「げっ、もう!?」
ミオナが応答に出る。
≪ おい、そっちはもう用意できてるか?俺達はすぐ外に出るぞ ≫
「了解。私と美玖も備えるから…後はこっちでどうにか頑張る」
≪ 死ぬんじゃねえぞ ≫
「ハイハイ」
通信を終え、ため息を吐いてしばらく、ミオナは立ち上がった。
「ともかく!今回は無事に帰りましょ!!」
そして、21時近く。
連絡がないのは、全員既に外を出てきている何よりの証左だ。
そのため、美玖とミオナは、テーブルより更に後ろ、切れ込みを入れてあるテントの奥へ移動している。
…そして、うっすらと、入り口の向こうに人影が見えた。
それは、しばらくしてから入り口を開けて覗き込んできた。
「何しとるんじゃあ?」
ゆっくりと不気味な男が尋ねる。
「こ、こんばんは。また今日も来たんですね!」
ミオナが顔を引き攣らせながら挨拶をしたが、返答はない。
少しして、男はつぶやくように言った。
「今夜は、一人足りんな」
……いよいよだ。
二人は互いに顔を見合わせ、答えたのは美玖。
「そうなんです。今日、ノコギリの鬼刃が欠けたので、修理に行ってるんですよ」
「いやホラ、折っちゃったの私なんだけどねー!全然加減わかんなくてさ、それで怒られて…」
その時である。
男が断りを入れるでもなくテントの中に入ってきたのは。
彼の全身が、みるみると変化していく。
メキメキと音を立てながら、その身体は通常の人間の倍以上に膨れ上がる。
テントの天井を突き破らんばかりの大きさ、左腕の手が失せて大砲のようなモノに変わっていく。
「鬼を斬り殺す、鬼刃はないんじゃなあ?」
そう叫んだ時、すでに男は人間の形をしていなかった。
牛鬼と書かれた白い布に顔を隠した牛の頭部。
まるで樹皮のように硬い皮膚を持つ人型の上半身に、牙を剥き出した口を持つ蜘蛛のような下半身。
これが、ギュウキモンだ。
ちりんっ
頭に生えた左右の角、その端に結び付けられた鈴が鳴る。
下半身の口から糸が二人に向けて吐き出された。
「っ!」
美玖が腰を落とす。
テーブルの脚にひと蹴り。
ミオナが細工をしていたテーブルの脚部に衝撃を加えると、台の部分が斜めに立てかけられた。
糸がそれを覆うが、奥にいる二人までもを捉えるには至らない。
つまみだそうと近寄ったギュウキモンは、そこでテーブルから顔を出す美玖を見た。
「……麻痺光線銃(パラライザー)コマンド、起動!」
一条の麻痺光線がギュウキモンを射抜き、足止めにしている間にテントの切れ込みへミオナが駆け込む。
「美玖、今のうちに早く!」
ーー急転直下。
二人がテントの裏側からすぐ下の坂道へ転がり出たところ、大きな音と共にテントが崩れ落ちる。
暴れる気配に二人は薮へと駆け込んだ。
やがて、テントを引き裂き、ギュウキモンが姿を現す。
二人が近くにいないかと見回すと、坂のところに新しい靴跡を見つける。
ニヤリ、と口角を吊り上げてギュウキモンは音もなく坂を伝うように降りていった。
靴跡は薮の中へと続いている。
そこまでギュウキモンが歩み寄り、陰気な笑みを浮かべた時だ。
ガザザザっ!!
「!?」
薮が蠢いたと思うと、巨大な鼠捕りを思わせるナニかが一斉に飛び出しギュウキモンに喰らいつく。
設置されていた肉食獣(カニボア)だ。
ギュウキモンのウイルス種の匂いに飛び出してきたのである。
絡みつき、噛み付いていく。
「よしっ、早く!」
美玖とミオナが薮から飛び出した。
二人を追いたくとも肉食獣が邪魔だ。
左腕にまとわり付いたものを振り払い、大砲『千砲土蜘蛛』を向ける。
「…撃ってくる!」
後方に視線を向けたミオナが注意勧告。
それと同時に放たれた毒液と糸の塊が、二人との間に並び立っていた木立を幾本も刈り取り砕いた。
人間が当たればひとたまりもない。
そこで二人は岩や複数本の木立を盾に、逃走ルートを進んだ。
その後ろで激しく揺れる鈴の音がした。
おそらく肉食獣を振り払って後を追うつもりだろう。
(次の肉食獣の設置ポイントまでもう少し)
走り抜けながらそう思った美玖だが、木陰の合間に大きな影が走り抜けるのを見た。
「ミオナ!」
「!」
美玖の声にミオナは反応、即座に左側へ跳んで逃げた。
音もなくギュウキモンの巨体が上から降ってくる。
そこへ美玖の麻痺光線が飛ぶが、ギュウキモンはこれを身体を少し横にずらす事でかわした。
(だめ、距離が近い…!)
ミオナに向かってギュウキモンが爪を振り上げた。
その時である。
薮の中で光が二つ光ったと思うと、大きな獣が素早くギュウキモンの背中に飛びかかった。
グルルモンだ。
下半身の腹部に生えた数本のシリンダーを飛び越え、上半身の背中めがけて飛びつくと、その肩に牙を突き立てた。
「早ク行ケ!」
二人は揃ってまた走り出す。
一、二分ほどしてその脇に走ってくる気配。
グルルモンが二人に並走してきた。
「足止めは!?」
「馬鹿ヲ言エ!アイツハ猛毒ヲ抱エテルンダゾ。長クハ喰ライツイテイラレン!ソレヨリ乗レ!」
後ろから追ってくる気配。
足音こそないが、それでも背後を見やれば糸を使い振り子の要領でぶら下がって追ってきている。
その巨体に見合わず、速度は、もはや人間の足では逃げきれないまである。
背中に跨ると、グルルモンは走る速度を早めた。
声も足音もない追手。
しかし、確かに追われているという実感。
「肉食獣を仕掛けた次のエリアまで来たけど……残念ね。かかってはくれなさそう」
ミオナが首を横に振った。
ギュウキモンはかなりの高さを移動している。
流石にここまで高いと肉食獣が反応しても、食らいつくには届かない。
先程麻痺光線銃を避けたことも考慮するなら、相当に狡賢いと言えるだろう。
「……グルルモンと美玖達だ!」
逃走ルート、決戦に選んだ開けた場所。
万が一の為に、ラブラモンを施設へ一旦帰したシルフィーモンが反応した。
グルルモンの到着とほぼ同じタイミングで、ギュウキモンが降り立つ。
シルフィーモンが手を振り上げると、上空から雁夜の声が響いた。
「ヤタガラモン!」
「『甕布都神(ミカフツノカミ)』!!」
ギュウキモンの頭上から降り注ぐ光。
決して清廉なものではないが、確かにそれは罰を与えるための光だった。
それを放ったのはピヨモンーーが進化したヤタガラモン。
三本足を持つ、まさに八咫烏そのものの姿をしたデジモンだ。
「うちのキャンプ場の客をよくも食い散らかしてくれたな。それもここまでにさせて貰う!」
「美玖達は下がれ。集中攻撃を……」
ギュウキモンが吠えた。
口から吐く糸で全身を覆い始める。
まるで繭のように糸を自らに纏いだすギュウキモン。
一同が身構えながら見ていると、白かった糸に毒々しい緑色が染み出し染まっていく。
それを下半身の口が、麺でも啜るかのようにするすると吸い込んだかと思うと。
上半身、牛の頭部の口から緑色の糸が上空高くへ吐き出された。
「ちっ…!」
雁夜が舌打ちし、ヤタガラモンは翼を羽ばたかせて飛んでくる糸をかわそうとする。
しかし、糸の標的はヤタガラモンだけとは限らない。
「っ!?」
糸は拡散し、幾重にも折り重なって美玖達へ飛んでくる。
そこへ割って入ったシルフィーモンとグルルモンは、たちまち糸に絡め取られ、その場で倒れた。
「シルフィーモン、グルルモン!」
「来るな!…これは、ただの糸じゃない!」
勘づいてはいたが、やはり糸にはギュウキモンのシリンダーに満たされていた毒液が染み込まれている。
糸に限らず猛毒も活用するギュウキモンならではの攻撃というわけか。
触れた部分から毒液が皮膚を浸透していく。
グルルモンが警戒していた通りに、体内に染み込んで灼けるような痛みを与え、著しく体力を奪う。
「グウ…ウッ…」
立ちあがろうとするたび、身体に灼けるような強い痛みが襲う。
ヤタガラモンが降下し、翼をあおぐと美玖達へ再び降り掛かろうとする糸を払った。
「くそっ、大した事ねぇ奴らだな!」
悪態をつきながら雁夜がヤタガラモンから降りる。
「なあ、この糸が取れればどうにかなるか!?」
「何ヲスル気ダ?」
気づけば、雁夜の手にはケブラー製手袋、そしてサバイバルナイフ。
ヤタガラモンがギュウキモンの注意を引いている間に救助に出る腹積もりだろう。
手袋をはめると、雁夜はシルフィーモンを拘束した糸の束を掴んだ。
どうにか切断しようとナイフを糸の束の隙間に差し込ませるが……。
「く、そっ、切れねぇ…!」
ナイフは一本も糸を切ることがかなわない。
蜘蛛の糸はワイヤー以上の強度を持つとされるが、この糸はおそらくそれ以上ーー
「うあっ!!」
糸に絡め取られたヤタガラモンが吹き飛んできた。
振り向いた先には『千砲土蜘蛛』を向けたギュウキモン。
「駄目、逃げて雁夜!」
糸を振りほどこうとヤタガラモンが暴れる。
雁夜めがけて毒と糸の塊が放たれーーそれを撃ち落とすは光の矢。
「美玖!」
光の矢をつがえた美玖がいた。
ミオナの顔から血の気が引く。
「美玖、何やってんの!?」
「ミオナは雁夜さんを手伝って!蜘蛛糸なら火で炙れば大丈夫なはず…!」
確かにキャンプでの着火用にライターを持っている。
しかし、そんなことより。
「私がギュウキモンの注意を惹くから、その間に!」
「だから、ダメってば!!」
その叫びはもはや悲鳴に近かった。
雁夜も脂汗をこめかみに浮かべながら、美玖の後ろ姿を睨む。
「美玖、わかってるだろう!?いくら麻痺光線銃があっても、長く足止めはできな…」
シルフィーモンが言いかけたところへギュウキモンが再び千砲土蜘蛛を飛ばす。
美玖もすでにつがえていた矢を放った。
弾が撃ち落とされたのを待たずに突進するギュウキモン。
自身から距離を詰めて走る美玖へ、ミオナはまだ叫び続ける。
「美玖、お願いだからバカな真似は本当にやめて!」
「くそっ、おい、火を持ってんなら早くくれよ!デジモンが全員動けないんじゃ意味が…」
「『カオスファイアー』!!」
近くで不気味な炎が燃え広がったと思うと、糸を焼き切り、特技『アンチドウテ』で自らの体内を巡る毒素を打ち消したグルルモンが走り抜けていく。
美玖とギュウキモンの間へ割って入るや、再び口を開いた。
「『カオスファイアー』!」
炎がギュウキモンを包むが、ダメージを受けた様子は見られない。
「グルルモン!」
「オ前ガ助ケニ行ケ。俺ガマダ立ッテイラレル間ニナ…!」
後ろから嫌な臭いが漂う。
ミオナから渡されたライターで、雁夜がシルフィーモンの糸を焼き切っているためだ。
「でも……」
「オ前ヨリカハ倍ノ時間ヲ稼ゲル。ソレニ…俺ニモ約束ガアルンダ、草葉ノ陰ニイルアイツヲ泣カセルナ」
ーーー
単独では勝ち目のない戦いなのはわかっていた。
だが、春信との約束を守るという強い意志がこの場に繋ぎ止めている。
『アンチドウテ』による解毒手段を持っているとはいえど猛毒は少しずつ体力を蝕み、痛みは増していく一方だ。
だがここで退くわけにいかない。
シルフィーモン達の糸が焼き切れるまでに……
「グアッ…!」
叩きつけられ、ギュウキモンの下半身の口がグルルモンに食らいつく。
ギリギリと顎に力が込められ、牙が筋肉まで貫き通さんと食い込んで。
「グルルモン!」
駆け寄ろうとする美玖をミオナが止めた。
(頼ム、ドウニカ止メテクレヨ…)
そうミオナに願いながら、反撃の隙を窺っていた時。
グルルモンの目はそれを見た。
美玖の胸元に輝く、オレンジゴールドと薄桃色の光を。
(……アノ、光ハ……)
二色の光に応えるように、頭上に輝く蒼い光が照らした。
それは、夜の満月の光だった。
「…何!?」
「グルルモンの身体から光が……」
白い毛並みを覆う輝き。
グルルモンの変化にギュウキモンも気づいた。
顎を解放し、素早く飛び退いて距離を置く。
雁夜がつぶやく。
選ばれし子供だからこそ見慣れた光であるゆえに。
「あれは…進化の、光?」
周囲が見守る中、光は強まり、グルルモンの周りをデータの螺旋が包み始めた。
その中で姿が変わり始める。
変化の時だ。
……進化が始まる。
四足歩行から二足歩行へ。
身体は獣から人型へ。
その身体に纏う衣服が構築され……
「グルルモン、進化ーーワーグルルモン!!」
現れたのは、ワーガルルモンに酷似しながらもより野獣そのものの凶暴さを空気として帯びた姿だった。
「グルルモンが、進化した?」
ワーガルルモンは軽装だったが、ワーグルルモンは更に上から薄汚れたボロボロのレザーコートを羽織っている。
「……ワゥオオオオオオオオオオオン!!」
グルルモン、否、ワーグルルモンは身体をのけぞらせながら咆哮した。
月の光がその全身を包むや、オーラとして同化していく。
ググッ…と腰を落とす。
「『バーサーカーレイジ』!!」
バネのように脚を力強く蹴り出した。
ギュウキモンに向かって飛んでいくとすれ違いざま切り裂き、そのままUターンしてシルフィーモンとヤタガラモンへ向かっていく。
「「「!!」」」
三人が驚く間もなく、光に包まれた獣人の影が二体のデジモンの間を通り抜けた。
「!」
「糸が、切れた…!」
シルフィーモンとヤタガラモンを拘束する糸が斬り裂かれて落ちる。
二体の手前でワーグルルモンは動きを止めた。
金色に光る双眸を二体に向ける。
「…反撃ダ、準備ハ良イカ?」
…形勢は逆転した。
ギュウキモンは糸と毒により再び搦め手、弱らせようと試みたが。
「『ライカンクロー』!」
せっかく張った糸があっさりと断ち切られる。
では毒をと浴びせれば。
「!?」
標的に選んだシルフィーモンの前に立つワーグルルモン。
緑の毒液が直撃する。
「大丈夫か!?」
「コレクライナラナ」
浴びた毒液が毛並みの上でジュウジュウと蒸発していく。
グルルモンの時と同じ『アンチドウテ』による解毒だが、明らかに自己回復力はグルルモンの時より優る。
これにはギュウキモンの表情も幾らかの焦りと思しきものが浮かんだ。
「『甕布都神』!」
再び自由を取り戻した翼から再度攻撃を放つヤタガラモン。
それをかわし、糸による補助で大きく飛びあがろうとしたがそこへシルフィーモンが追撃。
「『トップガン』!」
ドォン!
土手っ腹にエネルギー弾を受け、大きく吹き飛ぶ。
その眼前には跳躍したワーグルルモン。
反応よりも速い一撃がギュウキモンへ繰り出された。
「『ライカンクロー』!」
「っ!」
ゴッ、と脳にまで届くほどの衝撃と共に、ちりりんと激しく鈴が鳴った。
ーーギュウキモンの角の片方が、中ほどからもぎ取られていた。
「う、あ、あ、あ、あ、あ、あ、あ!!」
頭を押さえ、悶えるギュウキモン。
そのもう片方の角を、ワーグルルモンが掴む。
その空いたもう片手の掌から、血のようなものが滲み出たかと思うと細長い刃へ変わった。
「……鬼刃ガアレバ、鬼ヲ斬リ殺セルンダッタナ?」
「!?」
細長い刃と思ったものは、ノコギリ。
持ち手に一番近いその刃は、凶悪な程大きく尖っている。
それを見たギュウキモンは、素顔こそ隠れていたが…その布の下で明らかに怯えの表情を浮かべているのがわかった。
「やめ、ろ」
「オ前ニ殺サレタ奴ラモソウ思ッタダロウヨ!」
細長いノコギリの刃が閃いた。
…ただのノコギリではない。
ワーグルルモンの暗殺用の武器、あらゆる凶器に可変可能な『ジェヴォーダン・ベート』。
それがギュウキモンの首を抉り、彼の生命を根こそぎ刈り取ったのだった。
ーーーー
「せんせい!」
施設へ戻った美玖達をラブラモンが急ぎ足で迎えた。
その脇から、純白の戦士が現れる。
雁夜とヤタガラモンから退化したピヨモンが驚いた。
ヴァルキリモンとは初対面なのだ、無理もない。
「あ、ヴァルキリモンさん!?」
ーーーラブラモンが連絡を寄越してね。窮地の気配を察知して来たが…杞憂だったみたいだ。
ヴァルキリモンが言いながら、肩へ停まったフレイアを撫でた。
「ぎゅうきもんはたおしたんだね」
「ああ…窮地だったのは事実だよ。今回は、グルルモンが進化して事なきを得た」
言いながらシルフィーモンは後ろへ向き直る。
すでにワーグルルモンから退化したグルルモンがそこにいた。
「ひとまず反省会は必要ね」
そう、意味深な笑みを浮かべながら、ミオナは美玖の方を向いた。
「えっ?」
「えっ?じゃない!!今回は本当に、死んでもおかしくなかったんだよ美玖!」
「……そうだな」
シルフィーモンの賛同の声も、普段よりかなり低い。
美玖が一人と一体を交互に見た。
「え、ええと…二人とも…」
後ずさった美玖の腕を、ガッチリと掴んだのはシルフィーモン。
彼の口角が牙を一層際立たせつつ、ゆっくりと上がった。
「先に車へ行こうか、美玖。ゆっくり君にお説教してやるよ……ゆっくり、ね」
「え、ちょっと待ってシルフィーモン。怖い、ねえ、怖いって。ねえ待って、ちょ、お説教って…ねえ!?」
ずるずると引きず……られることもなく、あっという間にシルフィーモンの腕に抱きかかえられながら、駐車場の方へと連行されていく美玖。
それを呆然と見ていた雁夜に、ミオナが乾いた笑いを浮かべた。
「あはは…うちの所長がほんとにすみませんでした。なんであんなに無謀なのか、よくわかんなくて」
「ひ、ひとまず礼を言うよ。今回は本当に助かった。あいつをあのまま放置しようものならここの運営も危ういところだったぜ」
「カリヤの言うとおりよ。私からもお礼を言わせて!やっと犯人に引導を渡せたんだもの」
「ひとまずあの淵から聞こえる鳴き声が何かはわからなかったけどね」
「それについてだけど、あの淵の周辺は封鎖しておこうと思う」
「あ、そうなんだ?」
ミオナの問いに雁夜は淵のある方角を向きながら応える。
「あそこに人間は近づいちゃいけない…そんな予感があるんだよ。あの鳴き声が夢に出そうってのもあるけどな」
「…牛鬼が出るって淵だもんね。これでまた、危険な奴がいそうならそうして良いかも」
「こんかいはぎりぎりでまにあったようなものだからよかったけど、つぎもこうはいかないかもしれないしね」
不穏なつぶやきをラブラモンが漏らす。
その脇で、グルルモンはゆっくりと伸びをした。
「トコロデ腹ガ減ッタ。多分、進化デエネルギーヲ使ッタ影響ダロウ」
「やいたおにくは?」
「…アルノカ?」
「きのうのぶんがまだあったはずだよ」
ーーーせっかくだし私もちょっとお相伴に預かりたいよ。今度のキャンプには何かの機会でご同行願いたいものだ。
「はいはい」
………
こうして、キャンプ場での凄惨な事件は、犯人であるギュウキモンの討伐を以て幕を閉じた。
そう、事件だけは。
………
ーー深夜二時。
周辺を封鎖された淵は。
静かに凪いだ水面、辺りを包む暗闇、何も変わることがなく。
そうかと思えば、その水面の一部が、大きく揺らいだ。
ざばあ、ざばぁ
じゃぷっ、じゃばじゃば、ざぽんっ…
水面の下から、眼を光らせたそれが現れる。
牛の頭、屈強な鬼の身体を持つシルエットが、水を割って現れた。
もぉぉおおおん…
不気味に眼だけを光らせたそれは、辺りをゆっくりと見回す。
淵の周辺にはキープアウトテープが貼られている。
以前まで、そいつが見なかった光景。
うぉぉぉおおおおおおん……
悲しげに、それは夜空へ向かってひしりあげる。
美玖達が聞いたのと全く同じ、咆哮とも慟哭とも違わない声を。
うぉぉぉぉぉおおおおおおおおんんん………
うぉーん……
ウォオオオオオオォォォォン………
うぉぉおおおおおおおおん……………
な、何ィ……1話で解決(?)しただと!? 夏P(ナッピー)です。
毎回言ってる気もしますが本当に1話で解決まで持って行った! 俺ぁてっきりピヨモンをドクグモン辺りに進化させた雁屋君が「全ては俺の仕業だったのさァこれでこのキャンプ場も拍が付いたってもんだぜ牛鬼が出るキャンプ場ってなぁ」みたいなこと言って犯人である説を推してましたがスマンかった。むしろ今までのゲストキャラの中でもトップクラスに善性の塊で、戦力としても圧巻のお役立ちぶりでした。熊野神社って八咫烏か……何故かカラテンモンばかり想像してしまっていたッッ。
タイトル通りメインはギュウキモン。美玖サン鬼太郎何期世代なんだろうか……それはともあれ、伝承をしっかり再現する展開にゾクゾクと来て心地良い。シレッとデジモンが人間に化けるシステムも明かされ、そりゃまあ色々と危険すぎるわということも実感。まさか死ぬことは……と思うのも確かですが、ミオナとグルルモンはアカン死んだわと確信するぐらい命の危機を感じました。ワーグルルモン……だと? 最後の返しがクールでオサレ。
話は一件落着ではありますが現場はあーいうことになっているし、メフィスモン様が海外の方に……?
そーいやホーリーエンジェモン様が用意した加護でんほおおおおお脱却したみたいですが、それはそれとして今回ラストで激しくされる奴だコレ。美玖サンの体はボロボロ(洒落にならん)。
それでは今回はこの辺で感想とさせて頂きます。