南国の木の小屋をイメージしたような、小物や観葉植物の置かれた一室。
それに相応しいような、熱気が部屋の中を包んでいる。
ぎしっ、ぎしぎしっ、ぎしっ
木のベッドが激しく軋む。
その上で激しく行われている前後動作によってだ。
「はあっ、あっ、あ……!」
その動作を行っている片割れが喘ぐ。
胎内を何度も強く突かれる度に湧きあがる歓び。
涎が口の端からこぼれ落ちる。
発作が起こって求めればもう、理性はひと時彼方へ追いやられてしまう。
……ああ。
(気持ちいい、気持ちいい、気持ちいい…!)
そんな中で、つぶやきを聞く。
「……私が、人間だったなら」
「君を……」
その後、意識が飛んでしまったため後の呟きは聞こえなかった。
けれど、今思えば。
この時の彼のつぶやきが何だったのかがわかっていたかもしれない。
こちら、五十嵐電脳探偵所 #19 おキツネの影隠し
「お、お前ら…いや、五十嵐、一体全体どうした!?」
合流先で阿部警部が呆気に取られた顔をした。
無理もない。
街のど真ん中、美玖はシルフィーモンにお姫様抱っこされながら来たのである。
当然、道ゆく人やデジモンの視線を浴びた。
「こ、これは……その…」
どう答えようかと迷う美玖。
「そこで派手に転んでな。歩くのに難儀していたのでこうした」
「いや、どういうことだよ!?仕方ない、パトカーの中で悪いが五十嵐は休め!」
「すみません……」
…言えない。
一時間ほど、人生初めてのラブホテルで発作を治めるために過ごしていたなんて。
まともに立てないまま、後部座席に座らされる。
「うう……まさかこんなに腰の力なくなるなんて」
涙目になるやら腰に力が入らないやらで、どこかに穴があるなら入りたいと本気で思う。
「……早くこないかな、護符……」
心の中でホーリーエンジェモンへの催促を叫びつつ、パトカーの中で一時間ほど座る羽目になったのだった。
ーー
この日、阿部警部から救援を頼まれ、美玖とシルフィーモンは彼に同行していた。
発作は、それに駆けつける前に起こってしまったため、阿部警部へ急遽の連絡をしてからのラブホテルへの駆け込みになってしまったが。
「しかしこっちもすまんな。なんせ通報があったって時に限って、非番が多くて」
ハンドルを握りながら、阿部警部は通信機を片手にその向こうへ話しかけた。
「今、動きはどうだ?……わかった。こちらも適度な位置に停める。目標の銀行で怪しい動きがないか、引き続き見張ってくれ」
ここはA地区。
デパートや専門店が所狭しと並ぶ街並みだ。
今、ある銀行へ向かっていた。
近年、日本中である手口の詐欺事件が広まっている。
それは、ここでも例外ではなかった。
「最近多いですよね…」
「ああ。うちでも注意のポスターの貼り出しはやってるんだが、正直ここまで騙される被害者がいるとは思わなかった」
その手口とは。
電話をかけた先の家族や親類、時に警察や弁護人になりすます事だ。
ターゲットは主に、年配以上の年齢層が多い。
電話の主な内容としては
『運転事故を起こした』
『相手とのトラブルで至急金が要り用になった』
などから始まり、すぐにその日のうちに指定した口座へ高額の振込を要求するのが主なパターンだ。
これだけを聞けば、大抵の人は思うだろう。
そんなものに騙されるとは、と。
しかし、振り込め詐欺、または通称「オレオレ詐欺」と呼ばれるこの手口の犠牲者になる人間はいる。
「全く…どこのどいつか知らんが、最初にこんな手口を思いついた奴を今すぐにブン殴りたい気分だ」
「同感です」
詐欺に遭った者の多くは、家族との別居している事もあって声だけでの判別がつかない。
否、家族と同居している人間すらも被害に遭う。
中には、勘の良い者もおり、大抵は無視か穴をついて相手を追い返すが敢えて口座番号までメモにとった上で警察に連絡する者もある。
今回は、そういう"勘の良い"人物からの通報だ。
「……五十嵐、お前のその指輪でひとつ頼めるか?」
「わかりました」
今回は、犯人が金を受け取りに来るというパターンだ。
そこを取り押さえる。
美玖と阿部警部が擬装コマンドで潜伏し、近くを待機することになる。
シルフィーモンはより離れた距離からの待機だ。
(……来ました)
通報したという男性が一人、携帯電話を手に現れる。
彼は銀行の手前に立ちながら、辺りを見回していた。
それから、さらに一人が現れる。
黒いパーカーを着た男。
男が通報者に何やら話しかけているところへ、阿部警部と美玖が現れた。
ぎょっとした様子で、男が振り向く。
明らかに、日本人にしては特徴的すぎる顔立ち…アジア系のそれだ。
「失礼、少しよろしいですか?」
警察手帳を阿部警部が見せた瞬間。
男は三人の脇をすり抜けるように突如走り出した。
予想より逃げ足が速い。
ーーだが。
「!?」
男は思い違いをしていた。
人間だけが自分を追っていたわけではなかった。
中空から急降下してきたシルフィーモンが勢いを借りて男にぶつかる。
どんな陸上競技選手だろうと、この急降下のスピードからは逃げられない。
異国の言葉でわめきながらも、男は観念した。
シルフィーモンの腕力はかなりのものであるため、人間の力では抵抗が難しいのだ。
…美玖も、それに救われた事を覚えている。
通報者へ感謝の礼をしながら、阿部警部達はパトカーへ戻るのだった。
ーー
「まさか、すぐ逃げ出す奴がいるとは思わなかったな。シルフィーモンがいなければ取り逃がしてた。やはりデジモンがいるのといないのとじゃ全然違う」
「そうですよね…」
「けれど、こればっかりは愚痴っても仕方ねえな。俺達もそうせざるを得ない程の事態に出くわしてるから」
…言うまでもない、5年前。
デジモンの脅威を、恐ろしさを味わされたあの事件。
「……そういや、今もまだそのメフィスモンとやらがどっかに潜んでるんだっけか」
「はい。あるデジモンが、それを追っているらしいのですが」
「捕まると良いな」
そう美玖へ言いながら、阿部警部は携帯電話を開き…
「お、そういやもうじきか」
「何がです?」
「いや、今、典子からメールが来てな。明日、ブイ太郎に着せる浴衣用意してやらなきゃなって」
美玖が目を瞬かせる。
「阿部警部の地元ですか」
「ああ、親父が転職の関係で中学までの頃しかいられなかったんだが今も時々戻ってるんだ。今度祭りをやるんだよ。典子がその日は学生時代の友達と遊びに行く予定があるんで、非番も重なってブイ太郎を連れてこうってな」
阿部警部が話すに。
阿部警部の地元には、稲荷神社があり、かなり歴史の古い社で伝説も幾つか残っているという。
「何が凄いかってな…そこの狐が、いっぱいいんだよ。百…いくらだっけな。とにかくいっぱいの石の狐がいるんだぞ」
「石の狐?」
シルフィーモンが首を傾げる。
「ただの石でできた狐がそんなに凄いのか?」
「狐ってのはお稲荷さん、つまり神様のお使いだからな。だからその姿を彫った石の狐があんだよ。……まあ、一度見てみりゃわかるぜ。あの数のおキツネ様はそうそうないからな」
だから、良ければと。
阿部警部は美玖達に言った。
お祭りへのお誘いだ。
「おかえりなさい!」
探偵所に戻った一人と一体を迎えたのは、先日探偵所の一員として共に暮らすことになった少女・ミオナ。
一週間もの時間をかけて、部屋の割当てや新しい服の購入など受け入れの準備が済んだ彼女の髪は短く切られていた。
「刑事さんのお手伝いだったんだよね、どうだった?」
「ただいま、ミオナ。手伝いは無事に犯人を捕まえられたわ。…昨日買ったクリーム、どう?」
「うん、結構肌に馴染んでて、気にならない」
「それは良かった」
探偵所は滝沢邸と異なり、お世辞にも湿気に強い物件とは言えない。
そこで、乾燥に弱いホムンクルスのミオナの為にと美玖はミオナと保湿クリームを買いに行ったのだ。
まだ空気が乾燥とまではいかない時節だが、紫外線も気になるところ。
近いうちに日焼け止めも買わなければと思いつつ、美玖はミオナに聞いた。
「ミオナ、もし良かったら明日、着物のレンタルするからお祭りに一緒に行かない?一緒に行こうって誘われたんだけど」
「その刑事さんから?」
「うん」
そこへ、台所からラブラモンがやってくる。
「せんせい、しるふぃーもん、おかえりなさい!」
「ただいま、ラブラモン。ちょうどよかった」
「ちょうど?」
ラブラモンが目をぱちくりさせる。
「阿部警部から地元のお祭りに一緒に行かないかってお誘い受けてるの。ミオナとラブラモンも一緒にどう?」
「……ううん、わたしはたんていしょにいるよ。やりたいことがあるし」
「良いのか?珍しいな」
シルフィーモンが尋ねる。
「どうしても、やりたいことがあるんだ。だから、おまつりにはいけない」
「そうなんだ…」
美玖がシルフィーモンと顔を見合わせる。
今までなかったことだ。
「…詳しくは聞かないでおく。何かおみやげは買ってきてやるよ」
「うん」
「私からも、何かおみやげ買った方が良いかな?お祭りは初めてだし」
ミオナの言葉にうなずくラブラモン。
「おみやげはうれしいよ。だから、おまつりたのしんでいって」
ーーーああ、もしや"彼"へ連絡する予定か。
「そうだ。向こう側のダークエリアの状況もだが、向こう側の情勢の確認もな」
思い当たるようにはたと手を打つヴァルキリモンへラブラモンはそう返した。
…デジタルワールドにも様々な世界がある。
パラレルワールド、とは少し毛色は異なるが。
そして、人間世界へは、二つのそれぞれのホストコンピュータに管理されたデジタルワールドが繋がっている。
一つはイグドラシルが管理するデジタルワールド。
もう一つは、イリアスと呼ばれるホストコンピュータが管理するデジタルワールドだ。
ダークエリアも、アヌビモンとは別の管理者が存在する。
その名はプルートモン。
アヌビモン以上の実力と、恐怖や暴力を以て悪を制裁するそのスタイルを掲げイリアスのダークエリアを統べる。
「しばらく奴との連絡がご無沙汰だからな。奴のことだから気にしていないだろうが…イーターの次の動きが気にかかる。向こうでも異変があれば確かめておきたい」
先日、滝沢裕次郎からのメールからもたらされた情報により、思う以上に事態が良くないことをアヌビモンは察している。
デジタルウェイブとイーターは密接な関係にある。
一部の人間達やデジモンがデジタルウェイブを研究・監視しているのはイーターの一存があるからだ。
監視する者が減らされている。
イグドラシル側だけでなく、他のデジタルワールドにも及ぶ被害は甚大なものになっていくだろう。
その前に、この姿のままでもまだできることを。
それをラブラモンは実行するつもりだった。
ーーー
美玖とシルフィーモン、ミオナが出かけたのは午前11時。
グルルモンは探偵所に残った。
「グルルモンは行かないの?」
ミオナが聞くと、グルルモンはチラリと彼女に目を向けてからふぅ…と一つ息を吐き。
「俺ガ行ケバ驚ク奴ノ方ガ多イダロ」
「そうかな」
私の方が大きいし怖いから平気だよ。
そう言いかけた口を押さえた。
「それじゃバス停へ行きましょう。お留守番お願いね!」
阿部警部の地元へはバスでB地区方面の山を一つ越えた先。
小さな町で、都市部では珍しい商店街も有り未だ賑わいを失っていない。
バスを降りた時には、午後1時を過ぎていた。
「阿部警部とブイ太郎君が来るのは夕方だから、それまで祭りをやる予定の場所をゆっくり巡らない?結構広いらしいし」
「そうだな。夜になれば人も多くなるだろう」
「それじゃ神社行かない?石の狐がいっぱい並んでるの、見てみたい!」
そうやりとりを交わしながら、道路の脇を歩く。
人通りは少なく、歩いていく人も皆50代を過ぎた顔ぶればかりだ。
「この辺りは若い人があまりいないようね…」
そんな事をつぶやく美玖。
阿部警部から聞いた事も鑑みるに、過疎化が進んでいるのだろう。
そんな事を寂しく思いながら、美玖は稲荷神社があるという山を見上げた。
遠目にわかるぐらい、鬱蒼と繁った緑が豊かな山だ。
「お祭りは山の麓辺りでやるって言ってたっけ」
話によれば、社へは百段近い石段を登らないといけない。
さて、30分以上歩き、目的の石段の前に立つとシルフィーモンは自分の足を見た。
「どうしたの?」
「いや、随分狭い階段なんだな」
「え?……あっ」
美玖とミオナは気づく。
神社の石段やひと昔前の人家の階段は、狭く一段ごとのスペースが狭いものが多い。
大きいかぎ爪とサイズそのものも人間男性の倍はあるシルフィーモンの足では登りにくいだろう。
「もしあれなら、シルフィーモン飛んでっちゃえば?別に飛んじゃダメってわけでもないし」
「そうね…私はこういう階段は慣れてるけど、シルフィーモンが転びかけたらフォローしづらくなるし」
「そう言うか……仕方ない」
肩をすくめ、シルフィーモンが飛んでいく。
さすがに、先を行くことはないが。
石段を登り始めるも、ミオナの息が上がったのは三十段を過ぎてからだった。
汗が出るとクリームが流れてしまうため、冷やしたタオルを肩にかけてやりミネラルウォーターを持たせる。
「大丈夫、ミオナ?」
「こ、ここ……結構、しんどいんだね。今まで山とか登ったことなかったけど、キツい…」
「そういえば、私が初めてあなたに会った時も、軽トラに乗って山道を登ってたわね」
「えっ、もしかして美玖って私が直美に心臓移植しようとしたのを止めようとしたのが初めてじゃなかったんだ!?」
「うん…直に顔を合わせたのは、確かにあの時が初めてだったけど」
美玖がうなずくと、ミオナはだいぶ驚いた表情で、ミネラルウォーターを手に頭上を仰いだ。
「私、全然気づかなかった。軽トラってことは、私が持て余してた失敗作捨てに行ってた時じゃない…」
「その時、私はあなたの手前でスクーターに乗ってて山道登る途中だったの。滝沢さんへお話を伺いにね。シルフィーモンもあの時に上空にいたのよ」
「……うわあ……あの時か」
若干、心当たりはあったのだろう。
石段を登りながら、ミオナは苦笑いした。
空は晴れ晴れとしているが、空気は湿度と温度が嫌に高い。
ミオナのペースに合わせながらゆっくりと登っていると、上から囃し立てるような声が聞こえた。
子どもの声だ。
「お姉さん達、ほら頑張れ!後ちょっとで登りきるよ!」
思わず顔を上げると、にやにや顔がそこで二人を待っていた。
歳は小学高学年くらい。
よれよれの白いランニングシャツに短パンの格好。
金色の髪が動物の耳のように跳ね上がり、顔つきや目の細長いいわゆる"狐顔"をしている。
「お姉さん達、後十段だよ。ほらほらもうひと息!それともバテちゃったか?」
そう声をかけ、やいのやいのと手拍子をする少年にミオナがむっとなった。
「バテてなんかいませんよー!」
「なら、ほら早く!」
反応になおニヤつく少年。
こめかみに青筋を作るミオナをなだめながら、ようやく登りきると少年は手を叩いて褒めた。
「お見事、お見事!」
「なぁーにがお見事よ!」
ひっぱたこうかと迷う手を握りしめるミオナだが少年は動じない。
「まあまあ、おかげでお連れ様を待たせないで良かったじゃんか」
言いながら少年は空にいるシルフィーモンを見上げた。
「お連れのデジモンさん、あんたも降りてきなよ!でもそこから境内の中に降りるつもりなら、ちゃんと鳥居はくぐってくれよな」
言われた通りにシルフィーモンが地上へ降りる。
少年はシルフィーモンのそばをぴょんと飛び跳ねた。
「今日は祭りだからか?人間と一緒のデジモンのお客さんとか珍しいや!この辺は人間と一緒に暮らすのが好きじゃないデジモンが結構多くてさ、邪魔にならないのは良いんだけどたまには町の人達を寂しがらせないようにしてくれよって思うんだよなあ」
「町の人たち…?あなたは、ここの子なの?」
「そんなとこ」
少年は答えながら、薄目を開けた。
水晶のような、淡い水色の瞳が美玖を映す。
「おれはオキ丸。せっかくだからこの稲荷の中を案内してやるよ」
……
「ねえ、オキ丸君」
後をついていきながら美玖は問うた。
「この町の人達であなたと同じ年頃の子ってどれくらいいるの?」
「んー…」
両手を後ろに回しながら、足をぶらつかせるようにオキ丸は先導を歩く。
「あんまりいないな。大人になっちまうと皆、東京とかおっきい所に行っちまって年寄りばかりなんだよ。たまに里帰りはしてくれる人もいるんだけどさ…とにかくこの町に生まれてからずぅっと居てくれる人が一人か二人くらいしかいない」
「じゃあ、君、友達いないの?」
「少ないの?って聞けよ。さっきの事でまだムキになってるの大人気ないなあ」
ミオナの方をじろっと見ながら、オキ丸は鳥居をくぐった。
「もっかい言うけど、鳥居は必ずくぐれよ。なんでかわかるか?」
「神様の住む領域に入る出入り口だっておじいちゃんから聞いたことなら」
「まあ、そうだけどさ」
美玖の言葉にオキ丸はなんとも微妙そうな表情を浮かべた。
「そもそも境内って場所だけが人ならぬモノの世界ってわけじゃない。入り方が肝心なんだよ。あんた達だって、家に入る時は玄関から入るだろ?窓から入ったりはしないよな」
「まあ、そうだな」
「鳥居ってのはさ、一つの世界への"玄関"なんだよ。しかもその世界は他の世界と地続きになってる。出方を間違えて他の世界へ出入りしちまったら大変なことになるぜ。そこにいる奴らからしたら、知らない奴が窓とか屋根の煙突から入ってくるようなもんだ。…最悪、人間から見たゴキブリみたいに扱われる」
つまり、侵入者と見なされて攻撃されるか、追い出されるということか。
「だから、いいか?鳥居をちゃんとくぐれば、何の問題もないんだ。お松(まつ)ちゃんが助けてくれたとしても、気まぐれでしかないしな」
「お松ちゃん?」
しかし、問いには答えず、オキ丸は鳥居をくぐった。
「ほら、こっちだ」
そこで美玖達を迎えたのは、境内へ入った先、社へと長く伸びた石畳の参道。
その両側をびっしりと埋めるように立つ、石の狐達がいた。
「この町に数百年伝わる伝説の108匹狐。他じゃそう拝めるモンじゃないぜ?」
狐達は皆、石の体に水晶が嵌め込まれた切れ長の瞳をしている。
その胸元を赤い前垂れが飾る。
「これは……確かに、壮観だな」
シルフィーモンが言いながらふと、一番前に並んだ一際大きな狐の前垂れを目にした。
白く染められた字で、名前のようなものが書かれている。
「お……オショロ?これは、名前なのか?」
「おう、ここの狐達を纏める親分さ。親分に叶う狐も妖怪もこの辺にはいない。ちなみにここの狐には皆ちゃんと名前があるんだぜ」
「この狐達全部?」
「そうさ、じっくり見ていけよ」
ずらりと並んだ石の狐達は、一様に美玖達を見下ろし、まるで見つめられているかのよう。
石でできているのに、今にも動き出しそうな程生き生きとしている。
シロとかオリキ、オナベのような変わった名前が多いなか、他の狐と明らかに違う狐もいた。
「ねえ、美玖」
ミオナが美玖の袖を引く。
「あそこに並んでる狐達、なんか壊れてない?」
「えっ」
見れば、ある狐は片方の耳が途中から折れ。
ある狐は片方の目から水晶玉が抜け落ち。
ある狐は鼻先がひん曲がっていた。
「これ、誰かがイタズラして壊した?」
「少なくとも鼻だけは違う。あえてひん曲げて作っているようだな」
シルフィーモンが指摘する。
「ええ……と、名前は、カグ丸、眼(まなこ)丸、耳丸?」
まさに、名は体を表すということだろうか?
「後で、ここの管理人さんに伺いましょう。これだけ狐が多いなら管理が大変でしょうし」
「そ、そうだね」
オキ丸はニヤニヤしながら後ろから見ている。
まさか、オキ丸の仕業じゃないだろうか。
そんな疑念をかすかに抱きながら、青錆色の屋根の社の前へとたどり着いた。
そこまで行けば、狐達の列も最後列だ。
その最後列に並ぶのは、オショロどころか他の狐よりも一際小柄な狐。
その名前を美玖は読み上げ……
「オキ丸……えっ…?」
思わず顔を上げる。
しかし、そこで気づいた。
オキ丸の姿がどこにもない。
「オキ丸君!?」
「え?」
ここに来るまで他に道らしい道はないはずだ。
しかし、ざわざわと林の枝葉を揺らす風以外何も聞こえてこない。
「どうした?」
「この狐の名前を見て」
美玖の指差す狐の前垂れの名前を読んで一人と一体も戸惑う。
「えっ、あの子とこの狐の名前…」
「オキマル……同じ、だな」
「それに、あの子、さっきまでは私達の後から歩いてたよね?なのに、いつの間にか消えてるなんて!」
…それなら、どこへ?
立ち尽くした二人と一体。
そこへ、下駄の音が近づいてきた。
「おや、あなた方はどこからいらしたのですか?」
振り向けば、一人の老人がいた。
ーーーその頃、探偵所のとある一室では、異様な現象が始まっていた。
ラブラモンが座って、前に向かっているは姿見。
元々探偵所にあった、古そうな代物だ。
その表面が、波のように揺らぎ、歪んでいる。
「我が名、ダークエリアの守護者アヌビモンの名に於いて。門番よ、我が声に応じよ!」
激しく鏡面が揺らぎ、影が浮かび上がる。
始めはぼやけていたがそのシルエットは鮮明になった。
犬科猛獣の頭部を模した兜に装備を帯びた、人間の姿のデジモン。
「アヌビモン様!?この長い間御身は一体どうしていたのですか!」
長年に渡りアヌビモンに仕え続けている、ケルベロモンだ。
「ケルベロモン、大義であったな。しばらくそちらへ戻るには時間と力のリソースが必要ゆえ、まだ長く迷惑をかける事になってしまう」
「中々御身が戻らぬばかりに、ダークエリアの方は堕天使デジモンどもが日に日に大きな顔をする事が増えております。疾く、お戻りになっていただかねばなりませぬ」
心の中で苦笑いを浮かべ、ラブラモンは応える。
「為すべき事を為し、戻った暁にはすぐにそうしよう。それより頼みがある」
「何でしょう?」
「イリアスのダークエリアへチャンネルを繋いでくれ。現実世界(リアルワールド)で異常事態が確認された。それを向こうへも共有する」
「異常事態ですか」
訝しげながら、人狼の相を表したケルベロモンはお待ちをと短げに告げ。
鏡面が再び歪み、揺らぐ。
5分、10分と経って、鏡を通して鋭い冷気が吹き込んできた。
マイナスを余裕で突き抜ける冷気に、周囲の床に霜が降りる。
鏡の向こうに身の毛のよだつ気配が現れた時、ラブラモンは声を張り上げた。
「プルートモン!生者の世界に顕れていないなら応答せよ!私だ、アヌビモンだ!」
砂嵐のような雑音の中、獣が唸るような声が響き渡った。
「アヌビモンだと?噂に聞いていたが、随分無様な姿ではないか。久々だな」
黒い霧のようなものの中から、牙の並ぶ顎を備えた甲冑姿が現れる。
青黒い鎧とそこでガチガチと牙を鳴らす生きた顎の持ち主は、冷徹な光を宿した紅い瞳で鏡面の向こうのラブラモンを睨めつけた。
「それで?何の用だ?」
「イーターの動きが活発になってきている事は知ってるな?それについてだが」
「ああ…あの、データ喰らい共か。表で姿を現しているそうだな」
「やはり、イリアス側にも姿を現していたか」
「死者どもが騒いでいるのが耳に入っただけだ。貴様のダークエリアはそうではないようだが」
プルートモンの声は、降りしきる雪のようにラブラモンの耳を打つ。
「デジタルウェイブを監視する人間達が減らされている。おそらく、同じ人間によってだ」
「その証左は?」
プルートモンの冷ややかな眼が見据える。
「コキュートスを通して既に知ってるだろう?黙示録の残滓が人間世界に頭脳体だけだがリアライズしてしまったことは。奴と組んでいるデジモンと、それに協力している人間がいる。それが、デジタルウェイブの管理者の殺害に関与している」
ラブラモンは人間世界でリアライズしてからの事を、事短く説明する。
それが、今自身が退化している理由でもあることを。
「成程。それでそちらのダークエリアに主たる貴様が不在だったか。番犬が嘆いていたのが聴こえた。実に耳障りだったな」
「返す言葉もない」
そう苦笑したラブラモン。
「用事はそれだけだな?なら、おれは通話を切る。新たに罪人を探す時間が惜しいからな」
相変わらずだ。
そう思いながら、ラブラモンはプルートモンとの通話を切った。
「さて、次は……」
まだ用事はある。
次に訊ねるべき相手がいるのだ。
「ケルベロモン」
「なんでしょう?」
「"黄金の古狐"に繋げ」
ケルベロモンの表情が驚きに歪む。
「まさか、強欲の…?今まで不干渉を通していたはずでは?」
「そうだろうが今回は奴に直接問いたださなければならない件がある。理由は…通話そのものはお前にも聞こえよう?ともあれ、繋げろ」
「……畏まりした」
再び鏡面が水のように揺らぐ。
それをラブラモンは睨む。
(……リリスモンの件、奴はどう返すか)
黄金の古狐。
この名はあるデジモンの"通り名"だが、その名を知る者はごく一部のデジモンと名の主にのみ限られる。
その名の主こそ、七大魔王が一人、強欲を司るバルバモンだ。
……………
「はっはっはっはっ。そういう事がありましたか」
社を管理しているという老人は、美玖達の話に笑いながら応えた。
今日この日は本殿の中に風を通すため扉を開いているということで、特別に中を見せようと踵を返す。
「いや、いつぞやのボウズを思い出すなあ。これがとんだイタズラ小僧にしてガキ大将でな。お稲荷ギツネに泥をひっかけたりして」
「もしかして、私たちがここまで歩く途中で見た、耳や目が片方しかない石のキツネも…」
「ほほほ、あれは元からそう作られたものですよ。それは今から本殿で案内しますでの。――こちらへ」
開かれた格子扉をくぐり、香のかぐわしい空気に包まれながら二人と一体は薄暗い空間へ足を踏み入れた。
シルフィーモンが足を止める。
「どうしたの?」
「…一瞬だが、何者かの気配を感じた。すぐにいなくなったが…」
「ほほ、そちらのデジモンさんは面白いことを言いなさる。だがあながち間違っていませんぞ。ここは、伝説の108匹の狐を祀る社ですからな」
御覧なさい、と上を指さす。
祭壇の左手の天井と障子戸の間に、細長い額が掛かっていた。
中に納められた絵は、横長の大きなもので、ぼってりと黒い墨の線により描かれている。
「稲荷縁起図といいましてな。この神社がなぜできたのかを説明する絵です」
激しい炎を巻き上げ燃え盛る山並み。
迫る炎を見上げ、驚き、逃げ惑う人々。
そして燃える山の上には、黒雲が今にも炎を飲み込む勢いで湧き出している。
その黒雲の上で大勢の狐達が踊っていた。
「これは…」
「江戸時代の初めに実際に起きたと記録に残る、当時の稲荷山の山火事を描いたものです」
1683年、三日三晩に渡り山を焼き尽くした大火の記録だ。
大火がふもとの村へ迫った時、あらん限りの手を尽くして火を消し、押しとどめようと抵抗が試みられたが無駄に終わり。
ーーもはや、万事休す。
そう、村人達が諦めかけたそこへ現れたのが、巨大な黒い雨雲とそれを呼び寄せた108匹の狐達だった。
雨雲は滝のような雨を大火に浴びせ、見事に鎮めた。
「山と村を救ってくれた狐達に感謝した人々が建てたのが、村を見下ろす山の頂にあるこの神社というわけじゃ。…もう、遠い遠い昔のこと。まだキツネやタヌキが人間と化かし化かされての近所づきあいをしていた頃じゃよ」
老人は言い、美玖達と同じように絵を見上げた。
絵の狐達には、まるで、生きているかのような躍動感がある。
老人はシルフィーモンへ向き直った。
「こうして、人間の古い歴史をあなた方デジモンが見ている姿に嬉しく思ってしまいますな」
「それは…わかる気がします」
コマと、華族一家のことを思い出し、美玖はうなずいた。
「ねえ、これ、オショロって狐でしょ?」
ミオナが黒雲の先端を指さす。
そこには確かに、大きな白ギツネが前足を高く蹴り上げて、仲間に号令をかけるかのように尾を振りたて首を後ろへ捻りながら大きく口を開けている。
「その108匹ギツネの頭領がオショロギツネじゃよ。一番強い力を持っておってな、葛の葉狐の生まれ変わりともいわれとる」
「葛の葉…陰陽師の、安倍晴明の母親と言われている狐でしたね」
恋しくば尋ね来て見よ
和泉なる信太の森のうらみ葛の葉
「オショロギツネはな…絵に名前が書かれとるだろ」
「ほんとだ…於松(おまつ)?って書いてある。石のとなんか違わない?」
「それはな、於松(おしょう)と読む。松竹梅の松じゃ」
「どうして、こんな名前に?」
美玖が尋ねる。
「初めはオショウ、つまり和尚だったらしい。それが訛ってオショロに変化したらしいのだ。…だから、その名前の元々の由来は、強い法力を持つ狐だということだろう。それほどの強い力を持つ狐なら何百年、何千年もの間に生まれ変わり続けてもおかしくないとね」
「まるでデジモンのようだな」
シルフィーモンがぼやいた。
「あまり詳しくはありませんが、デジモンが遺伝子を残す時は、寿命を迎えるとともにご自身のデータを卵の形にする…そうでしたな?」
「ああ」
「確かに生まれ変わりに近しいものを覚えますな」
絵を眺め続けて、再びミオナが指さす。
「ねえ美玖、あの狐達…さっき壊れてた石のキツネじゃない?」
「どれ?」
ミオナが指さす狐を見れば、耳が片方だけの狐、目が片方潰れた狐、鼻のひん曲がった狐がいる。
…まさに、あの石のキツネ達そのものだ。
「ああ、その狐達が先程案内したいと申し上げた三匹ですな。名前はそれぞれ、耳丸、眼(まなこ)丸、かぐ丸という、伝説の狐達ですよ」
不思議な力の持ち主でしてね、と老人はにっこり。
「その力で困った村人達を助けたこともあるんです。意地悪な長者からね」
ふと、時計を確かめる。
時刻は16時近く。
…そろそろ、阿部警部とブイ太郎が来る頃合いだ。
「すみません、待ち人がいますので私達はここで…」
「おお、そうでしたか」
「貴重なお話をありがとうございました。その人は私の元職場の同僚なんですが、この土地の人だと言っていたので」
「ほう、どなたかな」
「阿部宏隆さんです」
「もしや、阿部さんのお孫の…」
思い当たりのある様子に、尋ねてみる。
「ご存じですか?」
「うむ、これくらいちんまい頃からな」
老人は笑って続けた。
「参道の石ギツネに泥団子をぶつけたり、本殿の障子を破いたり、いじめっ子を肥溜めに投げ込んだりとよう暴れとったものよ」
「それは、先程お話ししていた……、あの阿部警部が…」
「いつだったか、自分は109匹目の狐だと名乗ったこともあったなあ…賽銭箱を漁っていた不良の中学生達に取り囲まれながらね。社の物に手を出したらここの狐達が黙っちゃいないぞって言った側から、大きな雷がどこからかゴロゴロゴローっと鳴って…あの時の中学生達の逃げっぷりといえば…いやあ、懐かしい」
立派になったものだ……と、そう老人はしみじみとつぶやいた。
「五年前にあの子が就任したと言っとった警察署が恐ろしいデジモンに襲われた話はニュースで見て知っとる。無事だったのはきっと、ここの狐達に守ってもらったからだろうな」
「……狐に、守られた……」
思い出す。
五年前の彼を。
メフィスモン相手に目に見えて怖じる事もなく、ロケットランチャーを構え続けた姿を。
「……彼は、立ち向かっていました。何もできなかった私の目の前で、果敢に」
「そういえば、元職場と仰っておりましたな…お辛かったでしょう」
しんみりとしながらも、改めて暇を告げる。
静かになった本殿。
その梁の上から、一部始終を見守る影があった。
「なんだぁ、あいつら、ヒロ坊の知り合いだったのかよ。そうと知ってればもうちょい丁重に案内してやっても良かったのになあ」
美玖達が阿部警部とブイ太郎の元へ合流した時、すでに山の麓、アスファルト道路の両側に出店が開かれていた。
後半刻ほどすれば、神社の境内にも出店が始まるだろう。
「よう、五十嵐!こっちだこっち」
大手を振って浴衣姿の阿部警部が迎える。
その足元には同じ着物姿のブイ太郎がいた。
ブイ太郎は顔を半分覗かせながらたどたどしく、
「こ、こんにちは」
と挨拶。
ミオナがしゃがみこむ。
「可愛い!この子もデジモンなんだね、こんばんは」
「ああ、仲良くしてやってくれ」
「初めまして、ミオナよ。よろしくね」
そっと差し出されたその手に、
「…うん」
ブイ太郎は小声でうなずき、握ってきた。
一緒に歩きながら、美玖達は自分達が歩いてきた道を改めて見回した。
オキ丸が言うように、確かに、子連れの親子や小学生数人連れが見受けられる。
子供達は皆、小遣いを手に、出店へと走っていった。
微笑ましく見守っていた美玖、だったが。
(……あ……)
その中に、混じって走るデジモンと子供。
子供の腰にストラップで固定されていたそれは……見覚えがある。
(デジヴァイスだ…!)
ミツバチのようなファンビーモンと一緒に出店へ走るその小学生の少年に、美玖はずきん、と心の奥でささくれるものを覚えた。
どうしても、
(この感覚だけは、慣れない…)
不意に肩を大きく叩かれた。
「ふゃっ!?」
「あまりぼーっとするな。ほら、ぶつかる」
シルフィーモンが咎めるように言う。
それと同時に、前方から数人の大学生と思しき若いグループが通り過ぎていった。
「今日は普通の縁日だからそんなに人は多くないが、山送りだったらもっと人多いからな。ほんとに気をつけろよ、五十嵐」
「山送り?」
はぐれないよう、美玖の手をしっかりと握りながらシルフィーモンが尋ねる。
「この地域の、二大イベントさ。夏の終わりと、春の始まりを迎えて送るための大事なお祭りでな。この山送りが済まなきゃ、ここの人達は夏の終わりを迎えられない」
「夏の、終わり…」
一年の実りをもたらした田の神が山へ帰っていくのを見送るもので、元々は稲の刈り入れを待って行われていたが現在は8月最後の日曜に行うように変更された。
夏の終わりに山へ帰った田の神が、次の春に田を目指して山を下る。
春を迎える祭りは、山から下りた田の神を迎える祭りなのだ。
「縁日よりも賑やかで、もっと人も集まるんだ。それこそ、隣の県とかからもやってくる。今年の山送りは典子も予定が空いてるから、ブイ太郎と三人揃って行くつもりだ」
さて、出店は様々で、定番のお好み焼きやたこ焼き、チョコバナナにかき氷。
ソース煎餅にりんご飴。
ヨーヨー釣りに射的、スーパーボールすくい。
神社の参道にも幾らか出店は並ぶはずなので、遊ぶにも十分だ。
「わあ……あ……」
ここまで大勢の人の集まりに加えて、色々な音や匂い、未知の雰囲気を味わってか。
ブイ太郎はせわしなく出店や通り過ぎる人の流れを見回している。
阿部警部が穏やかにブイ太郎の頭を撫でた。
「すごいだろ?」
「…うん」
ーー
神社の参道を目指すように、出店を回って楽しんだ。
途中、人とぶつかってチョコバナナが落ちたり、ミオナの履き物の鼻緒が切れて転んだりとハプニングはあったが…。
「ここの階段のキツさは相変わらずだな…」
階段を登りきって、阿部警部は額の汗をぬぐう。
ここまで来て、新たに発電機の音が聞こえてきた。
途中の階段が狭く急勾配のためもあるか、出店自体は少ないが賑やかな声や人の気配はここにもある。
「ちょっとここでひと休みしませんか?」
美玖が息を整えているミオナの背中をさすりながら言った。
出店を巡るだけでも体力は消耗するものだ。
「そうだな。ミオナさんも疲れてるようだし」
「じゃあ、ちょっと鳥居の脇に……あっ」
体を曲げたその拍子に。
美玖の手首から、厚めのビニールの袋が鳥居の脇から下へ転げ落ちた。
キャラクターの柄がプリントされた、わたあめの袋。
ラブラモンへのおみやげに買ったものだ。
「わたあめが!」
慌てて草を掻き分け、飛び出した。
「おい、気をつけろよ!結構坂が急なんだここは!」
阿部警部が声をかけた。
…しかし、異変は、すぐに起こった。
「……美玖ー?」
いつまで経っても、美玖が登ってくる様子はない。
「……まさか」
シルフィーモンが立ち上がる。
鳥居から下へ飛び出し、わたあめの袋と美玖を探す。
しかし、ゴーグルを通しても、美玖の姿どころか袋すら見当たらない。
ーーしまった。
「美玖!美玖、どこにいる!?」
シルフィーモンの叫びが、山に響いた。
「う、わっ!?」
急な坂、それも普段と違い浴衣姿で下りたばかりに足を取られた美玖は袋ともども転がり落ちていた。
シルフィーモンがこの光景を目撃していたら呆れ果てていただろう。
……目撃できていたならば。
「……いっ、たあ…」
やっと手に掴んだ袋の感触。
全身葉っぱと土まみれだ。
「こんな所まで転がってきちゃったなあ…」
乱れた髪を直しながら、坂の上を見上げる。
「階段の所まで戻りましょう」
鳥居の脇から転げ落ちたことを考えれば、よほどルートをそれていない限り階段までの距離は離れていないはず。
がさがさと草をかき分け、また滑り落ちないよう足の重心に注意する。
階段へ辿り着くのにそう時間はかからなかった。
「それにしても、なんだか静かね…」
階段を上りながらつぶやく。
今たどり着いた所は40段ほどぐらいか。
それでも、先程と比べて不気味な程もの静かだ。
それだけでなく、心なしか非常に暗いようにも。
「この石段、急だけどもう少し早く上がらなきゃ」
少しズレた鼻緒を直し、やや駆け足で石段を上る。
そして、鳥居まで戻ってきたと…思った。
「……あれ?」
そこで、気づいた。
シルフィーモンもミオナも。
阿部警部もブイ太郎もいない。
それだけでなく、境内には音ひとつもせず、周囲を闇が包んでいた。
「……え、待って……皆?」
出店の照明で眩しい程照らされていたはずの竹林は、真っ暗で何一つまともに見えない。
いや、出店が一つとして見当たらないではないか。
異常を理解して、血の気が引く。
いつぞやかの、大きなタコの頭にコウモリの翼の巨大な影を見た悪夢を思い出す。
「……っ」
ぶるっと身を震わせ、バッグからペットボトルの水と薬を取り出す。
粉薬を口へ流し込み、ゆっくりと水を口に含んでいく。
「っ、んくっ、んっ…」
粉薬を水で流し込み、何度か深呼吸。
動悸を打ちつつあった胸を落ち着かせ、改めて辺りを見回す。
「どうしよう…これ、もしかして私、いけないことになってるんじゃ…」
「なってるよ」
「!?」
真後ろから聞き覚えのある声。
振り向くと案の定見覚えのある少年がいた。
「オキ丸君!?」
「しっ、声が大きい。お前、あれほどいけないって言ったのにやらかしたな」
オキ丸は人差し指を立ててから、辺りを用心深く見回した。
「やらかしたって…」
「言ったこと忘れたのかよ。鳥居はちゃんとくぐらないとダメだ、でないととんでもない場所に飛ばされるって」
「……あっ」
思い出して声をあげる。
それを見てオキ丸は呆れたか盛大にため息をついた。
「しかもな…とんでもない場所に飛んでくれたな。ここ、"魔道"じゃないかよ。お松ちゃんからも絶対入っちゃだめだって注意された超危険な場所なのに」
「まどう?」
聞き慣れない言葉に目を瞬かせる美玖。
「妖怪でも神様でも良いけど、その中でも特別"良くない"奴の通り道だよ。昔はよく、この魔道が山の中にはいっぱい這ってた。今はそうでもないけど、昔は迷い込んで帰ってこない人間達がいっぱいいたんだ」
「……人間じゃないって否定しないのね。自分は狐だ、って」
美玖に言われて、オキ丸はイタズラっぽく笑った。
「お姉さんなら良いかなって。でもまさか、ヒロ坊の知り合いだって思わなかったよ。そうと知ってたら、もう少しは丁寧に案内してやったのにな」
「阿部警部と知り合いなの?」
「ああ、お巡りさんやってんだっけかヒロ坊。そんなとこ……って、ヤベッ」
隠れろ、と短く叫び、美玖の腕を引く。
「えっ」
(静かに!早速厄介な奴らが来た。良いか、声を出すなよ)
草むらの中でオキ丸がそう言ってから少し経って。
境内の中に何物かが複数やってきた。
闇の中から現れたそれに、美玖は目を瞬かせた。
(…サンショウウオ?)
紫色の皮膚に赤い不気味な紋様。
人間の子供程の大きな両生類だ。
大きなサンショウウオのようなモノ達は、ぞろぞろと動きながらオキ丸と美玖の隠れた草むらを通り過ぎる。
何かを探しているようにも見える。
(オキ丸君、あれは何?)
(ここ最近現れたってお松ちゃんが言ってた奴らだ。どういうわけか知らないけど、あいつらも人間、特に子供を狙ってる)
(子供を?)
(子供が狙われるってのはそう珍しくないぜ。でもあいつらの主って奴が特にマズい。とにかくゆっくり移動するぞ。魔道には抜け道ってものがある。そこを抜けない事には延々と同じ道を廻ることになる)
(…わかったわ)
サンショウウオのような連中はとにかく数が多いようで、道ゆく先にもうろついている。
その姿に、これもいつぞやかの魚人とは別種の不気味さを美玖は覚えた。
それでも、あの時とは状況が違い、一人じゃない。
例え人でなくても、一人きりで怯えずに済む。
草むらの合間を縫いながらサンショウウオの目をかいくぐって進んでいく二人。
(ちょっと止まれ。あいつらの数がさっきより多くなってる)
オキ丸の言うように、サンショウウオめいたモノの数が、より一層増えている。
その数は数十頭ほど。
まさに群れだ。
(このままじゃ見つかるから、流石に術を使うぞ。今じゃ普段は使う必要がないんだけど、お姉さんがいるからな)
(術?)
(見つからないようにする術な。合図したら、息を止めろよ)
(息を?)
(そうしないと術が解けて姿がバレちまうからな。今のうちに準備しとけ)
数分後、オキ丸に手を引かれながら、もう片手で鼻と口をふさぐ美玖がいた。
オオサンショウウオがうろつく合間を急ぎ足で通り過ぎる。
かなり近い距離だが、彼らはオキ丸と美玖に気づく素振りを見せない。
(もう少しで抜け道に近い、それまでは……)
パキッ
不意に大きな音が足元で鳴った。
気づかずに小枝を踏んでしまったようだ。
「っ!?」
(バカっ!!)
その瞬間、サンショウウオの目線が一斉に美玖達へ振り向いた。
生気があるようには見えない、黄色の目がギラギラと光った。
「くそっ、走れ!」
「いたか!?」
その頃。
美玖の姿がないという異常事態から、山の中を駆けずり回ることになった阿部警部とシルフィーモン。
何かあった時の連絡のため、ブイ太郎とミオナには鳥居の近くで待ってもらっている。
「ダメだ、階段近くにいる人にも聞いたがそれらしい人を見なかったらしい」
「なんだってこんな時に…!」
近くにヴァルキリモンもいるそうだが、美玖がいなければ…。
ーーーいや、本当に困ったな。
阿部警部とシルフィーモンの脇でヴァルキリモンは困り顔になっている。
美玖の紋章の近く、美玖の近くにいなければヴァルキリモンは実体化できない。
実体化せずとも干渉のできるラブラモンは、この場にいない。
フレイアもラブラモンの元へ預けたままだ。
ーーーしかし、彼女はどこに行ったんだろうか…?
考えあぐねながらヴァルキリモンが飛びあがる体勢をとった時。
聞こえるぞ 聞こえるぞ
魔道を走る迷い子とオキ丸の足音が
どこからか聞こえた声。
ヴァルキリモンが見回す。
視えるぞ 視えるぞ
迷い子とオキ丸を追う"奴"の眷属どもが
ーーー誰かいるのかい?
阿部警部とシルフィーモンはまだ声に気づいていないようだ。
彼/彼女が見回すと、仄かに光る獣が三匹走っていくのが見えた。
線のほっそりとした身体。
尖った鼻や耳先。
ふさふさとした長い尾。
それは、狐だった。
ーーー怪我でもしているのかな?
そうヴァルキリモンがつぶやく。
というのも。
一匹は片耳がなく。
一匹は片目が潰れ。
一匹は鼻先がひん曲がっている。
ふと、片目の潰れた狐が足を止めたかと思うと、ヴァルキリモンの方を向いた。
視えたぞ 視えたぞ
にんまりと笑う狐。
人間なら不気味に思うところだが、ヴァルキリモンがそれに動じることはない。
ーーー良かった、私が見える者のようだね。困っているんだが…君達も急ぎの用かい?
鼻先がひん曲がった狐、片方だけ耳のない狐もヴァルキリモンの方を向きながら答えた。
「我々の同胞のオキ丸が魔道に入った」
「人間が一緒だ。そこを厄介なモノの眷属どもに目をつけられた」
ーーー人間?もしかして、こんな人間かい?
ヴァルキリモンが美玖の写真を一枚見せる。
ラブラモンが渡したものだ。
「おお、その娘よ。その娘が魔道に落ちたのよ」
「オキ丸から急ぎ救援を請われた。魔道は良からぬ神やあやかしの通り道。人の子なぞ好餌じゃ」
「オキ丸も人の良すぎることを…数百年も、まるで変わらんのう」
ーーー私が探しているのが彼女だよ。
それで、と切り出しヴァルキリモンは離れた所にいるシルフィーモンを指差す。
ーーーあそこにいるデジモン…人間のようで人間ではない者がいるんだが、わかるかな?
「わかるぞ」
ーーーその魔道という場所へあそこの彼や私を案内できないかね。彼女を一人にしておくのは色々とマズい案件なんだ。
「そうか、我らはこれから棟梁の元へ向かう。眼丸が供をしよう、眼丸は遠くを見ることができる」
ーーー感謝する。できたら、あそこにいる彼、シルフィーモンに干渉を願えないかな?私は彼女の近くにいるか、視える者を介してでないと他者に接触できない。
「なるほど、呼べばいいのだな。それではかぐ丸、耳丸、先に行くぞ」
「おう」
二匹が去ると、片目の狐・眼丸は尻尾をぴんと立てて……
しゅるん
姿が揺らいだと思うと、そこに立っていたのは人間がよく知る狐の姿ではなかった。
金色の美しい毛並み、比較的人間に近い骨格。
身体の線は華奢で女性的、頭部は狐のそれだ。
ーーーほう、レナモンか。
ヴァルキリモンは感心の声をあげた。
黄金狐の獣人、レナモンの姿をとっても、普通のレナモンと違い眼丸の片目は潰れたままだ。
ーーーそれにしても驚いたよ。デジモンに化けられるとはね。
「棟梁の方針だ。お前たちデジモンなる存在を把握したことで、我ら108匹狐もそのように倣ったのだ。では、行こうか」
片目のレナモンが歩いていく。
阿部警部とどうしようか話し合うシルフィーモンの元へと歩み寄り……
「少し良いか?」
「ん?」
先に気づいたのは阿部警部。
遅れてシルフィーモンも振り返った。
「あんた、デジモンか。ちょうどいい、ここら辺で人間の女性を見なかったか?」
「ちょっと待て。…こんな女性だ」
シルフィーモンが端末を見せる。
しかし、それを見るより先に、片目のレナモンの手が制止した。
「それには及ばぬ。その人間は今、こことは違う異層へ飛ばされておる。お前たちのいるこの層とは異なる危険な場所じゃ、鳥居をくぐり損ねたが故にな」
「なんだって?」
「鳥居……」
思い当たりにシルフィーモンの表情が険しくなる。
阿部警部がレナモンに尋ねた。
「それより、あんたは一体?」
「我が名は眼丸。……その者をしばし借りて行くぞ」
「まっ…!?」
名前を聞いた阿部警部が、一瞬固まる。
だがそれより早く、眼丸の手がシルフィーモンの腕を掴んだ。
「!?」
「急ぎ向かわねばならぬのでな。すぐに魔道へ跳ぶ」
ほんの一瞬で。
片目のレナモンとシルフィーモンの姿が風に溶けるように消えた。
取り残された阿部警部は、呆気にとられた表情でつぶやいた。
「眼丸って……オキ丸と同じ108匹の狐が、本当にいたんだな…」
祭りはまだまだ続く。
遠く聞こえる賑やかな音楽が静寂をささやかに破っていた。
「はぁ、はっ、はあっ」
背後から追いかけてくる足音に心臓が跳ね上がる。
参道を駆け抜けながら、オキ丸が叫んだ。
「抜け道はこの先だ、まだ主の気配もないとは思うけど油断するなよ」
竹林に混じる紅。
それは、今の季節からも外れた花々の綾(色)。
(彼岸花…?でも今の時期は違うはず!)
竹林の碧とのミスマッチ度合いが凄まじいが、その奥の暗闇からも濁った黄色い目玉が何百も輝くのが見える。
「くそっ、前の方からも来た!道を塞がれる前に蹴散らすぞ」
オキ丸の言う通り、前方、道の両側からもサンショウウオが迫る。
オキ丸の体を風が包んだかと思うと、一匹の狐がそこにいた。
身体の小さく、いかにもすばしこそうなその狐は美玖より前へと飛び出して駆け抜ける。
つむじ風が起こったと思うと、前を塞ごうとしたサンショウウオ数体が切り裂かれた。
「どけぇ!」
「オキ丸君、抜け道はこの先にしかないの!?」
美玖が走りながら後ろを振り返る。
……追手はまだ数を増していく。
サンショウウオに混じって、円筒型とも人型ともつかないものや、筋肉質な人間に見えなくもないものまでが現れた。
そして、筋肉質な人型がオキ丸の脇から飛び出す。
「オキ丸君!!」
「しまっ…ぐあっ!」
太い腕に殴り飛ばされるオキ丸。
それを守るためにそばへ並び立ち、美玖がホーリーリングの弓を構え、引き撃つ。
迫ってくる巨体を、光の矢が数本撃ち抜いてやっと地に倒した。
「オキ丸君、大丈夫?」
「まあ、な…ほんとは、デジモンの姿で戦えもするんだけど人間の姿の方がしっくりきてるんだよな…!」
立ち上がるも受けたダメージは軽くないのか狐の身体がよろめく。
追手の動きを待つより、美玖の決断は早い。
オキ丸を抱えて走り出した。
「抜け道はここからどう行けばいいの!?」
「本殿かそっちがダメなら狐ヶ井戸(きつねがいど)とこの町の人間達が呼んでる湧水池がある。本殿の裏だ、そこへ行け!」
「抜け道は一つだけじゃなかったの?」
「そんなこと俺は一言も言ってない。でもあいつらの主がやって来ようものならおしまいだ!」
柔らかくなめらかな狐の毛並みと体温を腕に感じながら美玖は全力疾走する。
エキノコックスがなどとふざけている場合ではないし、そんな真似を好む美玖ではない。
危うい状況にまたしても放り出されているからだ!
「でも、数が多い…!」
暗闇から押し寄せる影。
そして、不意に現れた円筒型に美玖が足を止めた。
その時である。
「『デュアルソニック』!!」
「『狐葉楔』!」
エネルギー弾と光の木の葉が飛来し、美玖の前を塞ぐモノを打ち倒した。
「ーーシルフィーモン!」
美玖の声に応えるかのように、近くへ降り立つやそこへ襲い来た円筒型を殴り飛ばす。
「美玖、なんて格好を…ともあれ無事で良かった」
安堵の言葉を漏らしたシルフィーモン。
その脇に現れた片目のレナモンに美玖が目を瞬かせる。
「あなたは……」
「眼丸」
オキ丸の声に眼丸は開いた片目を細めた。
「オキ丸、何をしておる?ここが魔道であることはよく知っておろうに。疾く姿を変えるがいい」
「……しかたねえなあ、わかったよ」
「あっ」
美玖の腕からすり抜けると、オキ丸の姿が狐から直立した獣人へと変わった。
化け物達も、先程と形勢が逆転したと感じ取ってかすぐに襲いかかる素振りを見せない。
その素振りも、美玖に近すぎず離れすぎない位置で姿を表した純白のデジモンを前により顕著となった。
「ヴァルキリモンさんも」
だが、空気が激変したのはその時でもあった。
ーーーや?
ヴァルキリモンが一番に反応し、美玖達が走ってきた方を見る。
闇の奥、数多の化け物達の背後に蠢くあれは……
「……何、あれ?人の、手が……」
それは、無数もの人間の手のようなもの。
一斉に、美玖達の方へ伸びてくるように見える。
眼丸とオキ丸の全身の毛が逆立った。
「見えるぞ 見えるぞ」
眼丸が声を張り上げる。
「な、何が?」
「あいつらの主だ!もう来やがった」
オキ丸が答え、シルフィーモンが身構える。
ーーーいやあ、これは。
ヴァルキリモンがつぶやく。
ーーー参ったな。これは、並の気配ではない。
「どういうことですか?」
美玖がヴァルキリモンのいる方を見上げる。
ーーーそうだね、究極体も色々いるわけだが同じデジモンでも強い弱いの個体差というものがある。普通のデジモンの場合はね。
「……?」
「つまり、こう言いたいのか。…相手は非常に強力な究極体に匹敵する、と」
「!?」
シルフィーモンの説明に美玖は振り返る。
ーーーそうだ、少なくとも。あれはロイヤルナイツですらもおそらく手に余る。
「待って、それって」
化け物達の合間を縫って、無数の手が迫ってくる。
未だその姿を闇に隠しながら。
ーーー撤退しよう。今すぐだ。あれは私一人ではどうにもならない!
「おい、あんた!」
レナモンとなったオキ丸がシルフィーモンを振り返る。
「こいつを抱えて先に行け!あいつらに完全に囲まれたら掻っ攫われるぞ」
「わかった」
「きゃっ」
いきなり横抱きにされ、思わずシルフィーモンにしがみついた美玖。
ヴァルキリモンが先方を行き、オキ丸と眼丸は後方へ。
前方からさえぎるように現れるモノへヴァルキリモンが斬り捨て、あるいは矢で撃ち抜く。
後方から現れたモノに対してはオキ丸と眼丸が光の鋭い木の葉をショットガンのように浴びせかける。
「シルフィーモン、左側から来る!」
美玖の注意にシルフィーモンは素早く反応。
脇から現れるは円筒型。
上半身を振り回すように動かしたが、シルフィーモンはしゃがんでこれを回避。
脚に力を込めるとそのまま跳躍と共に土手っ腹に蹴り込んだ。
「距離的にはそろそろ本殿のはず…!」
不思議かつ恐るべきことに、背後の謎の存在との距離は広まっていない。
それどころか逆に縮まっているように美玖には感じる。
一体何者なのかわからない、未知のモノ。
ヴァルキリモンですら手に負えないという未知の相手は、自分という贄を求めている。
一体何の為に?
「オキ丸!」
「なんだよ」
「見えたぞ、見えたぞ!棟梁だ!」
「お松ちゃんが来たのか」
「狐ヶ井戸、そこで待っている」
やりとりを終えてオキ丸が叫んだ。
「狐ヶ井戸だ!そこまで行けばなんとかなる!」
「本当に!?」
「ああ、お松ちゃんならあいつを少しの間抑え込める」
シルフィーモンは美玖に目配せをした。
「一度、下ろすぞ」
「うん」
ザッ!
滑り込むようにブレーキをかけ、シルフィーモンが美玖を足先から立たせるように下ろす。
下ろされたと同時に美玖も動く。
シルフィーモンの脇を抜けるように回り込んで、彼の背に後ろからしがみついた。
一瞬、追いつきかけた眷属を、すぐさまシルフィーモンの跳躍とその直後の飛翔で引き離す。
この流れは一人と一体の繋がりが見せる連携と言えよう。
ヴァルキリモンがほう、と漏らした。
ーーー流石は付き合いの長い二人、と言ったところか。悪くないね。
ーー本殿の裏。
そこへ回り込めば、杉林が立ち並ぶのが見える。
その中で、うっすらと白いもやがかかっている所に、湧水池があった。
冷たく透き通った水がボコボコと水面を持ち上げる勢いで湧き出ている。
ここが狐ヶ井戸だ。
そこまでたどり着いた所で、美玖は三つの影が泉のそばで立っていることに気づいた。
うち二つは、よく似たシルエット。
もう一つは……。
「あの、人?は…」
顔の上半分を隠した狐の面。
紫と黒を基調とした軽鎧とスーツ。
手に握られた錫杖。
「棟梁、眼丸とオキ丸、只今戻られました!」
二つに分けられ束ねられた長い銀髪が揺れる。
「戻ったな、眼丸、オキ丸よ。ーー来たか」
背後に迫る気配。
無数の手が這い寄り、美玖は振り返りたくともできない。
だが、錫杖がしゃんっ!と鳴った。
「ーーー掛けまくも畏(かしこ)き伊邪那岐大神(いざなぎのおおかみ) 筑紫の日向の橘の小戸(おど)の阿波岐原(あわぎはら)に 御祓(みそぎ)祓へ給ひし時に生(な)り坐(ま)せる祓戸(はらへど)の大神等………」
凛とした声が謳う。
「何だ?」
戸惑うシルフィーモンの傍ら、美玖はそれが何かを理解した。
祝詞か祓の類……
背後まで迫っていた禍々しいものが、進むのを止めた。
「とほかみ えみため はらいたまえ きよめたまえ
とほかみ えみため はらいたまえ きよめたまえ……」
瓊矛鏡(とほかみ)
笑賜(えみため)
祓賜(はらいたまえ)
清賜(きよめたまえ)
地の底から響く声。
暖かな金色の光の中、凛とした声が誦(そら)んじる。
「ーー『胎蔵界曼荼羅』!」
その声と光の中、美玖の意識はすうっと吸い込まれるかのように、沈んでいった。
意識を取り戻した時、最初に美玖の耳が拾ったのは車のエンジン音。
目を開けると、車の前部座席とわずかに覗いた阿部警部の頭が見えた。
どうやら後部座席の上に、背もたれに寄りかかる姿勢でいたようだ。
「あ、美玖、大丈夫?」
「……ミオナ?」
覗き込まれ、美玖は目を動かしミオナの方を見る。
その反応に、ミオナは胸を撫で下ろした。
「よかった…シルフィーモンと二人戻ってきたかと思ったら、美玖だけ倒れてたのよ。なんか大変な目に遭ったって話だけど…」
「全くな」
ミオナとは反対の方向からシルフィーモンの声。
窮屈げにしながら彼は美玖の隣に腰を下ろしている。
「わたし、帰れたの?」
「まあな。リーダーと思しきあのデジモンが力を発動させたところまでは、私も覚えているが…」
気がついた時には本殿の前にいたという。
そこで美玖を担いで、阿部警部達と合流した。
「結局アレがナニモノだったのか、それすらもわからなかった。…イーターとは別物だろうが」
ーー謎の敵と思しき存在との遭遇は謎を残したまま終わった。
シルフィーモンの懸念は今のところ、このモノ共のいる世界と我々の世界が交わらない限りは杞憂のままだろう。
……交わらせようとする者が現れない限りは。
ーーー
「良かったのか?お松ちゃん。ヒロ坊に顔を合わせないで…あいたっ」
林の中、少年の姿になっているオキ丸が尋ねようとして、頭を小突かれた。
「儂をその呼び方で呼ぶなと何度も言うておるだろう、オキ丸。……とはいえよく無事に戻った。あの者達への接触は山送りの日の前に使いを送ることにしている」
「じゃあ!」
「使いはお前を寄越すとしよう」
「げぇーっ」
オキ丸が頭を抱える。
人里に下りるということは狐にとって天敵な犬のいる場所へ近づくということ。
長年生きてきた中で犬に吠えられ失敗した事は数え切れない。
訴えようとしたオキ丸の脇を、白い大キツネが横切った。
「お、お松ちゃん待ってよ!」
オキ丸は慌てて狐の姿に戻り、走っていった。
「……それじゃ、ブイ太郎、始めてのお祭りは楽しめたのね」
「ああ」
まだよそ行きの服のまま化粧を落とす典子に祭りのことを話した阿部警部。
すでに敷かれた布団の上で、ブイ太郎はもう夢の中だ。
「それにしても美玖ちゃんも大変ね…最近危険なことに巻き込まれる事が増えたなって」
「……香港での一件でヤバい事が色々起こったしな。一週間後に香港から組織の調査に関して正式な発表があるとは聞いたが……そのために払った犠牲の中に、五十嵐にとって辛い案件があるのは見てられん」
タバコをふかしながら、阿部警部はもの思いに耽る。
「…もうそんな事が二度と美玖ちゃんに起こらないでほしいな」
典子がぼそりとつぶやく。
あの暗く散乱としたアパートの一室を、その中で膝を抱えてやつれた美玖を見たからこそつぶやかずにいられない。
夫婦は互いに、一つのことを思いながら、夜を過ごした。
そういえば和風な世界観だったぜデジモンサヴァイブ! 夏P(ナッピー)です。
オオサンショウウオと言われた時点でピンと来た眷属。イーターだけじゃなくコイツもいるのか終わりだよこの世界、と思いましたが飽く迄もお稲荷さん(レナモン系)と絡む神社ならではのゲスト参戦だったっぽい? こっから果たして出番があるのでしょうか。眷属×イーターの最強生物が誕生したりはしないのか!?
あと眷属が出たと気付いた瞬間、誰か一人ぐらいママァママァひぎやあああああと無数の手に引っ張られていく展開が来るかと思いましたが、そんな調和道義激情ルートみたいなことは無かった。タイトルの時点でレナモン系が出ることは確信しておりましたが、サヴァイブ合わせでレナモンだったか……。
ラブラモンもといアヌビモンが珍しく独自行動というか、なんかプルートモンだけでなく新しく魔王の名前が出てきた! 古狸ではなく古狐呼びとは。ケルベロモン氏は人型ということなのでジンロウモードということでしょうか。どうも苦労人っぽくて胃に穴が空いてそうな。
眷属、サヴァイブだと耐性バラバラだし見た目の割に妙に固かったりするから嫌いでしたが、クズハモンの前に敢え無く散る……ひょっとしてデリーパー抑えたサクヤモンのオマージュだったりするのでしょうか。……デリーパーこっから絡んできたりするかしら。
当たり前のように仕事前にんほおおおおおお。
それでは次回もお待ちしております。