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一晩が過ぎた朝は、清々しい青空だった。
探偵所の前を箒で掃く美玖。
彼女に一組の老夫婦が声をかける。
ご近所付き合いの、見知った顔だ。
「美玖ちゃん、おはよう」
「おはようございます、後藤さん」
箒を動かす手を止め、夫婦仲の良い朗らかな二人に美玖は笑顔で挨拶を交わす。
そこへシルフィーモンが顔を出した。
「美玖、朝食が…おや、おはようございます、後藤さんに奥さん」
「シルフィーモンさんもおはよう。これ、お土産なの。美玖ちゃんや探偵所の皆で召し上がって頂戴」
「これはご丁寧に…ありがとうございます」
後藤夫婦は旅行帰りからのお土産にと、菓子折の入った紙袋をシルフィーモンに手渡した。
「草加はどうでしたか?」
「良いお宿に温泉がね、とっても良かったわ。それでね…」
後藤夫婦と会話を交わすシルフィーモン。
その横で美玖は昨晩の出来事を思い出し、慌てて真っ赤になった顔を伏せる。
(昨日の事が、嘘みたい)
あれだけ燻るように身体の奥で何週間も残り続けていた疼きは綺麗に解消されていた。
ドス黒く染まっていた印の色も、淡さを取り戻している。
再発を考えると手放しに喜ぶ訳にもいかないが、なにより助手を『男』として初めて受け入れた感覚とあられもなく雌となって快楽を貪った自身の姿どちらも忘れ難い。
一瞬、頭に想像がよぎる。
(……ダメダメ!変な事考えちゃダメ!呪いのせいでこうなってるのに、そんな事考えちゃったらーー!)
顔が真っ赤に熱くなるのを覚え、必死に頭の中に生まれたイケナイ欲望を振り払うためブンブン頭を横に振る。
「そうそう、美玖ちゃん、美玖ちゃん」
「はっ…!な、なんでしょう?」
箒を掃く手を止め、振り向いた。
「帰ってきたのは昨夜なんだけど、……美玖ちゃん、あんまり声が大きいとご近所さんから色々聞かれちゃうから気をつけた方が良いわよ」
「!!?」
思わず固まる美玖。
シルフィーモンも平静を装っているが冷や汗をかいている。
「ま、まさか、聴こえて…」
「やぁだもう、あれだけ大きくて気持ちよさそうな声あげてるのが美玖ちゃんなのほんとびっくりしたんだから。シルフィーモンさん意外とやり手なのね」
「いやあ、若い頃思い出すよ」
「え、えええ、えっと…」
赤裸々に発言されて慌てふためく美玖とシルフィーモン。
「違うんです!昨日のあれは…」
必死に考えに考えた言い訳が
「ま、マッサージしてもらってただけなんです!」
だった。
が。
「そうかぁ、仕事大変みたいだったものね。シルフィーモンさんほんといい人だから、仲が良いのはとっても良い事よ」
「そうそう。そのうちちゃんと身固めんとかないとな!」
「え、ええと…」
後藤さんがシルフィーモンの背中を軽く叩く。
「シルフィーモンさんも今のうちに美玖ちゃんお嫁さんにしといた方が良いぞう?今どきこんなに器量良しで可愛い子なぞそうそうおらんからなあ」
「さすがにその件については彼女の意思に任せます!それに、我々デジモンに性別はーー」
「やだもう、好きな人同士なら良いじゃない」
後藤夫婦揃ってにこにこなので、美玖もシルフィーモンも言い返せない。
言い返す余地も雰囲気もない。
「好きな人同士で結婚しても良い時代になってきた。これからどんどんそうなってくんだよ。俺達の頃はそういうの、しようと思っても中々できなかった」
「お二人は若いしこれからなんだから、頑張ってね。応援してるわよ」
「あ、ありがとう…ございます」
後藤夫婦が去った後、美玖は箒を、シルフィーモンは紙袋を手に、顔を真っ赤にしたまま立ち尽くしていた。
ガレージの中にいたグルルモンはなんともいえない表情を二人に向けている。
「せんせーい、しるふぃーもーん、ぐるるもん、あさごはんだよー!」
ラブラモンが呼びに来るまで、二人はそうしていた。

こちら、五十嵐電脳探偵所 #18 擬似科学殺人事件
ーーー…なるほどなあ、やはりそういうことか。
デスクワークを離れた所で眺めながら。
ヴァルキリモンは苦笑いを浮かべていた。
朝食時に、美玖の口から打ち明けられたリリスモンの呪いの話を受け、その場にいた一同が静まり返った。
ーーー闇のオーラがヤバイくらい彼女を包んでたからな、近づけばロクな事にならないとは感じてたよ。
「どのみち今の我々ではどうする事はできない」
ラブラモンが大きくため息をついた。
ーーーあれ、闇の力由来なら君の権能でどうこうできたんじゃなかったっけ?
「阿呆、今の私はまだ完全に力を取り戻せてないのだぞ。それに呪いの主はリリスモンだ。完全に呪いを除去できる保証はない」
ダークエリアの守護・管理を務め、デジモンの生死を定める力を持つと言われるアヌビモンだが、そんな彼でも手出しのできない者は存在する。
同じダークエリアに存在し、支配する七大魔王や彼らより上位の実力者と目されたグランドラクモンだ。
それでもなお、七大魔王らとは一種の協定を結んでいる。
その上で、監視という形で不干渉に徹底している。
七大魔王達からして、アヌビモンはあくまでダークエリアという環境の管理人以上の特権がないので彼を攻撃する事に何のメリットもない。
だが、それでもアヌビモンが彼らに対し不利である事に変わりはなかった。
「先生の紋章…あれの力を得られれば」
ーーーおやおや、私に嫉妬とはひどいな。
「そういう意味ではない!…先生は選ばれし子どもじゃない。パートナーを持たない事が関係しているかは知らんが、彼女の持つ紋章が与える物が未知数である以上、それに賭けたいのだ」
思わず声を大きく出してしまったため、美玖を一度見てから小声になる。
「先生の紋章は今までの紋章とは異質な点が幾つかある。……ただ、問題は、先生自身がそれを使いこなせていないことだな」
ーーー本人が自覚していない事も起因しているようだがね。しばらくは、彼に頼るしかないんだろう、呪いに関しては。
ヴァルキリモンは言いながら膝の上のフレイアを撫でた。
その目線の先にはシルフィーモン。
今では再び近い距離で言葉を交わしているが、現状は彼だけしか近寄れない。
「……呪いの影響で変質したシルフィーモンの身体は、もう元には戻らない。先生から呪いを除去できたとしても」
ラブラモンは目を伏せた。
今も美玖は、シルフィーモン以外のデジモンから距離を置いている。
その気遣いが、ありがたくも複雑だと感じていた。
「…ともあれ、彼の知己だというホーリーエンジェモンからの品が届くまでは待つしかないということだ」
ーーーフレイアは大丈夫な様子だよ?
「それは重畳な報せだな。お前のその鳥は以前と同じ働きをしてくれるはず」
フレイアの翼は完治している。
ーーーフレイアに彼女のそばに居てもらうとするよ。呪いの気配があればすぐ教えてくれるようにね。
「なら、それで決まりだ」
……それにしても。
ラブラモン、否、アヌビモンは、疑問に思う。
(リリスモンめ、一体どこへ消えた?)
ロイヤルナイツによる調査で、リリスモンが居たと思しき場所にはイーターにより侵食された痕跡が残されていた。
なら、イーターに捕食されたのだろうか?
(…捕食されたにせよ、呪いをどうにかするにはリリスモンに解呪してもらう必要が出た時の事を考えねばならんのに)
今は、新たな情報を待つしかない。
それが、アヌビモンには歯痒かった。
依頼が持ち込まれたのは、その日の午後。
依頼人は19歳の若い女性で、名前を滝沢直美と名乗った。
明るいブラウン・カラーの髪を長く垂らし、病弱そうな面立ちをしている。
「……真実を」
開口一番、直美は嘆願した。
「真実を明らかにしてください」
ーー長野県のある町で今、数ヶ月に渡ってある事件が起こっていた。
最初は地域新聞に少しだけ取り上げられた程度だったが、やがて地域を超えて現在では都市圏でも話題となっている。
事の発端は、五ヶ月前まで遡る。
発見者は50代男性。
愛犬と散歩中の出来事である。
朝の6時。
いつも通る道を歩いていた時、犬が突然道を外れ、1キロ程まで来た地点を掘り始めた。
一体どうしたのかと見ていると、地面から現れたのは黒く焦げた人間の腕。
驚いて警察へ通報すると、駆けつけた彼らも事の異常さに口をつぐんだ。
見つかった死体は女性で3人分。
いずれも炭化した状態で埋められていた。
周囲に人気はなく、夜間に遺棄されたと思しきそれはすぐに検分に出される。
しかし、それだけで終わらなかった。
なぜなら、その後も、身元不明のバラバラ死体が幾度も発見されたからである。
棄てられた場所もバラバラで、月が経つたびに新聞のみならずネットでも騒がれるようになった。
【二人目の切り裂きジャック、日本に出現か?】
煽り文を交えた報道が幾度も流れた。
ネットではこの事件に関し、大型掲示板を中心に数多くの推測が流れたが、その中で犯人と目された一人の人物が浮上している。
……滝沢裕次郎。
直美の父親である。
「父は科学者でしたが、3年前から錬金術といったものに傾倒していました」
それゆえに娘の直美からして、些か奇行と言える行動は多かったようだ。
ネットでは既に彼を事件の犯人と看做した書き込みが散見されており、住所も特定されてしまっている事態。
さらに、ネットの住人と思しき全く面識のない人間が幾度か自宅の周辺をうろついたり、異臭のする何かを入れた容器が玄関に放置されたりと嫌がらせも頻発している。
しかし、直美はなお。
「ですが、父は決して殺人を犯すような人ではありません。それは、誰よりも私が知っています。警察も、何か手がかりを見つけているようなのですが、教えてくれなくて」
「…それで、探偵所へか。しかし…」
シルフィーモンは気難しげに唸り、そして尋ねた。
「我々が調査したとして…それでも、君の父親がクロだという結果が出たのなら?」
「………それでも、私は、父の無実を信じています…けほ、けほっ…」
直美は咳き込み、ポケットから取り出したピルケースの錠剤をふた粒飲み干す。
「大丈夫ですか?」
「すみません、4年前から持病を患っていまして。…どうか、この依頼を受けてくれますか?」
直美は切実な思いの込もった眼差しで美玖とシルフィーモンを見る。
美玖は、しばらく考えたのち、うなずいた。
「お受けしましょう」
「……!ありがとうございます」
直美は安堵の面持ちで頭を下げた。
「それで、お父様に直接話を伺う必要があるのですが直美さんの名前を出して大丈夫でしょうか?」
「悩ましいのですが、どうか、この事は父に内密でお願いします」
「わかりました。明日にでも、お父様の元にお伺いしましょう」
美玖は請け負った。
そんな彼女を見ながら、直美はおずおずと声をかける。
「……あの、所長?さん」
「どうしましたか?」
「その、もう一つ、お話したいことがあるんです。できれば、…その…」
美玖がシルフィーモンに向かって目配せ。
それを察して彼はソファを立つ。
「…わかった。済んだら、呼んでくれ」
「ありがとう」
シルフィーモンが来客室を出ると、直美は続けた。
「…事件に関係があるかわかりませんが、もしかしたら父に何かあるのではと、そう思いたくなる夢を見るんです」
「夢…ですか」
「はい」
美玖が続きを促すと、直美はその夢の話をしてくれた。
直美が言うに、誰かの目線から物を見ているような夢だという。
夢の中で見る、直美が見た事のない場所、出会った事のない出来事。
暗いどこか、幾つもの大きなガラス管が屹立した研究所のような場所。
町を離れたどこかの山道、目前にはスクーターに乗って山道を登る女らしき後ろ姿。
次に、雨降る夜の町の、人気のない道。
自分と父が住んでいる町のどこかである事は確かだが、直美自身の記憶にない。
昔のサイレント映画を観ているような感覚。
最後に見た父の顔は、今まで見たことのない恐い顔をしていた。
真剣で、恐い顔。
「…夢だと信じてもらえないでしょうが、どうしても誰かに話しておきたくて」
「……」
美玖はしばし直美の夢の内容を反芻の後、首を横に振った。
「いえ、夢だからこそ、決して馬鹿にはできないと思いますよ」
「えっ…」
「私も、夢には縁がありますから」
そう、美玖は微笑んだ。
ーー翌日、E地区のレディースクリニックへと赴いた後に美玖はシルフィーモンと長野県へ向かった。
薬を受け取ってその場ですぐに1回目を服用、スクーターにまたがる。
「本当にそれで妊娠というものはしないのか?」
シルフィーモンが首を傾げながら問う。
「完璧にとはいかないけど…一応ね」
医師に説明し、呪いの事を完全に理解して貰えたとは言いがたいものの薬を受け取れた事に美玖はひとまずの安堵を得た。
むしろ、本当に妊娠の兆候が見られたらどうしたものか、頭を抱えなければならない。
「…後藤さん達はああ言ったけれど…あまり、真に受けないでね」
「わかってる」
人間とデジモンの婚姻に関しての現実は、シルフィーモンも理解している。
……今は、どちらにとっても、望まざる事だ。
少なくとも美玖も、熱烈なあのひと時は愛情とはまた別のものと捉えている。
(勘違い…しないようにしないと)
今後しばらくはそれが続く。
それを彼に巻き込ませてしまった。
その責任は、何よりも重い。
「……美玖?」
シルフィーモンの声にハッと我に返り、改めてハンドルを握りしめ、エンジンをかけた。
「なんでもない。それより行きましょう、滝沢さんに話を聞きに行かないと」
長野県、○○町までは二時間。
山々に囲まれた風景はB地区に近い印象を与えた。
小さな集落がある山道を抜けた先に、浅間山がうっすらとした雲をかぶる姿を見ることができる。
(……この辺りは初めて来るけれど、空気が全然違う)
澄んだ、冷たい空気。
そんな事を思いながら山道を登る。
道の片方は切り立った斜面になっていて、転落を避けるためのガードレールが続いていた。
ふと、スクーターのミラーに、一台の黒の軽トラが映るのを見た。
目測10mくらい距離を空けて走っている。
しかし、美玖はすぐに妙な事に気がついた。
ーー軽トラの運転手の顔が見えない。
パーカーのフードを目深に下ろしているらしく、目元に陰がかかっている。
(……この人、業者や農家さんではない?)
軽トラは荷台に青いシートをかぶせている。
美玖も見慣れた、工事や農家でよく使われている頑丈なシートだ。
不審に思うもすぐそこに、急カーブの道が待っていた。
少しスピードを落としてカーブを曲がった時。
上空からシルフィーモンの声がした。
「待った、美玖!道を引き返してくれ!!」
美玖が慌ててスクーターのハンドルを右に、大きく道を曲がる。
逆走しないよう隣の道へ避けた先で、軽トラとすれ違った。
……その荷台のシートの一部が、風にあおられていたのは気のせいではない。
空にシルフィーモンの姿がなかったため急ぎで道を引き返すと、彼は道の上に着地している。
「シルフィーモン、一体な………」
そう言いかけた時。
道に散らばったモノが見えた。
「これ、は……」
それは、嗚呼。
それは、紛れもない人間の胴体だ。
炭化したその身体、手足が急カーブの道で幾つも散乱している。
「シルフィーモン、これ…」
「君の後を走っていた軽トラが急カーブを曲がった時、荷台からこぼれ落ちたんだ」
「!!」
美玖はスクーターを道の脇に寄せて、携帯電話を取り出した。
「……もしもし!今、山道で……」
美玖が長野県警への通報をしている間、シルフィーモンは道へ転がったものに近づいていった。
それは紛れもなく、人体そのものだ。
マネキンのような作り物でない事はすぐわかる。
彼の鼻を強い刺激の薬品臭がついた。
(……奴らから漂うものとは違う臭いだ)
例の組織の戦闘員から臭ったものとの違い。
人体は四人分転がっており、脚が片方だけないモノもある。
いずれも、左側の首筋にホクロがあるのを見つけた。
(これは…一体なんなんだ?)
考え込むシルフィーモンの脇へ、通報を終えた美玖が歩いてきた。
「これが、例の事件の死体かしら?」
「さてな」
美玖も取り出した手袋をはめ、死体を詳しく見始めた。
「……死体はいずれも体つきや骨格から女性。出血の様子が見られない」
「うん」
「死亡推定時刻は…どれも、かなり経っていそうね。炭化しているから分かりにくいけれど」
動かさないように調べていく。
そして、美玖はある死体を調べている手指を止めた。
「これ…」
「どうした?」
「この死体、身体から金属片のようなものが…」
シルフィーモンが膝をかがめ、美玖の隣で覗き見ると死体の左胸、乳房の横から確かにネジのような金属が皮膚の内側から飛び出ている。
まるで、生まれた時からそこに生えているかのように。
「普通にありえないわ!まさか、人間の死体ではない?」
疑わしげに、ツールを死体に向ける。
しかし、ツールによる結果は更にその疑問を加速化させることになった。
死体を分析したツールは一体のデジモンの姿をホログラムとして映し出した。
しかし、そのデジモンは、人型でなく首の長い四足歩行と鉄の翼の竜…。
「これは…」
「ドルグレモンか。先天的にX抗体を持つデジモンの一体だ」
「X抗体……」
X抗体。
デジタルワールドが生まれ、現在人間世界との間に交流を持ち始めるより数千年前の出来事がきっかけで、一部のデジモンの中に生まれた抗体。
イグドラシルがデジモンを"間引く"為にデジタルワールドへばら撒いたプログラムへの抗体。
デジモンの持つ、生き残りたいという強烈な生存への欲望と本能が生み出したと言っていい。
一時期X抗体を持つデジモンは排除の対象とされていたが、現在は普通のデジモンと同じように暮らして生きている。
「……そのデジモンのデータをなぜこの死体が……」
美玖の問いにシルフィーモンはかぶりを振った。
その時、かすかにパトカーのサイレンが聞こえてきた。
警察が到着したようだ。
美玖もシルフィーモンも、死体への調査を切り上げてスクーターの近くで待つことになる。
ーーー
長野県警で、美玖とシルフィーモンは事情聴取を受ける…だけのはずだった。
しかし。
「違います!」
取調室で美玖の叫びが響く。
美玖とシルフィーモンは今、二人の警官から執拗に取り調べを受けていた。
「私はスクーターに乗っていたんですよ!それにいくらシルフィーモンの力が強くても、何人もの人間の死体を担いで飛んだままは目立つし無理があります」
「けど、その軽トラのバックナンバーを見なかったんだよな?」
「なら当然あんた達が怪しいと考えるのが筋だろ?」
「……あなた達っ!」
ねちっこい声色で執拗に訊ねる警官の言葉に、美玖は苛立ちを覚える。
突然の事ゆえシルフィーモンが軽トラのバックナンバーを押さえるのを忘れていたのは、痛恨のミスだ。
しかし、状況的な判断のみで自分達が犯人と思われるのは心外が過ぎる。
「そもそもデジモンなら、なんかこう、なんかして死体隠して運べるとかできるんじゃないですかねえ?」
「できません!うちの助手を何だと思ってるんですか!?」
我慢ならず美玖が椅子を立った時。
取調室に一人の男が入ってきた。
「なんだ、騒々しい。お前ら一体なにをやってる?」
「あ、警部補」
新たに入ってきた男は40代後半。
190cm120kgもの鍛えられた身体を窮屈げにスーツで包んだ成りをしていた。
石原浩司警部補、それがこの男の名前と官職である。
数々の凶悪犯に加え、凶暴なデジモンすらも己の肉体で鎮めてきた剛の者だ。
「石原警部補、お疲れ様です」
「いやあ、今、死体を発見したこの人とデジモンを取り調べ中でして。死体を遺棄した犯人じゃないかって」
いけしゃあしゃあと警官二人は美玖とシルフィーモンを横目に話す。
石原警部補は美玖とシルフィーモンを見ると、目を見開いた。
「あんた……五十嵐美玖!?5年前の事件の!」
「……はい」
美玖はそっと顔を伏せた。
「え?」
「事件って、もしや前科しーー」
「馬鹿野郎!5年前、某県の警察署で起きたデジモンによる襲撃事件を知らんのか!彼女はその事件の被害者だ。無神経にも程があるぞ!!」
「す、すんません!」
「ともかく、お前らは他の業務に移れ!俺が代わる!」
雷を落とし、警官二人を追い出すと石原警部補は椅子に腰掛けため息をついた。
「うちの若い者(もん)がとんだ失礼をしてすまない。五十嵐さん…あんたの事は当時ニュースを見て知っててな…まさかあの悲惨な事件を覚えてなかった奴がいたとは」
「い、いえ…」
「それと」
石原警部補の目がシルフィーモンに移る。
「……まさか、お前ともまた会うとは」
「2年前以来だな」
「シルフィーモン、知り合いなの?」
美玖が訊ねると、石原警部補が代わりに答える。
「さる役人が行方不明になった案件があってな…捜索の人手不足を補うため独自のルートから求人をかけたら有償で協力をかって出たのがこいつだった」
役人は無事救助され、シルフィーモンはその働きを当時の県警から認められた功績がある。
それゆえに。
「あんた達がやったとは考えにくいが…まあ、今日一日はここで一泊(大人しく)していてくれ。明日には出してやる」
すぐさまシルフィーモンが聞いた。
「それで、こちらのメリットは?」
「貸し1だ」
ーーーー
「困った事になっちゃったな…」
「とはいえ、冤罪をかけられるよりはマシだろう?」
「そうだけど」
警察署の保護室(通称トラ箱)内。
ベッドに腰掛けながら美玖はため息をついた。
幸い、食事等の不便はなく、呪いによる発作の発情も今の所起きていない。
「それにしても、…さっきの聞こえた?」
「……ああ」
それは、署内での手続きを済ませ、女性警官に保護室へと案内された時である。
この時、時計は午後20時を指している。
取調室を通り過ぎた時、またしても問答がそこで行われたのが聞こえたのだ。
「正直に吐け!この金(きん)の出処は!?」
「知らねえよ、そいつは拾ったんだ」
「嘘つけ!今時、酒代を延べ棒どころか金塊で支払おうとする奴なんていねえよ!喋らねえなら好きなだけ豚箱に入ってろ」
「信じてくれって!俺はやってない、本当だ!」
取り調べを受けた男は酔っ払っているようで、ドアの隙間から見えた姿もおよそ清潔からはほど遠い身なりだった。
「確かに金塊でお代を払う以前に、変な話よね」
「普通はそういうモノではないのか?」
「大抵はちゃんとした通貨で支払うものだから……金塊とか延べ棒なんて普通は手に入らない。それをどこで手に入れたのかって話になるのよ」
それからの一日を、一人と一体は過ごした。
そして、夜が明ける。
この間に、幾つか、例の死体に関して情報を得る事に美玖達は成功した。
死体には、幾つもの謎めいた特徴もあった。
「…死体は共通して10代後半の若い女性。身長体重共に同じ。全ての死体は死後に火を放たれている。使用されたと思しき薬品は通常の大学等の実験にはまず使われない品目。……そして、心臓がない」
箇条書きしたメモを睨む。
手術痕やそれ以外の傷跡がないにも関わらず全ての死体から心臓が何らかの手段で摘出され、発見された一体の心臓のある箇所から球状の物質が発見されたという。
この物質からは生体電気が発せられていた。
また、美玖が事前に見た通り、死体の経過時間は早くて一週間前から最長一年前と経っているものが多い。
そして、全ての死体は身元不明で行方不明者の届け出とも合致しない。
これが意味するものとは?
「……美玖、君は」
シルフィーモンは聞く。
「これが本当に殺された人間の死体だと思えるかい?」
「…他殺体にしても、自殺にしても、不自然すぎる」
「だよな」
そこで喧騒。
署内が何やら慌ただしい。
やがて、石原警部補がやってきた。
「多忙で忘れないうちにあんた達を出してやる。今また、新たに事件が発生してな、それでうちの署も大騒ぎだ。朝メシを食うヒマもねえ」
「何があったんです?」
美玖が聞くと、石原警部補は新聞を手渡した。
「今日の朝刊だ。これを見りゃわかる」
それは、昨日の死体についての報道だった。
美玖達が山道で死体を見つけてから二時間後、町から離れた小道で別の死体と乗り捨てられた黒の軽トラが見つかったと記されている。
黒の軽トラは元々町の農協の人たちの物であり、盗難届けが出ていた。
それ自体は、美玖とシルフィーモンにも大して重要な内容ではない。
問題は、その後に書かれた内容だ。
「………滝沢裕次郎が、負傷した?」
石原警部補に伴って外へ出ると、薄暗い雲の立ち込める空が待っていた。
昨日までこの町と周辺では雨が数時間程度降り続けていたという。
濡れた駐車場のコンクリートを踏み締めた時、美玖とシルフィーモンは見知った顔を見つけた。
「直美さん」
憂いに満ちた顔が振り返る。
「所長さん…」
美玖達が向かう予定だった昨日の夕方。
帰宅途中の直美は家の前で、腹部を血に染め倒れている父を見つけた。
裕次郎はすぐに病院へ搬送、直美は何度か美玖達への連絡をかけたものの美玖達は出られず…。
「昨日、そちらへ向かう前に例の事件の死体を発見して…」
「それで県警に一泊コースだ」
言いながらシルフィーモンは後ろの石原警部補を振り返る。
直美がつられて彼の方を向くと、警察手帳がすぐに開かれた。
「長野県警の石原警部補だ。……というわけで、昨日の件について詳しく聞かせてもらいたい」
「は、はい」
直美が帰宅したのは夕方の19時。
死体が積まれた黒い軽トラが発見されたのはさらに二時間後の出来事だ。
夜が明けた現在、裕次郎は未だ意識不明の状態である。
「上層部(うえ)は滝沢裕次郎を犯人と見做してる奴らが大半だ。このままなら彼は有罪、真相は闇の中…」
石原警部補は悲観的な面持ちを浮かべ、空を見上げる。
美玖が直美に尋ねた。
「直美さんはこれから病院へ?」
「はい…父の入院に付き添う為に一度家へ戻って準備を」
「それなら、私達も付き添いましょう」
「……あんたら、事件に関わるつもりか?」
石原警部補の言葉に、うなずく。
「依頼ですので」
「死体の件で取調室に行く事にならなければ、今頃はとうに滝沢氏に話を聞きに行っていたんだ。依頼人は滝沢氏の身の潔白を証明してほしいと言っていた。その点で言えばお前とは方針は概ね反目しないはず」
シルフィーモンの言葉に石原警部補は深く息を吐いた。
「…邪魔するなよ」
……長野県警から一時間半。
滝沢邸は○○町のはずれにある、コテージに似て小さな館のようだった。
2台の車と一台のスクーターが到着した時、既に家の近くを鑑識が調査していた。
キープアウトテープに囲われた先には、微かに血痕と思しき痕がある。
「お父さん……」
直美は目に涙を溜めた。
石原警部補はひとつ、咳払い。
「今から捜索……と言いたいところだが、我々警察じゃ手続きなしには始められん。そこで相談なんだが今回はこちらの探偵所による捜索に同行させてもらいたい。怪しい物があったとしても差し押さえは正式に令状が出るまでは保留とする。どうかな、直美さん?」
「…構いません」
家の中へ美玖達を通しながら、直美はハンドバッグから一枚の紙を取り出す。
それは、滝沢邸の見取り図だった。
滝沢邸は二階建てで、一階はベランダとキッチンが一体になったスペース、トイレ、書棚、研究室、そして"開かずの部屋"と明記された部屋。
二階は裕次郎の書斎、直美の部屋、物置、二階のバルコニーに繋がったデッドスペースだ。
「この開かずの部屋というのは?」
シルフィーモンが指差して尋ねる。
「数年前までは物置部屋として使っていたのですが、今は父の手で扉を壁に塗り込めています」
「なぜ、滝沢氏はそんなことを?」
「わかりません。ですが、この部屋は父の研究室の隣です。研究に使うような品を保管する為に使っているのかもしれません」
「ポオの小説が如く死体が中になければ良いが…」
直美は自室へ向かった。
病院にいる裕次郎に付き添うための準備だ。
石原警部補は一階の書棚、美玖とシルフィーモンは二階の裕次郎の書斎へ向かった。
書斎は寝室も兼ねており、ベッド、サイドテーブル、簡素な棚といった最低限の家財道具もある。
棚の上にはプレゼント用に包装された小さな箱が置かれていた。
「……滝沢さんには申し訳ないけれど」
美玖が小箱の包装を丁寧に開ける。
中から出てきたのは、大きく赤い宝石のペンダント。
その鮮やかな色合いと美しさは、美玖には初めて目にするものだ。
ペンダントトップは角が丸みを帯びた逆三角形のフレームになっていて、石はその中に収まっている。
留め具には名前が印字されていた。
「……MIONA(エム・アイ・オー・エヌ・エー)。直美さんの名前の逆綴りかしら?」
箱へ戻す前にと様々な角度から写真を撮っていると、そばへ来たシルフィーモンが神妙な表情でペンダントを見ている。
「シルフィーモン、どうしたの?」
「……石の色も相まって、デジコア・インターフェースのようだな」
「え?」
「昨日、X抗体のデジモンについて少しは言ったよな?」
シルフィーモンは言いながらペンダントから目線を外さない。
「ドルモン、リュウダモン、最近確認されたルガモン。デジモンの中でも比較的新しい類に当たるとされるX抗体デジモンでありながら、デジモンが存在する以前に生まれたプロトタイプともされる彼らの額に付いた石があるだろ?」
「ドルグレモンってデジモンも?」
「ドルグレモンはドルモンからの進化形態としてよく挙げられる完全体デジモン。彼らの額についたデジコア・インターフェースは、それを通じてデジコアに込められた情報を引き出したり、デジコアへなんらかのプログラムを与える為のものだ。このペンダントはそれに良く似ている」
「…死体から検出されたドルグレモンのデータと何か関係が…」
「あるかもな」
シルフィーモンは言いながら、ペンダントから目を離した。
彼が視線を移した先に、サイドテーブルに置かれた写真立て。
そこには、柔和な印象の男性と優しげで直美と面影のよく似通う女性、そして直美が写っている。
日付から6年前のものとわかった。
「そういえば、直美さんから母親の話を伺ってなかったわ」
「そうだな」
サイドテーブルの引き出しを見る。
引き出しはカギ付きで、施錠されていた。
「鍵はどこかしら?」
棚やベッドの周辺を探ってみるが、それらしき物は見当たらない。
「君は、ピッキングはできたか?」
「ううん。"マスターキー"の訓練は受けたけど、ピッキングは…」
「なら、私がやろう」
針金か細いものはあるか、とシルフィーモン。
バッグを探るとクリップが一つ。
それを渡すと、シルフィーモンはクリップを少し引き伸ばし、それを引き出しの鍵穴に差し込んだ。
「昨日も、そうやって窓を開けて入ったの?」
「まあな」
「…窓開きっぱなしじゃなかったら、声漏れてなかったね」
「…」
沈黙の合間にピッキング音だけが聞こえた。
一分も経たないうちに引き出しが開く。
中には日本ではあまり見られない、ハードカバー表紙のノートが出てきた。
「日記か」
ノートに書かれた最初の日付は、3年前のもの。
そこには、直美が傷病にでもかかっているのか、治療に関する内容があった。
「そういえば、依頼に来た直美さん、薬を飲んでいた…」
治療はそれに関係するものだろうか。
最初の日付から数週間ほどの日付のもので、錬金術に関係する内容となってくる。
『今は20世紀のこの時代で、錬金術などというものに手を出す人間は私だけになるだろうか?だが直美を助けたい』
半年後ほどの日付ではこう書かれる。
『賢者の石の錬成に手詰まりを覚えていた時に、巨大なデジモンとの遭遇は衝撃的だった。デジコアが消滅してしまう前に摘出に間に合って良かった。調べてみれば、このデジモンはドルグレモンという種だとわかった。ドラゴンの強力な生命力を持つと』
「ここでドルグレモン…!」
「やはりあのバラバラ死体と関係がありそうだな。だが確定的な証拠が見つかるまでは保留だ。ドルグレモンのデータを何に利用したかについてもな」
日記は続く。
ドルグレモンのデータを何らかの錬成に用いたこと、それが成功したこと。
しかし、ノートの半ばで日記は途切れる。
最後の日付は一年と半年前。
そこにはこう書かれていた。
『私は本当にこれで良かったのか?娘の為とはいえ、その大義名分の元に非道を繰り返していたのではないか』
その、一文だけだった。
「これは、どういう意味だ?」
「ドルグレモンのデータを利用したって何にだろう?賢者の石の錬成?」
そういえば、と美玖は呟く。
「賢者の石ってどう作るんだろう?」
「私はよく知らんが、そんなに凄い代物なのか?」
「ゲームとかでよく名前は聞くんだけど、私もよく知らなかったのよね。何かを黄金に変えるってくらいしか」
「黄金、か…」
そこで、表紙の感触に違和感を覚える。
「これは…」
表紙の皮にくり抜かれた跡。
そこには小さな金属が納められていた。
「鍵だわ」
「おそらく研究室のものだ、持っていこう。……他は」
そこで目に入ったのはクズかご。
中にはくしゃくしゃに丸められたメモ用紙が入っていた。
「何も書いてないな」
「待って」
美玖が鉛筆を取り出す。
「何も書かれてないと思ったメモにはこれよ」
メモ用紙の上に鉛筆を軽く走らせる。
すると、文字が浮かび上がった。
「なるほど、筆圧が強ければ文字が…これは、なんだ?」

「何かの成分表…?賢者の石の作り方の?」
「それにしては、随分有機的な気が……」
突然、大きな物音が響いた。
一階からだ。
「!?」
「一階には石原警部補がいたはずだ」
急いで階段を駆け降りた一人と一体。
そこで目にしたのは、大量に床に散らばった書籍と尻餅をついた石原警部補。
書籍はいずれも英語やドイツ語で書かれたものが多く、かろうじて読めるものといえば
『妖精の書』
『トートの書』
そういった、美玖にはあまりにも見慣れないタイトルばかりだ。
「石原警部補、どうした?」
「すまん、どんな本が置かれてるのか見ようとしたらな。しかし…すごい本の量だ」
立ち上がる石原警部補にシルフィーモンは鍵を見せた。
「研究室の鍵と思しきものを見つけた。こいつで研究室を開けられるか試そう」
「お、おう」
滝沢邸一階の奥にある研究室。
鍵は扉にぴったりと合った。
開いた扉の隙間から薬品の臭いが吹き込む。
中は、大きな理科室のように美玖は感じた。
フラスコに試験管、ビーカーにアルコールランプ、顕微鏡と小学生の頃から見慣れたものもあれば全く見た事のない機材もある。
机の上には本が平積みにされていた。
一番上に載った本を石原警部補は無造作に手に取る。
「こいつは…なんて本だ?」
「見せてもらえますか?」
タイトルは、『奇蹟の医書』
美玖が著者の名を確かめる。
「……フィリップス・アウレオールス・テオフラストゥス・ボンバストゥス・ヴァン・ホーエンハイム。この本を書いた人の名前ですね」
ルネサンス朝に活躍した、高名な錬金術師の一人。
一般的には、もう一つの呼び名である「パラケルスス」が有名か。
「何かのヒントか?」
「賢者の石に関係かな」
日記に賢者の石を求めていたという内容を思い出しながら、美玖は壁に立て掛けられた物を見つけた。
「シルフィーモン、これ!」
それは、先程見たペンダントによく似た、逆三角形のフレームに囲まれた赤い石。
石原警部補の背丈より二回りの高さがある。
「間違いない、ドルグレモンのものだろう」
「ドルグレモン?」
石原警部補に、二階で読んだ裕次郎の日記の内容を話す。
「…そのデジモンが落ちたとかいう日、確か警察(うち)でもちょっと話題になったな」
「え?」
「○○町から少し離れた地域で、何かデカいモノが落ちた衝撃と地揺れが起きたんだ。向かってみればクソデカいクレーターがな」
しかし、クレーターを作ったモノらしきものは見当たらず、結局警察や調査に派遣された政府機関も首を傾げる始末だったらしい。
「…待って、シルフィーモン。ドルグレモンって、どれくらいの大きさなの?」
「私は直接姿を見たことはないが、完全体デジモンの中では超大型だと聞いたことはあるな。知性が高く、自分から滅多に姿を見せないらしいが」
「じゃあ、そのドルグレモンが…」
「おそらく、他のデジモンとの戦いで瀕死の傷を負い、逃げた先で人間世界にリアライズしたんだろう。…だが、落下した時のダメージも相当だったはずだ。だから、人間である滝沢氏はデジコアを取り出せたんだろう。でなければ、ドルグレモンに抵抗されてデジコアを摘出以前に近寄れない」
人間世界にリアライズしたデジモンは、死ねばその場で消滅する確率が高い。
死体がないのはそのためだ。
「さっき見つけたこの成分のメモにも関係があるだろうからな…探索を続けよう」
部屋を見渡すと、ふと一枚の壁に掛けられた絵に目がいった。
中央に立つ一人の男が、伏せった男に手を伸べている。
鑑識眼の優れた者ならひと目で複製画とわかるだろう。
モチーフは……
「アスクレーピオス…」
死者を甦らせたとまでいわれる、医学の神。
絵を見れば、幾らか動かした形跡が見られる。
絵画の額縁に手をかけ、ずらすと電子ロックが現れた。
「金庫か。何か入っているかもな」
「これなら私のツールでハッキングできる。やります」
香港で見せた要領で、美玖はツールの電線を接続する。
電子ロックに接続して三分。
金庫の扉がゆっくりと開く、その時。
「!?」
扉の隙間から、白い液状の物体が周囲の壁へ染み出していく。
「な、なんだ!?」
それは、粘土のように固形化、形を変えていく。
まるで、悪意ある神が人を嘲笑うかのような造型。
真っ白な人型の肉塊がそこにいた。
肉塊の表面はゴボゴボと泡立ち、ぶつぶつした気泡の痕を残す。
集合体恐怖症の人間ならば間近で見れば気絶は確実だろう。
「美玖、下がるんだ!」
シルフィーモンの声に茫然としかけた美玖の意識が引き戻される。
気づくと肉塊の太い腕が美玖の頭めがけて振り下ろされようとしていた。
反射的に指輪型デバイスを構える。
「ーー麻痺光線銃(パラライザー)コマンド起動!」
放たれた光線が肉塊へ直撃。
わずかに動きが止まったところで、シルフィーモンの手が美玖の腕を掴み引き戻す。
麻痺が切れた勢いそのままに、美玖の頭があった位置を剛腕が通り過ぎた。
石原警部補が構える。
「コイツはひとまずブッ倒せば良いんだよな?」
「探索の邪魔になるのならそうだろう」
美玖を後ろに下がらせてシルフィーモンも構える。
「それにしても、見慣れない奴だ…デジモンではないようだな」
「デジモンかそうじゃないかはわかんねぇからその辺は正直どうでも良い!」
そうやり取りを交わす一人と一体。
肉塊は緩慢な動きで石原警部補に殴りかかる。
「ぐっ…中々ぁ!」
「大丈夫ですか!?」
ホーリーリングから弓を顕現させながら、美玖が叫んだ。
「彼なら心配はいらない。ーーハッ!」
シルフィーモンが跳躍し、力強い蹴りを肉塊の土手っ腹に見舞う。
強く蹴られた肉塊がよろめいた。
石原警部補が走る。
「キェェェェエエエエエエ!!チェストぉおおおおおおお!!!」
猿叫を上げながら、石原警部補の足が上がる。
肉塊の、人体でいえば鎖骨の辺りに叩き込まれたと思うと。
肉塊はたちまち形を失い、ぐずぐずに溶けたように崩れていった。
「………」
美玖は唖然とそれを見つめるばかり。
パンパン、と自らの手を払い、石原警部補は得意げに美玖を振り返る。
「な、こいつの言う通り、心配いらんかっただろ?」
「は、はい……」
気の抜けたような返答しか返せない。
そんな彼女にシルフィーモンは小声で話す。
(…心配するな。私も目の前で彼がデビドラモンを一騎打ちで倒す姿を目の当たりにした時には目を疑った)
(で、デビドラモン…!?)
デビドラモンは成熟期の闇のデジモンの中でも知性と凶暴性を高く併せ持つ種だ。
狡猾で体格も優れているため、人間が出くわせばまず助かる可能性が低い。
(おかげで、彼が本当に人間か、一日中疑ったよ)
「ところで、」
石原警部補が咳払いした。
「金庫の中を見ないか?」
「そうだな」
シルフィーモンは軽く美玖に目配せし、金庫へと歩み寄った。
金庫の中身は横倒しになった空のフラスコと、古ぼけた一冊の本のみ。
「おいおい、これだけか?」
中を覗き見た石原警部補が渋い顔をした。
「さっきの奴はどうやらこのフラスコから出てきたと見える。本の方は…」
美玖が表紙を見る。
本はかなり古ぼけており、英語で次のように書かれている。
『賢者の石について』
「…賢者の石のこと、調べる必要があるみたい」
呟きながら本を取ろうとする美玖。
それを石原警部補が制止した。
「おっと、その本はひとまず差し押さえ対象だな。何処かでなくされては元も子もない」
「…そうですね、失念していました」
本に伸ばしかけた手を戻し、美玖は他に何かないかと周りへ視線を巡らす。
他に目立ちそうなものは……
「あの棚…何度も動かした形跡があるわ」
棚の近くの床に、擦れた形跡。
美玖が動くより先に、シルフィーモンが棚に手をかける。
「こういうのは助手の仕事だ、そうだろ?」
彼が棚を溝のある方へ動かすと、隠し穴がそこにあった。
見取り図の位置からして開かずの部屋に間違いない。
穴は少し狭く、シルフィーモンと石原警部補は屈まなければいけないくらいだった。
「ここは……」
空気が妙に湿気を帯びている。
部屋に備え付けられ稼働中の加湿器によるものだ。
「なんでこんな所に加湿器を置いてるんだ。しかも付けっ放しじゃないか」
石原警部補がそのスイッチを切る。
机の上に置かれたメモを見つけ、美玖がそれを取り上げた。
『宝石店ISHIBASHI 金50g 石灰 5gの受け取りを代わりに頼む』
筆跡からして裕次郎のものだろう。
「宝石店?」
メモにあった表目の中に石灰があった事を思い出す。
(それに…金も?)
何かが引っかかる。
部屋の隅に置かれたタンスを開いたシルフィーモンが言った。
「ここに誰か住んでいたようだな。服が入ってる」
美玖と石原警部補が見れば、女性の服や下着が幾つも入っている。
…下着の棚は美玖がすぐに閉めたが。
「…奥様のお部屋、でもないわね。直美さんもこの部屋に誰が住んでるかまでは多分知らないでしょうし」
でなければ、わざわざ同居者の住む部屋の扉を壁に塗り込めないだろう。
メモの他に、英語で書かれた一冊の本が置かれてある。
『Frankenstein: or The Modern Prometheus』
「美玖、この本は?」
「『フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス』……『フランケンシュタイン』の原題だわ」
「フランケンシュタインって、よく吸血鬼とか狼男と一緒に出てくるやつだよな?」
「それはフランケンシュタインの"怪物"です、石原警部補。本来は小説のタイトルか怪物の生みの親である登場人物の名前です」
でも、なぜこの本が?
そんな事を呟きながら、美玖が考え込む。
そこで、シルフィーモンは水の音を聴いた。
…床の下からのようだ。
「シルフィーモン?」
「…床から何か水の流れる音だ。何かあるかもな」
美玖がツールを起動し、床をライトで照らす。
痕跡を示す光は、ベッドを指し示した。
シルフィーモンがベッドを持ち上げて動かせば、隠し扉がそこにあった。
扉の取っ手を引き開けると、下をごうごうと流れる水が見える。
「隠し階段か……水路に繋がっている?」
「とはいえ、こりゃ、降りてすぐ足が水に着く感じだな。しかもこの水の勢いだ。ここから降りるのは無理だな」
昨日の雨のせいだろう。
「ひとまず、一度探索をこの辺りで切り上げるか?俺はそろそろ鑑識から調査結果を聞かなきゃならんからな」
「そうですね。直美さんに聞かなければいけない事も、色々」
美玖達が頷き合い、部屋を出る。
研究室に戻ると、そこにいたデジモンに驚き、美玖は思わず呼んだ。
「ラブラモン!」
美玖が今まで見たことのない程、鋭く険しい目つきで研究室の機材を見上げていたのはラブラモン。
しかし、呼ばれるとその表情はすぐいつものように戻った。
「あ、せんせい。こっちにいたんだ!」
「もしかして、連絡くれてた?…ごめんね。グルルモンは?」
「そとにいるよ」
そこで、シルフィーモンは石原警部補の様子がおかしい事に気づく。
「ラブラモン、こちらは長野県警の石原警部補よ。石原警部補、この子は我が探偵所……の?」
振り返り、紹介しようとした美玖の目が点になる。
先程までおぞましい肉塊相手に凄まじい覇気を見せた彼。
それがまさか、生まれたての仔馬のように足を震わせるとは。
「…石原警部補?」
「すまん…俺は、その、ガキの頃から……犬が苦手なんだ…!」
「……」
しばしの沈黙。
しかし、それもいけないと美玖はラブラモンへ尋ねた。
「直美さんを見なかった?」
「わたし、いまはいってきたところだよ。こえをかけてもだれのこえもしなかったから、ようすをみにはいったの」
「それじゃあ、直美さんの様子を見に行こうか。二階にいるはず……」
ラブラモンを連れ立ち、二階の直美の部屋へ向かう。
3回、ドアをノック。
「直美さん?すみません、お聞きしたいことが」
……返事がない。
もう3回、ノックしたがなお返事はない。
「まさか」
失礼、とドアノブを回し、入った美玖が目にしたのは床の上に倒れた直美。
「直美さん!」
駆け寄り、支えるように上半身を起こす。
「確かに、あまり丈夫そうな人間には見えなかったが…」
シルフィーモンが屈み込んだ時、彼の目に止まったのは直美の首筋。
そこには黒子が一つ。
死体にあったものと同じ位置に、同じ大きさ。
そして、これまで意識することがなかったが、…胸元に光った赤い輝き。
ペンダントトップのデザインこそ違うが、裕次郎の書斎で美玖とシルフィーモンが見たものと同じ赤く大きな宝石だった。
「……まさか。もう一人の直美さんか?」
「えっ?」
美玖が顔を上げたところで、ラブラモンが口を開いた。
「……あのね。きのう、せんせいたちがでかけたあと、じょうほうやのおじさんにれんらくしたけどるすでいなかったよ。それでるすでんいれたら、きょうのあさにれんらくしてくれてせんせいからたのまれたじょうほう…しらべてくれたの」
昨日。
美玖達は、探偵所を出る前にC地区の情報屋へ連絡をとってもらうようラブラモンに頼んでいた。
滝沢親子に関する情報を、である。
「おじさんがいうにはね、よねんまえ、いえにはいってきたごうとうになおみさんとおかあさんがおそわれたんだって」
…妻は惨殺。
娘は意識不明の重体。
大学から戻った裕次郎が見たのはそんな状況。
直美は助かったが……
「なおみさんは、そのときのけがのしゅじゅつがにゅーすになってたの」
「手術?」
「しんぞうのちかくを、うたれたんだって。このあいだのせんせいみたいに、じゅうのたまがからだのなかにのこってて……いまも、とりだせないって」
「何だと?」
嫌なものを感じる。
バラバラ死体と直美。
賢者の石と、謎の成分表。
それが意味するものは……
「ひとまず、どこの病院か教えてもらった!?」
「うん、☆☆びょういんってところ!」
「直美さんの荷物と…診療票と身分証…それと、お化粧セットも。ひとまず持って、向かうから手伝って!」
直美を抱えた石原警部補を先頭に、美玖達は☆☆病院の受付へと駆け込んだ。
受付の看護師へ説明し、担当医の都合を尋ねる。
「滝沢直美さんですね。佐東先生でしたら今日は診療日ですよ」
「すぐに診てもらえませんか?急に倒れたんです」
「少し、お待ちください」
数分後、診療室へ通される。
担当医の佐東は、60代近くの男性医師だった。
直美の診察に応じながら、美玖達に直美との関係を問いただす。
ここで、美玖は、直美からの依頼で事件の調査をしていたことを打ち明けた。
「……そうですか。今回は、おそらくお父様の件で心労から倒れたのでしょうが…」
ーー暗い表情。
「……彼女は、いつ倒れて亡くなっても、おかしくない状態です」
「それほど、重篤なんですか」
「日々、進歩を目指してきた現代の医学だからこそ、こうは言いたくはないが…彼女を再手術しても助かる可能性は低い。銃弾が少しずつ、心臓に近づいている。解除できない時限爆弾だ」
現代において、名医と呼ばれる医師は多い。
しかし、彼らの腕を乞い願うにはあまりにも長い時間を待たなければならない。
なぜならば、彼らの助けを一年以上先も待つ患者が後を絶たないからだ。
「……どうにかできないのか?臓器移植、というものなら聞いたことがあるんだが」
と、シルフィーモン。
その問いに、佐東医師は首を横に振る。
「いや…あなた方デジモンには想像がつかないでしょうが、人間の体内というものは極めて複雑で微妙なバランスの上に成り立っている。何処を取っても崩れてゲームが終わりかねない積み立て積み木(ジェンガ)のようなものだ。その辺の人間から持ってきた臓器をハサミで切って貼って何事もなく元通り、なんて単純な話にもいかない。拒絶反応というものがある」
拒絶反応は対策こそとられてはいるものの、あくまで抑制するためのものであるため完全にはなくせない。
「…そうか、じゃあ、…滝沢さんは、拒絶反応を起こす可能性の少ない人体を…直美さんの遺伝子を持つクローンを作ろうとしたんだ。錬金術で」
「なんだと?」
訝しげな声で佐東は美玖を見た。
「ところで、滝沢裕次郎もこちらの病院に?」
助け舟と知ってか知らずか、石原警部補が問う。
「あ、ああ……確かに、昨日はここで緊急手術をした」
「今のお具合は…?」
「残念ながら、まだ目を覚まさない」
美玖達は顔を見合わせる。
ともあれ、直美は病院に預けてもらうしかなかった。
話し合った結果。
「本当に美玖一人で大丈夫か?」
「ふれいあがいるからだいじょうぶ!」
…フレイアを連れて美玖は長野県でも一番の蔵書数を持つ県立長野図書館へ。
シルフィーモンと石原警部補、ラブラモンはグルルモンの待つ滝沢邸へトンボ返りすることに。
「一体何を探すつもりだ?」
「…錬金術に関連する本を探しに。滝沢さんが直美さんを治すためになぜ賢者の石を必要としてたのか。ドルグレモンのデータを何に使ったのか、その推測に役立つものを」
「…発作が起こったらどうするんだ」
「そうしたら、デバイスでしばらく姿を隠して耐えようと思う」
心配げなシルフィーモン。
「だいじょうぶ、もしものときには、ゔぁるきりもんがいる。だいだいのゔぁるきりもんのなかであいつはもっともうでがたつし、のろいのことはきいてるからせんせいとはてきせつなきょりはとれる」
「……そうか」
こうして。
彼らは、各々のやるべき行動へ乗り出すのだった。
ーー身体が、痛い。
最後に覚えていたのは、命からがら空間にできた裂け目へ飛び込んだこと。
でも、抜け出た先が、まっさかさまの地面だなんて。
ーー……ついて、ないなあ……。
殺されるのと、どっちがマシだったのだろう?
辺りを確かめようにも、首が動かない。
足も鉛のように重い。
でも、地面の感触が、ここはデジタルワールドじゃないと教えてくれた。
そこへ、誰かが近寄ってくる。
(……モン、か?)
何て言ってるのか、わからないくらいに頭がぼやけて。
視界に映った小さな姿は、確かに、今まで話でしか聞いたことのなかった「人間」だとわかって。
それでも、何もできない。
殺される。
そんなことをぼんやりと思った。
元から、排除対象として追われてたんだ。
もう逃げ場はないと、諦めから目を閉じた。
(ーー今から、データを、この中に)
人間が何かがさごそと探す気配を感じる。
その気配を感じながら、わたしは、ゆっくりと目を閉じて……
……意識がそこで途切れた。
滝沢邸へ戻ると、鑑識班が調査を切り上げる支度の最中だった。
石原警部補が鑑識から調査結果を尋ねに行っている間に、シルフィーモンはグルルモンへ言う。
「鑑識の調査が終わるようだから、今のうちに血痕と人間の臭いを覚えに行ってくれ。私と美玖がこちらへ来る前に起きた事も調べないと」
「ソウダナ」
「そういえば、しるふぃーもんとせんせいはごはんたべたの?」
「……そういえば」
思い出せば、朝食は摂っていない。
もう時刻は正午である。
「別行動を起こす前に美玖と食事を摂っておけば……薬は飲んでいたが」
「じゃあ、せんせいにめーるするね」
「ああ、頼む」
石原警部補の方を見やれば、大方の調査結果を聞き終えた後か彼は聞き込みに歩いていくところだ。
「まだ時間はかかるだろうからな…近くにコンビニなどはないか?」
「ここにきたとちゅうで、おべんとうやさんならあったよ!」
「……なら、そこへ買いに行くか。ついで、宝石店の場所も確認したい」
………道の駅で自分と美玖の分の弁当を買った後、シルフィーモンは開かずの部屋で見つけたメモにある店名を検索する。
すぐにヒットした。
「場所は…滝沢邸からあまり遠くはないな。ここへ、私が聞きに行こう」
ラブラモンとグルルモンに弁当を預け、滝沢邸へ待ってもらうことにして。
シルフィーモンが飛んでやってきた先は、宝石店ISHIBASHI。
シンプルだが品のある佇まいの店に入ると、従業員の男性がにこやかな笑顔で迎えた。
「いらっしゃいませ!デジモンのお客様ですね。何かお要り用ですか。ご友人やパートナー様への贈り物でしょうか?」
淀みがなく好感の持てる接客だ。
デジモンの利用客も増えてきており、最近は選ばれし子どものパートナーデジモンが自身のパートナーのプレゼント選びに宝石店を訪れることもある。
「すまないが、この店の商品ではなく人を探している。滝沢裕次郎という男について知らないか?この店を利用していたはずだ」
そう尋ねると従業員は困った表情。
「申し訳ございませんが、他のお客様の個人情報に関して当店では……」
「それを分かった上で尋ねたい。昨晩、彼が刺されたという話がニュースであったはずだ、私はその事件を調査している。何か知らないか?」
シルフィーモンがさえぎると、従業員はたいへん驚いた表情になった。
「刺された!?昨日はお怪我一つもないご様子でしたのに!」
「……詳しく話を聞かせてくれないか?」
「は、はい」
動揺していた姿勢を直し、従業員は話しだした。
「昨日の夕方、こちらにいらっしゃった時は、ひどく焦ったご様子で『娘は来なかったか』とお尋ねになられまして」
「もしかして、その時に何かを彼に渡さなかったか?」
「はい…注文を受けて取り寄せました金を、その時に」
……金、か。
「…それについて、もう少し聞かせてくれ。金と言ったが、そういう物もこの店では取り扱ってるのか?」
「はい。お客様からのご要望で、そういう貴金属の品を特別かつ合法のルートからお取り扱いしておりました。滝沢様の時は、代理受取人として娘さんが来られる事もございましたが…」
その上で、従業員が言うには。
一年前ほどに裕次郎が宝石の加工とペンダントの作製を依頼してきた事があるという。
個数は2個で、宝石と片方のペンダントトップのデザインは裕次郎の持ち込みだったが。
「その宝石が、これまで当店で扱ってきたどの宝石の中でもとびきり素晴らしく美しいものだと覚えております」
真っ赤だがルビーでもなく、思いつく限りの赤色の宝石に該当するもののどれにも当てはまらない。
「……すると、何かの鉱物だと?」
「可能性はありますね。宝石は鉱物そのものでございますから」
ーーー
その頃。
県立長野図書館前では黄色い声が一部あがっていた。
(…ちょっとやりづらいなあ)
集まっている視線に美玖は苦笑いする。
というもの。
ーーーこれはちょっと照れるなぁ。
視線を集めているデジモンが目の前にいたからだった。
…思えば、人前で直接の対面は、これが初めてである。
(…どんなデジモンか、シルフィーモン達から聞いた)
救いの主は、究極体デジモン。
どうりで強いわけだ。
「…改めて、よろしくお願いします。ヴァルキリモンさん」
ーーーおや、私の名前を言えてるとはね。誰かから教わったのかな?
「はい」
ーーー知っての通りとは思うが、私は今となっては肉体が不安定でね。もう次代は作れない。代わりに君への恩義に報いるまでさ。よろしく。
……にしても。
(し、視線が痛い……)
若奥様やちびっ子達、学生だろう若い女性達が黄色い声をあげながらヴァルキリモンを注視している。
無理もない。
純白のヒロイックな佇まいと、中性的な雰囲気に魅力を感じているのだろう。
ちびっ子達は何処そこの特撮のヒーローかと、目を輝かせながら見ている。
中にはこっそり携帯電話で撮っている女性もいた。
「ひ、ひとまず中へ入りましょう」
逃げるように、そそくさと図書館へ入る。
ふわり、と軽い紙の感触が肩へ重みを伴い舞い降りた。
フレイアだ。
今は、擬装コマンドで金紙の折り鶴に見た目を変えている。
動物そのままの姿で図書館に入るわけにはいかない。
ーーー錬金術、というものについて書かれた本を探すのだね?
「はい。できれば、詳しく書かれた本を…」
とはいえ、蔵書数の関係もあり、時間がかかる。
検索用の機械も利用し、ヴァルキリモンの手を借りてできる限りの資料をかき集める。
そうして、やっと、美玖は知りたい情報を見つけることができた。
……例の成分のメモ以外は。
「…賢者の石、とは」
卑金属を金に変え、永遠の生命をもたらす霊薬。
万能の願望機ともいわれる。
形状は結晶から液状のものまであり、色は西洋では赤、インドでは黄色い卵型の物質とされる。
作製方法、材料、いずれも不明。
黄血塩と呼ばれる物質だとする説も唱えられている。
「……これだけだと、直美さんのクローンを作る発想まで至らないか。何か……」
その時、フレイアが嘴で一冊のページをつついた。
美玖がつられてそちらを見る。
そして、ある言葉に目を瞬かせた。
「……『ホムンクルス』?」
すぐにそちらに向けて調べてみた。
…変わらず、例の成分のメモに関わりそうなものはなかったが。
「……ホムンクルス、とは」
別名、フラスコの中の小人。
製造方法は諸説ある。
人間の精液や数種類のハーブを入れて40日間密閉させる方法、妊娠した母胎に霊魂を招き入れる方法etc。
背丈も大人より小さいとされることが多い。
共通して、知性が非常に高いが弱点もある。
フラスコなど液体に満たされた中から生み出された生命体ゆえか、乾燥に弱いこと。
極めて短命なこと。
「…最長、二年までしか生きられない…」
ーーークローンという話だったね。それに二年しか持たない身体が代替(スペア)というのは無理がないかな?
ヴァルキリモンの言葉に美玖はうなる。
ドルグレモンのデータはこの辺りに使われたのだろうか?
ドルグレモンのデータにはドラゴン由来の強い生命力がある。
「…でもそういえば、開かずの部屋には加湿器が置いてあった」
石原警部補が付けっ放しだと止めてしまったものだ。
女性もの、それも直美や美玖ほどの世代くらいなら無難なデザインの衣服がタンスに収められていたことも考えればあの部屋には直美のクローンが暮らしていたのだろう。
…直美には秘密で。
ーーーひとまず纏めるとしようか。君達の依頼人である直美にはクローンがいる。
「……あのペンダントに印字されていた文字からして、名前はおそらくミオナ」
ーーー君と助手君が昨日出くわした死体の運び屋もこのミオナと見て間違いないだろう。特徴が似過ぎた死体ばかりというのも非現実的だからね。
「ということは、クローンの失敗作を滝沢さんはミオナにこっそり遺棄するよう指示を…?」
ーーーあるいは、自主的なものかもな。
美玖は、ホムンクルスについて纏めて書いたメモに目を通し、つぶやく。
「……加湿器が必要なほど、乾燥に弱いのなら吸湿性の高い物質は有効かもしれない」
ーーーそういう代物があるのかい?
「乾燥剤が手っ取り早いけれど…小麦粉でもいけるかもしれない」
ーーー小麦粉って、あの、小麦粉?君達人間が料理に使う……?
ヴァルキリモンが少し拍子抜けしたような声音で美玖を見る。
「小麦粉にも吸湿性が備わっています。それで上手くいけば」
ーーーふぅん。
ともあれ、善は急げと美玖達は図書館を後にする。
そして向かうは業務用スーパーだ。
「シルフィーモンにメールを送って、小麦粉数袋分確保することは伝えましょう。それから、滝沢邸へ!」
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