ーーー夕陽が窓から差す。
窓から東京の街並みを眺め、三澤は口を開いた。
「五十嵐さんからの報告書で貴方の事は大方把握はしていたつもりでしたが」
振り向く先には光る双眸。
「全て書かれていたわけでなかったのは、あの子が敢えて隠していたのか、貴方が隠していたのかどちらですか?」
「後者だ」
声は冷徹にして厳格な響きを以て返答を返す。
その答えに三澤はため息をついた。
「こちらからお聞かせ願いたい事は幾つかあります。貴方がなぜダークエリアに留まらなかったのか、なぜあの子の傍らにいる事にこだわるのか。今の貴方が覚醒が充分ではないとはいえ、究極体である事に変わりありませんからね。生半な脅しを言うつもりはありませんよ」
そうでなくともデジモンの危険性は思い知っている。
「現在のエジプト政府は貴方の意思に従うという方針を見せています。私としては、これ以上あの子の元にいるのはよろしくないと思っていますが…」
「それは無理だ。私が追う相手であるガルフモンの頭脳体は彼女を狙っている。彼女の力が知られれば敵の数が増えるのだ、人間のみではすぐに対処できなくなる」
「……力?」
訝しげに三澤は眉根を寄せた。
「そうだ、彼女はただの人間ではなかった。まだ自身の力に気づいてないようだが。闇のデジモンからすれば充分に利用価値のある類であり、私はその力の恩恵を受けて覚醒に至っている。一刻も早く、為すべきことの為に、な」
こちら、五十嵐電脳探偵所 #16 Foreigner or Lust ≪後編≫
新たなデジタルポイントが開通される二時間前。
鉄塊が如き建物の前、障害物になっている大きな岩に身を潜めながら美玖達は座標を送信していた。
「これで、イグドラシルからの攻撃宣言が取り消されるといいのですが」
渡邉がため息をつく。
「とはいえ、問題はこの中がどうなっているかですね」
「それに関しては、手段はあります」
美玖が言いながら説明に入った。
「私の装備しているこちらのデバイスに、偽装(クローク)のコマンドが機能として搭載されている。これは、視覚的・電子的な隠匿能力を持ちます」
「セキュリティを潜り抜けられるということですか…法的にはかなりギリギリですな」
「ですが、デメリットもあります」
「ほう?」
「一つは、使う範囲の人数が多いほど効果が弱まること。一つは、攻撃等の能動的な行動を行う事で偽装コマンドが強制的に解除されてしまうことです」
「すると、その偽装コマンドを有効的に使って捜索を行うなら、少人数が望ましいと」
「はい。…最低でも、三人」
言いながら美玖は渡邉達、ワイソン達を見回した。
「一人は装着者である五十嵐さんは必須として…こちらからはキャシーと、貴方がた日本側の調査班から一人引き抜いての三人が好ましいでしょう」
「でしたら、日向さんを。ハッカーとしての経歴がありますし」
愛佳は言いながら日向の方を向いた。
彼はうなずく。
こうして、残った三人は岩の後ろで待機することとなった。
美玖、日向、キャシーが岩の陰から出るタイミングで、美玖がコマンドを作動させる。
「……なるほど、確かに彼らの姿が見えなくなった」
ワイソンがうなずく。
建物へ近づけば、横三列は並んで入れる幅の扉が見えた。
扉の上部には監視カメラ、そして扉の右横には暗証番号式の電子錠が設置されている。
「…やってみよう」
日向が言いながら、腰のポーチから針金とドライバーを出した。
そして、電子錠に付いている非常用の鍵穴のピッキングにとりかかり、かちゃかちゃとピッキング音が静かに聞こえた。
一分しないうちに、非常用解錠のためのシリンダーがガチャリ、と音を立てる。
針金とドライバーをしまいながら日向が言う。
「急ごう。普通ならこんな形での解錠はあり得ないからね…見たところ、電池切れを起こす様子もない」
「日向さん、先程より砕けましたね」
「まあね…渡邉さんはどうも堅苦しくて。君達なら遠慮なくタメ口でいかせていただくよ。いいかな?」
中に入れば、ひどくがらんどうな場所だ。
人の気配がない。
しかし、通路を行けば白衣姿の研究員が多数出入りする部屋へと行く事ができた。
中は薬品の臭いで充満し、広東語でのやりとりがあちらこちらで行われる。
(ここは、どうやら薬品の製造を行っているようですね。彼らは肉体の強化に仙丹と呼んでいるものを使用しています)
キャシーが小声で言う。
(ただ、人体に使用するものとは別に、デジモンへの投与目的もある様子ですが…)
(デジモンへの投与?)
美玖がそれに反応し、詳細を尋ねようとした時。
部屋の奥、広い面積のガラス張りの向こうから恐ろしげな咆哮が響いた。
(今のは?)
気取られないよう、悟られないよう。
ガラスへ近づいた三人が目にしたのは、胸部を不自然に光らせ咆哮するデジモンの姿だった。
(あれは……)
ーー骨だけの身体を持つスカルグレイモン。
それが猛り吠え、身体中の拘束具を破壊しようと暴れている。
拘束具はただ緊縛するタイプのものだけでなく、高圧電力を流し込むもの、肉ごと貫通して固定するものまであった。
(……ひどい……!)
美玖が憤りから拳を握りしめる。
完全体デジモンの中でも上位の実力と危険度を持つスカルグレイモンといえ、ここではただのモルモットでしかない。
それが美玖にとってはとても辛いものに感じられた。
そうでなくとも、胸部、身体の中央部とは大抵のデジモンにとって脳や心臓にあたる重要な臓器・電脳核のある位置だ。
正常な状態ではあるまい。
(デジモンが捕獲されていたのは、おそらくこの為だろうね)
日向も険しい表情でガラス張りの向こうのスカルグレイモンを眺める。
研究員の話し声を聞き取り、キャシーは伝える。
(どうやら、電脳核に強烈な負荷をかける事でデジモンを強制的に進化させる薬品のテストを行っているようです)
(強制的な負荷?)
(聞いた事がありませんか?生き物は、生命的な危機に陥った時に潜在的な能力を発揮させる事があると)
(どちらかといえば、迷信の類とも思うのだけどね)
(それが、狙いのようですね。デジモンは弱肉強食の世界を生きるゆえ、我々よりも生死と隣合わせの生態を持つ生物。それゆえに)
キャシーがそこで話すのをやめる。
彼女の視線の先を見れば、一人の白衣の女が研究員の合間を歩いて周るところだった。
豊満な胸の膨らみと谷間を惜しまず見せつけるように白衣とブラウスの前部を大きめに開けた女は、時折研究員と会話を交わしている。
(あの女性は…資料に、写真がある)
日向が女を注視しながら言った。
(組織の中心人物だとか…莉莉娘娘(リリ・ニャンニャン)と呼ばれているようですが詳細なプロフィールが見つからず)
(彼女に関してはこちらも同じ事情です。彼女が一部の政府関係者や警察機関の癒着の要因であることは確かなのですが…)
女はまだこちらに気づいていない。
(彼女に見つからないよう、重要な資料が保管されているだろう場所を探しましょう。五十嵐さん、周囲への注意をお願いできますか?)
(………はい)
苦い思いを噛み締め、スカルグレイモンから目を離して美玖はうなずく。
(スカルグレイモンが危険なデジモンなのはわかってるけれど……助けてあげられたら、良かったのに…)
聞こえてしまったのだ。
研究員達の間で交わされている残酷な話が。
あのスカルグレイモンは、薬により進化の過程で寿命を縮められている。
それゆえに、進化してからもって、後4、5時間程度の命である、と。
……………
デジモン達が待機するデジタルポイント。
そこへ舞い降りた赤竜・エグザモンの目前にアルフォースブイドラモンが飛んできた。
「お待たせ!開通用のウイルスだよ」
よいしょ、と担いできたウイルス入りの大きなアンプルが、エグザモンの携えるランス『アンブロジウス』の弾倉に装填された。
「これより開通を開始する。我の眼前から退くがいい」
エグザモンの言葉に、大慌てで動き始めたデジモン達。
癒し手達は、動けない者をエグザモンの射程内から動かそうとする。
「動けるか?」
「ドウニカナ」
シルフィーモンとグルルモンも動こうとし、そうなれば気になるは近くにいるアサルトモンだ。
「そちらは?」
「俺はこの有様でな…ちょっとなら動けるがこいつは参った」
「なら手を貸そう。グルルモン、お前は身体が大きいから押すのは任せるぞ」
「ヤレヤレ…」
近くで施術中だった癒し手とシルフィーモンとでアサルトモンを支え起こし、グルルモンが馬体部分に自身の身体を押し付けるようにして移動する。
死傷者が多いだけ、全員がエグザモンの眼前から退くのに時間がかかる。
ーーそれが済んだ時、エグザモンの攻撃の威力を目の当たりにさせられるのだが。
「まだ手間取りそうだな」
忙しく動き回るデジモン達を見下ろし、薔薇色の甲冑を纏ったロードナイトモンが呟く。
「僕、手伝ってくるよ」
アルフォースブイドラモンが言いながら飛んでいった。
それに一瞥をくれ、デュナスモンはマグナモンの方を向き直る。
「我が君からの指示はあったか?」
「座標の情報は我が君まで行き届いている。すでに攻撃態勢は解除されているため、エグザモンの役目はデジタルポイントの開通と、万が一の時の待機だ」
「人間とのイザコザは面倒だからな…」
「デジタルウェイブの操作を人間が行なっている根拠が出ていたなら、奴らを疑うこともできたが」
気怠げにロードナイトモンは眼下を眺める。
……退避が完了する。
エグザモンの翼が大きく開かれた。
アンブロジウスの槍身が赤熱し、ウイルスを収めた弾倉が回転を始める。
傷ついたデジモン達が固唾を飲んで見守る中、それは放たれた。
「ーー座標、確認。方位固定。吹き飛ぶがいい…!」
『アヴァロンズゲート』!!
凄まじい熱と閃光が空間を灼く。
「……!!」
余波に圧倒され、多くのデジモン達が地に伏せた。
しかし、皮肉なものだ。
ーー過去に、イギリスの植民地として隷従を強いられ、1997年に変遷された香港が。
イギリスはブリテンの名高き伝説の象徴の一つである赤き竜に余りにも酷似したデジモンによって、道を拓かれるとは。
開かれたデジタルポイントは、大きな歪みを伴ってうねった。
「開いたか」
マグナモン達が接近すると、エグザモンが彼らを向いた。
「我はこのまま待機か?」
「数人でいこう」
「私とデュナスモン、そしてエグザモンの三人でこの入り口を監視する。奴らがこの開通したデジタルポイントを通過しないとも限らんからな」
ロードナイトモンの言葉に四騎はうなずく。
「なら、組織への攻撃に行くのは私とアルフォースブイドラモンだ。すぐに編成を開始する。手伝ってくれ」
「了解!」
マグナモンによる召集がかけられると、アサルトモンがシルフィーモンの肩に手を置いた。
「俺はこのザマだ。ここでお別れだが、生きてたらまた会おう」
「ああ。……行けるか、グルルモン」
「応」
……………
ーーデジタルポイントが開通する、一時間半前。
「……迂闊な連絡手段はとれませんね」
岩に身を隠しながら、残された三名、すなわちワイソン、渡邉、愛佳はやりとりを交わしていた。
「ですが、先程イグドラシルからの攻撃態勢の解除が確認できました。後は…組織の目的についての情報があれば」
デジモンの攻撃に耐えうるレベルの肉体の強化。
それを武器にデジタルワールドへ侵略行為しようとする、元はカルト協会だったはずの存在。
そのWhy done it(動機)を探るためには、潜入した美玖達がつつがなく情報を入手してくる必要があるーー
「ようやく尻尾を掴まえるチャンスなんだ。これを逃したら…」
その時、空気に湿度のようなものが混ざった。
まっさらな紙の上に、一滴の墨が落とされたような違和感。
その違和感に気づいたワイソンが二人の方を振り返った時。
ぐしゅり
何ものかが、愛佳の上にのしかかっていた。
それに渡邉はまだ気づいていない。
「……!!」
「どうしました?」
血の気の引いた顔に、嫌な予感を覚えた渡邉が振り向きかける。
そこへ、別の何かが"降って"きた。
「ぁ、ぐ…」
ワイソンはその存在の下敷きになった渡邉の手指がもがくのを見、その存在の全容を認めて反射的に岩から離れた。
「……妖(くそっ)!!」
思わず口走り、建物に向けて走る。
…その直後。
愛佳、渡邉を捕食したそれらの形に変化が表れ始めた。
オウムガイめいた形から人の形へ。
その体表は人間の身体を内側から裏返したかのようなものへ変わり、おぞましい。
そして、新たに獲物としてワイソンの背中を見据えるため、コアのようなものだった赤い球状の光が眼の如く光った。
……………
(止まって下さい)
美玖の言葉に二人の足が止まる。
今、美玖達は階段を降りて、入った階から下へと下っていた。
(どうしました?)
キャシーの問いに、美玖はツールの画面を見せる。
通路に沿って並ぶ個室と、巡回する見張りらしき武装の人間数名。
(厳重そうですね)
(人数も少数とはいえ通路は狭いです。それと、ドアも幾つかは暗視番号式のロックがかかっている。日向さんにここをお願いしてもらう事はできるかもしれませんが、見回りが鉢合わせないようにしなければいけませんね)
モーショントラッカーによれば、見回りはやや道幅を取るように巡回している。
ドアロックはいずれもテンキーに暗号を入力するタイプのもので、これをハッキングしようとなると時間が必要だ。
(パスワードを探すしかないか…)
幸いドアロックのついていない個室もある。
探すに時間はかかるものの、他に手段もない。
(行きましょう、まずは手近な部屋から)
接近を報せるアラートを消音に設定、美玖に逐次確認してもらう形で移動を始めた。
階を下りて始めのドアから二つ先を行った部屋に入った。
中は、書斎のようだ。
マホガニー製の大きな机が一台、奥に据えられている。
「…中にパスワードが保管されていれば良いけど」
そんな呟きと共に机へ歩み寄る。
机には、シンボルの縫われたシートが敷かれている。
それは、デジタルポイントへ移動した時に現れたものに酷似していたが、中央部の形はまるで違っていた。
「先程のシンボルとは違うものですね」
「こちらは莉莉娘娘関連の書類によく見かけるものです。神仙との繋がりを示すものではないかと」
「となると、組織内での序列は神仙の次に莉莉娘娘ということでしょうか?」
美玖が尋ねると、キャシーが困った表情を浮かべた。
「我々も初めは、そう考えていました。しかし、神仙は、ある年を境に組織を去ったと話にあります」
「ある年?」
「1999年の七月と、そう記されています」
日向が机の引き出しを引いた。
「1999年というと、アンゴルモアの大王か。縁起が良いね」
「アンゴルモアの大王って、なんですか?」
美玖がきょとんとした顔になる。
「………知らない世代だったか、君は。マヤの大予言よりもずっと昔に流行った、世界が滅びると予言された年だよ」
今度ノストラダムスで調べたまえよ、と一言。
探った手が何かを取り出した。
小さなハードカバーのメモ帳のようだ。
「これかな?」
ぱらぱらとめくって秒で、日向の表情は戸惑ったものになる。
「なんだこれは?」
「どうしましたか」
「暗号か何かか。日記のようだが、見た事のない記号でぎっしりだ」
キャシーと美玖に見せられたメモ帳のページは、美玖には見覚えのあるもので書かれていた。
つまり…。
「これは…デジ文字ですね」
「デジ文字?」
「一部のデジモン達が使う文字です。ツールで解読しますので貸していただけませんか?」
「それなら頼むよ」
日向から受け取ったメモ帳をツールにかざす。
メモ帳をツールのカメラ機能で読み込めば、ツールの画面に日本語で訳された文章が並んだ。
「……これは」
美玖が目を細める。
「これを書いたのは莉莉娘娘で間違いないようですが…デジ文字を使っているとは…」
「読んでくれませんか?」
キャシーの言葉にうなずき、美玖は広東語で読み始めた。
『教祖のコネで新しく生きの良い男が三人贈られてきた。とても良いこと。生気に満ち溢れてて、しばらくは困らないわ。一人はレディの扱いが乱暴だから、調教し直す必要があるのだけど…』
次のページには。
『200X年3月。被験体に選んだデジモンに最初の"霊丹"の投与実験が始められたとのこと。相変わらずあの欲深い爺の実験は続けられている。とても癪の障ることだけど、爺が去った理由に納得がいく。確かに、この組織の人間どもの欲望に揺れはないけれど、あの爺を喜ばすにはいささか物足りないか』
また次のページ。
『一人の生気がカラカラになっちゃった。だって美味しいんだもの。乱暴者は調教を間違えて"うっかり"殺しちゃったし、もったいない。最後の一人は……悪くないけど、吸い尽くしちゃった男と比べるとパンチ力に欠けるわね…』
さらに、次のページ。
『教祖が自分の息子を差し出してきた。…どうも"仕入れ"に難航している、といった風情ね。ちょっと味見はしたけど悪くないわ』
その内容に、美玖はぞわりと鳥肌が立つ思いがした。
これは人間が書いたものではない。
まるで、吸血鬼が書いたかのような…。
「…なんだこりゃ。男を食い物にってレベルではないぞ…」
日向が険しい顔になる。
キャシーも口元を押さえながら言った。
「ですが、心当たりがあります」
「心当たり?」
「近頃香港を中心に、多数件の人攫いがあったんです。狙われているのは20代から10代までの、若い男性ばかり」
「その行き先が、この莉莉娘娘のところと…?」
「おそらく」
キャシーの言葉に、背中から冷や水を浴びせられたような思いだった。
そこで、一度は何かを書いた上で消したと思しき筆跡がある。
「これは…ツールでは読み取れていませんね」
「ペンは…あった、あった」
日向が机の上に置かれたペンを取ると、軽く筆跡の上に走らせる。
筆跡には、一文分のデジ文字の下に四文字のデジ文字があった。
「そのツールでもう一回読み取ってくれないか」
「はい」
出てきた番号は、『0174』。
すぐ上の文は、この階のパスワードの事を言っているようだ。
「これか、パスワード。普通なら不用心、というべきだけれど…」
日向が美玖を見る。
「デジモン達の文字が読めなかったら、詰んでたな」
「それが意図かもしれません」
「ともかく行きましょう。あまりここに留まっていられません」
……………
ごとりっ
「……あら?」
仏間の掃除中、仏壇の方からした物音に葉子は振り向いた。
「大変、お父さんの位牌が…」
落ちて灰に少しばかり埋もれた位牌を、慌てた手つきで取り出す。
灰を軽く拭い、仏壇に戻す。
ガタッ
「今度は何?」
神棚を見やれば、新しく拝借した御眷属の札が倒れていた。
御眷属の札を立て直して、葉子はふと不安に襲われた。
(……もしかして、美玖に何かあったんじゃ)
春信の位牌に御眷属様の札までが、こうも何もない場所から倒れるのはただ事ではない。
それでも、念のため居間へ向かう。
居間では夫の康平がドラマを見ているところだった。
「今、地震あった?」
妻の問いに康平は首を横に振った。
「いや、何の速報もないけど」
「そう……」
「どうしたの?」
「…お父さんの位牌と、御眷属様のお札が落ちたり倒れたりして…」
テレビを眺めながら、康平は気むずかしげに
「うちの仏壇と神棚もだいぶ古いからな…」
「でも今まで落ちたりしなかったじゃない?」
そこで、葉子は携帯電話から美玖の番号にかけてみることにした。
しかし……。
「…出ないわね」
何か用事なのだろうか。
掛かってはいるようなのだが、出てこない。
「…シルフィーモンさんの方にも掛けてみようかしら」
以前に彼から端末の番号を教えてもらったことを思い出す。
「出てくれれば良いんだけど……」
登録しておいた電話帳からかけて30秒。
ザーザーというノイズと共に、応答が出た。
『もしもし』
「もしもし、シルフィーモンさん?葉子です。今、美玖とお仕事中だったかしら?お取り込み中だったらごめんなさい」
『葉子さん!?』
…………
「葉子さん!?」
思わぬ相手にシルフィーモンは意表を突かれた。
今、シルフィーモンはグルルモンと共にデジタルポイントを通過中。
目指すは香港は獅子山にあるデジタルポイント内だ。
「いえ、訳あって彼女とは別行動を…」
『そうなの?ちょっと心配になって、美玖に電話をかけたんだけど繋がらなくて…この間みたいに病院へ行くほどの大怪我とかしてない?』
「ーーそれは」
わからない。
目指す先に美玖もいるはず。
それは、座標がイグドラシルの元へ送られた事からわかっている。
しかし、無事だという確証はまだ…。
「…少なくとも、大それた怪我はしていないはずです」
『そうなの…美玖はあなたの事をとっても頼りにしてるみたいだから、心配ないわよね』
「………そうでしたか。美玖に伝えておきます」
『今度、シルフィーモンさん、美玖と一緒にまたうちにいらっしゃい。美味しいもの作ってあげるからね』
「はい…今度。ありがとうございます」
通話を切ったところへグルルモンが口を聞く。
「ドウシタ?」
「美玖の母親からだ。美玖の事を心配してかけたが、彼女の携帯には繋がらなかったらしくてな」
「……出ラレンノハ仕方ガナイ。今、アイツハ敵地ノ中ダカラナ」
グルルモンは言いながら前方のデジモン達へ視線を戻した。
最前線にマグナモンとアルフォースブイドラモンがいる。
彼らが先陣に立つのは、デジタルポイントへ進入した直後の戦闘を予期してのことだろう。
「到着時間は後どれほど?」
「30分後ダ」
「…美玖が無事でいてくれれば良いが」
嫌な予感がふつふつと湧いてくる。
おそらく葉子もそうなのだろう。
………
「お、ここのようだな」
部屋を幾つか周り、三人がたどり着いたのは大きなベッドルーム。
紫と黒を基調にした色合いの装飾がされた室内は、むせるような香りに包まれていた。
パソコンが置かれた脇のベッドに、一人の全裸の男が横たわっている。
(……あれは)
キャシーが近寄っていく。
男は30代半ば、鍛えられた身体は汗ばんでいて弱々しく呼吸を繰り返している。
近寄れば、男なら誰もが一度は嗅ぐ事になるだろう臭いに美玖は思わずたじろいだ。
(この人は…)
(間違いありません。この組織の、前身の教祖の息子です)
(事後じゃないか。それにしてもだいぶ弱っている…?)
日向が男に近寄り、脈を取る。
「……こりゃかなり弱ってるな。休ませておけばある程度回復はしそうだが…」
「少なくとも、騒ぐ元気はなさそうですね。今のうちに口は塞いでおきましょう」
「む、ぐ…」
キャシーにタオルで猿轡を噛まされても、男はうめくだけだった。
日向がパソコンの前に立つ。
「お、早速パスワードはかかってるな。だが……と」
軽快にタイピング音を鳴らし、プログラムにアクセス。
「よし、ログインしたぞ。…ここにも、さっきのマークがあるな」
美玖とキャシーが画面を覗くと、デスクトップに幾つかのPDFファイルが保管されている。
日向は取り出したブランクのフロッピーディスクを挿入した。
「五十嵐さん、今のうちに他の部屋も回ってみてくれないか?ここは俺がデータを吸い出しておきますので」
「大丈夫なんですか?」
「心配ないですよ」
日向は軽く笑い、別の部屋への探索を促す。
「行きましょう」
ーー
二人が出た後、しばらく経って。
日向は閲覧していたデータの一部を見て唸った。
「これは……待てよ。デジタルワールドへの侵攻計画はあくまで過程みたいなものだったって事か?」
その時である。
「その通りよ」
声がかかったのと同時に。
腹を通り抜ける異物感と、衝撃。
何があったのかわからず、下を見やれば。
そこからは、血にまみれた腕が突き出ていた。
喉の奥からこみ上げたものを、本能的に吐き出す。
それは、どろりとした血の塊だった。
「ダメじゃない。勝手に人の物を覗くなって、親から教わらなかったのかしら」
ふー…、と挑発的に耳へ吹きかけられた吐息。
貫かれた腹の傷口周辺が、グズグズと溶けたように腐り異臭を放つ。
「ぁが…く、そ…」
吐き気がしそうなくらい香しい吐息に加え砂糖を更に甘くしたような声音に、日向は振り向く。
そこにいたのは、妖艶な笑みを浮かべ、氷のような冷たい眼差しで見つめる女。
「り…莉莉、にょ、んにょん…!」
「プライバシーを覗き見する悪い男にはお仕置きをしなくちゃね?」
その時、パソコンから音がした。
データ保存が完了した合図だ。
「…ぐ、おおお!」
「あら!」
構わず莉莉娘娘を引き剥がし、出てきたフロッピーディスクを引き抜く。
激しい痛みに再び血を吐くが、構っていられないとドアへ体当たりした。
「今のは…」
その時の音に、見張りを避けつつ他の部屋を探していた美玖とキャシーは顔を見合わせ、駆けつける。
そこで二人は、腹部を血まみれにした日向の姿を見た。
よたよたと定まらない足取りで二人へと走り寄ろうとして、日向はーーー
BLAM!
「日向さん!!」
倒れ伏す日向の背後には、莉莉娘娘と、アサルトライフルを構えて立つ数人の武装した男がいた。
「あら、まだネズミがいたのね」
「……逃げ、ろ…!」
二人に向かって力なく叫んだ後、日向が力尽きる。
しかし、何もない通路。
そこへ、金色の影が飛来した。
「何だ!?」
武装した男達の合間を飛び回り、突きまわす金の鳥。
莉莉娘娘の表情に戸惑いが見えた。
「何よ、この鳥は…」
「フレイア!?」
美玖の言葉に、フレイアは激しく鳴きたてた。
それを隙と見たか。
キャシーが日向の元へと走る。
「!」
フレイアを払い除けた一人が、銃口を向ける。
「キャシーさん!」
美玖が指輪型デバイスを構えたが、男のライフルの方が早かった。
キャシーの胸に打ち込まれる複数回の銃撃。
「ーーーっ!」
倒れ込むキャシーだが、彼女の手は日向からフロッピーディスクを掴み取っていた。
「キャシーさん!」
「私は…っ、良いから…早く、これを!」
「ピイッ!」
その手からフロッピーディスクを掠め取るフレイア。
だが。
その翼が数発弾を受け、血と数枚の羽根を散らす。
金色を赤で汚し、美玖の目前でフレイアは墜落した。
「フレイア!あなたまで…!」
「ピッ……」
翼を動かしてもがく姿に、美玖はすぐそれを抱きかかえた。
莉莉娘娘が男達に命令を下そうとし、そこで突然着信音が鳴り響く。
「何かしら?」
その間に、フレイアを抱え、美玖は走り出した。
PHSの呼び出しを受けながら、莉莉娘娘が男達に命令する。
「今のネズミを捕まえなさい。捕まえたら嬲るなり実験体にするなり、お前達の好きにするといいわ」
ブーツの靴音を鳴らし、男達が美玖の消えた廊下へ走る。
彼らが去った後には、事切れ、何一つ言わぬ骸と化した日向とキャシーだけが残された。
黄金の羽毛を血で濡らしたフレイアを抱え、全力疾走した先にはエレベーター。
駆け寄って反射的にボタンを押し込むと、すぐ下の階からの反応が出た。
(早く…!)
すぐ後ろから靴音が聞こえる。
その時、背後に気配が現れた。
「!」
ーーー時間は稼いでおこう。
実体化したヴァルキリモンが振り向く。
背中に掛けたクロスボウを外し、手早く矢を装填。
そこへ後を追いかけてきた戦闘員が、ヴァルキリモンの姿を目にし一瞬立ち止まった。
「…!」
一人、二人と、クロスボウとは思えぬ早撃ちで胸を撃ち抜かれ、倒れる。
それと共にエレベーターの扉が開いた。
一人と一体が中へ入る。
何か干渉されない限り中は安全だ。
下の階へボタンを押し、美玖はフレイアをヴァルキリモンに見せた。
「ごめんなさい、あなたの鳥が…」
ーーー気にせずとも良い、私もフレイアも、覚悟の上だよ。…私がフォローするから、良ければ君にこのままフレイアを託したままで居させて貰えるかな?
「……わかりました」
ーー地下七階。
そこが、この組織の本拠地の最下階だ。
美玖とヴァルキリモンがエレベーターを出た瞬間、突如割れんばかりの音と赤色灯の不気味な明滅。
ーーー侵入者の存在が知れたからね。こうなるのも当然か。
美玖がツールの画面を見ると、エレベーターのある所から三叉に分かれた道があり、右側から十人ほどの人数が速足でやってくる。
「右側の通路から十人ほど来ます」
ーーーとなれば、君一人では逃げきれないか。君が近くにいる限りは私が気を引くとしよう。その間に別の道へ行きたまえ。
ヴァルキリモンの言葉に美玖はうなずき、偽装コマンドを起動する。
騒がしく足音を立てて戦闘員が駆けつけると、彼/彼女は腰の剣を抜いた。
背後から吹き抜ける強烈な冷気に背筋を震わせながら、美玖は中央の道を走った。
ーー美玖との距離が離れれば、ヴァルキリモンは実体化を維持できなくなる。
ならばそれを利用するまでが、彼/彼女の考えだった。
中央の道は、まっすぐ伸びた構造だ。
そこに間隔を置いて頑丈な造りの扉が数十もある。
そのうち幾つかは、内側から何度も叩きつけられていたり、悲鳴とも吠え声ともつかぬ声が響いていた。
(……一体、このたくさんの部屋の中に何が……)
長い通路を走っていく先に見える扉。
しかし、そこで美玖は止まってしまった。
「カード認証と暗証番号が必要だなんて…!」
咄嗟にツールを見る。
ツールにもハッキング機能はあるが、それを使うには偽装コマンドを解除する必要がある。
だが。
「…なるべく、情報を得なくちゃ。それに…」
ダブルロックされているということは、一度入って再度ロックしてしまえば入るまでの時間を稼げるかもしれない。
逆もあり得るが…
ともかく、今はやるしかない。
偽装コマンドを解除、ツールをドアロックに接続しハッキングを始める。
(…あのデジモンが、どこまで引きつけてくれているかはわからないけれど…)
ハッキングまでに要する時間は8分。
スピリットボックスのような連絡手段がないのは非常に不便だ。
8分があまりにも、長く感じる。
傷だらけの身体を震わせるフレイアに気付き、そっと抱き直す。
(…もう少し、我慢しててね)
心の中で詫びながら、美玖は入ってきた方を見やる。
赤色灯が点滅するなか、遠くから多人数の足音が聞こえた。
「お願い、開いて…!」
ある程度は引きつけられたようだが限界か。
まもなく、通路から大勢の戦闘員が来るのが見えた。
一人が叫ぶ。
「動くな!一歩でも動いたら撃つぞ!」
「…!」
銃口を向けながら戦闘員が距離を詰める。
美玖の額に汗が流れた。
(何か…何かないかしら?)
そう思いながら、片手で身の回りを探っていると…。
何か固く軽いものが手のひらの上に転がり込んだ。
「フレイア?」
「ピッ」
いつの間に"それ"を掠めたのだろう。
手の中のそれに、美玖はフレイアを見、うなずいた。
カシャンっ
手の中のそれの安全ピンを引き抜いた。
戦闘員達がその動きに気付き、誰かが反応するより早く"それ"が投げ込まれる。
炸裂音と共に、白煙が周囲を包み込んでいく。
次々にあがる驚愕の声。
それと共に、ツールのハッキング作業の進捗バーが満杯になった。
「今のうちに…!」
煙幕に覆われた戦闘員に構わず、フレイアを抱え開いたドアを開ける。
BLAM!
バチュン!
銃弾が飛び、近くで火花が散った。
強引に身体を部屋の中へ滑り込ませる。
中へ入り、施錠した先で美玖が見た室内は、幾つものレバーやスイッチが並ぶ部屋だった。
「ここは…何かの管制室かしら」
「ピイッ」
そこで、先程通り過ぎた個室の数を思い出す。
(……もしかしてあの中に、捕まったデジモン達が押し込められている?)
もし解放することができれば、きっと。
彼らを救い出せる。
彼らと共にこの窮地を脱出できる…!
部屋は強化ガラスが張られており、そこから個室のある通路が見下ろせる構造になっている。
戦闘員達も、機銃を構えていた。
「どれかしら…どれが、部屋を開けるスイッチ!?」
目を皿に、必死に操作盤を探る。
そして、赤い大きなボタンに触れた。
「……これだ!」
ーーー美玖は知るよしもない。
この後で起きる、地獄を。
………
「何事かしら?」
その頃、美玖の始末を戦闘員に任せた莉莉娘娘は3階のセキュリティルームに来ていた。
「娘娘!一階が謎の存在に侵入されています。数は約60体」
「謎の存在?デジモンでも人間でもない?」
「戦闘員を派遣してはいますが、侵入してきた生命体の勢いを殺ぐことができていませんーー!」
訝しげに莉莉娘娘が眉根を寄せる。
「モニターに表示を!」
そこに映し出された光景に、莉莉娘娘の表情が険しいものになった。
「こいつら…!」
研究室は今、悲鳴の坩堝と化している。
逃げ惑う研究員達。
機銃を掃射する戦闘員。
そして、彼らに襲いかかるは、蠢く触手の奥に赤いコアを抱えたオウムガイにも似たモノ。
「なんでこいつらが…まさか…ハッカーのニューロンが切れた原因は!」
「娘娘!追加報告です!」
別の監視員が叫ぶ。
「最下階の収容室の全開放が確認されました!」
「……あの女か!」
………
ーーー沈黙。
赤いボタンが押され、戦闘員の間に一種の緊張感が流れた。
一人が、つぶやく。
「………不好了(ヤバい)」
その時。
【PIN】
開閉音がした瞬間、それは同時に起こった。
部屋の中から伸びた木の枝のようなものが、ある戦闘員を捕らえて引きずり込み。
部屋から飛び出した蛇のようなシードラモンが、ある戦闘員に頭から食らいついて生きたまま喉の奥へ呑み込んでいき。
部屋から飛び出したファングモンが、ある戦闘員に襲いかかってその喉元を食いちぎり。
たちまち血みどろの宴と阿鼻叫喚が湧き起こる。
「……え?」
美玖は、茫然と、その光景を見つめる。
通路はあっという間に血と肉片で真っ赤に満たされ、解放されたデジモン達は狂気の叫び声をあげた。
数分後。
そこへ、セキュリティルームから別の戦闘員達が駆けつける。
「急げ!」
「早いうちに再収容するぞ」
彼らがたどり着く前に、シードラモンの長い身体が上の階を目指して階段へ這っていくのが見えた。
通路には、まだ戦闘員を嬲り殺し、貪るデジモン達がいる。
それらが一斉に駆けつけた戦闘員達の方を振り向いた。
それと同時にまだ開けられていなかった個室が次々と開いていく。
(こんな……こんな、はずじゃ…!!)
外から聞こえる断末魔。
窓に飛び散ってベットリとへばり付く血や赤黒い塊、あるいはピンク色の肉片。
フレイアを抱えながら、美玖は部屋の中にうずくまる。
皮肉にも、それによって彼女は彼らの目から逃れていた。
【PIN】
更に扉が開く。
白い触腕をうねらせた巨大なイカ型デジモンのゲソモンが窮屈げに部屋を出ようと暴れ。
部屋の奥からおびただしい大量の小さな子蜘蛛にも似たコドクグモンと、それを引き連れた蜘蛛女のようなアルケニモンが現れ。
戦闘員を一人残らず殺すと、デジモン達は我先にと階段へと上がっていく。
当然、それは美玖との距離が離れて幽体に戻ったヴァルキリモンの目に映ることとなった。
ーーーこれは……、厄介なことになったな。
……………
「これは…!」
デジタルポイントを抜けた先、マグナモンの声が響いた。
皆が何事かと見ると、建物の外観に不自然なほどモノクロな歪みがチラついているのが見える。
その手前の岩の前で、二人の人間が横たわっていた。
「…まさか」
アルフォースブイドラモンが倒れた男女に駆け寄る。
「しっかりしろ!」
マグナモンがその後ろから歩み寄る。
後から続いてデジモン達が出てくる。
そこでシルフィーモンは、アルフォースブイドラモンが見知らぬ男女が倒れている傍らで片膝をつく姿を見た。
「どうだ?」
「ダメだ、すでにアイツらにやられてる。いくら起こそうとしても目を覚まさない」
「…やはり、か」
建物に目をやれば、大きく外壁を食い破られた痕跡がある。
マグナモンが編成して連れてきたデジモン達を振り向いた。
「中で奴らとの戦闘は避けられん。この組織を落とすぞ」
ーーー
ヴァルキリモンが入った時、咳き込む音と激しい嗚咽が聞こえてきた。
部屋の奥へ行けば、そこには……
フレイアを脇に、涙ながら嘔吐している美玖がいた。
「うっ…ぐ、ぅう…ぷっ、はっ、けほっ、げほっ…!」
吐瀉物が床にぶちまけられ、胃の中のものがなくなってもなお吐き気を止められない。
実体化しながらヴァルキリモンが歩み寄ると、顔をぐしゃぐしゃにしたまま美玖は顔を上げた。
ーーー大丈夫かい?
ヴァルキリモンが問う。
咳き込みながら口の胃液を拭い、美玖は首を横に振る。
「…私は余計なことをしてしまったんでしょうか」
ーーーと言うと?
「先程上の階で見たあのスカルグレイモンを思い出すべきでした…。ここはデジモンを実験台にしています。精神を崩壊させるレベルで…」
なら、あのデジモン達は解き放つべきではなかったのでは?
それは、あのスカルグレイモンも、同じことだったのかもしれない…。
そんな自責の念に押し潰されての嘔吐だった。
ーーー誰の責任とも言えないよ。何より今は君が無事でいてくれなくては、私もフォローのし甲斐が全くないじゃないか。
ヴァルキリモンは肩をすくめながら、手を差し伸べる。
かなりドライだなと思いながら、美玖はフレイアを脇に抱えてその手を取った。
ーーーともあれ、もうここに用はないだろう?じきにここは戦場と大差がなくなる。…地獄の中を歩く覚悟はあるかい?
ーーーー
組織の内部は混乱を極めた。
上階からはオウムガイやおぞましい人型の生命体が、下階からは狂えるデジモン達が迫ってきている。
研究員と戦闘員が入り乱れ、その間にようやく"まともな"デジモン達が割って入った。
「生きている組織の人間は捕縛しろ!まだ無事であれば調査員の人間の無事を確保するんだ!」
マグナモンが叫ぶ。
シルフィーモンとグルルモンが一目散に駆け出した。
彼らのやる事はむろん、美玖の救出。
「グルルモン!美玖の匂いを探せるか!?」
「少シ待テ、色ンナ匂イガ混ザッテ鼻ガ曲ガリソウダ」
そこへ迫ってきた生命体をシルフィーモンが蹴り飛ばす。
しかし、それでもなお向かってくる生命体。
「こいつらのしぶとさは相変わらずか!」
ーーーー
ーーー『フェンリルソード』!
凍気纏う斬撃が襲ってきたコドクグモンの群れを薙ぎ払う。
ヴァルキリモンが先頭に立って階段を上がり、美玖はその後に続く。
ーーーやはりここも安全ではないな。
「ワイソンさんや渡邉さん達が心配です。出られればいいのですが…」
ーーーー
……セキュリティルームのモニターは16分割の画面で、上階と下階の地獄めいた光景を映している。
特に下階では、様々なデジモンが研究員や戦闘員を相手に殺戮を繰り返していた。
あるモニターでは数体の悪魔のようなイビルモンに群がられる女性研究員が映り。
逃げる男性研究員を黄金の装甲に包まれたサイのようなライノモンが追い回す。
壁際に追い詰められた研究員を"捕食"したオウムガイの姿が人型へと変化していき、新たな獲物を求めて歩き出した。
莉莉娘娘はセキュリティルームを練り歩きながら指示を出す。
「戦闘員に追加の仙丹を!」
「ですが娘娘、過剰な仙丹の摂取は戦闘員の肉体に負担が…」
「侵入生物やモルモット達が抑え切れなくなっているのがわからないかしら?」
「ですがーー」
そこで響く異音。
それと同時に闇に包まれた。
闇に包まれたのも一瞬で、すぐに予備電源が起動しオレンジの薄暗い灯りが部屋を照らす。
そこへ、セキュリティルームの扉が大きく音を立てた。
何者かが押し入ろうとしている。
近くにいた女性研究員が悲鳴をあげて奥へと逃げていった。
ーーーー
「!」
地下三階。
一気に階段を上がった所を横切る影。
咄嗟に構えたヴァルキリモンに払い除けられたそれが、壁に激しく身体を叩きつけられ翼をもがかせた。
コウモリのような見た目のデジモン、ピピスモン。
それが身体を起こしながらヴァルキリモンと背後の美玖に向け、狂気に満ち溢れた表情で牙を向いた。
ーーーこっちだ。
手つきで誘導する。
三階から二階への階段は離れた所にある。
そのうえ、三階の規模がかなり広い。
暴れ回るデジモンと、そして、上階から侵入してきた生命体とがぶつかり合っている。
ーーーところで何なんだい、あれは。
「私が師匠と呼んでいるデジモンが開いたギャラリーにちらりと見たことがあります」
ツールを生命体に向け、スキャンしたが……
『NOT DIGIMON』
という表記の後、やや遅れて出た名前が、
『EATER』
という文字を浮かび上がらせた。
「……イーター?」
ーーーデジモンではないのだね。しかし…全然聞いたことがないよ。最近現れた存在なのかな。
「知らない存在、なんですか?」
ーーー永遠の闇に長いこと閉じ込められていたからなあ。
何体もの生命体『イーター』が襲いかかるのを、ヴァルキリモンは斬り返しながら愉快げに言った。
ーーーけれど中々歯応えのある相手だね。見た目は少々気持ち悪いけど。
「それにしても、どこからこんな数が…」
そこへ飛び込んでくる人影。
ヴァルキリモンが剣を振るいかけ、美玖が叫ぶ。
「ワイソンさん!」
通路の曲がり角の先で剣を構えた人間のようなデジモンを前に、ワイソンは両手を突き出す。
「ま、待て!ーーいや、そこにいるのは五十嵐さんか!?」
「ワイソンさん、どうしてここへ?」
「…君達が潜入している間に、君と同じ調査班がイーターにやられて、私も捕食されそうになりましてな」
「…!!」
美玖の顔から血の気が引く。
「そんな…渡邉さんと、愛佳さん…!」
「逃げ場がない所で、奴らが外壁を食い破って中へ侵入してくれましてね。それで君達と合流しようと来たわけですが……、そちらも、残ったのは君だけですか」
「ワイソンさんは、あのイーターという生き物について何かご存知で?」
「ああ…あれは、25年まっ……」
「啊(あーーーっ)!!」
耳をつんざく標準話の悲鳴と共に、研究員が一人飛び出す。
咄嗟に避けきれずモロに激突したワイソンが倒れた。
「このバカやろう!」
「ワイソンさん!」
悪態を尻目に倒れたワイソンへ駆け寄る美玖。
そこへ飛んできた影が研究員を攫っていった。
「…っ、今のは?」
美玖に支え起こされながらワイソンが咳き込む。
ーーーさっきのピピスモンかな?
ヴァルキリモンが言ったのと同時に、研究員を攫った影が再び飛びきたって壁に激突。
そのままヨタヨタと薄暗い闇へ消えた。
ドォン!!
「な、何!?」
別の通路から爆発。
壁を突き破って骨だけの巨大な腕が現れた。
「まさか……」
壁に空いた風穴から顔を出したのは、狂気に目を光らせたスカルグレイモンーー
腕に纏わりつく幾つもの拘束具からして、先程美玖達が見たものと同じ個体だろう。
ヴァルキリモンが歩いていく。
ーーー私が相手をしよう。その間に君達は安全圏へ向かいたまえよ。
「…お気をつけて」
ーー
通路を紫色の狼が疾駆する。
哀れな犠牲者を見つけ、背中から追いつき、首筋に牙を突き立てる。
オウムガイの形が変形していく。
人間を内側から裏返したようなグロテスクなそれに、女性の戦闘員が拳銃を向け発砲。
左肩、右胸と命中するが、意も介さず人型のイーターはじりじりと近づいていく…。
角の生えたバイザーを装着したシマウマのようなデジモンが、両前足を高く掲げていななく。
男性研究員が必死に逃げるが、行き止まりの通路。
振り返った先にシマウマが突進してくる。
鋭い先端の角が槍の如く何度も腹を刺し貫いた。
何度も。
何度も。
そんな光景を横目に、シルフィーモンは急ぎ足で走り抜けた。
途中、あまりの敵の多さにグルルモンとは別行動をとっている。
階を下るごとに増える人型イーター、狂気のまま殺戮を繰り返すデジモン達。
シルフィーモンは、それらをいなしながら探索せねばならなかった。
(美玖…どこにいる!?)
ーーそして三階のセキュリティルームでは。
遂にドアが押し破られた。
狂乱の声をあげながらなだれ込むデジモン達。
手近にいた人間が一人、また一人と打ち倒されていく。
たちまちセキュリティルーム内部は血と悲鳴に満たされた。
「クソっ、戦闘員は…」
「ダメです!手が回らない!!」
応戦していた一人がイビルモンや木のようなウッドモンに拘束され、身体といい顔といい滅多刺しにされていく。
手に構えたサブマシンガンを放つ男の足元で、電子音とその数秒後に爆風と爆音。
「!?」
わけがわからず吹き飛ぶ男。
原因は、イビルモンらに群がられた戦闘員の手から転がり落ちたグレネードだ。
激しく機材と壁に全身を叩きつけられ、男は朦朧と闇を見上げた。
そこに何者かの気配。
「ああアああアアぅ……」
大きな、スライムのようなもの。
その所々には金属片が埋まっており、嗅覚を麻痺させる程の腐臭を漂わせている。
それが、ズルズルと這いずりながら、男に近づいてくる。
焦点の合わない目、口から剥き出される乱杭歯。
男は絶叫した。
「………」
その光景を、莉莉娘娘は絶望するでも、恐慌するでもなく。
ため息をついた。
まるで思い入れこそなくとも楽しんでいたゲームが終わってしまったかのように。
「あーあ……ここまでのようね。もう少しは楽しんでいけたかなって、思ったんだけど」
狂気に満ちた気配が三方向からじりじりと近づいてくる。
「……理性を失えばもう、私が誰なのかもわからないようね。ダークエリアからちょっとだけ離れてたから仕方ないけども」
襲いかかるデジモン達。
もしこの場にまだ生き残っている者がいたならば、莉莉娘娘の死を確信していただろう。
ーーーだが。
「もう帰るしかないわね。てことで…邪魔よ、あなた達」
莉莉娘娘は口元に手を添え、ふうっと息を吹きかけた。
その吐息は、紫色の光を帯びたものとなり……
「グアアっ!」
吐息を浴びたデジモン達がことごとく、身体の末端から消滅していく。
悶え苦しみながら。
セキュリティルームを出た所へ、今度はイーターの群れが襲う。
だが。
「…ああ……もう。あなた達もあなた達よ。なんで世界の外側で大人しくしていられなかったのかしら」
苛立たしげに舌打ちし、莉莉娘娘は立ち塞がるイーターをことごとく殲滅していった。