……走る。
「はぁ、はぁ、はぁ…!」
何もない黒の闇を、
「はぁ、はぁっ、はあ、はっ、はっ……」
走る。
何も履いていない素足が何かに引っかかって擦り切れ、血が出た。
だが止まれない。
止まるわけにいかない。
「はぁ、はぁっ、はっ……待って……!」
はるか前方を飛ぶ金色の光を見る。
今は、その光以外を見るわけにもいかない。
……なぜなら。
「ウウウゥゥゥウウウ……」
「追え…花嫁…俺達の、花嫁…」
背後から追ってくる、濡れた音の混ざった不快音。
十、百…いや、たくさん。
そいつらが背後から迫ってくる。
やがて、視界が開けた。
真っ暗な森から飛び出した先は。
「ああっ…!」
目の前に広がる光景に絶望の色を見せる。
そこは、何ひとつない崖と濁った海。
名状し難い巨影を見た海。
崖下では、数百にのぼる目が見上げていた。
金色の光は、どこにもいない。
もうダメだ。
「ウウウウ!!」
「俺達の子を産め…孕めえっ…!」
「……っ!!」
追いつかれた。
逃げ場はない。
手の中の光の矢も数多の奴らを止めるには足りない。
ついに。
「いやああああああああああっ!!!!」
女……五十嵐美玖の痛々しい絶叫が、暗礁に響いた。
こちら、五十嵐電脳探偵所 第十話 闇(くら)き暗礁、白き閃光
その日、何の変わりのない日常は突如人間達を混乱に陥れた。
テレビが。
パソコンが。
携帯電話が。
街角の宣伝モニターが。
尽く、尽く、砂嵐のようなノイズを映し出したのだ。
「なんだ?」
「故障かしら…?」
「おい、なんだってこんな時に」
人々が困惑するなか、そのメッセージが表れた。
『凡ての人間らへ告げる。凡ての人間らへ告げる。我が名はイグドラシル。デジタルワールドを統制、統治するもの也』
「イグ、ドラシル?」
「なんだ、誰かのイタズラか?」
到底肉声のものとは思えない音声が、モニターに浮かび上がった言葉を読みあげる。
デジモン達の端末にもそれは表れる。
困惑した人間と違い、デジモン達の間には緊張が走っていた。
音声は仰々と、淡々と、メッセージを続ける。
『此度は我がメッセージを遍くリアルワールドのネットワークへ飛ばした。これは、人間らへの警告とリアルワールドに住む凡てのデジモンらへの要請である』
「警告?要請?」
デジモン達は声をひそめ囁き合った。
イグドラシルは、曰く。
『数ヶ月に掛けて、デジタルワールドにて不当なる人間らの侵入並びにデジモンへの攻撃が起きている。これらに対し、此方はロイヤルナイツらによる長きに渡る対処を行ったが依然改善の余地なし。ゆえに』
人々はどよめいた。
デジタルワールドに人間が侵入?
デジモンを攻撃?
にわかに信じ難い話だ。
だが、イグドラシルはそれを赦すまいとした。
『ゆえに、人間らへ告げる。不当な侵入と攻撃を行う人間らの居場所、詳細を知る者はただちに通告せよ。さもなければこのメッセージより三ヶ月後に、侵略に対する正当行為としてリアルワールドへ攻撃を行う』
「はあ!?」
「…………えっ?」
困惑は文字通り混乱と軽度の恐慌に変わった。
これはテロリストによる攻撃布告とはわけが違う。
だが、人間達のそうした反応を、イグドラシルは機械的な態度を以って流した。
『リアルワールドに滞在しているデジモンらへ要請する。デジタルポイントへ赴き、然るべき指示を得て攻撃者を殲滅せよ』
デジモン達は顔を見合わす。
『現在、デジタルポイントの封鎖作業が行われているがその数は莫大。それゆえ希望者はこのメッセージの後端末より013と番号を送るが良い。ロイヤルナイツからの返答を待機せよ。ーー危険な任務となるが、それに見合った報酬を約束しよう』
ーーー
「遂に始まったか、我が君」
…ロイヤルナイツの集合所にて。
イグドラシルが発信するメッセージの羅列を、眺める白い騎士。
緑眼を細めながら呟く後ろから、別の騎士が歩み寄ってきた。
「こちら側の戦力は現在究極体が23体、完全体159体、成熟期747体にアーマー体が300体集っている。既に被害の多い地点のデジタルポイントへ向かわせているところだ」
ドゥフトモンだ。
彼が提示した戦力は、アルフォースブイドラモンとスレイプモン、ガンクゥモンが駆け回ってかき集めた現時点での数だ。
組織への無所属である事を考えればそれなりの数は集まったというべきか。
「各組織に動きは見られたか?」
「ウイルスバスターズが積極的に自主的なパトロール行為を行っている。彼らが主な情報源だ」
ナイトメアソルジャーズ、ウインドガーディアンズ、ネイチャースピリッツに動きなし。
ディープセイバーズは海上にて警戒態勢を敷いている。
メタルエンパイアは……。
「つい二週間前に連絡が入っていた。メタルエンパイアが所有しているレアメタルの鉱床の一つが奴らに乗っ取られていたそうだ」
メタルエンパイアは機械型やサイボーグ型デジモンによって構成され、組織としては規模も戦力も最大クラス。
首魁である究極体デジモンのムゲンドラモンにより、戦力の割り振りや装備の調整・補強に欠かせないレアメタルの鉱床の管理は厳重に行われている。
その一つが人間達の好きにされていたのだ。
「ムゲンドラモン(奴)の激昂ぶりが目に浮かぶようだな」
「だがメタルエンパイアは強者至高主義の組織。協力は期待できん。リアルワールドでどれだけの戦力が集まるか、そこにかかる」
白い騎士・オメガモンは言いながら、イグドラシルのメッセージが終えるのを見つめた。
それから数分して、指定番号の送信が入った。
「ほう、一番手とは中々早い」
ドゥフトモンが感心したような声と共に、送信元を確認し…指が止まった。
「この者は…」
「どうした?」
「例のエジプトでの一件に関与した者達を覚えているか?ジエスモンから報告されていた…」
ああ、と即答し、オメガモンは目を瞬かせる。
「それが何か?」
「そのうちの一人からだ」
ドゥフトモンが端末の管理番号を検索し、モニターに表示する。
表示された情報のデジモンを見て、オメガモンは目を細めた。
「このデジモンは…」
「現在、アヌビモンと関係のあるデジタマから生まれたデジモンを管理している探偵所に所属している者だ。現在、所長である例の人間…五十嵐美玖は病院にて治療中との事だが」
それは、シルフィーモンのものだった。
ーー
探偵所に必要なのは金銭的な維持だ。
だが、依頼だけでは到底足りないのも現状だ。
探偵業は大儲けという言葉とは程遠い職業の一つと言ってよく、だからこそ。
シルフィーモンは、イグドラシルのメッセージが終わってすぐ、その招集に応じた。
今の探偵所に多額の報酬の依頼が来る可能性もないならば。
「…お主、行くのか」
探偵アグモンがシルフィーモンに声をかける。
「ああ。探偵所の維持もだが、美玖の治療費もかかっている。それに向こうにせよ戦力は必要だろうからな」
ロイヤルナイツからの連絡が来るのは三日以内の予定。
それまでの間は待機となる。
「お主の手を借りたいのは山々だが……」
探偵アグモンはうなだれるが、言わずともシルフィーモンにはわかっていた事だ。
そうでなくとも、シルフィーモンは美玖が負傷した事に対して負い目を感じている。
「あの子を任せられる者がいる事を、ワシは今、幸せに思っている。…その事だけは、お主に言っておくぞ」
「わかった」
少ない荷物をショルダーバッグに入れながら、シルフィーモンはゴーグルの裏で祈るように目を閉じた。
(今、美玖の容態に変わりはない。だが……)
いつ、悪化するかもわからない。
そう医師から聞かされている。
弾丸を取り除く事に成功はしたが、ダメージもあるため後遺症の可能性が残るかもしれないとも。
ぎゅ…とショルダーバッグを握りしめる。
(美玖……どうか、目を覚ましてくれ)
ーーーー
病院の一室、とある病室にて。
美玖は、今も意識不明のまま眠り続けていた。
心拍(バイタル)は依然として低値を維持している。
この時、美玖に何が起こっているのか誰一人として窺い知ることはできない。
…………
ざわざわざわざわざわざわざわざわ………
ざわざわざわざわざわざわざわざわざわ……
黒という黒で塗り潰されたような闇。
波の音のように、無数の誰かが囁き合う声が反響するような音。
(……わたし……)
その無数の音に悪意を、敵意を感じて、身をよじる。
……「身をよじる」?
そこで美玖は「目を開いた」。
こぉぉぉおおおおお………
ぬるく、生臭い潮風が頬をなでた。
背中に濡れて温かい泥の感触。
それを不快に思いながら、美玖は身体を起こした。
「ここは……?」
そこは、何処かわからない海岸だった。
暗く雲が立ち込める空には日の光がなく、海も墨のようだ。
「ここは…海?」
さっきまで、自分は何をしていたんだろう?
そんな事も思い出すことができず、もやがかった思考のまま身体を起こす。
なぜ自分がここにいるのかも、そもそも自分が最後にどうしていたかもふわふわとしている。
「なんだかここ……気持ち悪い」
墨のように黒い海面に、不安を覚える。
その時、海面のとある場所が、ぶくぶくと泡立ちだした。
最初、それは美玖のいる海岸からは視認できないほど小さいものだったが、やがて。
ザバァアア……!
「あれは!?」
海面が山のように盛り上がり、そこから現れたものに先程までもやがかったような意識が叩き起こされる。
海上に響き渡るおぞましい咆哮。
暗いにも関わらずそこにいるとわかる存在感と巨大さ。
それは、蝙蝠のような翼とタコの頭を持った名状し難い巨人の様相をしていた。
(あれは…デジモン?)
反射的にスキャンをしようとして気づく。
ツールはおろか、デバイスも身につけていないことに。
「嘘っ!?」
思わず声が出た。
そして、改めて自身の格好を目にする。
今の美玖は患者が着る手術用のガウン姿になっていた。
…逆に言えば、それ以外のものは何も身につけていない。
今の美玖は丸腰も同然の、無防備な状態だった。
…そのような状態だと確認したことで。
「ああ……あ……」
恐れが、不安が。
そうだ、薬。
薬は?
ガウンをまさぐるが、そんな物を持っているわけもない。
グォォォオオオオオオオ!!
「!!」
"巨人"がより大きな咆哮をあげた。
サイレンのような不快感の伴うそれに、美玖の不安や恐れはたちまちピークを迎えた。
「いやあああっ!!」
走り出す。
どこへ、など考えない。
ぬかるんだ地面の上を素足で走るため、足がめり込む感触が気持ち悪い。
額を脂汗が伝い落ち、ただひたすらそこに地面があるからと言わんばかりに足をばたつかせる。
「はあっ、はあ、はあっ、はっ」
…暗闇に近い空の下、自分の周り以外の周囲が見えない視界。
精神安定剤もなければ傍らに誰もいない。
(助けて、助けて、助けて!!)
涙が溢れる。
なぜ自分はこんな所にいるのか?
なぜこんな怖い目に遭わなくてはいけないのか?
頭の中で思考が浮かんではぐるぐる回って消えていく。
今まで支えられたからこそ維持していたものが、隠されていた脆弱さが表に表れる。
今の美玖を助けてくれる者は誰もいない。
「あぐぅ!」
ぬかるみに足を取られた。
顔から泥へ突っ込んで、顔から下のほとんどが泥にまみれた。
「うう…う…」
口の中に入った泥にうめき、吐き捨てながら立ち上がったところで前方に見えるものに目を瞬かせた。
「あれは…」
それは、村だった。
牧歌的なものすらないほど小さく荒涼とした。
ーーーー
早くも、三日経ち、シルフィーモンの端末が鳴った。
「そろそろ私は行く。後の事は探偵アグモンに頼んであるので、大丈夫だと思うが」
「しるふぃーもん、ほんとうにいっちゃうの?」
「……すまない」
「行クノハイイガ、死ヌナヨ」
「わかってるよ」
……
指定されたデジタルポイントへ入る。
そこにはすでに三十体を超える数が集まっている。
成熟期が多いのは、元々デジモンとしての通常の限界ゆえだろう。
「今回揃ったのはお前達だけだな?」
デジタルポイントの一角から姿を現したのは、黄金の装甲にも似た鎧を纏った青い肌の竜人のようなデジモン。
ロイヤルナイツの一人、マグナモンだ。
マグナモンは集まったデジモン達を見回しながら続けた。
「では諸君、今回は第一召集という事で今集まってもらった者に任務の説明と、希望者にはシフト制の案内をしている。後者については、当初予定のなかったが我らが同志ガンクゥモンからの提案を取り入れた」
デジモン達は互いに顔を見合わす。
「今回の任務は我らが君イグドラシルからのメッセージにある通り、デジタルポイントを通じて侵入してくる人間達の殲滅だ。最近彼らについてさらに有力な情報が入ってくる期待があるゆえ、拠点捜索は人間側の警察機関に任せ、こちらは追加指示があるまで防衛に専念することとなる」
「諸君らは指定されたネット空間で待機状態だ。シフト制をとった者には個別で座標送信とプログラム言語による『転送』の術式が送られる。待機の合間は鍛錬を怠るな」
マグナモンが質問者がいないかと面々を見渡すと、そのなかに挙手された手を見つけた。
「シフト制についてだが質問して良いか?」
「お前は……」
シルフィーモンだ。
マグナモンは促す。
「シフト制と言ったが、リアルワールドで人間達が使っているシフト制と同じ仕様と捉えて良いのか?時間や日数についての選択もあるだろう?」
マグナモンはその問いに対し、手元に書類を出すと目を通しながら答えた。
「概ね同じと思って構わん。報酬もその分変動はするが、功績を出せば出す分のものは出そう」
他には?と見回すマグナモン。
すぐさま別のデジモンが挙手する。
「相手は人間だろ?なぜ俺たちデジモンから戦力を募る必要があるんだ。同じ人間をぶつけりゃ良くないか?」
「………彼らの装備にはデジタルワールド由来の素材も使われている。二週間前、メタルエンパイアが所有していた鉱床の一つが占拠されていた報せが届いたことからもそれが窺える」
それを聞いて一部のデジモン達は声をひそめた。
メタルエンパイアの組織としての規模と強力さは知られている。
「それのみならず、奴らは肉体を何らかの方法で強化している。ただ吹き飛ばす、蹴り飛ばすのだけでは意味がない。必殺技で容赦なく消し飛ばせ」
その言葉にシルフィーモンはうなずいた。
「他に質問は?」
「デジタルポイントの移送に関してだが、そちらからの座標によって動くのか輸送手段が来るのだろうか?」
「それに関しては、バルブモンを数体派遣する。デジタルワールド側のデジモン達を先に拾い上げてからになるが、それまで各自準備やコンディションの調整を怠らぬように」
質疑応答の後は、マグナモンによる個別相談。
早速シルフィーモンが呼ばれると、マグナモンは彼を見上げた。
「エジプトの件ではアヌビモンであったデジタマ確保のため働いたと聞いたが、今回の作戦に関しても世話になる」
マグナモンは続ける。
「それで、シフト制希望ということだが、具体的な希望日時は?」
シルフィーモンはマグナモンに伝えた。
希望として、美玖のいる病院の休院日に当たらぬ曜日のうち二日分の休日と、10時間勤務。
緊急出動にも応じると。
「なるほど、その件は後日組んでおこう」
マグナモンは送信を終えると、改めてシルフィーモンを見た。
「個人的な質問をしても良いか?」
「私に…?」
「探偵所所長の五十嵐美玖についてだが、彼女の状態はそれほど思わしくないのだな?」
「……ああ」
シルフィーモンの返答に、マグナモンはしばし沈黙を守る。
「……そうか、心苦しいが、作戦が開始次第よろしく頼むぞ」
ーーー
ふらつく足取りで村へと歩く。
途中の道に立つ看板が目に入った。
「……ここに、人が住んでいるの?」
つぶやきながら看板を覗くと、デジモン文字が書き付けられている。
「字がすごくかすれていて、読めない。イ……マス?」
かなりの年月が過ぎたものなのか、泥のような黒いものに汚され、お世辞にも薄暗い空の下とても読みにくい。
看板が示す方には小さな村。
なだらかな丘を下り、二キロほどの距離を歩いてその村にたどり着いた。
ともあれ、ここがどこか、あの海にいたモノが何かは聴くべきだ。
そう思った美玖だったが、着いた村の様相を見て困惑の表情を浮かべた。
「なに…ここ……」
そこは、村というにはあまりにも寂れていた。
こじんまりとした木の家だが、どの家も朽ち果てていて人の気配がない。
家畜が飼われていたのか囲いがあるが、中はもぬけの殻だ
空気は潮臭く、およそ人が住むには心地よくのない雰囲気すらあった。
(……ここ、人がいない?)
廃村だろうか?と見回す。
村全体は意外にも広々としていて、その中心はちょうど広間になっている。
そこで、美玖は人影が固まっているのを見つけた。
「良かった、人がいた!」
家に人の気配がなかったのは、おそらく村全体の集まりがあって外出していたのだろう。
そう思って、村の中央へ近づいていく。
「…………」
「……………」
「……」
近寄って、そこで美玖は潮臭さと共に魚のような生臭さが漂うことに気づいた。
その大元が、村人と思しき人影らであることにも。
だが、デジモンにも、近寄りがたい体臭を放つものはいる。
看板のデジ文字からして、きっとここはデジタルワールドなのだろうと美玖は思っていた。
それが間違いだとしても。
「すみません!」
美玖が声をかけると、人影が一斉に止まった。
まるで一時停止機能を押されたビデオ映像のように、ぴたりと。
それに気味悪さを覚えながら、美玖は構わず尋ねた。
「すみません、ここはデジタルワールド…ですよね?迷い込んでしまったようで、もし良ければ話を……」
"それら"は、一斉に美玖を振り向いた。
人影だと思っていたものは、墨のように黒いモヤに覆われた人と魚の合いの子のような姿をしていた。
ギラつく目が一斉に美玖を見た後、一人、いや一体が言った。
「……光……」
「え?」
戸惑う美玖をよそに、彼らは美玖へ近づいてきた。
ぺたり
ぺた、ぺたり
水かきのついた足が一歩、また一歩と美玖へ距離を詰める。
ここで美玖は彼らの自身を見る目が異常であることに気がついた。
理性の伴わぬ、狂気に満ちた視線。
「光、光だ!」
「花嫁、おでだちの、花嫁!」
「子ども、産ます!俺達の子ども、産ます!」
「花嫁が、来たぞおおおお!!!」
どっと彼らは美玖へ突進してきた。
涎を垂れ流し、獣じみた声をあげながら走るその姿に美玖は悲鳴をあげた。
「きゃああああああああ!!」
元来た道を引き返すように走り出す。
背後で、数十を超える狂気の群れが押し寄せてくる。
「花嫁!花嫁!花嫁!!」
(花嫁って何!?何かがおかしい!)
美玖は異様な違和感を覚えた。
彼らは本当にデジモンだろうか?と。
デジモンには性別はない。
どれだけ魅惑的な肢体を持とうと、それらは全てガワのようなものだ。
かろうじてあるとすれば、その性格、内面的なものが男性的か女性的かくらいか。
デジモンの繁殖は転生に近く、寿命が近づいた時自身のデータの一部をデジタマに変換する事で次の世代を残す。
そう教えられていた。
それだけに、自身を"花嫁"と呼び追いかけてくるその姿が異様だ。
「な、何か、変、だ…!」
ここは、デジタルワールドではないのか?
捕まればどうなるか。
おそらくその場で凌辱が始まるか、さもなくば……。
想像したくないものが頭をよぎり、冷たいものを背筋に覚えた。
(それだけは…どうにか、どうにかしないと!)
その時、手元に強い光が生まれた。
「あ…!」
手元になかったはずのもの。
以前に、呪われた館でファントモンに追い詰められた時に弓矢に変化したもの。
ホーリーリングが。
「…仕方ない!」
振り向き様、その弦を引いて溜め始めた。
稲妻のような光が、矢のような形状となってつがえられる。
「止まりなさい!さもなければ撃つ!」
しかし、その牽制もむなしく異形達は美玖へ迷う事なく迫ってくる。
真っ先に詰め寄った奴に、美玖は矢を放った。
「グオオオッ!」
胴を撃ち抜かれたモノがたちまち闇色の粒子となって四散する。
少し胸は痛むが正当防衛と割り切り、唇を噛む。
それでも他のものは怯むどころかさらに走ってきた。
一体、さらに一体。
光の矢で撃ち抜かれたものは四散するが、それよりも数が多い。
「いつの間に、増えて…!?」
気づけば、村の広間にいたよりも"彼ら"の数は増えていた。
数十体どころか、百体を優に超えている。
それら全てが自分を狙っている。
飢えて狂った、ケダモノの目で。
「どうすれば…!」
その時である。
ピィィーーーッ!
視界の端を金色の小さな影が横切る。
それは、美玖と"彼ら"の間をさえぎるように通り過ぎて、美玖の頭上を旋回した。
目を瞬かせる。
「………鳥?」
鳥は、暗闇にいてわかる程に金色に輝き、赤い双眸を美玖に向けると中空飛行で飛んでいく。
まるで、美玖を誘うように。
一瞬、その様子にぼうっとしかけたが気づけば再度"彼ら"が接近しようと走ってくる。
迷う猶予は、ない。
構わず一体を撃ち抜くと、美玖は金色の鳥の後を追って、走った。
ーーーー
戦いは熾烈を極めた。
アラームと共に、幾何学的な形状をしたバルブモンのボディからポッドが幾つも射出される。
デジタルポイント内の地面に落ちると、そこからデジモン達は一斉に飛び出した。
相手である人間の数は半端なものではなかった。
どこから捻り出したのかと言わんばかりの人数。
その数、実に600人。
いち組織としてはあり得ない数だ。
だが、その仕組みはすでに判明し、デジモン各々へ伝えられている。
曰く。
「向こうにはハッカーがいる。彼らは独自の手法でデジタルポイントやデジタルワールドへ『多重ログイン』をしている」
アバターを作成し、数百体単位にコピーした者を送り込むやり方だ。
デジタルポイント及びデジタルワールドがネットワークの世界である事を利用した戦力といえる。
こうなると、デジモンからなんらかの方法でハッカーの精神にアクセスし、そのニューロンを焼き切ってでも元を絶たない限りいくらでもアバターは湧くのだ。
そして、このアバター達は個別に動ける。
デジモン達に対して、この戦法は一定の効果を得てもいる。
無制限に補充の利く歩兵が湧いて出るようなものなのだ。
戦意と士気、どちらも殺ぐには効果的。
「くそっ、キリがねえ…」
何度目かわからない防衛を終えて、デジモンの一体がぼやいた。
その傍らでシルフィーモンも肩で息をする。
休息のため後列へ下がった彼を複数の視線が迎えた。
「よう、そこのあんた。前の前線じゃ世話になったな」
そう言いシルフィーモンを手招きしたのは、バイザーの付いたヘルメットに全身を武装したケンタウロスのようなアサルトモンの一体。
投げてよこされたそれをシルフィーモンは受け取った。
焼けば肉料理のような味わいのニクリンゴ。
軽く熱を通されたそれをかじれば、リンゴの見た目からは想像もつかぬ生姜焼きの味と香りが口の中に広がる。
デジタルワールド特有の食べ物の一つだ。
「今回の戦力はかなり厄介みたいだったな、アバター共は何人いた?」
「600人」
「ヒュー!…ゾッとしないねえ!」
今回は間に合ったが前線は崩壊寸前だった。
広範囲と高火力を備えたサイボーグ型デジモン達による一斉掃射が功を奏した。
「そちらは次の前線に出る予定か?」
「おう、やたら湧くアバター共には閉口するが報酬はきっちり約束してくれるからな」
事実、イグドラシルは己のメッセージを偽ることはなかった。
どう計測しているのか定かではないものの、確かな高額の報酬をきっちりと出してくれていたのである。
「しかし、イグドラシルもアレだねぇ。俺達を働かせるのはいいが、いつまで消耗戦をやらせる気なのだか」
「……三ヶ月後、リアルワールド(こちら)にて拠点が割れなければ攻撃を開始、か」
具体的にどう攻撃か、など問うのはおそらく愚問。
噂ではそのための要員を究極体から募っていると聞いている。
究極体や上位の完全体を投入し、各地での攻撃を行わせるのだろう。
(……それは、阻止せねば)
ニクリンゴをかじり終えて、シルフィーモンは立ち上がる。
「お、もう行くのか?」
「ああ」
「俺達もじきに行く。幸運を!」
今日はこちらでまだやるべきことがある。
それに集中し、終えてすぐ美玖の見舞いへ。
シルフィーモンは思いながら、再び前線へと戻った。
ーーーーー
永久の闇に閉じ込められて幾数千。
戦いは終わったのだろうが、自身はその終わりを見ることもなく彷徨し続けている。
ーー今、デジタルワールドの行方は?
一筋の光すら射さぬ闇の中、片腕に留まった小さな命だけが唯一の救いだった。
でなければ、とうに狂い果ててもおかしくはない。
…むしろ、その方が幸せなのかもしれないが。
なにせ、今となっては肉体を構築するデータは失われた、魂だけが残った状態なのだ。
終わりのない彷徨に幾度めかももはや数えられぬため息を漏らした時。
ーーん?
今まで光ひと筋もなかった闇にぽつんと、光が見えた。
薄桃色と、その背後から輝くオレンジゴールド。
誘蛾灯に惹かれるように、そこへ白い外套を翻し向かう。
ーーあの光は、一体。
片腕に留まらせていた小さな命がぴぃ、と鳴き、飛び立つ。
さながらノアの手から放たれた鳩の如く。
ーーあの光へ導いてくれ、フレイア。
もし魂だけとなったこの身にやるべき事が新たに生まれるのなら。
光に向かいまっすぐ飛んでいく愛鳥の後ろ姿を追って、自身も光ある先へ飛び込んで行った。
そこは、闇の領域。
デジタルワールドでもダークエリアでもない、未だに残された狂気の地。
その地に迷い込めば最後、たとえどれだけの運を持った人間であろうと無事には出られぬ領域。
ーー暗黒の海か。
その名は知っていた。
邪神のダゴモンを支配者とした冒涜的な世界。
自身が目指した光は、ここにあるのか。
白鳥の外套をはためかせ、愛鳥の帰還を待つことにした。
ーーーー
もう幾度となく防衛での参戦を繰り返し、身体はひどく痛む。
シルフィーモンはその痛みに耐えながら、デジタルポイントを通って美玖の病院へ向かった。
病院の利用者がシルフィーモンとすれ違い、ぎょっとした顔で彼を振り向く。
…腕の白い毛並みや翼は戦いの土埃やデータの残滓に汚れ。
下半身の羽毛や脚部にはわずかに血がこびり付いていた。
受付まで行くと、看護師があ、と小さな声をあげる。
「こんにちは。五十嵐美玖さんへの面談ですね」
「ああ」
「手続きは了解しました。それと……、一度、お身体を綺麗にしてからまたいらしてください」
「え?……ああ、そうか。すまない」
あまりデジモンの来院者がいない事もあってか、看護師達もシルフィーモンの事をすっかり覚えたようだ。
苦言を呈した看護師に頭を下げ、シルフィーモンは一度病院の外へ出る。
「…すっかり忘れてた。仕方ない、身体を洗ってこなくては」
幸い場所は聞いてある。
スーパー銭湯だ。
デジモン専用の個室に入り、ゴーグルとHMD、上に着ていたラバースーツのようなインナーを脱ぐ。
特に意識をしているわけではないが、誰かの前で脱ぐというのは落ち着かない。
久しぶりに、一人になった気がした。
「……こんなの、いつぶりだ」
探偵所という拠り所を得て。
気づけば仲間も増えて。
騒がしくこそあるものの、ご近所付き合いも増えて気づけば。
それが楽しいと思える自分がいた。
以前までは、他のデジモンや人間に興味などなかったはずだったのに。
(彼女に情をほだされたかな…)
初めて会った時は、後先考えず無茶をする人間だと思っていたのに。
今ではただの雇い主以上の存在になってきている。
どう言い表せば良いかと問えば…例えば、家族のようなもの、とか。
(こんな気持ち、初めてだ)
毛についた汚れや血を洗い流していく。
見た目はごく普通の血だが、生身の人間のものだけでなく、ハッカーによって生み出されるアバターのものもある。
概念的な血液なのだ。
それが排水口へ流れていくのを見て、目を閉じる。
(…どうすれば)
真っ赤な、血。
彼女の胸を濡らした血の赤。
(どうすればいい?)
そんな思いを抱えながら、浴場を出て身体を乾かす。
体毛の多いデジモン用に用意されたドライヤーも、今ではもう慣れた。
そこへ、端末がけたたましく鳴る。
「何だ?」
送信元を見れば美玖の病院。
慌ただしく端末を手に取り、受話器モードにした。
「シルフィーモンです、どうしましたか?」
相手は先程受付にいた看護師の女性。
切迫した声で彼女は言った。
『すみません、五十嵐美玖さんですが………』
「どうしました?」
『先程容態が急変して…、呼吸困難の状態に』
「!?」
胸騒ぎがする。
『現在、担当医が対応中ですので、面談の件ですがすぐには…』
「いえ、そちらへ向かいます!!」
……………
慌ただしく馳せ回る看護師。
状態を確認し、美玖に様々な医療器具を繋ぎ、指示を送る医師。
聞こえますか、と。
●●できますか、と。
看護師の繰り返し呼びかける声が病室に木霊する。
おびただしく汗が流れ落ちていく。
気道確保のためのパイプが外れんばかりに、胸が激しく上下運動を繰り返す。
接続された心電図に表示中の心拍数(バイタル)は乱れ、低値と高値を不安定に繰り返す。
今、美玖の身に何が起きているのか?
……………
ーー
「はぁっ、はあっ、はあっ…!」
押さえる胸は激しく脈動する。
近くにいた者に聞こえるのではないかと思うくらい、激しく。
「花嫁え…!」
「俺達のためのぉ、子ぉおお」
不気味な叫びが、彼らが近くで徘徊している事を教えた。
物陰に身を隠しながら、美玖は走り出す機会を窺っていた。
金色の鳥を追うのと、背後から来る魚人のようなモノ達から逃げるのを両立しては足が何本あろうが足りない。
ガクガク震える足を押さえながら、弓を持つ手を握りしめた。
鳥は、大きく8の字を描きながら飛び回っている。
こちらがわかっているのだろうか?
(走るのは、足の疲れが取れてから…!)
ひた、ひたりと、足音は周辺に響いている。
今のところ、魚人共は鳥には何の関心も示していない。
興味をそそられる程の存在とは捉えていないのだろう。
もう一度物陰から覗くと、一体の魚人がすぐそばを通り過ぎた。
(…どう動く?)
弓を持つ手を握りしめながら、様子を窺う。
近くを歩く魚人は、周りをギョロギョロとした目で見回しながら不恰好な姿勢で通り過ぎる。
足の疲労が落ち着いたのを確かめて、美玖は物陰からその姿を視界に納めつつ弓を引いた。
光の矢が魚人の背中を貫いてすぐ、美玖は物陰から飛び出した。
それに気づいた魚人達が声をあげる。
「い"だぞぉぉおおおおお!!」
………走る。
「はぁ、はぁ、はぁ…!」
何もない黒の闇を、
「はぁ、はぁっ、はあ、はっ、はっ……」
走る。
前方を行く金色の鳥を追って。
何も履いていない素足が何かに引っかかって擦り切れ、血が出た。
だが止まれない。
止まるわけにいかない。
「はぁ、はぁっ、はっ……待って……!」
そう、止まるわけには。
「ウウウゥゥゥウウウ……」
「追え…花嫁…俺達の、花嫁…」
………
緩やかに下がる脈拍(バイタル)。
「美玖!!」
………
真っ暗な中を走り抜け、美玖は開けた崖の上へ出た。
「ああっ…!」
金色の鳥はどこにもいない。
目の前に、最初に見た時と同じ墨のような黒い海面と十数mもの高い崖下。
無数の目が光る海面から目をそらすように、背後を振り向けば。
………
冷たいその手を握りしめ、心電図を睨み。
下がる一方の心拍数にただただ祈るように手を強く握る。
「美玖…!」
………
振り返れば、数百を超える飢えた眼差しが群れを成して自分に迫っていた。
もう逃げ場はない。
自分は何のためにここへ逃げたのか。
絶望的な表情が自ずと浮かぶ。
「あ……ああ、あ……」
………
「彼女はもう……」
「いや、まだ、もう少し祈らせてください!!」
…………
「ウウウウ!!」
「俺達の子を産め…孕めえっ…!」
「……っ!!」
追いつかれた。
…………
ーーーーピッ
ーーーピッ
ーーーーピッ
…………
「いやああああああああああっ!!!!」
黒い大きな影のような群れが一斉に迫った。
冷たくヌメヌメした身体が美玖を押し倒し、術衣を引き裂く。
女性の腕力以前に、多勢に無勢。
視界いっぱいが魚人共に覆い尽くされ、下半身はほぼ裸同然の状態に暴かれる。
「ぐぉおおお!」
「やめて、お願い、やめて!!」
…………
「美玖、帰ってきてくれ!……美玖!!」
……………ピッ
………
吠えながら一体の魚人が美玖の上へ乗り上げた。
その時である。
ひゅうっ
風を切る音と共に、美玖の上へ乗った魚人の身体が硬直した。
「………!?」
「が……あ…っ……」
見れば、鳥の頭を模した鏃の矢が一本、その頭部を貫いている。
たちまち群れ全体がざわついた。
ピィーッ…!
あの金色の鳥が飛んできて、美玖の上で硬直したままの魚人をつつきまわす。
その魚人はゆっくり上向けに倒れ、四散した。
「あれは…!?」
美玖は上空に、白く輝く誰かの姿を捉えた。
それは人のように見えた。
鳥の羽を思わせる外套をなびかせ、黒いサングラスのようなバイザー越しに下を見下ろす。
その時、美玖は自身の胸元が熱くなった感覚を覚えた。
「これは…!?」
彼女の胸にボウッと光る、オレンジゴールドの光。
薄桃色の輝きとは違うそれが、上空に浮かぶ人型のそれに向かって強い輝きを放った。
ーーーそうか、この光か。
ゆっくり、人のようなものが抜き放ったのは両刃の剣。
光から目を守ろうと退く魚人達だが、人のようなそれは剣を振り上げた。
瞬時に凍りつく大気。
(寒…!?)
肌を切るような寒さに美玖は剥き出しの肌を守ろうと自身を抱きしめる。
美玖を未だ拘束しようとしている魚人達に向けて、その刃は振るわれた。
ーーー『フェンリルソード』!!
その斬撃は一瞬だった。
美玖の周囲の魚人達はたちまち氷のオブジェめいて凍りつき、そこを剣によって両断されていく。
圧倒的な強さの一端を見せつけるには十分な攻撃だ。
ーーーこの光か。魂だけだったこの身体が、肉体があった頃のように…!
魚人共は美玖に近づけず右往左往した。
……だが。
人型の存在の姿がかき消えたかと思うと再び。
ーー『フェンリルソード』!
絶対零度の冷気を伴う斬撃と共に、一度に数十もの魚人が塵となり舞う。
崖下からこれを見上げていた数百の眼はたちどころに水面下へ消えた。
魚人達は本能的に自分達の目の前に現れたモノが非常に強力な存在である事に気づいた。
だが美玖という存在を前に逃げ出す事も選ぼうとしない彼らへ、高速の斬撃は容赦なく振るわれる。
数十!
数十!
数十!
数多の魚人が四散していくのを唖然と見守る美玖の右肩に、重みが加わった。
慌てて見れば、あの金色の鳥が乗っている。
「…あなたと、あの人が助けてくれたの?」
羽繕いする鳥に尋ねる。
鳥は応えるように、美玖の肩の上でもう片方の翼を羽繕いした。
ーーーほう。フレイアが私以外の者に停まるとは。
ハッとして美玖が顔を上げると、目の前に先程の人型存在が見下ろしていた。
気づけば魚人の姿はどこにもない。
剣を鞘に収めて、その者は美玖に近づいた。
「あなたは……デジモン?」
ーーーそうだ。
その者は微かな笑みを浮かべた。
中性的な容姿にどこか、シルフィーモンの面影を見いだす美玖。
だが、圧倒的な神々しささえあるその姿は、眩しくさえあった。
ーーーダークエリアでの戦いにより、永久の闇に封じられ数千年。久方ぶりに光を見た。感謝する。
「ダークエリア!?」
ーーーしかし、妙だ。貴方は選ばれし子どもではない。にも関わらず、その内に紋章と光がある。…ふむ。
白い布地に覆われた指で軽く自身のあごに触れ、物事を考えるも束の間。
その者は美玖へ歩み寄り、抱き上げた。
「あ…」
ーーーともあれ、ここは暗黒の海。心に闇を見た者が迷い込む魔境。出るとしよう。
「で、でも、私、どうやって出れば」
ーーー心配はいらない。貴方の光を辿らせてもらおう。
そう言った瞬間、人型デジモンの外套の両脇がさながら鳥の翼のように広がった。
そして、高速で空の歪みに向かって飛び上がる。
「……っ」
たちまち地上と海から離れていく。
そこへ、あの悍ましい咆哮。
思わず身をすくませる美玖の身体を、しっかりと力強い腕が支えた。
ーーー心配するな。ダゴモンといえど手出しはさせん。
加速する。
たちまち暗黒の海の主すら置き去りにして、その者は闇を駆け抜ける。
「あ、あなたは…」
ーーー私はどうやらまだやるべき事ができたようだ。…いずれ、また。
ーーーーー
「…………っ?」
目を醒めたと共に、鼻と口に感じる異物感。
どことなく息苦しさを覚えて、それでもなお身体に不自由さを感じた。
(……?ここ、は?)
白い壁と天井。
かろうじて目を動かせば、夜明けの朝日が窓から差し込んでいるのが見えた。
(ここ……病、院…?)
そこで気づいた。
異物感の正体は口と鼻に挿入されたパイプだ。
耳をすませば、心電図の音がする。
(私、どうして、ここに…?)
思い出せない。
最後に何があったか思い出そうとして、すぐ傍らにシルフィーモンの姿を見つけた。
(あ……)
彼は美玖の手を握りしめたまま、座った姿勢で眠っていた。
それを見て、みるみると目に涙が浮かんだ。
あのシルフィーモンに似た面影のデジモンが誰かはわからない。
でも。
(帰って、これたんだ)
「……ん……」
身じろぎし、シルフィーモンが上体を起こした。
「もう、こんなじか……!?」
そこで目が合った。
シルフィーモンが驚く早さで立ち上がり、美玖の手を握り直す。
「……美玖!!」
名前を呼び返そうとして、パイプに邪魔されて上手く言えなかった。
けれど。
シルフィーモンの手がナースコールを押した。
「美玖、良かった…!もう、ダメかと思ってた」
涙が溢れて、こみ上げて。
怖い思いをした後だからこそ、それはたちまち崩れ落ちた。
(……うああああ…!!)
ーーーー
「心拍数も血圧も正常値に戻っています。このまま後一週間ほどは安静にすれば、退院もまもなくでしょう」
医師の診察にシルフィーモンは安堵した。
必要なしとパイプの接続は外され、少しずつだが美玖の回復は快方へ向かっている。
病室へ向かうと、阿部警部が立っていた。
「どうだ?」
「このまま安静にしていれば退院もまもなくだそうだ」
「……そうか」
二人して沈黙の後、阿部警部はシルフィーモンの顔を窺うように聞いた。
「…あの時は本当にすまんかったな、うちの署長が」
数日前。
シルフィーモンはE地区の警察署まで出向いた時、署長に美玖の事で責められた。
『なんで美玖ちゃんはこう毎度、デジモンにばかり…!良いか、あんたらデジモンは美玖ちゃんの人生を滅茶苦茶にした!台無しにした!狂わせた!私ゃ絶対許さんからな!』
「五十嵐のやつ、警察署にいた頃は一部じゃアイドルみたいに扱われてたからな…署長にいたっちゃ結構なもんだった」
思い出し、苦笑いしながら阿部警部は詫びる。
「お前も気に負わんようにな、シルフィーモン。悪いのはお前じゃない。それは皆わかってるからよ」
「………ああ」
「五十嵐は良くも悪くも、"ほっとけない"タイプだからな。……もうじき昼だ。なんか奢るぞ」
ーーー
静かな病室の中。
安らかに寝息をたてる美玖の傍らにぼんやりと。
白く輝くそれは佇んでいた。
肩に、金色の鳥を乗せて。
謎のデジモンの登場イメージBGMにFF13の『閃光』を是非。