◇
たとえ綺麗事だと言われようと。
皆が平和で笑える世界に憧れる。
己にはそうできる力があるから。
もし実現不可能だったとしても。
世界から涙を無くせたらと思う。
己にはそれだけの力があるから。
思えば僅かにそれだけのことだ。
その為に自分達は作られたのだ。
そう在れという願いが自分達だ。
故に模造、きっと全てが仮初め。
この夢も理想も見据える未来も。
今在るこの命も作られた紛い物。
だとしてもそれは間違いなのか。
作られた虚像だからダメなのか。
理想郷を願ってはいけないのか。
不当に歪められた偽りの伝説は。
間違い故に正されるべきなのか。
違う。決してそんなはずはない。
だって自分が望み続けた世界は。
十闘士(じぶん)が望む世界は。
きっと誰もが夢見るような──
夜道。客引きの声が響く駅前通りを堂々と歩く小柄な影がある。
かつてオタクの聖地と謳われたAKIHABARAの駅前通りだ。
「……ったく」
ゲームセンターの前、夜の闇に照り映える壁に背中を預けながら軽く舌打ちする。
昨日から深々と降り続いている霧雨。特に傘を差す必要性こそ感じないながらも、それによって水分を含んでこめかみに纏わり付いてくる前髪を鬱陶しく思う。
薄く茶のメッシュが入ったショートカットに150cmあるかないかの華奢な体。目鼻立ちこそ整っているが、周囲を往く群衆を忌々しげに見つめる視線と醜く歪められた口元がその端整さを打ち消している。果たしてそれは15歳前後の少年か少女か、一見して性別を特定できない。
「こらこら、うら若き娘がこんな時間に出歩くものじゃありませんよ」
「うるせェよ。あと娘じゃねェ」
建物と建物の間に位置する細い空間。およそ人間が身を潜められるとは思えない場所から聞こえた軽やかな声に顔を上げた少年、もしくは少女は吐き捨てるようにそう告げた。同時に両目にかかる前髪を実に鬱陶しげに払いのけると、夜の闇にあって変わらず色素の薄い瞳が露となる。
たとえ少女であったとしても、そのぶっきらぼうな返しは百年の恋も冷めようというもの。しかし路地裏の声の主は気分を害した様子もなく、ただ小さくクククと含み笑いを響かせた。
「ンだよ、呼び出したのはそっちだろうが」
「それもそうか。……いや悪い、久々に見たお前に見惚れてたんでな」
「殺すぞ」
おお怖い。躊躇わず告げられた強烈な言葉に声の主は肩を竦めたようだ。
手招きするように路地裏から出された片腕は、確かに人間のそれではなかった。
「まあ久し振りに会ったんだ。茶でもしばこうぜ」
「いつの時代の表現だよ……」
言いながら誘われるままについていく。雨夜のAKIHABARAに風情など感じない。
大通りにひょっこりと顔を出したそれはどう見ても人間とは異なる生命体であったが、そんな彼の姿をこのAKIHABARAで気にするような人間は恐らくいまい。
無遠慮に往来を掻き分けて大通りを進む。互いに慣れたもので特に言葉を交わすことはない。互いに互いを世に言うパートナーだと認めており、有事となれば協力し合うことも吝かではないが、同時に普段からべっとりと行動を共にするような関係もまた自分達の本意ではなかった。
そもそも指針が無いのだ。なればこそ適当にもなろう。
人間とデジタルモンスター、本来なら交わらないはずの両者。この時点で自分達以外に人と共にいるデジモンを彼らは知らない。故に見本も手本も無い異種族の関わり方など、二人にはわからなかった。
デジタルモンスター、縮めてデジモン。遡れば半世紀以上前から、その存在は数多流布された都市伝説の中で語られている。
言わば前世紀に巷を騒がせたネス湖のネッシーと同じ。当のネッシーは今世紀初頭に虚像であったと結論付けられているが、それでも当時の皆にとって間違いなくそれは恐竜時代の生き残りとして世界に“いた”のであり、そこに疑いの余地はない。白亜紀の首長竜プレシオサウルスとして数多描かれるネス湖の怪物の姿は、今なお人々の心に焼き付いて消えることはないのだから。
彼らデジモンも同様、実在を確定されることはなく不確かな流言の中にのみ存在する彼らを追う者は多い。最初に存在を叫ばれ始めてから半世紀強、インターネット上では今も見たことの無い巨大生物をデジタルモンスターと結び付ける声がある。
始まりは前世紀末、同じ首都に位置する光ヶ丘、即ち現在のHIKARIGAOKAを突然の災害が襲った。凄まじい地鳴りとそれに端を発する大火災、夕刻の買い物客で賑わう駅前は炎と煤に塗れた地獄に変わった、そんな未曾有の大災害。だが実際、その時間に地震があったという記録はなく、また避難した群衆の中には立ち昇る炎の向こうに街を破壊して回る巨大な生物の姿を見たという言葉を遺している者も多い。奇しくもその災害が起きた時期、即ち1999年7月と重ねる形でその生物を、もしくは大災害そのものをいつしかアンゴル・モアと呼ぶのが通例となっている。
所謂UMA(未確認生物)である。現代で言うところの光ヶ丘大災害だけでなく、ネッシーやムケーレ・ムベンベ、ビッグフットといった数多の未確認生物が人類の文明と科学の発展に伴いその実像を暴かれていく中、それでも虚構だと明言できない巨大生物の姿が世界中で確認されている。
地中海沿岸で奇怪な生物のような戦車のような存在から砲撃を受けたと某国の司令部が発表した。
北米大陸では眩い雷光を纏って天を駆ける、街をも覆い尽くさんばかりの巨大な鳥が目撃された。
霧に覆われた湖で歌声を聞いた英国夫婦が目にしたのは、まさにネッシーの如き影だったという。
中国奥地で竜を模した二体の人型が相争っていたのは著名だが、政府からの公式発表は未だ無い。
パンダやゴリラといった今では保護が叫ばれる動物達が、20世紀初頭までは未確認生物として扱われていたのは有名である。だが現代で存在を議論されているそれらはパンダやゴリラとは明らかに異なっている。砲撃にしても歌声にしても自然界では有り得ない特質を持つ彼らは、概して人間に近しい知性を持つことが容易に予測できた。インターネット上では今も彼らの正体が盛んに議論されており、それはいつしか最初にその存在が確認できた光ヶ丘大災害、即ちアンゴル・モアと絡める形で異世界、もしくは天上よりの侵略者だなどと謳われるようになっていた。
デジタルモンスター。気付けば定着していたその名は、インターネット上の住民にとっては電脳世界からの侵略者を意味していたのである。
「ネット民は相変わらずアホだな。ワロスワロス」
AKIHABARAのネットカフェでカップル用の個室を借りた。受付は愛想の無い若い女で、適当に偽造した保険証で18歳だと示したらそれ以上何も言われなかった。むしろ決して発育の芳しくない自分でも騙し切れるものだと逆に拍子抜けしてしまう。もしくは大きなぬいぐるみを抱いてネカフェに入ってくる変な奴、関わらない方がいいと思われたか。
どちらかと言えば後者の方が気が楽だ。そのぬいぐるみは今、隣の椅子に座って脳天気にもインターネットに興じているわけだが。
「何だよ、その変な口調は」
「鏡花……俺は悲しいぜ、我が嫁たるお前にその程度の常識が備わってないたぁ」
「誰が嫁だ殺すぞコラ」
爪を立てて器用にキーボードを叩く輩の首に横から腕を掛けて絞め上げる。
「ぎ、ぎええええっ! は、離せっ!」
人間の腕で絞められたところでデジタルモンスターである彼は屁とも思わないだろうことを思えば、結局はじゃれ合いである。
15歳の鳳鏡花(おおとり きょうか)にとって生まれた時から隣にいる非人型は日常そのものであり、風説の中で叫ばれる非日常の化け物と彼が繋がることはない。一方で父も母も知らない存在を自分だけが知っている事実は、どこかで自らが選ばれし存在なのではないかという自尊心にも少なからず繋がっていた。
メイス。そう自称する電脳生物は鏡花のパートナー。それ以上でも以下でもないのだから。
「……で、今日は何なンだよ」
「ん……っと、これだ」
どこから取り出したのか、メイスは辞書のように分厚い本をドンと机の上に置いた。
随分と古びた本である。そもそも紙媒体の書籍など現代では途絶えて久しいのだが、それ以上に鏡花の目を引いたのはその表紙に刻まれた文字だった。外国語など適当に授業を聞き流している英語以外に一切馴染みの無い中学生の自分でもわかった、これは恐らく人間の言語ではないということぐらいは。
「もの知りブックだ」
「何だよそれ?」
「んー、何て言えばいいんだろうな」
鋭く伸びた両の爪。明らかに人間とは違ったそれを用いつつメイスは器用にその本を開き、一枚一枚ページを捲っていく。
捲られていくページにはそれぞれ似たような文字と奇怪な人型と獣型の姿が描かれているようだった。
「これがあれか、所謂デジモンって奴……」
「そう、俺の仲間なんだけど」
「……だけど?」
先を促すように言うと、彼は困ったように鏡花を見返した。
「もの知りなんて言いつつ足りないんだ、これ」
そう言ってメイスはあるページを開いて鏡花の眼前に突き付ける。
そこに記された文字だけは鏡花にも読むことができた。というより、どういうわけかそのページだけ明らかに人間の言語、加えて言うならどう見ても日本語が用いられていた。先のページとは異なり人型と獣型の入り交じった複数のデジタルモンスターが描かれたそのページに、それぞれのモンスターを定義付けるように記されたのは端的な一文字である。
つまり炎。風。氷。土。木。
光。雷。鋼。水。そして闇。
「……日本語じゃねえか、これ?」
「よく気付いたな。大した奴だ……流石は俺の」
「うるせェーッ!」
相棒にコブラツイストを仕掛けながら、開いた本を覗き込む。
「オシズカニオネガイシマース」
先のやる気のなさそうな女性店員の声が聞こえて思わず口を押さえた。
「く、苦しい……やめろ、胸の無い胸が当たって」
「殺すぞ。……で、このページがどうしたってンだよ」
「だから足りないんだって言ってるだろ」
「だから何が足りないって……」
切れかかった蛍光灯の向こうを見据えながら声を顰める鏡花。
書き記された十体の人型とも獣型とも取れない者達。更にその横に描かれた剣とも銃とも判別できない厳めしい武器。それらをメイスは長い爪でツウとなぞっていく。その行為に果たして何の意味があるのか、鏡花にはまるでわからなかった。
けれどメイスが小さく呟いた言葉だけは聞き逃さない。
「─────」
風は、炎に。
氷は、剣に。
土は、鎧に。
木は、龍に。
自分のパートナーデジモンである彼はどこか遠い目で。
故郷に思いを馳せるように、そんな言葉を紡いでいた。
都市伝説で語られ始めるより遥か前、フィクションの世界にデジタルモンスターは在った。
端を発したのはちょうどアンゴル・モアの降臨が叫ばれた前世紀末、アニメとして放映されたデジモンアドベンチャーの存在であろう。そこで描かれた恐竜型や獣型、天使型や悪魔型と言ったバリエーションに富む数多の電脳生命体の姿は、後年ネット上で流布させる怪物のイメージの源泉となっていることは疑い様のない事実であった。
実際、2020年代に静岡もしくは東京で濃霧──俗にデジタルフィールドと呼ばれている──と共に幾度かの目撃例が残される青い恐竜型の怪物は、そのアニメで主人公として活躍したグレイモン、もしくはメタルグレイモンに酷似しているとされた。また一説ではその恐竜型は傍らに人間、それも年端も行かぬ少年を従えていたという報告も確認されており、その在り方はまさしくデジタルモンスターと選ばれし子供の関係そのものであった。
他にもデジタルモンスター、あるいはデジモンアドベンチャーと繋がる怪物の目撃例は枚挙に暇が無いが、それらは当時のファンがこじつけたが故の妄想の産物であり、都市伝説の怪物とは実像が大きく異なるのではないかという反論も根強く、それから半世紀近くが経過した2064年の現在においても、日々ネット上で自称・識者達が激論を交わし続けている。
論争を激化させたのは2033年、某匿名掲示板に現れた元・政府関係者と名乗る人間の書き込みだった。
彼──男性と明言できる証拠は無いが、便宜上こう記す──曰く、前世紀末より先進諸国の間では電脳空間に存在する異世界の存在は周知の事実であり、かつて誰もが夢見た宇宙開発に代わる21世紀の主要産業として水面下で電脳世界の研究と開発が進められていた。日本政府も無論その開発競争に名を連ねていたが、そんな中である一人の科学者が電脳世界に君臨する強大な生命体の確保に成功したことで、我が国はその分野において一躍トップに躍り出たが、極秘裏に研究されていたそれがある理由から脱走した結果、周囲に甚大な被害を撒き散らしたのだと。
他愛の無い陰謀論、一笑に伏される妄想の産物。
だが後年、デジモンアドベンチャーの主人公の名前に由来して“八神太一”と呼ばれることになるその人物の書き込みは、推測が推測を呼び今尚その真偽が語り合われる一大ムーブメントとなった。
大勢の往来する人々で賑わう街を一晩の内に廃墟へと変貌させた光ヶ丘大事変。
そこで目撃されたのは天をも突き得る威容を有する、悪魔のような巨大な怪物。
その怪物による大災害が起きたのは、預言者が謳ったと言われる1999年07の月。
そしてまさしくその年、アニメ「デジモンアドベンチャー」は放映されていた。
偶然にしては出来過ぎていたが故に、陰謀論は加速する。その後“八神太一”を名乗る者は何度か現れたものの、それらは全て別人のなりすましであったことが確認されている。本物の“八神太一”はあの時に現れた自称・政府関係者のみであり、彼はそれらが全て事実であると前置きした上で前述の内容を伝えて去り、その後の歴史に姿を現さない。
だから紛糾するのはその是非ではなく、彼が掲示板を去る前、最後に遺した言葉だけだ。
現生人類はデジタルワールドで生命活動を行うことができないとされる。だから人間そのものを変える必要がある。我々が電脳世界を開拓する、その時に備えるべく人型(ニンゲン)と獣型(デジモン)を一つにする研究が、今も我が国のどこかで続いている──
人間が異世界へ足を踏み入れる為の研究、人と獣を一つにする奇跡。
だがデジタルワールド、かつて我々が憧れた異世界は。
人類にとって新たな開拓地(フロンティア)となり得るのだろうか……?
久々に覗いたまとめサイトは、幾度となくログ化されたコメント欄の日付が最古では四半世紀前というのだから驚かされる。
「……いや、その都市伝説ならもう聞き飽きたし見飽きたンだが」
しかし鏡花の声は冷静である。そんな数十年前の匿名掲示板に記された書き込みは数多の場所で論じられ、今ではネットに生きる者達の常識となっている。
無機質な匿名掲示板に在って“八神太一”の書き込みは取り分け機械的であって、本人が政府関係者と自称している一方、どういった人物かがまるで判別できないとされていた。ただ一つだけ言えるとしたら、彼の文章からは自分のこの書き込みが後年に残ることを既に理解しているような、そんな確信めいたものが感じられる。理解も共感も必要無く、己の言葉を綴ることに意味があるとでも言いたげな、そんな情念だけは確かにそこにあった。
“八神太一”。四半世紀以上前に現れた謎の人物は、果たして何を考えてこれを綴ったのか。
「なあ鏡花ぁ……俺は悲しいぜ、我が嫁たるお前がこんなにも察しが悪ぎえええっ!」
「誰が嫁だコラァ!」
絡み合いながら後ろのベッドに沈む。オシズカニオネガイシマースという声がまた聞こえてきた。
「は、離せ! 嫁入り前の娘がはしたないっ」
「うるせェーッ、オレは男だッ」
語気は強く、一方で可能な限り声は顰めて四の字固めを仕掛けながら言う。
「こ、これを見ろ! もの知りブック!」
「……さっきから何度も言うが、だからこれがどうしたってンだよ?」
先に机の上で広げていた古書。人型とも獣型とも付かぬ十の戦士が記された本。
「少し昔話をしようか。今から遥か過去、遠い昔の話だが」
「長くなりそうだから寝るわ」
ゴロリとそのままベッドに手足を投げ出す鏡花。
「オォイイイイイ! そりゃねえだろ鏡花!?」
在る世界に十体の英雄と呼ばれる者がいて。
彼らは圧政を敷く傲慢の魔王を打ち倒して。
後世を憂い人と獣に分けた己の魂を遺して。
その魂こそここに記された十の属性の戦士。
故に彼らもまた英雄と称されるに相応しい。
そのはずなのに彼らの存在は長らく疑われ。
存在しない偶像と世界から記録を抹消され。
それでも、彼らはきっと、そこにいたのだ。
「……んなこと話しても仕方ねえか、お前には」
メイスはそう言って微笑んだ。気付けば鏡花の反応も待たず半刻ほど話し続けていたらしい。
彼の愛しい相棒は既に夢の中。あどけない少女のような顔で眠りに落ちた鳳鏡花の頬を優しく撫でた。それでも赤子の頃から知る相棒は少しずつでも大人になっているのだと、そんな確信がある。メイスの知る彼らに、この未完の大器は着実に近付いている。
思いを馳せる。久々に熟読し返すもの知りブックは、自分を容易くあの世界へ舞い戻らせた。
最後まで生き残り、宿敵(とも)と呼べる光と決着を付けることを望んだ炎。
あの世界に存在しなかった愛情(おんな)なる概念を水と共に持ち込んだ風。
雪と風、極寒に満ちた死の大地に遥か後代までその威容を目撃され続けた氷。
その豪腕(かいな)で数多の逸話を残し、同族の希望として憧憬を受けた地。
朽ちた巨体を密林に聳え立たせ、無敵の要塞として長らく君臨させてきた木。
「十闘士は確かにいるでやんす……ってな」
そう呟く。ああ、否定する要素はどこにもない。
風は炎に。
氷牙は剣に。
大地は紅鎧に。
樹木は龍脈に。
「カッコ良かったぜ、十闘士(おまえら)は……最高にカッコ良かった」
知っている。
自分は彼を、最後まであの世界で戦い抜いた彼らを知っている。
龍脈を宿す紅鎧を纏い、神炎の剣を携える龍戦士を知っている。
英雄を知っている。ああ、確かにその全てを自分は知っている。
世界を駆け抜けた英雄(ヒーロー)の姿をメイスは知っている。
ずっと憧れてきた、ずっと追い求めてきた。
それが嘘のような奇跡の物語でも、出来過ぎた運命の物語だったとしても。
「希望や愛に満ちた英雄譚(うた)が溢れてるのは、それを皆が願ってるから……だっけ」
遠い昔、そんな願望(うた)を聞いた記憶がある。
自分もそんな風に彼らの背中を追いかけ、いつか共に戦う日を夢見てきた。
だから絶対、英雄(かれら)のことを忘れない。
ある噂が存在する。
西暦2000年より数年の間、折に触れて幾人かが不思議な夢を見たという。
そこは確かに我々の住む日常であったはずなのに、世界から自分以外の全ての人間は消え失せて、代わりに異形の生物が闊歩する世界へと様変わりしている。霊長の覇者であった人類は一瞬で世界の支配権を失い、生殺与奪の全てをそのどこからか溢れ出した怪物達に握られることになる。ただ怯えて隠れて暮らすこと数日か数ヶ月、気付けば世界は元に戻っており、周囲の人間は誰も自分達が消えていた時間など覚えていない。
そして本人もまた同様だ。暫しの時間が経った後、あれは単なる夢だったと思うようになっていた。
考えてみれば当然の話。
雄々しく吼え炎を吐く竜。
大空を舞って風を操る鳥。
巨大な体躯で氷を司る獣。
槌を携え大地を駆ける鬼。
意思を持ち森を統べる木。
そんな奇想天外な生物がこの世に存在するはずがない。だから全ては夢幻、豊かな想像力が生み出した空想の産物。数日間、幾度かに渡って見た夢を現実として認識してしまっていたに過ぎない。そもそも世界中から人間が丸ごと消えたなどという出来事は、21世紀も半ばを超えた現代に至っても一切の記録に残されていないのだから。
それでも或る者は今もインターネット上で主張している。当時の幼子、今となってはとうに壮年を超えていると自称する人物は今も主張し続けている。
曰く。
迂闊にも外出した自分は救われたのだと。
龍脈を全身に張り巡らせた紅の龍戦士に。
神に等しい炎をその剣に纏わせた闘士に。
皇帝、そう呼ぶのに相応しい雄々しさと。
英雄、そう讃えるのに相応しい勇壮さで。
風を炎に、氷牙を剣に。
大地を紅鎧に、樹木を龍脈に。
その言葉と共に自らを救うように立った英雄(ヒーロー)の背中を。
あれから半世紀が経った今も、決して忘れることができないでいる。
予報通り雨はとっくにやんでいた。
「カイゼルグレイモン」
朝日の眩しいAKIHABARA。ネカフェを出て振り返った鏡花は、ニカッと笑ってそんな単語を口にした。
「……は?」
「面白い話だったぜ。これ書いた奴は相当なロマンチストって奴だな」
言いながら小脇に抱えたもの知りブックをメイスに見せ付ける鏡花。
「ちょ、お前あの時もう寝てたんじゃ……」
「ンなわけねェだろ。メイスがあンな楽しそうに話すのに寝てられっかよ」
鳳鏡花はメイスの語る昔話を子守歌として育った。
ロイヤルナイツ、三大天使、オリンポス十二神、そして七大魔王。
あちらの世界で名を馳せた様々な英雄の物語を語り聞かせたと思う。その中には人間、選ばれし子供と呼ばれる異世界からの来訪者の伝説も数多く存在しており、自然それらを聞いた鏡花はその勇者達に憧れるようになっていた。普通の少女が親に絵本や童話を読み聞かせられて育つ時期、鏡花は同じように両親に育てられながらも、それ以上にそんな異世界の冒険譚の方に興味を示した。
それが果たして良かったのか悪かったのかは、現時点でメイスにもわからないことだったが。
「いないかもしれない英雄……いいな、好きだぜオレは……そーいうの」
「でも言ったろ、もの知りブックにもそいつらのことはハッキリ書かれてないし、そもそも本当にいたかどうかだって──」
引け目があった。だから昨日まで、数多の英雄の中でも十闘士の話だけは彼女に語り聞かせたことがなかった。
メイスと名乗る前の自分が最も憧れた英雄達にも関わらず、架空とか虚構とか言われ続けた彼らの英雄譚を語り継ぐことが果たして本当に正しいのかわからなかったから。自分は彼らを知っているし、その果てまでも見届けた。けれどデジタルモンスターの存在すら認知されていない現代に彼らの伝説を刻むのは許されるのか、自分が語ることでむしろ彼らを貶めてしまうのではないかという懸念があったのだ。
「でも少なくともメイス、お前はそいつらが好きだったんだろ?」
「……!!」
視界が明滅する。太陽が一際輝いたようだった。
「誰もが存在を信じてないかもしンねェ奴だけど、お前は知ってるしお前は好きだった。昨日お前が話す話はそンな感じだった。実際どうだったとか何があったとか、その辺の細けェことはオレにはわかンねェけど、お前はその炎(えいゆう)を知っているし憧れた。……十分だろ、それで」
柄にも無く言葉を選んで言う鏡花の姿がおかしかった。
そう、それだけの単純な話だ。
雨上がりの空、TOKYOにしては綺麗な青空に掛かる虹は今にも掴めそうなほど近く、自然とメイスは己の鋭い爪を備えた右腕を天に翳していた。摩耗させる気なんて更々無い。それでも時折忘れそうになるこの思い、自分がずっと抱えていきたい大切な記憶と誇りを、ふとした拍子に噛み締め直せる。故にこそ自分は鳳鏡花と共にいる。
炎に憧れたことで世界が色付いたことを知っている。
炎がいたことで自分が生きてこられたと知っている。
炎に彩られた世界が眩しいだろうことを知っている。
「……違いねーな」
だから炎(キミ)はいつの日も自分の世界を彩る者。
誰も見たことのない、誰も実際にいるとは思っていない空想の中の存在だったとしても、メイスはあの英雄のことを知っている。ずっとあの英雄に憧れてきた。それだけが真実で、それだけで十分だった。デジタルワールドと人間界、二つの世界で最早彼を知っているのが自分だけになったとしても、そこに何ら不足はない。
視線を空から愛しい相棒へと戻す。その少年なのか少女なのかも定かではない15歳は、相変わらずの笑顔でそこにいた。
「今日はどうする?」
「さてな。……虹でも掴みに行くか?」
そんな戯れ言、されど大人になっても言い続けるのだろう、彼もしくは彼女は。
「何せ虹の根元には宝物があるっていうしなァ」
「浪漫ある話だな、じゃあ行こうぜ鏡花……今日はいい天気だ!」
「おう。途中でこの本の内容、もっと色々聞かせろよな」
歩き出す一人と一匹。
朝焼けに満ちた世界、空では故郷(デジタルワールド)と同じように太陽が優しく微笑んでいる。
「風を炎に、氷牙を剣にイイイイイイ」
「それ微妙に足りてねーからな」
「何イイイイイイイイイ」
「うるせえ!!」
【コテハナ紀行・大蛇足】
ア ク セ ン テ ィ ア
炎(キミ)は世界を彩る英雄(ヒト)
【炎の超越闘士編】
西暦2064年8月1日。
十闘士伝説は遠き過去のものとなった。
それでも。
一人の人間と一匹のデジタルモンスターによって、炎の英雄譚は受け継がれていく──
【解説】
・鳳 鏡花(おおとり きょうか)
西暦2064年、かつて聖地と呼ばれたAKIHABARAに時折出没する中学生(15歳)。
小柄なショートカットで性別は特定できないが、口はとんでもなく悪い。必殺技はコブラツイスト。
モデルはおよそ四半世紀前の神の如き美少女であった頃の上戸彩だがそれでも性別不明。
・メイス
鏡花のパートナーデジモン。種族不明。軽口を叩く奔放な成長期。人間界を脳天気にほっつき歩いている。
この時代の人間界に明確に存在を認知されている数少ないデジタルモンスターの一体。余談だがメイスは“棍棒”の意味。
・“八神太一”(仮名)
西暦2030年代にネット上に現れた自称・日本政府関係者。
曰く「日本政府がかつてデジモンを研究しており、前世紀末の大災害はそれが関係している」「既に各国はデジタルワールドの存在を掴み、人類の新天地として研究を進めている」「人類をデジタルワールドに適合させる為の研究が今も我が国では行われている」の三点を暴露した。その後は一切の姿を消し、数十年が経った今も彼(?)の暴露内容が真実であるかを確かめる術は全く無いため、インターネット上では日々議論が行われている。
ちなみに“八神太一”の名は後年、そのデジタルモンスターに関わっていたとされる素性からデジモンアドベンチャーの主人公の名を引用してネット民の間で定着した仮名であり、実際の彼もしくは彼女はコテハンを用いていない。当然どこぞの風評被害でもない。
・カイゼルグレイモン
十闘士は架空だ虚構だと言い続けてきた本シリーズにおいて、確かに“世界(そこ)にいた”英雄。どういう形で“いた”のかはここまで読んで頂けた方なら把握されているかと思いますので割愛。
一つ言えるとすれば、もしその存在が空想の中にしか存在しない者だったとしても、メイスを、そして「~でやんす」なる語尾を使っていた彼を含む多くのデジモン達にとってその炎の英雄は、もしくは彼の伝説は、彼らの世界を彩る者(アクセンティア)だったということだけである。
【後書き】
巡り巡ってようやく属する五体を書き上げた為に辿り着いた超越闘士編でございます。コテハナ紀行と言いつつコテハナ出てきてねーだろという話は至極ご尤も。むしろこちらを8月1日に投稿する為に前回頑張って氷の闘士編を書き上げたまである。素直に炎側の五体を一気に書いてしまえばこんな背負い込むことは無かったろうに……。
改めまして作者的には多大な意味のある2064年にようやく到達致しました。十闘士どころかコテハナが紀行したことすら遠い過去の出来事となっている時代でございます。今回登場した一人と一匹は、作者世界において如何なる可能性においても終着点に位置するキャラクターであり、(実はサロン投稿済みの某作にも既に登場しておりますが)同時に彼ら自身の物語はなく他の皆が紡いだ物語の果てにいるのが彼らとなります。
今回執筆にあたって延々と藍井エイルソング聴きまくったのは言うまでもない。
元々、コテハナ紀行自体、フロンティア作中で「ヒューマンとビーストのスピリットは拓也達が来るまで封印されてたのになんでボコモンのもの知りブックに全部記録があるんだよ」とツッコんだのが発端でした。つまり彼らより前に十闘士のことを調べた者がいるわけで、そうして語り継がれてきたのならそれは(本物や実態がどうだろうと)間違いなく伝説であり英雄であろう。言わばコテツとハナビの物語は、架空かもしれない存在を伝説に仕立てている物語なのかもしれません。
逆に今回の超越闘士編は、そんなボコモンネーモン(コテツとハナビ)の時代すら過去になった時代、彼らが調査して記したことが伝説になった時代のお話しです。そうした意味では、フロンティア最終回で拓也達の活躍を書き記すと宣言したボコモンが実際に書いた物語を後から見るみたいなコンセプトとなっております。
伝説が現代に甦るのは多々ありますが、その甦った伝説は更なる後世でどう扱われるのか、それを是非とも記していきたいということで書いたのがこの【大蛇足】でございます。またコテハナ紀行の本筋では敢えてスポイルしております、十闘士と人間(人間が進化するデジモン)との関係に繋げる話でもありますね。
というわけで、炎の超越闘士編でした。十闘士自身もまだ二体残っておりますので、次はまたコテハナの時代に戻って参ります。
◇