◇
炎は全てを焼き、新しい未来を生み出す。
光は全てを拒み、古き過去を消し飛ばす。
変えられるのは未来だけではない。
自分ならきっと過去すらも変えられると思い上がった一人の者の手で生み出されたそれは、果たしてそんな目論み通り過去を変える為に創世記の世界に生み落とされた。まだ何の理も存在しない誕生したばかりのデジタルワールド、人型と獣型が覇権を争うだとか聖騎士団の始祖たる古代竜人が大破壊から皆を救うだとか、そんな伝承すらまだ存在しない原初の空間に。
世界を闇から守る英雄であれと、皆の憧憬を一身に受ける伝説であれと。
だからそれに歪みがあるとすれば、きっとそれはその時点で歪んでいた。それが舞い降りたそこには英雄に憧れる知的生命体などおらず、在るのは唯一その世界の中で知性を備えた魔王の中の一人、後の世で傲慢と呼ばれるルーチェモンだけだったから。
必然、それは戦うことになる。元より闇を払うべく生み出されたそれに、戦う以外の選択肢はない。
つまり炎。風。氷。土。木。
光。雷。水。鋼。そして闇。
十の力を結集させたそれと傲慢の魔王の激突は熾烈を極めた。その結果は語るべくもない。
後の世界にはそれを讃える伝説のみが伝わる。創世記の世界で悪政を敷いた傲慢の魔王と十の英雄の戦い、その過程で命を落とした英雄達は人と獣に分けた各々の魂を後世に遺したとされる伝説。そもそも誰が流布したのかも定かではない伝説、誰も実像を知らぬ伝説が、後世には風の如く根付いている。
確かなことは一つ。それが舞い降りた瞬間、闇のみに覆われた世界には確かに光が射したのだ。
その時点の世界には知的生命体が存在しないと語ったのは前述の通り。
なればこそ、それに憧れ得るだけの“皆”がいなかったのもまた必然。
けれど一人だけ。
世界にたった一人だけその光に、舞い降りたそれに魅せられた者がいたとすれば。
それは。
それはきっと。
【コテハナ紀行・大蛇足】
駆け上がれ、伝説の舞台へ
~ロードオブメジャー~
【太陽の闘士編】
とても寒い、夢を見た。
とてもくだらぬ、夢を見た。
「んっ……」
よろよろと体を起こす。
オレにとって起き上がるという行為は珍しく、果たして何万年ぶりだったかも定かではない。
どうやら草原にいるらしい。見渡す限りの緑という緑、吹き抜ける風がオレの前髪を揺らしている。それだけ見れば世界は平和そのものと言えたが、当然そうでないことをオレは知っている。正確に言うなら、オレが今ここで意識を保っている時点で世界が平和であるはずがない。
僅かばかりだが力が戻っている。当然だが十全ではない、具体的に言えば十分の三と言ったところ。
「……誰が死んだ?」
少しだけ歩く。歩くという行為もまた何万年ぶりだが、オレの両足は問題なく動いてくれた。
すぐに草原で生活する成熟期の群れに遭遇する。オレの数倍はあろう体躯を有する肉食恐竜型の獰猛な瞳が惨めな人間の、脆弱な獲物の姿を捉えていた。
「げっ……!」
恐怖と驚愕が入り混じり、間抜けな声が思わず漏れた。
ああ、無様だ。即座に踵を返し、脱兎の如く逃げ出すオレは実に無様だ。
走る。ひたすらに走る。奴らが追ってきているのか振り返って確認する余裕など無い。果たして今、大地を揺らしているのはオレを追う連中の足音なのか、無様に肺と心臓を口から噴き出しそうなオレの錯覚なのかすらわからない。
さて、十分の三のオレの肉体は、見た目通りの人間程度の力しかない。この肉体のベースとなった男はそれなりに大した奴だったらしく、以前の十分の二でも脆弱な女の肉体なら引き裂くことぐらいできた。だがそれも人間相手だからこそだ。強度も人間とそう変わるものではなく、つまりはデジタルモンスター、この世界に生きる屈強な奴どもに襲われればひとたまりもない。
そんな惨めな英雄がオレだ。世界を変えろとご大層な命を受けて送り込まれたオレは、今では無様で脆弱な人間でしかなかった。
(これで満足か? これがアンタの望んだ英雄の姿か……?)
だから走りながらオレは思う。
かつて唯一顔を合わせた人間の女を、他でもない自分を生み出した女のことを思う。
あれは狂気の科学者でも稀代の殺戮者でもなく、醜い妄執に囚われただけのただの女だった。人の愛し方もデジモンとの接し方もわからず、わかろうともせず徒に他者の命を弄び続けた哀れな女だった。そんな女に向けられたオレの刃に載せられた感情は、決して正義でも義憤でもない。醜悪な思想で世界を歪めた生みの親と他ならぬそんな女から生み出されたオレ自身に対する単なる嫌悪だった。
もっと罵るべきだった。もっと痛め付けるべきだった。もっと思い知らせてやるべきだった。
ただ、それも後の祭りか。
きっと彼女に最も見せ付けてやるべきだったのは今のオレの姿だからだ。それでもこの無様な姿を魅せたくない程度にはオレにも意地がある。仮にも自分を生み出した母親と呼ぶべきだろう、オレに名前を与えた存在に自分の無様さを晒したくない程度にはオレの思考は人間のものだった。
だから心の中で思うだけだ。心の中で罵るだけだ。
なあ母上殿。
アンタの生み出した十闘士(えいゆう)は、こんな出来損ないなんだよ。
十の魂を束ねる英雄達の頂点。オレはそうした設計──むしろ設定と呼ぶべきか?──で生み出された。考え得る如何なる属性をも兼ね備えて生まれた英雄に隙はない、恐らく忌まわしき母上殿はそんな考えの基にオレを作り出したのだろう。リアリストでニヒリストを気取りながら、根幹の部分でロマンチストな気質を捨てることができなかったあの女らしい考えだと言える。
だがデジタルワールドにおいてそれら全てが歪だった。
炎も風も氷も木も土も。
光も雷も水も鋼も闇も。
それらは確かに全てこのデジタルワールドに存在する。しかし同時にこの世界に認知された属性ではない、そのはずだった。この世界の基本線はワクチンデータウイルスの三種でしかなく、哀れなことにデジタルワールドを訪れた経験のない母上殿はその事実に気付けなかった。人間の世界を前提とした理など存在しないことを知らなかった。必然、その十の属性が持ち込まれた──持ち込んだのは言うまでもなくオレなのだが──瞬間より、この世界は歪み始めた。
だってそうだろう? 少なくともナイトメアソルジャーズに属すると言われ、冷気や凍気を操ると言われたガルルモン種が光の属性を持つはずがない。雷と鋼、氷と水のような近しい属性を敢えて別物としてカテゴライズする必要性は微塵もない。全てが歪、創世記にオレが降り立った瞬間より世界はそんな歪な属性を前提とした理に浸食されたのだ。
だがオレが持ち込んだ十の魂、そしてオレの存在に必然性を持たせるべく母上殿が齎した伝承(データ)はいつしかこの世界に確かに根付き、あのロイヤルナイツや三大天使と並び得る伝説となっていた。
それが十闘士。各々が十の属性を司り、古代世界で傲慢の魔王と戦ったとされる講談の中の英雄達。
ハハハ。
笑うしかない。これが笑わずにいられようか。
素晴らしい。あまりにも素晴らしい。
あらゆる事象が間違っているというのに、それが正しいものとして世界は回っている。
不思議とオレの気分は悪くない。何故ならこの世界でそれらが全て誤りだと知っているのは、恐らくオレとルーチェモンだけからだ。しかし今のオレはただの脆弱な人間でしかなく、ルーチェモンも世界に表立って現れることはそうあるまい。そんな中で存在しない架空の英雄を崇める民衆も、オレの内にある魂(モノ)を当然のように伝説として賛美する風潮を根付かせたこの世界も、あらゆるものがおかしくもあり、同時に愛おしくもあった。
それに、だ。
実に滑稽な話だが、オレは。
自分が英雄と呼ばれ崇められることが、決して悪い気分ではなかったのだ。
オレの肉体が十分の三の力を取り戻した、即ち以前と比して十分の一だけ力が増した理由は程なくして判明した。
「そういうことか……」
切り立った崖の上から濛々と立ち込める噴煙を見やる。かつて始まりの街と呼ばれた場所は、炎と煙に包まれて既にその機能を失っていた。守護者として滞在していた成熟期や完全体はその殆どが打ち倒され、もう指針もなく逃げ惑う幼年期や成長期の姿は実に哀れで心が痛む。今のオレにはどうすることもできないのが心苦しいが、街の中心に立っていた始まりの街の象徴たる大木が切り倒された横、最早動かぬだろう人間の女の骸がオレの目を引いた。
銀色の髪を靡かせる美しい娘だった。名前を何と言ったか、まあ死体となった女に名など要らないが。
「……逝ったか、風の闘士」
始まりの街の守護者、風の魂を現代まで繋いだ人の亜種。
侵略者を相手に最後まで戦い抜いたらしい娘を悼もう。言うまでも無く、オレの内に戻った力は風だった。あの娘が死んだことで風のスピリットがオレに帰還したことが、そもそもオレの久方ぶりの覚醒の要因だったらしい。
ヒュウと吹き抜ける突風に思わずよろめき、顔を上げたオレの視線の先、飛び去っていく二体の聖騎士の影が見える。見覚えのある雄々しき後ろ姿、それだけで始まりの街を滅ぼしたのはロイヤルナイツだと気付く。十闘士(オレ)と並ぶかそれ以上の世界最古にして最大の英雄。今まで対面したことも敵対したこともないはずだが、あの聖騎士どもにとって始まりの街は既に不要になったということか?
動き出している。世界が、何かが。そう感じる。
「氷に雷……それに風、か」
とはいえ、オレは未だに十分の三だ。
数万年も前に死した氷と雷、そして此度の風。
まだ手元に戻らない魂は七つある。
ロイヤルナイツ。
七大魔王。
三大天使。
そのどれに対抗するにも今のオレでは力不足。
「す、スワンモンーっ!」
ふと、崖下から聞こえる絶叫に視線を向ける。
二体の成長期、如何にも頼りなさそうな奴らが、既に息絶えたスワンモンが粒子と化して消えていく様を前に慟哭している。奴らはそれぞれデジタマを抱えているように見えるが、どうやらそれは力尽きる寸前のスワンモンから託されたものらしい。暫し呆然としていた彼らは、やがて涙を拭いて立ち上がると逃げ惑う成長期達や生き残った僅かな成熟期達に声を飛ばし始めた。
指示を出しているようだ。とにかく幼年期と残ったデジタマを守れと、生き残った命を決して絶やしてはならないと。
「……立派なものだな」
皮肉ではなくそう思う。力無き成長期でしかない奴らにも、そんな奴らに命を託したスワンモンにも。
オレは間違いなく動けない。もし二体の聖騎士が襲ってきた現場に居合わせたとしても何もできなかった。人間の肉体ではロイヤルナイツを相手取ることなどとても不可能なのは確かだが、それでも理屈抜きに動いてしまうのが人間であり、またそれに影響されたデジタルモンスターであるとオレは知っていた。そしてオレ自身はそのどちらにもなり得ない。
「お前達の憧れる十闘士(えいゆう)は、こんな時に助けてくれるのだろう?」
自嘲気味に呟く台詞が空虚に響く。実際、奴らが目撃したのかは知らないが、風の闘士は侵略に敢然と立ち向かい、そして散ったのだ。
十闘士、世界救済の英雄。皆が抱く憧憬の全てを否定するのが他ならぬオレだということを、オレ自身が誰よりも知っている。今のオレには動き始めた世界の守護者としての力など一切無く、言ってしまえば人間でもデジモンでもない半端物だ。奇跡を起こし得る人の意思の力もなく、また限りなく進化するデジタルモンスターの可能性も持たない。
何度でも言う。
何度だって責め立てる。
ああ母上殿、こんな半端な英雄をどうして作った? どうしてオレにこうも惨めな思いをさせるのだ?
「……ッ!」
歯噛みする。
守れない。
戦えない。
その気概すら持てない。
そんな奴を、どこの誰が英雄(ヒーロー)と呼んでくれるのだろう──?
あの時。
ただ闇だけが広がる原初のデジタルワールドに舞い降りた時。
オレは間違いなくオレではなかった。
湧き上がる正義の心は、きっとオレの内から出たものではなかった。
『エンシェントスピリットエボリューション!』
内から響くのは十の声。オレではない英雄達の声。
皆が皆、何らかの形で生前この世界に関わった人間達だった。
後に謳われる十の属性を司る英雄、その正体は果たして我が母上殿が数多のデジタルワールド関係者の中から各々の属性に適合した人間をデータとして再現した、言わば擬似的な生命体に過ぎない。だが因果なものでオレの中に確かに“個”として存在する十の魂は、やがてオレが眠りに就くと共に自我を持ち、各々が各々の考えの下に世界へ関わるようになった。
『お前を倒し、俺達がこの世界を救う!』
青臭いにも程がある台詞は、果たしてオレの喉を通して連中が叫ぶ言葉だった。
そう、オレを形作る十の魂は揃いも揃って青臭い奴らだった。勇気にしろ友情にしろ愛情にしろ、そんな実に耳障りの良い綺麗事を背負ってこの世界に関わった。中には相応に捻くれた奴もいて、よりによってそれが十闘士(オレ)の中核を担っているわけだが、そんな奴らの気質と生前の所業は傍から見ても英雄と呼ぶに相応しいものであるはずだ。
例えば風の闘士。
選ばれし子供と生前呼ばれたあの娘は、データ上の疑似生命体となっても世界の安寧の為に働き、おいても始まりの街を守護すべく腐心した。その果てがロイヤルナイツに討ち取られる結末であったわけだが、恐らくあの娘に後悔はあるまい。あれは生前も生後もデジタルワールドの為にその命を立派に燃やし尽くした、ただそれだけが真実なのだから。
同じく既に死した雷の闘士、氷の闘士にしても、そして恐らく残る七人にしてもそうだ。彼奴らもまた各々の信念に基づき、各々のやり方でデジタルワールドに関わってきている。
それが十闘士。
実在すら疑われながらも英雄と讃えられる伝説の正体だ。
おかしな話だ。
本来はオレ一人が英雄であるはずだった。
他ならぬオレはたった一人であの闇の世界に舞い降りたというのに、今のオレはオレ自身を形作る十の魂を失って無力な人間としてここに在る。雷と氷に続き風が命を落とし、十分の三を取り戻したとしてもオレが本当の意味で英雄(オレ)に戻る為には残り七つの魂が要る。
惨めなものだろう? 無様なものだろう?
今のオレは単なる虚像、中身のない器でしかない。実のところ英雄と謳われるのはオレの魂である彼奴らこそであり、オレ自身ではないのだ。世界で生きる皆に伝説と、英雄と讃えられることで保たれるオレの自負ですら、実際にはオレのものではない。
いや、考えてみれば、だ。
最初からオレは空虚だった。オレはそもそもが十の魂を守る為に存在する卵の殻だった。母上殿にとって重要なのは世界を救える英雄であって、今やオレの外に出て行った十の属性を備えた人と獣の魂であって、それを果たせず力も失って放浪する人間もどきでは断じて無い。
せめて。
せめて炎か光、はたまた闇。
オレの魂の中核を司るそのどれかが戻ってくれば。
あるいは。
あるいはオレ自身が。
空が、遠い。
「あっ……ぐっ……」
見渡す限りの荒野でオレは無様に果てている。
左腕と右足が人間としては有り得ない方向に曲がっている。驚くほど軟弱な人間の肉体は、目の前のデジタルモンスターにとって必殺技を使うまでもなく容易に仕留められる獲物だった。ゴツゴツした砂地に大の字となって見上げる空は、オレの最期を飾るものとしては気味が悪いぐらい清爽だった。
無事な右腕を用いてよろよろと上半身だけを起こす。
周囲は死体の山だった。アンドロモンにブロッサモンにハヌモン、ガルダモンにコクワモン。そんな多種のデジモン達は既に事切れて次々と粒子となって消えていく。
彼らが何をした?
ただ生き延びる為に協力しようとしていただけだ。
オレは何をした?
別に目的もなくただその場に居合わせただけだ。
「──────」
荒野の中心、いや数十秒までこの場は美しい草原だったはずだが、とにかくそこに立つ凶行の主がその双眸をゆっくりとオレに向けた。
何故生きている、そう言いたげな視線だがそれはオレが聞きたい。
黒衣が大きく翻されると共に彼奴の細く禍々しいシルエットが露出し、彼奴は実に見たくない聖騎士と酷似していると改めて知る。彼奴はデジモン達が会合している場に突如として舞い降り、大地にその巨大な剣を突き立てただけ。それだけで周囲は荒野へと変貌し、間近にいた彼らは手足を、または胴体を千切れ飛ばされて即死した。オレなど少し離れた場所でそれを眺めていただけなのに、余波だけで達磨もどきにされた始末だ。
全く以って怪物だ。本物の英雄サマという傑物は。
全く以って無様だ。偽物の英雄サマであるオレは。
「……ロイヤルナイツも余程人手不足と見える」
逃げ様がない。何せオレだって片足が千切れかけているのだ。
だからせめて。
愚痴と憎まれ口ぐらいは叩かせてもらう。
「オメガモンはもういないのだったな……あの聖騎士は元より選ばれし子供のパートナーとして生まれたのだから、貴様の主の命通りに動かぬのも当然か。だが代用品としてもお前のような邪悪が補欠とは、さしものイグドラシルも芸がなさ過ぎる。まさかオメガモンもどきを執行者として寄越すとは」
執行者。その黒衣の主をオレはそう呼んだ。
崩壊しつつある肉体を強引に繋ぎ止めたかのような奇怪な姿は、まさに最後の名を持つ聖騎士を【反転】させたかのような禍々しさだったが、一方で彼奴の両腕に備わった武具は極めて洗練されている。竜の牙を模した剣(けん)と狼の顎の如き砲(つつ)はどこぞの英雄、今この場で手足を千切られかけている無様な人間もどきのそれを思い出させて腹が立つ。オメガモン以上にオレの心中に根付いた存在しない英雄、最後の最後までこの世界はその架空の伝説に焦がれる様をオレに見せるのか。
「──────」
奴は喋らない。それでもオレを、奴の剣なら紙のように斬れるだろう人間の命を確実に刈り取るべく静かに歩み寄ってくる。
「オレは無力で幼気な人間もどきなのだが……逃がしてはくれんもんかね、英雄サマもどきは」
座り込んだまま右手を挙げた。本来なら両腕で降参(グリコ)のポーズを取りたかったが、捻じ曲がった左腕はまるで動くことはない。
提案してみたところで奴がオレを逃がすことはないと知っている。始まりの街が崩壊して以降、この世界は乱世に近い様相を呈し始めていた。輪廻転生のシステムが失われたことで誰もが死を恐れ、戦いを避けるようになったはずなのに、各地には今や数を減らして伝説と言われた究極体デジモンが数多現れ始めた。
弱肉強食といえば聞こえはいい。だが元よりこの世界は力の無い幼年期や成長期が始まりの街から生まれ、屈強な成熟期や完全体は各地でその命を食い合う、そのサイクルによりバランスを保ってきた。誰もが生まれ変わる理だからこそ躊躇いなく戦えるし、その戦いで数多の技術や文明が発展してきたのは疑い様のない事実であった。
それが失われた。各地に究極体が生まれたとしても、皆が命を惜しみ、戦いを忌避する風潮が生まれた。
やがて都市部は衰退の一途を辿り、文明の発展がピタリと止まった。しかし世界で生きる皆はそれに危機感を覚えることは無いし、そもそも文明の進歩や衰退といった概念は曲がりなりにも人間の精神を持つオレの目だからこそ認識もしくは危険視できているものであり、当のデジタルモンスターである彼らにはその認識があるのかも疑わしい。
その中で動き出したのがイグドラシルだった。各地に現れ始めた究極体、もしくは屈強な完全体を淘汰することで世界を間引き、その安寧を図る馬鹿げた所業。
その機械的な行為の端末の一つが、目の前に現れた黒き聖騎士だった。
ロイヤルナイツの中で最強とされた、オメガモンの出来損ないだった。
奴が荒野を踏み締める度、オレの耳に届くパリパリと奴の全身のワイヤーフレームが軋む音。まさしく出来損ないと呼ぶに相応しい不完全な結合。夢や理想どころか人格すら持たない黒き聖騎士は、その実その存在すら定かではない。奴を遣わしたイグドラシル、この世界の秩序を守るとされる意思無き神は、オメガモンを単なる“力”としか見ていない。オメガモンに伍する強ささえあれば、本来は有り得ない不適合なジョグレスにより彼の命が極めて短く終わろうと構わないとでもいうのか。
故に執行者。短命な己を無辜なる他者の裁定のみに費やす邪悪な処刑人。
「出来損ない……そういう意味では、オレと同じか……」
狼の砲塔がオレに向けられる。その竜の刃をもう一度振れば、風圧でオレなど容易く千切れるだろうに。
実に哀れな末路だ。オレは最後まで十分の三で終わるらしい。全力で戦えたことなど一度しかなく、その唯一の機会に際してもオレはオレでなかったし、何より敗北した。英雄として生み出されながら何も為せず、何も守れずに終わるのだと思うと泣ける以上に笑えてくる。そもそもオレの視界は既に捻られた手足の痛みから来る涙で滲み切っていたのだが。
ああ母上殿。
これが十闘士の結末だ。アンタの生んだ英雄は最後まで出来損ないだったよ。
心の底でそう告げて、己を穿つ銃口を真っ直ぐ見つめていた。
「……ッ!」
なのに、それが不自然に逸れた。
ガルルキャノンに集束したエネルギーが爆ぜ、聖騎士の右腕が濛々と煙を噴く。何が起きたかわからないオレは無様に両目を瞬かせることしかできなかったが、目の前で損傷してよろめく執行者とその胸に飛びかかる小さな影だけは目視できた。
一体の幼年期だ。確かトコモン。
恐れ知らずなのかそれとも単なる馬鹿なのか。究極体をも更に超越する聖騎士に躊躇わず立ち向かったその幼年期は、大口を広げて執行者の肩口に齧り付こうとする。だが幼年期に不似合いな凶悪な牙とて聖騎士の鎧に立てられるはずもなく、執行者が僅かに肩を震わせただけで小さな体は宙を舞い、地面に叩き付けられた。
「ぴぃ……っ!」
小鳥のような囀り。砂地を転がりオレの前に倒れたトコモンは、それでもと立ち上がる。既に四つ足がガタガタと痙攣している。命があるだけで奇跡なのだから当然だ。
それでも。
逃げろと言いたいのか、惨めに手足を潰されたオレよりはマシだと思っているのか、はたまたオレを守ってみせるとでも自惚れているのか。振り返ったトコモンのつぶらな瞳が、決して諦めていない真っ直ぐな瞳が、オレの姿を確かに捉えた。
瞬間。
とても不愉快な記憶を垣間見た。
刹那。
オレでないオレの無様さを見た。
「………………」
執行者の腕が上がる。素人でも刃を横薙ぎに振るのだとわかる。
防御などできない。あの執行者は存在こそ出来損ないだが、単純な戦闘力はオメガモンに匹敵するかそれ以上のものを備えている。空間ごと切断し得るグレイソードの一撃を前にすれば、手負いの人間と幼年期どころか究極体でも耐えられる者は稀有ではないか。
けれど、今のオレにとって。
「野郎……ッ!」
そんなことは、どうでもいい。
不愉快。
実に不愉快だ。
そうするのはオレの役目なのに。そうすべきはオレのはずなのに。
弱き者を守る為にオレは生み出された。そうして弱き者から憧憬を、賞賛を受けるべき者としてオレを生み出した女はオレを、十闘士をこの世界に送り込んだ。その果てに在るのが今のオレ、力無き人間として無様に手足を捻じ切られて幼年期に庇われる哀れな英雄の姿だ。
違う。断じて違う。
幼年期、戦いの場において足手まといにしかならないはずの存在。事実、古代の十闘士(オレ)も戦いの場に巻き込まれた幼年期を咄嗟に庇ったことで敗れた。オレはそれにより今の力無き人間とされたのだからオレでないオレのその愚行を嘲笑い続けた。オレがオレであったなら幼年期など見捨てると思ってきた。
それなのに湧き上がる怒りがある。
それなのに噴き上がる憤りがある。
「……風を」
故に告げる。
一度として言うまいとオレが永劫念じ続けた綺麗事を。
十分の三でしかない今のオレには無意味だろうそれを。
英雄であれ、そう願って母がオレに刻んだその呪文を。
「風を……に……」
それでも届くと信じている。
何故ならオレは人間だから。
この世界で奇跡を起こせる。
そう信じられる人間だから。
「風を炎に、氷牙を剣に──」
そうして。
オレの視界は朱に染め上がった。
太陽。この異世界においてもその誰にも到達し得ぬ高みは確かに存在する。
オレはそう在れと、誰もに等しく救いと恵みを与えるべしと生み出されたはずだった。あらゆる外敵を排除する為の守護者として世界に降り立った。暗黒そのものであった原初の世界を初めて照らした光は、確かに母上殿に送り込まれたオレだったはずだ。
それなのに敗れた。オレでなかったオレは、母上殿が設定した伝承通りに傲慢の魔王と対峙し、そして伝説を塗り替えるように無様に敗れ去った。
その時点で破綻している。その時点で終わっている。
十闘士伝説は、最初から歪み切っている。
三大天使。
ロイヤルナイツ。
オリンポス十二神。
やがて多くの守護者が生まれ、十闘士という名の守護者は必要とされなくなった。
確かに多くのデジタルモンスターの間でその伝承は語り継がれてきた。だがそこに実像は伴わない。十闘士なる英雄の姿を見た者はおらず、ただ超古代に活躍した十体の強大な究極体がいたこと、そして彼らの遺した魂により人と獣の姿を持つ者が今も世界の安寧の為に動いているということ。
それだけの話だ。十闘士とは最初から打ち捨てられた伝説だった。
だから氷と雷が死に絶えたことで目覚めた時、オレの中にあったのは憎悪だった。己の中の怒りと憎しみに任せて人間界を訪れ、オレ自身を生んだ母の命を奪った。何故オレを生んだのか、何故オレを斯様な出来損ないにしたのか、そんな問い以上にその時のオレにはそれ以外の行為に意味を見出せなかった。
母の命を奪った時、オレの手には一振りの剣が握られていた。
まるで今ここに在ることそのものを世界に許されていない。そう告げるかのように刀身を激しいノイズが走るそれは、執行者のように存在すら不確かな紛い物。僅か十分の二に過ぎないオレが生み出した大剣は、それこそ本来の力の十分の二も出せていない。
それでも。
そうだとしても。
これだけだ。
オレが自らの意思で生み出したオレ自身の力は、これだけだった。
きっと確信があった。
なるほど。風の闘士の死により、今のオレは新たに風の力を得ている。そうなれば炎に変換し得る風の力を以って、氷牙の刃を成したそれに本来の力を取り戻させることも可能だったのかもしれない。
けれど、どうでもいい。
理屈ではなく純粋に確信があったのだ。
三種の神器、またの名をZERO-ARMS。十の魂とは別にオレに備わったもう一つの力。
スナイパーファントム、スピリットが足りず使用不能。
ストライクファントム、スピリットが足りず使用不能。
それでも最後の一、オレ自身の根幹を成すそれだけは、きっと──
「ハイパースピリット……!」
心火を燃やせ。
風を纏え、氷を唸らせ。
たとえ十闘士の魂がなくとも、オレにはオレの心がある。
オレ自身の内に滾る炎さえあれば、必ず掴めると知っている。
「……エボリューション!」
目の前にノイズだらけのそれが浮かぶ。
ZERO-ARMSオロチ。
ああ、その名前は世界にとって大蛇足である俺に相応しい。
握る。久方ぶりに手の内に触れる炎の柄の感触は心地良い。
抜く。躊躇い無く引き抜くことで大剣は世界に姿を現した。
剣から噴き出した炎がオレの肉体を焼き、新たな形へと変えていく。同時に脳髄へ次々と叩き込まれていく無数の情報で頭蓋が割れそうになる。
炎龍撃。発射部を司るべき木の魂が無いため使用不能。
九頭龍陣。地の龍脈を操る土の魂が無いため使用不能。
まるでTVゲームのチュートリアルのよう。笑えるほど使用不能な能力だらけではないか。上半身を覆う炎鎧は目の前の執行者同様、パリパリと戦わずして亀裂が刻まれて悲鳴を上げているように曖昧で、先の戦闘──と呼ぶのはオレの自惚れだ──で負った人の身の損傷も含めてそう長くは保つまい。
それでも今、オレは執行者の前に立っている。
「オレは、英雄(ヒーロー)だ……!」
オレの足で。
オレの意思で。
オレ自身の魂の力で、ここに在る。
後の世にこんな話が伝わる。
『本当にピンチの時、ワテらを守ってくれる英雄がいるんでやんすよ』
いつしか始まったロイヤルナイツによる大量粛正。
正しき心を持つはずの彼らの手で行われる虐殺に、敢然と立ち向かう一体の英雄がいたという。誰ともなく執行者と恐れられる黒きオメガモンと幾度となく剣を交えるその姿、言葉は無くとも自分達を守るかのように聖騎士に立ち向かう勇姿が、理不尽な殺戮に苦しむデジタルモンスターからヒーローと讃えられるのも不思議ではあるまい。
こうも伝わっている。ある二体の成長期デジモンの話だ。
『嘘じゃないでやんす! ワテらは実際に会ったんでやんすよ!』
『闇の大陸でオイラ達を守ってくれたんダネ、オニスモンから!』
『その通りでやんす。あれはきっと十闘士、炎の魂を纏った──』
暗雲の覆う世界。
誰もが希望を失いかけた世界に射す一筋の希望。
それは龍の魂を宿した剣を振るう雄々しき英雄。
遠い過去に傲慢の魔王を倒したと伝わるエンシェントグレイモンと同一視される皇帝竜(インペリアル)と同様、皇帝(カイゼル)の名を冠する紅のグレイモン種。
目にした誰もが口を揃えて言う。
我々に確かな救いと恵みを与えてくれる彼は。
まるで太陽のようだ──と。
荒野を往く。
オレは出来損ないだ。
創造主の望み通りに動くことなど一切出来なかった出来損ないだ。
今もまだ十分の三、超越進化の度に肉体には激痛が走るし、その力も全力には程遠い。
それでも。それでもだ。
譲れないものがある。
叶えたい思いがある。
「──────」
手を伸ばす。遥か遠くへ輝く太陽へ。
届くだろうか。
叶うだろうか。
否。
必ず掴むのだ。
最強で在れと、全ての英雄を超越する英雄で在れとあの女は言った。
ロイヤルナイツも。
七大魔王も。
オリンポス十二神も。
世界に名を馳せる全ての猛者達を超越せよとオレの母は願った。
なれると信じたのだ。こんな不出来なオレにも。
だから母はオレを太陽にした。
他の十の魂ではなく器であるオレ自身を太陽と呼んだのだ。
ああ。
ならばまだ歩ける、戦える。
オレは太陽(オレ)自身を張り続けられる。
「──────」
拳を握る。空に輝く太陽を掴めた気がした。
オレは出来損ないだ。
母の描いた理想(ユメ)とここにある現実(イマ)の乖離は著しい。
それでも。
譲れない魂(モノ)がここにはある。
オレは。
英雄(ヒーロー)になる。
【コテハナ紀行・大蛇足】
~Fin~
【解説】
・太陽の闘士(仮名)
17歳ぐらいの少年の姿をした謎の存在。
原初のデジタルワールドに送り込まれた十闘士の“器”であり、この世界に存在する古代十闘士の伝説は全て彼の内から漏れ出たものに過ぎない。ある理由から十の魂は散逸したが、十闘士は死すると自動的に彼の内に還るよう設計されており、逆に彼は十人の闘士が全滅しなければ文字通りの意味で十全な力を発揮できない。
作中においては氷と雷、風の闘士が死した十分の三の状態であり、人間と同程度か少し勝る程度の力しか持たない。
此奴の発言やモノローグを追うと、コテハナ紀行の順番がおおよそ垣間見えてくる、はず。
性格としては悲観的で自虐的だが、捨て切れない正義の心と英雄への憧憬がある。つまり作者のいつもの皮肉屋主人公。
・執行者
イグドラシルによるデジモン粛正の為に運用される特殊端末。
本世界にオメガモンは既に存在しない為、ある二体のデジモンを強引に繋ぎ合わせることでオメガモンと同等の姿と強さを得ている。【鋼の闘士編】のそれと同一存在で、こちらではまだオメガモンズワルトDEFEATの姿を取っている。
【後書き】
ここまでお付き合い頂きましてありがとうございました。
今回にてコテハナ紀行は完全の完全に完結となります。炎の超越闘士・光の超越闘士・太陽の闘士に関しましては、大蛇足のサブタイトル通り十闘士の作者なりの解釈を描いてきた十の物語とは異なり、作中の世界観、敢えてボカしてきた十闘士がいるかいないか、そもそも十闘士って何ぞやという謎に対する解答となります。
スサノオモン、即ち太陽の闘士。フロンティアで初登場した際にエンシェントスピリットエボリューションと名付けられたその進化が予てより謎でした。スサノオモンはあの時点で生まれた新たなる伝説ではないのか、エンシェントと名付けられたからには古代にもスサノオモンは存在したのか。そこを紐解く為の独自解釈として、スサノオモンこそが古代の伝説において生み出された英雄であり、十闘士とはその副次的産物であったとしました。
後から「昔世界を救った英雄がいたんだぜ」と付け加えられるのは創作の常とはいえ、十闘士はフロンティア終了後即シリーズで振り返られることも殆ど無い存在であった為、逆説的に「英雄になり切れず、けれど英雄を目指す者」として十闘士、そしてスサノオモンは位置づけたいと思っております。
そして知らず知らずの内にスサノオモンを魅せていたコテツもハナビもまた、後に闇の大陸で彼と出会うことになる……最初に書かせて頂いた炎の闘士&光の闘士編に現れた彼がコテツとハナビを守ってくれたのは何故なのか、そこに回帰する形で、コテハナ紀行は完結でございます。
ここまでお付き合い頂いた皆様、誠にありがとうございます。
十闘士伝説が今後も忘れられぬ形でデジタルワールド、そしてテイマーたちの胸に刻まれ続けることを願うばかりです。
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