はじめに
この作品は作者・マダラマゼラン一号の過去作品、「冬の或る日のブラック・バード」、「千年くじらと嵐の季節」に連なる作品となっています。そちらの二作品を読まなくても十分に楽しむことができるかと思いますが、ご興味のある方は下記のリンクからどうぞ。
│─201X:千年くじらと嵐の季節
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│─202X:冬の或る日のブラック・バード
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│─203X:???
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in Rainbows─或いは、漂流大陸五番地の風は如何にして彼女の内側を通り抜けたか─
一番地の地下の下水道には、真っ白い恐竜がいるんだって。
表通り近くの路地裏、ほら、さとう病院の裏のあそこだよ。路地の入口から数えて三番目のマンホール。夕方になるとあそこから顔を出して、近くにいる子どもを食べちゃうんだ。
小さな勇気が欲しいのだ。
そういって、あの人は、わたしの前から消えてしまった。
がたがた、ごとごと。電車は揺れる。
デネブ発・アルビレオ行き、なんてことはまったくなくて、普通の鈍行列車。座席も車内もきれいなもので、わたしが育った街を走っていた古びたワンマン電車とは大違い。車内には大仰なデジタル・サイネージまでついていて、新しいクルマやら野菜ジュースやらの宣伝に余念がない。私はそのディスプレイに目を向ける。自分が何よりも新しくてキレイだということに、少しの疑いも抱いていない佇まいだ。コマーシャルの中の人気女優も、それとまったくおんなじことを考えているように見えた。
でも、がたがた、ごとごと、は、がたがた、ごとごと、なんだな。
「それにしても、おじさんも急だよな」
この車内で唯一馴染める物音に耳を傾け、膝に広げた道路地図を読み進めようとしたわたしの試みは、隣のおにいちゃんのその言葉にあえなく失敗した。
「……なにが?」
「いや、なにがとかじゃなくて、急だろ。いきなり手紙送ってきてさ、施設からこっちに引っ越してこい、なんて。おまけに、いった先におじさんがいるってわけじゃないんだぜ」
「……べつに、ずっとお金送ってくれてるおじさんのいうこと、断る必要ないし」
私がそう言っても、おにいちゃんは唇を尖らせたままだ。
「いや、俺だって別に不満があるわけじゃないよ。たださ、ちょっと勝手じゃん」
「そうだね」
適当に相槌を返し、わたしは地図に意識を戻す。ぺらり、ぺらり。ここに来るまでに本屋で買ったばかりの新しい地図帳のページは手が切れそうなほどに鋭い。開き癖もついていなくて、広げたままにするのも至難の業だ。
「露骨に興味なさそうなのやめてもらえますかー。ていうかなんだよそれ、地図なんか読んで楽しい?」
「おにいちゃんには多分楽しくない」
「へーへー、そうですか」
いけたか、と思ったけれど。この程度つめたくしたところで大人しくなるおにいちゃんではない。不機嫌そうな声でなおも話しかけてくる。
「なんでフブルはそんなドライなんだよー。俺たちおじさんの顔だって見たことないんだぜ。何でお金送ってくれるのかもわかんないし。そのへん、フブルは気にならないのかよ」
この話するの何回目? わたしは思わず首を振った。わたしより五歳も年上のくせに、同じ話を何回もするところは施設で一緒だった同い年の男の子たちと変わらない。
「気になるよ。でも、おじさんにはお世話になってるし、いまさら色々知って、嫌いになるリスクを冒したくないの」
「く、小学生のくせにかわいくない言葉ばっか使いやがって」そういっておにいちゃんがわたしの短く切りそろえた頭をわしわしと撫でてくる。
「ちょっと、やめてよ」
「そりゃお前はいいだろうけどさー。お前の保護者役やらされてる俺の身にもなれって」
「おにいちゃん、高校生でしょ」
「高校生だからなんだってんだよー!」
わたしの頭から手を離し、今度は自分の頭をぐしゃぐしゃとかきむしっておにいちゃんが言う。他にお客さんいなくて良かったな、とわたしは切実に思った。そんなわたしの視線の温度を感じ取ったのか、おにいちゃんはわたしに目線を合わせて、同じくらいじっとりとした目を返してくる。
「言っとくけどな、フブル、駅ついたらまず区役所行くからな。これだけはお前も来ないといけないんだぞ」
「その後おにいちゃんはさらに色々手続きがあるんでしょ」
「おっしゃる! 通り! です! くそが!」
「くそが、ときたか」
「なんなんだよー、デジタルがどうとか言っても実際に役所出向かなきゃいけないんじゃ意味ないだろ! 街の名前も無駄に長くて覚えらんないし……」
「平浜県駿木市“するぎスマートシティ推進特区”。ついでに言うと区役所の住所は三丁目一番地の一号。わたしたちが住む家は……」
「はいはい、さすがの天才少女ですよ。ってか、覚えてるんならフブルが書けよ!」
「わたしは文字を覚えてるだけだもん。意味も分かんないし、使い方もよく知らない。第一小学生に手続きとか無理だよ」
「んあーーーーー!!!」
いつもの叫びまで五分弱。おにいちゃんも少しは手ごわくなったな。わたしは息をついて、ふと、窓の外に目を向けた。
そこに広がっていた街に、わたしは目を奪われた。周囲に比べ、少し高い小山の斜面のようなところに町が広がっている。真新しい白い建物が並ぶ場所のみが目を引くが、よくよく見てみれば、古い建物の黒っぽい屋根が目立つ区画もある。
「大学のそばの計画都市とかっていろいろ言ってるけどさ、ちょっと殺風景だよな」
「うん」
町の周囲はほとんどが夏の田畑の風景で、そんな中いっとう高いところにでんと構えたその町は、誇らしげな佇まいとは裏腹に、ほのかな寂しさを私に感じさせた。
まるで、空の人たちが住む町が、大嵐に流されて、何もないこの地に突然落ちてきてしまったかのような。
『つぎは、平浜大学駿木キャンパス・するぎスマートシティ駅前です。降車される方は──』
「いや、駅名なっが」
おにいちゃんと同時にそんなことを言ってしまい、わたしは赤くなった顔を両手で覆った。
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「先生、これを」
「ん、なんですか?」
「今度5年生のクラスに転校してくる子についてですよ。担任にはもう渡してるので、副担任の鈴代先生にもと」
「ああ、聞いてます。平野さん、でしたっけ」
「はい。地方の孤児院から支援者都合での引っ越しらしくて」
「この町に引っ越しなんて、お仕事しか考えられないけれど、全て書面のやりとりだけで保護者さんとの面談の機会を一度もつくれなかったって後藤先生愚痴ってたっけ」
「デリケートな事情がありそうですね」
「……まあ、どの子もそうですから。大なり小なり」
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「はい、遠山ケンジさんと、その妹さんの……」
「平野フブルです。このおにいちゃんとは保護者が一緒ってだけで、本当のおにいちゃんじゃありません」
「おいおい。まあ、でも、そんな感じです」
諸々の手続きが終わり、わたしとおにいちゃんは区役所に設けられた窓口の一つで所員のお姉さんから案内を受けていた。このするぎスマートシティは構造改革特区制度をもとに、長い歴史を誇る平浜大学と行政が共同で計画することによって実現した、国内でも最先端のスマートシティであり……、といった感じ。タブレット端末で様々な資料を見せながら一生懸命説明してくれていはいるが、内容自体はここに来るまでにパンフレットで読んで覚えたことだし、聞いたからって改めて意味が分かるわけじゃない。
永遠にも似た説明が終わると、その女性は脇に置いていた紙袋から二つの小さな箱を取り出し、わたしとおにいちゃんに一つずつ手渡した。
「この区で生活していただくにあたり、区民の皆様にはこちらの着用をお願いしています」
デジタル表示の腕時計。箱を開けた私の最初の感想はそれだった。実際腕時計としか思えない形をしていて、縦長の液晶が画面が大部分を占めるデヴァイスを、幅広の柔らかなプラスチック製のベルトで腕に留めるようにできているらしい。
「平浜大学総合デジタル研究所で開発された試験用ウェアラブル端末“バイタルブレス”です。これを介することで行政施設や一部の商業施設での手続きを大幅に簡略化できる他、学校などの授業でも使われています。健康管理に使える歩数、心拍の測定機能ですとか、ショートメール機能などもついていますよ」
「ちっちゃいスマホみたいなもんってことですか?」
おにいちゃんが歓声を上げて自身のブレスレットを腕に巻こうとするのを、女性は手で制した。
「バイタルブレスが収集するデータの一部は平浜大学での研究に利用されます。とうぜんメールの内容などの情報に触れることはありませんが……」
そう言って彼女がまたタブレット端末をスワイプすれば、今度はえらく細かい文字でびっしりと埋め尽くされた画面が表示された。
「プライバシー保護に関する条項と、バイタルブレスの研究利用に関する同意書です」
「同意書って」おにいちゃんが頭を掻く。
「俺たち未成年ですよ」
「ええ。ですので……」
その言葉に女性は頷いて、一枚の紙を取り出した。タブレットに写されたそれと同じ文章のその下に、流麗な字で、何やら難しい感じばっかり使った名前が書かれている。間違いなく、同じような書類で何度か目にしたおじさんの字と名前だ。
「お二人の保護者さまからは既に、署名付きの同意書をいただいております。あとはお二人の同意が必要ですね。もちろん、強制ではありませんが……」
学校の授業などでも使われてるってさっき言いましたよね、わかりますよね。そんな女性の言外の圧にわたしとおにいちゃんは顔を見合わせる。既にこの町の住民は皆この端末を大いに役立てているようだし、わたしたちが拒否することできっと余計に仕事が増える人が大勢いるのだろう。
「おじさんがいいっていうなら、いやでも一応……」
そう言って、おにいちゃんはタブレットに並べられた長い長い文章に目を通そうとして──。
「あー、大丈夫です」
二秒くらいでタッチペンを手に取りタブレットにサインをした。超情報化社会の一員としてのおにいちゃんの使命感は二秒が限界らしい。わたしもこればかりはおにいちゃんを責める気にはなれなかった。
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──先に帰るんなら寄り道するなよ。道に迷うのとかは心配してないけど、なんかあったら怒られるの俺なんだからな!
そんなおにいちゃんの言葉を背中で聞き流し、新しい居場所になる街に踏み出したのは、午後の四時過ぎだった。
区役所のある通りは三丁目一番地。役所近くの銀杏並木の通りは緑が眩しく、夏のさんさんとした日差しを受ければ、首筋から汗がふきだすのを感じる。
すれ違う人はみな腕におもいおもいのカラーのベルトで腕にバイタルブレスをとめている。わたしが選んだ明るめの緑色は、そんな色とりどりの軌道の中で少しだけ控えめに見えた。
なんだか不思議な街。わたしは口の中で呟いた。バス停ひとつとってもピカピカの電光掲示板が設置され、人々は自身のバイタルブレスをそれに接続して目当てのバスの運行状況を見ているようだ。やってくる近代的なフォルムのバスは自動運転車なんだっけ。
けれど、そんな近代的な設備と裏腹に、並ぶ建物はどこか古めかしい。わたしが今出てきた役所も、その近くに並ぶ行政施設も、どれも私がいた地方の町とそう変わらない。特に目を引くのはレンガ造りの美しい建物だ。近づけばどうやらそこは銀行のようで、玄関先にはめ込まれた銅製のプレートによれば、有名な建築家の誰それによる設計らしい。腕を見れば、バイタルブレスの観光案内もおんなじことを言っていた。
バイタルブレスはちらちらともの言いたげにその画面を点滅させてくる。スイッチを押してみれば、どうやらわたしから目的地を聞き、最適ルートの提案をしたいらしい。
「そんなことじゃわたしの片腕は無理だよ」
そうやって呟き返せば、ブレスレットは拗ねたように画面を暗くした。
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その道は、三丁目一番地の端の方にあった。
堂々とコンビニエンスストアを謡う古びた個人商店で買ったメロン味の飴玉を口の中で転がしながら、わたしは人気の少ないその道を歩いていたのだ。
「“さとう耳鼻咽喉科医院”、“ひまわり薬局”、間に道が一本。隣に何かの建物──居酒屋さん? その隣にもう一軒、こっちは服屋さんね。で、また隣に……」
頭の中の記憶と実際の景色を照らし合わせながら歩いていたわたしの足が止まる。
「隣にすぐまた一見おうちがあるはず、なんだけど」
少し先に目を向ければ、わたしが覚えている通りの大きさの家が一件、立っている。記憶違いじゃない。それなのに。
「……こんなところに道はないはず、なんで?」
わたしの目の前で、その薄暗い路地は、ぱかりと大きな口を開いていた。
ふらりと私は足を踏み出す。茹るような夏の空気とは裏腹な、涼しい風がひやりと肌を撫ぜる。
一歩、足をその日陰に置いたとたんに、わたしの手元でバイタルブレスが耳障りな電子音を立てた。画面を見れば液晶は何も映さないまま、真っ青に染まって、ぴー、ぴーとなおも電子音を立てている。
「なに、故障?」
自信満々で渡しておいてそんなのないってじゃないの。けれどしばらく見ていれば電子音は収まり、画面は通常通り現在時刻を映し始めた。
「あ、なおった」
人騒がせだなあ、きみは。そうやって息ををついて、気がつけば私は数歩進んで、すっかり薄暗い路地に踏み込んでいた。なんとはなしに振り返る。夏の蜃気楼に空気は揺らぎ、まるで今までわたしがいたあの場所の方が、不安定な間違った世界のように感じられた。
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「なにしてるの?」
「わ、わあ!」
わたしの言葉に、ビルの裏口近くに置かれた大きな室外機に身を潜めていたその男の子は声をあげて大きく飛びあがった。あ、男の子だったんだ。わたしは思う。真夏だというのに肌は首まで驚くほど白い。おまけにおかっぱを首元で綺麗に切りそろえていて、わたしよりも髪が長いものだから、わたしはその後姿をてっきり女の子かと思っていたのだ。
「な、なに、きみ?」
「なにしてるの、ってきいたのはわたしなんだけど。こんなとこで、なにしてるの?」
わたしの言葉に彼は姿勢を直すと、ふんと息をついて、小ばかにしたような顔でこちらを見た。弱気そうな声と一昔前の儚げな見た目をしておいて、かわいげのない性格をしているらしい。
「なにって、調査だよ。邪魔だから静かにしてくれるかい?」
「調査? よくわからないけど、わたしはこんな路地裏でどこにも隠れられてない姿勢でこそこそしてる変な男の子がいたから話しかけたんだよ」
「なっ……! きみは失礼な奴だな!」
「いきなり邪魔とか言っちゃうあなたは?」
目の前の男の子の態度に、わたしはいらだちを声に出さないようにするあらゆる努力を放り投げた。そうして放った言葉に対する彼の反応を見るに、相手も同じ腹積もりらしい。
いやに冷たい空気がわたしたちの間を吹き抜ける。にらみ合いの空気の間で、室外機のごうんごうんとした音が響いていた。
その静寂を破ったのは、目の前の男の子のバイタルブレスの音だった。
「……! きた!」
「え。なにが?」
「いいから、隠れて!」
そう言って、男の子は白い腕でわたしの腕を引っ張り、室外機にのかげにかがませる。
「ちょっと、やめてよ!」
「しーっ。静かに」
「なんなの?」
腹を立てながらも、わたしが息をひそめて彼に尋ねれば、彼は自分のバイタルブレスの画面を見せる。なにかアンテナのようなものが写されており、それが動いて、何かしらの変化を伝えようとしているようだった。
「その画面じゃ何もわかんないよ、なんなの?」
「微弱な電波の乱れをバイタルブレスが完治したんだ。なにがあったのかは分からないけど、もしかしたら“一番地の恐竜”が来るのかも!」
「……は?」
その言葉を、わたしは初めて聞いたはずだった。“恐竜”なんて、いかにも荒唐無稽で、鼻で笑ってもいい話なのに、なのに。
「ね、今なんていった!?」
「わ、静かにしてって! 急にどうしたんだよ」
「いいから! ねえ、今、“一番地の恐竜”って言った?」
「そうだよ、でも君には関係……、ねえ、どうしたの?」
「わたし、わたし……」
記憶が駆け巡る。ひろいひろい地平の彼方に、濃い赤を含んだ闇に満たされた部屋がうつる。
──“一番地の恐竜”。そうだ、わたしは。
「……その話、知ってる」
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「ねえ、知ってる? フブル。あの街の一番地には、恐竜がいるんだよ」
わたしの記憶の中で、真っ黒な顔のお母さんが、私の頬を撫でる。いつもそうだ。この人は、わたしに顔を見せてはくれない。
「一番地の地下の下水道には、真っ白い恐竜がいるんだって」
その言葉と一緒に、濃い、濃い鉄のにおいがわたしの鼻を突く。
「表通り近くの路地裏、ほら、さとう病院の裏のあそこだよ。路地の入口から数えて三番目のマンホール。夕方になるとあそこから顔を出して、近くにいる子どもを食べちゃうんだ」
その話を聞きながら、わたしは泣いていたっけ。そうだ、小さなわたしは泣いていた。だから、記憶にこんなノイズがかかるのだ。
涙を浮かべてしゃくりあげるわたしを、真っ黒な顔がのぞき込む。そこから聞こえるお母さんの声は、怖くなるほどに楽しそうだった。
「でも恐竜と出会って、助かった子どももいたらしいよ。なんでもその子は……」
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「ねえ、君、君! 大丈夫?」
男の子のそんな言葉が、わたしを現実に引き戻した。まぶたの裏に、まだあの赤が染みついている。
「……わたし」
空気がうまく肺に入らない。ひゅうひゅうと喉が音を鳴らし、ずきずきと頭が痛む。今のはなに? あんなのは初めてだ。自分の中にあんな記憶があったなんて、知らなかった。
わたしは何を覚えていたの? お母さんのこと、恐竜のこと、鉄のにおいのこと。でも、なんで、なんで。
「ほら、しゃんとしなって。ところで驚いたよ。きみ、誰からその話を聞いたんだい? 僕のまとめた都市伝説の大まかな輪郭とまるで同じじゃないか? 全体像をつかむにはこの僕でさえ、なかなか苦労したのに。それに恐竜と会って助かった子供がいたというのは僕は聞いたことがないな。是非とも内容が気になる! 続きを──」
「……教えて」
「え?」
「教えて! その、“恐竜”のこと!」
「ちょ、わかった! 話すから! 静かにしてって!」
わたしに肩を揺さぶられて、男の子は目を白黒させる。それでもわたしが真剣な顔で黙ったのを見れば、少し得意げに話し始めてくれた。
「なにって、この町で最近流れてる噂だよ」
「最近?」わたしのあの記憶は多分ずっと前のことのはずだ。
「そうさ。この路地裏の、そこにあるマンホールから恐竜が出てくるっていう。きみが話したままの噂だよ。ぼくはその噂に痛く興味を惹かれてね。下水道の白いワニの話は有名だけど。あの都市伝説の出どころはアメリカだ。日本ではマンガや小説のモチーフになることはあるけれど子どもたちの間でこんなふうに広まるのは少し変だ」
鼻持ちならない喋り方だけど、その目の熱意と、わかりやすく説明しようとする意図は明白だった。ひょっとしたらおにいちゃんより頭いいかも。
「それに“恐竜”っていう改変点も気になる。都市伝説って言うのは荒唐無稽に見えて、それが身近に感じられるものだから怖がられて広まるんだ。なんで“恐竜”、なんで下水道? とっても興味深いよ!」
「で、それを見張ってたの?」
「そう、バイタルブレスを裏ワザでちょちょいといじって、周囲の環境の変化に反応するようにしてね」
そうして彼が再び液晶の画面を見せる。思ったより時間がかかっていたのか今はもう五時手前だ。
「時間的にも夕方と言って差し支えないし。もしかしたら──」
ばちり
そんな音に、わたしと彼の息が止まる。
ばちり、ばち、ばち。
機械がショートした時のような音、何かが焦げた臭い。
──そしてそこに感じる、何かの確かな気配。
わたしたちはゆっくりと、恐る恐る振り返って、それを見た。
恐竜などではない。少なくとも、わたしたちのイメージするそれとはまるで違う。
そこに居たのは巨大な白い蛇だった。いや、本当に白いのかは分からない。その長い体を覆う金属質の鎧が美しく眩しい白だったというだけだ。鎧に覆われていないのは頭部から生える深い緑の羽毛だけで、そのそばからは蛇らしからぬ大きな金属質の羽を伸ばしている。
いいや、鎧に覆われていないものがもう一つ。白銀の隙間から覗く青い瞳が一対。
「……お母さんの噓つき」
恐竜じゃないじゃん、わたしがそこまで呟く前に、その瞳がぎょろりと動いて、わたしたちの方を捉えた。
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「……こっち!」
わたしは咄嗟に彼の手を取って走り出した。薄暗い路地裏はそこまで長くなかったはずなのに、まるで空気の上を這うように浮遊して迫ってくる化け物の存在を背後に感じながらでは、あまりに長く感じられた。
陽炎が揺らぐ道路を目指して路地裏を飛び出せば、わずかに橙色を含んだ西からの日差しがわたしたちを照らす。別世界に来たような感覚に、先ほどまでの全てがゆっめだったような感覚に襲われるけど──。
「まだ来る!」
男の子の声が本当かどうか振り返る余裕なんてなくて、わたしは再び走り出した。涼しい路地裏からの温度差にまだくらくらする頭を鞭打って記憶の地平を探る。
ここから二つ先の十字路を右、その後突き当りを左に曲がって、そうすると古い焼き肉屋さんがあるはずだから──。
「……もう潰れてるじゃん。覚え直さないと」
「ね、ねえ! どこに連れて気だよ!」
「いいから黙ってついてきて!」
そこから先はまっすぐ走るだけ。荒い息をついている男の子の様子が気になって一瞬振り返れば、その巨大な体で器用に曲がり角をこちらに向かってくる白蛇の姿も見えた。夏の暑さの中ではそれも悪い夢に見える。けれど、遠目にもわかる。白蛇の尾の先にある炎にも似た刃が曲がった際に道の端の電柱をかすったときにつけた傷。コンクリートをえぐったような跡が、それが悪夢よりも悪い現実だと教えてくれた。
「がんばって、ついてきて!」
男の子にそう声をかけてわたしも自分の心臓に鞭を撃つ。もうすこし、もうすこしだ。この先の曲がり角を曲がれば──。
覚えてた通り。その角を曲がってすぐ、右手に民家と民家の隙間のような小道がある。わたしは半ば飛び込むようにその道に入り、一拍遅れてきた男の子の手を掴んで無理やり同じ道に引きずり込んだ。
「わ! ちょっと……」
何かを言おうとする彼の口と、ひゅうひゅういう自分の口を抑えて、わたしはぴったり建物の壁に体を押し付けた。息を殺していれば少しして、がりがりとコンクリートを引っ掻く音と共に蛇が表の通りを通り過ぎて行った。
「……いったみたいね」
「え、あ、ほ、ほんとかい?」
へたへたと座り込む彼のことをからかう気にはなれなかった。わたしも滝のように流れる汗を手で拭い、壁に背中を預ける。
「感謝してね。わたしが道覚えてなかったら」
「……わかってるよ。ありがとう。道、詳しいんだね。このあたり、長いこと住んでるの?」
「今日来たばかり」
「え、でも……」
「来る時に地図を覚えてた。わたし、物覚えがいいの」
「はあ? でもさすがに──」
「フブル」
「え?」
「平野フブルだよ。あなたは?」
有無を言わさないわたしの自己紹介に男の子は首を振る。へんに見えるのは分かるけど、今はとても自分の人とは少し違うところを詳しく語る気にはなれなかった。
「……秋に波って書いて秋波(シュウハ)。鷺坂シュウハだよ」
「ヘンな名前」
「そっちもだろ!」
「……まあね」わたしは唇を尖らせた。
「それで、全然恐竜じゃなかったじゃん。なにアレ」
「僕だって知らないよ。でも」少し余裕を取り戻したのか、彼の瞳に熱っぽい光が灯る。
「これは大発見だよ! 下水道に住む浮遊する白い蛇!」
「恐竜じゃなかった」
「些細な問題だろう? 噂なんて変化するものだし……」
そう言いながら、彼は身を乗り出してわたしに詰め寄る。
「ところで! きみの覚えてた話だよ! たしかまだ続きがあったよね。恐竜に出会っても助かった子どもは、なにをしたの?」
「え? ああ……」
わたしは再びあの赤黒い記憶の地平に意識を巡らせた。
「おまじない」
「え?」
──恐竜と出会って、助かった子どももいたらしいよ。なんでもその子は地面に手を当てておまじないをいったんだって。“ポマード、ポマード、ポマード”。フブルもよく覚えておいて。
「……おまじないをいうの。ねえ“ポマード”って何?」
「“ポマード”? それってたしか口裂け女に会った時に逃げるための呪文だろう? 白いワニに似てるとこといい、なんだかしっちゃかめっちゃかな話だね」
「そう言われてもな……」そう言って、わたしは左手を地面に当てる。
「ちょっと、今やるのかい? あまりみだりにそういう呪文を唱えるとかえって……」
「“ポマード、ポマード、ポマード”」
シュウハの言葉を聞き流して、わたしがその呪文を唱えた時だった。
「……わ」
「え、おい、なんだい、それ」
アスファルトに触れた指先が眩しいグリーンに光る。そしてそれと同時に、わたしの指が感じていたざらざらとした地面の感覚がなくなる。恐る恐るさらに地面に手を付ければ、接地面を緑に輝かせながら、わたしの手はどんどんと地面に沈み込んでいった。
「ちょっと、それ、大丈夫かい」
「……うん」
その言葉に嘘はない。緑の光はあまりに異様だったけど何故だか怖くなかった。わたしはさらに手を地面に突っ込む。やがて手首にはめていたバイタルブレスも完全に沈み込んだところで、わたしの指先が、球体のような何かに触れた。
「……? なんかある」
それを手に掴んで引っ張り出せば、さらに眩しい光がその小道を満たした。
「なんだろ、これ。ねえ、シュウハ……」
そう言いながら顔をあげたわたしの目に映ったのは、恐怖に怯えて小道の入り口を見るシュウハの顔だった。
「え」
まさか、と目を横に向ければ、白蛇の青い瞳と目が合った。その頭をもたげ、小道を覗き込んでいる。
「あ、やば……」
息をのんでももう遅くて、蛇はずるずると空気の上を這い、わたしたちの目と鼻の先まで近づいてくる。
こんなとこで死ぬのはごめんだ。心はそう言っている。頭もいろいろなことを考えている。でも目からは勝手に涙が溢れる。これまでにわたしの瞳が記録したすべてがフィルムを早回しするようにまぶたの裏を流れていく。
最後に映ったのは、手元に握っていた緑に輝く球体だった。黄色の卵のような形をしていてるが、底から四方向に三角形が飛び出しており、さながら花開く前のつぼみのようだ。
これが、こんなものが、“恐竜”からわたしを助けてくれるのかな。虚しくなる。哀しくなる。
でもなにより虚しくて、哀しいのは、こんなものが、母さんがわたしにくれたただひとつのもの、馬鹿げた呪文の結果だったという事実で。
それは、やだな、すごく。
「こんなの、じゃなくて、もっと、もっと」
わたしはぐちゃぐちゃになった心のままに、それをほうりなげて、のどが裂けるほどの叫び声をあげた。
「──もっとちゃんと、わたしのことをたすけてよ!」
左手のブレスレットが眩しく光る。この光は、何色だろう?
赤か。
橙か。
黄かも。
緑じゃないか?
いや、青だ。
藍にも見える。
紫だろうか。
その答えを出す前に、私の視界はすっかり塗りつぶされた。
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「わ」
「ん、どうしたんですか、鈴代先生」
「す。すいません。急な風で、しょ、書類が」
「あ、手伝いますよ」
「ありがとうございます……。ところで、いま、何か声しませんでしたか」
「いや? 聞こえませんでしたけど」
「……そうですか。何かの鳴き声みたいだったんだけど」
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「……白鳥だ」
「白鳥管理官! よかった、つながった!」
「落ち着け、どうしたんだ?」
「緊急事態です。スルギの研究所で保管していたデータが……」
「何かあったのか? 閉じた回線のなかに閉じ込めていたはずだろう」
「それが、何者かによってネットに接続されていて……」
「おい、それじゃ」
「……はい、だから緊急事態なんです」
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「デジタル・モンスター、サンプル第Ⅴ号。仮称“ブイモン”が、脱走しました」
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鬼のような、人のような、それが、わたしを振り返り見た。
「……あなたは?」
わたしの背丈の二倍ほどもあるその鬼人を見上げ、そう呟けば、彼は何かの反応を返すこともなく、前に目を向けて、両手に握った木刀を構えた。
白蛇はその鎧をきしきしとすり合わせてうなりをあげる、そしてその体をくねらせて、先ほどわたしたちを追いかけていた時よりもずっと素早く、その体を鬼人に巻き付ける。
この蛇、さっきわたしたちのことを追いかけていた時は、全然本気じゃなかったんだ。
そんな絶望に声が漏れるが、鬼人はまるで動じる様子はなく、木刀を携えた手を持ち上げ、振り下ろした。
ただの木の棒だ。なにが切れるわけでもない。そんな思いは、白蛇の金属質の翼が地面に落ちるがちゃり、という音に覆された。
白蛇が痛みにうめくように咆哮する。それに追い打ちをかけるように、武人は木刀を、今度は二本同時に構えて──。
けれどその前に、白蛇は小道に設置されたマンホールに飛び込んだ。その長い体ががちゃがちゃと金属質の音を立ててマンホールに吸い込まれていく。ふたを開けたわけでもないのに、蛇がいなくなった後、その地面には傷ひとつなかった。
それを見送って、鬼人はわたしの方を振り返った。
「……あなたは」
わたしが口を開こうとすれば、彼がその大きな手を伸ばしてくる。おそろしさに目をつむれば、ぐしゃぐしゃと、その手がわたしの頭を撫でた。
「え」
顔をあげて口を開こうとしたとき、その体が緑色の光を放つ。わたしの視界は再び眩しい光に包まれた。
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「ねえ、ねえ、シュウハ、シュウハ!」
わたしが肩を揺すれば、うずくまって震えていたシュウハは顔をあげた。
「え、あれ、フブル、大丈夫なの? 僕たちあの蛇に……」
「うん、大丈夫だった」
「でも……」
「話はあと、それより、ほら──」
そう言ってわたしが示した指の先を見て、彼は声をあげた。
「え、あれ」
「うん、わたしも信じられないけど……」
わたしたちの視線の先で、その青が呼吸をするように上下する。
「……いたね、“恐竜”」
「うん、白くないけど」
小さな青い竜。そうとしか言いようのないものが、そこで眠っていた。
一読して最後の文でフゥと嘆息した直後に後書きでダメだった。夏P(ナッピー)です。
タイトルは素直にIRで行こうぜビジネス用語のそれと被せてカッコいい! ……のはともかくとして、学園都市的な感じでしょうか。タイトル以上に駅名と地区名がなげえ! そして終わってみてからサブタイトルを確認したら割と内容そのまま示していたッ。お兄ちゃんド派手に一話内で死相が見えてましたが生き残りましたね。一緒にいたのがお兄ちゃんだったら恐らく死んでたと思われる。
白蛇はちょうど今俺がVBで育てているサンティラモンだとばかり思っていたので、いや一話から小学生が生身で完全体に襲われるとは厳しいぜと戦慄しましたが、一度読み返してみたらこれはクアトルモンでしたな。黒塗りのお母さんの描写がちょっと怖いながら、それ以上に過去に聞いたおとぎ話と都市伝説で流れる噂話の重なる部分と異なる部分の意味合いは……?
フブルちゃん(?)は変わった名前だと思いつつ、時代設定的にこれがむしろナウい名前なのかと納得させようとしましたが、お兄ちゃん含めそんなに現代と変わらないセンスっぽいので、本人が仄めかしてる特別さ込みで名前にも何か意味があるっぽい?
保護者のおじさんは名前すら出てこなかった気がしますが(よな?)、最後の方で緊急事態とか騒いでるのがおじさんだったりするのかしら。二度ほど描写された先生は苦労人になる匂いがプンプンするぜェーッ!
最後ヤシャモン! これは一発でわかった! 描写に愛を感じる!
そしてTwitterでも申し上げましたが、俺は作者様毎に独自の世界観+各作品での年代的な繋がりを明示されるのが狂おしく好きなので、冒頭の年表に大興奮でした。
これはいい! 蝶・燃ゑる。
それでは今回はこの辺で感想とさせて頂きます。
タイトルが!!!!! なげえ!!!!!!!
略称とかどうするんでしょうね。思いついたら教えてください。募集します。
どうも、あとがきの書き方をすっかり忘れてしまったマダラです。
この度は「in Rainbows」第一話を読んでくださりありがとうございます。
2年振りの連載作品はストレートにやりたいことをやろう。面白いもの作るためにできること全部やろうと思って書いたら「デジメンタルの力を宿した子ども」が「都市伝説などの怪異に立ち向かう」という、なんというか、こう、公式や非公式にデカい前例があれこれないか!?!? 大丈夫か!?!? おい! 大丈夫なのか!?!? という感じになりました。
正直大丈夫じゃないです。助けてください。
まあでも、この作品だけのよさもいっぱいあると思います。そう信じて突き進むしかありません。そう、たとえば、えーと、そう、少女。これは昔の僕の作品をよく読んでくれてた人にしか分かんないと思うんですが、僕少し擦れた少女を書くのが世界で一番得意なんですよ。そうだよね。わかるなあ、わかる。
ガラにもなくこんな言い訳をしているのは、割と一話が薄味だったなあと思ってるからです。大丈夫。ここから面白くなる。自信はあります。
前の自分のやり方とは少し違う気もしますが、その変化が進歩であることを祈って、丁寧に、丁寧に、この物語を描いていきたいと思っております。
この物語は少年少女の物語です。僕は少年少女の物語が好きです。それは僕も、僕の大好きな人たちも、昔は少年少女だったからなのかもしれません。
だからここに、この物語はあります。どうか最後まで、ご一緒くださいませ。
あ、後ヤシャモンも好きです。サイコーだよねあのデジモン。わかる。