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○登場人物
僕(君):しがない男子生徒。グレイモンとメタルグレイモンをこよなく愛する。
君(私):ガルルモンが大好きな、僕の隣の席のちょっと気になる女の子。
僕の親友:後の漫喫の店長。オーガモン好き。
私の親友:ラーメン屋の娘、後に女将、何故か毎回クワガーモンに進化させてしまう。
アイツ(彼):僕のライバル。ダークティラノモンとメタルティラノモンが好き。
第一章
~無限大な夢の跡~
2022年8月1日(Mon)AM08:40
どこか囀る小鳥のよう。
ピピピッ、ピピピッ。
それは普段の僕の倦怠を覚ます、如何にも耳障りなスマホのアラームとは違っていた。
「んっ……」
壁掛け時計もない薄暗い部屋、時刻などわからない。ベランダへのシャッターなどこの部屋に越してきた時から開けた覚えが無いからだ。
だから一寸先は闇、転げ落ちるようにベッドから降りて──痛みも衝撃もなかった、実に不思議なことに──相変わらず鳴り続けている発信源らしい場所へと手を伸ばす。指先に触れている何かがあるはずなのに、僕のそこには何の感覚も覚えず、そこに在るものが何かを理解することができない。そんな風にして、暫し乱雑に仕事の書類が置かれているはずの座卓の下をガサゴソと弄っている間に、流石の僕も漠然と気付き始めた。
ああ、これって夢なのか。
自覚すると真っ暗な部屋の中ですら、容易に視界が澄み渡っていく。
乱雑なのは変わらないけれど、丸い座卓の上に広がっているのは仕事の書類ではなく、見るも懐かしいカラフルなテキスト群であり、壁には昔好きだったサッカーチームのポスターやカレンダーが貼られている。
そこは要するに、帰宅して床に就くだけの寂しい社会人の独居ではなく。
懐かしい実家の二階、確か高校卒業までを過ごした僕の部屋だったのだ。
「ふーん……」
なんで今更になってこんな夢を。
そんな疑念より興味とか面白さが勝った僕の顔は、知らない内に笑っていたらしい。
夢の中でそんな自覚がある僕自身のことが、何故だかおかしい。とはいえ、これが夢だとしても僕のやることは決まっているのだ。
さて、僕の記憶はどれだけ正確に僕の部屋を再現しているのか、それを知りたくて僕は改めて手を伸ばすと、今も尚鳴り続けている電子音を掴み取る。
果たして。
それは掌に収まるキーチェーン。
時刻は朝8時45分。
画面には空腹を訴える一体のサイボーグドラゴンの姿。
「メタルグレイモン……」
見間違えるはずもない。
それは僕の、僕にとっての。
四半世紀前の懐かしい友人の姿だったんだ。
◇ ◇ ◇
1998年2月16日(Mon)AM08:40
「あ、おはよー」
眠い目を擦り身を滑り込ませた教室で、二日ぶりの彼女の笑顔を目にする。
「おはよう……」
「なんか眠そうだね!」
月曜日の喧噪に塗れた教室にありながら、君の声は本当によく通ると驚かされる。
「ちょっと遅くまで勉強しててさ……」
ごめん、これは嘘だ。
言い淀んだ僕を見返す彼女は、右の頬を人差し指で掻いている。照れ臭そうな仕草とかではなくて、そこが何か痒いといった感じで。
「授業中寝ちゃダメだよ?」
「そ、そんなことはしないさ」
そう返す僕の表情は、上手く取り繕った色をできているだろうか。
隣の席の彼女の弾けるような笑顔は本当に眩しくて、それだけで学校に来た甲斐があるものだと思う。言うなれば太陽に負けじと咲き誇る夏の向日葵、僕のような日陰者にも等しく光を齎してくれるその恩寵は、果たして僕一人で肖ってもいいものなのか。僕は毎日のようにそんな独占禁止法に引っかかるかもしれない恐怖に怯えながら、彼女の隣で一日を過ごすのだ。スポーツ万能で文武両道、先生からの評価だって抜群。まさに僕にとって光そのものとしか言い表せない同級生女子の存在は、小学五年生男子にとってむしろ毒かもしれない。席替えで今回も隣になった時、僕は自分でもよくわからない歓喜と僕如きが隣でいいのかという不安を同時に覚えたものだが、後者は彼女の明朗さに充てられたこの一月半ほどで全て吹き飛んでいた。僕の心を乱す疫病神であり、同時に僕の世界に常にかかっている靄を振り払ってくれるのが彼女だ。
有り体に言うなれば、つまりはそういうことなのだ。
「そういえばさ、一昨日あの後進化したんだよねー」
「……うん? 完全体?」
「そうそう! これなら君にはもう負けないね!」
ランドセルの側面に取り付けられたキーチェーンを手に取って笑う彼女。クリアなボディにオレンジのフレームを取り付けたそれは、彼女の好みの色だっただろうか。
「じゃあ昼休みにでもバトる?」
「オッケー! あの子らも呼んどくね」
僕もまた手元のブラウンのキーチェーンを眺めた時、チャイムが鳴る。
時刻は朝8時45分。
画面には空腹を訴える一体のサイボーグドラゴンの姿。
「メタルグレイモン……」
今更名を呼ぶまでもない。
それは僕の、僕にとっての。
彼女との数少ない繋がりの一つだったんだ。
◇ ◇ ◇
2023年5月4日(Tur)PM07:30
久々に地元へ帰って実家へ立ち寄るも、懐かしの僕の部屋なんてものはとっくに無くなってしまっていた。
「そりゃそうだよなぁ……」
そもそも故郷を離れて早十年、両親こそ健在だけど実家はもう僕の居場所じゃない。彼らはいつでも帰ってこいなんて言ってくれるけれど、僕自身の気概がそれを許さない。それは小学生の僕を育ててくれていた頃の父母といつしか同年代になってしまった僕自身の自覚というか不甲斐なさから来るもので、つまるところ全て僕の心の中の問題でしかなかったんだ。
特に意味も無く両親には「日帰りするから」と嘘を言って実家を去り、僕は駅前の漫喫で夜を過ごしていた。
「……ふむ」
薄暗い個室の中、持ち込んだ今流行りの漫画やライトノベルをペラペラと捲っていく。最近はこういう機会でもなければ、世間様の流行には追い着けないと知っている。
歳を取る度に一日一日の印象が薄れていくのを実感している。今では昨日は、先週は、先月は、そして去年は何をしていたかなんてどんどん曖昧になっていく。流行りや話題は僕らが子供の頃なんて延々とそれで持ち切りになっていたはずなのに、大人になってみれば流行歌もアニメも映画もゲームも実に一過性のものでしかなく、定期的に自分から新しいものを摂取しなければ容易く置いて行かれてしまう。それを恐ろしいと思う。そういうものを自然と吸収できる環境に身を置かなかった我が身の落ち度とも言えるけど、今更それを言っても仕方ない。
子供の頃からそうなのだけど。
漫画でも小説でも、僕は熱しやすく冷めにくい。
だからこそ、次々と移り変わる流行に上手く乗り切れないのかもしれなかった。
漠然と将来に対する不安はある。自分はこれからどうなっていくのだろう、この歳になって足下が定まらず、大海原を彷徨う小舟に乗っているよう。両親は心身共に健康で自分も幸運にもその気質体質を受け継いでいる。だけどそれがいつまで続くかなんてわからない。元気だったはずの両親が突然亡くなったなんて話は、会社の同僚からよく聞くんだ。
変えなきゃ。変わらなきゃ。
そう思うのは事実だけれど。
どうやって変えるのだろう。
どうすれば変わるのだろう。
それを僕はわからないまま、今という時を生きている。
「お前は……変わらないなぁ」
いつだったか、久々に復刻するとネットで目にした時に懐かしいと思って買っていた。
液晶の中に生きる友人は、ドットこそカラーになっていたけれど。
グレイモン。
君は四半世紀前と変わらないままそこにいてくれるんだな。
◇ ◇ ◇
1998年3月10日(火)PM03:40
「毎回グレイモンにするよな」
「……うん?」
親友の前振りはいつだって唐突である。
下校時刻、家路の途中で幼稚園来の親友は僕の顔を覗き込んでいた。
「いや」
僕に聞き返されたことに戸惑ったのか、はにかんだように苦笑する親友。
「同じアグモンからでもティラノモンとかデビモンとかにもなるじゃん? だけどお前は毎回グレイモンにしちゃうし、そもそもいつまでver.1をやるのかなってな」
そういえば親友が今育てているのはver.3だったか。現時点での最新作だ。
僕は何故かずっとver.1を育てていた。以降のバージョンも決して持っていないというわけではなく、それぞれキチンと育てたことだってある。だけど今も持ち歩いているのはver.1だけであり、更には親友の言う通り毎回のようにアグモンからグレイモン、そしてメタルグレイモンへと進化させていた。
傍から見ればそれはおかしいのだろうか。特に考えたことは無かったけれど。
「僕はグレイモンが好きなんだ」
「それはわかるが……」
「それに、グレイモンに“する”んじゃないんだ」
そしてここにだけは、僕にも譲れないことがある。
「グレイモンに“なる”んだよ、僕が育てると」
僕なりに育てた結果こそが、あの勇ましい恐竜の姿。
それはもう間違いなく、僕がデジタルモンスターを好きな理由の一つだ。
デジタルモンスター、縮めてデジモン。僕のクラスでは今や男女問わず多くの人間が育てているそのデジタルペットに、僕も当然のように魅せられた。少し前に流行っていたたまごっちを躍起になって買い求めた母から、何度かそのお世話を任されたことがあるという流れもあったのかもしれない。だけど僕にとって何よりも大きかったのは、その世界観に心を奪われたことだった。
多種多様、千差万別のモンスターが生きる世界。そんな大人しいモンスターも凶暴なモンスターもいる世界を、僕らは育成師として外から覗いていく。そこに生きる彼らの姿に一喜一憂しながら自らのモンスターに餌を与え、トレーニングを行い、そして他のモンスターと戦わせるのだ。
自然、心が熱くなる。
自分にもそんな一面があるんだということを、僕はここで知ったんだ。
「ふ~ん……ま、いいけどよ」
親友は屈託無く笑い、懐からドックを取り出した。
「とりあえず、やっか?」
「……そっちこそ、またオーガモンじゃないか」
「うっせ!」
それ以上の言葉は要らない。
バトルを待つデジモンの掻き鳴らす軽快な待機音。
僕とグレイモンの心が昂るのがわかるこの時間が僕はとても好きだった。
「うおー! また負けたぜーっ!」
結果は僕の勝ち。
親友とは三世代ほど連続でグレイモンとオーガモンとでバトルを繰り広げている。勝率は僕が余裕で勝ち越していたと思う。そんなわけで、彼のオーガモンは完全体になれないこともあったりして、その辺りは申し訳ない気持ちもないこともない。
ただ、それはそれとして勝負に勝てるってのは気持ちいいものだ。
「くっ……まだだ、完全体になったら必ず逆転してやるからな!」
「いつでも相手になるよ。まあその時も僕が勝つけどね」
互いに顔を見合わせてクククと笑う。
彼とは幼稚園以来の親友だけども、デジモンを通じて一段と仲良くなったように思う。二人揃ってペットを飼えない家の子供だったからか、デジモンのことは本当のペットのように可愛がって、見せ合って、そして戦わせている。
こんな関係がいつまでも続けばいいって、僕は思う。
その時はきっと君も一緒だ。
グレイモン。
「そういえば隣のクラスのアイツには負けたんだったよな?」
「うぐっ……」
不意打ちの親友の一言に、嫌な思い出が甦ってきた。
◇ ◇ ◇
2023年5月5日(Fri)AM11:30
偶然の再会は最高に酒の肴になるとはよく言ったものだけど。
「いやー、まさかお前が俺の店にいるたぁな!」
チンと鳴らしたグラスが、商店街の外れにあるラーメン屋、その蒸し暑い店内の空気を涼ませてくれた。
まさか夜を越そうと思った満喫が、親友が店長を務める店だったとは。
最後に会ったのは大学を卒業した前後だったと思うから、もう十年以上の時が経っているのか。だけど漫喫の店長、と言ったら怒られたのでネカフェと言い直すが、とにかく今も地元で立派に働いている僕の親友は、大学生の頃と大して変わらない若く快活な笑顔でビールのグラスを飲み干した。
対する僕は昼から酒を飲む習慣が無いのでオレンジジュースだが。
「うわ、でもめっちゃ久し振りじゃん! アンタ帰ってきてるんだったら言ってよね!」
「いや何座ってんだよ店員だろお前、いや店長だろお前」
「どうせ他に客いないんだからいいじゃん」
「ゴールデンウィークにそれはどうなんだ、ここラーメン屋だろ」
妙齢、と言っても僕や親友と同い年なんだけど、とにかくいい歳をした女は「細かいこと気にすんなっての」などと言って僕の隣に腰掛けている。
「二人はよく会ってるんだ?」
「まあ時々な。俺はグルメだが、マズいラーメンを食いたくなる時だってあるわけよ」
「それ二度目言ったら殺すわよ。時々安酒飲みに来るだけでしょアンタ」
自分で安酒とか言っちゃってるし。
「でもアンタは随分と久し振りよね? どうよ東京は?」
「別に……そんな変わらないよ、同じ日本だ」
それは大学から東京に出ている身としての実感だけど、逆にここを離れたことのない二人にはイマイチ理解し切れない感覚だったらしく、顔を見合わせて「そーいうもんかね」などと言っている。
でも実際に思うんだ。
結局僕は僕だって、何があったって僕は僕なんだって。
東京に出たから、地元から離れたから、成人を迎えたから、就職したから。確かにそんな人生の契機と呼ぶべきイベント自体は無数にあったけど、それらを経た途端そこにいる僕は結局のところそれまでの僕の延長線上にいる僕でしかなくて、全く別の存在に突然変異を起こしたりはしないんだ。
人間は成長期が成熟期になるように突然変わったりしない。
僕はどこまで行っても、子供の頃の僕と変わったりしない。
グレイモンだけじゃない、僕もあの頃と変わってはいない。
ピピピッ、ピピピッ。
「っ!?」
そんな物思いに耽っていた僕の耳に、突然聞き慣れた音声。
え、僕うっかり音声ONのままだった?
「あ~、忘れてたわ」
隣の女がエプロンのポケットから取り出したそれに目を見張る。
デジタルモンスターver.4だ。今の僕が持つver.1と同じくカラー仕様ではなく、懐かしいモノクロの当時品。
「お、それデジモンか? まだ動くのって凄いな」
「そ。倉庫から引っ張り出してきてね、最近ウチのボウズがハマってんのよ」
親友の言う通り確かに凄い。
だって25年もの時が経っているんだ。とっくの昔に動かなくなって当たり前、物持ちがいいにも程があると思う。動く動かないどころか、僕らのデジモンなんてとっくの昔にどこかに行ってしまっていることだろう。
そこまで考えて。
はて?
何か大切なことを、忘れている気がした。
「ウチの子、今サッカー部の合宿行ってるからね、その間ちょっと任されてんの」
言いながら彼女は慣れた動作で餌やりとトレーニングを熟していく。
「手慣れたもんだな」
「昔取った杵柄って奴よ?」
「違いないな」
男と女、今も変わらず友人として付き合えている二人がクククと笑い合う。
奇しくも育成されているのはクワガーモンだった、四半世紀前と同じように。そういえば彼女は偶然なのか育て方の問題なのか、どうしても可愛いピヨモンが鳥になれずにクワガタになってしまうと嘆いていたっけかな。
「息子さん、今年で幾つになるんだっけ?」
「今年で11歳よ、小学五年生ね」
「それこそデジモンやってた頃の俺らと同じぐらいになるんだよな」
親友が懐かしそうに言う。
そう、あれはもう四半世紀前なのだ。僕は今でも昨日のことのように思い出せる日々は、隣にいる二人にとってはとっくの昔に過去の思い出の一つになっていた。
それが当たり前のはずなのに、どこか釈然としないものがあって。
「サッカー部ね。だから毎日大変よ、アンタらもフラフラしてないでさっさと結婚」
「うっせ! それにしても懐かしいな、デジモンか……」
「当時は随分とハマったもんよね。私とアンタらとあの子と──」
だからだろう。ただ「偶然だね、僕も育ててるんだ」と出すだけでいいのに。
あの頃と同じように育てているグレイモンを。
当時のモノクロの世界から色付けられた彼を。
きっと空腹でアラートを鳴らしている相棒を。
僕は彼ら二人に、見せることができなかった。
「………………」
それに。ビール、安酒とは言わないが、よく冷えたそれに口を付けながら思うんだ。
僕が小学校時代を共に過ごしたグレイモンは。
毎日持ち歩いていたver.1は。
果たしてどこに行ったんだっけ──?
◇ ◇ ◇
1998年6月10日(Wen)PM03:50
ピーッ! ピーッ!
鳴り響くけたたましい警告音。最早どうやっても止めることはできず、それは即ちデジタルモンスターの死を意味していた。
「ば、馬鹿な……私のクワガーⅤ世が……」
「ご臨終だ」
ワナワナと震える女子を尻目に、凶悪なことを言ってのける親友。
「てか何がⅤ世だよ、まだⅡ世ぐらいだろ」
実際、ver.4はまだ先月発売したばかりのはずだった。
夕焼けの帰り道、僕ら四人はいつものように育てたデジモン同士を戦わせながら歩いている。四月にクラス替えがあったばかりで僕らは同じクラスになったので、自然一緒に帰る機会が増えていた。
ただ同じクラスになったのは彼女を除いて、だ。
「オーガモン強いね、この間は私のガルルモンも負けちゃったしなぁ」
「おうよ。なんたって、俺のオーガモンは最強だからな」
「いや僕のグレイモンに負けてる時点で、お前のオーガモンは最強とは言えないと思う」
おっと、つい言わなくてもいいことを。
「もっかいやんぞコラァ!」
「望むところだよ」
売り言葉に買い言葉。
結局また親友のオーガモンは僕のグレイモンに敗北するんだけど、これもいつもの光景だ。六年生になって尚、僕ら四人はデジモンで盛り上がっていたし、そこに時折僕の苦手なあの男が乱入してきたりもするが、なんとなくその関係は変わらないと思っていた。
いや、そんなはずは無い。それはきっと逃避でしかなかった。
僕らは子供だ。そして行く行くは大人になっていくんだ。変わらないでいられるなんてことはない。来年で小学校も卒業、そうすればその先へと僕らの世界は広がっていくし、自分達がいつまでもこうしていられるなんて道理はない。だけど当時の僕は、そのことを理解していても納得はできていなかったんだと思う。
人は変わる。子供から大人へ、小学生から中学生や高校生へ。
デジタルモンスターだって変わる。もう先月ver.4が発売した。
だけど僕は僕のまま、今のままが良かった。
育てるデジモンだってver.1でいい。グレイモンがいい。
今ここにある世界が変わるのは、嫌だったんだ。
「あ、そういえばさ……」
だから。
「しばらくデジモンやれなくなるかも」
そんな現状を壊すような言葉が事もあろうに。
「受験……しなきゃいけないんだ、私」
彼女の口から出るなんて、僕は考えたくなかったんだ。
◇ ◇ ◇
2023年7月10日(Mon)PM07:30
「……うん?」
仕事帰りの駅前でいけ好かない男の顔を見た。
通勤時間帯の東京の喧騒にはとっくの昔に慣れたものだが、それは道行く群衆をモノとして、もっと正確に言えば背景のように認識しているが故のもの。会社の同僚を除けば知り合いなど誰一人いない土地だからこその割り切りだったというのに、いやだからこそか、その行き交う人々の中に見知った男の姿を認めればたちまちそこは背景ではなくリアルとして、僕にその本当の姿を垣間見せてくる。
向こうも僕に気付いた。周囲の音が消えるなんて都合のいいことは無く、ただ互いに口を幾度か動かして呼び合ってみる、男同士でやることじゃないな。
「──────」
「──────」
とはいえ、気付いてしまった以上は無碍にもできない。
昔から苦手だった男、駅構内の柱に背中を預けて僕は、全てにおいて僕より優秀だったアイツが近付いてくるのを待った。
相変わらずの仏頂面、最後に会ったのは新型コロナウイルスが流行る前、三年ほど前の高校の同期会──不本意だがアイツ、いやコイツとは小中高と一緒だった──だっただろうか。久々に顔を合わせた同窓の徒とバカ騒ぎをする中でも、コイツは変わらず仏頂面を保っていたことを思い出す。今日はキャリーケースを引いていることから、どこか出張に行った帰りなのかもしれない。
「久しいな」
「そうだね、凄い偶然だ」
昔からそうだ。僕はコイツと相対する時だけ露骨に嫌味っぽく、また皮肉っぽくなってしまう。
悔しいことに、全てにおいて敵わないと知っているからだ。何か一つでもコイツに勝てる分野があれば、まあ旧友として付き合っていくことも吝かではないのに、あらゆる面で負け続けると劣等感とか焦燥感とかそんな感情ばかり刺激されて、少なくともいい気分はしない。コイツ自身は何とも思っていないのだろうけど、それも込みで有り体に言って苦手な男だ。
「ふむ。……手にしているのはデジモンか?」
「あ、ヤバ」
改札を出ながら餌をあげていたから、そのまま右手で弄んでいたのだった。
慌てた様子の僕を見てコイツは少しだけ笑みを見せたようだ。
「……相変わらず好きなんだな」
「悪いかな?」
「悪くはない。むしろ好ましいと思う」
僕とは違いコイツの言葉に嫌味は無い。嘘は言わない性格なのだ、そこが逆に僕を苛立たせる時もあるが。
相変わらず僕の手元にはグレイモンがいて、それは四半世紀前と何ら変わらない。そして最強と信じたかつての僕のグレイモンは、目の前にいる男が育てていたデジモン、既に何モンだったかは覚えていないが、とにかく同じ成熟期にまさかの敗北を喫した。そうして僕は、仲間内の四人の中では無敗を誇った僕のグレイモンさえ、少しだけ外に目を向けてみれば結局のところ井の中の蛙でしかないという事実を否応無しに突き付けられた。だけどいつの間にかコイツは僕らの仲間に入っていて、後に発売されたver.5を特に好んで育てていた。コイツの育てるダークティラノモンの強さは圧倒的で、僕は殆ど勝てた覚えがない。
先述の通り、コイツはクールな男というだけで嘘も嫌味も皮肉もない。
だってコイツもまた純粋に楽しんでいたんだ。デジモンを、デジモンを共に育てる友人との日々を。
だけど仲間の中での最強の座を奪われた僕は最高に惨めで、どうしてもコイツに対する苦手意識を払拭することができなかった。勉強でもスポーツでも勝てない上にデジモンでも連戦連敗、そうなれば元々矮小な僕が更に卑屈さを増すのも当然だろう?
それでも中学から高校と進学する中、親友達とも学校が分かれてもコイツだけは一緒だった。逆にコイツが近くにいたからこそ、何事にも死に物狂いで励んで後れを取るまいとしたのも事実だし、何よりも育成ゲームからテレビアニメ、またテレビゲームやカードゲームへと大きく広がっていくデジタルモンスターの話題を共有できた唯一の友人もまたコイツだった。
だからだろう。親友達よりデジモン的な繋がりは強いと言えた。
「……俺も頼んでいるからな」
「え?」
コイツは下戸だったはずだから飲み屋に入るのもどうかな。
だから男二人でも妙な絵面だが入ったファミレス、もうタッチパネル注文が当たり前になったそこでコイツは唐突に言うのだ。正直、五分以上前の話題を普通に続けられても咄嗟に反応できなくて困る。
「え、それってデジモンの話だよな?」
「ああ。ver.5のCOLLAR版が秋には届くんだ」
「そりゃ知らなかった」
僕はあまり積極的に情報を仕入れるタチではない。ver.1のCOLLAR版が出ると知ったのも本当に偶然の話だ。
そこから僕らは自然、デジモン談議に花を咲かすことになる。苦手な部類と言いながら高校まで一緒だった男だ、やれ当時のデジモンカードやアニメの話題から、最近の展開で追えている内容まで話すことは様々だった。コイツは平凡な会社員である僕からしたら遥かに立派な仕事に就いていたはずだが、こうして顔を合わせていると性根は僕と変わらず四半世紀前のままのように思えた。淡々としていながらも確かに根っこの部分でデジモンへの愛情を感じる、そう思うのは僕がオタクと類される気質だからだろうか。
「手元に届いたら久々にバトるか?」
「僕のグレイモンの勝率が下がるだけだよね」
バトる。誰よりも落ち着いた大人に見えるコイツが、そんな小学生みたいな語彙を発したのが少しおかしかった。
「それもまた一興だ」
「お前は一強だったけどな」
「違いない」
そして対する僕のくだらないダジャレにも本当に嫌味なく笑ってくれるから、僕も自然と微笑んだ。あの頃の僕だったら笑えなかっただろうに。
「……お前は」
「うん?」
穏やかな目が、机に置かれた僕のデジタルモンスターver.1を捉えていた。
四半世紀前と同じようにグレイモンが、僕の育てたデジモンが収まっているドックを。
「本当にグレイモンが好きらしい」
「……そうだね、それは否定しないよ」
この四半世紀、デジタルモンスターが展開を広げていく中で本当に数多のデジモンが生まれてきた。
アニメやゲーム、映画と広がっていく世界と共に現れる多種多様なモンスターは、無論どれも僕らを夢中にさせてきたし、きっと僕らの後の世代にだって同様に夢を見させているのだろう。
だけど最初、デジタルモンスターver.1の発売を知る者として、グレイモンが一番好きであることは永劫変わらなかった。
究極体の概念が生まれ、アニメやカードで様々な特殊進化が定義付けられ、デジタルモンスターの世界は無限に広がりを見せていく。それでも僕にとって最愛にして最高のデジモンは、僕が初めて育てたアグモンから進化したグレイモンなんだ。
僕の育てた、僕だけのグレイモン。
「……さて。偶然か、それとも運命か」
「は?」
コイツはファミレスの天井を振り仰ぎ、そんな意味の分からない呟きを漏らした。
「そうだな……お前は偶然と言うだろうが、運命と捉えた方が面白いだろう」
勝手に納得をされても困るんだけどな。
そう言いたげな僕の表情に気付いたのだろう。コイツは暫しの逡巡の後、足元のキャリーケースから取り出したそれを机の上に置き、僕の前に押し出した。
「……?」
恐らく煎餅か何かが入っていたのだろう、A4程度のサイズの古びた缶ケースだ。一応汚れを拭き取られてこそいるみたいだけど、錆び付いた年期の入った代物だった。
ファミレスの机の上に置いていいものなのか、これ。
「お前が持っているべきだと俺は判断した」
「……意味がわからないんだけど」
言いながら缶に手をかける。中身まで錆び付いているのか、開けるまでに少し手間取ってしまった。
そこで初めて思ったんだ。
その缶をどこかで。
僕はどこかで見たことがあるような気がした。
「──────」
缶を開く。
ガコンと音がして。
それは中に混入した少量の砂か錆と共に缶の中から姿を現した。
「懐かしい思い出だろう」
目の前の男が言う。
咎めるように、突き付けるように。
小汚い缶から覗くそれらが逃げるなと、向き合えと僕に告げてくる。当時の僕が、僕達が本気で見ていただろう遠い日の夢の残滓、心の中で思い描いていた広大な世界。僕がもう少し立派な大人になっていたら懐かしいと笑い飛ばせただろうに、僕がもう少し子供のままだったら更に世界が広がることも許容できていただろうに。
「お前が持っているべきだ」
念を押すような言葉。だからコイツのことが、僕は嫌いなんだ。
どうして僕に託すんだ。
お前は何を僕に望むんだ。
今まで一切を忘却していた僕に。
無限大な夢の後の何もない僕に。
入っていたのは五枚の紙切れ。
そして忘れもしないはずだった。
僕のデジタルモンスターver.1。
君のデジタルモンスターver.2。
どんな考えでこれを持つ資格が僕にあるって、コイツは言うんだよ──?
◇ ◇ ◇
1999年8月1日(Sun)AM09:30
プルルルル、プルルルル。
「ちょっと電話出て~!」
階下の母親の声が響いて、どこか遠くで鳴っている電子音が電話の音なんだと初めて気付いた。
僕は中学入学の祝いに買ってもらったテレビを消し、ボソッと「はいはい~」程度に呟いて階段を下りていく。別段急いで取る必要も感じなかったし、日曜の朝は気怠いので僕の足取りは重い。
中学一年生の一学期を、ハッキリ言って僕は覚えていない。
当時の僕は最高に無様だった。無様で惨めで何よりも滑稽だった。
恐怖の大王なんてのは来なくて、結局一九九九年の八月は普通にやってきたので人類は滅びなかったけど、僕の心は滅びたも同然だった。
初恋が終わった。
君がいなくなった。
「あー、もう」
それだけで僕は抜け殻になった。
クラスが分かれてもデジモンで繋がっている以上、僕達はずっと友達だと信じていたのに、中学受験が終わって元通りの関係に戻れたと思ったのも束の間、卒業と共に彼女は東京へ転居してしまったんだ。そもそもが父親の仕事の都合で引っ越すことを前提として東京の私立校を受験したというのが真相らしい。そのことを知らされてもいないし気付きもしなかった僕は、究極的にピエロだった。
怒りというより失望や絶望が近い。僕は君のことを何もわかっていなかったんだって、否が応でも突き付けられた気がして。
「もしもし」
『もしもし、ちょっとアンタ早く出なさいよね!』
「……売上がヤバすぎて出前でも始めた?」
『それ二度目言ったら殺すわよ。ウチの店はいつだって大繁盛よ!』
明日にでも潰れてそうなラーメン屋の癖によく言う。
寝ぼけ眼を擦りながら、僕は不躾な電話をかけてきた友人に相対するのだけど。
「……で、何の用?」
『あの子、来てるわ』
それは僕の意識を覚醒させ、全てをすっ飛ばして家を出させるに値する情報だった。
自転車を走らせて長い坂道を下っていく。いつもならのんびり半刻かけて向かうラーメン屋への道がやたら遠く感じる。最近ご無沙汰なデジタルモンスターver.1は本能的にポケットに入れて家を出ていたし、きっと彼女が好きになるだろうガルルモンの完全体、ワーガルルモンの情報も部屋の本で一度確認した。抜かりはない、そのはずだ。
自転車を駐輪場に押し込み、店に駆け込んだ僕の目の前に。
「お久しー!」
まだ10時前なのにカウンター席でラーメンを啜っていた君がいたんだ。
「……え、朝ごはん食べてないの?」
「まあね。朝イチの電車で来たからさ」
「そりゃ……ご苦労様だったね」
君に会えたなら、それはもう言いたいことが沢山あったはずなのに、文句なんてきっとどれだけ言っても足りないはずなのに。
実際に君を前にした僕の頭からは全て吹き飛んでいた。前と全く変わらない君の姿を視界に入れた途端、僕は恥ずかしいぐらい多幸感に満ちていて、それ以上の言葉が浮かばなかったんだ。五年生まで同じクラスで何度も隣の席で見た笑顔だ。それを僕が見間違えるはずもなく、その弾けるような笑顔もはにかんだ時にチラリと覗く八重歯も肩より上で切り揃えられた茶色がかった髪も同年代と比べて随分とボーイッシュ、というか下手をしたら僕より快活そうに見えるTシャツと短パンも、全てが記憶通りの彼女が僕の視界には確かにいた。
いや思えば最後に会ってからまだ半年も経ってないんだけども。
「ご馳走様でした」
行儀良くパタンと手を合わせる君の隣に座ったはいいものの、僕は何を言えばいいかわからず頬を掻いている。
どうしたものかと思って横を見ると、ふと髪色と同じ茶色の瞳が僕の顔を捉えていた。
「な、何……?」
「ね」
君が僕の手を取る。何の躊躇いも無く。
それは恥ずかしながら、生まれて初めての経験だった。
「駅まで少し、歩かない?」
「え、でも」
振り向こうとした途端にバシンと背中を叩かれる。
行け、君の親友である女子が言外にそう告げていたので、僕に断る理由は無かった。
「全然変わらないなぁ~」
店を出て君と二人で駅を目指して歩く中、君がそう呟いた。
「そりゃまだ半年も経ってないからね」
僕の言葉に君は「そっか」と言うも納得した様子ではなくて。
親の手伝いで買い物に来るスーパー。
僕やアイツがよく立ち寄ったカードショップ。
校外学習で世話になった駄菓子屋。
僕にとっては未だ生活の一部でしかないその光景を、君はどこか懐かしむように見つめていた。
「東京はどう?」
「そうだね、デジモンやってる子はいないっぽいかなぁ」
君が通うのは女子校と聞いた。流石に女子だけの空間でデジタルモンスターにハマる子は珍しいらしい。
「……君は?」
「え?」
「今も好き? デジモン、グレイモン」
少し屈んで上目遣いに僕を見る君の姿に怯む。少しだけ躊躇いがあった。
「うん、変わらないよ」
僕自身、何故そこに躊躇いが生まれたのかを理解できなかった。
同じ中学にそのまま通い始めた他の三人とは変わらずデジタルモンスターで盛り上がっている。プレイステーションでゲーム化し、この春にはテレビアニメも始まった。今朝だってちょうど9時半までそれを見ていたところだった。新シリーズのペンデュラムも僕達の間では変わらず流行っている。むしろデジタルモンスターを取り巻く環境は小学校時代と同じ、いや当時よりもっと隆盛しているはずなのに。
そこに君がいない。
ああ、実に情けないことに。
僕の中で思った以上に君の存在は大きかったということだ。
君とデジモンの話をすることのウェイトは、想定より遥かに僕の多くを占めていた。
君が育てたガルルモンと僕のグレイモンとでバトルすることが好きだった。
「そ。良かった」
「……何が良かったの?」
「君が変わらなくて」
にっこりと笑って君は再び歩き出す。
前を行く君の背中は、昔より何故だか小さく見えた。五年生の時までは僕より大きかったはずなのに。そういえば僕が君のことを君と呼ぶのと同様、君も僕のことを君と呼ぶんだね。それを初めて認識した気がする。それはもしかしなくても、幸せなことだったのだろうか。
「君の方はどうなの?」
「どうって?」
「デジモンのこと、もう好きじゃないの?」
「好きだよ」
即答。僕よりずっと明確な意思と共に答える君は、やっぱり僕の知っている君だった。
「好き……だよ」
なのに。
二度目を告げる声が弱々しくなっていくことに、僕は本当に不覚にも気付かなかった。
「最近出たもんね、ガルルモンの完全体、ワーガルルモン」
「……うん、カッコいいよね……」
「アニメでも活躍してるしねガルルモン、じゃあペンデュラムの──」
「ねえ」
話を遮るように告げられた言葉にビクッとする。君のこんな声は初めてだったから。
君は僕に背を向けたまま立ち止まって。
「君は……グレイモンに会ったことはある?」
振り向いた顔、僕に向けられたはずの目は、その実僕ではない何かを見つめているかのようだった。
泣いている? 怒っている?
そんなはずはない。君は穏やかに微笑んでいるだけだ。
でもそんな柔和な笑みこそが君らしくないと僕は、僕だけは気付けたはずなのに。
君はいつだって太陽のように笑っているべき女の子だったはずなのに。
「どういうこと? グレイモンに会った?」
「……そ。ああ、そっか……そうなんだ」
要領を得ず聞き返してしまった僕に、君は何か一人で得心したらしく。
私だけか、やっぱり。
僕の耳が通常通りに機能しているなら、君はその時そう言ったように聞こえた。
「何でもない、忘れて」
それきり君は元の君に戻った。小学校時代と同じように取り留めのない話で盛り上がって駅までを歩いた。
今日ここに来たのは本当に思い付きだったんだと君は言った。旅費や学校のこともあるからまた来れるかどうかはわからないと。
でも僕は致命的なぐらい楽観的だった。究極のそのまた超越的なまでに愚か者だった。だって君はこうしてここに来てくれた。だったら次もある、その次だってある、六年生になってクラスが別になってしまったのと同じ、きっとこれから何度だって会えるんだ。そんな風に軽く考えていて、そこからずっと後悔し続けることになるなんて思いもしなかったんだ。
「……ね、良かったと思うよ、私」
改札で振り返る君。どういうことかわからない僕。
「君とデジモンをやれて、君がデジモンを好きで」
「それは、僕も」
僕が言い終える前に鉄柵の向こうから君の細い腕が伸び、思わず伸ばし返した僕の手に君が差し出したそれが乗る。
「だからね、君に持っていて欲しいんだ」
破顔、それを美しいと思った。改めて可愛いと思った直後には、往来の人々に吞まれていく君の後ろ姿が僕の見た最後の君の姿だ。
君の抱えているもの、君が敢えて今日ここに来た意味を僕は知る由もなく、当たり前のようにまた会えるものだって信じていた。それは後になって思えばどこまで馬鹿な考えだっただろう。
でもどうすれば良かったんだ? この時代はまだ学生が携帯電話を持つことは一般的ではなく、君の東京の家の住所も電話番号も僕は知らなかった。デジモンで繋がっていた関係、当たり前のように学校で会う相手だからそれ以上を考える必要は無かったんだ。あと半年遅かったなら、アニメで登場したオメガモンにグレイモンを育てている僕とガルルモンを好きな君に重ねて、噴飯ものの台詞で告白していたかもしれない。
だけどしなかった。まだ僕達には次があるって思っていたから。
「君にはずっと、デジモンを好きでいて欲しいんだ」
何十年と残り続ける君の言葉。懇願にも似た君の最後の言葉。
僕の手の上には、君が差し出したもの。
何かイラストと文字が書かれた五枚の紙切れ。
そして。
画面にヒビの入ったデジタルモンスターver.2。
ああ、どうしてその時僕は気付かなかったんだろう。
これ。
まるで形見じゃないか。
◇ ◇ ◇
2023年8月1日(Tue)AM10:00
きっとあの時の僕は夢を見ていたんだ。
仕事の休憩中、僕は我が社の屋上に出て空を見上げる。こういう時、煙草でも吸ったら一応の格好は付くのだろうか。
手元には五枚の落書き、いや描いた当人は全く以て真面目だったと思うけど、落書きにしか見えない五体のデジタルモンスターのイラスト。
グレイモン。僕の育てたモンスター、僕が一番好きなモンスター。
オーガモン。親友のお気に入りのデジモン。怪力自慢の暴れん坊。
クワガーモン。彼女が何故か毎回進化すると嘆いていたクワガタ。
ダークティラノモン。憎きアイツが育てていた僕にとっての宿敵。
そして。
ガルルモン。君が最も愛した、君を象徴するデジタルモンスター。
とっくに起動しなくなったデジタルモンスターver.1とver.2もある。
「……はは」
ベンチに一人腰掛け、乾いた笑いを漏らす。
ああ、中学一年生が書いたとは思えない。
なんてヘタクソな絵だろう。
パソコンなんてもの当時はなく、君の雰囲気通りの達筆で、だけど君に似合わない絵空事に満ちた詳細緻密な設定が、それぞれの裏面には記されている。僕らのデジモンがそれぞれデジタルモンスターの世界で果たしてどこにいて、どんなデジモンと戦って、どんな風に生きているのか、そんな空想がつらつらと書き綴られていた。
全ては空想、子供の絵空事。
だけどこの土地から離れ、あの日を最後に二度と会わなくなった君が遺したのがこれだった。現実は無情にも僕らの友人付き合いすら容易く断ってしまったけれど、それでも空想の中ぐらいでは前と変わらず友人として、仲間としていたいと。僕らが友人だったことは決して夢や幻なんかじゃなくて、現実にあったことなんだと。
そしてせめて。
かつて隣の席だった僕にはそのことを知っていて欲しいと。
これは自惚れか、僕の。
「……言ってよ、だったら」
聞く者は誰もいない独り言。
きっと未来も同じようにデジタルモンスターを通じて繋がっていける。僕はそんな風に考えていたけれど、君はあれ以来二度とこの土地を訪れなかった。復活したと思った僕の初恋は今度こそ天に召された。抜け殻から脱したはずなのに、僕は実働一日でまた抜け殻に戻ってしまった。
だけど、それだけなんだ。
本当にそれだけだったんだ。
だって中学、高校と大人に近付いていくにつれて君のこと、デジモンのことを自分でも驚くほど忘れていってしまったんだから。中学まで一緒だった二人、高校まで被ったアイツと違って小学校、しかも同じクラスになったのは五年生までだった君を、僕は気付けば思い出すことは無くなっていた。高校卒業と共に地元を出て東京の大学に入学した時、どこかで君のことを考えていたのかと聞かれたら、それは断じて否だった。
僕には昔から三人の気の置けない友人がいて。
小学生の時、そこにはもう一人仲間がいたってだけのこと。
いや。
正確に言えば一度だけ、思い出したことはあったように思う。
高校生の時、四年続いたデジモンのアニメが終わると聞いた時、僕はふと君から渡されたもの達を缶に収めていたことを思い出したんだ。その頃には薄々君の意図に気付いていた僕は、改めて実感したあの日の僕自身のあまりの馬鹿さ加減に居た堪れなくなり、それを捨てようとしたんだ。だけど三日三晩考えて、結局捨てられなかった。その行為は楽しかった子供の頃の思い出をも否定してしまう気がして。
『俺が預かっておこう』
たまたま僕の家に遊びに来たアイツが、そう言って持って行ったのだ。
それを僕は忘れていた。否、忘れようとしていた。
それなのに突き付けてくる。アイツがどういうつもりか返却してきた缶から、忘れていたままで良かったはずの過去が押し寄せてくる。
まるで玉手箱だ。思い出を美しいままでいさせてはくれず、僕が無為に過ごした時間とそれによって取り返しが付かなくなってしまったもの、それらは僕自身を嫌でも後悔の海に叩き落とす。
「……グレイモン」
あの日からだ。懐かしいデジタルモンスターを夢に見たあの日。
かつて毎日一緒に生きてきた最愛のデジタルペットが夢に現れたあの日。
あの日から僕はずっとおかしいんだ。忘れたはずの過去に、忘れていたはずの君の面影に振り回されている。僕のグレイモンと君のガルルモンが毎日のように戦った遠い過去に囚われている。
グレイモン、僕のグレイモン。
いつだって真面目に育ててきた。アグモンがそれ以外に進化することなんて考えたことは無かった。常に満腹と筋力の最大値を保って強く在るよう努めた。ver.2以降が発売した後もグレイモンこそが最強だと信じて、僕はがむしゃらにver.1を育て続けた。
何故かって? 答えは至極簡単な話。
勝つ為だ。
親友のオーガモンに。
彼女のクワガーモンに。
アイツのダークティラノモンに。
そして。
君のガルルモンに。
僕の大切な友人達全員に勝って、僕の育てたデジモンが、僕のグレイモンが世界で一番強いと証明する為だ。
それは四半世紀経っても、彼の体が鮮やかに彩られるようになっても決して変わることはない。僕はデジモンが好きだ、グレイモンが好きだ。初めて見たあの日から、グレイモンこそが最高のデジモンと信じ続けている。
「……いや」
嘘だ。真っ赤な嘘だ。
僕は思い知らされてきた。身の程を知らされ続けてきた。
ガキが世界の広さや厳しさを知って大人になっていくように、デジタルモンスターも究極体や更にその先が次々と登場して世界観が広がっていく。その中でグレイモンは悲しいことに一介の成熟期でしか無く、とてもではないが最強とは呼べなくなっていた。僕が自分自身が大した人間にはなれないと思い知ったのと同様、グレイモンもまた自分には数え切れない上の存在がいるのだと示された。
別にそれが直接の原因ではないはずだ。
だけど気付いた時、僕はデジモンを忘れていた。
大学を出た。会社員として働き始め、やがて先輩や後輩ができた。様々な人間と付き合う中で、自分のコミュニティを否応なしに広げていかなければならなくなった。日々の仕事や付き合いに忙殺され、徐々に加速していく日々の過ぎるスピード。ただ職場と家とを往復するだけの色褪せた毎日を熟していた。
そんな時、夢見てしまったんだ。
夢の中に現れた恐竜は当時のモノクロのドットではなく、黒と橙とに彩られた姿をしていた。それでも僕はグレイモンだとすぐにわかったよ。僕がまさか見間違えるはずがないじゃないか、だってグレイモンは僕にとって小学校時代を共に生き、友人達との多くの戦いを切り抜けてきた相棒なんだから。
デジタルモンスター、懐かしい友を思い出した。
世界が色付き始めた気がした。
ちょうどプレミアムバンダイで受注していたデジタルモンスターCOLOR、それはまさに夢で見た通りの代物で迷わず注文した。勿論ver.1を選び、果たして僕の手元に届いた懐かしのドックには、僕が夢見たのと同じように彩られたかつての友がいたんだ。
グレイモン。僕のグレイモン。
ワクチンとかデータとか無かった時代から勇壮だった僕の相棒。戦いに明け暮れた果てに全身を機械化して完全体メタルグレイモンとなる橙の恐竜。
彼の姿は自然、僕にデジモンと共に過ごした過去を思い出させた。
四半世紀、口にしてみれば大したことのない時間だけど、記憶を辿れば遠い昔の話だ。親友達は立派にそれぞれの人生を歩んでいて、立派かどうかはともかく僕だってとっくにいい歳のおっさんになっている。
だけどデジモンと向き合う時、昔の相棒と巡り会った時、僕は確かに同じく昔の僕に戻れる気がしたんだ。
「……そんな時代があったんだよな」
一人ごちる。結局、気がしただけの幻。
思い出した記憶から得たのは寂寥感だけ。
それがどこか今の僕を惨めにさせる。
僕の手元にある落書き、君の遺したそれも僕に今を突き付ける。
とんでもない空想を、くだらない絵空事を夢見ていた時代が僕にもあった。グレイモンと一緒なら何でもできると思えていた頃は確かにあった。無限の未来を思い描けていた少年時代は僕にだって絶対存在していたんだ。
「あ、進化した……」
甲高い音と共にグレイモンが姿を変える。
完全体へ、更に先へ。子供時代、いずれ大人になる自分を重ねていた完全なる存在、メタルグレイモンに。
じゃあ。
僕はどうなんだろうか。
夢見ていた未来、無限大な夢の後。
グレイモンは変わらずそこにいてくれたけど進化した。
『君にはずっと、デジモンを好きでいて欲しいんだ』
あの日、最後に君が言った言葉が脳裏に響く。
君のその言葉を振り返りもしなかった僕は。
大人として自分の身の程を思い知った僕は。
相棒のように今より先へ進むことができるのだろうか──?
幕間①
~Boyhood~
自分の家は裕福ではないのだと漠然と理解していた。
それでも親を恨んだことは一度だってない。父も母も俺を立派に大学まで行かせてくれた自慢の両親だ。唯一恨みがあるとすれば、俺が育てていたデジモンを毎回ヌメモンにしてしまうことだったが、それだってデジタルモンスターと出会わせてくれた事実からすれば些細な恨みだった。
テレビゲームもスポーツもテレビ番組も俺には縁遠いものだった。
小学校時代、授業が終わればすぐに帰宅して黙々と勉強するのが当たり前だった。家庭環境を思えば塾に通う余裕も無かったが、そのおかげで成績は常にトップだった。一方でクラスメイトが休み時間に盛り上がっている話題に混ざれないことに関しては、どうしても物悲しさがあった。友人と呼べる者は一人もいない俺は、どうすれば誰かとあんな風に話し、騒ぎ、笑い合えるのかまるでわからなかった。
俺にとって世界とは常に俺と両親だけで完結しているもので、そこに学校という空間では担任教師が一人絡んでくる、それだけの狭い世界だった。
そんな時だった。確か小学四年生か五年生の夏。
「これ、めちゃくちゃカッコよくね!?」
隣のクラスの前を通りがかった時。如何にも軽薄そうな男子が分厚い雑誌を片手に友人と話していた。
校則違反の馬鹿が、自他共に認める冷笑家である俺はそう心中で嘲笑して立ち去ろうとした。だがチラリと見えた雑誌の記事、そこに描かれていた恐竜や炎の人型、悪魔やナメクジといった統一性の無い生物達が俺の気を引いた。
それがデジタルモンスターとの出会いだった。
誕生日の時期以外で、親に生まれて初めてたった一つの我が儘を言った。そうしてデジタルモンスターver.1が我が家にやってきた。
無敵になった気分だった。育て方によって千差万別に姿を変えるアグモンやベタモンは俺を夢中にさせた。どういった基準で進化先が決まるのか、それを考えるだけで無限に時間を潰すことができた。恐らく半年弱かかったと思うが、その時点での成熟期は全て進化させることができたはずだ。
だがそこまでだった。
俺には友人がいなかったから、自然デジタルモンスターもそこで進化を止めた。進化の頂点に位置する完全体、そこに辿り着くには他のデジモンとのバトルが必要だったのだ。俺には当然そんな相手はいなかったから、必然的に友人、それもデジタルモンスターをやっている友人を作ることが俺の急務となった。
そしてその時は訪れた。
正確に言えば、俺が自分で作った。
「俺とバトルをしよう」
「……は?」
我ながら信じ難い行動力だった。後から思えば、この積極性があれば今までも容易く友達を作れたのではないか?
「君は確か隣のクラスの……」
満を持して隣のクラスを訪れ、俺はそいつに話しかけた。デジモンを知った時、雑誌を手に騒いでいた男の友人らしき奴だ。後続が出ようと俺と同じデジタルモンスターver.1を育て続ける者だとも知っている。
「デジモンが強いらしいな、お前」
「……いや別にいいけど、そっちもデジモンやってるんだ?」
俺のデジモンの初陣。けたたましい待機音と共にバトルの時を待つエアドラモンは、普段の数倍強そうに見えた。
「音は消しなよ、先生にバレたら取り上げられるよ」
「やかましい」
「いや、やかましいのはそっちだって……」
言われて初めて気付いた。
思わず言い返してしまったが、以後気を付けよう。
「ぼ、僕のグレイモンが……?」
バトルを数回やったが、結果は俺の勝ちだった。
何故ならエアドラモンだ。この男がグレイモン好きでほぼグレイモン一択で育てていることは事前に知っていた。だからこそグレイモンに勝ちやすいとされるエアドラモンを俺は準備した。それらの情報を完璧に把握して確実に勝つべく俺は少ない小遣いでムック本を集めて読み漁り、ただこの時の為に準備を重ねた。その結果が今だ。この戦いによって奴に俺の存在を植え付けることに成功した。
だがそれだけだ。友人になれたとは言えず、奴とは時折廊下で視線を交わすだけの関係でしかなかった。
まだ足りない。奴とは友人になれていないし、デジモンを完全体にするには成長期の頃からバトルを重ねなければ。
それにエアドラモンではダメなんだ。いやエアドラモン自体も好きなデジモンではあるのだが、俺が一番好きなのはティラノモンだったからだ。ティラノモンを育て上げて奴に勝ち、完全体に到達する。それが俺の抱いた野望だった。
だから六年生のクラス替えの後、彼女が同じクラスになったのは僥倖だった。
「お前もデジモンをやっているのか」
「え、何?」
昼休み、廊下に出た女子を俺は呼び止めた。話しかけるのにクラス替えから一月経ってしまったのは、俺の不徳の致すところだったが。
「アイツらから聞いた」
「え、いや何?」
聞いたというより盗み聞きしただけではあるが、この女子が奴らのデジモン仲間だということは知っていた。
ボーイッシュで背の高い女。傍から見ているだけで奴がこの女子にどういった感情を抱いているのかはバレバレではある。しかしこの女、こちらは端的に目的と話しかけた理由を開示したにも関わらず、まるで要領を得ないとばかりに目を瞬かせている。少し天然が入っているのかもしれない。
「……没収されない?」
「気は付けている」
「いや気を付けて済む問題……?」
俺がデニムから下げたデジタルモンスターに気付いたらしいが、あの日の奴と似たようなことを言う。
「アイツらって」
「何度かバトったことがあってな」
「バトったって……」
何度かというのは嘘だ。あの日の五戦が俺のデジモン人生で唯一のバトルだった。
「悪いけど私、そろそろ引退すると思うよ、デジモン」
「そうか。だが別段嫌いになったというわけではないのだろう?」
「そりゃあ……」
初めて聞く情報に一瞬だけ怯んだが、ここを逃したら奴らと繋がれる線がない俺は、必死に食い下がらざるを得ない。
「つまり、だ。奴らと仲がいいんだろう」
「紹介して欲しいってこと?」
「話が早くて助かる」
天然と言ったのは訂正しよう。この女、随分と聡い。
「いいけど、でも弱い人は紹介できないなぁ~」
「ふむ。……俺は奴のグレイモンに勝ったことがあるぞ」
挑発だとわかったから挑発で返す、これが礼儀だろう。
「面白いじゃん、じゃあ私のガルルモンともバトルしようよ!」
「……デジモンはやめるのでは?」
「それはそれ、これはこれだってさ! 彼、凄くデジモン強いんだよ! それに勝ったとか凄いって!」
興奮のあまり俺の左手を取ってブンブンと回す女。
なんとなく。
本当になんとなくだが。
奴がこの女に好意を抱く気持ちも、少しだけわかる気がした。
「はい! というわけで、私達に新しい仲間が加わります!」
果たしてその女のガルルモンを叩きのめした放課後、俺は奴ら四人と友人になった。
「げっ」
奴はそんな失礼な声を漏らしていたが。
俺に初めてデジモン仲間ができた。
毎日のようにデジモンの話題で盛り上がり、休み時間や帰り道には何度もバトルを繰り返した。程無くして俺を奴らと繋いでくれた女は中学受験ということでなかなか集まれなくなった。というより、俺を仲間に入れてくれた理由の一つには今まで通り遊ぶのが難しくなる自分の代わりという理由もあったようだが、彼女を除いた四人でも変わらず俺達はデジモンを好きでい続けた。その中でver.5が発売し、そこで紹介されたダークティラノモンに一目惚れした俺は、メイン本体をそちらに移行して奴のグレイモンと激闘を繰り広げた。
そして到達したんだ。メタルティラノモン、デジモンと出会って初めての完全体に。
世界が広がった気がした。ずっと一人で過ごしてきた俺の人生が、俺の世界が初めて一人ではなくなった。
デジモンは数多のバトルを経験して初めて完全体に進化する。それは逆に言うならバトルをしなければ、即ち誰かと繋がることが無ければ決して完全体には到達できないことを意味する。なればこそ俺の手の中で進化したメタルティラノモンは、そして同時に進化した奴のメタルグレイモンは、俺達がデジモンで繋がった友人でいることの証だったんだ。
だから、感謝している。
自分は間もなく疎遠になると知りながら俺と奴らを繋げてくれた彼女に。
俺のライバルとしてグレイモンを育てている奴に。
そんな奴らと俺を出会わせてくれたデジタルモンスターに。
小学校の卒業と共に彼女は俺達の前から姿を消し、高校進学に際してそれぞれの親友とも進路を分かたれたが、俺と奴は高校でも変わらず折に触れてデジモンの話題で盛り上がりながら友人でい続けた。流石に大学生になる頃にはデジモンの話題が出ることも稀になったものの、俺達は東京で顔を合わせればファミレスで数時間駄弁る程度には友人だった。
そんな俺達の根底にはデジタルモンスターがあった、だから。
リアルも。
デジタルも。
どちらも俺にとっては切り離すことのできない、大切なものだった。
第二章
~あなた無しの世界で私は~
1998年2月14日(Sat)PM03:45
例えるなら、泡沫の夢。
そんな詩的な表現を思い浮かべながら、私は空を見上げた。
元々が東京生まれ東京育ちの私にはまるで縁の無いはずだった、遮るものが何も存在しない綺麗な空。都心から特急で二時間足らずの土地に越してきて早数年、それにも大分慣れたはずだけど視界に映る空は、私の知る田舎の空とは違っていた。ただ青いだけではなくて、至る箇所に雲とは別のノイズが走るその空は如何にもな作り物で、私が身を横たえる見渡す限りの草原とは正反対の実に異質な光景だった。
「てか、ここどこよ……?」
まず浮かぶその疑念。そもそも私、確か学校帰りに家まで来てもらった彼にバレンタインのチョコを渡した後、ずっとベッドでゴロゴロしていたはずだけど……?
どこか機械的な空を鳥が飛んでいる。やけに大きい。
首を横に倒して草原を見れば、群れを成して走っているのは見知った動物じゃない。
だから夢、きっと寝ぼけて土曜の昼から変な夢を見ているんだ、私。
「痛っ」
そう思って身を起こそうとした途端、掌がチクッとした。
そこで気付く。私の視界は地面よりちょっとだけ高い。どうも私は純粋に草原の上で寝転んでいたのではなく、何か別のものの上で大の字になっていたらしいと。そして付け加えて言えば、その何か別のものから生えた草のような毛のような何かが掌に擦れて、今の痛みを引き起こしたらしいと。……ちょっと待って、痛み?
意識してみればその何かに預けた背中は服の上からでもゾワゾワと尖った何かが擦れる感触がある。
白銀の何か。それが生物の体毛であることはもう明白だった。
空を大きな火の鳥が飛んでいて、草原をサイに似た恐竜みたいな生物が駆けている。
そんな世界の中で私、人間を遥かに超える何かの上で寝転んでいる。
それはひょっとしなくても、マズいことのように思えた。
「──────」
恐怖というより防衛本能という奴だったかもしれない。
体を横に転がしてその何かの上から地面に飛び降りる。少しだけ足を捻ったけど目に入る少し青みがかった白銀色、所々に縞模様の入ったそれが頬に擦れて肌を薙いでヒリヒリとする感覚に比べれば屁でもない。こんな固い体毛を持つ生物がいるなんて信じられなかったけど、何故だか私はそれを知っている気がしたんだ。
そう、伝説の金属と言われたミスリルのように強固な白銀の体毛。
天に突き出すように左右から伸びた鋭利な三対の刃。
しなやかな体躯と強靱な牙や爪を備えた姿は、屈強なハンターの如し。
「あ、ああ……!」
その全貌を認めた途端、私の口から思わず漏れたのは、驚愕なのか感嘆なのか。
見間違えない。
見間違えるわけがない。
「ガルルモン……!」
だってそれは私が一番好きなモンスター。
だってそれは私の最も大切なパートナー。
私がずっと掌の中で育ててきた、デジタルモンスターだったんだから。
○ ○ ○
1998年2月16日(Mon)AM08:40
始業時刻直前、隣の席の君は寝ぼけ眼を擦りながらやってきた。
「あ、おはよー」
「おはよう……」
声をかけると彼からは実に覇気の無い声。いつも通り過ぎて微笑ましくなる。
「なんか眠そうだね!」
「ちょっと遅くまで勉強しててさ……」
見ればわかるような嘘。大方、夜中までゲームでもしていたか、あるいは。
「授業中寝ちゃダメだよ?」
「そ、そんなことはしないさ」
取り繕っているようで、全然それを徹し切れない。君のそういうところは好ましい、というか好きだ。
だけど同時に私は君をライバル視してもいる。逆に君が私をどう思っているかはともかくとして、小学校という現在の環境において優等生の立場をそつなく、本当にそつなく熟す君は私にとって目の上のタンコブ以外の何者でもなく、通知表の“とてもよい”の数で君に勝つことが私の密かな目標になっている。家庭科や体育では勝てているはずだから、あとは主要四科目で勝てれば道は開ける、はずなんだけど。
それなのに、最近になってもう一つ、君に勝てない事柄ができてしまった。
「そういえばさ、一昨日あの後進化したんだよねー」
敢えて話題を振る。デジタルモンスター、私は一度だって君に勝ったことがなかった。
私の育てたガルルモンは最強のはずなのに、悔しいことに君のグレイモンには本当に勝てないでいる。何故だ!!
「……うん? 完全体?」
「そうそう! これなら君にはもう負けないね!」
ランドセルの側面にいる相棒を君に見せ付けてあげる。
ガルルモン、いや今は進化してメタルマメモンか。これなら勝てる、きっと勝てる!
「じゃあ昼休みにでもバトる?」
「オッケー! あの子らも呼んどくね」
隣のクラスの二人、同じデジモン仲間達の顔を思い浮かべながら私はニヤリと笑った。
程なくしてチャイムが鳴ったので、君と共に私は視線を黒板に向ける。
一昨日、私は知らない世界に迷い込んだ。デジタルモンスターが暮らす世界、つまり私達が彼らを育てているドックの中、そこは私達が夢見た通りの広大な世界で、多種多様なデジタルモンスターが生きている。それが夢だったかどうかなんてわからないし、私は気付いた時にはパジャマのまま元通りのベッドで引っくり返っていたけれど、そこで触れたガルルモンの、私の大切な相棒の体毛の感触はハッキリと覚えている。
ガルルモンはまさに狼そのもので、アニメや漫画のモンスターのように会話を交わすことは無かったけれど、半日足らずの間でも確信できた。私をじっと見つめる目には確かな信頼があること、そして彼は間違いなく私が育てたガルルモンであること。
ガルルモンと一緒に駆け回った。
ガルルモンと一緒に沢山戦った。
ガルルモンと一緒に笑い合った。
その果てに、ガルルモンは進化した。
「ふふ……」
隣の君をチラリ。担任の先生が入ってきて始まったHRを真面目に聞いている横顔。
普段は何とも思わないけど、今日はどこか優越感がある。こんな経験、君はしたことも無いでしょう? それとももしかしてあるのかな? デジモンを育てている人なら誰でもなのかな? 彼らの世界に迷い込む夢、自分の育てた彼らと触れ合う夢を見ることが。
頬杖を付きながら人差し指で右の頬をなぞった。
そこには最初にガルルモンの背中を転がった時に擦れた跡がある、はずだった。
○ ○ ○
1998年5月2日(Sat)AM10:15
「ガルルモン、お久し!」
さて。
件の草原を訪れてみれば、私の愛しいデジタルモンスターは、いつぞやとは違って草原の木陰に寝そべっていた。
記憶が正しければ一月ぶりになるはずだけど、ガルルモンは一瞬だけ私の顔を見てキョトンとした後、また昼寝に戻ろうと目を閉じた。
「コラコラ、デジタルモンスターが昼寝しちゃダメでしょ!」
現実の私はシエスタ中な気もするけど、まあそれはともかくとして。
私が慌てて駆け寄ってくることもお見通しだったらしく、目を閉じたまま頭を振って立ち上がるガルルモン。それが如何にもやれやれといったような態度に見えて、少しだけイラッと来た。
しかし待て、落ち着けハマー私。まだ慌てるような時間じゃない。
一月ぶりのガルルモンとの再会。バレンタインの日から続いているこの出会いが、果たして夢なのかどうかなんてわからないままだけど、でも実際に私はガルルモンと触れ合えているんだから、それ以上の意味も答えも必要としなかった。今年は悲しいかな旅行にも行けず暇なゴールデンウィーク、今日はガルルモンと会えるようたっぷり昼寝の時間も作ってきたんだから。
伝える為に、理解してもらう為に。
「今日はね、一つ宣言しておこうと思うの!」
首を傾げられた。人の言葉が理解できないわけじゃなくて、私の言葉の意味が理解できないといった感じ。
いやなんか腹立つなその態度。まあそれはともかく。
「私はガルルモンには最強のデジモンになって欲しい! だから強くなる為にも、今日は色々トレーニングしてみよう!」
やだよ面倒くさい。全身でその感情を表現するガルルモンだけど、私はそんなグータラに育てたつもりはない!
私にはずっと勝ちたい相手がいる。ガルルモンに勝って欲しい相手がいる。そりゃデジモン同士にはそれぞれ相性みたいなものがあるらしいし、完全体に進化させれば全然勝てないってこともないと思う。だけど他の何モンでもない、カブテリモンでもバードラモンでもユキダルモンでもエンジェモンでもなくて、ガルルモンが君のグレイモンに勝って欲しいんだ、私は。
そんな私をガルルモンはジッと見つめていたけれど。
「うわっ!?」
何を思ったのか、私の首をその両顎で掴み上げると放り投げるように背中に乗せた。
「──────」
私が反応するよりも早い。
しなやかな四肢が大地を蹴ると共に、私の育てたデジタルモンスターが草原を駆ける。
「うおおっ、凄い!」
思わず漏れる感嘆の声。
硬質な全身の毛皮が風を切り、まるで駿馬のように駆けるガルルモンの背で私の世界が凄いスピードで後方に流れていく。そろそろ切ろうと思う私の長い髪が風に揺れ、同族同士で戦っているティラノモンや草を食むユニモン達、多岐に渡るデジモン達が生きる世界を私のガルルモンが走る、ただ走る。その背に座る私に吹き付ける風圧は車や電車では決して味わえない極上の気持ち良さ、そして今目の前に広がる世界を駆け抜けていくその逞しい獣を他でもない私が育てたんだって全能感に私の全身が満たされていく。
「……あはっ」
良かったよ、私はこの世界に来れて本当に良かったと思うよ。
程無くしてガルルモンは草原の果てにある大木の前へと辿り着いた。ガルルモンの体躯を遥かに超える巨大な樹、その前に一体のデジモンが仁王立ちしている。
「か、カブテリモン……?」
カブトムシを模したその姿は、私のデジタルモンスターver.2がちょうど今のガルルモンの前に到達した姿だった。
ver.2におけるグレイモンのポジション、つまり単純な強さだけで言うならガルルモンを遥かに上回るデジモンのはず。だけど私のガルルモンは敢えてこの場所にやってきた。
その意図は明白。
まるで見せ付けるように、知らしめるように。
自分は、ガルルモンは。
お前が俺の前に育てたデジモンより強いんだと。
トレーニングなんて必要ない。
お前が育てたデジモンは、今このままで最強なんだと。
「いいわ、見せてもらおうじゃない」
振り返る甲虫の王。突然現れた不躾な挑戦者にもカブテリモンは決して怯むことなく、ただ大木の主として二対の腕を広げてこちらと対峙する。
突如、カブテリモンが吠えた。シューシューと乾いた喉を鳴らすような音は、現実のカブトムシを思わせる鳴き声ながらその何十倍も大きいけたたましいもの。そしてそれに怯むことなくガルルモンも吠える。戦闘開始を告げる猛獣そのものの鳴き声を受けて、バトル開始前に接続が完了したデジタルモンスターは互いに複数回に渡って咆哮する姿を見せるけど、あれは相手への威嚇と今より戦う自分への鼓舞なんだなって思ったりした。
いよいよ始まるデジモン同士のバトル。
それをガルルモンの背中、読んで字の如くの特等席で目にすることができて私は何度だってワクワクしてしまうんだ。
だって私がガルルモンを育ててきたのはこの時の為だから。
私がこれまでガルルモンを、デジタルモンスターver.2を育ててきたのは、ツノモンやガブモンを可愛いと愛でることでも無ければ、ガルルモンにカッコいいと見惚れることでもないんだ。
誰しもに勝つ為だ、誰よりも強くなる為だ。
私の育てたデジモンが、ガルルモンが世界で一番強いんだって知らしめる為だ。
「行けぇーっ! ガルルモン!」
だから、ワクワクする。
今この時、私とガルルモンは確かにその夢に向けた第一歩を踏み出したんだってわかるから。
○ ○ ○
1998年5月6日(Wen)PM01:00
「お前もデジモンをやっているのか」
は?
給食を食べ終わったのでさっさと家庭科室に移動しておこうと教室を出た私に、背後から不躾な声がかかった。
それにしてもだけど、流石に六年生にもなると、給食をさっさと食べ終えたクラスの皆で昼休みにドッジボールとかはしなくなるもんなんだねー。
「え、何?」
「アイツらから聞いた」
果たして後ろに立っていたのは同じクラスの男子生徒で、記憶が正しければ新学期から一月の間まともに話したこともない。顔立ちは整っているけど仏頂面で、それだけでちょっと苦手なタイプだと直感できた。
「え、いや何?」
意味がよくわからなくて聞き返してしまう私。
脈絡を得ない物言いにもしかして随分と馬鹿な子なのかなと思うけど、同時に授業で先生に当てられた時はスラスラと回答していた気もするから、そんなことはないだろうと思い直す。失礼かなこういう考え。
とにもかくにも、目の前にはverはわからないけど、デジタルモンスターをデニムの腰から下げた長身の男の子。
「……没収されない?」
「気は付けている」
「いや気を付けて済む問題……?」
クラス替えがあってから、というより彼ら三人と別れてからクラスでデジモンの話をした記憶はない。やってる子はいるのかもだけど、少なくとも私が会話する女子の中でそれらしき人は現時点で確認できなかった。そろそろ受験が近付いてきたのでデジモンを禁じようと思う、いや実際には家で育て続けるだろうけど、そんな風に考えている私としては都合が良かったわけでもあったけれど。
その男の子は特に断りも無く私の隣に並んで歩く。そのクールな雰囲気に反した家庭科で使うドラゴンの裁縫箱を持って。
いや別に断りなんて要らないけど、男の子って皆こういうの好きよねー。
「アイツらって」
それにしたって。
なんで私の方から聞かなきゃならないのか。
話しかけてきたのそっちなんだから、そっちが気を遣うもんじゃない?
「何度かバトったことがあってな」
「バトったって……」
真面目そうな顔の割に砕けた物言いが面白くて、不意打ちで噴き出しそうになる。
でもそれでこの男子の言うアイツらが彼らだってことは把握できた。
「悪いけど私、そろそろ引退すると思うよ、デジモン」
「そうか」
別にデジモンの話題が嫌だったわけじゃないけど、ハッキリそう言っておく。
隣の彼は別段それに動じた様子もない。いやつまり何々何なのさ?
「だが別段嫌いになったというわけではないのだろう?」
「そりゃあ……」
少なくとも今は普通にガルルモンを育てているわけだし? 引退するって言っても、それは友達と一緒にデジモンをするのをやめるだけで、一人では勉強の合間の気分転換に育て続けると思うけどね?
でもそれはそれ、これはこれ。
「つまり、だ。奴らと仲がいいんだろう」
「紹介して欲しいってこと?」
「話が早くて助かる」
十分遅かったと思うけど。つまりまでが長い。
素直じゃない男の子だ。いやこの年頃の男の子って皆そうなのかしらん?
「いいけど、でも弱い人は紹介できないなぁ~」
多少の面倒くささもあって、わざとらしく言ってやると。
「ふむ」
彼は少しだけ考え込む素振りを見せて。
「……俺は奴のグレイモンに勝ったことがあるぞ」
聞き捨てならない言葉を口にした。
○ ○ ○
1998年6月7日(Sun)AM09:00
「ガルルモン! フォックスファイヤー!」
私の指示と共にガルルモンの口から放たれる炎。
それは果たして一撃で相対するティラノモンをKOしてみせた。チリチリと舞い散る蒼炎が草原を燃やして風が噴き上がっていた。
それにしたってなんて強さ。ガルルモンは設定上、確か成熟期の中ではあまり強い方じゃないらしいと彼が言っていた気がするけど、実際に目にする私のガルルモンは圧倒的な強さで、見知った大抵の成熟期なら瞬殺できるレベルだった。だから見知らぬ世界に放り出された今も不安は微塵もなかった。傍にガルルモンがいる限り、私に危険はないと思えたから。
一方で強くなりたいという気持ちは増している。何せ今の私にはもう一人、勝たなきゃならない相手が増えてしまったから。
おのれ! なんで私より強い奴ばっかりいるわけ!?
「ガルルモンは悔しくない?」
結局、あの後あの男子を仲間内に紹介したわけで。
とは言っても、それ以上にあの子のデジモンにガルルモンが負けたことの方が、私にとっては遥かに大事なんだけど、目の前にいるガルルモンには果たしてその記憶があるのか無いのか、特に気にも留めた様子も無く私の顔を見返している。
「ガルルモンもちょっとは喋れたらなー、例えばなんで私がこっちの世界に来れるようになったのかとか教えてもらいたいしさー」
そう言ってガルルモンの頬を撫でる。彼は喋らないけど、真っ直ぐ私を見る目は信頼できると思う。
とはいえ、だからこそ自分で調べなければならないわけだけど、通算四回目か五回目ともなれば、なんとなく自分がこの世界に呼ばれるタイミングや条件に私も少しずつ気付き始めていた。
一つは土曜日か日曜日の日中、どうも昼寝をしている時間に限られるということ。私としても学校のある平日にいきなり呼ばれたら困っちゃうので、その点はある意味では助かっているのかも。ただし戻った時、私がこちらで過ごした認識より元の世界での時間は経っていないように思える──昼寝の途中だから正確な時間は不明だ──ので、授業中に呼ばれても大した問題は無いのかもね。授業中に寝ること自体がどうかと思うけど。
もう一つはどういうわけか知らないけど、どうも世界を移動するのは私がガルルモンを育てている時に限るらしい。何度かカブテリモンやバードラモン、あとうっかりベジーモンに進化させてしまった土日は、昼寝をしても呼ばれることは無かった。
「あと父さんが言うには、私はずっと部屋で寝てたらしいし……」
つまり肉体はあちらに残っているということ。ということは、今ここにいる私は体から精神だけが飛び出た状態ということかしらん?
夢と割り切れれば単純なのだろうけど、ガルルモンの頬を撫でれば体毛がチクチクと掌を刺激する感覚があるし、だったらと自分の頬を抓ってみれば当然のように痛い。だからこれは間違いなく現実なのだと私は考える。だったら逆に楽しんでやるんだ、もっともっとこの世界を巡ってみたいんだ、ガルルモンと一緒にと思う。
山あり谷あり海あり川あり、どこかデジタルな雰囲気こそあれこの世界は未知に満ちているんだから。
「おっ」
不意にガルルモンの体がポゥと光を放ち始める。
「いいねー! 待ってたよガルルモン!」
いつぞやも見た時と同じ進化の光、沢山のバトルを経験したことで完全体への道が開けたらしい。そういえば前回メタルマメモンに進化した時はタイミングや都合が合わず、結局彼の育てた完全体とバトルできないまま寿命を迎えてしまったんだったとか考えていると、同時に私の視界が遠くなっていく。それが元の世界に戻されようとしているんだと私は知っていた。
変質していくガルルモンの姿が遠ざかっていく。まるで、というか文字通り私が別の次元に引っ張られているから。
「もー! またー!?」
数秒後、叫びながらベッドから跳ね起きる私。
まだ二度目だけど理解した。どうも私はガルルモンと一緒でなければあの世界にはいられないらしい。それはガルルモン自身が別のデジモン──つまり完全体のメタルマメモンなんだけど──に進化した場合すら例外ではないということ。
「なんでよー!?」
なんか納得できなくてもう一度叫ぶ。
枕元に置いておいたデジタルモンスターver.2は、メタルマメモンに進化していた。
○ ○ ○
1998年6月10日(Wen)PM03:50
ピーッ! ピーッ!
前の三人に少し遅れつつ、ぼんやりと歩いていた私は、唐突に響いたけたたましい警告を受けて顔を上げた。
「ば、馬鹿な……私のクワガーⅤ世が……」
親友である彼女のクワガーモンがバトルに負け、そのまま死んでしまったみたい。
彼女は元々私と同時期にver.2を育て始めたのだけど、先月出たばかりのver.4も手に入れたらしく成長期のピヨモンが好きということで、今熱心に育てていた。鳥型のコカトリモンを目指してるのに毎回クワガーモンになってしまうと嘆いてもいたけれど。
「ご臨終だ。てか何がⅤ世だよ、まだⅡ世ぐらいだろ」
あまりに悪役気味な台詞を吐くのは、彼の親友である男の子。初めて見た時からオーガモンが好きらしい。生徒数の問題で偶数年にも関わらずクラス替えが行われ、四月以降彼ら三人は同じクラスになっていた。
「オーガモン強いね、この間は私のガルルモンも負けちゃったしなぁ」
後ろからそう言ってあげると、彼は振り返って歯を見せつつ笑った。
「おうよ。なんたって、俺のオーガモンは最強だからな」
そういえばオーガモンはまだあっちの世界で戦ったことは無かったかなと思った。
更に付け加えるなら、彼や彼女が育てているグレイモンやクワガーモンも見たことは無かった気がする。でも最近ではver.4のデジモンも何種類か見かけるようになった記憶があるので、これは偶然なのかしらん?
「いや僕のグレイモンに負けてる時点で、お前のオーガモンは最強とは言えないと思う」
「もっかいやんぞコラァ!」
「望むところだよ」
これ、彼は敢えて喧嘩を売ったんだろうか。
あちらの世界への行きたさもあって、私はもう常にガルルモンにしか進化させないようにしているけど、そのガルルモンはバトルではオーガモンになかなか勝てない。じゃあ実際、あちらの世界で本物のオーガモン──この表現が正しいかはわからないけど──と戦ったら、私のガルルモンは負けちゃうのかな?
考えれば考えるほど収拾が付かなくなる気がする。私達の覗き見るデジタルモンスターの世界は、元々ドック一つで完結していたはずなのにね。
次あちらへ行った時、こっそりグレイモンとオーガモン、それからクワガーモンを探してみようかな。
(……ん?)
そこまで考えてふと思い当たった。
あっちの世界へ行きたくてガルルモン一択ライフを送っている私だけど、それより前からグレイモン一択ライフを送っている彼もそういうことなんだろうか。彼もまたあっちの世界でグレイモンと出会ったりしているのかな。同じ状況の相手がいると思うと嬉しいような、あの広い世界が自分だけのものじゃないと思うと残念なような。
だから漠然とした不安が私にはあるんだ。
「あ、そういえばさ……」
別れ際。きっと早めに言っておいた方がいいと思って、私はおずおずと口を開く。
六年生になった。クラスが別れた今でも彼ら三人とデジモンのことで盛り上がれるのは楽しいんだけど、その生活に終わりが近付いていることも知っている。
それでもゾッとする時があるんだ。この心地良く楽しい時間を終わらせたくないって気持ちと、何よりも私はあの世界を知ってしまったから。ガルルモンじゃないとあの世界に行けないということは、私がガルルモン以外を育てている時、あの世界のガルルモンはどうしているのかな。
もし私がデジモンをやめてしまった時、ガルルモンはどうなるのかな──?
「しばらくデジモンやれなくなるかも」
だから夕焼けに照らされた彼ら三人の、特に彼の顔を私は上手く見られなかった。
家庭の都合だから仕方ないって割り切っていたはずなんだけど、それでも自分からそれを切り出さなきゃならない状況が私は嫌だった。一緒に馬鹿話をして盛り上がって笑い合う至福の時を、私自身の手で壊さなきゃいけないなんて。
「受験……しなきゃいけないんだ、私」
メタルマメモン。
つい昨日、私の目の前で進化を果たしたデジモンを私はグッと握り締めた。
○ ○ ○
1998年7月12日(Sun)AM10:50
今日は川を上流まで辿ってみようと思った。
「知ってる? ガルルモン、来年の今頃には人類って滅びちゃうらしいよ?」
川沿いを行く彼の背中に揺られながら、私はそんなことを口にする。
「──────」
歩みは止めず、だけど首を傾げるように目の前のガルルモンの後頭部が揺れた。
物騒なことを言いながら、そんな私の口調には心なしか愉快さとか楽しさとか、そうした感情が乗っていることに気付いたらしい。それを不謹慎だとか咎めるわけでもなく、純粋に何故そんな感情を抱くのかと不思議に思ったということ。
そこにバレたかって思う。テヘッと見えない位置で舌を出してみたりして。
恐怖の大王が降りてきて世界が滅びる、世紀の予言者が遺したと言われるそんな与太話も、いよいよ来年に迫ったとなれば時折新聞やニュースを賑わすこともある。アホくさいと思う気持ちもどこか不安になるのも本当だけれど、同時に少しだけワクワクしている自分がいることも私は知っているんだ。
自分はどんな大人になるんだろう。
漠然とした不安は、きっと実際に大人になるまで消えない。こんな思いをずっと抱えて生きていかなきゃならないなら、いっそ寝て目が覚めた時には大人になって欲しいとさえ思うのに、同時にめちゃくちゃ怖くもなる。だって私はまだ十一歳、大人になるってことは年齢がほぼ倍になるってことだ。
だから不安、心配、恐怖。
それらを呼ぶのは私自身がどんな大人になるのかということではなくて。
きっと家族、友人、恋人。
大人になった私の周りには、果たしてどんな人がいるのだろうってこと。
「もー、何か言ってよー?」
笑いながらガルルモンの後頭部をグシャグシャと撫でる。
飼ったことはないけど、それはペットの犬や猫とは絶対に違う。心地良さよりゾリゾリと掌の表面を削るような感触が走るもの。そんな微かな痛みこそ、彼が実際ここにいて私が触れ合えている証のようで安心感があるんだ。
中学受験、父さんとの約束。
自分は幸福なんだって思う。母さんはいないけど、父さんが私の将来を考えて進めてくれた話だってことはわかる。将来の為と言われたら、まだ大人になる過程にすら立てていない私には及びも付かないことを、父さんは考えてくれているんだと思う。
理屈の上ではわかる。ああ、本当にありがとう父さん。
だけど。
嫌だなって思いもあるんだ。今この瞬間を我慢したくない思いだってあるんだ。
「ねえガルルモン」
友達と遊ぶのを控えた。彼らには私が紹介した仲間が一人増えたのに。