それは残業明けの、真夜中の帰り道での事だった。
ドラッグストアで買った適当な栄養ドリンクやら何やらが入ったビニール袋をぶら下げながら歩いていると、目の前の影に大量の目玉が浮かび上がった。
最初は、仕事の疲れで幻覚でも見たかと思った。
だが幻覚では無いようで、直後に影は俺に襲い掛かってきた。
まるで津波か何かのようになって覆い被さろうとするそれに対し、俺は思わず両腕で顔を覆って無意味にも自衛の構えを取ろうとしてしまったが、気付けば大量の目玉を浮かべた影はどこにも見当たらなくなり、体のあちこちを確認してみても何かしらおかしな点は見当たらなかった。
あまりにも現実離れした出来事に、今度こそ幻覚か何かだったのではないかと思った直後、俺の意識は酩酊にも似た感覚と共に眠りに落ちた。
目が覚めて、気付けば俺はうつ伏せに倒れこんだ状態になっていた。起き上がり腕時計を見てみれば時刻はとっくに深夜に差し掛かっている。明日も仕事だというのに、これでは睡眠時間もロクに取れはしないだろう。
路上で寝ていたなら誰かしら気付いて起こすはずだが、気付かれなかったのか?
とにかく家に帰ろう。
何やら視点が普段より僅かに低くなっている気がするが、そんなことはどうでもいい。嫌に疲れて腹も減って気がおかしくなりそうだ。
街灯の明かりさえ鬱陶しく思えてしまう。
あんなよくわからないモノが見えてしまう辺り、今の俺は物を正しく見ることが出来てないのかもしれない。
帰り道の途中、何人かの見知らぬ男達とすれ違った。
どうやら深夜になるまで飲み会でもした類らしく、顔は赤く火照って足はふらふらとおぼつかない様子だった。
とてもとても幸せそうな顔を浮かべながら、酔っ払い共は俺にその肩をぶつけてきた。
悪意は無かっただろう、だが少なからず苛立ちを覚えた。
酔っ払いの頭には伝わらないだろうが、少なからずの苛立ちを乗せて俺はぶつかった酔っ払い共の内の一人の背中を睨みつけた。
そして、こう思った。
寝てろ。
ついでに悪夢でも見ろ、と。
――視線を外した直後、背後でどさりと誰かの倒れるような音を耳にしたが、俺は気にすることなく自宅を目指して歩を進めていった。
いろいろあったが漸く家に着いた。
単身赴任の身であるため家族が住まっているわけではないが、それでも一日のやるべき事を終えた事を示す居場所。
鍵を閉め、靴を乱雑に脱ぎ捨て、服を脱ぎ、風呂場に入る。
いちいち風呂を沸かせるのも面倒だ。さっさとシャワーを浴びてさっぱりしよう。
そんな風に思っていた時だった。
ふと、風呂場に設備された長方形の鏡に映し出された自分の姿が目に入った。
自分の裸の姿なんて、風呂場に行けば毎日見るようなもので、いちいち気にするものでも無いはずだった。
だが、たった今鏡に映った自分の姿には、明らかに異様な変化があった。
まず目の色が明らかに違った。
帰り道の中で見た、覚えのある色彩だった。
そして体の色も、所々が真っ黒に染まっている。
見れば、黒く染まった部位からは変化した目と全く同じモノが浮かび上がっていて、ぞぞぞぞぞぞ、と得体の知れない震えを発していた。
そして俺自身も、未知の恐怖に震えていた。
思わず悲鳴を上げた俺は、体の各所に見える黒い何かに得てシャワーを浴びせかけていた。
汚れでも落とすように、石鹸を擦り付けながら、がむしゃらに。
だが、無意味だった。
少しずつ、まるで俺の恐怖に呼応するように、黒い何かは俺の体に広がっていく。
足掻く間もなく、俺の体は半分近くが黒く染まり、不気味な目玉がギョロギョロと蠢く異質なものになっていった。
何をどうすればいいのかが解らない。
原因が、帰り道で襲い掛かってきた不気味な影にあることぐらいは察しがついているが、察しがついたところで何かが変わるわけではない。
とりあえず風呂場から出ようと足を運んだ所、抵抗の結果として泡まみれになった床を滑る形で転んでしまった。
右肩を強打してしまい、痛みに悶えながらも立ち上がろうとした時、俺は自らの体に起きた変化を『実感』することになった。
体の、まだ肌色の部分は堅いものにぶつけた感覚がある一方で。
黒く染まり、目玉が蠢く部分だけは――ぶつけた、というよりは『張り付いた』という風な感覚があったのだ。
いや、数秒経って改めて思えば、触覚自体がそもそも曖昧だ。
なんというか、自分の体の重み? と言えるものが感じられない。
体に力がうまく入らない。
現在進行形で体を黒く染めている影の所為か、膝から先がまるで瞬間接着剤でも塗りたくられたかのように、風呂場のタイル床に引っ付いて離れられなくなり、必然的に俺は膝立ちのような格好になる。
もがくような姿勢で、必死になってドアノブを動かし、這いずる形で風呂場を出る。シャワーを浴びた体は当然濡れていて、移動の度に木製の床を濡らしてしまうが、そんな事を考えていられる余裕も無かった。真っ黒に染まった足は変わらず床にくっついたままで、走ることはおろか歩くことさえ出来ない。
そうしてやがて、電話の置いてあるリビングにまで到達した頃、遂に足だけではなく手の方まで黒く染まり、床に引っ付いてマトモに動かせなくなる。
いや、手どころの話ではない。気付けば腕も腹も、床に張り付いてしまっていて、俺の姿勢は正しく倒れ伏した格好のまま固定されてしまった。
自分の体を見渡すことも出来ない状態だが、なんとなく解る。もう俺の全身は余すところなく黒く染まっていて、不気味な目玉をあちこちから浮かび上がらせてしまっている。ゴキブリホイホイに掛かったゴキブリどころの話ではない。これでは本当に化け物だ。
ふと、うつ伏せになっている状態なはずなのに天井が見えた。
いや、天井だけではない。
見たい、確認したいと思った直後、その方向に実際に目を向けているかのように景色が視界に映し出される。
黒く染まった体に浮かび上がった瞳は模様でも何でもなく、俺自身の目となるものだったらしい。
らしい、と他人事のように思えてしまっている辺り、どうやら俺は思いの外落ち着きだしてしまっているらしい。いや、違うか。もう既に、心のどこかで俺は諦めてしまっていたんだ。現状を打開しようとすることを。自らの身に起きている変化に抗おうとすることを。
どうせどうにもならないのなら、なるがままに従ってみよう。人生なんて元々、思い通りにいかないのが常なんだから。
そんな風に思っていると、黒く染まった全身にいよいよ決定的な変化が起き始めた。
少しずつ、体の形が人間のそれから明確に歪み始めたのだ。
禍々しい『影』に染め上げられた体が、床に向かって溶け出すように、あるいはまるで風船が萎むかのように、その質量を失い始めた。特別引き締まっていたわけでもないが、大人相応の大きさを有していたはずの体が、ゆっくりと時間をかけてペラペラなものに成り果てていく。その事実が実感として解る。
これまでの変化がそうであったように、痛みは特に無かった。うつ伏せの姿勢であった以上、顔や腹などが床に張り付いているはずにも関わらず、肌寒さはおろか息苦しさのようなものも感じない。むしろ、この状態こそが『正常』であるのだと、妙な直感さえ覚えていた。
いよいよもって体だけではなく思考の方までおかしくなってきているようだが、最早それを気にするような焦りも俺の中には浮かんでこなかった。既に俺の体に『人間らしい』と言える感覚などは無く、心性の変化にまで伴ってか、床に張り付いていた人の形をした黒いナニカ――俺は、その形を失った。
ヒトの形を失い、廊下の床や左右の壁にまでぶちまけられたペンキのように広がった俺の体は、一言で言えば度を越えて自由なものだった。ヒトの形を失ったというよりは、そもそもヒトの形を取る必要性が今の体には存在していない、とでも言うべきか。
頭や手足といった、人間としては当たり前に存在する体――それに伴う感覚は、とっくの昔に混ざり合っていた。
そもそも体の全てが『視点』となるのだから、人間で言うところの脳が収められている位置なんてわかったものではない。文字通りペラペラの怪物に成り果てた体を、オレはいっそ堪能していた。
恐怖や不安を覚え続けた過去が信じられないほどの、愉悦の感情。
人間という枠組み、そこに入っていた事で付きまとっていた不自由、その全てから開放された気分だった。
『視点』から見える景色、そこに見える『オレ』の数多の目は、気付けば震えを止めていた。
ペラペラの怪物となった自分の体を堪能している内に、いつしかオレの心には一つの欲望が宿った。
それは、あるいは恐怖に縛られたままの心では思い浮かべもしなかった結論。
人間である、という事を完全に諦めたオレが、逆に心の底から願うようになった思想。
――どうせ怪物になるのなら。
――もっと怪物らしい姿に成ろう。
怪物に二本の足なんていらない。一本の尾さえあればいい。怪物に貧相な五本指の手なんていらない。敵となりえる存在を引き裂く鉤爪さえあればいい。怪物に小さなものしか入れられない口も柔らかいものしか砕けない歯もいらない――そうした思想に伴って、オレの体はオレが望むままの進化を始めた。
床や壁に広がっていたペンキのようになっていた『オレ』の体が、一箇所に集っていく。ペラペラだった体が、少しずつ質量を得ていく。『両手』にはそれぞれ三本の鋭利な爪が、『両脚』は歪んだ一本の細い尾に、そして『口』は端が裂けたものとなり、『顔』は爬虫類のように尖ったものになる。
気付けば、ペラペラの体で廊下や壁に張り付いていた『オレ』は、リビングで体を起こしていた。
『始点』は『顔』へと移り、首を曲げて『オレ』は自分の体を見渡してみた。
全身が『瞳』が張り巡らされた、黒き竜。
これこそが今の『オレ』という怪物の存在を示す唯一のもの。
ああ、最高の気分だ。
ふと、人間だった頃に自分が稼いだ金で買ったモノのことを思い出して、玄関の方へと視線を移した。
思えば、さっさと風呂に入りたい一心で購入物については適当にその場に置いておいたのだったか。
よくよく考えれば腹も空いた。何か食べないと気が狂いそうだ。
――そうして気付いた時には、『オレ』はかつての『俺』が購入したもの全てを『口』で租借し、腹の中に入れていた。
味はあまり感じられなかったが、代わりに体の中でとても暖かな熱が感じられた。
快感があった。もっとこの感覚を味わいたいと思った。
冷蔵庫のドアを開けて、中に保存していたものをとにかく『口』の中に放り込む。それでも足りず、食器棚の皿も食べた。一度味見をしてみれば、後はもう止まらなかった。灯りも付けていない部屋の中、『オレ』はとにかくとにかく部屋の中にあるものを全て平らげていき――そうして、いつしか眠りについた。
眠りから覚めると、体表に存在する全ての『瞳』もまた開かれた。日光が鬱陶しい。どうやら朝になるまで眠っていたようだ。
さて、怪物に成り果てたことについてはいいが、これからどうするか。怪物らしく人間を喰らうも良し、街の中で暴れまわるも良し。オレはもう人間ではないのだから、人間の世界のルールになど気を配る必要も無い。選択肢は数多に存在し、そのいずれも怪物となった自分の相応しいと思えるものばかりだ。
そんな風に考え、思考を巡らせていた時だった。
日光とは異なる光源の存在を、オレの『瞳』が視認していた。『視点』となっている顔をその光源の方へと向けてみれば、いつの間にか仕事でも使うノートパソコンの電源がついていて、その画面は普段見ない景色を表記していた。
それを見て、オレはなんとなく直感した。
ああ、なるほど。そこがオレの向かうべき、帰るべき場所なのか、と。これはオレという存在を迎え入れる世界への『入り口』なんだ、と。
体を動かし、少しずつ、異彩を放つノートパソコンの画面に向かって近付いていく。
近付く度に、オレの心の中には喜びの感情が生じていた。帰りたかった場所に帰れるのだと、そんな思考が生じていた。
そうして、オレは迷わずノートパソコンの画面に自らの『顔』を近づけて、そして、
オレの存在は数多の0と1の粒子となって解け、ノートパソコンの画面の中に、その先にあるこれからの居場所に向かって一切の抵抗なく、さながら濁流のようになって流れ込んでいった。
――そうして、かつて誰かが住んでいたと思わしき部屋に残ったのは、何かに食い散らかされたと思わしき残骸と静寂のみ。
暫くの間、ノートパソコンの画面には真っ黒な目玉だらけの怪物の姿がドットで大きく描かれていたが、それもまた時間の経過と共に小さくなっていき、やがて消え去って。
この場所に住んでいたはずの誰かは、現実のそれとは異なる世界にその全てを溶かして、誰の記憶にも残らなかった。