あわれな明瀬くんの件に関して君が私を糾弾するのは当然の権利だろう。しかし君や、恐れ知らずな好奇心ばかりを原動力とする無知蒙昧な世間の目が、私と彼の身に降りかかった身の毛もよだつ様な忌々しい出来事の真相を究明せんとあの底知れぬ黒白の毒沼の果てに向けられるのを、私は断固として止めなければならない立場にあるのだ。
人々はこの件に関連する手記を全て焼き払い事件について黙秘を貫く私こそが、彼を暗澹とした死の淵に追いやった血も涙も無い殺人者であると信望しているに違いない。しかし地球上のありとあらゆる未開の地を切り開き、目に映る神秘を数字で片付ける月並みな科学者が幅を利かせること現代に至っても、人類にはまだ知るべきでは無い事象が数多く残されており、今回の事はその内のただ一つに過ぎないのである。故に、私の秘匿が他の凡庸な民草に常軌を逸した行いと片付けられるのは、むしろ一向に構わない。ただ、明瀬くんの友であり、私の知友でもある君にだけは、私が狂人の類であると思い続けられるのはどうしても耐えがたく、こうして筆を執った次第だ。
解って欲しい。私は誓って正気でこの文書に手を付けている。そして君が私と同じように真っ当かつ健全な精神の持ち主であると信じているが故に、かの不可思議な電脳世界においてなお冒涜的な真実の一端を託すのだ。
文書を読み終えた君が、私がそうしたように、この文を燃やしてくれる事を心から祈っている。
電子生命体デジタルモンスターの出現および観測を機に、国が以前にも増して人工知能研究に力を入れ始めたのは君も知る通りだ。加えて私と明瀬くんの所属していた研究チームが専ら卓上遊戯について思考するAIの作成に携わっていた事も。
遥か太古の時代から脈々と受け継がれてきた人間の神話や営みを参考に急速な進化の枝葉を広げるデジタルモンスターの中には上述の卓上遊戯の中でも最も知名度の高いもの、即ちチェスの名を冠する者達が存在する。胡乱な『トルコ人』の例からも解るように、意思無き絡繰にチェスを指させる事は電子計算機発明以前から数学者達が夢見た試みであり、コンピューターの父たるイギリス人、チャールズ・バベッジがチェスのアルゴリズムを考案した歴史から鑑みても、遺伝子を0と1の列に置き換えたあの不可思議な生命体達の中にチェスの名を刻む者が存在するのは何ら不自然な事柄ではあるまい。故に我々が研究の一端としてチェスモンの一団と協力関係を結んだのは当然の帰結であったと言えるだろう。
我々の思惑通り、チェスモン達はこの卓上遊戯の戦略構築に優れ、とりわけキングチェスモンと呼ばれる彼らの王の演算処理能力たるや、スーパーコンピューターと比較しても何ら遜色は無く、既に人間の棋士では太刀打ちできないと、文字通り人智を超えた域に達していたチェス・コンピューターの精度は、彼らの頭脳という恩恵にあやかり21世紀初頭以来となる大いなる飛躍を迎えていた。
しかし全てが順調に進んでいた折、黒いポーンチェスモンの1体がふと、キングチェスモンにも勝るチェスの名手の存在を仄めかしたのである。
曰く、輝かしい戦績を納め、世界最強とも謳われながら様々な事情によりプロジェクトを凍結、解体されたチェス専用コンピューターのプログラムがやがてデジタルモンスターの世界へと流出し、『チェスの神』として何処かの辺境で崇められているという噂が、一部のチェスモン達の間でまことしやかに囁かれていたのだ。
当然信憑性に欠く話題ではあったが、当時キングチェスモンの頭脳を借りた研究は一定の成果を収め、資金繰りにもある程度の余裕が見え始めていた事もあり、特にチェスマシーン開発を通じてデジタルモンスターそのものにも好奇の眼差しを向け始めていた私と明瀬くんは、他の部門に関連する資料を持ち帰るを始めとした幾つかの条件を呑む事によって、異世界デジタルワールドへの渡航を許されたのである。
水先案内人として私達2人を先導したクイーンチェスモンはガイドとしても護衛としても十分な資質を備えたデジモンで、こと演算処理に関してはキングチェスモンに大きく劣るものの、市松模様の盤面を縦横無尽に駆け巡る大駒の名を冠した黒の女王の力は強力無比であり、我々はデジタルモンスターと比較すれば赤子同然の非力さしか持ちえないにも関わらず、安全かつ快適なデジタルワールドでの旅を楽しんでいたのだった。
とはいえ明瀬くんはクイーンチェスモンの事を内心あまり良く思ってはいなかったようである。彼女は女性の姿を模したデジタルモンスターの例に漏れず均衡の取れた身体つきをしており、上半分が真鍮の仮面に覆われているとはいえ我々にも伺う事が出来る頬の輪郭は著名な画家たちがこぞって題材とする奔放なニンフを彷彿とさせるほどで、私はクイーンチェスモンの有り様にチェスの芸術性を重ね一種崇高の念まで抱いていたものだが、今思えば彼女の黒々とした肢体から忌まわしくも歴史から抹消された暗黒のファラオを想起し、狂える詩人の著作から常人には耐えがたい内容の詩を一節引用して例えた明瀬くんの感覚は、私よりも遥かに鋭敏で、ことの本質を見抜く事に長けていたのだと思われる。
かくして我々は陸路と航路を交えた旅を続け、およそ4日目の昼過ぎに、目的のサーバへと辿り着く事が出来たのであった。
鬱蒼とした森を抜けた直後でありながら、私と、そして恐らく明瀬くんの心が解放感を覚える事は無かった。濁ったような灰色の雲は隈なく天上を覆っており、太陽の覗かない陰鬱とした空と、多分に水を含んで不快に粘つく空気の冷たさはむしろ息苦しさを助長させ、私は最新鋭の装備に身を包んでいたにも関わらず、突如として未開の地を歩くにはそれでも心許ないような感覚に見舞われて、ただただ身震いするのだった。
「前もってお伝えしている通り、あくまで噂ではありますが」クイーンチェスモンは自動人形特有の不自然に抑揚をつけた声音で続けた。「この奥に、チェスの神がおわすという話です」
「ご苦労だった」明瀬くんの言葉はそっけなく、彼は落ち着かない様子で周囲を見渡していた。「帰りもよろしくたのむよ」
明瀬くんが注意深く周辺を観察しているというよりは、抜け目ない小動物のように退路を確認しているようだという印象は、彼の言葉選びによって裏付けされた。私はいくら不便は少なかったとはいえやっとの思いでここまで辿り着いたというのにと至極真っ当な憤慨を抱きはしたものの、好んで長居を願う環境で無い点においては同感せざるを得ず、迷信深い田舎者達の教会に鎮座する敬虔な聖母像のように微笑するクイーンチェスモンの後ろに続くのだった。
奥に進むにつれて人の世界でも見慣れた地面の色は次第に褪せて行き、質の悪い冗談のような白と黒の正四角形が交互に組み合わさった幾何学的な文様、すなわち巨大なチェス盤へと景色が塗り替わると、チェスモン達の噂がにわかに真実味を帯び始めたものだと私は息を呑んだ。悪質な薬物の助けを借りねば到底望めないようなこの悪夢じみた光景は、しかし電子世界においてはそう珍しい物では無く、その点に関しては私は大した警戒を抱いてはいなかったと記憶している。
ただ、先に述べた通りの胸の悪くなるような陰湿な空気は喉に絡みつかんばかりであり、特に明瀬くんはもはや隠す事無く前進への躊躇を瞳に滲ませていた。だがむしろ、彼の意気地の無さを前に、私は半ば自棄を起こしたように歩みを進めた。畏れ多くも旧神の麓レン高原に足を踏み入れた合衆国の思想家たちに己を重ね、大胆になっていたのだと思う。
ああ! 真に愚かであったのが私であると、もはや今となっては君も知る通りだ!
我々はついにチェスモン達の言うところの『チェスの神』への謁見が叶ったが、真っ当な感性の持ち主であれば、否、私のようなとても敬虔深いとは言えない人種であったとしても、あれを神と呼称する事は断じて憚られるに違いない。
君の健全な精神のためにも、私はあの怪物について詳細を描写するべきではないだろう。始め、それはチェス盤に似た大地に半身を沈み込ませた、中央に猛獣の牙にも似た棘の絡み合う極大の植物の蔓のように見えた。しかし獲物を前にした狡猾な蛇のようにそれがもたげた鎌首は3つにのぼり、特に中央の首は遥か太古の時代に地球の主であった恐るべき肉食の竜、その頭蓋を冒涜的に歪めたものを模していて、漆黒の暗礁に潜む忌まわしい軟体めいた蔓で構成された表皮が嘲笑のような脈動を見せる度にぬらぬらと吐き気のするような光が瞬くのだった。否、その光さえ怪物の3つ首それぞれに蠢く瞳に比べれば幾分かは見れた物だった。脇の2つの頭部は実際のところ洞のようになっており、その内には墓所の蛍の群れが悪意ある鬼火を真似て潜んでいるようであった。最もひどいのはやはり中央の首で、側面に2つずつ並んだ旧い琥珀にも似た色の瞳は輝くトラペゾヘドロンにより飛来する燃え盛る三眼のように、けして知るべきでは無い異界の神秘を宿しているのだった。
「大いなるチェスの神万歳! 母なるハイドラ万歳! はいどら・ふたぐん、ちぇす・つがー、しゃめっしゅ、しゃめっしゅ、ちぇす・つがー、はいどら・ふたぐん !」
突如としてクイーンチェスモンがあの抑揚のない声を割れんばかりに張り上げ、全く意味の理解できない文言を唱えたところで、ついに私達の緊張の糸がぷつりと切れた。
つんざくような悲鳴が私と明瀬くんのどちらから、あるいは両者ともに上げたものなのか判断も出来ないままに、私達は踵を返した。直後、あの並んだ棘だとばかり思っていた怪物の胸部が真っ二つに割れたかと思うと、とても植物だとは思えない地獄めいた屍肉色の内壁が露わになり、我々よりも背丈の高いクイーンチェスモンを悠々と丸呑みにしたのである。
その、この世の全てを冒涜するような光景を背に、我々は狂ったように走り続けた。クイーンを失った今、我々は升目を1つずつしか進む事の出来ない非力なポーン同然であり、白黒の盤面はもはや葬儀場を覆う鬱屈とした鯨幕のように私達の行く末を暗示しているかのような有様であった。ただただ純然たる恐怖の感情だけが2人の両の足を突き動かし、やがて、どれほど走り続けただろうか。ついに我々はチェス盤の果てをその視界に納めたのだ。
だが、そもそもチェスの駒の移動とはただの一手で済まされるものである。何のことは無い。あれは我々を追わなかったのではない。我々のどちらかが正確な直線状に入り込むのを待ち侘びていただけなのだ。私は明瀬くんの安堵の息を聞いて、それは次の瞬間にはぎゃっと短い悲鳴に変わり、すぐに静かになった。
私が彼の声以外に聞いたのは、ずぶりと泥濘に勢いよく足を踏み入れたかのような濁った水音と、しゅーしゅーと、これもまた蛇を彷彿とさせるか細い音色であった。
たまらずに振り返った私が最後に見た明瀬くんは、既に紫紺の泥の中に胸元までが溶け出しており、あまりにも原始的な恐怖の感情に凍り付いていた彼の顔には、あの地獄の軟体めいた蔓が絡みついていた。
気が付けば私は人間に対して比較的寛容なデジタルモンスターの住民に保護されており、それからの事は君もよく知る通りである。
帰還前に幾度か、私の身の回りの世話に訪れた何名かのデジタルモンスターにあの白黒市松模様のサーバとチェスの神について訊ねてみたものの、彼らは卓上遊戯についてあまりにも無知であり、ただ、私が見た怪物と外見の一致が見られるデジタルモンスターの名だけは、どうにか突き止める事が出来た。
ヒュドラモン、と、かの怪物は、ギリシア神話の多頭にして不死の蛇の名で呼ばれており、しかし私達が足を踏み入れたサーバを含め、ヒュドラモンの生息域についてはついぞ判明する事は無かった。
やはり君も、他の者たちと同じように、我々が何らかの災厄に見舞われた事は認めつつも、私が白昼夢に浮かされた狂人であると判断するのだろうか。
だが考えてもみてほしい。21世紀の初頭時点でチェスコンピューターの知能は人類側の棋士の最高峰をも上回り、それ故に人間がチェスにおいてコンピューターに挑む事はもはや無意味と、チェスモン達の言うところの『チェスの神』の元と成ったプログラムは破棄されたのである。
それが電脳の世界において生命と意思を得て更なる成長を遂げた時、果たしてチェスコンピューターが人間を上回る分野は卓上遊戯だけに留まるのだろうか?
私はそうは思わない。というよりも、この一件で確信せざるを得なかった。
私は狂ってなどいない。チェスコンピューターの研究プロジェクトは、今すぐにでも『チェスの神』の基盤となったプログラム同様凍結・破棄するべきだ。
今まさに研究室の連中が与太話として誰もが軽く受け流しているキングチェスモンのチェスモン大帝国について、我々は性急にその実体を調査し、叶うならば二度と人目に触れる事が無いよう彼らの存在そのものを封じる手立てを立てなければならない。
君がクイーンチェスモンもまたあわれな被害者の1人であると考えているのだとしたら、それは大きな思い違いだ。誰が見間違うものか! 明瀬くんの死因となったのは足元の毒沼では無い。あれは役目を終えた駒を盤上から取り除くための機構に過ぎない。そしてチェス盤の上を最も自由に蹂躙する大駒など、クイーンの他に居る筈も無いだろう!
濁った水音と共に明瀬くんの胸を貫いていたのはクイーンチェスモンの携えていた王笏に他ならない。
もはや疑うべくもない。その駒を操った棋士は、かつて最強と謳われたチェスコンピューターは、『ヒドラ』と。多頭の蛇の名を冠していたのだから。
あとがき
被告は「最近怪文書書いてねぇなぁと思って」等と申しており。
はい、という訳でこんにちは。この度は『ハイドラのチェス盤』を読んでいただき、誠にありがとうございます。快晴は正気です。
こちらのお話もこの間投稿した『Alyssum』同様、るうま様という方が主催なさっている『推しの外見描写がしたい!』通称『推し書く』という企画の参加作品です。こちらの企画はメインの登場デジモンの外見描写を3つ以上挙げるルールがあるのですが、自分、某神話系列作品の「君の正気のためにもあんまり詳細を述べない方がいいだろう」からの怒涛の外見描写が大好きなので、今回のお話ではそれをオマージュさせてもらった形です。私は正気です。
という訳で、今回私が外見描写のために選んだデジモンはヒュドラモンです。
クトゥルフ神話風小説書きたいな~でもダゴモンは直球過ぎるし、レアレアモンは玉虫色のレアモンが既にサロンにいらっしゃるし……と色々悩んでいたところ、父なるダゴンと対になる母なるハイドラの存在を思い出しまして、そこから着想を得た形です。
ただ、母なるハイドラは父なるダゴンとセットで言及されるのみで、クトゥルフ神話には『ハイドラという名の母なるハイドラとは全く無関係の神格』まで存在するレベルで描写が存在せず、途方に暮れていたところで見つけたのが最強のチェスマシーン『ヒドラ』でした。
お蔭で単なる毒沼探索のお話になる筈だった本作(当初のタイトルは『沼の女王』でした)をチェスと絡める事で、クトゥルフパロディなりにデジモンっぽいお話に仕上げられたんじゃないかな~と自画自賛しております。なんたって正気で書きましたからね。
まあ快晴さんチェス激弱なんですけれども。パソコンに最初から入っているチェスアプリのレベル1に普通にボコされた事があるくらい弱いです。あとナイトの動かし方が解りません。たすけてください(発狂)。
とまあ、こんなものでしょうか。
改めて、素敵な企画を主催してくださったるうま様に、そして、ここまで読んで下さった読者様に宇宙レベルの感謝を。本当にありがとうございまいあ……ありがとうございました!
またその内、別のお話でもお会い出来れば幸いです。