夕刻の空に白く浮かび上がる極北の銀嶺──その頂にて対峙するは、この地を支配する『氷』の巨獣と鮮烈なる蒼の甲冑を纏う『水』の主。
蟠を巻いた魚の半身を椅子代わりの岩に据え落ち着いた様子の『水』とは対象的に、『氷』は脂汗の浮かぶ顔を苦しげに歪め、荒く吐き出される吐息は彼の周りを濃霧のように白く烟らせていた。
「もう勝負はついてるじゃないの、早く降参しなさいよ」
「うるさい! ここからが本番なんだよっ」
その言葉と共に、『氷』の十脚の、最前列右側の一本が動いた。
「よっしゃ来たぁっ!」
そう叫ぶ白獣の蹄の先には、赤い空に浮かぶ純白の満月──
「……何やってるのよ貴方達……」
冷ややかな声の発せられた方向に顔を向けると、そこには腕を組んで呆れたような視線を二匹に注ぐ『風』の剣士の姿が。
偵察を終えて『炎』達の元へ戻る前に『氷』にも一度声を掛けておこうとその縄張りに立ち寄った彼女が見たのは、険しい表情で『水』の主と睨み合う白獣の姿だった。
「この大変な時に何を呑気に遊んでるのよ、全く」
「遊びじゃないよ! コレはね、貴重なデータを巡る真剣勝負なんだよ」
そう叫んだ彼が『水』を相手に二刻にも亘って繰り広げていたのは、一本の酒瓶を巡る花札勝負。
『氷』は大の酒好きであるが、彼の住まいは『鋼』の縄張りと比較して現実世界からのデータ流入が少ないため、その分アルコール飲料のデータも入手が困難である。
『水』の持ち掛けたこの勝負を、貴重な酒を入手する絶好の機会と見た『氷』は、彼女の誘いに二つ返事で応じたのであった。
「ずっと昔、コレで『鋼』と賭けをしたことがあったの。どっちが愛情のデジメンタルを貰うか、って」
手の中で札を弄びながら、『水』は徐に口を開く。その顔には、薄らと翳が差しているように見えた。
「で、どうだった?」
「アイツの部下にセトモンやアウルモンがいるでしょ。つまりは"そういうこと"よ」
『水』は虚空をじっと見つめ、一瞬の沈黙を挟んでから深い溜息を吐いた。その口元から、白炎の如き蒸気の帯が立ち昇る。
「今更言っても仕方ない事だけど、アレは何かしら仕込んでたとしか思えない。いやきっとそうよ、あんなに何度も大役が出来る筈ないもの」
ほんの短期間『鋼』と行動を共にしただけの『氷』ではあったが、あの鏡獣が"そういう事"をするデジモンであるという『水』の意見は、至極最もであると思った。
何せ『鋼』の領地は、気流の不安定な山間を通る道が多く、生半可な飛行能力のデジモンでは五体満足のまま領域の内外を行き来する事すら難しい。
よって、彼がその道程を安全に移動出来る配下を欲するのは当然の事だろうし、それを得る為ならば、『鋼』は例え卑劣な手段であろうとも迷いなく実行に移すだろう。彼奴はそういう奴だと、『氷』は自信を持って言えた。
「歳食ってる分ロクなこと考えないよなぁ、あの下衆鏡」
「……言いにくいんだけど……あいつアンタより歳下よ」
『氷』は一瞬、『水』の放った言葉の意味が分からずに固まったが、直ぐに満面を驚愕の色で染め上げた。
「……はぁ? 嘘だろ!?」
「嘘じゃないわよ。アイツのタマゴ……"大会戦"の跡地で孵ったらしいから」
人獣争乱の中で最も凄惨であったといわれる戦い。
当時まだ幼かった白獣の記憶にも確と刻まれる程の、残酷極まりなき殺戮劇。
その舞台となった岩峰の山脈こそ、今の『鋼』の領地であり、彼の生まれ故郷でもあった。
「大会戦……当時あの一帯にあったデジタマは全て破壊されたと聞いていたのだけれど……」
ヒューマン族、ビースト族のいずれも、最たる懸念としていたのは、敵方の戦力の増強──それを防ぐ為に両軍が講じたのは、敵地にある中で最も無防備であり脅威の源泉となり得るデジモンの卵、通称デジタマの破壊と、その中に凝縮されたデータの回収という余りにも非情な措置であった。
「一つ一つ確認しながら割ってた訳でもないからね、アイツが偶々見つからなかっただけか、大会戦の後何かの拍子にデジタマの状態で持ち込まれたか……まあ、どちらにしても有り得ない話ではないと思うわ」
「いや、それよりさ……アイツが僕より年下ってホントなの?」
「残念ながらね。まあ、信じられないのも無理はないけど」
あの下衆鏡が自分より若い……それはつまり、自分がアイツよりも年寄りだということじゃないか。白獣が受けたショックは余りにも大きかった。
「気にしないで。アイツが異様に老け込んでるのが悪いんだから」
そう言って暫く白獣を慰めていた『水』だったが、不意に傍の『風』へと顔を向けた。
「……ねぇ貴女。"白い妖精"って、聞いたことある?」
唐突に投げかけられたその問いに、『風』は仮面の下で怪訝な表情を浮かべる。
「まあ、噂程度には……」
「願いを叶えてくれるとかいうデジモンでしょ。僕も実際に見た事はないけど……」
「それでね、最近その白いデジモンが現れたっていう東の山地に渡ってくる住民が増えてるんだって」
昨年、謂れなきルーチェモンの粛正によって死の大地と化した清流の山々──その焼け跡に点在する幾つもの集落は、この数ヶ月内に他所から移り住んで来たデジモン達が築いたものであったが、彼等が住み慣れた故郷を離れ今や不毛の大地と化した東部山地に態々居所を求めるその理由は、他者の願望を現実のモノにするという、"白い妖精"の力に縋らんとする為であった。
「でも……何故急にその話を?」
「何となくよ、何となく。ただね、そんな都合の良い力を持った連中がいるなら、もっと前から話題になっていても良いと思うんだけど……実際は違う。それがちょっと気になったの」
言われてみれば、願いを叶えるなどという尋常ならざる能力を持った者達の話が、今の今まで世間に広がらなかったというのも妙な話ではある。
「元来他の目が届かない場所に隠れ住んでいたのが戦乱で追われて表の世界に出て来たか、または、何処かから突然現れたのか……」
『風』は一頻り思案してみたが、いずれの仮説を真とするにしても、一切の確証が無いことに変わりはない。そもそも"白い妖精"そのものの実在すら、現時点では定かでないのだ。
「願いねぇ……本当に会えたらルーチェモン倒してくれって頼もうかな?」
「そう美味い話があるんだったら誰も苦労しないでしょ……こんな風に、ね」
「あぁっ⁉︎」
人魚の手にあるのは、桜花を背負う錦の幕、次いで捲れた菊花と盃の札──凍り付いた極北の大気を震わせる『氷』の悲痛な叫びに重なり、雪崩の轟音が千仭の谷間に響き渡った。
「じゃ、コレはアタシのものって事で」
「そんなぁ……」
力無く呟いた『氷』が、虚な目で紺青の天を仰ぐ。いつの間に陽が沈んでしまっていたのだろう、極北の嶺は既に夜を迎えていた。
*
「何たる為体! 貴様ら、一体何をしていたのだ?」
ルーチェモンの側近であるアンティラモンをも巻き込んで決行された『鋼』の領域に対する奇襲作戦は、何の成果も得られぬまま失敗に終わった。
いや、そればかりではない。
天使軍の兵士だけならば兎も角、よりにもよって王の近侍をも作戦失敗の代償として死なせる結果になった……憤怒と呆れの入り混じった感情を爆発させたミスティモンは、足下で平伏する己の部下達を睨み付けた。
「め、面目御座いません……まさかあのような時分に雪崩が起きようとは……」
雪崩だと? あの時間帯に? 小隊長の言葉に、ミスティモンは訝しげな表情を浮かべた。
彼の知り得る雪崩という現象は、冬の気温が上がった日や春先等の積雪の溶けた時に起こるものと認識していたが、あれほどに冷え込んだ日の真夜中、雪は硬く凍り付いているはずの時間に起こるものだろうか。
「貴様、言うに事欠いてそのような虚言を弄するとは……それで天下に名高き天使軍の幹部を名乗ろうとは肩腹痛し、恥を知れ」
ミスティモンの手が佩剣に伸びた。軍団長からの処罰を受けねばならぬのは元より覚悟の上であったのか、作戦の責任者たる小隊長と彼副官の二名は、微塵も慌てる素振りを見せない。
「お待ち下さい軍団長。その者の言葉、決して嘘では御座いません」
突如響いたその声の主は、弓兵隊長のパジラモンであった。
「嘘ではない……何故、そのように言える?」
「あの後、私と配下達とで桟道の辺りを見て参りましたが……崖の付近に、雪の流れた跡がありました。あの日『鋼』の領域は明方から夕刻まで吹雪に見舞われていた……」
だから何だというのだ──そう言おうとしたミスティモンより早くパジラモンが次の言葉を紡いだ。
「これは他の者から聞いた事ではありますが、冬の高山が荒天の気象にあった直後の夜間には、前触れ無き雪煙の雪崩が起こることがある、というのです」
通称"泡雪崩"──凍結した雪の上に更なる深雪が積もった所へ加わった外力が引金となって起こる、謂わば"雪の突風"。雪の微粒子を含んだ空気塊によるその衝撃は凄まじく、リアルワールドで度々発生するそれは、ヒトの居住地を丸々一つ滅ぼした例もある程の破壊力を有するという。
「ならば、本当に雪崩に遭ったというのか? では、彼等の言うことは……」
「真実で御座いましょう」
パジラモンの言葉に、ミスティモンは気まずそうな表情で部下達の方を見た。その視線の先で、先程まで彼の叱責に身を縮こませていた三名の部下が冷ややかな眼で彼を睨んだまま、無言で佇んでいた。
「……いや、疑ったのは申し訳ない……しかし、貴重な兵士を失ったのは元より、ルーチェモン様の近侍をも死なせたとあっては、どの道お前達に責任を取らせない訳にはゆかぬ。私から王に説明はしておくが、何らかの処断が下される事は心に留めておくように……」
その言葉に、小隊長とその副官が片膝をついて跪く。己に背を向け立ち去るミスティモンを見送る彼らの、侮蔑と嘲弄に満ちた顔には歪んだ笑みが貼り付いていた。
*
寒風吹き荒ぶ月夜の断崖に佇む『鋼』と『土』の二匹は、獲物に喰らい付くシードラモンの姿も斯くやとばかりの凄まじき雪煙の奔流が、王軍の一小隊を桟道諸共谷底へと押し流してゆくその様子を眺めていた。
「いやはや、仕方のないこととはいえ、アンティラモンには気の毒な事をしましたな」
「致し方無し、王に奴のデータを渡す訳にはゆかぬからな」
彼等の頭上、牙のように鋭い岩峰の頂に寒月を負って佇む異形の魔獣──『闇』の眷属の生き残りであるギュウキモン。
その種名は、リアルワールドの極東に位置する日本国の、主に西南地域に伝わる、牛頭を持つ鬼に由来するというが、近代に描かれた牛鬼の画像データを反映した本種は、鬼の下半身が蜘蛛のそれに置き換わった悍ましき姿をしていた。
目に見えぬ程に細い蜘蛛の糸を岩壁の隙間に渡し、それを伝って音もなく天使軍の小隊に近づく……それを可能にしたのは他でもない、蜘蛛の半身が備える八脚。
「『鋼』の主。茶兎は下に落ちてしまったが、本当にこれで宜しいか?」
ぬっと覗き込むようにして、ギュウキモンが眼下の『鋼』を見遣る。その拍子に、彼の両角に結え付けられた鈴が凛と音を立てた。
これは単なる装飾ではなく、ギュウキモンが獲物を襲う際、その音色で対象の感覚を狂わせるためのもの。
先刻、アンティラモンが知らず知らずのうちに隊列から離れて行ったその理由は、ギュウキモンの鳴らす鈴の音に惑わされたが為。
隊列の中で最も鋭敏な聴覚の持ち主であった彼の耳は、向かいの峰で鳴り響く妖鈴の音を図らずも捉えてしまったのだ。
「これで良い。いや、貴公には此処まで足労頂いた故、後程長を通じて礼を致そうぞ」
『鋼』の言葉に一度頷き、ギュウキモンは音もなく岩山から降りたかと思うや、忽ちその姿を闇の中に溶かして消えた。
「こうも早く、『闇』の眷属の協力を得るとは、相変わらずの鮮やかな手腕」
「世辞は要らぬ。それに、戦となれば使えるモノを全て使うのが常識というものだろう」
淡々と発せられた『鋼』の言葉に、『土』は隆々と肉の盛り上がる己の肩を抱いて態とらしく身震いをして見せた。
「おお、何と容赦の無い……いや、貴方が王とその配下達に並々ならぬ恨みを募らせるその気持ちはよく分かりますがね。何せ王様、以前"病"で寝込んでいた貴方のところに態々押し掛けて来た挙句に意味も無い折檻をなさったのですから……」
「要らぬ事を思い出させるな」
『土』の言葉に、『鋼』が不機嫌そうな声で返した。
電脳核の砕けたかと思う程の激痛──一年以上経った今思い出しても沸々と怒りが湧いてくる。煮え滾る憎悪の感情に呼応するかのように、黄金に煌る『鋼』の眼光が、僅かな赤色を帯び始めた。
「まあまあ、そう怒らずに……本音を云わせて貰うと、私にも色々と思うところはあるのですよ。愚王閣下の気紛れで、一体何人の部下が生命を落とした事か……いやはや、今思い出しても胸が潰れそうです」
いかにも芝居がかった調子で嘆いて見せる『土』を無視して、『鋼』は冬天に瞬く星の光に目を向けた。
アカシックレコード、別名アカシャ年代記。
現世において過去に起こった、あるいは未来に起こり得る全ての事象に関する記録。
『鋼』はこの膨大なる年代記を読み解く能力を持っていた。
彼が、生まれ持った力の全てを失う代わりに授けられた畏るべき術──それを行う為に、古き鏡獣の根源とも呼べるこの個体が用いたのは、星光の形で表される、デジタルワールド全体の運行に伴って変化する電子信号の解析であった。
Your ID was not admtted.
Unauthorized access was detected.
System is forcibly terminated.
不意に眼窩の裏で閃いた文字列が、星光の幻影を掻き消した。炸裂する白光の眩さに、『鋼』は思わず目を逸らす。
「な、何事ですか⁉︎」
明らかに通常と異なる『鋼』の反応に、『土』は珍しく慌てた様子を見せた。
──今のはまさか……いや、若しそうだとすれば、ルーチェモンの背後に居るのは……
「どうしたんですか、貴方らしくもない……若しや、今見た中に妙なモノがあったとでも?」
「……『土』よ。これは不味い事になるやも知れんぞ」
金眼に焦燥の色が滲み出る『鋼』の尋常ならざる様子に、『土』はそれ以上の言葉を発する事が出来なかった。
ERROR CODE:Y◼︎S◼︎7D◼︎_0361
愚王軍失態の嵐、これは王に徳が無い為である。夏P(ナッピー)です。
突然『氷』が稀代の酒好きだと語られて噴く。そして『水』も水だけあって酒が好きなんだ。NARUTO的には風遁+水遁=氷遁(血継限界)なのでその三人がなんかワチャワチャやってるのはニヤリ。そーいや『風』は偵察に行ってたんでしたか。十体が雁首揃えて進めエエエエエエイイせず、それぞれが思惑を抱えてそれぞれの動きをしているのが面白いと思う本作。むしろ『氷』が性格と喋り方の割に老けすぎなんじゃねえのか。
意味ありげに『風』と『水』が話していた白いデジモン、これはクルモンか……?
どいつもこいつも失態を重ねるのでミスティモンの胃はボロボロ。前回出てきた時点でいいましたが、ヴァジラモンなんか大物っぽいので後の世界の何かかコイツは……そして後ろでアッカンベー😝してる隊長と副官小者過ぎる。近い内に死ぬなコイツらは。
どこかガキっぽい『氷』とは正反対ながら、俗物的な『土』もまた作中の清涼剤かもしれない。……うん? ルーチェモンの裏にいる敵……?
それでは今回はこの辺で感想とさせて頂きます。