──此処は何処だ? 俺は一体、どうなってしまったのだろう?
微かに届く月明かりが薄墨色に照らす渓谷の底で、アンティラモンは意識を取り戻した。
──そうだ、確か、桟道を通って『鋼』の領域に入る時に、鈴が鳴って……石の柱が……
妖鈴の音に惑わされ奇岩の柱が立ち並ぶ谷間へと迷い込んだその後、白い波に飲まれた。
その後、どれ程の間倒れていたのだろうか。体を起こして周りの様子を確かめようとするが、その意思に反し、手足はおろか指の一本すら動かない。
何とか瞼を開き、僅かな光の中で自身の状態を見てみれば、雪に埋もれなかった右半身は寒風に晒されたために白く凍り付き、手足に至っては、本来ならば決してあり得ぬ向きで折れ曲がっていた。
──まさかこのような事が起ころうとは……皆は、皆はどこに行ったのだ?
行軍の部隊に帯同し案内役を務めよ、との王命が直々に下されたのは、凡そ三日前。
峻険且つ複雑な地形の山々が連なる 『鋼』の領域を通るにあたり、かの地に精通したアンティラモンを案内として立てるのは特段おかしな事ではなかろう。
しかし、此度の命はあまりにも直前すぎやしないだろうか。訝るアンティラモンだったが、暴王の命に従わぬ等と言った日にはどんな目に遭わされるか……断るという選択肢などあるはずもなく、急ぎ行軍ルートの選定とその結果を小隊の幹部達に伝え、細部を訂正してゆく。
そうしているうちに決行当日を迎え、そして今に至る。
アンティラモン達を飲み込んだ白い波は、桟道の上部で発生した雪崩だった。
部隊を構成するデジモン達は、アンティラモンを含め冬の山岳地帯での行動は少なからず経験しているため、当然『鋼』の領域においても雪崩が発生する事態を警戒してはいた。今回の行軍で使用されたルートと通過する時刻は、その難に遭わぬために計算を重ねた上で導き出されたものである。
しかし、先にも述べた通り、今回の雪崩は〝泡雪崩〟と呼ばれる、通常のものとは性質や発生の条件が異なる雪崩であったため、彼等の予測に反した結果を齎したのだった。
此度の雪崩は、発生自体は自然のものであったが、領域の主であり出身者である『鋼』や、似た環境下で生まれ育った『土』は天候や地形から凡その発生地点と時分を予測していた。そして、他の桟道や街道を雪で封じ予測地点の一箇所を通る桟道に誘い込んだ結果が、今回アンティラモンと小隊の見舞われた惨事である。
谷底に再び月光が差し込むその刹那、霞がかった視界の中に、黒々とした無数の塊が映る。それは、彼と行動を共にしていた天使軍の兵士であった。
かれらは皆、赤黒い染みの中に倒れ伏したまま動かなかったが、アンティラモンの耳に届く小さな呻き声は、兵士達が辛うじて生命を取り留めている事を示していた。
その直後、雪を踏む複数の足音が鳴り、次いで短い悲鳴が上がる。それが何度か繰り返された後、アンティラモンの目の前に、真紅の巨影が姿を現した。
「お前は……」
それを最後に、アンティラモンの声が途絶える。群青の夜空に掲げられた二本の牙の、その捩じくれた先端からは紅の雫が滴り落ちていた。
*
地下洞穴の薄闇の中、頑強な甲冑に身を包む騎士の一団が構える剣の刃が、彼等の掲げる松明の灯を反射し妖しい光を放っている。
「彼方は……丁度二十名か。『光』よ、この状況、どう切り抜ける?」
『炎』の竜と『光』の銀狼は互いに背中合わせとなって敵の集団と対峙していた。
「目の前の敵は斬り伏せる、それ以外に道は無い……そうだろう?」
『光』の返答に対して 『炎』は一度頷き、彼が動くのとほぼ同時に敵の真っ只中へと斬り込んでゆく。
だが、竜の爪が、狼の刃が、侵入者達を次々に引き裂いてもなお、続々と傾れ込む敵兵の数は一向に減る様子を見せない。
──守備頭の居ない時に敵襲とは間が悪い……いや、抑も彼等を招いたのは……
複雑に入り組んだ洞穴の道筋を何故外敵が知っていたのか。そして、彼等が現れたのは守備頭が失踪した直後──そこから導き出されるのは、竜族の事情に精通した者の密告と手引き。
『炎』は一昨日の記憶を呼び起こした。それは、伝令役のティラノモンと言葉を交わした時の事……
「師匠ですか? そういえば、昨日から姿を見ていませんね……」
守備頭の老竜が姿を消した……これを聞いた時、『炎』の心中は大きく掻き乱された。
『光』の銀狼を求め『闇』の領域に向かう際、側近のうちで特に信頼を置いていた老竜に何も伝えず、嘗ての敵である『鋼』に自ら同行を依頼した……それを耳にした老竜が怒りを露わにしたことは言うまでもない。
「この目では十分な働きが出来ぬ故、長が儂を廃するのも致し方無かろうが……しかしだ、一族の誰にも告げる事なく、そしてあの憎き『鋼』の領主に対し自ら頭を下げて供を頼んだとは、長は一体何を考えておるのだ⁉︎」
老竜が姿を消したのは、それから間も無くの事であった。
あの時の選択が、『光』を救う手段として見る限りでは最善のものだった事に疑いの余地はないが、それが幹部の不信と離反を招いたとなれば、戦全体を見渡した際に悪手と断ぜざるを得ないのもまた事実である。
「敵は疲れ切っておる。今だ者ども、このまま押し切れ」
指揮官の騎士が、身の丈程もある大剣を担ぎ上げ自ら先陣を切って飛び出す。外殻を盾代わりにして咄嗟にこれを防いだ『炎』だったが、指揮官の背後から押し寄せる兵士達の剣の群れを捌ききれず、裂かれた翼の所々から血を流した。
このままでは、いずれ此方が消耗し力尽きる──そう思った矢先、先頭の指揮官が前触れもなく倒れた。大の字になったままぴくりとも動かないその身体は、すぐにデータの粒子になって散った。
戸惑う敵兵の背後から、金色に光る鉤爪が振り下ろされる。後列の兵士は身体が斜めに両断され、振り返った前列の兵士は脳天から真っ直ぐに切り裂かれて絶命した。
「……『闇』の主。何故ここに?」
「我等一族を救った貴殿に報いる……以前申し述べた通りにしたまで」
『光』の問いかけにそう返した黒獅子が、隣の『炎』へと視線を移す。
「竜の長。一つ聞きたいが……貴殿の配下に、灰の鱗を持つ物は居るか?」
「……一名、居る。我が一族の守備頭だ」
その答えに、『闇』はほんの僅かに眉根を寄せた──ように見えた。
「我の眷属より齎された情報であるが……弓兵隊長パジラモンが、竜族の者と思われるデジモンと接触したという。その相手が、灰の鱗を持つ老いた竜であったと……」
それを聞いた瞬間、『炎』の疑念は確信へと変わった。幹部のひとりが一族を裏切った……それも、長である己の浅慮が原因で。
──『炎』よ、半端な隠し事は軍内に要らぬ不和を生むだけだぞ。秘事にあたっては、全てを密に行う事だ。
他のどんな軍団よりも強く結び付いた一族の絆は、僅かなきっかけで自らの身を裂く刃に変ずる。その事実を目の前に突きつけられた『炎』の竜は、険しい表情を浮かべたまま虚空を仰いだ。
*
「そう……で、他には?」
側近であるアンティラモンが雪崩に呑まれ谷底へと消えた──ミスティモンから報告を受けたルーチェモンは特段取り乱す、或いは怒る素振りを見せなかった。あまりにも淡々としたその様子が、ミスティモンにとっては寧ろ不気味且つ恐ろしいものに感じられた。
「……我が兵士達の失態により王の側近が命を落としたとあっては、責任を取らぬ訳には参りませぬ。いや、彼等に罪は無し、全ては指揮官たる者の責務を果たせなかった私の落ち度で御座います。斯くなる上は、私めの命を以て……」
「いいよ別に。アイツの同行許したの僕だし」
ルーチェモンはミスティモンの言葉を途中で遮り、頬杖を突いた格好で長椅子の上に身体を横たえた。
「死んじゃったモノはしょうがないじゃん。そんな事より、次どうするか考えるのが君の仕事でしょ? いいから帰ってよ」
「ですが……」
瞬間、ルーチェモンは長椅子の前の卓を蹴った。その衝撃で、天板の上に並んでいた器が散らばって砕け、中身の茶や菓子類が床一面を汚した。
「君が首を刎ねられようが腹を切ろうが、それは単なる自己満足。僕には何の得も無い。はっきり言って迷惑なんだよ」
僅かの苛立ちが混ざるその声を、ミスティモンは押し黙ったまま聞いていた。それから暫しの沈黙を挟み、ルーチェモンは深い溜息を吐く。
「いい加減、僕を失望させるのやめてくれないかなぁ」
氷のような冷たい瞳が己に向けられたその瞬間、ミスティモンは電脳核を直に握られたような緊張が全身に奔るのを感じ取った。
「僕ね、待つの嫌いなんだ。王の……僕の軍だ何だって偉そうにしてるんなら、それ相応の結果を出してよ。あの穢らわしい反逆者どもを、いつまで生かしておくつもりなの?」
幼き天使の青い瞳に、獰猛な殺意の灯が燈る。ルーチェモンの澄んだ声の所々に、以前耳にした記憶のある掠れた声が混ざった。
「……か、必ず……我等の命を引き換えとしてでも、必ずやかの叛逆者達の首級(しるし)を挙げて御覧に入れまする。どうか、暫しの猶予を……」
「期待してるよ。今度こそ、良いところ見せてよね」
無言のまま主の前に跪くミスティモンを取り巻く魔力の流れに、どす黒く濁った瘴気が溶けてゆくその様を見守る幼王の顔は、ひどく穏やかなものであった。
そんな彼等の遣り取りを、扉の外から聞いていた三人の天使──小隊の指揮官とその側近達が邪悪な笑みを浮かべた違いの顔を見合わせたその瞬間、彼等の両肩に刻まれた三日月型の紋章が紫に光り、穢れなき純白の翼が漆黒に染まった。
黒翼の天使達は、ミスティモンが戻ってくるのを待つ事なく、三人連れ立って暗い回廊の奥へと姿を消した。
*
現在のデジタルワールドは、デジモン研究発祥の地ファイル島や、その直近に位置するフォルダ大陸など、複数の陸地により構成されている。
その遥か以前、太古の血を引く十の獣が生きていた反逆戦争期のデジタルワールドにおいては、宛ら現実世界の超大陸パンゲアの如き巨大な一つの陸地が存在し、その周辺には大小の島々や大陸が点在していた。
超大陸の東縁には複数の水源を有する緑の山々が立ち並び、その豊かさを求めて多数のデジモンが生活を営んでいた。
そんな東部山地に突如として大禍が訪れたのが、凡そ一年程前のこと。
時の王ルーチェモンはこの山地の住民達に対する粛正を決行した。その理由は、住民の中に反逆を企てた者がいる、ということだが、その真偽を示すものは何もない。
周辺地域の領主達を動員し二日をかけて焼き尽くされた東部山地からは清き水も青い木々も住民達の声も全てが失われ、ただ焼け跡の一部に辛うじて何者のかの暮らした痕跡が見出せるのみであった。
それから季節が巡り、もう雪が降り始めるかという頃、東部山地周辺でひとつの噂が流れ始めた。
其は異能を以て願いを成就させる者。白き妖精に全てを託すべし。
どんな願いも叶えてくれる、白い妖精が現れた……それも、罪無き者達が惨殺された悲劇の舞台たる、東部山地に。
ルーチェモンの暴政と彼に抗う者達との間で繰り広げられる戦乱に倦み疲れたデジモン達は東を目指した。白い妖精が、自分達を救ってくれるかも知れぬと一縷の望みを抱いて。
元々複雑な地形の東部山地の、白い妖精がいるとされる最奥部の区画に入るのは大変な労力が要る。それでもデジモン達は、実在するか否かも定かでない白き妖精の力に縋り、死の山へと向かう命懸けの旅路に臨んだ。それ程迄に、今の彼等の生活は苦痛と絶望に塗れていたのだ。
移り住んだ後のデジモン達がどうしているか、知る者はいない。複数の集落が作られた事は確認されているが、住民達の暮らしはその中で完結しているとみえ、ただ一匹のデジモンも外界へ一切出てこなくなったからだ。
願いを叶える白い妖精……彼が実在のものであるとしたら、その力により齎された恵みは多大なものであるのだろう。東部山地を目指す者は、今も後を断たないという。
「〝白い妖精〟……やはり、彼奴であったか」
『鋼』は卓上の竹簡に記された文字の列を目で追いながら低く呟いた。その黄金の双眸は、普段より更に暗く、澱んだ邪気に満ちている。
「本人かどうかは分かりませんがね。ですが、かの妖精の正体……〝ウッコモン〟と見て間違いないでしょう」
セトモンの言葉に、『鋼』の脳裏を過る忌まわしき白影の記憶。虚な翡翠色の瞳が見つめるその先には、血染めの雪原と無数の屍があるのみ──
──〝管理者権限〟に基づく干渉と、ウッコモンの出現……どうもおれの悪い予感は当たるらしいな。
流れる雪雲の隙間から差し込む月光は、いつにも増して赤く、そして禍々しかった。
災禍の章 終
渾沌の章へ続く
ば、馬鹿な……20体もの騎士どもが『闇』の爪で一瞬で……夏P(ナッピー)です。
アンティラモン以下の天使軍、鉄筋家族で巨大な餅に呑まれた上に積雪で凝固して動けなくなった小鉄達みたいなことになってんなと思ったら落ち武者狩り(?)で無念のさらば。サラッと『鋼』『土』辺りが雪崩を余裕で予測していたと書かれて無能ぶりに拍車がかかってしまう。ミスティモンも愚直ですが「こんな仕事続けていたらおかしくなる……」状態。討てー! 誰でもいい、ルーチェモンを討てー!
背中合わせに戦う『炎』『光』の姿カッコいいと思う前に既に劣勢になっていましたが、我らが『闇』が参戦して無双、こやつらずっと前から仲間だったように思える。しかしマスターティラノモンまさかのオンドゥルラギッターンディスカー。この作品における完全体デジモンは凡そが後の時代の大した地位の奴らになるであろうポジションの気がしますが、ここでこんな寝返る大役を担わされる辺りマスターティラノモンも何某かの役目があるのでしょうか。
そして超大陸パンゲアの名前を斯様な場所で目にするとは。……うん? 妖精?
ウッコモンじゃねえか!?
それでは今回はこの辺で感想とさせて頂きます。