『鋼』が本拠とする城の中には、周囲の沢より引き込んだ清水を湛々とたたえる巨大な池があり、そこから伸びる複数の水路と回廊が、広大な城内に網目の如く張り巡らされている。
これは景観の優美なるを求めた訳ではなく、『鋼』の配下や同盟者に多い水棲種デジモンのために作られた出入口及び通路であり、その複雑な構造には、外敵の侵入を容易ならざるものとする目的があった。
中央の池に臨む回廊の只中、『鋼』は水面に揺らめく蒼月を一瞥した後、徐に声を発した。
「『闇』の領域に銀狼の姿在り……確かな話であろうな?」
「はい。紫水晶を嵌めた白銀の鎧、二振の黄金の大剣、その特徴を備えたデジモンとなれば、『炎』の求る『光』の銀狼とみて間違いは無いかと……」
水上で煌めく月の虚像を割いて現れたティロモンが、主の問いに淀みなく答えた。
ルーチェモンと配下の天使軍の同行を探る内に掴んだ情報──火山の戦で行方知れずとなった『光』が、生きて『闇』の領域に居る。間者として放ったイガモンから伝令役のティロモンを介して齎されたこの情報をどう扱ったものかと、『鋼』は思案した。
「『炎』めに伝えたならば直ぐにでも向かうと云うだろうが、『闇』の領域は黒獅子の縄張り故、奴に万一の事があっては後が困る……」
だが、銀狼に関する巷談が『闇』の領域を出て遥か遠くまで聞こえている今、己が黙っていたところでいずれは『炎』の耳に入るだろう。
結局、『鋼』は自ら『炎』の元を訪れてこの事実を包み隠さず伝えた。後顧の憂いとなり得る余計な秘事は、すべきではない── そう考えた末の行動であった。
さて、『鋼』の主自らの急訪と、彼の持参した驚くべき情報に、『炎』の竜は大いに心を乱された。
己の親友──『光』が生きている。だが、その理由は兎も角、『闇』の領域に居る現在の状況は決して楽観視して良いものではない筈だ。一刻も早く、彼と合流しなければ。
「しかし長、あの地には『闇』の獅子とその眷属達が犇いております。孤軍で赴くのは流石に危険、儂が供を致します」
老竜が前に進み出た。視力が落ちたとはいえ、その戦闘能力は依然として竜族の中での上位にある。彼が帯同するのならば、『炎』にとっては心強いことに違いはないが……
「だが、『風』が留守で他の者も動けない今、お前までここを離れるのは拙い。俺の事は心配いらぬ故、どうかここに居る皆を守ってやってはくれまいか」
竜族側の同盟者の内、『闇』の領域に関して僅かばかりだが知識のある『風』の剣士は、ルーチェモンの居城とその付近の海域の偵察に従事しているため、此度の件に随伴させる訳にはいかないが、かと言って、唯一残された拠所であるこの地下洞穴を幹部不在の状態にするのも得策ではない──『炎』の決断は至極当然のものであった。
長の指示に老竜は一瞬残念そうな表情を浮かべたが、無言で頷きその場を退出した。
「……『鋼』よ。一つ、頼みたい事があるのだが」
老竜の姿が見えなくなったのを見計らい、『炎』は声を顰めてそう言った。古参の部下にすら聞かせたくない、つまるところ、碌な頼みではないのだろう。
「大方の検討はつくが、一応聞いておこう」
「『闇』の領域を進むに、貴殿の同行を願いたい。俺も俺の部下もあの地を全く知らぬが、貴殿はこの大陸、ひいてはデジタルワールドの地勢に詳しく、『闇』の領域に関する情報も持つと聞く。どうか、その知を貸して欲しい」
矢張りだ──銀狼がかの地に居り、且つ『炎』の側で最も地勢に明るい『風』の剣士が直ぐに動けぬ状況にある時点で、こうなる事は既に決まっていた。
全く予想通りの『炎』の言葉に、『鋼』は不機嫌そうな溜息を吐いた。
「貴公のことだ、おれが断ったところで、諦めるとは言うまい。同行の件は了解したが、貴公、『闇』の獅子と奴の眷属とを相手に闘うとは如何なる事か、それも当然心得ておるのだろうな?」
武芸が不得手であるとは以前『鋼』自らが申し述べた事だが、自ら天使軍の精兵を手にかけた彼が言ったものであるから、鵜呑みにすべきでない言葉なのは明らかだ。しかし、凡ゆる生命に死の呪いを齎すという『闇』の獅子と、彼の力を受け継ぐ眷属達を相手にするとなれば、味方が『鋼』一匹では些か心許ないのも事実である。
「それに、先程の竜……いや貴公の決断は尤もだが、かの者を退けて外様の将であるおれを伴とした事を知れば、決して良い感情は抱かぬだろう」
『炎』は気まずそうに下を向いた。今の状況を鑑みた最善の選択であったとはいえ、老竜の心に蟠りを生んでしまったこともまた事実である。
「告ぐるに害を以てすること勿れ、将の謀は密なるを欲す……だが『炎』よ、半端な隠し事は軍内に要らぬ不和を生むだけだぞ。秘事にあたっては、全てを密に行う事だ」
『鋼』は軍内の将兵が馴れ合う事にあまり重要性を見出した事はない。しかし、兵の信頼を得られぬ大将に、軍を統率することは叶わない──相手方の天使軍も同じ状況に陥ってはいるが、何せ彼方は大軍で且つルーチェモンという圧倒的な力を秘めた総大将を頭に据えている。同じ条件で、寡勢が多勢に勝利出来る道理はないのだ。
「おーい、久しぶり……ってうわぁ、何でお前が居るんだよ⁉︎」
突如響いたその声に振り返れば、巨大な地下洞穴の出入口に、新雪の如き白毛に被われた『氷』の姿があった。
彼は、『炎』と正対して何やら門議している『鋼』の姿に大層驚いた様子だった。
「何と言われても、用があって来ているとしか言えぬが……それより貴公、よく此処へ辿り着いたな。通り道は水底に沈んだものと聞いていたが」
『鋼』が言ったのは、先の戦で『水』の手により行われた妨害──火山地帯に向かう渓谷を海水で充たし『氷』とその配下の行進を阻んだ作戦の事である。
「あー、アレね……おととい『水』がウチに来てさ、丁度良いから水抜きしてもらったの」
この時の訪問の理由について、これから共闘するにあたって挨拶くらいはしておきたい、というのが『水』の言ではあったが、果たしてどこまで信用して良かったものか、『氷』は未だに図りかねていた。
因みに、彼女が手土産に持って来た、波の絵札が貼られた瓶の酒が思いの外美味かった、というのは余談である。
「……竜の長」
『鋼』が低い声で耳打ちした。『炎』は彼を一瞥した後、『氷』へと向き直る。
「『氷』よ、急で申し訳無いが、ひとつ手伝って貰いたい事がある」
「え? ま、まあ特に何も無いから良いけど……」
余計な事言うんじゃなかった……後に『氷』の白獣は、この時の己の軽率さを心底恨んだという──
*
『闇』の主は、常闇の渓谷を抜けて己が支配域へと戻った。彼の眷属達は、力に於いて他に並ぶもの無しと信じて疑わなかった一族の長が重い傷を負って帰ってきたその事実に、酷く慌てた様子であった。
「何たることか。早う薬師を呼べ」
「案ずるな、今に来る。……それにしても、銀狼めはどうなったのだろう?」
右往左往する『闇』の眷属の中には、魔獣型の他に幻獣──天馬の姿をしたユニモン等、一般には聖なる獣として扱われる存在を模した種も多くいた。
「長が生きて戻ったのだ、きっと闘いの末に見事討ち取ってしまわれたに違いない」
「違いない。まことめでたや、長の傷が治ったらすぐに祝いの宴をせねば」
一族の者は皆、口々に黒獅子の帰還を祝った。
だが当の獅子自身は、常日頃己がねぐらにしている神殿跡地の台座に横たわり、身体を丸めてその真紅の瞳を閉ざしていた。
眷属達はこれを、負った傷の重きによるものと考え、長の眠りを妨げぬようにと微かな物音も立てずにその場を離れて行く。
どうしてあれを勝利と言えようか、手負いの狼に挑み、挙句これ程の手傷を負わされたという恥ずべき失態……
『闇』の心中に、禍々しき殺意の火が灯る。この傷が癒えたならば、直ぐにでも銀狼の元へ舞い戻り奴を抹殺せねばならぬ。獅子の血脈に刻み込まれた呪咀が、彼自身を責め苛んだ。
ふと、微睡みの向こうに不穏な気配が過った。一族のうちの誰でもないことは、咽せ返るような血脂の臭気と唾液の泡立つ湿った音を伴う唸り声により察せられた。
「……問う。貴様等は何者か?」
仮面の魔獣は答えない。ただ彼らは、腹の底にまで響くような唸り声を発し、口角から涎の糸を引いて獲物を貪り食らうのみ。
普段であれば遅れを取る事も無かっただろうが、今の『闇』は深傷を負った身──四方から殺到した魔獣達が漆黒の装甲に覆われた身体の其処彼処に飛び付いた。
吼え猛る黒獅子は魔獣の一匹に喰らい付き、その身体を真っ二つに噛み切った。だが、その間に別の個体が側腹に穿たれた刀傷に近付き、ぱっくりと空いたその口に三叉の蠍尾を捩じ込んだ。
響く絶叫、倒れ伏したまま動けぬ『闇』に迫る魔獣の一団は、このまま彼の身体を跡形も無く喰らい尽くすと思われた。
閃く金光──大口を開けた魔獣の、上顎より先の頭部が宙に舞った。
「貴様は……何故、我が領域に居る?」
息も絶え絶えに問いかけたその相手は、黄金に輝く二刀を構える、『光』の銀狼であった。
*
「うわぁ、何だこいつ⁉︎」
『闇』の領域を進む三匹の古代種達の前に現れた、三つの口と尾を持つ青白い魔獣。彼らの姿を見るや、最も巨大な『氷』の身体に飛びつき、頭と両手の口に備わる牙と蠍尾の毒針をその横腹へと執拗に突き立てた。
だが極寒の環境下で永く生きた『氷』の厚い被毛は金属に匹敵する硬度を持つ鎧と化しており、幸い牙も針の毒も下の皮膚には届いていなかった。
「いい加減離れろこのやろー!」
怒りが頂点に達した『氷』が、しがみ付かれた側の腹を下にして身体を倒した。
哀れ、被毛に牙を絡め取られた魔獣は即座に離れることが出来ず、伸し掛かる巨獣の途方もない重量に押し潰され原型を失ってしまった。
「マンティコアモン……ミスティモンの奴、結局あの使い魔共を始末しなかったか。戦では使えぬと散々愚痴を言っていたようだが」
十年以上前の記憶ではあったが、見覚えのある魔獣の姿に、『鋼』は訝しげな様子で呟いた。
「え⁉︎ これ天使軍の関係者⁉︎」
ウィルス種の電脳核を喰らうウィルス種、その名はマンティコアモン。
現代においても、暗黒系デジモン──その殆どはウィルス種に分類されるという──彼等と敵対する天使型デジモン達が、マンティコアモンの食性と攻撃性に着目し、戦闘のために使役するケースが多いとされる。
人類がデジタルワールドの踏査によって本種を"発見"するのは何十年も先の事だが、その遥か前、原初の古代種が生きるこの時代においても、彼らの扱いは変わらなかったようだ。
「ウィルス種の電脳核……あれ? じゃあ何で僕が齧られてるの?」
「本人に訊けば良かろう」
本来捕食対象とするウィルス種──この場において該当するのは『鋼』だが、どういう訳かこのマンティコアモンは彼に見向きもせず、データ種である『氷』の方を優先して襲った。
「てか、お前……見てないで助けてよ」
「断る」
「何だよもう!」
荒事は専門でないと喧伝する『鋼』だが、少なくとも、先程のマンティコアモン──訊けば、その世代は完全体。この時代における進化の最高位である──彼程度であれば、技を用いずに斃せるくらいの膂力はある筈だが、それをしないのは、余計な労力を割く事を嫌う彼の性質故か。
『鋼』は『氷』の抗議を無視して五芒星の陣を開き、潰れたマンティコアモンの残骸をその中に投げ込んだ。
「何してるの?」
「他に魔獣が居れば、この中にある電脳核の残滓を漁りに来る。早う始末せねばなるまい」
彼の言わんとするところを理解した『氷』だが、五芒星の中から溢れる黒い"何か"が発する形容し難い邪気がどうにも気掛かりだった。
「その黒いのって大丈夫なヤツ? 襲ってこない?」
「心配無い。食わせるモノがある限りは、だがな……」
黒い澱の正体は、古き鏡獣の身に宿る異界の邪神──そのデータの源流にあるのは、ある一人の男が失意に満ちた生涯の中で紡いだ、畏怖すべき狂気の物語。彼の遺志を継いだ者達の記した、星海の先に広がる恐怖の物語──それらにまつわる無数の情報群が複雑且つ歪に混ざり合って生まれた悍ましき電子の神々は、獲物はおろか、己が依代の魂すらも食い尽くさんとする貪婪の魔神であった。
喰う量に際限がある分、マンティコアモンの方がまだ良いかもしれぬな──『鋼』はそんな事を考えつつ、路傍に伏せる黒毛の獣に目を向けた。
「貴公、『闇』の一族の者か。此はそも、如何なる由があっての事か」
「……分からぬ。白い獣が……長は未だ傷が癒えぬ……ああ、一族もここまでか……」
黒獣はそう言ったきり動かなくなった。その亡骸はデータの粒子と化し、暗黒の空間に溶けて消えた。
「何やら向こうが騒がしいが……まさか……」
そう言って『炎』は両翼を広げ、喧騒の方角へと飛んだ。
「ちょっと待て、置いてけぼりは無しだぞ!」
『鋼』が方陣を展開するや、『氷』は十脚のうちの二本を彼の身体に引っ掛け、その動きを阻んだ。
「離せ馬鹿者、まだ置いて行くとは言っておらぬだろうが!」
「うるさい下衆鏡、お前は信用出来ないんだよっ!」
言い争う二匹は歪な方陣の中に沈んだ。
瞬きの間も無く放り出された先の空間には、無残に食い荒らされた無数の遺骸と、その只中に並び立つ漆黒と白銀──
「『光』よ、俺だ。助太刀に来た」
『炎』の声に、四つの紅い眼光が彼のいる方へと向く。
飛び掛かる直前のような姿勢で伏す黒獅子と、その傍に座す銀狼。彼等の周りには、断ち割られ、引き裂かれたマンティコアモンの残骸が堆く積み上げられていた。

こんにちは、快晴です。『鋼鉄臥龍伝 』、今回も楽しく読ませていただきました。災禍の章も参となってからの推参となってしまいましたが、どうかご容赦を。
新章に突入し、べらぼうに血なまぐさい退社パーティー()を経て、いよいよ大乱が――となる前に、一旦ずっと問題になっていた『光』と『闇』の回、と。襲撃者マンティコアモンの部隊を筆頭に戦乱の空気はちゃんと漂わせつつ、これまでと比べると、良い意味で若干狭い部分にフォーカスを当てる手法、本当にお見事です。軍記物で主人公陣営がお互いの強い個性に引っ張られながら展開するわちゃわちゃする展開でしか得られない栄養素がある。
『炎』もそうですが、『氷』もなんとなく若さが感じられて良いですね。……いや、『鋼』がキャラとしても軍師としても老獪過ぎるだけかもしれませんけど、やはり後生の主役陣営はとてもフレッシュ。
『氷』がその物量でシンプルにマンティコアモンをプチッといく描写、大変に良きですね……大きいことは良いことだ。なんか囓られていますけれども。
とはいえ巨大キャラの動かし方が難しいのは自分でも体験してきた話なので、今回の採用理由になったという「出番がこれまであまり無かった」もわかってしまうと言いますか……
でもそれはそれとして仕草がかわいいですねぇ。みんな大好き下衆鏡呼び。雑に扱ってくる『鋼』と一緒にずぶずぶ沈んでいくので2倍かわいい。
とはいえ魔方陣の向こう、『闇』の拠点はのっぴきならない状況。でも『炎』と『光』の両雄が立ち並ぶ姿は、やはり想像するだけでワクワクするものがあります。しかしここから『闇』さんが仲間に加わる保険が……!?
相変わらずとりとめも無く拙い感想になってしまい申し訳ないのですが、今回はこちらを感想とさせていただきます。
波の絵札が貼られた瓶の酒と、美しい『水』の墨絵風イラストを愛でつつ、次回の投稿も楽しみにしております。
扉絵がエンシェントマーメイモンだ! だが出番なし。何故だ! 夏P(ナッピー)です。
前回の今回でルーチェモン様の出番は特になかったようで。
着々と反撃の流れが出来上がっているというか、ちょっと前まで正義の五闘士と悪の五闘士はそれぞれ分割されていたようなイメージなのに一気に絡みを増してきた。『水』がわざわざ『氷』の手助けをしてくれたのは、元来水と氷は属性的にも助け合う、近しい関係にあるのだ……みたいな超理論もなく純粋に手助けなのか。凸凹にも程がある『炎』『鋼』『氷』という謎パーティで『闇』の下に向かう展開も面白い。
ところでティラノ師匠これ帰ってくるまでに死にましたな。『鋼』が念のため同志の士気&指揮についてアドバイスしてくれてたというのに『炎』は主人公気質過ぎてまだ若かったか。むしろ『鋼』が性格悪いだの「おれには~~な才能などないが~~」言いつつ世話焼きの気遣い過ぎる。
ちゅーわけで、待ちに待ったぜ『闇』と『光』が再び話に絡む展開!
マンティコアモンを何故か究極体と記憶していたので「何だと!? 密かに闇の領域には既に究極体がいたってのかい!?」と戦慄しましたが完全体だった。そういえばコイツ、天使族に使役されてウイルスを襲うって設定があったんでしたね……ミスティモンとかパジラモンとか調子に乗って来てたら「このマンティコアモン軍団で貴様らを始末してくr…ちょ、待っ、ギャアアアアア」するところだった。危なかった。
会話的に『氷』と『鋼』は正反対だけど会話が楽しい。ポケモン的に相性最悪ですが。
では今回はこの辺で感想とさせて頂きます。