悍ましき絶叫と共に、黄金色の牙が並ぶ黒獅子の口から真紅の飛沫が散る。その側腹には、眩く煌めく大剣の鋒(きっさき)が深々と突き刺さっていた。
常闇の谷底に引き込まれる最中、瀕死の銀狼が放った一突。
獅子の牙が外れたと見るや、その腹を蹴り付けて強引に剣先を引き抜いた『光』は、谷底に叩き付けられる直前に空中で蜻蛉を切り、巨体らしからぬ軽やかな着地と同時に二振の大剣を構えた。
『光』とほぼ同時に谷底へ降り立った『闇』の獅子は、怒りと殺意の宿る妖光を、赫々たるその瞳に湛えていた。
『光』と『闇』とは決して相容れぬ──
実を言うと、今この瞬間対峙する二匹の古き獣達には、個々としての面識もなければ禍根も無かった。
ただ在るのは、世界の創成期に勃発した戦を端緒とする、先祖同士の怨恨のみ。
しかし、当代の『光』は生まれて間もない頃、所属する群の同族を戦により悉く失ったというその生い立ち故、『闇』の一族との因縁と彼等への憎悪を育む機会はなく、今に至ってもかの一族に対する怨嗟と全くの無縁──つまるところ、『光』にとって『闇』の乱入と、彼が己に向けてきた並々ならぬ殺意に関して、何一つ理解出来るところが無いのだ。
一族の因縁に決着を付けるという、先祖代々受け継がれてきた使命を果たす為──そうだとしたら、この獅子の行動に対しては、何故今更と言わざるを得ない。
この世に生を受けて以来、『闇』の領域を離れた事など一度たりとも無いであろう彼が、今になって突然自分の目の前に現れた理由──領主達との戦の気配に当てられたのか、或いは、近年この世界に満ちる禍々しき邪気のためにその凶暴性が目覚めたのか……
最も、その理由が分かったところで状況は変わらない。
止め処なく血を噴き出す傷の痛みすら意に介さず、狂気と暴威の儘に爪牙を振るう『闇』の主の猛攻を前にして、『光』に残された唯一の選択肢は、眼前の敵を打破する以外に無いのだ。
銀狼は地を蹴り、跳んだ。
その両の腕に携えた二振の大剣が、黄金の閃光となって『闇』の頭上に迫る。
凄絶な斬撃を咄嗟の跳躍で以て躱した黒獅子だったが、側腹の刀疵が疼く激痛に思わず唸り声が漏れた。だが、そこは流石『闇』の魔獣を束ねる長と言うべきか、更なる攻撃を加えんと詰め寄る『光』目掛け、『闇』はその槍状の尾を勢いよく突き出した。
舞う血飛沫。
三叉の穂先が、『光』の右上腕を掠めて後方に流れた。『闇』は尚も攻撃を仕掛けようと身を翻したが、突如前脚から力が抜け、危うく頭を地に打ち付けそうになる。
再び開いた傷口の激痛と、出血の様相を以て多量のデータが体内から失われた事で、彼の運動機能は遂に崩壊を始めたのだ。
忌々しい。あと一歩のところだったというのに──『闇』の赤眼は、高まる怨嗟の為により一層妖しく、凶々しく輝いた。
そして、魂が凍りつくかとさえ思える不気味な咆哮を最後に、その漆黒の巨躯は『光』の前から姿を消した。
……『闇』の一族。何故今更現れた? 如何にして奴は俺の居場所を探し当てたのか?
『光』の脳裏を廻る疑問の数々。それらに対する答えの分からぬうちに、銀狼の意識は暗黒の中に途絶えた。
鋭峰の頂より吹き降る狂飆が、宵闇の街路に吹き荒ぶ。その不気味な風音は石造の街並みに反響し、歪なる絶叫となって寒夜の外気を震わせた。
「……一応問うてはおくべきか。狙いは我が生命か、それとも"奇跡"か?」
王城からの帰路、己が居所へと向かう街道上に蠢く、不穏の気配。
静かな怒気を湛えた声と共に背後の暗がりを顧みた『鋼』の烱々たる金の眼光は、青黒い闇の中に溶け込む賊どもの姿を確と捉えていた。
「両方だ。至宝を渡してお前も死ね」
絶叫と共に、巨岩と見紛う屈強な体躯の天使が、得物の聖杖を構えて躍り出た。
『鋼』は心底煩わしそうに溜息をつき、塵でも払うかのように軽く──少なくとも、周りにいた者達にはそう見えた──袖を振った。
同時に、天使の逞しい体が杖諸共くの字に折れ曲がって吹っ飛び、その先に居た二名の不運な同胞を巻き込んで数メートル隔てた石壁の上に叩きつけられた。
どれ程の力が加わったものか、壁に貼りついたまま絶命した三体の死骸はいずれも体の各部があらぬ方向に捻じ曲がり、『鋼』が直接の一撃を与えた天使に至っては、電脳核の収まる上腹辺りに帯状の大きな窪みが出来ており、半ば開いた口から夥しい量の血泡が噴き出していた。
至宝を賜った四体の古代種。
無双の剛力を誇る『土』と千尋の海溝に居を構える『水』、途方も無い巨体を備え更に広大な樹海の中を絶えず移動し続ける『木』と比べて、力が弱くその棲家に忍び込むも比較的容易な『鋼』を襲撃者が手始めに片付けたがるのは、自明の理であった。
ただ、力が弱いと云ってもそれは古代種の、その間で幾度となく繰り広げられた死闘を制しさらに進化の限界をも踏み越えた猛者達の基準で見た場合に限る。
何の技も異能も用いない、袖先で叩くその一打のみで、天使軍猟兵隊の精鋭と謳われた巨躯の天使を即死に至らしめた事からも分かるように、古の鏡獣と襲撃者達との間には、決して覆す事の叶わぬ力の隔たりが存在したのだ。
軍内でも特に武勇の誉高い戦士達が一瞬にして屠られる様を見せつけられ、襲撃者の内で最後のひとりになった兵士は、これは敵わぬと踵を返し逃げ去ろうとした。
「セトモン、捕えよ」
『鋼』の声に呼応し、傍の小路から赤い躰に銀の兜を纏う魔獣が躍り出た。
その捻くれた二本の青牙は侵入者の両肩を易々と貫いたに留まらず、勢いそのままに彼を後方の石壁に縫い付けてしまった。
「大将。此奴、王軍の者では? どうにも見覚えのある顔をしてます」
その言葉に、兵士は不敵に笑うだけで何も答えない。苛立ったセトモンに牙を捻られ傷口が抉れても、僅かに呻くだけで只の一言も発する事はしなかった。
「ミスティモンの差金……ではないな。これ以上の面倒は勘弁願いたいんだが」
ミスティモンではない──『鋼』の言葉に、兵の表情が青白く染まった。
と、何かを察知したセトモンが慌てた様子で後方へと飛び退る。その直後、兵士の身体から猛烈な勢いで炎が噴き出し、灰の一粒も残さず彼を焼き尽くしてしまった。
「口封じ……これは"クロ"ですね」
「違いない。全く、この忙しい時期に何を考えているんだあの餓鬼……」
まだ何か言おうとした『鋼』が、不意に反対側を向いた。セトモンも何かに気付いたらしく、姿勢を低く下げ迎撃の構えを取る。
「見えているぞ。出ろ」
夜目の利く二匹が睨んだ先、廃墟と化した建物脇の小路から、濃紺の外套を纏う、人間の女性と酷似した姿のデジモンが覚束ない足取りで姿を現した。
肩を押さえる手指の隙間から血を流す彼女──今更だが、デジモンに性別の概念はないので三人称の区別は見た目に合わせた便宜上のものである──その正体に、『鋼』もセトモンも思わず怪訝な表情を浮かべた。
天使軍の弓兵隊長、エンジェウーモン。
先程の襲撃者を指揮していたのは彼女であろう。
だがしかし不可解なのは、肉が弾けその断面から骨(ワイヤーフレーム)の一部が覗く、右肩の大きな刀疵。
『鋼』もその部下も関与していない負傷であるのは明らかだが、それならば、これは一体誰の仕業だと言うのか──考えられるのは一つ。
「部下の裏切りとはとんだ災難だったな、弓兵隊長殿。一応聞くが、貴公、何を求めて我が領地に踏み入った?」
口元が僅かに動いたように見えたが、声は発せられなかった。多量の出血と厳寒の為に、エンジェウーモンは意識を失いその場に崩れ落ちた。
「ここで殺しますか?」
「馬鹿を言え、此奴に訊かねばならぬ事が山程ある。連れて帰るぞ」
そう言った『鋼』はエンジェウーモンの両手を体の後ろで固く縛り、セトモンの背に彼女を括り付けて居城へと戻っていった。
火山の麓に広がる樹海は、嘗ての大溶岩流の跡地に無数の木々が生育として出来たものである。
その地下には、かつて溶岩の内部から多量の火山ガスが抜け出た際の通路が無数の大洞穴を成し、且つそれらが複雑に入り組むことでさながら迷路の如き様相を呈していた。
『炎』の竜とその一族は──件の戦の後、若者の大部分が出奔してはいたが──この巨大な地下洞窟に身を寄せ合い再起の刻を伺っていた。
「……本当に『風』なのか?」
「疑うのも当然でしょうね。でも、本人よ。たまたま彼に見つけてもらったから命拾いしたわ」
信じられぬ。あの時、『鋼』の不意討ちを受けて千仞の谷底へと消えた彼女が、同じく戦の最中に行方知れずとなっていた老竜と共に己の前に現れたのだ。
「おお、お前も無事だったか。しかし、眼を……」
『土』の奇襲兵に切り裂かれた老竜の眼は、幸い視力を完全に失う迄には至らなかったが、それでも角膜の表面が白靄に覆われたこの状態では、何をするにしても障りがあるに違いない。
「情けないことです。『土』めの奇襲を許し、そればかりか長と客人の危機に加勢すら出来ずに里を奪われるとは……」
老竜は牙を噛み締め拳を固く握り込んで『炎』の前に平伏する。彼の口角と指の間から滲む血が、その屈辱と無念の情を物語っていた。
「良い、皆生きているだけでも奇跡というもの。それに、此度のことは長たる俺に責めがある」
『炎』は少し俯いた後、『風』の方に向き直った。
「あいつは……『光』はどうなっただろう?」
「……分からない。私達も『土』の守備兵を撒くので精一杯だったから……」
『光』の銀狼。己の為に命を賭して戦った親友を見殺しに出来るほど、『炎』の竜は冷酷にはなれなかった。
「長、どちらへ?」
「渓谷に行く。あいつと『闇』の獅子は、まだそこにいる筈だ」
「落ち着いて。貴方じゃちょっと目立ち過ぎるわ」
流石に『氷』の白獣には及ばぬものの、それでも『炎』は大きく、そして常に焔の立ち昇る真紅の外殻と翼は目立つ。
『風』の一言ではっとしたように振り返った『炎』は、後脚を曲げて腰を下ろし、洞穴の黒々とした天井を仰いだ。
「……済まない、少し取り乱した」
「大丈夫。それより、『土』の兵士が気になる話をしていたわ」
「気になる話?」
「ええ。何日か前にルーチェモンの城に領主が集められてあれこれ報告を求められたらしいの。これ自体は、多分定期のものなんでしょうけど……」
『風』は短く息を吐き、再び話を続けた。
「その帰り道に天使軍──つまりルーチェモン直轄の軍団ね。そこの兵士が『木』と『鋼』の領主を襲撃したんだって。どちらも失敗して全滅したらしいけど」
「王の軍が、同じく王の配下たる領主を襲うと?」
『炎』は怪訝な顔をしたが、言われてみれば、彼らは今回の戦功により、ルーチェモン配下の勢力内における己の地位を大きく高めただろうし、それを誇り高き王軍の将兵が快く思わないのもまああり得る話だ。
「本当の所は分からないけどね。あの下衆鏡を抱えてる勢力の考えることだし、もう少し詳しく調べてみるわ」
『炎』は無言で頷き、それに返礼した『風』は虹の道を渡って再び地上へと向かった。
ルーチェモンの勢力内における分裂。
辺境とはいえ、一国の領主に対する王軍兵士の襲撃と、その事実が別の領主の、しかも末端の兵士にまで知られているという明らかな異常事態。
「……何が起ころうとしているんだ」
火の山で滾る岩漿(マグマ)の鳴動が、地下洞穴に鳴り響く。
その不気味な唸り声は、この先に待ち受ける不吉の前兆だろうか──

R5.5.18 追記
挿絵(エンシェントボルケーモン)を追加しました
投稿が早くそしてスムーズ! 夏P(ナッピー)です。
やっと来た『光』と『闇』の描写……と思ったら、少なくとも『光』側は直接の因縁や感情は無かったようで。相手に心当たりが無いことも含め、エンシェントスフィンクモンの方はまさしく敵であった頃の輝一の如き行動に見えますが果たして。というか、この時点で他の悪の四闘士であった十闘士の四人とは明らかに在り方や思考的にも違うので、つまりはそーいうことなのでしょう。
そういえば悪の四闘士だと他は全員大柄な奴らばかりで、孔明こそが一番ひ弱(そうに見える)であったか……というのは勿論フラグであっさりグシャアされる王軍のモブ兵悲惨過ぎる。エンジェウーモン、先んじて出てきた二体と同様、後の〇〇〇〇になるかと思いますがこの時点のエンシェントワイズモンと関わることが後の世にどう影響するのか。十闘士以外に究極体が存在しない世界観をしっかり活かしておられてニヤリ。
『炎』と『風』オメーら普通に生きておったんか! サラッと『木』も王軍に攻撃を受けたと明かされましたが、誰か一人ぐらいあっさり王軍の雑兵達に討ち取られた十闘士がいるんじゃないかと今から戦々恐々としております。
それでは今回はこの辺りで感想とさせて頂きます。