「……儂に、長と一族を裏切れと言うのか?」
老竜の白く濁った瞳が見つめるその先、天使軍の弓兵隊長パジラモンとその近侍二名の姿があった。
三名の何れも一切の武器を帯びていないところを見るに、老竜に対する害意は全く持ち合わせていないようだった。
「かの者は清廉にして潔白、それは此方も認めざるを得ません。しかし、彼は大局を見極める程の知見を持ち合わせておらぬ。斯様な長の元で、貴方は一体何を為そうというのです?」
表情一つ変える事なく、白羊は淡々と言葉を紡ぐ。薄寒さすら感じる真紅の眼光は、老竜に注がれたまま少しも揺らぐ事はない。
「儂の役目は、長を援け一族の繁栄を末永きものとする事だ。儂自身で事を為そうなど、考えた事もない」
「ふむ、やはり貴殿は、聞きしに勝る忠臣……だが、竜の長は貴方を無視し一族の仇である『鋼』の領主を頼っていると聞きますが……」
その言葉に、老竜の表情が僅かに歪んだ。
脳裏を過る記憶──『闇』の領域へ赴く際、同行を申し出た自分に対し、僅かの思案もなく断ったばかりか、己を廃した直後、『鋼』の領主に同行を自ら依頼したという。
その真意がどうであれ、長のした事は自分に対する事実上の裏切りに他ならないと、老竜は今でもあの行為を許せずにいた。
「我等の王は、裏切り者を許さぬ。しかし、己が下へ奔って来た者には、深き慈悲を注がれる。貴殿の如き優れた戦士を得るは甚だ難し、王は必ずや貴殿を重く用いられる事でしょう」
「……貴殿らは、何を欲している?」
老竜の声に反応し、パジラモンの眼が妖しく煌る。
「『炎』の竜とその同盟者の、今現在の兵力に関する情報。そして、彼とその眷属が隠れ住むという地下道の案内」
「……相分かった。今この時をもって、儂は貴殿の指揮下に入る。弓兵隊長殿、この老体、如何様にもお使い下され」
頷いたパジラモンが、ふと老竜の背後、遥か後方の林間を睨んだ。どうしたのかと周りが問うその前に、足元の枯れ枝を拾い上げ闇中の一点目掛けて投げつけた。それから一瞬の間を置き、何者かが枯草を踏んで走り去る乾いた音が鳴った。
「……彼方の手の者ではありますまいな?」
「おそらくは、そうでしょう」
上官の言葉に、傍らの弓兵達が弾かれたように駆け出した。その姿は見る間に木々の中へと消えてゆき、数分も経たぬうちに二人は何かを手にしたまま戻って来た。
「うへえ、何なのコレ⁉︎」
緊張感の欠片も無いその声の正体は、アンティラモンの元で小間使いをしていた筈の黄毛の獣人、ネーモン。その尻に刺さっている枝は、紛れもなくパジラモンが放ったものであった。
「お前は……此処で何をしていた?」
「あ、弓兵隊長さま。えーっとですね、何日か前にボスと逸れちゃって、適当にウロウロしてたらここに来ちゃいました」
相変わらずいい加減な奴だと呆れつつ、パジラモンは部下達に彼の解放と傷の手当てを命じる。
「お前、主人の事について、何処まで聞いている?」
「うーん……山で逸れてからは特に何も」
「そうか……残念な報せだが、ネーモン、お前の主人は死んだ。『鋼』の領域に向かう最中、雪崩に巻き込まれてな」
その言葉の意味をすぐに理解出来なかったネーモンは、数秒の沈黙を挟んで素っ頓狂な叫び声を上げた。
「え、ええぇぇー⁉︎ うわぁ、どうしよう、俺露頭に迷っちゃったぁ……」
「落ち着け。暫くは私の元に居るが良い。その後の事は、軍団長に諮ってやる」
「ホントですか、やったぁ。隊長大好き、一生ついて行きますっ」
くっ付こうとするネーモンを鬱陶し気に引き剥がして再び部下に預けると、パジラモンは老竜と連れ立って歩き出した。
この一連の光景を偶然目撃した『闇』の眷属のひとりケルベロモンによる長への報告と、それにより齎された『闇』の助太刀により、数日後に決行された熔岩洞への急襲作戦は失敗に終わる事となる。
しかし、総大将たる『炎』の側近が敵に寝返ったというその事実は、古代種やその配下達の間に大きな動揺を生む事となった。
*
奇しき獣の根源たる太古の末裔──彼の膨大なる記憶の始まりは、屍の山が連なり血の河が流れ下る、現世の地獄。
人型と獣型が相争う時代……否、今現在のデジタルワールド、或いは、現実世界の野生下や戦場においても、幼く非力な命は色濃い死の影に絶えず付き纏われていた。
研ぎ澄まされた刀槍を携えたヒューマン族の兵士が、豪壮な牙と爪を振るうビースト族の一団が、一切の抵抗も出来ずに逃げ回る幼年期デジモン達を惨殺し、無防備に転がるデジタマを踏み潰して回る。
──殺される前に殺せ。それが出来ぬ者は死ね。
戦場の掟を識ったその瞬間、外敵に怯えていた幼仔の瞳は邪悪な金光を宿す。
隠家代わりの死骸に刺さっていた剣先を銜えて引き抜き、己に背を向けていた一人の兵士目掛けて飛び掛かった。
口角を切りながら力一杯突き立てた刃は、果たして鎧の隙間を通って敵の頸を捉え、喉笛にまで達した。そして、即死に至らず悶え苦しむ獲物の身体を未だ満足に生え揃わぬ牙で噛み破り、剥き出しになった電脳核を喰らった。
襲撃、戦闘、捕食。それを繰り返し、幼年期の次は成長期、成熟期、そして太古代における進化の最高位たる完全体への進化を遂げた。
そこから永き時を経て、電子の獣はやがて進化の極地へと至る。全てを失い異形の鏡獣と成り果てたその後も、彼の行動原理は変わらない。たとえこの世を統べる王であろうと、己を脅かす意を抱く者ならば生かしてはおかぬ。
『木』の呼び掛けに従って『炎』の竜を受け入れ、彼と同盟を結ぶと決めたその理由は、かの幼王を亡き者にするという、怨嗟に塗れた渇望を満たさんがためであった。
「『鋼』よ、私です。開けてください」
鉄扉を貫いて室内に響く胴間声が、微睡の中にあった『鋼』の意識を引き戻す。不機嫌そうに細められた金眼が一際強く輝いた次の瞬間、何者も触れていない筈の執務室の扉が大きく開け放たれた。
「失礼、お休みでしたか」
「時間を考えろ馬鹿が。一体何用で此処へ来た?」
「一大事ですぞ。竜族の守備頭めが、一族を裏切り王軍に奔ったそうです」
珍しく深刻そうな顔でそう言った『土』の予想に反し、『鋼』の反応は冷やかだった。
「……まさかとは思うが貴様、それを言う為だけにおれを叩き起こしたのではあるまいな?」
「え? まあ、その通りなんですけど……いや、まだあります。『雷』の偵察兵三名と、私の配下二名も、ここ三日程姿が見えないのです」
「……『雷』の配下が、か?」
火山の戦に敗れた直後より若竜を中心に出奔者が相次いでいた竜族と、ルーチェモンにより直々に粛清対象である事が示された『土』の配下に加え、『雷』の子飼いまでもが主を見捨てた。
今後一族の中に己が居場所を求めたところで、やがてルーチェモンと彼が率いる天使軍の圧倒的物量、戦力によって纏めて轢き潰されてしまう事は火を見るより明らか──兵達がそう考えるのは至極当然の事であり、彼等が企てた此度の離反も、起こるべくして起こったものと言えよう。
「斯くなる上は、裏切り者達を捉えて抹殺する他ありません。急ぎ彼等の居場所を探らねば……」
息巻く『土』の隣で、『鋼』は呆れた様に深く溜息を吐いた。
「彼等の情報が天使軍の末端にまで行き渡った今、本人の口を塞いだ所で手遅れというもの。良い、このまま連中は泳がせておけ」
「随分悠長じゃありませんか。本当に大丈夫なんでしょうね?」
「泳がせはするが、捨て置く積りも無い。此度に関しては既に手を打ってある故、『土』よ、くれぐれも余計な事はしてくれるなよ?」
歪められた鏡獣の金眼に禍々しい光が灯る。
散々見慣れている姿である筈なのに、今日に限っては何故、こんなにも不安になるのだろう? 今の『土』に、その答えを見つけ出す術はなかった。
*
天使軍猟兵隊を構成する兵士達は好戦的且つプライドの高いデジモンが多い。そして、そんな彼等を率いる猟兵隊長もまた、勇猛果敢にして武功抜群の戦士である事が伝統的に求められてきたが、先代隊長もその例に漏れず、天使軍設立の頃より積み重ねて来た数々の戦功によって隊長の地位に命ぜられた歴戦の勇士であった。
偉大なる彼の後釜として、ホーリーエンジェモンが隊長職を拝する事となったのは、凡そ四ヶ月前の事。
『木』の領主を秘密裏に葬れという、王直々の命を受けた当時の猟兵隊長は、特別に選りすぐった部下達を伴い自ら暗殺部隊の陣頭指揮を執った。
そして決行の当日、彼等の接近と意図を察知した『木』が放った砲弾によって、側にいた部下諸共身体を粉々に砕かれてしまったのだ。
その後のホーリーエンジェモンの隊長就任は、副隊長である彼の立場を見れば至極当然の選出であるかのように思えるが、先に述べた猟兵隊の伝統的性格を鑑みた場合、最適とは言い難い。
無用の争いや諍いを嫌う、悪く云えば"事勿かれ主義"的な傾向にある、しかも天使軍の中では若輩の立場である彼が部隊の頭に据えられるその事実を、気の荒い猟兵達は内心歓迎していなかった。
「古くから居るとはいえ、実力の伴わぬ者を隊長に据える事など出来ぬ。ホーリーエンジェモンを選んだその理由は、ひとえに彼の力と功績の甚だ優れたるが故だ」
天使軍軍団長ミスティモンが自らホーリーエンジェモンの下へ赴き、猟兵達の居並ぶその前で、彼を副隊長から隊長職へと昇任させた──実力と功績の面において、猟兵隊に属する者のうちの誰ひとりとしてホーリーエンジェモンには遠く及ばないから、表立って不満を述べる者は居なかったが、歳若い彼が自分達を差し置いて隊長となる事に対し、古参の兵達の中である種の嫉妬心が生まれた事は想像に難くない。
抑も、副隊長に任ぜられるその時ですら、猟兵達からは隠しきれぬ反発心が漏れ出ていたのだ。こうなる事は、任命したミスティモンも、それを了承したルーチェモンも、そしてホーリーエンジェモン本人も当然予測していた。
「なればこそ、猟兵隊長として為すべきは……天使軍の勝利のために己が全てを捧げ戦う事、それが、猟兵達を得心せしめる唯一の道であり、今の私に課せられた責務にございます」
ホーリーエンジェモン就任後の猟兵隊は、華々しさにこそ欠けるものの、多大なる戦果をルーチェモン側に齎した事は間違いない。
古代種達が、大きな損失を出さぬ一方で未だ攻勢へと転じられぬその理由も、各地の猟兵と、隊長自ら協力を申し出た弓兵隊、更には彼等に呼応したデジモン達によってその勢いが抑えられているためであった。
「……で、間違いなく成功するんだよね、それ?」
「無論、手筈は整えてございます。此処まで来れば、後は機を待つのみ」
ルーチェモンの居室の中心、衝立の裏に据えられた長椅子に、小隊長の印を下げた黒翼の天使と彼の部下達が堂々と腰掛け、卓を挟んで王と直接会話を交わしている──それは、彼等の上官である軍団長ミスティモンであっても決して許されぬ筈の行為であった。
「しかし、驚きましたよ。まさか王自身が、猟兵隊長を亡き者にせよ等と仰るとは……」
「ま、色々あってさ。理由は……聞かなくていいよね?」
「無論。あの余所者のミスティモンの鼻柱を折り、加えて奴の子飼いの若造を抹殺する機会が得られようとは。我らにとって、これ以上の喜びはございません」
黒翼の天使達は満面に歪んだ笑みを貼り付けている。その様は、神聖系のデジモンとは凡そ思えぬ程に禍々しく、悍ましいものであった。
「楽しみにしてるよ、次期猟兵隊長殿。"お土産"、忘れたらお仕置きだからね」
「御心配には及びませぬ。必ずや、聖なるデータの欠片を持ち帰ってご覧に入れましょう」
向かい合うルーチェモンと天使達との間に据えられた卓上に、大陸全土の地形図が広げられている。突き立てられた三口の短剣のうち、二口は岩峰山脈の麓を、残る一口は東部山地の中心部を貫いていた。
あっぶね、てっきり『土』今回で「おれは寝ているところを起こされるのが最も嫌いなんだ」とか言われて死ぬかと思った。夏P(ナッピー)です。
オンドゥルラギッタンディスカー! 橘さんじゃなくてマスターティラノモンの旦那ァ!
てっきり後の世のゴッドドラモン辺りになるのかと思ったらまさかの寝返り。というか、実はこれ氷山の一角で領主達の仲間が続々と離反していたのですな。十闘士も設定的に十体だけで戦ったのか、はたまた各々が軍勢を率いて戦ったのかは判然としない、なんとなく設定だけ読むに『木』『水』辺りは部下や仲間がいた気がしますが、段々と孤立無援になっていく感じでしょうか。
そして遂にこやつらが“究極”であることが異質だと明言された。さては愚王を倒して世界を平定した後、こやつらも相討ちとなって滅びると共に世界から一旦“究極”の概念が消える奴だ! そうなればこやつらが遺した魂にレベル設定が無いことも理屈が付くからな……。
ミスティモン失態続きでてっきり無能もしくは不幸なのかと思えば、ホーリーエンジェモン任命するのはちょっとカッコいいのでした。と思ったら速攻で命を狙われとる。黒い羽根の天使って誰だ……?
猟兵部隊を自分らで討滅したことで領主どもの反抗を抑えられなくなって大戦が勃発する流れか。これは愚王。
それでは今回はこの辺で感想とさせて頂きます。