反逆者の支配域のうち、天使軍からの攻勢が特に激しいのは『鋼』の領域であったが、それは、彼が王や王軍からの恨みを特に買っていた事が直接の理由ではない。
『鋼』と同じく岩峰山脈に領地を持つ『土』に関しても、軍団秘蔵の〝希望〟と〝光〟のデジメンタルの他、領主となる際に騎兵隊から〝勇気〟と〝知識〟を奪い取ったことで──尤も後者については、先任の騎兵隊幹部がルーチェモンの視点では〝デジメンタルの管理者として不適任〟であったためにその役割に適した他の幹部、即ち『土』のもとへと移したに過ぎず、当の『土』にしてみても、それを理由に責められる筋合いなど微塵も無いのだが──天使軍の憎悪の矛先が向けられる理由は少なからずある筈だった。
しかし、なぜ天使軍は第一の攻撃目標として『鋼』の領域を選んだのか。それは、かの鏡獣が、反逆者の中で唯一参謀としての役割に専従出来る存在であるが故。
無論他の九匹にあっても軍略を解さないという事はないが、その本質は所謂野戦指揮官であったり、共同体を纏める首長のようなものである場合が殆どであり、戦の前段階における謀略に関しては、事実上『鋼』に一任されているのが現状だった。
古代種の、それも進化の極限に達した者を十名も幹部として戴く反逆者の軍勢は確かに強力だ。しかし、如何に強大な軍であっても、その基礎となる軍略を疎かにしてはいずれ瓦解する。兵数に圧倒的な差があるならば尚更のこと。
軍に於いて参謀はあらゆる行動の基礎であり、寡勢である敵軍に於いては潰しの効かぬ役でもある。これを失う事は、反逆者達にとってこの上無い痛手となるだろう──断崖と大雪に守られた『鋼』の領域を、多少の犠牲を払ってでも攻めようとする天使軍の行動の裏には、このような事情が隠れていた。
「あと数日を以て雪の季節は終わる」
ホーリーエンジェモンの隣、弓兵隊長パジラモンが示す先には、青く霞む岩峰山脈の影──その地肌の上に残雪の白が描く歪な斑ら模様は、この地域が既に雪解けの時期を迎えている事を示すものであった。
「『鋼』の領域に於いて最も警戒すべきは、部隊単位での遭難と雪崩の害。雪解けの時期が過ぎたならば、その害を受くる心配も無い。攻勢を掛けるならば、その時分をおいて他にありますまい」
「うむ……だが、聞くところによれば、『鋼』の領域はかの古代種が持つ強大な魔力のために絶えず空間の歪みが生まれているという……その備えを抜きにして兵士を送り込んでも、以前の二の舞となるでしょう」
ホーリーエンジェモンは何事においても慎重であったが、それが猟兵達の小さな不満を煽る一方で、彼等の生命を守りそして数々の功績を猟兵隊に齎していることもまた事実だった。
「その件については、『鋼』の部下数名を此方へ引き込む手筈を整えております。彼等は岩峰山脈の状況に詳しく、歪みの影響を受けぬ行軍路を知っている。『鋼』の領域は容易には攻め崩せぬ要害の地ではありますが、このような土地は得てして内部からの攻撃には弱いものです」
かつて堅牢を誇っていた、竜族の本拠地である火山が『土』、『鋼』の送り込んだ二小隊によって一日も経たずして陥落した事実が、それを裏付けている。無言で頷いた後、ホーリーエンジェモンは改めて隣のパジラモンへと向き直った。
「山肌の雪が消える、その時分を以て、我が猟兵隊の主力部隊を『鋼』の領域へ送り込みます。弓兵隊長殿、申し訳ないが、それまでの内部工作については貴隊の間諜に一任したい」
「……心得た」
パジラモンの返答に黙礼を返した後、ホーリーエンジェモンは王城の方角へと飛び去った。己を見送るパジラモンの傍に、いつの間にか黒い翼を備えた天使型デジモンが立っていた事に、彼が気付く由もなかった。
*
弓兵隊長の送り込んだ間諜が、自軍の離間と将兵の引き抜きを図っている──王と敵対せねばならぬと決まった時から予測していた事態ではあるが、実際に対処するとなると中々に骨の折れる事であった。
「弓兵の接触があったのは、我が隊の偵察兵と思われます。しかし、問い詰めようにも証拠がないうちでは、余計に離反を招く結果にもなりかねません」
心底困った、といった様子でアウルモンは報告の言葉を紡ぐ。
「そう簡単に尻尾を掴める筈もあるまい。いや、離反の虜がある者については、おれもある程度の検討は付けておるところだが……致し方無し、余り使いたくない手ではあったが……」
『鋼』の言葉に、アウルモンと、その隣のセトモンが怪訝な表情を浮かべる。
「アウルモン。これらの書状を、其々『風』の剣士とテティスモンに届けよ。余計な事は言わずとも、彼奴等であれば中を読めば解るだろう」
「は、了解しました」
『鋼』の秘書を携え、アウルモンは月の無い夜空へと飛び去った。それを見送った後、セトモンは背後の主を顧みる。
「大将……『土』の領域の事なんですが……偵察隊の、サーチモンとその麾下のデジモン達に何やら不審な動きがあります。これもおそらく、弓兵隊の間諜が関わっているかと……」
情報戦の要を担う兵士に対する離間工作、反逆者側の参謀役を担う自分への攻勢……天使軍は、その圧倒的物量を以ての蹂躙ではなく寡勢である此方側の対抗手段を徐々に奪う方針であるらしい。
堪え性の無い幼王を総大将とする天使軍にとってはあまりに悠長なやり方だが、力押しが通じぬ現状をみれば、多少王からの責めがあったとしてもこの方法を取らざるを得ないのだろう。
「彼奴と『雷』の兵が敵方に奔ったとは聞いていたが……サーチモンまで向こうに居るとなれば話は変わる。奴を失うのはちと惜しいが、これも致し方無し……」
瞬間、辺り一帯に、重々しい殺気が満ちた。長らく『鋼』の麾下にあるセトモンは、この恐ろしき鏡獣が何を考えたのかを瞬時に察した。
「……殺しますか?」
「今は、良い。だが、機が満ちたならばお前にも働いてもらわねばならぬ故、それまでは決して表に出ぬようにせよ」
セトモンは無言で頷くと、城を出て裏手の山中へと駆け込み、姿を消した。
「さて、後は『風』と『水』を待つだけだが……問題はお前をどうするか、だな……」
執務室奥の小部屋に入りそう呟いた『鋼』の眼前、険しい表情を浮かべたまま横たわるアンティラモンの姿があった。
雪崩の難に遭った後セトモンとその部下によって確保された彼を居城へ連れ込み、今程意識を取り戻すその時まで匿っていたのは、決して友誼によるものではない。
「……『鋼』よ。何故、俺を助けた? お前の事だ、純粋な善意に基づくものではあるまい」
「大恩ある相手に向けた言葉とも思えぬが……まあ良い。理由があってお前を此処へ連れて来たのは事実だからな」
その言葉に、アンティラモンの表情が一層険しさを増す。長らく付き合いのある相手だからこそ、目の前の鏡獣が決して心を許してはならぬ存在である事を誰よりも分かっているが故の反応だった。
「端的に言おう。王は……ルーチェモンは、お前の生命を欲している。猟兵隊の行軍にお前を帯同させたのも、敵軍との戦闘における死を装いお前を亡き者にせんとするため。だが、我らとしてもお前がルーチェモンの手に掛かって死んでは些か都合が悪い。それ故に、王軍の手が伸びる前に此方へ引き込んだという訳だ」
目覚めて早々に聞かされた事実──ルーチェモンに、己の主君に、命を狙われている……俄には信じられぬ話である。これを告げたのが『鋼』であるならば尚更だ。
「まさか……王がそのような事をなさる筈が……」
「我等への裏切りを見て尚、愚王に信頼を寄せるか」
その一言に、アンティラモンは口を噤んだ。
確かに、ルーチェモンは、己の配下を手に掛ける事に対し、一切の躊躇を見せない──それは、目の前にいる『鋼』を含めた四名の領主達に対する行動によって既に証明されている事ではあるが……
「……しかし、お前の言葉が真実だとして、これ程の手間をかけてまで王が俺を亡き者にしようとする理由が分からぬ」
「それについては……一つ、心当たりがあります」
その言葉と共に扉の奥から現れたのは、先代弓兵隊長エンジェウーモン。件の襲撃の折に落命したとばかり思っていた彼女との予期せぬ邂逅に、アンティラモンは困惑と驚きの表情を隠せなかった。
「貴女は……何故、此処に?」
「以前、王命を受けた刺客のために生命を失いかけた事がありました。その際、『鋼』の主によって救われ、それ以来この城に匿われているのです」
暫しの沈黙の後、アンティラモンは訝るような表情で傍の『鋼』を見遣った。
「お前、まさかと思うが……」
「……断っておくが、おれに〝その気〟は無いぞ」
デジモンの身体には雌雄の区別が存在しないが、種ごと、個体ごとに性別の自認はある。その立ち振る舞いや言動、電脳核に宿るデータの由来となった人物の事を考慮すれば『鋼』は雄ということになるが、だからといってエンジェウーモンを匿った理由が雌性に対する欲情にあらぬ事は言うまでもない。
「……して、王が我々を亡き者にせんとする、その理由に心当たりがある、とは?」
「貴方と、私と……そして、猟兵隊長ホーリーエンジェモン。おそらくですが……王の狙いは、私達の電脳核……正確には、その中に宿る聖なるデータの結晶でしょう」
どういう事だ、と言おうとしたアンティラモンだったが、その前に察するものがあったのか咄嗟に口を噤んだ。
──三つの聖なるデータ……そうだ、俺も、彼等も……
通常とは異なる、異様な出自。
ホーリーエンジェモン、エンジェウーモン、そしてアンティラモン。通常は幼年期の姿で誕生したのちに順を追って進化するところを、彼等は孵化の直後に成長期の段階へと至ったというが、それは、彼等の電脳核が内包するデータ量が、同種族の平均を遥かに上回る事の証明。
そして、この尋常ならざる出自を持つ三匹のデジモンを完全体、それも神聖系の上位に名を連ねる種への進化へと導いたのは、彼等の体内に宿る高純度の聖属性エネルギー。
ルーチェモンが求めているのは、己と同じ出自を持つ三名の幹部──自身と同質の、それも莫大且つ極めて純度の高いエネルギー。
「王の狙いを識る者はそう多くは居るまいが……元より天使軍の中にはホーリーエンジェモンの台頭を歓迎せぬ者が多い。古参の猟兵然り、騎兵隊然り。彼等の内の何れかが近く事を起こすは間違いなかろう」
猟兵隊長就任以来、ホーリーエンジェモンの周囲には不穏な噂が絶えず付き纏っている。彼の配下にある者のうち、小隊長クラスの兵は皆彼の上席にいた者達であり、尚且つ彼を任命したミスティモンに対しても、決して良い感情を抱かぬ者ばかりであった。
「何にせよ、彼奴に余計なデータを喰わせてはならぬ。ルーチェモンはあれで未だ成長期の段階、これ以上の力を得るならば、いずれ手の付けられぬ事態となろうぞ」
ルーチェモンそのものに関して最も憂慮すべき事態──それは、彼が進化の刻を迎える事。
今の時点で、並の完全体を上回る程のデータ容量を持つ種であるから、仮にホーリーエンジェモン一体分のデータを喰ったところで進化に必要な分量を満たすとは考え辛いが、何せルーチェモンは他に類を見ない特殊な出自と生態を持つデジモンである。どのような条件下で進化を遂げるのか、そして進化後の彼がどれ程の力を備えるのか、全てが未知の領域にあった。
「お前ならば……〝星見〟で全て把握しているものだと思っていたが……」
「簡単に言ってくれるな。〝コレ〟を使うには、様々の条件を満たさねばならぬのだ」
星の光として見える、デジタルワールド全体の状態を表す電子信号を解析することにより過去に発生した、或いは未来に発生すると予測される凡ゆる事象を把握する。それが、『鋼』の──彼を始祖とする古代種エンシェントワイズモンが持つ異能の一つであったが、この種は現在のデジタルワールドにおいては──特殊な装具を用いて進化した個体、或いは本種の遺伝子データの断片を体内に含有する現生デジモンがごく少数確認されてはいるが──直系の子孫は既に絶滅したと考えられている。
過去、未来を見通す大賢者と称された本種が、その血筋を現在まで残す事ができなかったその理由は、『鋼』の語るとおり、この異能が、必ずしも術者自身の任意によって行使出来るものではなかったためであろう。
邪神を行使するエルダーサインが、今現在も贄を求めて術者たる『鋼』の生命を脅かしている事もそうだが、この鏡獣が持つ過去・未来視の異能は、それ相応の対価と制限を定めた上で与えられたものであった。
彼に分からぬことは無し
古の叡智の全てを記録する者
そう謳われ、さらには
──彼の鏡獣は〝ラプラスの魔〟なる術により、この世の過去と未来の事象を自在に書き換える事が出来た
という常軌を逸した力を持つ、とまで言われた本種であったが、この説は、『鋼』と同じ形質を持つ種がデジモン分類学上における独立種として認定された頃、あろうことかデジモン学者が正規の学会論文に記載したものである。
研究が進んだ現在では〝ラプラスの魔〟は時空間転移の術であった事が判明しているが、それ以前の突拍子もない説は何処から生じたのか──それは、当時『鋼』と敵対した敵の中で、〝ラプラスの魔〟本来の効果によりこの世界に一切の痕跡を残さず消えた者がいる事、そして、彼の〝星見〟の異能、即ち、この世の全てを記録するアカシックレコードの一部分を閲覧出来た事に関する断片的な情報が入り混じったために生まれた誤説だったのだろう。
余談は此処で終わるが、『鋼』がその異能を以て天使軍とルーチェモンを圧倒出来ず、やがて同族の血を絶やすことになるその理由は、以上に記したとおりの事情によるものであった。
「融雪期を過ぎたならば、天使軍の攻勢が本格化する。その主力は猟兵隊、王がホーリーエンジェモンに対し事を起こすのも、恐らくはその時であろう」
青白い燐光が灯る城内に、遠方の山で雪の崩れた轟音の余韻が響く。それが収まった後も、誰ひとりとして声を発する者はいなかった。
読ませてもらいました。面白かったです。
三体のデジモンを用いて進化しようと見なされているルーチェモン。中々なにオマージュが効いた組み合わせでとても素敵です。
様々な思惑が広がるなかで、どうなるか気になるところです
カッコいいエンシェントトロイアモンのイラスト! だが出番無し! 何故だ!! 夏P(ナッピー)です。
パジラモンの横に現れた堕天使、これが件のきな臭い奴ぅーっ! エンジェウーモンとケルビモン、そしてホーリーエンジェモンを加えた三体は要するにそういうことなのでしょうが、成長期で生まれた特殊個体というのはフロンティアで連中が生まれ変わった時にそれぞれパタモンプロットモンロップモンで転生したことのオマージュでしょうか。『鋼』ェがルーチェモンはあれでまだ成長期、如何なる要因で進化を遂げるかはわからんと素敵なフラグを建ててくれましたので、こりゃ三人はデュナスモン+ロードナイトモンのパターンでパックンチョされてしまう奴でしょうか。十闘士が最初の究極体という設定は守られるべきながら、それはつまり逆説的にはルーチェモン様も完全体にまではなっていいわけだからな……。
既に人間界のデータが流入しまくっているのか、アンティラモンとかいう破廉恥な妄想をし始める雄(おとこ)。もしかしたらアンティラモンはエンジェウーモンのことが好きだったんじゃないかしら(泉)。
余談ですが、裏切り者とか内通者のフリが凄いので、てっきり「あとの問題はお前をどうするかだな」は飛び去ろうとしたセトモンに向けられたもので「な、王、それは──(ドス)あうううん」「とぼけるな貴様が裏切り者だということなど元より承知よ」みたいな展開が来るかと思っていたのにそんな展開は無かった。
何気に鰐梨さん解釈で『鋼』ェの血脈が現代に通じていないことの解釈が語られましたね。そして何より十闘士で唯一の知略の面の強さのある男という称賛、これ恐らく最後死ぬな……。
それでは今回はこの辺で感想とさせて頂きます。