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【Part 1/2】
*
少年――坂本翼(さかもとたすく)は夢を見ていた。
それは過去の記憶――翼がまだ5歳の頃、父親と2人でアウトドア用品店に行った時の光景。その日、父にせがんで登山用のゴーグルを買って貰ったのを翼はよく覚えている。
小児の顔にはやや大きめのそのゴーグルを着け、父の肩の上から見回した帰り道の街並みは、翼にはまるで知らない世界の景色に見えた。
幼い好奇心を高ぶらせる翼に、父は優しい声で語りかけた。その言葉は、5歳児にとっては難解なものだったが、どこか不思議な響きを伴って翼の耳にはっきりと残っている。
――厳しい世界を生き抜くために必要なものは、道具や知識だけじゃないんだ。同じ夢を見て、同じ苦境を共に乗り越える――
「起立!」
日直の号令で、翼の意識は現実へ引き戻された。
机に突っ伏していた上体を慌てて起こし、他の生徒達に少し遅れて立ち上がる。黒板の上の壁掛け時計は12時を指していた。そういえば、今日の授業は午前中で終わるんだった――と、翼が記憶を取り戻すのとほぼ同時に、教室天井のスピーカーが耳慣れたチャイム音を奏でた。
坂本翼、13歳。
中学生になって初めての、夏休みの始まりだった。

ep.01「少年は夢と共に」
*
【20XX.07.23 12:06(JST)】
昇降口を出ると、真昼の太陽が鬱陶しいまでの熱気と僅かな痛みを翼の肌にぶつける。雲一つ無い晴れ空の下、外へ出る者に平等に日光は降り注いでいるはずだが、翼同様学校を後にする生徒達は夏休みの始まりに浮かれてかそれを気にも留めないようだった。元気そうだな、と独りごち、翼は半袖ワイシャツの襟ボタンを外した。
「おい、翼!」
すぐ背後から翼を呼ぶ、これまた元気そうな声は、この学校では唯一翼の友人と呼べる少年の声だった。
振り向くと、眉間目掛けて手刀が振り下ろされた。翼はくいと体を捻り、紙一重でそれを躱す。
「……うん、さすがの動体視力。昨日のよりは避けにくいと思ったんだけど、翼にゃ簡単過ぎたか」
「サッカーボールのアレか。次やったら許さねえぞ、マジで怪我するかと思ったよ」
声と手刀の主――星上誠(ほしがみまこと)は、翼の同級生である。去る3月の中頃に隣の市から引っ越して来たという彼は、中学校に入って一月と経たない内にクラスのムードメーカーとなった、明るさと友好の化身のような人物だ。
「でもお前の目はホンモノだって! いつだかの体育でドッジボールやった時だって、誰も翼にボールを当てられなかったしな! 球技とか格闘技とか始めたら、エースだって狙えるぜ!」
「大袈裟だよ。そもそもオレ、スポーツ嫌いだし」
答えつつ翼が歩みを進めると、誠もその隣を歩く。帰宅部の翼と空手部の誠が帰路を共にすることは滅多に無いが、今日のように下校のタイミングが合うと、どちらから言い出すでもなく並んで歩くのが定番となっていた。
「ンだよ、もったいねーの……ところで翼、お前さっきのHRで寝てたろ。珍しいな、お前が居眠りなんて」
「先生の話が退屈だったから、つい。ってか、なんで知ってんだよ」
「いやー、偶然目に入っちゃったんだわ」
「3つ真後ろの席が偶然目に入るか……?」
誠の言う通り、翼が授業中に居眠りをすることは殆ど無い――否、恐らくこれが生まれて初めてであった。早寝早起きをモットーとする翼だが、昨晩は眠るに眠れない状況であったがために睡眠不足のまま登校するに至ったのだ。
「……何かあったか」
急に真顔になる誠。普段翼に素っ気なくあしらわれても笑顔を絶やさない彼がそんな顔をするぐらいなので、恐らく自分は余程暗い表情をしているのだろう、と翼は思った。
「……父さんのことでちょっと、ね」
昨晩翼が眠れなかった理由――そして恐らくは、翼が幼き日の思い出を夢に見た理由――、それは翼がこの世で最も尊敬する人物、翼の父親にまつわることだった。
翼の父、坂本龍三(-りゅうぞう)は「冒険家」である。
1、2ヶ月程の期間で海外諸国を飛び回り、その記録の数々でもって金を稼ぐ。それが龍三の稼業である、と幼い翼に語ったのは龍三自身だった。エッセイを数冊と、世界各地の絶景を収めた写真集を1冊出しており、それらは全部翼の自室の本棚にしまってある。
翼は、父の社会的地位や世間体等に興味は無かった。沢山の土産物と土産話を持ち帰り、翼に世界の広さを教えてくれる父を、翼はただ尊敬していた。東亜に流れる大河の景観、西洋の荒野で出会った人々、南国の島で採れた珍しい木の実、北極で白熊と格闘した経験……等々、日本で普通に生活している限り決して出会うことのない事物の話を、父は楽しそうに語ってくれた。また、それを聞くことで翼も楽しくなった。
父との思い出はそれだけではない。龍三はたまに家に帰って来ると、翼をちょっとした「冒険」に連れ出してくれた。龍三の土産話同様その中身は日によって様々で、近所の散歩から本格的なキャンプまで、2人はシチュエーション毎に目標を設定して屋外を歩き回った。龍三は翼を「冒険」に連れ出す度、地理や天文、サバイバル等の知識を実用的な技能と併せて翼に教えた。それは幼い翼にとって一番の娯楽であり、純粋な知的好奇心を満たし得る教養でもあった。
そんな父に憧れて、翼は「冒険家」を志していた。
しかし、ある時から龍三は殆ど家に帰らなくなった。半年程家を空けることも珍しくなくなり、久し振りに帰って来たかと思えば荷物を整理してさっさと出掛けてしまう……そんな生活が続き、龍三が家族と触れ合う時間はめっきり減ってしまった。それでも龍三は、毎月22日には国際電話で翼と母に連絡を――時差を考慮して、翼が家にいる夕方から夜にかけて――とってくれたが、今月はまだそれが無い。龍三はきっと電話をかけてくれる、そう信じて翼は昨晩、電話機の前で夜が更けるまで待ち続けていたのであった。
「そっか、それで寝不足……ていうか、翼の親父さんってそんなすげー仕事してたのか」
「うん、父さんはすごい人だよ。近所の人達はあんまりいい顔しないけど……」
「なんでだろーな、すげーカッコいいのに」
普段は独りで下る坂道を、今日の翼は誠と並んで歩いている。
普通の人々――例えば翼らの前後を談笑しながら歩く生徒達――であればその辛気臭さに鼻をつまむような翼の身の上話を、誠は嫌な顔一つせず聴いていた。それが翼にとってはいささか不思議に感じられた。
「そんで、親父さんのその……冒険家? の仕事が忙しくなった理由とか、聞いてねーの?」
「訊く度にはぐらかされてたんだよな……だから、あんまり問い詰めない方がいいのかな、って」
「えぇ~? そういうのって一度ガツンと質問した方がいいって! ただ言いたくないだけか、本当に言い辛いことなのかも、今のままじゃ分かんねーだろ?」
それはそうだけど、と、翼が言葉を濁していると、2人は交差点に辿り着いた。向かって左側の歩行者用信号が青に変わったばかりの様子である。
「とにかくさ、大事なことは言葉にして相手に伝えなきゃどーにもなんないぜ! 翼と親父さんは仲良しみたいだから、話せば分かると思う! ……じゃ、オレこっちだから。またな!」
そうまくし立てると、誠は全速力で横断歩道を駆け抜けて行った。落ち着きの無い奴、と思いながら、翼は誠と反対の方向に歩みを進めた。
*
【20XX.07.23 12:40(JST)】
父との思い出を辿って行く中で、翼の脳裏にある記憶が蘇っていた。それは微睡の中に見た幼き日の光景――龍三が翼に語った言葉だった。
――厳しい世界を生き抜くために必要なものは、道具や知識だけじゃないんだ。同じ夢を見て、同じ苦境を共に乗り越える相棒がいるといい。翼、冒険に挑む誰かの力になってやれ。
これはきっと「友達を作れ」という意味だろう。初め、翼はそう解釈した。だから小学校に入ってからは、積極的に周囲の人間と関わるつもりだった。面白いものに溢れたこの世界、きっとそこに暮らす人々も興味深い何かを持っているに違いない――そんな期待を抱きながら。
ところが、翼を待っていたのは、「あまり面白くない」現実だった。
学校で出会った子供達に、夢や理想といったものは無かった。探究心と呼べるものもやはり無い。日々の会話のネタといえば、流行りのテレビ番組や芸能人のこと等。その面倒を見る教師ですら、さほどためになる講釈をしてはくれない。――端的に言えば、龍三の言う「冒険に挑む」人間など、一人として見つからなかったのである。
それが理解できたのは小学3年生の頃で、翼は友達作りをすっかり諦めてしまった。単にクラスメイトと仲良くなるだけなら、流行りものの知識を集めるだけでそれなりに上手く行ったのかも知れないが、生憎翼の知識欲はそういったものに対して全く作用しなかった。翼の周囲の子供達も、翼を好奇の目でこそ見れ積極的に関心を示すことは無かったため、互いに興味が無いのなら無理に接触を図らなくてもよいと翼は思っていた。翼には、冒険への憧れと、父親の存在さえあればそれでよかったのだ。
何の因果か、龍三が家を空けがちになり始めたのは、翼が周囲の人間に対する興味を完全に失った頃だった。心の拠り所、とまではいかないものの、翼の人生にとって極めて重要な存在であった龍三が、手の届かない場所へ行ってしまう――そんな不安と喪失感によって、自分の生活から徐々に彩りが失われて行くのを翼は感じていた。
坂本翼が「孤独」という概念を身を以て理解したのは、こういった体験によってであった。
学童達の多くが通学に用いるバス通りを避け、翼は人通りの少ない遠回りな道を通学路にしている。広葉樹の並木で日差しを遮られているその道は、翼のお気に入りの場所だった。街の喧騒から遠ざかり、時折通り過ぎる車の音、辺りにほんのり漂う雑木の香り、頭上に切り取られる空の模様等に感覚を集中させている間のみ、自分が自分でいられる気がするからだ。
しかし、今日ばかりは訳が違った。誠に己の身の上を語るに当たり、己の過去と現在、そして己の在り方を見つめ直すことになり、翼は少なからず動揺していたのである。自分が今日まで目を逸らし続けて来た独りぼっちの坂本翼と向き合う試みは、苦しみとも悲しみともとれない暗い感情を翼の胸にわだかまらせた。
自宅に着くと、家の前には明らかに身内のものでない軽自動車が停められていた。来客だろうか、と思いつつ表口のドアノブを引くとドアはすんなり開き、玄関にはこれまた身内のものでない男物の革靴が一足行儀よく並んでいた。
靴を脱ぎ、リビングの戸を開けると、翼の疑問はすぐに晴れた。
「やあ翼、お邪魔してるよ」
30分前にも教室で顔を合わせたばかりの若い男性――クラス担任の中村(なかむら)が、客間で茶を飲んでいた。テーブルの向かい側には、翼の母である和恵(かずえ)も座っている。
そういえば、今日は家庭訪問があるんだった……と、翼は数日前の記憶を回顧する。中学校の前期終業から数日間、翼ら第1学年のクラス担任達が各生徒の家を訪れ、保護者との面談を行うのである。中村の受け持つ1年C組、その最初の割り当てが翼の家であることは、中村が保護者向けに配ったプリントに確かに書いてあった。
「お帰り、翼。丁度あなたの成績について話してたんだけど、現代文のテスト50点だったらしいじゃない」
先程までは接客用の笑顔だった和恵の顔が、急に不機嫌な色に変わった。うるさいな、と翼は口の中で毒づく。地理のテストは95点だったのだからいいじゃないか、と。
「まあまあ……先程申し上げた通り、他の教科、特に地歴なんかでは好成績を修めてますし、まだ伸びしろはありますよ……それより翼、こっちで一緒にお話ししよう。将来の進路のこととか、色々聞きたいな」
中村は笑顔で語りかけて来るが、翼には母や教師と膝を交えて話すことなどそう多くはない。
「……オレ、将来は冒険家になります。父さんみたいな立派な人になって、世界中を旅するんです」
そう言って翼は、リビングの戸を閉め、2階の自室に引っ込んだ。
自室で制服から私服に着替えた翼は、すぐに玄関へ向かった。といっても、行きたい場所がある訳ではない。気の向くまま外を散歩し、気が向いたら家に帰る。そんな、目的地の無い「小冒険」が、近頃の翼の暇潰しになっていた。
シューズの靴紐を結び、玄関のドアを押し開けた時、翼の耳に、和恵と中村の会話が断片的に聞こえて来た。
「翼君、学校ではあまり人と話さないから分かりませんでしたけど、将来の夢というか、意志がはっきりしていていいですね」
「いえいえ、夢だなんて言えるほど大層なものでは……あの子、うちの旦那の仕事に憧れてるみたいなんですけど、旦那は本当は――」
バタン。
話し声が扉に遮られると同時に、セミ達の鳴き声が翼を包んだ。
知らぬ間に止めていた息を細く吐き、翼は歩き始めた。例によって行く先は決めない。翼はただ、どこか遠くへ行きたいと思った。
*
【20XX.07.23 13:35(JST)】
「相棒」、とは何だろう。
隣の区まで徒歩でやって来た翼は、広い公園の隅のベンチに腰掛けて考え込んでいた。
父の言葉に則って考えると、同じ夢、同じ苦境を共有する存在をそう呼ぶらしい。となると、世間一般に「友達」と呼ばれる関係がこれに当てはまらないことは翼にも想像がつく。
友達をまともに作れていない――誠とは友達と呼べる程濃い付き合いをしていない――自分に、相棒と呼べる存在と出会うことができるのか。或いは、自分が誰かにとっての相棒になれるのか。
俯いて思索に耽っていると、うっすらと耳鳴りが聞こえ始めた。自分は疲れているのだろうか、と思い、翼は帰路につくべくベンチを立った。
――タスケテ――
耳鳴りに混じって、誰かの消え入りそうな声が聞こえた。一体誰が、と翼は辺りを見回すが、平日の昼下がりということもあってか周りには誰もいない。
――ボクヲ、タスケテ――
また、同じ声。不思議とその声色は印象に残らず、言葉が聞こえた、という感覚だけが記憶に残る。
どうやら翼は、何者かに呼ばれているらしい。しかし声の主の姿は見えない。どうしたものだろう、と首を傾げていると、公園の外に並ぶ街灯が1つ、昼間の往来に光を灯すのが見えた。
――ハヤク、コッチニ――
3度目の呼びかけと同時に、点灯した街灯の隣で1本、そのまた隣で1本と、伝播するように街灯が次々に光り始めた。光が伝わって行くその方向を見ると、翼は僅かに耳鳴りが大きくなるのを感じた。
翼は、街灯の光が示す方向へ駆け出した。
翼が街へ飛び出すと、街灯や看板の電灯が道を示すように光った。その方向へ進むにつれ、翼の耳鳴りはますます強くなる。
しばらく走っていると、翼はどこかの住宅街の外れ、雑木林と舗装路を色褪せた緑の金網1枚で隔てた通りに来ていた。街灯の「道案内」はそこで止まってしまったが、金網の向こうに広がる林、その奥に何者かがいることを、翼は尚も強まる耳鳴りで感じていた。
有刺鉄線の途切れた部分から、翼はフェンスを乗り越えて薄暗い林へ入って行く。湿った落ち葉を踏む音も、虫や鳥の鳴き声も、耳鳴りに掻き消されて遠く聞こえた。
さらに奥へ進むと、翼の聴覚を遮っていた煩わしい耳鳴りは不意にぴたりと止んだ。
そして、翼は「それ」を見付けた。
「それ」は、例えるならば東洋の伝説に登場する《竜》――の、幼体。先が二股に分かれた2本の角、1対のヒレ状の部位を持ち、全身に緑色の鱗を纏った、翼の両腕で抱えられそうな大きさのタツノオトシゴ風の生物が、全身に傷を負い、仰向けになって腐葉土の上に横たわっていた。
何だ、コイツ。翼の困惑は、自然と声になって口からこぼれていた。
真っ先に思い浮かんだのは、UMA――所謂未確認生物、実在するか否かも定かでないクリーチャー。それと遭遇してしまったのでは、と思ったのである。龍三も、かつてヒマラヤの奥地で「雪男」を目撃したと語っており、翼は今でもそれを信じている。そんな都市伝説めいた存在に、家の近くで遭遇するというのはいささか妙な話かも知れないが、これ以外に目の前の生物を適切に名状できる語を翼は知らない。
地面に力無く肢体を投げ出す「それ」に、翼は恐る恐る近寄った。肺呼吸でもしているのか、蛇腹状の腹部が律動的に上下している。しかしその動きは小刻みで浅く、息も絶え絶え、という表現が相応しい有様であった。普通の動物であれば、このまま放っておけば死んでしまうだろう。
助けなくては。翼の手は、何の躊躇いも無しに目の間の「それ」を抱え上げていた。このまま「それ」に死なれてしまっては気分が悪いから、という理由もあるが、何より翼は「助けて」という声に導かれてここまで来たのだから。
翼は「それ」を両腕にしっかりと抱いたまま、来た道を駆け足で引き返して行った。
*
【20XX.07.23 14:00(JST)】
何故、自分だけが「それ」の存在に気が付いたのか。何故「それ」は大怪我を負っていたのか。そもそも、人語によって自分を呼び寄せたのは本当に「それ」なのか――。
普通ならすぐに思い至って然るべきいくつもの疑問が翼の心中に生じたのは、翼が例の生物を抱えて自宅の前に辿り着いてからであった。ぜえぜえと息を弾ませながら辺りの様子を伺うと、既に中村の車は姿を消し、昼の住宅街にはセミの声が響くばかりである。
緑色の小さな竜を両腕に抱えたまま、翼は右手指で玄関のドアノブをそっと引いてみた。無用心にも鍵はかかっていない。翼はそのまま右爪先でドアを開けて玄関に上がり込み、なるべく音を立てないように2階の自室に入った。そしてベッドの上に折り畳まれたタオルケットにそっと竜を横たえる。
そうしてまた忍び足で下階へ降りると、翼はTシャツの裾で顔の汗を拭い、何事も無かったかのようにリビングのドアを開けた。冷房の効いた部屋の中、和恵は一人で茶を飲みながら、テレビのニュース番組を観ている。
「……ただいま」
「あら、お帰り。随分早かったわね」
和恵の反応は尤もであった。通常翼の「小冒険」は2時間程続くが、今日はそれを1時間程度で切り上げて帰宅したのだ。
「ちょっと、お腹空いちゃったから」
「そっか、今日は給食無かったんだもんね。レトルトカレーでも食べる?」
「うん。ありがと」
ごく自然な会話をしている間、翼は2階に匿った竜をどうするかということについて思考を巡らせていた。まずは傷口の消毒、次いで応急処置。食欲があれば何か食べさせ、後は静かな場所で休ませておく――素人考えで思い付くのはこの程度である。第一、人間や動物を対象とした治療法がUMAに通用する確証も無いため、ここから先は賭けに等しい一発勝負だ。
和恵が台所で食器の用意をしている間、翼はリビング隅の戸棚から木製の救急箱を取り出し、食卓の下に置いた。それからしばらくして、和恵がカレーライスの入った皿とスプーンを運んで来たので、
「オレ、2階で食べるね」
一言断り、カレー皿と、先程用意した救急箱をさりげなく手に取り、いそいそと2階へ向かった。
自室に戻ると、小さな竜は変わらず布団の上に寝転がっていた。まだ息はあるが、この状態がいつまで続くかは分からない。翼は心を決め、しゃがんだ姿勢でゆっくりと竜に近付いた。
竜の身体のあちこちに開く大小の傷は、深く抉れて紅い断面を露わにしているものの出血は見られない。大がかりな止血をする必要が無いと分かり安堵する翼だったが、それでも未知の生物に手を触れる勇気はまだ出ない。
どうしたものか、と竜を見つめながら考えていると、閉じられていた竜の両目がぱちりと開いた。アメジストにも似た2つの大きな瞳をぐりぐりと動かし、竜は辺りを慌ただしく見回した後、翼の顔面に視線を固定した。
――そういえば昔、父さんが言っていた気がする。動物にガンを飛ばされた時、睨み返すと大抵喧嘩になる、と。
翼は咄嗟に目を逸らし、カレー皿を竜の前に差し出した。これは本来怪我をした竜の体力を回復させるために持ち込んだものであったが、これで竜の機嫌をとれないか試そうと思ったのである。これが竜の口に合わなければ、代わりに食われるのは自分だろうか……そんな恐怖が、翼の額に大粒の冷や汗を滲ませた。
「えっと……これ、食べます……?」
竜は徐ろに上体を起こし、うっすらと湯気を上らせるカレーライスに顔を近付けた。そして数回鼻をひくひくさせ、カレールーの部分を細長い舌先で少し舐めると――皿に勢いよく顔を突っ込んだ。
「うわあ!?」
出会ってから初めて見る大きなアクションに、翼は思わず飛び退ってしまう。そんな翼には目もくれず、竜は一心不乱といった様子でカレーライスを貪っていた。時折ルーの飛沫と米粒がフローリングや自分の顔に降りかかるのを、翼は呆然と眺める他無かった。
皿の中身を綺麗に平らげると、竜はその首をゆっくりと翼に向けた。――まだ足りないの!? 次はオレ!? という嫌な予感に突き動かされ、翼は部屋のドアに駆け寄った。
ひとまず竜を部屋に閉じ込め、その隙に和恵をどこかへ避難させねば。焦る頭の片隅でそんな行動計画を練りつつ、翼はドアを背に竜の様子を伺った。すると、翼の意識はさらなる驚きに打ちのめされた。竜の体が、ヘリウム風船の如くふわふわと浮いているではないか。
竜は音も無く宙を滑り、一瞬で翼の鼻先へ肉薄した。
――あ、終わった。
咄嗟に悲鳴を上げることも叶わず立ち尽くす、静寂の数秒間。竜の口元が開き、鋭い牙が露わになる様が、翼の目にはやけにスローに映った。
「オレを助けたのは、オメーか?」
――誰かの、声。
小さな竜は、相変わらず翼の目の前に浮いている。翼の頭が齧られる気配は無かった。
「……おい、聞いてるか?」
また、同じ声。性格の荒い男児、とでも形容できそうなその声は、確かに翼の聴覚が捉えたものであった。しかし、その声の主はどこにいるのか。それだけが翼には……
いや、いる。人語を喋ってもおかしくなさそうな存在が、丁度目の前に。
「……え、君、喋れるの……?」
「おう、何かおかしいか」
にべもない調子で放たれた言葉に合わせて、竜の口元が確かに動いている。
――何から何までおかしいよ! そう喚きたいのをぐっと堪え、翼は改めて眼前の「それ」を凝視した。宙に浮かび、人語を話す、緑色の小さな竜を。
坂本翼、13歳。
夏休み最初の思い出は、不思議要素3点盛りの生物との遭遇であった。
*
【20XX.07.23 14:32(JST)】
翼は普段、人と話すということを滅多にしない。その理由はただ一つ、「話しても面白くないから」である。同じ時間をかけてにらめっこをするなら、その辺の人間よりも本の方が100倍ためになる――という持論が翼の中で固まったのは、小学4年生の頃だったと記憶する。
それはそれとして、翼が今まで遠ざけて来た大衆の中になら、UMAとの会話の作法を知る者がいただろうか。或いは、結局今朝になっても電話をかけてくれなかった父親なら――。
部屋のあちこちを、興味深そうに見て飛び回る小さな竜。翼はドアの前にへたり込み、半ば放心状態でその様を見つめていた。
翼が敵でないことは、竜には案外すんなりと理解してもらえた。しかし、それ以上何を話せばいいのか、現実離れした事象の数々に掻き回された翼の脳味噌では考えがまとまらない。
翼はこの時初めて、自分が所謂「口下手」なのでは、という点に思い至った。人間とも碌に話せない者が、どうしてUMAと仲良く会話できようか、と。
「……なあ、オメー」
「はひっ!?」
思いがけず竜の方から会話を振られ、翼は素っ頓狂な声を上げてしまった。竜は訝しげな顔を――顔の構造は人間とは骨格レベルで異なる筈なのに、目元の動きがやけに人間的であった――しつつも、流暢に言葉を続けた。
「オメー、なんか弱そーなナリしてるけど、何て種族のデジモンなんだ? この辺に住んでるのか?」
「え? でじ……もん?」
流石未確認生物というべきか、口に出す名詞も謎めいている。
「いや、オレはただの人間だけど……君はその、デジモン? ってやつなの?」
「そ、オレは〈ベビドモン〉ってんだ。改めて、助けてくれたことには礼を言っとくぜ」
「ああ、どういたしまして……オレはただ、呼ばれて行っただけなんだけどね」
「呼ばれた? 誰に?」
はて、と翼は首を傾げた。そういえば、先程翼を呼んだ声と〈ベビドモン〉の物言いは、一人称からして異なっていた。翼に助けを求めた存在は、ベビドモンとは別の何かだったのだろうか、と翼は考える。
「まあ、別にいいや。それにしても、ニンゲンか……うん、記憶にねえ」
「えっと、オレからも質問なんだけど……君はどこから来たの? どうしてあの場所に倒れてたの?」
翼の問いかけに、ベビドモンはしばし空中で動きを止めて考え込む様子を見せる。そして一言、簡潔に答えた。
「悪い、なーんも覚えてない」
「……『覚えてない』?」
「あぁ。オレがどこで何をしていて、どうしてここに来ちまったのか、その他諸々の記憶がほとんどすっぽ抜けてんだ。今オレが覚えてるのは……そうだな、オレがベビドモンっつー種族のデジモンの一個体で、誰かに追いかけられて命からがら逃げて来た、ってことぐらいだ」
「記憶喪失」――ベビドモンの現状を端的に言い表すと、こうなる。
ベビドモンの失った記憶はどのようなものだったのか。そこも気になるが、翼の興味は主にベビドモンの中に残っている記憶の方に向けられていた。彼の発言から推察されるのは、彼が「種族」という概念を理解・記憶していること、そして彼の命が何者かに狙われていたこと。ベビドモンが人間並みの知能を持ち、人類とほぼ同水準の文明で生活していたとでも考えなければ、記憶喪失の状態で自身にまつわる基本的な情報をこうも詳細に語れることの説明がつかない。
「えっと……さっきから気になってたんだけど……デジモン、って何?」
「オメー、デジモンを知らねーのか。そんなら教えてやるよ……オレは《デジタルモンスター》、略してデジモンっつーイキモノの中の1体だ。細かいことは忘れちまったけど、オメーらニンゲンと違うってことだけは確かだな」
デジタルモンスター。生まれて初めて聞くその固有名詞を、翼は頭の中で反芻した。デジタルと聞くと、PCやスマートフォンに使われている技術のそれを連想する。人間の生み出した電子工学の技術と謎の生物、この二者にどのような関係があるのか翼には見当が付かなかったが、翼が街灯の点灯という電気的な現象に導かれてベビドモンと出会ったことから、デジタルモンスターが何か電気的な性質・能力を有していることは予想できた。
「さて、と。腹も膨れたし、オレはそろそろ行くぜ」
ベビドモンの一言が束の間の沈黙を破る。翼が仰ぎ見ると、ベビドモンは部屋の窓にふわふわと近付き、その鼻先をゴツンとぶつけた。
「いてっ……なんだ、こっから出られるんじゃねえのか……」
「いやいやちょっと待って! 怪我は大丈夫なの!? ていうか、記憶が無いのに外に出てどうするのさ!?」
言いつつ、ベビドモンに近付き――そこで翼は目を瞠る。ベビドモンの体表に生々しく刻まれていたいくつもの傷、それが一つ残らず塞がっていたのである。
「メシ食って休んでりゃ、多少の傷はすぐ治るさ。それにな、記憶はねーけど、次にやることはもう決まってんだよ」
「やること、って?」
「外から同類の気配がする。オレを追っかけてたヤローが近くにいるかも知んねーからよ、そいつのツラ拝んでくる」
「え、それが当たりだったら次こそ死んじゃうんじゃ……」
「うるせーな! そいつを見ればちょっとくらい記憶が戻るかもって話だよ! いいからオレをこっから出せ!」
凄まじい剣幕で威嚇されてしまったので、翼は渋々施錠してあった窓を開けた。ベビドモンは一転して明るい表情になると、
「助けてくれてありがとな、ニンゲン! もしまた生きて会えたら、そん時ゃ改めて礼をさせてくれよな!」
そんなことを言い、勢いよく窓から飛び出して行った。身体的な消耗を一切感じさせないその飛行を見れば、ベビドモンがこれ以上の手助けを必要としていないことは翼にも分かる。
住宅街を横切って遠方へ消えて行く竜の後ろ姿を見送っていると、翼はあることに気が付いた。
――そういえばオレ、自分の名前を言ってなかったな。
会話の基本を思い出させてくれた存在が、よりによって人外のクリーチャーであったことに、翼は若干の情けなさを覚えた。
*
【20XX.07.23 14:59(JST)】
床や寝具に飛び散ったカレールーをティッシュで拭いながら、翼はベビドモンの行方を案じた。
「同類の気配がする」、というのは、ベビドモンのような不思議生物、もとい《デジタルモンスター》が近くにいるということらしい。ベビドモンはそれに直接会うべく外に飛び出した訳だが、問題はまさにそこにある。先のように派手に空を飛び回れば、街行く人の注目が集まって本当のUMA騒ぎになってしまう。また、ベビドモンの向かった先に仇がい場合、再び喧嘩を売って勝てる望みが薄いことは明らかであった。
後を追うべきか。翼は開け放してあった窓から身を乗り出しベビドモンが飛び去った方向を見つめた。空を飛べる彼が地上の障害物を気にする必要は無い筈なので、恐らく目的地までのルートは一直線。南向きの窓から右前方、方角としてはほぼ南西――何の因果か、翼の通う虹ヶ沢中がある方向ではないか。
「……行ってみるか」
呟くと、翼は丸めたティッシュをプラスチック製のゴミ箱に投げ入れ、皿とスプーンを持ち1階のリビングへ駆け込んだ。
「あら、どーしたの翼。そんなに慌てて」
翼が急いで部屋に入ること自体が珍しいからだろう、台所にいた和恵はティーカップを洗う手を止めて翼の顔を覗き見た。
「ちょっと用事ができたんだ。今から学校行ってくる」
「学校? 何か忘れ物、とか?」
「うん、そんなとこ。ところでお母さん……」
「ん、何?」
「カレーのおかわり、貰っていいかな……」
和恵に怪訝な顔をされながら新しい皿でカレーを食し、玄関先で和恵にやたら心配そうな顔で見送られてから、翼は改めて脳内で行動計画を整理した。
まずは自宅から中学校までの最短ルート、即ち人通りの多い通学路を歩き、地上と上空を注意深く見て回る。そして念のため中学校にも立ち入る。そこまでの範囲でベビドモン又はデジタルモンスターらしき何かが見つかったら接触を図り、見つからなければ探索ルートを延長する――というのが、翼の計画であった。
わざわざデジモンに近付く意義について、翼はあまり深く考えていなかった。彼らが人目に付いて騒ぎを起こさないよう忠告し、その後のアクションはその場で決める。翼にできることはせいぜいそれくらいのものである。
いざ通学路へ出、中学校までの道をきょろきょろ首を振りながら歩いてみると、結論からしてそれらしいものは見当たらなかった。自宅付近の路地で野良猫に鉢合わせて威嚇された程度のものである。――まあ、UMAがそんなに簡単に見付かったら都市伝説にもなりはしないか。そう自分に言い聞かせ、翼は休憩がてら足を止めていた場所に目を向けた。
市立虹ヶ沢中学校。翼らの学び舎だ。夏季の大会に向けて練習をしている吹奏楽部や野球部等を除き、生徒の多くが下校した様子だった。
中学校に私服で踏み入るのはこれが初めてで、翼は誰かに咎められはしないかと警戒していた。しかし、屋外を歩く者は無く、校庭の方から若者達のどよめきがうっすらと聞こえるばかりである。野球部の生徒達だろうか、と翼は思ったが、練習中の声にしては覇気に欠け、あからさまな困惑すら含んでいる。
何かあったのか。普段であれば他人の動向など気にする用事も持たない翼だったが、今ばかりは諸々の心配に駆られてどうにも注意を引かれてしまう。諸々に心配、というのは、言わずもがなベビドモンにまつわることだ。どうせ校庭は真っ先に見に行くつもりだった、と、翼は駆け足で校庭に向かった。
一面にクリーム色の光を照り返す砂地で、キャップにユニフォームというお決まりの出で立ちの野球部員ら――に加え、教員らしきスーツ姿の男女数名が、校門側に背を向け、寄り集まって校庭の内側を見つめている。見立て通り、どよめきの源はここに相違なかった。翼は野次馬の背中の向こうをそっと覗き込んだ。
うっすらと陽炎を昇らせるグラウンドに、これといって不審なモノは見当たらない。その代わり、空中に青白いスパーク様の光がいくつも明滅し、蛍の群れを思わせる不思議な光景を作り出していた。
稲光にも似たその光の色合いは、まさに感電でもするかの如き速さで翼の記憶を刺激した。それは奇妙な電気的現象を引き起こす存在、
「ようニンゲン、また会ったな。こんなとこで何してんだ」
そう、丁度こんな感じの喋り方をする――
「うあぁビックリした! 何してんのこんなとこで!?」
「質問してんのはこっちだっての……」
心当たりの筆頭ことベビドモンが、いつの間にか翼の傍にぷかぷか浮いていた。勝手に後を追った手前、こちらから声をかけることはあっても向こうから声をかけられることは無いと思っていたので、翼はすっかり調子を崩されてしまった。
「えっと、オレはベビドモンのことが気になって追いかけて来たんだけど……キミはここで何をしてたの?」
問いを返すと、ベビドモンは校庭に目線を移しながら答える。
「さっきも言ったろ、『同類の気配がする』って。それを追っかけて来たらよ、どうもアタリっぽいのがいたから様子を見てたんだ」
宙を漂う謎の燐光を、ベビドモンは好奇の目で――やはり目元の動きは人間臭く、人外である彼の心境が面白い程簡単に読み取れてしまう――眺めている。件の光を指して「アタリっぽい」と評しているならば、それが敵の姿、或いは敵の存在を知らせる現象なのだろう。
しかし、この状況が今後どのように変化していくというのか。翼が野次馬に混じって現場を見守っていると、不意に空中の光の粒子が急激にその量を増した。
「ベビドモン、どうなってんのあれ……?」
「おいおいおい……コイツ、思った以上の大物だ。しかも殺意ムキダシと来てる。ニンゲン、この状況はちとマズいぞ」
「マズい、って、どうマズいの?」
「そーだなぁ……早いとこ逃げないと、ここにいるニンゲンが半分くらい巻き添え食うって感じ」
「そんな……ッ!?」
驚きのあまり飛び出た翼の大音声で、野次馬はようやく翼の存在に気付いた。振り向く彼らの目からベビドモンを隠すべく、翼は咄嗟にベビドモンの体を引っ掴んで後手に隠した。
「君、ウチの生徒? ダメだよ、夏休みだからって私服で学校に入っちゃ……」
一人の男性教師が大方予想通りの小言を口にするが、今はそんなことを気にしている場合ではない。翼は腹の底まで息を吸い、半ばヤケクソ気味に声を張り上げた。
「全員ここから早く逃げて! このままじゃ死人が出る!」
これだけ緊張感たっぷりの声で警告すれば、皆この場を離れてくれるだろう。そう期待していたが、野次馬達は翼を冷ややかな目で見るだけだった。束の間の沈黙に、大袈裟だよ、何言ってんだコイツ、という感想まで滲み出しているような雰囲気だ。
「オメーのお仲間、命知らずだな。死ぬかも知れないってわざわざ警告してやってんのに、誰も逃げようとしねえ。ニンゲンって実は見た目の割に強いのか?」
「……そんな訳ないよ……」
恐らくは純粋な疑問から来ているであろうベビドモンの問いが、今ばかりは皮肉めいて聞こえてしまう。人ならざるモノの視点から見れば、この光景は異様に思えるのだろう。
「……この人達にとっては、これが普通なんだ。命のやり取りとか、人が大勢死ぬような状況なんかとは無縁の世界で生きてるから。きっと、自分や仲間が痛い目を見るまで、分かんないんだ……」
どんな危険が近付いても、自分だけは大丈夫だと信じたい。そういう心理が誰にでもあると翼に教えたのは、龍三であった。職業柄危険な場所を選んで渡り歩く彼は、人間の抱く「恐怖」の感情が冒険には最も重要だと考えていたらしい。輝かしい冒険の思い出話には必ず身の危険を感じたエピソードを付け加え、その度に「臆病な内は意外と死なない」という旨の言葉を残す。そんな様が、坂本龍三という人物の死生観を印象付けていた。
臆病な内は死なない。ということは、裏を返せば。
「……臆病でないヤツから、死ぬ」
「利口だな。分かってんならとっとと逃げやがれ、敵がもうすぐ出て来るぞ」
翼の手をするりと抜け出し、ベビドモンが翼の鼻面の前に躍り出た。翼を一瞥したその眼の中では、一杯に開いた黒色の瞳孔が極限の緊張を漲らせていた。丁度、先程翼を威嚇した野良猫のタペタムのように。
敵が「出て来る」、とはどういうことだろう。そう訝しみつつ校庭を眺めていると、その光景は急速に変容し始めた。先刻まで当て所無く宙を漂うばかりだった光の粒が、みるみる内にその数を増し、空中のある一点に集まって光の球を形作った。そしてその球は、程無くして乾いた破裂音と眩いスパークを周囲一帯に放った。翼と野次馬の男女は、咄嗟に顔を両手で覆った。
強烈な光に晒された翼の目が視界を取り戻した時、翼はベビドモンの言葉の意味を理解した。
謎の光が姿を消した代わりに、校庭には狼然としたシルエットの何かが佇んでいる。それがただの狼でないことは、紫色の体毛で覆われた目測3、4メートル程の体、両肩と両目を覆う蝙蝠の羽めいた部位、そして足先に生えた巨大な爪――否、むしろ「刃」にも見える――を見れば翼にも察しがつく。あれがベビドモンの言う「敵」……ここに居合わせた人間をも殺しかねない脅威なのだ。
「先生何あれ、オオカミ?」
「いや、分かんないけど……とにかく君達は離れて!」
「やだ、110番繋がらない……」
生徒らと教師らの気の抜けたやり取りを他所に、ベビドモンはゆっくりと彼らの目の前に出て見せた。そこで野次馬はようやくベビドモンの存在に気付き一層どよめきを大きくしたが、ベビドモンはそれに構わず、突如現れた狼もどきに向かって言葉を投げかけた。
「よう、誰だオメー」
気さくなようでどこか張り詰めたトーンの問いに、狼もどきはくいと首を持ち上げ、
「私は〈サングルゥモン〉、リヴァイアモン様に楯突いた貴様を処分すべくここへ来た。一度手合わせをしているはずだが、まさか憶えていないと……?」
男性風のハスキーな声で応じた。人外2体が人語で会話をしているこの状況に、野次馬はいよいよパニックを起こしかけている様子だった。かくいう翼は、ああこいつも喋るんだ、と一応驚いてはいるが、それよりもここにいる人々の安全の方が余程気掛かりだった。
「実はオレさ、記憶ソーシツ? ってヤツみたいで、オメーと会ったことも含めて昔のことは何も思い出せねーんだわ。……だからさ、記憶が戻るまでの間だけでいいから、見逃しちゃくんねーかな、なんて……」
「……あれだけ丁寧に甚振ってやった後でそんな口が利ける辺り、記憶が無いというのは本当らしいな」
「そーそー、だから――」
「だがそれとこれとは話が別だ。貴様をレジスタンスの主力たらしめた力、その因子が貴様の中に残っている以上、貴様は完全に削除せねばならん」
「はあぁ!? 話通じねーのかこの犬公が!」
サングルゥモン、と名乗ったデジタルモンスターは、低い唸り声を漏らしながら左前足を前に進めた。翼にはモンスターらの会話が意味するところは何一つ読み取れなかったが、ベビドモンの命乞いが聞き入れられなかった点でその先の流れはなんとなく予想できた。
【謝辞+あとがきのようなもの】
設定、及びストーリーの構成に関して相談に乗ってくれた空岸(からきし)(Twitter:@karakishi2000)氏に感謝を。
また、「デジモン創作サロン」の正式オープンを心からお祝いすると共に、このような素敵なWEBサイトを用意してくださり、デスジェネラル……もといスタートダッシュ部隊の一員に私を迎えてくださったイグドラ・シル子様に深く感謝を申し上げます。
本作『Function-D』では、各エピソード毎にちょっとしたおまけコンテンツ(通称「F-D DATABLOCKS」)をお届けします。これらは物語の背景に存在する様々な「記録」をひとくちメモ程度にまとめたものです。『Function-D』の世界をより深く楽しみたいという方は、是非こちらも併せてご覧ください。
F-D DATABLOCKS
Kda001 - KENGO's DIARY site-A level.3
〈Digital World〉
〈reason〉
〈truth〉
願わくは、これから僕が記す全てのテキストが、僕の遺書にならない事を祈って。
SPICAがかねてよりその存在を仮定し研究を進めていた「既存並行デジタル世界」、通称デジタルワールド。どうやら僕は、仮説上のものでしかなかったその世界に本当に来てしまったらしい。けど、僕にはそれが未だに信じられない。現状を上手く飲み込めない。一度に色々なことが起こりすぎて混乱しているのかもしれない。
デジタルワールドは実在した。但し、入手した資料にあるように、「超巨大なデータ容量を有するサイバースペース」というだけではなく、デジタルデータの概念を基本原理として成立している一つの次元時空である、という認識が適切であるようだ。
次に、デジタルモンスター、通称「デジモン」について。彼等の存在についてはSPICAでも研究が始まったばかりで、偶然イギリス国内のインターネット回線に侵入してきたヒョコモンを「デジモン・プログラム検体02」としてオフラインの装置に格納し終えていよいよ研究が始まろうかという段階だったと見られる。デジタルワールドの住民である彼等は、動植物、ロボットや空想上の生物といった多種多様な種族に分かれて生息しているようだが、現時点ではこれ以上のことは判明していない。
デジタルワールドの詳細な仕組み、デジモンの生態、そして僕がこの世界に召喚された理由……不明な点は山程あるが、今はこの世界で生き延びる方法を考えるのが最優先だ。元の世界に生きて帰れなければ、どんなに有益な情報を手に入れても意味がない。
早く、真実を突き止めなければならない。
現実世界を蝕むモノの正体と、あの男が隠している事情の全てを。
Zfr011 - ZERO-FIELDS REPORT site-A level.3
〈LEAF〉
〈monitoring〉
〈partner〉
DW時間0410、イグドラシルのサブシステムを経由して新型デジヴァイス《LEAF》の正規バージョン5台がRWへ転送された。予想される量子変換質量が小さいため物理レベルでの探知は困難だが、テイマーとデジモンのデータリンクが開始されればウェイブ力場を介して位置の特定が可能となるため、RWの広域モニタリングを継続して行う。
これに伴い、RWのネットワークに侵入したデジモンの探知・追跡を開始。現時点でイーサネットを回遊しているデジモンは5体、内3体が成長期。残る2体はそれぞれ幼年期Ⅱと成熟期、後者が前者を追い回している模様。この中にパートナーデジモンに選ばれる個体がいる確率は高いため、これらの追跡も引き続き行う。
Zfr012 - ZERO-FIELDS REPORT site-A level.3
〈LEAF〉
〈Realize〉
〈SPICA〉
RW時間1912(UTC)、正規版LEAF1台がイギリスのロンドンに実体化した。同地点にはデジモンが複数体リアライズしていたらしく、その内の1体(ヒョコモン)とそのテイマー(ユーザー名:Kengo Hayase)のデータリンクが検知された。その数分後同地点にデジタルゲートが発生(局所的デジタルシフトによる偶発的なもの)、件のデジモンとテイマーがデジタイズ転送された。
LEAFユーザーの第1号である彼は、SPICAスクエアでパートナーと接触した模様。デジモン及びDWの研究であらゆる情報とスキャンダルを抱える組織の本拠地にデジモンがリアライズするという事態は、単なる偶然とは考え難い。これに関してRWのネットワークを検索したが、ロンドン市警その他複数の組織による情報規制が行われたらしく有益な情報は得られなかった。
【Part 2/2】
「《スティッカーブレイド》」
呟くように発声し、サングルゥモンが右前足を大きく振り払った。するとその爪先から、鈍色に光る細長い物体が飛沫の如く無数に飛び出し、翼らの元へ飛来した。
これは――刃物!? 一瞬のことではあったが、翼の目は物体の鋭利な形状を辛うじて捉えた。そしてそれを確信したことで、翼の身体は反射的に回避行動を試みていた。左肩を沈み込ませて頭部と右肩への2本、続けて左膝を蹴り上げて左腿への1本、計3本の刃を、翼は紙一重のタイミングで避け切った。
放たれた刃が周辺の舗装路や建物を打ち鳴らすや否や、翼は無茶な回避運動の勢いでその場に尻餅をついた。ベチャ、と湿った音を立てた左手を拭おうと翼は視線を落とし――自分の左手が、鮮やかな赤色に染まっているのに気が付いた。
「えっ嘘……ああ、ああああぁぁぁぁ!?」
静寂を破った野太い悲鳴は翼のものではない。その場にしゃがみ込んでいた野次馬のひとり、翼の近くにいた野球部員だ。見ると、半袖のユニフォームから覗く小麦色の右腕にぱっくりと横一文字の傷が開き、心拍を思わせるリズムでどくどくと血液を迸らせ地面に小さな血溜まりを作っている。
「おい犬公、何のマネだ!? テメーの狙いはオレじゃねーのかよ!」
上ずった叫び声に顔を上げると、ベビドモンは無傷のまま宙に浮いていた。先の刃を避け切った、というより、語り口からして掠めもしなかったというところか。
「ああ、少々目障りだったのでな。何か問題でもあったか」
「いや、問題っつーか……オレを殺したいなら、他のヤツに構う必要ねーだろって話だよ!」
「どうだろうな。そこにいる人間という生物、彼らは時としてデジモンに大いなる力をもたらすことがあるらしい。目に付く輩だけでも消しておいて損は無い……それとも、そこに知り合いでもいるのか?」
「…………この、ゲス野郎がッ!! おい決めたぞ、テメーはこのオレがきっちり潰す!!」
ベビドモンはその両ヒレで空を叩き、サングルゥモンに肉薄する。それを合図に、野次馬達はようやくその場から一目散に逃げ出した。翼は慌ててその場を離れ、昇降口の庇の柱に身を隠した。
柱の陰からそっと校庭を覗き見ると、2体のモンスターが目紛しい格闘戦を繰り広げていた。蝿でも落とすかのように振り回されるサングルゥモンの前足をひらりひらりと躱しつつ、ベビドモンは両ヒレで狼の顔や足を叩いて回る。的の小ささ故に攻めあぐねるサングルゥモンを、ベビドモンが持ち前の機動力で翻弄する形だ。
しかし翼の目には、これが勝ち目のある戦いには見えなかった。サングルゥモンの巨躯に対し、ベビドモンの打撃はあまりに軽い。敵の攻撃を受けないという点では今のベビドモンは有利だが、スタミナが切れてしまえば、後は撃ち落とされるだけだ。
「ちょこまかと鬱陶しい! スティッカー――」
「《ホットガス》!」
叫んだベビドモンの口から赤みがかった煙が撒き散らされ、サングルゥモンの周囲をあっという間に覆ってしまった。
「グオオオオッ!? は、鼻がァ……!」
謎のガスに包まれてよく見えないが、サングルゥモンが苦悶の声を上げている。一体何が、と翼が身を乗り出すと、微かな刺激臭が風に乗って翼の鼻を突いた。それは例えるならば唐辛子の粉末のような――。
数秒の思案の後、翼は気付いた。これは「熊除けスプレー」――山林や極地において熊の撃退に用いられる、唐辛子エキスを主成分とする液体――と同じ要領だ。龍三が北極でホッキョクグマと遭遇した際に、それを用いて命拾いをしたという話を覚えている。サングルゥモンの肉体が地球の狼と同じ構造ならば、少なくとも嗅覚、運が良ければ視覚も(サングルゥモンに眼があるのかどうかは定かでないが)潰れると見ていいだろう。ただ一点、そんな物質を吐き出せるベビドモンの体はどんな作りをしているのか、そこだけが翼には見当もつかないが。
「ゲホゲホッ……おのれェ、一体どこに!?」
「こっちだぜウスノロ!」
ゴァン! と甲高い音を立て、サングルゥモンの顎に叩き込まれたのは――金属バット。野球部員が放置していたものを、ベビドモンが両ヒレで掴んで振り回している。目潰しと鈍器のコラボレーション、と言うと聞こえは悪いが、成る程有効な作戦ではある。
「ははっ、思ったより効いてんな! まずはその鼻っ面をへし折っ――」
「そこかッ!」
ベビドモンの勝ち誇った声を、サングルゥモンの気合いと足踏みの音が遮った。無数の刃に凶々しく象られた右前足が、ベビドモンの尾を掠めて地面に刺さるのを、翼は薄れつつある赤い煙の中に見た。
「ッ……残念、テキトーに振って当たる訳ねーだろバーカ!」
「ならば、確と狙うまで……!」
「やれるモンなら――ってうおおおおおあっぶねええええ!」
今度は左前足による突き、それもベビドモンの眉間を狙ってである。ベビドモンの後退が間に合っていなければ、今頃鼻面をへし折られていたのはベビドモンの方だったろう。
「まさか、もう目が見えて――うわっと! でなきゃこんな正確に――ちょっタンマ! 危ねえなさっきから!!」
他人事ながら、翼は頭を抱えた。目と鼻を封じられた時、敵の位置を探る手掛かりたり得るのは「聴覚」だ。サングルゥモンはベビドモンの声からその位置を推測し、大まかな当たりを付けて攻撃を繰り出している――のだが、ベビドモンはそうと気付かず悲鳴を上げまくっている。それじゃ意味無いだろ黙っとけ、と助言したい気持ちが逸り、翼は柱の陰から飛び出そうと身構える。
「ぐあああ――――――――っ!!」
断末魔、という形容が相応しいほど痛ましい絶叫が校庭にこだましたのは、その時だった。サングルゥモンの右前足が、ベビドモンの左眼を深々と突き刺したのだ。サングルゥモンがその足を払うと、ベビドモンの体がぼとりと落ち、あちこち歪に凹んだ金属バットが翼のいる方へ数メートル転がった。
仰向けに倒れたベビドモンの顔は、左の眼孔周りが大きく抉り取られ、紅い傷口を露わにしていた。傷口からは同じ色の粒子が霧吹きの如く噴き出し、空中に溶けて行く。フー、フー、と繰り返される震えた息遣いは、激痛でままならない呼吸を整えんとするが故のものか。
「……一つ、解らんことがある」
赤い煙がすっかり大気に溶けた頃、サングルゥモンは低く呟き、ベビドモンに躙り寄った。その声色は、つい数秒前まで格下相手におちょくられ怒っていたことなど感じさせないほどに冷静なものだった。
「この勝負……いや、私と貴様では端から勝負にもならんことを、貴様は察していた筈だ。それにも関わらず、何故貴様は戦いに拘った? 生き延びたいならば、さっさと逃げ出した方がまだ安全だったかも知れんぞ?」
――確かに、そうだ。翼はサングルゥモンの指摘が至極真っ当かつ自然なものだと感じた。
「無用な危険は冒さない」。生を希求し、死を忌避する全ての生物に当てはまる行動原理である。命があればどうにでもなり、命が無ければどうにもならないという原始的な直感に従って、人間も動物も、そして恐らくデジモンも生きている。生き延びるための臆病さ――龍三が語った「死なないための心構え」の大切さは、ベビドモンにさえ共感されたくらいである。
しかしベビドモンは、敢えて勝ち目の無い戦いに出た。彼自身、最初に敵の強大さを見極めて翼に警告までしたというのに、だ。だから今、彼は左眼を失い、その傷口から血にも似た赤黒い粒子を止め処なく流し続けている。いくら記憶を失くしているとはいえ、この結末を彼が予想しなかった筈が無い。
「……オレだってなぁ……理由も無くこんなマネしねーっての。これがバカのすることだってのは、オレにも分かる……」
抉れた左眼をヒレで押さえながら、ベビドモンが上半身を起こした。お前に言われるまでもない、と反駁したげな感触が、振り絞られた言葉の端々に滲む。
「テメー、さっき言ったよな……ニンゲンも殺しておいた方がいい、って……そういうことされっと、オレが……オレの命の恩人が困る。見ず知らずのオレを救ってくれたアイツに、オレは何の恩も返せてねえ……だからせめて、アイツが今まで通り暮らせる場所を……命のやり取りなんかしなくていい日常を、オレが守るんだよ。テメーと刺し違えてでも……絶対にな……!」
命の恩人。その言葉は、翼に呼吸を忘れさせる程に意外なものだった。――オレはただ、誰かに呼ばれて、ベビドモンを家に運んで、カレーを食べさせただけなのに、と。その故に彼に恩人呼ばわりされ、挙句彼を窮地に立たせる理由にまでなってしまうというのは、翼には納得がいかない話である。
けれど、一つだけ理解できたことがある。命を惜しむ生き物が敢えて危険を冒す理由、それは偏に「誰かのため」――自分以外の誰かを想う時、きっと人間もデジモンも、ちょっとした無茶ができるのだ。翼自身、翼や世界の人々に地球の広さと美しさを伝えるべく命懸けの旅を続ける人物を知っている。
そしてそんな風に、危険を押し切って行うあらゆる行為をこそ、人々は「冒険」と呼ぶのだ。
「……成る程。その高尚かつ強靭な意志、尊敬に値する。できれば貴様とは別の戦場で相見えたかったとさえ思うぞ……だが、これも仕事なのでな。縁が無かったと諦めるとしよう」
ベビドモンの腹をゆっくりと踏み潰し、すらりと伸びた上下2対の牙を剥き出すサングルゥモン。その牙と大口を持ってすれば、ベビドモンの首は容易くへし折られてしまう。
――オレは、どうすればいい!? 真っ白になった翼の頭を、自問の声だけがぐるぐると廻る。あの狼を倒す? ベビドモンをどこかへ逃す? 生きてこの場を切り抜けられる可能性は?
パニックの只中にあっては、最早整った理屈など並べられよう筈も無かった。
しかし、だからこそ、己の感情が訴えるものを、翼は鮮明に認めることができた。翼の原体験――父の肩の上から見た街並みと、忘れられないあの言葉を。
――翼、冒険に挑む誰かの力になってやれ。
全身を駆け巡る衝動に弾かれ、翼は駆け出していた。
乾いた地面を爪先で打ち、一直線にグラウンドを突っ切る。途中に放られた凹みだらけの金属バットを拾い上げ、狙うゴールはただ一点。
「そいつを、放せ!!」
ベビドモンを踏みつける、サングルゥモンの足元。
ダッシュの勢いと全体重を乗せ、翼はバットを横薙ぎに振り抜いた。生まれてこの方野球などろくにやったことの無い翼だったが、そのスイングは運良くサングルゥモンの鼻の天辺に入り、歯切れの良い金属音を一つ奏でた。
サングルゥモンは頭から大きく仰け反り、ベビドモンを押さえつけていた足も一瞬ではあるが放してしまった。翼はバットを投げ捨て手を空けると、ベビドモンを抱え上げて一目散に引き返した。
「なっ……なんで戻って来やがった! 死にてーのかオメーは!?」
「そうかもね、君を見捨ててのうのうと生きてくのは嫌だな!」
「余計なお世――――おい、伏せろ!!」
ベビドモンは翼の腕をこじ開け、翼の前髪を掴んだ。そしてその小柄な身に似合わぬ怪力――彼が空を飛ぶ際に発揮する謎の浮遊力か――で思い切り引っ張り、翼の姿勢をつんのめらせた。直後、翼の後ろ髪を硬質の物体が2、3掠めてどこかへ飛び去った。
受け身もそこそこに地面に倒れた翼の顔を、ベビドモンが両ヒレでぐいと持ち上げた。そして生傷の目立つ顔を突き合わせ、戸惑い混じりの声で一言問う。
「なんで、またオレを助けたんだ」
シンプルな質問に、そういえばなんでだろ、と少し考えてから、翼は思ったままのことをシンプルに答えた。
「さっき、キミがオレのことを『恩人』って呼んでくれて、嬉しかったから。それに…………キミが冒険してる、って思ったから」
翼は今の今まで自分の興味関心だけを大事にして生きて来た。だから当然、他人と積極的に関わろうとはしなかったし、そのため他人に感謝されたことなど皆無に等しい。そんな翼が、誰かにとっての恩人になったというのだから、翼自身大いに困惑しているし、同時に嬉しくもあった。
その上、翼を恩人と呼んだモノは、翼の見て来た中では最も謎が多く、そして父親の次に勇敢な存在だった。翼の贅沢な知的好奇心と、父の教えの全てが、彼と出会うためにあったのではないかとさえ思えた。
だから、助けた。翼は、ベビドモンの相棒になりたかったのだ。
「……はっ、何だそりゃ。ニンゲンってのはよく分かんねーイキモノだな」
ベビドモンには一笑に付されてしまった。確かに、かような緊急時に口走る言葉としては、やや詩的過ぎたかも知れない。
「まあでも、オメーのそういう無鉄砲なトコ、嫌いじゃないぜ。今だって、オメーが助けに来てくれて、正直オレも嬉しかったんだぜ」
「無鉄砲、って……」
「そこはお互い様ってとこだな。でもって……おい犬公、さっきのは大分効いてたみてーじゃん、ええ?」
ベビドモンが投げかけた言葉は、翼の背後に迫るサングルゥモンへと向けられたものだった。
「そうだな……人間などという矮小な生物に鼻を叩かれるのは、思った以上に屈辱的だ……」
サングルゥモンの表情はベビドモンと比べ動きに乏しかったが、その声音と荒い鼻息が彼の機嫌の悪さを饒舌に物語っていた。いよいよ敵を本気で怒らせてしまった、という事実をこの期に及んで悟れない馬鹿はいるまい。
ベビドモンはその身をすうっと浮き上がらせると、凛とした声で宣った。
「前言撤回だ。テメーは絶対にぶっ潰すけど、オレは絶対に死なねえ。恩人からの借りが増えちまってな、簡単に死ねなくなったんだわ……つーワケで、腹括りやがれ」
勝つ気満々といったベビドモンの口上に、翼は少しばかり呆れてしまった。これではサングルゥモンにも笑われてしまう、と苦笑しいしい相対する敵に視線を戻すと、
「どこまで私を揶揄えば気が済むんだ! 手早く始末するつもりだったが、貴様らには飛び切りの苦痛を味わってから死んでもらうとしよう……!!」
サングルゥモンの怒髪が天を衝いていた。
「え、貴様『ら』!? オレも入ってるのこれ!?」
「それ本気で言ってんのか? オメーも鼻ぶっ叩いて怒らせてるだろーが」
そういえば自分も喧嘩に首を突っ込んだけれど、まさかここまで恨まれるとは――そんな遅過ぎる反省を胸中に並べ立てていると、ベビドモンが翼の肩を力任せに突き飛ばした。
何をするんだ、と声に出す間も無く、ベビドモンの姿が翼の視界から失せた。かと思えば、バガァン! と豪快な音を立て、体育館を包むコンクリートの外壁に直径3メートル台の円い凹みが穿たれた。サングルゥモンがベビドモンを攫い、壁に叩きつけたのである。ベビドモンが翼を突き放していなければ、今頃翼とベビドモンの合挽き肉ができていたことだろう。
半ば壁に埋まったベビドモンをサングルゥモンが後ろ足で蹴飛ばすと、壁の凹みは風穴となってベビドモンを屋内に迎え入れた。砕け散ったコンクリート片も同時にアリーナにぶちまけられ、照明の落ちた屋根の下に賑やかな音を立てた。続け様サングルゥモンも穴を潜って行ったので、翼は慌てて後を追った。
体育館の中では、床にくしゃりとへたり込んだベビドモンをサングルゥモンが前足で繰り返し殴りつけていた。悲鳴は上がらない。悲鳴を上げる気力も残っていないのか、或いは気絶しているのか。いずれにせよ、赤黒い粒子を撒き散らし、ベビドモンの体が徐々に生き物としての輪郭を失いつつあることだけは明白だった。
「なあ、ベビドモン……死なないでくれ、頼むから……!」
涙と共に込み上げた翼の声は、しかしベビドモンに届く程の力を持ってはいなかった。サングルゥモンは高笑いし、右前足を誇らしげに振りかざした。
「はははははは! そこで見ていろ小僧、喧嘩を売る相手を間違うとどうなるか教えてやる!」
――死ぬのか。アイツも、オレも。
夏の熱気のせいか、はたまた極度のパニックによってか、視界がぐらぐらと揺れて落ち着かない。
絶望と、怒りと、後悔とがごちゃ混ぜになり、翼の胸を埋め尽くした。
「泣くんじゃねえ、ニンゲン」
声、と呼ぶにはあまりにか細い息遣いを、翼の耳が確かに拾った。
「何も悲しむこたねーだろ。オメーはそこで見守っててくれりゃあいい。オレの、戦いを。言ったろ…………オレは、絶対に死なねえって……!」
声量の代わりに、静かな気迫で縁取られた言葉。
サングルゥモンの爪が、死にかけのベビドモンに止めを刺すかに思われた刹那、ベビドモンは伏せられていたその顔を力強く上げた。
無残に削り取られた顔面の傷から、失われた筈の左目をぎょろりと覗かせながら。
ギャリィィィィィィン……! と耳障りな硬質の摩擦音を立てたのは、サングルゥモンが振り下ろした爪――と、それを受け止めたベビドモンの左手の爪だった。
「なっ……何だ、それは……!?」
サングルゥモンの驚嘆も尤もである。先程まで単なる《ヒレ》でしかなかったベビドモンの肢体の一部が、いつの間にか3本の指と爪を有する《手》に変化していたのだから。
サングルゥモンと翼の驚愕を他所に、ベビドモンの身体はさらなる変化とアクションを起こす。左と同様に変化した右の手でサングルゥモンの足を引き寄せると、筋肉質に膨張した胴体をしなやかに跳ね上がらせ、逞しく発達した頭部でサングルゥモンの額にヘッドバットを撃ち込んだのち、太く長く伸びた尻尾でサングルゥモンを吹き飛ばし、尻尾の付け根から生えた1対の足でフローリングの床にズンと着地した。
ほんの数秒の間に、〈ベビドモン〉の全身は見違える程に変化してしまった。2本の角は赤く変色し、1対の小さな赤い羽も背に生え、全身に纏った緑の鱗は僅かに青みを含んでいる。身の丈は翼より低い程度で、とても両手では抱えられそうにない。ガーネットを思わせる朱い双眸は、溢れんばかりの活力に満ちている。
2本足で勇ましく立つそれ――さっきまで〈ベビドモン〉だったもの――は、胸を大きく開くと、天井を仰いで吼えた。荒々しく、それでいて伸びやかなその咆哮は、翼らを囲む建物と大気、そして翼の腹の底から首筋に至るまでをビリビリと震わせた。あれに近付いてはいけない、と脊髄が警鐘を鳴らしているのが翼には分かる。
鳴き声の残響の中、翼が立ち竦んでいると、変わり果てた姿の《竜》はくるりと翼を振り向いた。
「びっくりしたか、ニンゲン?」
《竜》の喉から出た声は、性格の荒い男児風のもの――最初に会った《竜》と変わらない、親しみやすさのこもった声だった。それを聞いただけで、翼の全身を縛っていた本能的恐怖はたちまちどこかへ抜けてしまった。
「……ニンゲンじゃなくて、坂本翼。オレの名前。翼でいいよ」
「タスク、か。じゃあタスク、この姿のオレは〈ドラコモン〉って呼んでくれ」
にい、と牙を見せて笑うドラコモン。翼は微笑み返し、ドラコモンの傍へ駆け寄った。
「馬鹿なっ、あり得ん! あれだけ消耗していながら《進化》ができるなどと……!」
ドラコモンの一撃で壁の肋木に叩きつけられたサングルゥモンが、姿勢を立て直しながら忌々しげに吐き捨てた。
「ンなこと言われても分かんねーよ、記憶喪失なんだから。ただ一つだけ言えんのは、テメーをぶっ倒せる見込みがオレ達にできたってことだけだ」
「……ふっ、ふふ、ふははははははは! 面白い、その余裕がいつまで続くか試してやる! つまらん戦いをしたら承知せんぞ……!」
「そりゃこっちのセリフよ、そろそろ刃物とお手以外の芸を見せてみやがれってんだ」
睨み合う2体の異形。数秒の静寂を経て、先に動き出したのはサングルゥモンだった。手近な壁に向かって跳躍し、壁から壁、壁から天井、天井から床と、直線軌道を幾重にも交錯させ体育館内を縦横無尽に跳ね回り始めた。
「野郎、マジに勝負決めにかかろうってのか……」
彼の曲芸紛いの動作が確実な止めを狙ったものである、というドラコモンの見立てには、翼も同感だった。爪による近接攻撃と刃の飛び道具、これらに高速移動を組み合わせればサングルゥモンの攻撃パターンは多彩なものとなる。体育館という囲いの中では、どの方向から何が飛んで来るか予想する間も無く命を落としかねない。
「ドラコモン、この建物の中じゃオレ達は不利だ!」
「分かってるよ、今から建物ごと焼いてやる」
「うん、頼ん…………はあぁ!?」
ドラコモンの不穏極まりない一言に翼が目を剥いていると、ドラコモンは何を思ったか翼の肩に背中側からひょいと飛び付いた。
「タスク、オレを肩車しろ! その後オレが合図をしたら、オレの顎の下にあるウロコを触れ!」
「待って待って待って、何する気なの!?」
「オメー風に言うなら『冒険』だな。上手く行きゃ一発逆転、生きて帰れる。……まあ、上手く行かなきゃ死ぬだけなんだけど……」
――いいじゃん、面白そう。
喉を衝いて出かかった言葉を生唾と一緒に飲み込み、翼は頷いた。ドラコモンは翼の肩に両足を預けると、両手で翼の頭を掴んだ。
「っしゃ、準備オッケー! ……あ、言い忘れてたんだけど、オレがいいって言うまでオレを絶対に肩から降ろすなよ。危ねーから」
「え、何それ怖い……」
翼は左手でドラコモンの左足を押さえつつ、右手をドラコモンの首元に伸ばした。頭の真上にあるので翼にはよく見えないが、滑らかな手触りの鱗が皮膚を覆う中、一つだけ飛び出した鱗が指先に触れ――
ブチッ。
何か、キレたような音がした。
「グルルオオオオオオァァァァアアアアアアアアアァァァァァ――――――――!!」
悍ましく歪んだドラコモンの絶叫と、翼らの四方に広がった凄絶な光景。その全てを以って、翼はドラコモンの提案の意図をようやく理解した。
館内を埋め尽くさんばかりに拡散する、赤く細長い無数の光条。それらが翼の頭上、ドラコモンの大口から大量に連射されている。宙に放たれたレーザー様の光は、その1本1本が物理的な破壊力を有しているらしく、ガラス窓や白熱灯、倉庫の金属扉に至るまで、館内の設備を瞬く間に粉砕して行った。
木が焼け、鉄が爆ぜ、ガラスが飛び散る。そんな音と光の奔流の中心から、光条の何本かに胴を射抜かれるサングルゥモンの姿を翼は目にした。
これこそが、恐らくドラコモンの狙った「一発逆転」の理想形であった。翼らはサングルゥモンの高速機動により逃げ場を失ったが、同時に屋内で決着をつけることに拘ったサングルゥモンもまた「屋外へ出る」という選択肢を放棄していた。だからこそ、体育館内を丸ごと焼き払える火力さえあればサングルゥモンを仕留めることは可能である、とドラコモンは踏んでいたのだ。
「み、見事だ……そのポテンシャル、やはりただ潰すには惜しい……!」
撃ち落とされたサングルゥモンの体が、床面の影に溶け込んで消えた。致命傷を負わせるに至ったか否か、手応えの程は翼には判断できかねたが、これだけの大技を見せ付ければ敵の戦意を奪うには十分過ぎる筈だった。
「ドラコモン、当たったよ! 一旦止めて!」
肩に担いだドラコモンの両足をぺしぺしと叩き、攻撃の中止を促す翼。しかしドラコモンは、絶叫も、レーザーの拡散も止めようとはしない。
――こいつ、意識がトんでるのか!? 翼の背筋を、今日一番の悪寒が走った。ドラコモンがわざわざ翼を踏み台にしたのは、翼をレーザーの射程外に置くためだったのだ。それも、一度発動したら本人にも制御が効かなくなるから、という理由で。
ドラコモンの手が、掴んでいた翼の頭髪を乱雑に引っ張った。翼は頭皮の激痛に悶えながらもドラコモンをなだめようとするが、肩の上で荒ぶるドラコモンを抑えることは叶わず、諸共フローリングの上に後ろ向きに倒れてしまった。
翼が後頭部を強かに打つと、翼の視界に火花が散る代わりにレーザーの拡散が止んだ。ドラコモンは翼の肩から離れて床に突っ伏している。倒れたショックで正気を取り戻してくれればラッキー、とも翼は思ったが、飛び起きたドラコモンが白目を剥き、2本の赤い角を煌々と発光させているのを見るとそんな望みも捨てざるを得なかった。
「ドラコモン……落ち着いて。戦いはもう終わったんだよ」
ゆっくりと起き上がり、翼はドラコモンと向き合う。熱を帯びた鼻息と、赤熱したように光る角は、ドラコモンの内に渦巻く抑え難い何かを絶えず発散しているようにも見える。
幾ばくかの沈黙ののち、ドラコモンの角が少しずつその光を失って行った。光が完全に消える頃、ドラコモンの息遣いは元のペースに戻り、両方の瞳はきょとんと翼の顔を見つめていた。
「――おう、タスク。犬公はどうなった?」
寝起きかとも思える程気の抜けた声でドラコモンが問うた。実際気を失っていたようなものなので、ある意味自然な反応と言えなくもない。
「えっと、攻撃は当たったけど、倒せたかどうかは分かんないな。姿が影の中に消えちゃったような……」
「へえ、逃げ足ぐらいは確保してたってことか。抜け目の無えヤローだ」
翼は僅か数分の間に廃墟同然の有様と化した体育館内を眺めた。天井や壁のあちこちに点々と穴が開き、そこから差す日光の束が床に散乱したガラス片を輝かせている。頭上からは建材の欠片と思しき塵がぱらぱらと降り、翼を囲む半径3メートル程度を除いて満遍なく焼け焦げた床板に音も立てず落ちて行く。
戦場さながらの様相を呈する体育館の内外に、人を含む生物の気配は感じられなかった。ただ翼の耳を忙しない心音が内から叩くばかりである。
「おいタスク。オレ、降ろしていいっつったっけか?」
ドラコモンに指摘され、あっ、と声を漏らす翼。そういえば先の大技の前に釘を刺されていたような、と記憶を再生していると、金切り声の罵倒が翼の鼓膜を劈いた。
「何やってんだ大バカが! あの威力見ただろ!? いくら敵をぶっ倒せても、オメーが怪我しちゃ意味ねーんだよこのバカ!」
「うわぁ、悪かったって! っていうか2度もバカって言うな!」
ドラコモンの罵声を浴び翼がぶうたれていると、ドラコモンは急にしおらしい表情になった。
「……どこも、怪我してねぇか? どこも痛めてねぇか?」
「……うん、大丈夫」
「……オレのこと、怖くねぇか?」
「……最初に比べたら、全然」
「……ありがとうな」
「……オレだって、色々ありがとう」
翼が破顔すると、ドラコモンも照れ臭そうに笑った。
友達――否、《相棒》とは、こういうものなのかも知れないと翼は思った。奇縁で出会った2人は、互いを特別なものとして意識し、無謀ともいえる戦いを生き抜いてここにいる。共に死線を潜り抜けたことを喜び合える、理屈の伴わない安心感を、翼は「絆」と呼ぶことにしようと思った。
翼の脳と心肺が落ち着きを取り戻すと、どこか遠くからパトカーか消防車らしきサイレンが聞こえて来た。翼自身失念していたが、今この学校は害獣(ないし怪獣)騒ぎ、加えて体育館の出火・爆発といった非常事態ラッシュの現場である。既に近隣住民も学校の異変に気付いている筈で、人の目が集まると翼らは現場を離脱し難くなってしまう。
「ドラコモン、そろそろ帰ろう。お腹すいたでしょ?」
「ああ、フルパワー出したんでくったくただ……タスク、オレさっきの飯が食いてえ!」
「さっきの……ああ、カレーのことね。お母さんに頼んでみる」
2人は壁の大穴から体育館を飛び出し、校地端のフェンスをよじ登って学校を後にした。
翼にとって、これ程までに心の踊る下校は初めてだった。
*
【20XX.07.23 16:11(JST)】
「タスク、実は少し思い出したことがある」
そうドラコモンが切り出したのは、2人が翼愛用の「通学路」の中程に差し掛かった頃のことだった。
「思い出した、って、記憶が戻ったの?」
「おう、この姿に進化した時にな。まず1つ、オレの故郷――デジタルワールドは《魔王》に侵略されてる」
――何、そのファンタジーみたいな話。と、思わず口を挟みそうになるのを翼はぐっとこらえる。そもそも《デジタルモンスター》の存在自体が十分ファンタジーじみているので、これ以上に現実離れした話はそうありはしない。
「まあ、その魔王ってのがどんなデジモンだったかは思い出せねーんだけど……そいつはDW(デジタルワールド)とリアルワールド、つまりこっちの世界を征服しようとしてやがるんだ。オレはそいつに喧嘩を売って、その仕返しにさっきのアイツみてーな連中に追い回されてたんだ」
「それで、こっちの世界に流れ着いた、ってこと?」
「いや、ここにはちゃんとした目的があって来たんだぜ。DWの古い伝承にな、世界に危機が迫った時、人間とデジモンが……えーと、何だっけかな……?」
ドラコモンが俯いて唸っている傍らで、翼は空を見ながら数分前までの刺激的な記憶の数々を反芻する。サングルゥモンの言うことには、人間は「時としてデジモンに大いなる力をもたらすことがある」らしい。サングルゥモンが人間に牙を剥いた理由、そしてドラコモンが人間の世界を訪れた理由は、どちらも人間が持つ特殊な資質に関係しているのだろう。
――ひょっとして、オレにもそういう力があったりして? などとは、思い付いても気恥ずかしくて口には出せない。
会話のネタも無いまま横並びで歩いていると、2人は10分程度で坂本家に行き着いた。翼はドラコモンを家の生け垣の陰に押し込み、念を押すようにドラコモンに言い聞かせた。
「オレが呼びに来るまで、ここを絶対に動かないで。ドラコモンの姿を家族に見られるとマズいんだ」
「カゾ、ク……? ああ、身内がいるのか? ならアイサツぐらいはさせてくれよ」
「いや、できればそうしたいんだけど……普通の人間はデジモンを見たことが無いから、ドラコモンを見たら大騒ぎしちゃうかもって」
ドラコモンを自宅に上げるに当たり、翼が唯一心配している点がそれであった。翼が最初にベビドモンと出会った時でさえ冷静さを著しく欠いた程だ、より成長した姿のドラコモンを和恵に見せたらパニックを起こされかねない。しかし、翼の気遣いはドラコモンには今一つ理解できないらしい。
「なら今見せときゃいいんだよ! 入り口はそこか!?」
「やめろやめろ、マジで大事になるから!」
「うるせえ、オレは早くメシが食いてーんだよ!」
玄関へ突進せんとするドラコモンを、翼は全身で抑えた。が、一時とはいえサングルゥモンを圧倒した彼の身体能力は、翼の制止をものともしない。
2人が取っ組み合っていると、そのすぐそばで蝶番の軋む音がした。
翼らの頭上、台所に面した出窓。そこから和恵が顔を出し、2人を無表情で覗き見ている。隠し場所の選択は完全に誤っていた、と遅まきながら気付く翼。
「あ、お母さん……これは、えっと、」
「タスクのカゾクってのはアンタか! オレはドラコモン、タスクに命を助けられたんだ! いきなりで悪いけど、何か飯を分けてくんねーか? できれば、カレー? ってやつがいいな!」
焦る息子と図々しいUMAを前にして、和恵は眉一つ動かさない。それどころか、翼の予想に反した反応すらして見せる。
「……とりあえず、上がりなさいな。ご飯ならご馳走するから」
「ぃよっしゃあ、ありがてぇ!」
「えっマジで!?」
パニックで判断力を失ったか、と翼が和恵の目を見ると、和恵はいつも通りの落ち着き払った面持ちを少し綻ばせた。いいからいいから、と、その目元が言っているような気がした。
「――そっか、道理でサイレンが近かった訳だ」
食卓で、翼の正面に座った和恵は、翼の隣でカレーを犬食いするドラコモンをしげしげと見つめながら呟いた。
ドラコモンとの出会いから学校での戦いまで、事の顛末を翼から聞き終えた直後のリアクションとして、である。
「や、あのさ……もうちょっとこう、驚いたりとか、疑ったりとかしないの?」
翼の困惑混じりの声に、和恵は顔色を変えることなく平然と言葉を返す。
「『冒険家』の妻がこの程度で驚く訳ないでしょ。この、ドラコモン、だっけ? 結構可愛いじゃない。インドネシアの魔除けのお面よりはマシよ」
「ああ、お父さんの書斎にあるやつね。あれっていつからあるの?」
「翼が生まれる少し前から。アンタ達、昔っから親子揃って変なモノ持ち帰ってたよね。青いダンゴムシ、木の枝、化石と来て、今度はドラゴン……しかも、翼が命の恩人ですって」
成長したねぇ、と和恵はどこか遠くを見て笑った。
あまり見た試しの無い母の表情と、美味しそうにカレーを頬張るドラコモンを順に一瞥して、翼はそっと食卓を離れた。大した理由は無い。ただ、遅れてやって来た気疲れから、少し独りになりたかっただけのことである。
自室に入り、翼は学習机の一番下の引き出しをそっと開けてみた。他の段より深いその引き出しには、スポーツ用品メーカーのロゴが入った青い紙箱だけがぽつんと置かれている。
経年劣化でくたびれた外箱、その蓋を外すと、中には登山用のゴーグルが一つ。スモークグラスを青い樹脂で飾られ、黒い布ゴムバンドをぶら下げたそれは、かつて龍三が「あの言葉」と共に幼い日の翼に贈ったものであった。小学校低学年の頃まではこれを着けて外を出歩いたものだが、いつからか引き出しの奥に眠らせてしまっていた。
試しに目元に着けてみると、ゴーグルは翼の頭部にぴたりとフィットしたので、翼は少し誇らしい気分になった。
――お父さん、オレも少しはゴーグルの似合う冒険家に近付いたかな。
引き出しの中身はこれだけだったろうか、と目を落とすと、翼自身入れた覚えの無い小さな物体がスモークグラス越しに見えた。ゴーグルを首まで下げ肉眼でそれを見ると、引き出しの底に、六角形をした青緑色の塊があった。
手に取ってみると、それは翼の掌に収まる程度の大きさであった。表面にはガラスめいた質感の正方形の凹みと3つの突起、側面からは黒く細い棒が1本頭を出している。これらをそれぞれ画面、ボタン、アンテナに見立てると、それが何かの機械であるように思われた。しかし翼はこんな品に心当たりは無い。昔外で拾ったのか、或いは父が土産に持ち帰ったのか。
試しに突起の一つを指先で押してみると、四角い凹みに仄かな光が灯った――翼の予想通り、これは画面とボタンを備えた機械だったらしい――。続けて、初めて目にする文字ないし記号が羅列して画面を流れ、終いに3つの英字列を画面中央に残した。
[UserName : Tasuku Sakamoto]
[PartnerDigimon : Dracomon〈46696C〉]
[Welcome to LEAF Ver.1.0!]
読み取れるのは、翼とドラコモンの名前。
この謎の機械は、翼を持ち主に選んだ――ように見えた。
「おいタスク、腹ごなしにその辺の散歩でも……って! オメー、それ……!?」
食事を終えたらしいドラコモンが、翼の背後で素っ頓狂な声を上げた。
「ドラコモン、これを知ってるの?」
「ああ、今思い出した……そいつは、人間の持ってる力を引き出すアイテム! オレ達は《世界樹の葉》……リーフ、って呼んでた!」
「そっか、それで《LEAF(リーフ)》……」
翼の視線は、手の中の小さな機械に吸い寄せられた。人間とデジモンの特殊な繋がりを象徴するそのデバイスが、翼を取り巻く現実の難解さを物語っているような印象を受け、翼の顔は自然と引き締まった。
「けど、なんでこれがオレの所に?」
「そりゃあ、オメーが『相応しい』からに決まってんだろ! 思い出したぜ、さっき言った伝承の中身……世界に危機が迫った時、人間とデジモンが力を合わせて世界の秩序を取り戻す、ってな! 要するにオメーはオレの相棒、そして世界を救う英雄だ!」
目を輝かせて捲し立てるドラコモン。対して翼は、突拍子も無いワードに頭蓋をぶん殴られたような感覚に襲われていた。
「いやいやいや、大袈裟だよそれは! だって、オレはたまたまドラコモンと会っただけで」
「ありゃ運命の出会いだ! オレに気付いてくれたのはオメーだけだったろうが!」
「第一、オレにはデジモンと戦う力なんて」
「オレはオメーの勇気に救われた! オレ達が力を合わせりゃ、きっと何だってできるぜ!」
ドラコモンは興奮気味に翼を褒め称えるが、それでも翼は納得できずにいた。この過剰なまでの期待に応えられるのか、そもそも普通の中学生としての生活はどうなるのか等々、翼に判断を渋らせる要因は山程ある。
「はっきりしねぇな、ゴタクはいいから簡潔に答えやがれ! やりてぇのかやりたくねぇのか、どっちだ!?」
痺れを切らしたドラコモンの問いは、ぐさりと翼の胸を突いた。
「――やりたいに決まってるだろ。オレはドラコモンの力になりたい。ドラコモンの世界も、オレの世界も守りたい。ドラコモンと一緒に……もっと冒険したい」
言い訳も、偽りも交えない本心からの言葉。
世界を救う、などと大仰な言い方をするとぴんと来ないが、大切なものを守るという意味でなら翼にも戦う理由はある。龍三が愛し、翼もいつかその目で見ようと決意した美しい世界を、翼は守りたいと願う。龍三が帰る場所も、龍三と過ごす時間も、失いたくはない。そして何より――。
「オレ、もっとドラコモンのことが知りたいんだ。世界が平和にならなきゃ、落ち着いて遊びにも行けないからね」
――つい今しがた、大切にしたいモノが増えてしまったから。という本音は、そっと胸に秘めようと思った。
「そうか、よく言った! そんなら早速出発だ!」
「え、もう!?」
「あたぼうよ、こうしてる間にもDWは荒らされてんだ! 必要な物資は向こうでも手に入るから、手ぶらでいいぞ!」
「意外とお手軽だね……あっでも、せめてお父さん、いやお母さんにだけでも話さなきゃ!」
翼が階段をバタバタと駆け下り1階に戻ると、和恵はリビングの戸の前に所在無さげに立っていた。大方、翼らの話を立ち聞きしていたという所だろうか。
「……お母さん。今、ドラコモンの世界が危ないんだ」
「……うん」
「だからオレ、ドラコモンの世界に行って来る。いつ帰れるかは分からないけど、世界を救って、必ず帰って来る」
「いや、ダメに決まってんでしょ」
「なんで!?」
和恵に一蹴され、翼は度肝を抜かれた。ドラコモンを家に上げる程に寛容な《「冒険家」の妻》ならきっと許してくれる、という翼の読みはあっさり外れてしまった。
「自分の息子を敢えて危険な場所に送り出す親がどこにいるってのよ。世界の平和より家族の安全が第一。そもそも翼、夏休みの宿題はどーするの? それに、私は自分の息子の行方不明届なんて書きたくないからね」
反論の余地を残さない正論に、翼は言葉を詰まらせてしまう。父と比べてリアリストの気質が強い母が、翼はあまり好きではなかった。けれど、今はそんな理由で黙りこくる訳にはいかない。
「世界が滅んだら、家族も学校も無くなっちゃうだろ。何もしなかったら皆死ぬだけだ」
「あのね翼、あなたはまだ子供なの。ただの中学生にできることなんて多くないのに、世界を救うなんてできると思うの? 失敗したら責任とれるの?」
「責任どうこうの問題じゃないんだよ! 今動けるのはオレしかいない、ドラコモンの相棒はオレしかいない! 相棒が辛い目に遭ってるのに、見て見ぬフリなんてできない! ……悪いけど、今ばっかりはお母さんの言うことは聞けない」
「ちょ、アンタねぇ……!」
翼が名を呼ぶと、ドラコモンは吹き抜けを飛び降りて玄関のタイルにビタンと降り立った。翼は大急ぎでシューズに両足を突っ込み、ドラコモンと共に玄関先へ出た。
「タスク、LEAFを空にかざせ!」
ドラコモンに促され、翼は右手に握り締めたLEAFを頭上に真っ直ぐ掲げた。すると、LEAFの表面がぼんやりと光り始め、宙に架かった電線がバチバチとスパークを散らした。
「待ちなさい翼!」
翼の後を追い、和恵が玄関の戸を開けたようだった。翼は一瞬振り向こうとしたが、己の意地か、或いは後ろめたさによってか、首は思うように動かなかった。
「……お父さんね、さっきのアンタと同じこと言って出掛けて行ったの。悪いけど、今ばっかりは和恵さんの言うことは聞けない、って……今の『長期の仕事』に出る前の日に」
――え、今何て?
いきなり父の話を出されたことで、翼の首を固めていた何かが呆気なくその力を失った。
見返ると、和恵は眉間に煮え立つような怒り――と、目頭に小さな涙の粒――を浮かべ、仁王立ちで翼を見つめている。
「あれからお父さん、全然連絡をくれなくなったよね。けど、家を出る直前にこう言ったの……必ず帰る、って」
龍三が家を発った日の記憶、そして今正に翼が旅立とうとする光景は、和恵の悲しみを喚起するには十二分な筈だった。にも関わらず、和恵の声は微塵も揺らいではいない。
「あなたはお父さんに似て昔っから聞かん坊だったけど、他人のためにワガママ言ったことなんて今まで無かったよね。……どうしてもって言うなら、最後までやることしっかりやりなさい。でも、必ず生きて帰って来て。翼を必要としてる人が、この世界には少なくとも2人いるんだから」
謝るべきか、笑って応えるべきか。かける言葉を見つけられずにいると、翼の体は奇妙な浮遊感に包まれて地面から離れ始めた。隣のドラコモンも同様の挙動で宙に舞い上がり、共に垂直に上昇して行った。
「必ず帰って来る! オレも……お父さんも! だから待ってて!」
今の翼に言えるのは、この程度だ。虚勢を張るのは柄ではないし、慰めの言葉を要するほど和恵は弱い人間ではない。
和恵は目を潤ませながら笑顔を作り、一言だけ言葉を発した。その声は、翼らと共に巻き上げられた風に掻き消されてしまったが、翼には何となく伝わった。こんな状況で身内にかける言葉は、そう多くはないのだから。
行ってらっしゃい。
翼も最大の笑顔で、あらん限りの声を張り上げた。
行って来ます。
重力の感覚が完全に失われ、家々の屋根が眼下に見渡せる高さにまで達した。翼はドラコモンの手をしっかりと握ると、ゴーグルを目元に被せ、翼らを引き寄せる力の源を凝視した。
青空を円くくり抜いたような、深い闇を湛える大穴を。
坂本翼、13歳。
その旅立ちが、後に翼の「世界」を大きく変えて行くことを、翼はまだ知らない。