「父さんな、デジモンで食っていこうと思うんだ」
珍しく一家四人揃った夕食を終えた後、お父さんはよく分からない言葉を口にした。元々口数は少なくてあまり表情が変わらないから、十七年見慣れたはずの顔でも何を考えているかは分からない。それでも人生を賭けた一世一代の宣言らしいことは分かる。
「え?」
ただ私達にはその覚悟を受け止める余裕もなければ、言葉の意味を理解するための知識もない。新しい仕事に挑戦することに家族として応援するか反対するか以前の話として、その内容に何一つピンと来ていないから反応に困る。果たしてこれは真面目に聞くべき話なのか。お母さんは食器洗い乾燥機のスイッチを入れてからは静かにお茶を啜っているし、小学三年生の慶悟(けいご)はアホ面を晒しながら私の方におどおどした視線を送っているだけ。冗談にしてはセンスが無いのは一目瞭然だ。
「デジ……なに?」
仕方なく私が探りを入れてみる。何で金を稼ごうとしているのか分からないのが何より怖い。よく分からないもので稼ごうとしているという認識になったところで浮かんだ言葉は一旦喉元に押し戻しつつ、すぐに吐き出せるように備えておく。
「美遊梨(みゆり)、デジモンだ」
「なんなの、それ?」
「略さずに言えばデジタルモンスターだ」
「ゲームではないよね? 聞いたことないし」
「ゲームの話はしてないが? ゲームのやり過ぎじゃないか?」
「……じゃあ何なのかちゃんと説明してよ」
今口にした言葉が最大の失言であることに気づくのに一秒も掛からなかった。でも一度でも口にした以上取り消せないのが言葉というもので、取り繕う間も与えてくれないのが金城(かねしろ)安武(やすたけ)という男の習性だった。これが私の父親であるということを今日ほど後悔する日はないだろう。
「最近ネット上で取引されるようになった商材でな。専用の機器内で実体のない疑似生物を育てて、ニーズの高い種になったところで売る訳だ。成長するNFTアートというべきか。まだ世間でも話題になってないブルーオーシャンにこそ活路があるというか」
「お父さんもよく分かってないでしょ」
「そんなことはない」
「それらしい言葉もどうせ受け売りでうまく説明もできないでしょ」
「……レアなカブトムシは高く売れるだろう」
「あからさまにレベル下げた感出すのやめて」
頭を抱えるどころか頭が沸騰しそうになってきた。真面目に聞いている自分が馬鹿みたいに思えてくる。
「あんまり言いたくないけどやめておいた方がいいよ」
「何故だ?」
「怪しいこと以外よく分からないからだよ」
どんなルートから仕入れた情報か分からないけどあまり信用に値しないものだと思う。父親の交友関係まで悪く言いたくはないけど次からは第三者のチェックは通した方がいい。できれば私以外で頼みます。
「そうは言ってもな……」
私の反応があまり芳しくないのが存外刺さったのか、お父さんは十秒ほどしおらしく視線を落とす。その間に聞こえるのは紙袋の中を探すような音だけ。顔を上げたお父さんの手の中には見慣れない電子機器があった。
「何それ?」
机の上に置かれたそれは慶悟の手にも収まるサイズで、筐体の大半を占める画面にはカラフルなタマゴが一定周期で揺れている。……言葉を選ばなければおもちゃにしか見えない。その証拠に慶悟の目にも光が宿っており、許可さえもらえれば弄りたくて仕方なさそうだった。問題はこれを金稼ぎ目的で大の大人が金を払って買っていることだけど。
「デジモンを育てるための育成ドックだ」
「もしかして買ったの!? いくらした?」
「いや、試供分のレンタル品。無料だ」
「なら安心……なわけないでしょ。後で契約書の類を見せて」
「お前に分かるのか」
「お父さんよりマシだとは思うよ」
タダより高いものはない。ガキでも知っている言葉だ。社会経験のない女子高生でも疑り深く見れば見落とすことを期待した文章を拾うことくらいはできるはず。こうなったら大人の力を借りることにも躊躇いはしない。――そうだ。今この瞬間も大人の言葉を武器にすべきだった。
「もう……お母さんも何か言ってよ」
「そうね……安武さん?」
「はい」
沈黙を貫いていたお母さんがようやく口を開く。突き刺さる視線が食い込んだのか、お父さんの声は今までの勢いを失って表情は不自然に強張る。判決を待つ被告人のようにただ判決が下される時を待つ。
「ちゃんと責任を持って飼える?」
「もちろん」
「ならよし」
「よくない」
本当によくない。期待した私がバカだった。それ以上に両親がバカだった。そんなペットを飼うかどうかみたいな雰囲気にすり替えないでほしい。寧ろ命を預かるかどうかの責任を問いかけているだけそっちの方が立派だと思う。ただ残念なことに二対一になった以上はもう勝ち目はなく、家庭内ヒエラルキー最上位のお母さんが肩を持った以上は私にこれ以上の発言権も存在しない。
「あ、生まれた」
慶悟が指差したドックとやらの画面には割れたタマゴの残骸とその少し上に不自然に固まっている煙。それには握ったらかき消えてしまいそうな手があり、心細くなるほどに小さな灯りのような目があった。頭で燃えている小さな炎はまるで命そのものに見えて、気ままに漂う無垢な姿はささくれた私の心もじんわりと溶かしていく。ちいさきいのち。ハッピーバースデー。たとえ本物の命じゃなくてもそれらしい動きを見ると心が揺れてしまうのは自分でもちょろいと思うけど、夢のない人間と後ろ指を指されるよりはマシだ。
「確か……モクモンだったか。こいつくらいは面倒を見てもいいだろう」
「……まあ、多少の猶予はあってもいいかも」
別に絆された訳じゃない。どうせ発言権もないから一旦ここは諦めただけ。
モクモンとかいうデジモンとやらは数時間後にモクモンではなくなった。命の灯火のように燃えていた小さな炎は成長を示すように大きくなるどころか全身が炎そのものになっていた。でもスケールが爆発的に大きくなった訳でもないので庇護欲を誘う小さな命の炎でしかない。プチメラモンという種の名前も的を射ているというかド直球というか。
他人からどう呼ばれようともこの子自身の気は大きくなったのか、ドックの画面内を激しく飛び回る姿を慶悟にしつこく見せられていた。こっちは明日が期限の課題に今気づいて徹夜の覚悟を決めたところなのに。
「で、何のつもり?」
「キレたときの姉ちゃん、こんな感じだから。プッチンが次に進化する前に刻み付けておこうと」
「その前にトラウマを刻み付けてやろうか」
「ひぃ」
どうやら気が大きくなったのは愚弟も同じらしい。父さんから育てる手伝いを体よく押し付けられ……認められたのがさぞ嬉しかったらしい。ちなみにプッチンという呼び名は愚弟の初仕事のセンスの賜物だったりする。煙が炎になるようなカブトムシの変態もびっくりの変化――もとい進化の度に種の名前が変わるのは面倒なので私も助かる。なんとなくプリン食べたくなる名前だけど。
「冗談よ。そんなんでキレるほどお姉ちゃん暇じゃないの」
「わわわ分かってたし」
「あんたも物好きね。世話を押し付けられたってのに」
寧ろ我が家の男連中に呆れているくらいだ。あんな子供みたいなやり取りをして育てる意思を見せた父親がその翌日に子供に世話を任せているとは流石に思わなかった。本物の命じゃないとしても最低限の責任感はどこへ行ったのか。
「まあ仕事ほっぽって一日中面倒見るって言われても困るけど」
「大丈夫だよ。僕も学校あるけど帰ってくるまで冷蔵保存して強制的に眠らせてるし」
「あんた達は心が冷えてるの?」
冷蔵庫に突っ込まれる炎の塊のことを思うと私だって胸の奥がもやもやする。冷蔵庫が壊れないのかとか、中の温度はどうなっているんだろうとか。まあ、現実の生き物じゃないから何でもありなんだろう。
「でもプッチンも問題ないって言ってるし」
「はいはい」
「本当だって」
別に都合のいい妄想を口にしなくてもいいのに。そんな内心が透けて見えてしまったのか、慶悟は私の顔面に押し付ける勢いでスマホの画面を見せつけてきた。
「ほら」
映っているのは家族用のグループチャット。ただしグループに所属してるアイコンの数は五つ。見慣れない唯一のアイコンは火の玉に顔がついているものだった。というかプッチンそのものだった。
『冷蔵保存してるとき、大丈夫? 冷たくない?』
『へいき。ぐっすり』
「これまた……」
「手の込んだことを」と言いそうになったのはなんとか堪えられた。誰がプッチンの名義のアカウントを作って、慶悟とプッチンのやり取りをチャットとして残したのか。もう探る気力すら起きない。
「分かった。分かった。もう寝な」
「姉ちゃんこそ早く寝なよ」
これ以上無駄に時間を使うのはあほらしい。最後は意外と素直に引いてくれた慶悟のためにもさっさと課題を終わらせよう。
翌朝、雀の涙ほどの睡眠時間しか確保できなかった私の頭は顔を洗うことでなんとか再起動できた。鏡に映るのは孤独な戦いを生き抜いた戦士の誇り。或いは直前まで記憶から抜け落ちていた愚者の末路。
「姉ちゃん、隈ひどいよ」
「あんたは随分爽快な寝起きね」
原因の何割かはあんたが貴重な時間を奪ってくれたからだ。そんな文句をオブラートに包んで吐き出してみる。それが何一つ意味のないことだとは分かっていた。
「いい夢見れたからかな。面白かったからちゃんと覚えてるよ」
弟の鈍い頭ではこちらが不快になるだけだと判断できない辺り、まだ私の頭は冴えていないらしい。上機嫌に語り始めた声が頭に響いてきて不快感が指数関数的に上昇していく。
「だいたいは赤ずきんだった」
「狼、おばあさん食べる。おばあさんになりすまして、家に来た赤ずきんも食べる。猟師が助けて、代わりにお腹に石を詰めて殺害。めでたしめでたし」
「姉ちゃんさあ……自分の子供にはちゃんと読み聞かせてあげなよ」
「やかましいわ」
残念ながら私と慶悟の間には暖かい気持ちでおとぎ話を離せる関係性は存在しない。だから私の将来に余計な心配をされる謂れもない。
「そもそも夢の赤ずきんはそんな弱っちくなかったよ」
「へー、どんなのよ」
「そりゃ……火炎瓶投げ込んで家を爆破して、無様に逃げ出した狼をガトリング砲をぶっ放しながら追い詰めて、最後は笑いながらナイフで解体してたよ」
「あんた赤ずきんに何求めてんの」
健全な小学生男子の夢の前では赤ずきんもバトルとバイオレンスに呑まれてしまうということか。……いや、わりと元々バイオレンスではあった気がするなあ。
「犬とか狼の革って靴にできるのかな?」
「隣の家に吠えられて泣かされたこと、まだ根に持ってる?」
とりあえず無垢な力への憧れは夢と妄想の中にしまっておけ。
「まあ意外と言えば意外かもね。あんたが今さら赤ずきんの夢なんて」
「そういえば、プッチンが読み聞かせしてくれたんだ」
「何させてんのよ」
プッチン(のアカウントを使っている誰かさん)に、一対一の通話で赤ずきんを読み聞かせながら自分はぐっすり寝たということか。プッチンのアカウントは両親が動かしているという説が正しいことを心から望む。
「楽しい夢は見れたのはそのおかげかな……って、あああーっ!」
用事を済ませた慶悟が洗面所から出た十秒後、嬉しそうな雄叫びが私の頭を一際強く揺らした。
「今度は何。私、そろそろ限界よ」
「プッチンが進化してる」
洗面所から顔を出した私に慶悟が意気揚々と突き出したのはドックの画面。その中で忙しなく飛び回る火の玉だったプッチンは一夜明けて、落ち着いた佇まいの獣らしくなっていた。一番近いのは象だけどそこまで鼻は長くないし、頭には鉄板みたいなのが張り付いているし、後ろ足は煙みたいになってるし。寧ろイメージが近いのは別にあるというか。
「なに、本当か」
「急に出てこないでよ、お父さん」
嬉々として飛び出してきた厳めしい表情に脳の認識がバグって、組み立てていた推測も道筋ごと吹っ飛んだ。どれだけ興味のないことでも何か掴めそうなところで梯子を外されるのはむかつく。
「これは……バクモンだな」
「バクモン……バク……それだ」
流石にそのままではないが顔の長さというか輪郭の独特な感じが一致している。でもバクというと実在の動物より先に浮かぶものがある。中国から伝わった幻獣で有名な話はもちろん――
「バク……僕の夢を食べて進化したのかな」
「そんな都合のいいことあるわけないでしょ」
無邪気な愚弟と同じことを考えていた記憶もいっそ食べてほしい。
私は世界史が苦手だ。様々な言語で定義された名前や事象を一律でカタカナに押し込められた文字列の連弾に怯んでから拒否反応が治まっていない。何が悲しくて試験勉強という形で家でも苦しまねばならないのか。えっと……アレクサンドロス大王がダレイオス三世を破って、アケメネス朝ペルシアが滅びて……ダレイオス三世は最後に味方に裏切られて……犯人は誰だったっけ……待て待て。脱線してきた。
「ふぅ」
足りない頭に限界が来たので休憩でもしよう。カフェインの補給手段には困らないけどエナジードリンクは昨日の夜に浴びるほど飲んだので珈琲くらいに留めておこう。……なんか将来を食い潰してる気がするなあ。
「勉強するのは結構だが根を詰めすぎるなよ」
「気遣いどうも。お父さんとは違って根は真面目なので」
反射的に毒を吐いてしまったのは直前の思考を見透かされた気がしたからだろうか。今さら優しい父親ムーブをしても、二日前の気の狂った宣言をしてからは私の評価は家族内最底辺に位置しているので意味はない。
「勉強に詰まってるのなら教えてやろうか」
「やめてよ。この年になってそういうのは流石にナシ」
娘の宿題に頭を抱えて呻く父親を見てみたい誘惑に一瞬惹かれそうになったけど、すぐに誰も得をしない未来に思い至ったので却下した。
「まあ、プッチンが教えてくれるってなら少しは面白いでしょうけど」
ただ思わず引っ込みのつかない妄言を口にする程度には私も気が緩んでいたらしい。リフレッシュは出来たということで部屋に戻ろうとするより先にポケットが短く振動した。嫌な予感に身震いしながら取り出したスマートフォンには数秒前に来た通知が存在をアピールしていた。恐る恐るタップしてみると見慣れたチャット画面が表示される。
『ダレイオス三世を殺しましたか?』
『はい』
『あなたが思い浮かべているのはベッソスですね』
何かのサービスを経由したかのような解答から視線を上げると、お父さんはどこか誇らしげにドックを見せつけていた。画面上では四足歩行の真似事が飽きたプッチンが器用に前足を組んでいた。なんとなくターバンとかが似合いそうな気がした。
「プッチンさあ……お父さんと縁切りなよ」
「なんてことを言うんだ」
「慶悟のやり取りの方がまだマシだったよ」
「あの頃より進化して成長したんだぞ」
「会話の相手が駄目だって言ってるんだけど」
だってまだ火の玉の頃の方が言葉もやることも可愛げがあったし。というかお父さんはプッチンの中の人に何をさせているのか。
「プッチン、見せてやれ。お前の本気を」
「私、勉強に戻るね」
これ以上は茶番に付き合う気にもなれない。もやもやした疑問の答えは貰ったのでこれ以上は信用していいか怪しい情報源なんて要らない。
「……ん?」
数分後、静かな一人部屋に響くバイブレーション。取り出した画面にはプッチンから送られてきたメッセージが一件。
「何これ」
恐る恐る開いてみると、見慣れない言語の文字列が大量に投下されていた。足りない頭をフル回転した結果、アラビア語かペルシア語かその仲間だというところまでは絞れた気がする。絞れたところで答えは誰も教えてくれない。だから何が書いてあるのか一切読めない。
『現地周辺の資料を収集し要約しました』
私が悪うございました。努力と性能は認めるからせめて翻訳した結果をください。
「プッチンがさらに進化したぞ」
「そ。よかったね」
翌朝九時。いつもより遅く起きた私のささやかな朝食の時間はお父さんの無粋な報告に邪魔された。こちとら試験前で根を詰めている最中で、勉強のことを考えなくていい時間はそれだけで貴重だ。どれだけいい知らせだろうと私に関係なければ耳に入れる価値はない。
「喜べ。おそらくお前がきっかけなんだぞ、美遊梨」
「いや知らんし」
だからといって無理やり私との関係性をこじつけるのも違うだろう。そんなに年頃の娘の気が引きたいのか。別に反抗期というほどの反抗はしていないから大目に見てほしい。今回もどうせ私が折れることになるだろうし。
「せめて見てくれ。喜ばしいことなんだから」
「はいはい」
仕方なく視線を向けた画面の中に居たのは、骨を背負った金色の毛の獣人だった。一瞬ライオンかと思ったけどどちらかというと猿の方が近い気がする。でも一番目を引くのは頭身が倍近くに増えたこと。眩しく勇ましいシルエットには今までみたいな扱いをするのを躊躇う程度には存在感があった。
「いや……流石に成長し過ぎ」
正直デジモンの進化というのを舐めていた。あくまでマスコットの範囲内での変化だと思っていたから少し面を喰らっている。
「種族はハヌモン……希少なデジモンだ」
「へー、そうなんだ」
これまでで一番大きな変化のある進化で希少種となった。そのきっかけが自分だと言われるのは正直悪くない気分だったりする。わりと放任主義で良くも悪くも成績に評価を下さない両親だから新鮮に感じたんだろう。――そういえば、最近お父さんと話す回数が前より増えた気がする。どうでもいいけど。
「そんなに言うなら、なんかくれてもいいんじゃない?」
柄にもなく、年甲斐もなく、そんな甘えが口に出てしまった。まあ、それもいいかと今だけは思えた。
「今からピクニックするぞ」
「ハァ?」
前言撤回。一番気を許してはいけない相手は身内にこそ居ると脳に焼き付けておくと心に誓った。
「朝ごはんを食べるくらいは待つ。荷物も簡単でいいぞ」
「待って待って待って。勝手に話進めないでよ」
この人は思い付きで生きているのか。最近は特にそう思えて仕方ない。一周回って思い付きでふらふらする人間が私達家族をここまで養ってこれた事実に震えてきた。
「最近は根を詰めていただろ。一、二時間だけ気分転換に使うといい」
「私なりにスケジュール組んでたんだけど」
誰かさんと違って計画的に物事を進めるタイプなんです。誰かさんと違って。気遣いはありがたいけど、自分へのご褒美や息抜きも自己管理の範疇として決めている。
「悪いが今日だけは融通を利かせてくれ」
「何それ」
ちょっと本気で腹が立ってきた。まるで私が堅物みたいな言い回し。ここ最近振り回されてばかりなのは私の方なのに。力んだ勢いで朝ごはんをかき込むスピードが速くなるのも、お父さんの話に合わせているような気がして癪に障る。
「ごちそうさま。ちょっとコンビニ行ってくる。その間にピクニックでも何でも勝手に行ったら?」
食器を洗うのも今は後回しにするしかない。今はただお父さんの顔を見たくなかった。自分でもくだらないと思う、反抗期でもない瞬間的な衝動。ただ中途半端に理性が残った自己保身。結局のところ、私はいい子ちゃん気取りの堅物ではあるんだろう。
「あっ、待て!」
待てと言われて足を止めるほどの素直さもなく、財布とスマートフォンだけ持って玄関を飛び出す。コンビニまで歩けば私の頭も多少は冷えるだろう。戻ってくる頃にはお父さんも少しは反省しているかもしれない。
でも、この時のやり取りを後悔することになったのは私の方だった。
「う、うーん」
テンプレートみたいな自分の呻き声で意識が覚醒する。そもそも猿轡のせいで言葉になる声を発せる状態ではない。両手は背中の後ろで縛られているようで、両足もおそらく足首で縛られていた。まるで罠に掛かった野生動物。猟師役は車で私を運ぶ同乗者全員。上下スーツなのに目出し帽を被った行儀がいいのかよくないのか分からない二人組。でも彼らの行動についてはどう言葉を選ぼうとも拉致や誘拐としか表現できない。
「都合よく飛び出してくれて助かったぜ、嬢ちゃん。ありがたく使わせてもらうよ」
私が目が覚めたことに気が付いたのか、隣の席で監視していたらしい男がずずいと顔を近づけて荒い息を吐いてきた。唾混じりに吐かれた汚らしい言葉の意味が嫌でも脳裏を過り、耐え難い悪寒が全身を包む。
「手を出すなよ。貴重な交渉材料なんだから」
「っせえな。一家まとめて力づくでやればよかっただろ」
「騒がしくしたら近所迷惑だろ。常識考えろ」
怖い。ただひたすらに怖い。この場所から一秒でも早く逃げ出したい。でもそれはどうあがいても叶わない望みで、今できることは誘拐犯二人の常識から外れたやり取りを耳に入れることだけ。頭の中で何度も反芻して咀嚼し、今起きている現実をただ認める。
私は交渉材料でターゲットは私の家族全体。一般家庭の私達にはピンポイントで狙われる心当たりなんてない。だったらターゲットは元々無差別に選定するつもりで、たまたま家から飛び出した私の運が悪かったのか。どちらにしても私が一人で飛び出したのは彼らにとっては都合がよかったことだけは変わらない。――それを自覚した瞬間に今さら必要のない答えを見つけてしまった。
「ん!」
ダッシュボードの上に無造作に置かれている手のひらサイズの電子機器。そのシルエットはここ最近見ない日がなかったアレと寸分違わず一致していた。
「んぐ……んンンッ!!」
瞬間、一切の欠落なく蘇る記憶。私が意識を失う前に見たもの。それは今まで無意識に封印していた事実。
なんとなく近道をしたくて裏路地を選んだのが失敗だった。背後から私の名前を呼ぶ声に振り替えると、上下スーツで目出し帽の二人組が居た。ノータイムで逃げ出そうとした私に見せつけたのがあのドックで、思わず足を止めた瞬間に中から緑色の鬼が現れた。驚く間もなく鬼は手に持っていた骨棍棒を投げつけてきた。私は腰を抜かしたから当たりはしなかったけど、もう一度立ち上がる頃には二人組と鬼が目の前に居て、何かを嗅がされて意識を失った。
「ンーッ!……フーッ!」
「おっと、暴れんなよ」
「ン……んぐ」
過去の恐怖は現在の嫌悪感によって上書きされる。冷水に頭を沈められたように視界が鮮明になり、本能が状況を俯瞰できるだけの理性を切り離す。
私達家族はピンポイントで狙われていて、そこにはドックとその中のデジモン――プッチンが関係している。この推測は間違いないと思う。狙われているのがプッチン自身という可能性も高いだろう。プッチンがただのマスコットでもなければ、詐欺のための商材でもないことくらいは薄々分かっていた。グループチャットでのやり取りも裏でお父さんかお母さんがなりすましていると思い込もうとしていた。でも、やり取りをしていた文面からはプッチンの姿しか浮かばなくなっていた。でも何より最悪なのは慶悟やお父さんが口にしたことも正しいと思えてしまったこと。
――僕の夢を食べて進化したのかな
――おそらくお前がきっかけなんだぞ、美遊梨
夢の話題を与えてそのデータを収集したからバクモンになったとしたら、私が与えたもので希少種のハヌモンになったということになる。……元々お父さんは金儲けのためにデジモンの育成に手を出していたはずだ。
お父さんはそもそもドックを誰から手に入れた? お父さんはこの車の連中とどんな関係があるのか。交渉のテーブルについた時の私の価値は? プッチンの価値は? 家族の価値は?
頭の中には都合の悪い妄想ばかりが浮かぶ。思考の迷路に迷い込んだ私に誰も答えを教えてはくれなかった。
「――着いたぞ。下ろせ」
現実へと引き戻すタイムアップ。隣に座っていた男に引っ張られて車から出た先は、放棄されてから相当の時間が掛かっていそうな廃工場。灰色のトタンの壁は錆にまみれて、端には放棄することすら忘れられた雑貨が固められている。ここはどこでこれから私はどうなるのか。それを考える時間も私には与えられなかった。
「ちゃんと時間通りに来たな」
廃工場の中央で私達を待っていたのは、堅物そうな初老の男性。十七年もみてきた姿を間違える訳もない。何なら今朝も喧嘩別れみたいな形で飛び出すまでは見ていた。
「娘は無事なんだろうな」
「ほら、安全運転で運んできたぞ」
「ん……ぐ、んんんん!」
「美遊梨!」
見せびらかすように突き出された私と交差するお父さんの視線。恐怖と安堵が入り混じったその表情で、お父さんもあちら側ではないかという最悪の懸念だけは吹き飛んだ。何よりこの場全員の立ち位置も明確になった。目出し帽の二人組は金銭目当てのヤバい奴ら。お父さんはただ不用意に危険な物に手を出しただけの間抜け。そして、私はその代償を払わせるための人質。
「そっちもブツはちゃんと持ってきたんだろうな」
「ああ。このドックを渡せば、娘は返してくれるんだな」
お父さんが見せつけたドックを見て目出し帽の男たちは満足そうに頷く。希少種に進化したプッチンは奴らにとっては値千金のデータどころか金塊そのものに等しいのだろう。デジモンの市場価値がどれくらいなのか分からない。反社組織が絡むマーケットでの扱いも想像したくない。ただ、同じ家に数日間居た存在がそんな風にしか見られない場所に行くことだけは無性に耐えられなかった。
「んぐ! んんんん!!」
気づけばダメだと叫ぼうとしていた。人質だという身分も忘れて自分でない存在のために暴れようとした。でも、実際は力で抑え込まれて床とキスさせられるだけ。
「止めろ! ドックは渡すから、止めてくれ」
「最初からそれでいい。そこのドラム缶の上に置いて戻れ。確認次第、解放する」
運転手だった男の要求に従って、お父さんは奴との間に置かれたドラム缶へと近づく。私にはその一歩一歩を見届けることしかできない。
「ここでいいんだな」
「ああ。戻れ。確認する」
静かにドックを置いて背を向けたお父さんに合わせて、運転手はドラム缶へと近づいていく。私に見せつけるように同じ歩幅で進み、お父さんが振り返るのと同時にドラム缶の上のドックに手を伸ばした。
「ぶグアッ!?」
金色の手。その先から伸びる骨。ドラム缶の上から突如出現したものを認識した直後、私の身体を取り押さえていた男が吹っ飛ぶ。反射的に振り返って奴の姿を探してみると、ガラクタの山にもたれかかってノックアウトしていた。
「リアライズ!? 貴様どうやあぐぶッ!」
ドラム缶に視線を戻してみれば、ちょうどもう一人も骨に打ち据えられるところだった。床を転がる男を見下ろすのは金色の体毛を持つ獣人。男達が出した鬼と同じ体格なのに恐怖はなく、寧ろ全身から力が抜けるほどの安心感が身体を包んだ。――だって、そこに居るのが誰かはすぐに分かったから。
「プッチン――ハヌモン自身が自由に出られるように権限を与えておいた。ぎりぎりまで引きつけるようには言っておいたがな」
腹が立つほどに自信満々なお父さんの説明をバックにプッチンは私の目の前まで急接近。ゴリラより大きな猿に見下ろされる形であっても何も怖くない。
「――大丈夫ですか、美遊梨」
「大丈夫だよ、プッチン」
初めて聞いたプッチンの声には聞き馴染んだような安心感があった。だから何の恐怖も躊躇いもなく素直な気持ちが吐き出せた。私の信頼が十分に伝わったのか、ハヌモンは自ら抜いた金色の毛を摘まんで三度振るう。器用で迷いのない手つきは私を縛っていたすべてを切断してくれた。
「一時はどうなるかと……でもよかった。プッチンが来てくれて」
「それは良かった。戻りましょう」
「ありがとおおおわああああッ!?」
感謝の言葉を口にするより先に私を抱きかかえてプッチンはドックのあるドラム缶のところまで戻る。そういえばチャットでのコミュニケーションもわりと一方通行だった気がする。こっちの事情も考えないところまでお父さんに似ないでほしかった。
「助かっ……た?」
「ああ、もう大丈夫だ」
「あ……と……」
ドックを回収しに戻ったお父さんと鉢合わせになることだってプッチンは気にはしなかった。感情を整理する時間なんて与えられてないから、私はどんな顔をすればいいか分からない。流石に今朝のことを謝らないといけないとは思う。でも諸々の事情を説明してもらう権利くらいは流石にあるはず。そうだ。そもそも私はお父さんが持ち込んだ事情に巻き込まれて人質に取られたのであって、私は寧ろ被害者だ。でも助けてくれたのは事実で、それでチャラにしてもいいと思っている自分もいた。
「あの……お父さん……」
「まだだ。後にしてくれ」
混濁する感情のまま口を開いたところでお父さんはいつも通りの口調で遮る。でもその強引さがいつもと違う理由であることくらいは分かる。
「お前ら舐めやがって……」
プッチンとともに見据える先で男は立ち上がってこちらを睨んでいた。その手にはお父さんが取り戻したものと同じドック。そこから出てくる怪物のことを私は知っている。
「やれ、オーガモン!」
光溢れるドックの画面から現れるのは骨棍棒を担いだ緑の鬼。見るのは二度目だけど一度目ほどの恐怖はない。前に出たプッチンの金色の背中がそれ以上に頼もしかったから。
「プッチン、頑張って!」
「承知!」
大型の獣のように突っ込んでくるオーガモンと閃光のように駆けるプッチンが激突する。ぶつかり合う互いの骨。パワーはオーガモンの方が上なのか、鍔迫り合いの膠着状態はじりじりとプッチンが後退していく。
十秒後、遂にプッチンの身体が大きく動く。ただそれは後方ではなくオーガモンの右。オーガモンは勢いでつんのめり、無防備になった背中をプッチンが骨で打ち据える。
「隙だらけです」
振り返ったオーガモンにプッチンによる骨の追撃は止まらない。絶え間なく突き出される骨の先端は狙撃するかのように狙った一点を貫く。
左胸、右肩、左肘、右手首、右脇、左膝、左脛、右手首、左肩、右胸、右手首。
無造作に見える連撃。そのすべてが反撃に移ろうとするオーガモンの初動を潰すもの……のように見える。所詮は戦いなど知らない女子高生なのでそこまで考えて動いているのかは私には分からない。それでもプッチンの強さだけは信頼に値する。
「何をしてる、さっさと仕留めろ!」
男の声に合わせてオーガモンが力任せに飛び出して、振りかぶった骨棍棒をプッチンの脳天目掛けて振り下ろす。その瞬間ですら私達に心配すべきことは一切なかった。
落下する骨棍棒。振り下ろした右手は空振りし、現実を理解できない間抜け面を晒す。――単純な話、執拗に狙われていた右手にはもう骨棍棒を握る力は残っていなかった。
「な……ッ」
「骨の扱いは私の方が上手でしたね」
無防備な腹を貫く骨。今日一番伸びた骨はそのままオーガモンの身体を男の真横まで押し戻した。
「まだだ」
武器を失ってなおオーガモンの目には戦意が消えていない。それは両拳に紫の闘気となって渦巻いているように見えた。最後の賭けの大技。プッチンを上回るパワーをそのままエネルギーとして撃ちだすのなら、それは相当な威力になるだろう。
「いえ、もう終わりですよ」
ただ一手遅かった。闘気が臨界点を迎える前より先にプッチンの大技が放たれている。
「こう見えて私、怒ってるんですよ。美遊梨を危険な目に遭わせたことを」
「あ……」
オーガモンを襲う金色の雨。降り注ぐのは冷たい滴ではなく鋭い針。プッチンの体毛を硬質化させたその切れ味は、プッチンに助けられた私が一番知っている。
針の雨が止む。雨具も用意できず全身に浴びたオーガモンは静かに倒れる。気弾を放つこともできなければその元になる闘気も意識とともに消え去っていた。
「さて、どうしますか?」
「クソッ……」
男はドックを放り投げて外へと走る。気を失っている相方を気にも留めず一人だけ車で逃げるつもりだ。
「追いますか?」
「その必要はない」
「逃がしていいの?」
オーガモンという力を失って逃げるだけの相手なら私達でも制圧できるはず。個人的な恨みがないと言えば嘘だけど、あのまま放置しておいていい相手ではないのは正しいはずだ。
「プッチンにそうさせたいのか?」
「でも……」
自分でも分かっている。これはプッチンを戦力としてカウントしているから生まれる思考で、自分が助かる以上の成果を求めるのなら同じ穴の貉になりかねないと。
「安心しろ。ようやく専門家が間に合ったところだ」
お父さんの余裕の意味を理解できたのは数十秒後のこと。この場に見知った人物が現れたからだった。
「……え?」
その人は逃げ出したはずの男を引きずって現れた。傍らには魔法使いのような装いをしたデジモン。背丈が慶悟と同じくらいだからか、どちらかというと男性的な印象を持った。そして、肝心の本人はどこにでもいるような中年女性だった。表情は穏やかなのに夫と同じくらい心情が読みづらいその人のことを私はよく知っている。
「お母さん!?」
「ごめんなさい、美遊梨。巻き込んじゃって」
金城叶夜(かや)――私のお母さんその人だった。要するに最初から夫婦揃ってグルだったらしい。
「とりあえず……帰る最中にでも説明してよ」
今の私のメンタルで咀嚼できるかは怪しいけど。
家に帰るまでの車中で聞いた説明を自分なりに整理してみた結論として、やはり私と慶悟は両親の無茶に巻き込まれたということになる。
元々デジモンはインターネット上に突如出現したれっきとした生命体だった。お母さんはそれを管理する組織に所属していて、プッチンの卵も元々お母さんが拾ってドックに保護したものだった。ただ卵の段階でマーキングされていたらしく、進化のタイミングでどこかに通知されるように仕組まれていた。
マーキングがデジモンを不法に入手・売買する犯罪組織によるものと断定したお母さん達はその尻尾を掴むために育成する方針に変更。迅速な成果を求めて早々に進化をさせたかった組織は事前の研究で突き止めていた進化を及ぼす存在に注目した。それが人間とのコミュニケーション――それも二十歳未満の子供との関わりだった。護衛をつけるのが前提とはいえ組織内で立場は強くなかったお母さんは押し付けられる形でドックを引き取ることになり、お父さんは下手くそな言い訳でカモフラージュしようとした。……まず一言だけ言わせてください。――護衛、仕事しろ。
「美遊梨、本当にすまなかった」
「本当にごめんなさい」
「家族を巻き込むなんて、二人とも最低だと思う」
両親二人そろって頭を下げる姿は初めてみた。でも今回だけは当然の義務だ。私の身が本当に危なかったし、二度と二人を信じることができなくなってもおかしくなかった。プッチンが――一応お父さんも――助けてくれなかったらどうなっていたことか。
「慶悟にもちゃんと謝ってよ、二人とも」
あいつは私と違って能天気で説明を聞いてもよく分からなさそうだけど。
「で、プッチンはどうなるの?」
「おそらく組織で引き取ることになるわね」
騒動の火種は十分な成長と成果を齎したから回収する。なるほど。これで私達家族も狙われることはなくなる。安心安全万々歳だ。
「嫌だけど?」
「え?」
それで納得できるほど私は大人じゃない。勝手に巻き込んでおいて、勝手に縁を切ろうなんて何様のつもりだ。
「プッチンは私達が育てたんだから、今さら返してなんかやらない」
「そう……そうよね……」
最初は胡散臭い商材の中の仮初めの命だと思っていた。でも本当は錯覚だと思い込もうとする程に生きていると分かってしまった。だから、実際に実体を得て私を助けくれたときは本当に嬉しかった。あのときに分かってしまった思いを取り上げられるなんて、これ以上大人の事情に振り回されるなんて真っ平だ。
「美遊梨」
「なに?」
「組織に確認したら、引き取っていいって」
「えっと……適当過ぎない?」
本当に仕事を考えるべきなのはお母さんの方だと思う。
ノベコンお疲れさまでした!
感想を配信で喋らせていただきましたので、リンクを下に貼っておきます!
https://youtube.com/live/OXNtTQEYP4M
(23:30~感想になります)
やはり出オチだけじゃだめじゃったか……
これでも一応真面目に普通の女子高生とデジモンという未知の生命体との関わりという、何とかミーツ何とかって王道の話だろうと書いたんです。信じてください。
とはいえ真面目な話、素直にパワー負けしたんだろうなと。【ノはず】で投げたのを書いていても分からされた確信があります。なんにせよいい機会と企画だったなと思いました。