「「走れメロスよ、燃え盡きるまで」……なんつってな。まあメロスと違って休む暇は無いし、止まると死ぬのはセリヌンティウスじゃなくてお前だ」
そういう訳だから、がんばれよ。
俺が安全圏からかけたねぎらいを耳に入れたか入れなかったかまでは知らないが、少女は息を切らしながら、『迷路』の路地を懸命に駆けて行く。
ここは『迷路』の中でも特に道幅が狭く、複雑に入り組んだ区画ときている。
商いに使えるスペースがあるでも無し、平時であればわざわざ訪れる者も居ないようなこの場所に彼女が入り込んだのには、それはそれは深い訳が在って。
少女の背後。
デジモンの群れが、彼女の事を、一丸となって追っているのだ。
いや、群れというには、あまりにも節操のない有象無象か。
種族、世代、属性。どれもこれもがバラバラで、唯一奴らに共通点があるとすれば、「野生のデジモンである」その一点だけだろう。
そもそも『迷路』のデジモンは、そういう種族--例えば、ゴブリモンだとか――を除いては、基本的に集団で行動したりはしない。
しかし今この瞬間、実際問題として。デジモン達は、競い合うようにして1人の少女を追い立てている。
「はぁ、はぁ、はぁ」
少女は勢いよく角を曲がる。
直進にしか能の無い種が混ざっているためか。カーブのために減速した先頭集団を、すぐ後ろにつけたデジモンが突進で弾き飛ばす。
そんな風に、案外順位の入れ替わりは激しいものの、体格差のあるデジモンに踏み潰されるなりしてこの世から退場した哀れな連中を除いては、未だこの狂ったレースからの脱落者は居なかった。
10メートル近く転がって行った元先頭集団達も、彼らを突き飛ばした勢いをそのままに列を飛び出した直線馬鹿どもも、立ち上がるなり、立ち止まるなり。慌てて少女を追う列へと戻って行く。
細い道も、うねるような曲がり角も、今のところ少女の味方にはなっている。
だが、追手達はたとえ一時的に少女の姿が見えなくなろうともまるで意に介さない。
何かに導かれるようにして、次の瞬間には確実に彼女の背を捉え、後続も迷いなくそれに続くのだ。
そうなれば、少女の味方だった筈のこの区画の地形が、翻るようにして彼女に牙を剥くのも、時間の問題で。
そしてその瞬間は、呆気ないくらい唐突に、彼女の前にそびえ立った。
「っ」
行き止まり。
後方以外を全て、薄い青色の光が走る壁に囲まれて。少女は足を止める他無くなってしまう。
何重もの獣の唸り声が、背後から押し寄せてきた。
今日、ただどこかですれ違っただけの彼女に、限りない憎しみを向けているかのように。
散々に嬲って殺してやると、その場の全てが、宣言しているかのように。
「……ふぅー……」
対して、少女は――深呼吸。
すっかり上がっていた息を無理やりに整えて、彼女は振り返るではなく、目の前の壁を睨む。
歩み寄った壁面には、自分の影が、落ちていた。
「それで?」
刹那、少女は背後に向けていた右の手の平に、袖から小さな赤いキーホルダー--『迷路』の探索者達が俗に「旧式」と呼ぶデバイスをすとんと落とす。
追手のデジモン達に向けられた液晶画面から、どす黒い瘴気が、噴き出した。
綿のように軽やかに舞い上がった瘴気--黒い蟲たちは、不愉快な羽音を迷路の路地いっぱいに響かせながら、今まさに少女に飛び掛かろうとしていたデジモン達に纏わりつく。
羽音は瞬く間に、言葉を持たない獣達の悲鳴に塗り替わり、それもすぐに、みちみちぎりぎりと細かく肉を引き千切って喰らう音へと移ろって行った。
なんて事は無い。彼女はただ、壁という囲いを利用して、追手を一網打尽にしたかっただけなのだ。
誘い込まれたのは、連中の方である。
「『キルミー』だっけ? 馬鹿馬鹿しい。私、そんな事言ってないし、頼んで無い。だから、殺されるのは、食べられるのは、あんた達。……デリバリーご苦労様、ハンバーガー屋さん。死んで」
蟲に続いて顕現した、枯れ木で出来た巨大な竜のようなデジモンが、広げた翼で両脇の壁をなぎ倒しつつ、地面を蹴る。
少女を跨ぎ、彼女の前方にそびえ立つ壁を、杭のように鋭い牙が狙う。
彼女の影を穿つようにして、牙を突き立てる必殺技『ドライアドスティンガー』を放つそのデジモンは、完全体の植物型デジモン・エントモン。
少女--イザサキ リンドウの、パートナーだ。
「んふふ。大きくなったね、リンドウちゃん」
対して。
崩れた壁の先で、リンドウから分離するように逃げてきた黒い影を自分の元に迎え入れながら、この展開を待ち構えていたようにも見える、男にも女にも見える均衡のとれた身体つきをした人物--通称『レンタルビデオ』ことネガが、艶やかな唇を弓なりに歪めた。
「気色悪いから、名前、呼ばないでくれる?」
「んふふ。雰囲気に、それからパートナーデジモンまで。ストゥーさんそっくりだ。酸いも、甘いも。お父さんと同じように、『迷路』でのいろんなコトを、たーっくさん。経験、してきたんだねぇ」
「……」
「これで顔も似ていたら、ボク、本気で好きになってしまうところだったかも」
「うん、やっぱり殺すわ」
エントモンが通過した事により頭に、身体に被ったカビの胞子を手で払いながら、リンドウは、一言。
彼女の父--と、いう事になっている――先代絵本屋、ゲイリー・ストゥーがネガと対峙した時とは違って、リンドウにはネガに加減をする理由が無い。
デジモンを惹き寄せ、取りついた相手を襲わせる必殺技『キルミー』に誘われたデジモン達の群れをあらかた食い殺したエントモンの蟲達は、リンドウからの合図に、今度は主を襲った諸悪の根源・シェイドモンとそのパートナーを断たんと、一斉に彼らの方へと引き返して来た。
蟲で出来た、黒い雲が走る。
エントモンのもう1つの必殺技『ブラステッドディザスター』がネガ達へと迫った。
の、だが
「悪いね。『レンタルビデオ』と兼業とはいえ、飲食業だから。黒い蟲はNGなんだ」
ネガの取り出したデバイスが、画面から光を放つ。
次の瞬間、ネガを庇うように前に出ていたシェイドモンの上に、女性用の着物のように雅な布で装飾された、1本の刀が現れる。
刀はゆっくりとシェイドモンの元へと降り立ち、シェイドモンもまた宙へと立ち上り、影を刀に纏わりつかせ、ついには呑み込んだ。
そうして気付けば、影は美しい女性の姿を成して、頭上に深い緑色の円冠を戴いていた。
真の「最初の女」にして、悪霊達の母の似姿。
本来性別という概念の無いデジモンにさえ、甘美な悪徳を授ける妖婦--『色欲』の魔王・リリスモンが『迷路』に顕現する。
その間にも1人と1体の眼前へと迫っていた蟲達に向けて、まるで誘うかのようにリリスモンが手を伸ばす。
だが実際に虫達に差し出されたのは、彼女の細腕では無く、魔性の手。
五指それぞれが鳥と獣を混ぜたような化け物の頭で構成された、それ以外は影と目玉--奇しくも、シェイドモンに似ている――で出来た腕が、向かって来た黒い蟲を包み込み一気に握り潰した。
『エンプレス・エンブレイズ』
デジモンですら無い怪物を召喚する、リリスモンの必殺技だ。
「こりゃあイイ。これで俺達の望みはまたひとつ、空虚な妄想から美しい信実に近付いたという訳だ。暴君のように厚い面を赤らめて、お前らの仲間に入れろと処刑台に躍り出たい気分だよ」
エントモンに破壊され、降り積もった壁の破片の上に腰かけて。その場にいる全員によーく聞こえるよう、俺はげらげらと笑い声をあげて見せる。
途端、リンドウに向けていた物とは正反対、冷ややかな眼差しがネガから俺へと向けられた。
「ストゥーさんの身体を、声を。あなたごときが使わないでくれないかな」
「はっ。今度は「外見だけのストゥーさんには興味ないんですゥ」ってか? 王様万歳と諸手を挙げて、アイツのガワだけは守ってやった俺を讃えてくれても良いものを」
だが、まあ。と。俺はその場から立ち上がり、以前のゲイリー・ストゥーとの唯一の相違点たる眼帯を捲り上げて、指を突っ込む。
そうして、目玉を1つ、取り出した。
「真剣勝負に水を挿すのは本位じゃねェ。この肉体がお前らの心を掻き乱すと言うのなら、俺は姿を見られた機織り名人の鶴女房のように、名残惜しみつつ飛び去るとするさ」
「……『それ』にも手出し、させないでよ」
「もちろんさリンドウ。俺は悪魔だからな。お伽噺の軽薄な男どもと違って、約束「だけ」は、守るんだ」
目玉--切り離したクラモンをその場に浮かべて、俺の方も中身をピーターモンに進化させてその場を飛び立つ。
中年の身に永遠の少年の真似事は色んな意味でキツかろうが、移動だけならこの形態が一番手間がかからない。
適当な壁の上に降り立ち、腰を下ろして、目を閉じる。
そのまま視覚・聴覚情報を、残してきたクラモンへと切り替えた。
向こうにピントが合うなり、目に飛び込んで来たのはさめざめと涙を流すネガの姿。
相対するリンドウは白けた視線を向けているが、まるで気にしていない風だった。
「ああ。ストゥーさん、可哀想なストゥーさん……どうしてボクを置いてイッちゃったの?」
「知らない」
そんなの、私が聞きたかった。
そう、リンドウの唇が動いた気がする。
ただ、あくまで気がするだけだ。少なくともネガには聞こえなかったか、聞こえていても、無視したか。
途端に表情を改めて、ネガは端正なツラでリリスモン越しにリンドウへと微笑みかける。
「だけど、嗚呼。やっぱりストゥーさんの言う事は正しかった。本当に素敵なレディに成長したね、リンドウちゃん。ストゥーさんの言いつけを守って、あの時手を出さなくて本当に良かったよ」
ネガの唇を、赤い舌が這う。
「あの頃よりずっと、美味しそうだ」
「きっしょ。死ね」
短く適切な罵倒を合図に、リンドウのパートナーもまた、動き出す。
エントモンから噴き出した蟲達は、彼女達が喋っている間に、こちらは男性の人型を創り上げ、手形の怪物の元へと駆けつけていて。
ベルゼブモン。
気高き豊穣神から追い堕とされてなお、糞山にたかる蝿共に崇め奉られる暴食の魔王だ。
ベルゼブモンはブーツのホルダーから愛用のショットガン『ベレンヘーナ』2丁を抜くと、『エンプレス・エンブレイズ』によって呼び出された怪物へと高速で銃弾を浴びせかける。
点の攻撃にしかならない筈の銃弾は瞬く間にその連射性能故に面の攻撃となり、手の怪物に細やかな抵抗さえ許さないまま蜂の巣へと変えてしまう。
「んふふ、そうこなくっちゃ」
飛び散った黒い粒子を、まるでカーテンか何かのように掻き分けて。
蝿の王の前に、悪霊達の女王が舞い降りる。
こうして、同じ舞台に役者が並んだ。
幕を上げる演目は舞踏。愉快な円舞曲は、どちらかが死ぬまで止まらない。
「やって、ベルゼブモン」
「がんばってね、リリスモン」
魔王の主人たちはそれぞれ対照的な表情を浮かべて、彼らを戦場に送り出した。
先に動いたのはリリスモン。
彼女は口元に左手を添えると、ふぅ、と艶やかに息を吹きかける。
吐息は瞬く間にどす黒い渦に代わり、大口を開けてベルゼブモンを取り込もうと迫る。
相手のデータを末端から破壊していく、暗黒の息吹『ファントムペイン』。
属性上、他の種族が受けるよりか効果が出るまでに時間がかかるだろうが、それでも真正面から喰らって良い技では無い。
一直線にリリスモンに向かっていた足で素早くブレーキをかけると、ベルゼブモンはさっと身を翻す。
そうして身体を捻りつつ、構えた『ベレンヘーナ』の引き金を1発ずつ引くベルゼブモン。
銃弾は『ファントムペイン』に蝕まれるよりも早く、彼女の胸元を狙って突き進む。が――
「ちっ」
肉を貫く音の代わりに響くのは、リンドウの舌打ち。
リリスモンが軽く指を振るうなり、彼女の前に頭冠と同じ色の魔法陣が浮かび上がり、銃弾を弾いてしまったのだ。
必殺技名すらない、魔王が故に行使を許された『魔術』の類。
お返しだ、と言わんばかりに、今度はその魔法陣から、闇色の閃光がベルゼブモンへと降り注いだ。
始まるのは、片や銃、片や魔術を用いた早撃ち合戦。
無限に続く弾幕同士の殴り合いは、轟音と共に『迷路』の空間を黒く染め上げて行く。
「んふふ。いいね、激しくて。とても力強くて、暴力的だ」
そんな中でも、ネガの声は良く響く。
仮にも映像作品を趣味で作っているからか、声の出し方響かせ方まで計算づくなのだろう。彼の声音は、小気味良い鈴のようだった。
「でも、それだけじゃボクのリリスモンには勝てないよ。お父さんならどうしたか、もっと、よーく考えてごらん?」
そうしてくれなきゃ、調理のし甲斐が無いじゃない。
ネガは微笑む。リンドウが再現できる精一杯の『オトウサン』ごと彼女を捻り潰した画は、彼の中でさぞかし美しく煌めいている事だろう。
「……」
ゲイリーの思考回路と知識を用いて、戦況を予測する。
『迷路』における人間を交えたデジモン同士の戦闘とは、「出来る事が多い奴が有利」というのが奴の持論だ。
俺の成長期をマッシュモンになるよう調整しだした時は奴の正気を疑ったが、それも今となっては懐かしい。
あいつはどこまでも愚かで憐れな男だったが、デジモンの能力の応用に関しては、このオレサマでさえ素直に舌を巻く程で。
で、そんなゲイリーの灰色の脳みそは、性能面ではリリスモンの方が優勢だと判断する。
中・近距離に対応した必殺技。攻防どちらにも秀でた魔術。魔獣を使役する術。
一撃の威力はベルゼブモンに軍配が上がるだろうが、あの男はその類のステータスはあまり重視しない。どちらにせよ、究極体の必殺技など、大概、当たれば相手は死ぬのだ。
故にこそ、この程度の性能差。
ひっくり返してもらわねばならない。
「お前の『父親』はもっと強いぞ、リンドウ」
だから、同列の魔王ごとき。1人で殺してもらわねば。
俺達の復讐譚は、何も、始まらないのだ。
「五月蝿い」
状況からして耳障りだったのはネガの台詞回しだろうが、俺の内心を読んだのかと思う程のタイミングだった。
リンドウは顔を上げ、前方をねめつける。ネガを、というより、戦況そのものを。
彼女は、旧式デバイスをぎゅっと握り締めた。
多くの『迷路』の探索者と違って『選ばれし子供』であるリンドウには、デバイスのコマンド機能を使わずにパートナーに指示を伝えられる強みがある。
ベルゼブモンの目つきが変わった。
悪趣味なビデオ屋の意表を突く策は、彼女の中で、整ったのだろう。
地面が、陥没する。
体躯こそ縮んだ訳だが、エントモンの時以上の脚力を以って、蝿の王はその場を蹴った。
攻撃魔術がベルゼブモンの身を掠め、焼き、裂く。
その間に、リリスモンは魔法陣を消し、再び手の平を唇に添えた。
「まさか、負傷覚悟での特攻?」
ネガがわざとらしく首を傾ける。
吹き出された『ファントムペイン』ごとリリスモンを切り伏せようと、ベルゼブモンは腕を振り被る。
下手な刃物よりも鋭い鉤爪による、斬撃の必殺技――『ダークネスクロウ』。
振り下ろす勢いに乗って巻き起こった風圧は『ファントムペイン』を吹き飛ばし、鉤爪は色欲の魔王の肩口を抉った。
「じゃ、ないよね?」
抉りはした。
ベルゼブモンの爪は赤く濡れ、腕はリリスモンの胸元付近にまで沈み込んでいる。
だが、今更負傷を顧みないのは、リリスモンも同じ。
そんな事は、俺達とネガが一度共闘した時から、解っていた事だ。
リリスモンは、ベルゼブモンにわざと攻撃を当てさせる事でその腕を捕らえ。
己もまた、真っ直ぐに右腕を突き出していた。
右腕--『ナザルネイル』。
美女が腕からぶら下げるには余りにも物騒な異形の腕は、しかしベルゼブモンと違ってその爪の鋭さばかりを強みにしている訳では無い。
咄嗟に、『ダークネスクロウ』を繰り出していない方の腕で『ナザルネイル』を逸らしたベルゼブモンだったが――爪の先を、掠めたらしい。
リリスモンの方と違って傷口は浅い。しかしその小さな裂け目から噴き出したのは、血液データでは無く、毒々しい色の泡の塊。
ベルゼブモンがぎょっと顔をしかめた。
おそらく、凄まじい匂いがしたのだろう。
『ナザルネイル』は、触れたものを全て、腐らせる。
リリスモンの右手が折り返し、今度はベルゼブモンのデジコアを狙う。
当たれば助かる見込みは無い。ベルゼブモンはその場から飛び退きながら、傷口周辺をも蝕み始めた左腕を、握り締めた『ベレンヘーナ』ごと『ダークネスクロウ』で切り落とした。
落ちた腕は弾む事無く、ぐしゃりとその場で潰れて液状になった肉を撒き散らかす。
ネガは、その様子をしげしげと眺めて――やがて、困惑したように眉をひそめた。
「もしかして、「そのつもり」だった?」
「……」
「だとしたら、がっかりしちゃったな。ストゥーさんもマンモンには優しくしないようにしてたみたいだけど、でも、無謀な事はさせてなかったでしょう?」
最期を除いて、ね。と。少しだけ意地の悪い調子でネガは付け加えた。
リンドウは、黙っている。不快そうな光を瞳に宿したままではあるが。
一方、片や腕を吹き飛ばし、片や肩口の裂けた魔王達は、しかしお互い微塵にも己の負傷に目を向ける事無く、目の前の獲物へと右腕を突き出す。
同じ轍は踏むまいと、ベルゼブモンは腕が消し飛んで出来た分の空間まで利用して、なるべく余裕を持って『ナザルネイル』を回避する。
そのまま今度は、振り下ろしでは無く、貫手という形態を以って。ベルゼブモンは僅かながら隙の出来たリリスモンのデジコアに直接狙いをつけ--
しかしベルゼブモンの爪が色欲の魔王の豊満な胸部を貫く寸前、彼の身体がぐん、と傾いた。
子猫の戯れのようなひっかき傷だけを残して、ベルゼブモンは前のめりに倒れながら、後ろへと引き摺られて行く。
『ナザルネイル』の脅威を前に、そしてその「手」に関しては当初呆気なく対処出来てしまったが故に、完全に失念していたのだろう。
リリスモンの使える「手」は、腐敗の右手だけではないと。
「--ッ」
再びの『エンプレス・エンブレイズ』。
蘇った異形の不死鳥は恨みがまし気にベルゼブモンを睨みつけた後、5つの頭同士で奪い合うようにして、捕らえた蝿の王の両足を啄み、噛み千切った。
魔王の矜持か、蟲故に知らないのか。ベルゼブモンが、悲鳴を上げる事は無かった。
だが額からは脂汗が伝い、食いしばった歯の隙間から洩れる息はひどく荒い。
それでも--まだ、右手の爪が残っている、と。
左腕の肘から上で身体を持ち上げて、歩み寄って来るリリスモンに向けて、右手を振り上げようとして、
リリスモンはスキップでもするように飛び跳ねると、ベルゼブモンの右腕に着地して、その腕を圧し折った。
「……お疲れ様、リリスモン」
失望交じりの息を軽く吐き出した後、しかしすぐにネガは表情を取り繕って、笑顔でパートナーへとねぎらいの言葉をかける。
手のひらで自分の傷口を押さえつけていたリリスモンは、しかし無事役目を全う出来たと知ると、そこだけはバーガモンの時と大差の無い、無邪気な笑みを浮かべてネガへと大きく手を振った。
「右腕も引き千切っておいてくれる? その方が、だるまさんみたいで可愛いからね」
指示さえあれば、行動は早かった。
リリスモンは喜々として、ベルゼブモンに乗せた足を重し代わりにしたまま、彼の腕を自分の方へと引き寄せる。
ぶちぶちと、まあ、音だけは、小気味の良いくらいだった。
「さて、と」
ネガが、リンドウへと向き直る。
しばらくの間、彼の眼差しは冷え込んでいたものの--やがて、ふっ、と。ネガはその表情を綻ばせた。
「……うん。やっぱりじっくり見ると、本当に顔が良い。ストゥーさんに似てないのは残念だけれど、君には君の良さがある」
特に、この期に及んですまし顔なのは、本当に素敵だね。と。
もはや脅威など一かけらも感じていないのだろう。
アホみたいに細いピンヒールの先を支点に、半ば踊るようにして。ネガはリンドウへと距離を詰めて行く。
軽い足取りは景気の良いミュージカルを彷彿とさせたが、生憎このレンタルビデオ屋が好む歌声は悲鳴の類。パッケージにナイフを構えた左手のコンテンツアイコンがついたミュージックビデオなど、やっすいショーパブでもお断りだろう。
「一緒に遊ぼう、リンドウちゃん」
「きっしょ。死ね」
なので、リンドウの返事は何も変わらなかった。
何一つ、変わっていないのだ。
ネガに対する軽蔑も――そして、彼の敗北を願う、その意思も。
「え?」
ぱあん、ぱあん。と。
響いた銃声は、2発。
ネガが振り返ったのと、彼とリンドウの間に境界を拵えるかのような位置に金色の腕が飛び込んで来たのは、ほとんど同時の出来事だった。
右腕の、肘から先。
胸の中央。
もはや魔弾でなくとも外しようなど無い位置だ。
暴食の魔王の凶弾は、にこにこと自身を見下ろしていたリリスモンの急所へと、寸分の狂いも無く喰らいついていて。
「なん、で――」
パートナー同士、浮かべている表情はひどく似通ったものだった。
信じられない、と。
何故、こうなったのか、と。
答えは、すぐに。
主が撃ち抜かれ、倒れ伏した際に魔力の供給まで途絶えたのか。全身を硬直させた怪鳥を、主と同じように処理する『ベレンヘーナ』の所在によって、詳らかにされる。
ベルゼブモンは黒紫色の腐った汚泥に塗れた銃に自身の尾を巻き付け、その先端で、引き金を引いていたのである。
リリスモンと、ネガ。その両方の目を盗んで、銀の尾で回収した『ベレンヘーナ』の引き金を。
「……ッ!」
それでもなお、その場からは動けないベルゼブモンを仕留めようと、リリスモンは『ファントムペイン』を吹き出そうとして――しかし、ごぼり、と。血液データばかりを、吐き出した。
心なしか、咳き込む音さえ、弱々しい。
デジコアが破損したのだ。
まだ形を保っている事の方が、おかしいのである。
「……お父さんが」
黙ってその様子を眺めていたリンドウが、ふと目を細めて、口を開く。
「簡単に、だけど。自分のデバイスにあなたの対策を残してた」
「ストゥーさんが?」
「メインはシェイドモンについて。結局使わなかったけれど、『フリーデスフォール』回避用の『絵本』も用意してあった。……それを纏めたファイルの隅に、「過度な猟奇趣味。負傷し続ければ気を引けるか?」って。走り書きをね」
それは、ネガと共闘した日の帰り道。
アイツがハンバーガーを喰っている俺の傍らで、デバイスに纏めていたものだ。
油断など、最初から期待していなかった。
ネガの目を逸らす方法があるとすれば、それは彼の「好みの光景」ただ1つ。
パートナーの四肢を引き千切られた少女が、敗北を前に一体どんな表情を見せるか。
怯えるにせよ、気丈に振る舞うにせよ。ネガ基準での「美しい姿」を、彼が一瞬たりとも見逃せるワケが無い。
そしてデジモンの無力化に成功した場合、デジモンを回復する手段を持つかもしれないテイマーへと警戒が向くのは当然の流れ。
リリスモンが職務に忠実であったからこそ、ほんの僅かといえども、ベルゼブモンへの警戒は手薄になったのだ。
「だから、最初から片腕は捨てさせるつもりだった。……片腕だけで済むと思ったんだけど、そこは、私の想定が甘かった」
勝者の種明かしに、しかし勝利の余韻は感じられない。
きっと、未だに抵抗を試みてもがくリリスモンに、どこぞで野垂れ死んだ間抜けを重ねてセンチメンタルに浸っているのだろう。
「良かったね、『レンタルビデオ』」
感傷を冷ややかな眼差しで覆い隠して、リンドウは真っ直ぐにネガを見据える。
「あなた、結局お父さんに負けたんだから」
「……んふふ」
ネガは、満足そうに微笑んだ。
「嬉しいな。ストゥーさんが、死ぬ少し前に、ボクの事を考えてくれていただなんて」
本当に、光栄だよ、と。
ネガの表情は、いっそ眩しく感じる程で。
……アイツはネガの事を「女の趣味が悪い」と評していたが、オレサマに言わせれば、男の趣味の方が格別に悪いとしか思えない。
あんな男の、どこが良かったんだ。
等、考えつつ。
俺はクラモンに任せていた、リンドウとネガの戦闘の場へと舞い戻った。
「もういいよ、リリス――いや、バーガモン。よく、頑張ってくれたね」
クラモンを回収する俺をまるで無視しながら、ネガは自分とリンドウを隔てるように落ちている、リリスモンの腕を拾い上げた。
本体を離れてもその毒性が失われる訳では無い。自分やベルゼブモンに投げつけてきやしないかとリンドウは身構えていたが――
「え?」
――ネガは『ナザルネイル』を、自分の頬に添えた。
いよいよ意識を朦朧とさせていたと見えるリリスモンが、カッと目を見開いた。
ぱくぱくと、言葉を発する事の無い口を動かし始める。まるで、ネガを引き留めようとしているかのように。
対照的に、ネガはリリスモンへと、子供をあやすような穏やかな笑みを向けながら、視線だけをリンドウに、続けて俺の方へと流す。
「んふふ。君達には、殺されてあげないんだ」
そして最後には、やはり、ネガの瞳は、パートナーへと。
「愛してるよ、バーガモン」
そう言い残すと、ネガは『ナザルネイル』の人差し指に、自分の指を絡めて強く押した。
途端、彼の滑らかな頬に小さな穴が空く。
次の瞬間にはごぼごぼと嫌な音を立てて、あれだけ端正なつくりをしていたネガの顔が蝋燭のように溶け落ちて、すぐに均衡のとれた肉体も同じ末路を辿って行った。
後には腐汁塗れになった身体のラインをはっきりとさせない衣装とピンヒールの靴が残され、靴は自分の細さに耐え切れずに倒れて、べちゃりと持ち主だった液体に波紋を立てる。
「ア--アア――」
搾りかすみたいな女の声に、何事かと顔を上げると――リリスモンが、ネガのなれの果てを見つめながら、滂沱の涙を流していて。
縋りつくように左手を伸ばすが、当然のように、届く事は無い。
哀れなものだ。
選ばれし子供のパートナーでもないのに。
「……ま、ニンゲンの方の末路なんて、どうでもいいさ」
ネガの溶けた肉の中から『ナザルネイル』を拾い上げ、爪の先には気を付けつつ、ゲイリーの姿のまま咀嚼する。
正直クソみたいにくっせぇが、珍味とでも思えば、まあ、喰えなくは無い。
空いている手で、眼帯を外す。流石に本体を出すとなると、一々自分で取り出すのは面倒なので。
「だがオレサマ、結構お前の事好きだからな。慰めてやるよ、お疲れさん。サイコーだったよ、お前らのハンバーガーとかいう食べ物。寂しくなるぜ、もう2度と喰えないと思うとな」
だから、と。
ゲイリーの肉体の隣に、眼窩から零したクラモン共で構築したもう1体の俺--ディアボロモンを、顕現させる。
ディアボロモンに、横たわるリリスモンの右足を引き千切らせて、ベルゼブモンの方へと投げさせた。
こいつはベルゼブモンの分け前だ。除けておかないと、全部喰っちまいそうだったからな。
『選ばれし子供』のパートナーだ。退化によるデータの再編成で、あらかたの傷は治せるだろうが、四肢を全部やられたとなると、多少はデータを補う必要もあるだろう。……ったく。
……リリスモンは、もはや何の反応も示さない。
ただ、うつろな眼から零れた水で、『迷路』の床を濡らしているばかりだ。
最後の最後は、面白みのない奴だったな。
だが、『レンタルビデオ』の末路と思えば、まあそんなもんだろうと思わなくも無く。
「せめて、お前の事は、残さず美味しく、食べてやるよ」
食事中も、リンドウはじっと、ネガだった汚泥を眺めていた。
途中、えづくような声が聞こえたような気がしたが、聞かなかったことに、してやった。
*
とまあ、そんな感じで。
リンドウは実質の初陣で勝利を飾り、オレサマは喰うべき獲物、その3つ目を腹の中に納めた。
こうして俺達の復讐譚は、幸先よく、華々しく、幕を上げる。
演目は、お伽噺。
いつの頃からか。少なくともこの肉体の持ち主が、最初に『迷路』の外に出るよりも前。
こんな歌をどこからか、いつだって誰かが囁いていたそうだ。
『迷路』のどこかに不思議な絵本を売る店があって、『迷路』に迷った可哀想な輩を、どこの誰だろうと助けてくれるのだ、と。
それは所詮、どこかの誰か。もっと言うなら捨てて置かれた哀れなガキが夢見た、お伽噺にもなれない与太話だった。
誰も彼もが夢見る程度には、希望と諦めに満ちた噂話だった。
なのでそんな最低のお伽噺は、あの男の代でお終いとしよう。
誰も助からない。
誰も救われない。
ただ俺と『俺』の娘だけが望む結末を、いずれ迎えるまでの物語。
「リンドウ。オレサマの『メアリー・スー」」
『色欲』を手に入れた俺は、奴の真似をして唇の端を艶っぽく持ち上げる。
「最悪のお伽噺を、始めようぜ」
「何よ、今更」
ゲイリーの顔では流石にサマにはならなかったか。
リンドウは、デバイスを介してパートナーを治療する手を一度止めてあげた顔を、あからさまにしかめている。
「当たり前でしょう」
彼女は、吐き捨てるように、呟いた。
10月になったら血の雨を降らせてもいいのか!? 夏P(ナッピー)です。
第1部の方で生き残ったネガ屋はもう最後のあの台詞を吐く為に第2部最初の敵になったに違いない。負けた強敵が最後にできることは、貴様にこの命はやれんすることだからな……バーガモンの究極体はリリスモンでしたか、地味に豊満な胸部とか強調してきて噴いてたが戦闘自体はエグかった。腕の斬り合い飛ばし合い、誰が本当に血沸き肉躍らせろと言った。モルフォモンの完全体はトロピアモンを期待してたらエントモンだったぜ。無念!
新ゲイリー、ちょうどもんざえモンみたいな感じで大量のクラモンが集まってゲイリー皮を動かしてる感じか。伊織ィ! ハーモニカを噴くんだ! それはそうと俺の『メアリー・スー』の宣言、まさに第2部始まったって感じ! 絶対こっから血まみれの歴史が始まる!
それではこの辺で感想とさせて頂きます。
あとがき
『Everyone wept for Mary』第2部、開・幕!!
いえーい、どんどんぱふぱふ……と、盛り上がるにはいささかな話に仕上がった気がしますが、いかがでしたでしょうか。「9月に出す話ではひとはしにません!(※大嘘)」とTwitterで呟いていたのですが、10月になったので、こんな感じでがんばっていこうと思う次第です。
と、いうわけで、この度は『Everyone wept for Mary』第2部の1話となる第8話をお読みいただき、まことにありがとうございます。このあとがきを書きながら「じゅう……がつ……?」と怯えている快晴です。じゅう……がつ……?
さて、2部の最初のお話という事で、さっそくリンドウちゃんとネガくんちゃんをぶつけてみたのですが、いかがでしたでしょうか。
前回のあとがきで述べた通り、2部からは一応、究極体同士のどんぱちがメインです。いや……正面からほぼ同じ力量の者同士が戦うシーン、ぶっちゃけ書きにくいですね……??
1部では登場し損ねたリンドウちゃんのモルフォモンの完全体は、エントモン。ネガくんちゃんのバーガモンの究極体はリリスモンでした。2体ともけっこうルートが気に入っているので、快晴はご満悦です。
ちなみに新・ゲイリーは、まあ言ってしまえば人型のアーマゲモンといった状態ですね。ガワだけゲイリーで、中身はクラモン達が動かしています。ガワを被った状態でデジモンの力を使ったり、取り出したクラモンの方を進化させて戦わせたり、単純にちょっとした増殖も使えるようになっているので、1部の時よりも大分強化されていたり。
そんなゲイリーやリンドウちゃんでも一筋縄では行かない相手が今度どんどん登場し、多分あっさり退場していくので、この先もよろしければ、お付き合い頂ければと思う次第です。
改めまして、『Everyone wept for Mary』第8話をお読みいただき、本当にありがとうございました。
次回のお話でもお会いできることを、作者として切に願うばかりです。