「閣下は『マリオネット芝居について』というエッセイを御存知でしょうか」
女は出された酒には手を付けず、そう問いかけるなり微笑んだ――微笑んだと見えるよう、軽く顔の向きを調整した。
プラチナブロンドの長い髪に青い瞳。男を惑わせる魔性の女の装束と聞けば、大概の人間が思い浮かべるような(そういった意味ではありふれたものではある)扇情的なデザインのドレス。そしてその衣装があまりにもよく似合う身体つき。全てが計算ずくかのように、誠に美しい女である。
そして、事実。女の美しさは計算そのものでしかない。
「ああ、知っているとも」
女とは逆に酒を一気にあおってから、閣下と呼ばれたその男はニッと金の歯を彼女に見せつける。
「女と心中するような男が書いた話だ」
笑顔とは、そも威嚇の表情であったと。そう本能的に相手に悟らせる笑みであった。
「お互いつまらない存在になったものだな、エドガー。私達はもはや人形ではない。人形は哲学書など読まないし」
「お酒に忘却を求めない」
エドガー、と。男の名で呼ばれた女は、卓上のグラスをその細い指で軽く小突く。
傾いたグラスを受け止めるにはテーブルが狭すぎた。グラスは宙に投げ出され、琥珀色の液体を撒き散らしながら、ただ、重力のみに従う。
ガラスの割れる音は、大層に涼やかで。
「そして、重力にさえ囚われない。か」
男は気を悪くするでもなく、次の酒を自分のグラスに注ぐ。
男の最後の言葉は、先にエドガーが挙げた『マリオネット芝居について』から着想を得てのものだ。
かのエッセイは人形劇の指南書では無い。人形と、そしてもう一つの存在のみが到達しうる『究極の優美さ』について、2人の男が議論する物語である。
「「優美とは、無意識か無限の意識を持つヒトの肉体、すなわち人形か神かに、同時に最も純粋な形で現れる」」
「我々はもはや人形では無い」
エドガーの引用に、男が同じ言葉を繰り返す。女のうつむき加減の顔が、陰影を笑みのように浮かび上がらせた。
「優美な『者』ではありたい。しかし、優美な『物』に戻りたくは無い」
「そのためには、どうすればいいと劇作家先生は仰っていたのかな?」
「我々にとっての『知恵の実』を、再び」
「それじゃあ、そろそろ世界史を終わらせようか」
男はもう、笑ってなどいなかった。
バイザーで隠した瞳は、既にここより遥か先を――己の勝利を、見据えている。
「早い者勝ちだぞエドガー……いいや、『糸切鋏』ども。どちらが勝っても、恨みっこはなしだ」
「まあ。小生は恨みますよ、閣下。鴉は自分の獲物を横取りした者を、いつまでもいつまでも忘れませんので」
「その時は、忘れさせてあげよう。だが今宵限りはただ友として、ともに乾杯しようじゃないか」
男の部下が、新たなグラスをエドガーの前に置く。男はそこに、またなみなみと新たな酒を注いだ。
「それでは、『糸切鋏』の偉大なる幹部、我が友エドガーの更なる躍進を願い」
「閣下のさらなるご活躍を願い」
私の
「そしてまだ見ぬ 『あかいいし』に、乾杯』
小生の
男とエドガーはグラスを掲げ合い
片や中身を飲み干して、片や口をつけすらもしなかった。
エリクシル・レッド
「たっだいまー!!」
少年は玄関に靴を脱ぎ捨て、階段を駆け上がり、自室にスマホだけを抜き出したランドセルを投げ入れると、踵を返して元来た道を駆け下り、家を飛び出した。
「ちょっとユウキ! 宿題は!」
「後で後で! 急がなきゃ無くなっちゃうよ!」
「無くなっちゃうって、何が!?」
母親の制止も問いも振り切って、ユウキと呼ばれた少年は風にでもなったつもりで通学路を駆けていく。
「コンニチハ」
「よう、さっきぶり! またな!」
道行く人々に律儀に挨拶を繰り返す交番前のマシーン型デジモン・ガードロモンにだけは軽く挨拶を返して、しかし少年が足を止める事は無かった。
目的地まで、あと少しだと。
彼は体育の授業が得意な方では無かったが、今この時ばかりは、弾む胸が少年を走らせ続けているのだった。
20××年。インターネットの『中』に独立した世界と、そこに住まう生命体デジタルモンスター――通称デジモンが確認されてから、数十年もの時が流れた。
外部からデジモン達の世界『デジタルワールド』に干渉し、終にデジモンを実体化させる手段を確立した技師たち――彼らは『調律者(チューナー)』を名乗った――は、デジモンの中から機械の性質、即ち「自分の意思」を持たない者達を現実の世界へと持ち帰り、使役し始めたのである。
産業、福祉、時には軍事。デジモンは様々な方面で活用され、その有用性が示される毎に、当初は噴出していたありとあらゆる非難の声も、鳴りを潜めて行くようになった。
当時の子供達の夢見た近未来作品の世界は瞬く間に現実のものとなり、そうして、現代に至ったのだ。
そして今、この瞬間。
目的の場所……通学路から少しだけ逸れた路地裏にあるジャンクショップの前で息を整えている少年の名は、田中勇気(タナカ ユウキ)。
平凡な己の名を嫌がって、周囲には『タキ』と呼ばせている彼もまた、生まれた時からデジモンに慣れ親しみ育ったごくごく一般的な小学5年生であり
デジモンの調律者を夢見る、ありふれた子供である。
「こんにちは!」
タキが威勢良く挨拶と共に扉を開けると、しばらく遅れて店の奥からいかにも人の好さそうな中年男性が現れる。
「おや、タキくんいらっしゃい」
そうか、もう下校の時間かと、中年男性――この店の店主はカウンターの裏に回って椅子に腰かけた。
個人が趣味でやっている、今時珍しい手動で扉を開けなければならないこじんまりとした店は子供が好んで寄り付く様な場所では無いのだが、それがまるで秘密基地のようだと、タキはこの店が気に入っている。
そして店主もまた、朝夕に飛び交う学童の笑い声が気にならない程度には子供を好いていて、店に金を落とす筈も無い小さな客を無碍にしたりはしないのだった。
とはいえ今日は本当にお客さんだぞと、ちょっとばかり背伸びをしているような気分で、タキは高揚に頬を赤らめながら、店の外を指で指し示す。
「えっと、おじさん。アレ! アレちょうだい!」
「アレ?」
「店の外にあったアレだよ! なんていうの? ブロックの人形みたいなヤツ! 胸が赤色に塗ってあるさ」
ああ、と、店主が手の平を打つ。
店の前には今現在、白い、子供――ちょうど、タキと同じくらい――の大きさの、ブロックのキットについてくる人形のようなモノが鎮座しているのである。
人形には顔も、飾りも、何も無かったが、唯一、胸の中央にだけは、赤い塗料が乱雑に塗りたくられていて、だからタキが言っているのは、その人形の事で間違い無かった。
昨日までは、無かったモノだ。登校中路地を覗いたタキはその白い人形を見留め、下校時にもそこに在るのを確認して、他の誰かに取られやしないかとどぎまぎしながらも友人との下校というイベントだけはこなして急いで店へとやって来たのだ。
しかし興奮するタキとは対照的に、店主の表情は芳しく無い。
「どうしたの?」と流石に気付いたタキが問いかけると、店主は困ったように眉間にしわを寄せた。
「アレねぇ。実は、売りものじゃ無いんだよ」
「え?」
「ジャンクショップだからいいかと思った人がいたのかな。今朝店を開けたら置いてあったんだ。ええっと、どこに仕舞ったか……あったあった。こんな張り紙と一緒に、ね」
店主がいくつかの引き出しをまさぐって取り出した紙には「最も優美な者へ」と、赤い字でそんな言葉が書かれていて。
タキも思わず、首を傾げる。
「どういう意味?」
「さあ……。でもなんにせよ、気味が悪いだろう? だから、今度粗大ゴミの回収がある日に出そうと思ってね」
こっちは資源ゴミね、と、張り紙をひらひらと振る店主。タキは「ええ!?」と目を見開く。
「おじさん、アレ捨てちゃうの!?」
「そのつもりなんだけど」
「ダメだよ! 捨てるならオレにちょうだい?」
店主にとって、タキの台詞は予想通りのものだった。
とはいえ自分が要らないとは言っても、出所のわからない不気味な人形を子供に託すのは気が引けて。
しかしタキの方もタキの方で、人形の事は千載一遇のチャンスだと捉えており、故に必死さを隠そうともしていない。
両手を合わせて頭を下げながら、必死で店主へと訴えかける。
「お願いだよおじさん! おじさんにとってゴミだとしても、オレ、お金払うから! 足りないならシュッセバライでもいいからさ!」
食い下がるタキに、店主は思わず苦笑を漏らす。だがそれだけに留めて「難しい言葉を知ってるね」と、それはタキが言う台詞ではない等と指摘はしなかった。
趣味でやっている店だ。それだけに、店主はこんな時代に壊れかけた、あるいは壊れた中古品を選り好む物好き達が好きなのだ。
「わかったよ」
店主はカウンターを出て、膝を折って真っ直ぐに自分を見るタキと目を合わせる。
「じゃあ、500円にしておこう」
「やった! おじさん、ありがとう!」
本当に金銭を要求してみてもタキの意思が変わらないのを見て、店主はやれやれと肩を竦めつつも笑みを浮かべた。
タキはそれをスマホに入れたお小遣いで支払い、彼と共に店の外に出る。
短い両足を身体に対して直角に曲げその場に腰かけた人形が、まるで自分を待ち構えていたかのように、タキには思えた。
「タキくんだけで運べる?」
「ええっと……よっ、と」
意を決して持ち上げると、中が空洞なのか、人形は予想以上に軽く、タキでもどうにか持ち上げる事が出来た。
「うん、ダイジョブそう」
そうは言っても大きさ故に、家まで運ぶのは一苦労だというのは誰がどう見ても明白ではあったが、もはや人形の持ち主となったタキがそう宣言する以上、余計な手出しをするわけにはいかないなと店主は微笑む。
「気を付けて帰るんだよ!」と手を振る店主に「うん、ありがと!」と手を振り返す代わりに会釈して、タキは路地から通学路に抜けるための道を曲がる。
そして、店主が見えなくなって
通りの側にも人の気配が無い事を確認してから、タキは買ったばかりの人形をひび割れたアスファルトの上に下ろす。
「ええっと」
彼は再びスマホを取り出すと、何度も頭の中で繰り返した通りにそれを操作する。
ストレージの画面を開き、本来であれば専用のホログラムや、別端末から特定の情報を受け取るための機能を起動して、タキはスマホを、人形へと向けた。
その、刹那。
「!」
0と1で構築された白い光と共に、目の前の人形が、タキのスマホの中へと吸い込まれたのである。
しばらくの間、その様子に呆然としていたタキだったが
「……やった」
その表情は、徐々に満面の笑みへと、移り行く。
「やった、やったぁ!!」
スマホと一緒に、タキは両腕を天に掲げた。
少年の胸の内を閉める思いは、ただ1つ。
やっぱり、デジモンだったんだ、と。
「オレの、オレのデジモンだ……!」
一応人に聞かれてはならないとどうにか声を潜め、しかし笑みは堪えきれないまま、タキは両手で掴んだスマホに、今やドット絵で表示されている白い人形を見つめる。
人形の胸元には、今もなお、赤いペイントが残っていた。
「よろしくな、オメカモン」
それは、以前少年が、子供向けのデジモン図鑑で見たデジモン。
落書きや折り紙で飾られたデジモンが、もしもその装飾を落としたらこうなるだろうと、彼は人形を一目見た時から、そのデジモンの名を想起していたのだ。
……最も、タキにとってデジモンの種類自体は、そう重要な問題では無いのだが。
「今日からオレが、オマエの調律者だ!!」
彼の夢は、デジモンの調律者になる事だ。
それは子供達にとって比較的ありふれた夢であり
タキにとって、それは今、この瞬間。現実のものとなったのである。
*
と、思ったのだが。
「あっれ~? おかしいな……」
その日の夜。田中家の2階。タキの自室にて。
「何ニヤニヤしてるのよ」と母親にツッコまれたりしながら手早く食事を終えたタキは、意気揚々と部屋の中央にリアライズさせた人形に見よう見まねの調律(チューニング)を施したが――人形がオメカモンとして動き出す事は、無かったのだ。
まあ、当然と言えば至極当然である。
人はデジモンを手に入れただけで調律者になれる訳では無い。調律者『ごっこ』が出来るデジモン型の玩具やプログラミングゲーム自体はタキも何度も遊んでいるものの、その知識だけでデジモンが動き出すなら調律者なんて職業は必要無いし、そもそもデジモンがこんなにも普及する事は無かっただろう。
スマホの機能としてストレージからの出し入れくらいは出来たとしても、デジモンを操れる、というのは、それとはまったく異なるステージの話だ。
「ちぇ~」
手足を動かすどころか起動の指示さえ受け付けない人形を前に、ついに少年の本日分の情熱は冷めやってしまったらしい。
タキが期待していたのは、日常の劇的な変化だ。
小学生にしてデジモンを調律出来るヒーロー、といったような。有触れた、そして幼稚な万能感を欲していたに、他ならない。
しかしこの現状では、ただ散らかった部屋、あるいはスマホの容量をやたらと圧迫する胸の赤い人形が、小学生男児にしてはシュミの悪い置物としてタキの手元に増えただけに過ぎないのである。
「ま、いっか」
とはいえスマホに出し入れできる以上、デジモンには違いないと。その点においてはタキは楽観的であった。
「デジモンを入手しただけでは調律者になれない」だなんて、幼い彼はそもそも思いつきもしないのである。
代わりにタキの脳裏に浮かんでいたのは、1人のクラスメイト。
京山瑪瑙(キョウヤマ メノウ)。
難しい名前をきれいに漢字で書ける。それ以外に特に目立つところも無い、いかにも大人しそうな印象の、隣の席の女の子だ。
メノウはそういった、タキとは別の意味でよく居る子供であるが、彼女の祖父となると話は別だ。
京山幸助(キョウヤマ コウスケ)。高学年から始まった『れきし』の教科書にも名前の載っている、日本を代表する初期の調律者。メノウは、その孫なのである。
有名人の孫にしてはつまんない奴、というのが、タキを始めとした彼のクラス――5年2組の子供達のほとんどが抱いている彼女への感想だ。
だが、キョウヤマ コウスケは既に故人とはいえ、その孫のメノウなら、自分の知らない何か特別な調律の方法を知っているかもしれない、と。そう考えると、なんだか明日がとても素晴らしい日になるような予感が、タキの胸の内で膨らんでいくのだった。
「よし、明日にそなえて寝るかぁ」
結局大した事はしていないのだが、タキは大仕事を終えたかのように額を拭うような仕草を自分しかいない部屋で演じてから、オメカモンをスマホに入れて、ベッドへと潜り込む。
「おやすみ、オメカモン」
しばらくはあれやこれやと人形に対して想像を巡らせて冴えていた目も、夜の暗がりと流れる時間に誘われて、とろんと瞼を落としていく。
そうして、少年は夢を見た。
1匹の獣が、自分をじいっと、眺めていた。
「え?」
タキは思わず目を見開く。
それが夢の中の出来事では無く自分の目覚めであった事を知った刹那。
部屋の窓ガラスが、吹き飛んだ。
「!?」
幸いタオルケットを被っていたタキにガラス片が突き刺さる事は無かったが、静寂な夜の帳を引き裂いた轟音と、それを引き起こした鋭い爪の持ち主の異様な姿は、少年をすくみ上らせるのに十分だった。
タキの耳に、両親の悲鳴が届く。
ただ、その『音』の出所が何処なのかと軽いパニックに陥っているらしく、タキの状況には、彼らは未だ、気付いてはいない。
そして一言も発せないタキの耳が拾ったその『言葉』は、低く、静かであるのに、強く揺さぶるかのように、何よりも大きく彼の胸の内を支配していて。
「『あかいいし』を出せ」
それは、タキの目の前に佇む存在から発せられた言葉であった。
淀みなく
抑揚があり
……感情の籠った
おおよそ、デジモンから発せられる音声では無かったのだ。
「サイバードラモン……?」
強化ゴムの装甲を全身に纏った、竜人兵。
リアライズ状態で運用される事はほとんど無い、どちらかといえばインターネットのセキュリティに利用されるデジモンであると。タキがその外見から引き出した知識はそういったモノで、故に、こんな夜中に住宅街に現れるようなデジモンである筈も無く。
サイバードラモンは、語気を強めて繰り返す。
いよいよ機械(サイボーグ)らしからぬ仕草に混乱の極致へと達したタキの頭は
「し、知らないよ!」
咄嗟に、率直な感想を吐き出して。
「『あかいいし』って何? オレ、そんなの持ってなんか」
「そうか」
サイバードラモンの返事は簡潔であった。
彼は、ただ、窓を裂いた腕を、持ち上げていた。
タキに向けて。
「≪イレイズクロー≫」
サイバードラモンは、その腕を、振り下ろす。
タキはただ、その光景を呆然と見ている事しか出来ないでいた。
コンピューターウイルスをやっつける、逞しい手。それが自分に向けられていると、とてもとても、信じられなかったのだ。
タキは、平凡な少年であった。
デジモンを使役する行為に憧れながらも、簡素な姿をしたデジモン1体動かせない、ごくごく普通で、どこにでも居る、ありふれた1人の子供。
間違っても調律者では無く
そして、物語の主人公でも無かった。
この時までは。
「……え?」
回避どころか防御の姿勢を取ることすら出来ずに自分に爪を振り下ろすサイバードラモンを呆然と眺めていたタキには、サイバードラモンが自分から離れていく姿も、よく見えた。
理解出来なかったのは、その原因。
≪イレイズクロー≫を掻い潜り
タキとサイバードラモンの間に割り込んで
短い足でゴムの鎧を纏った竜人兵の胴を蹴り飛ばした、白い影が、何なのか。
あんなに焦がれた瞬間が、日常を蹴破ったというのに。
あまりに多くの事が起き過ぎて、頭が、追いつかなかったのだ。
「やあ。キミも、夜更かしさんなんだね」
白い影が振り返る。
だがそこに、顔は無い。そこに居るのは、月の光を浴びて、光沢のある白い金属がひと際輝いているのみの、あらゆる意味で簡素なブロック人形だ。
そしてソレにある色と言えば、胸の中央の、赤色くらいのもので。
「だったらボクたち、仲良くなれると思うよ」
なのに少年の声がするソレは、どこか笑っているようにも見えた。
と、
「う、グウ……!」
ふっ飛ばされたサイバードラモンが立ち上がる。
腹からはぼろぼろと、光る塵のようなものがいくつも零れ落ちていた。この人形から攻撃を受けた箇所である。
「『あかいいし』は、『あかいいし』は……!」
「うーん。それが何なのか、ボクにはさっぱりわからないのだけれど」
呻きながら飛び掛かってきたサイバードラモンをひょいと躱し、人形がその場から跳躍する。否、膝も足首も無い足だ。跳躍と言うよりは、床から噴射されたようにタキの目には移った。
「タキをいじめるなら」
人形は宙で半回転し、天井に着地する。
「容赦はしないよ」
彼は、再びその場から跳び出し、両の足をサイバードラモンへと向けた。
「≪オメカキック≫!!」
その体躯と、タキでも持ち上げる事が出来た軽い身体からは想像できない程の威力が叩きつけられたサイバードラモンは、肺の空気を全てぶちまけたかのような悲鳴を上げながら、元は窓であった壁の穴を転がり落ちていく。
1秒、2秒……と、いくら秒針が音を刻んでも、サイバードラモンが這い上がって来る事は無かった。
「……」
意識していなかったとはいえ、戦闘に特化したデジモンから発せられる圧から解放されたタキは、まだ回らない頭のままようやくベッドから降りて、恐る恐る、砕けた硝子を踏まないように気を付けながら、壊れた窓へと這い寄った。
頭を出して、庭を見下ろしても、そこにサイバードラモンの姿は既に無かった。
と、
「ユウキ!!」
母親の声が聞こえたと思った瞬間、タキはその母親に抱きしめられていた。
「かあちゃん?」
顔を上げると自室の扉は開け放たれていて、顔の見えない母親の背後には、青ざめたような、しかし同時にほっとしているかのような、何とも言えない表情の父親も彼を見下ろしていた。
「ユウキ、ユウキ……無事でよかった……!」
「い、痛いよかあちゃん」
「あっ、怪我、怪我してるの? 大丈夫? どうしよう。どこも変な感じのところは無い?」
ばっと我が子から離れて、彼女はタキの全身を触って確認する。自分の方がガラスを下敷きにして足を傷付けているだなんて思いもしていない風だ。
「オレは」
「大丈夫だよ」
戸惑うタキに代わって口を開いたのは、サイバードラモンを蹴り飛ばした反動で部屋の隅まで下がっていたあの白い人形である。
途端、振り返った両親は息を呑み、父親の方は、携えていたゴルフクラブを人形に向けて構えた。
「タキは怪我なんてしてないよ。ボクが守ってあげたからね」
「な、なんなんだお前は! お前が、お前がやったのか?」
「いや、だから……。まあ、いいか。ボクはオメカモン」
タキのトモダチだよ、と。
タキの見立て通りのデジモン名を、鈴を転がしたかのような声で、無邪気に彼は名乗るのだった。
だがそんな事を言われても、こんな夜更けに我が子が危険にさらされた田中夫妻が、冷静にはいそうですかとオメカモンの言を受け入れられる筈も無い。
「オメカ、モン……モンが付くって事は、デジモン、あれか、暴走デジモンか!」
「あなた、警察、警察に……」
やれやれ、と、オメカモンは正面のわからない頭を振る。
「これじゃ落ち着いて話もできやしないね、タキ」
一先ず、夢だった事にしようか。
オメカモンが呟くのと同時に、タキとタキの両親は、オメカモンの赤い胸の中に、何かを見た。
彼らの中で、タキだけが、夢の中で同じものを見たような気を覚えるのだった。
*
こうして、マリオネット芝居小屋の赤い幕は上がる。
演目は、世界史の最終章。意識を得たもの達に、更なる思考を授ける『あかいいし』を巡る物語だ。
かつて、とある劇作家はこう書き記した。
真の優美とは、無意識か無限の意識を持つ人間の肉体、すなわち、人形か神、その双方に宿る、と。
糸を切り捨て繰り手から離れた人形たちは、独りでに。
神を夢見て、踊り出す。