むかーし、むかし。
深い山を抱えたある集落には、二十三夜さまと呼ばれる小さな祠がありました。
この集落では毎年、二十三夜さまへのお供え物をするのが決まりとなっています。
万が一欠かすことがあれば、お使いのきつねがたいそう困ったいたずらをすると知られていました。
さて、お供え物は一年に決められた家の者が順番に届けに行くことになっていて、弥太郎という一人の男の子がその番となりました。
この弥太郎、とても悪戯好きで、集落の人たちをよく困らせました。
「あーあ。めんどうくせぇなあ。オラぁ、二郎たちと山へ遊びに行きてぇ」
拗ねた様子で、弥太郎は石を蹴り飛ばします。
おっかあはそんな弥太郎をなだめました。
「そんな事を言うんでねぇの。お供え物のお団子が出来るから、ちゃあんと夜に届けるんだよ」
お供え物を出しに行くのは、月の明るい夜に。
でも弥太郎は気が進みません。
お月さまで明るいとはいえ夜の道を、たった一人で歩かなくてはいけないのです。
それに、お供え物を置いた後にやってくる、きつねを見てはいけないと言われてもいるのでした。
(なぁにがケモノガミだ。ただのキツネじゃねぇか。オラ達人間さまを化かして良い気になって、お供え物を食って腹をふくらませてるに違いねぇ)
集落の近くの山では、ケモノガミと呼ばれる神さまに大層近いモノ達が住んでいます。
ケモノガミの機嫌を損ねたり、怒らせた者は二度と帰って来れない。
そんな言い伝えを弥太郎は聞かされています。
けれど、キツネなら山にもいます。
なのに、祠に来るというそのきつねとやらが、いかにも特別扱いされていることが弥太郎には気に入りません。
(よぅし、今夜、きつねの姿を見て、おどかしてひと泡ふかせてやる!)
そんな事さえ考えついた弥太郎は、それがどれだけ危険なことか知りませんでした。
なぜ、ケモノガミが恐ろしいのか。
話には何度も聞かされても、実感が湧かなかったのでしょう。
まもなく、家の中からふかしたお米のいい匂いが、腹の虫を鳴らしました。
○○○○まんまる、ぴっかぴか○○○○
そうして、供え物のお団子を持って弥太郎が出た時には、辺りは真っ暗で上には明るいまんまるのお月さまが顔を出していました。
祠があるのは村と山の間にある一本の細い道。
外から訪れる旅人もよくこの道を通ります。
風呂敷を担いでえっちら、おっちら。
やっと着いて、お団子を置いたら、まあ大変。
ぐぅう……
「腹減ったなぁ。ちょっとだけ団子食っちまってもいいよな!」
弥太郎は、腹の虫が鳴って辛抱できなくなったか、さっそくお団子を一つぱくり。
「うんめぇ!こりゃ、キツネなんかにはもったいねえや!」
お供え物ということを忘れて、ひとつ、またひとつ。
気がつけば、十個近くお団子を食べてしまいました。
「おっと、いけね、いけね。……どうせオラが食ったなんて誰も知らねぇよな!きつねが食ったと思うだけだぁ」
そんな事をほくそ笑んでいます。
そうして、弥太郎は早速、こっそりと家から持ち出していた蛤の貝殻の笛を取り出しました。
そして、祠の後ろで、待つことにしたのです。
(さあ、来い。オラの笛でおどかしてやらぁ!)
弥太郎は貝殻の笛を吹かせれば集落じゅうの子どもらの中でも一番上手く、馬を驚かせて大人たちに叱られたことが何度もありました。
今回も、後ろからいきなり大きく吹いて、驚かすつもりだったのです。
それから、半刻ほど経った頃でしょうか。
がさがさと、山の方から草をかき分ける音がするではありませんか。
(……しめたぞ)
ちらり、とお月さまの光に輝く金色の尻尾が見えます。
祠の手前、弥太郎のすぐ近くです。
弥太郎は悪戯心にほくそ笑みながら、穴の空いた蛤の尻に唇を当て……
「おかしいな、団子が足りない。足りない団子はどうした、いたずら坊主」
童のような声に、弥太郎は思わず動きが止まりました。
そして、ぱちくりと開いたお目目と、目が合いました。
「だめだ、だめだ。この悪たれ坊主。お前だな、団子に手を出したのは。いけないなあ、いけないなあ」
「ひ、ひっ」
それは、キツネのようで、キツネではありません。
キツネと比べてとても小さく、寸胴で、非常に短い足をしていたのです。
けれど、尖った耳や金色の毛並み、尻尾は確かにキツネだったのです。
それは可愛らしい人形のようでしたが、弥太郎を見据える目はとても冷たい氷のようでした。
「う、うわあっ」
弥太郎は逃げ出しました。
おどかそう、なんてなぜ思っていたのでしょう?
ですが、もう遅かったのです。
何かふわふわとした細長いものが、弥太郎の手足を絡めとります。
それは、長い長い狐の尻尾でした。
それは、弥太郎の胴体に絡みつきます。
それは、弥太郎の首にひと巻きします。
先程よりも大きくなったキツネが、にやりと笑いました。
もう遅かったのです。
おどかそう、なんて考えなければ。
供え物のお団子に手を出さなければ。
でも、もう遅すぎたのです。
夜が明けて、戻らない弥太郎を探しに祠まで来た集落の人々が見たものは、弥太郎がいつも吹いていた蛤の笛と小さな草鞋だけでした。
「祟りだ、きつね様の祟りだ」
「弥太郎のやつ、ケモノガミ様のお怒りにふれて連れて行かれたんじゃ。今年の供え物の当番の順番は決まり事じゃけ、あいつでもそこまでやらんと、思っとったのに…」
草鞋を抱きしめる弥太郎の母親の嗚咽は、一日中止まることはありませんでした。
……それから、昭和の中頃、集落が終わるまでの間。
お供え物を粗末にすることも、きつね様をおどそうという悪い考えをする者が出ることもありませんでした。
弥太郎がケモノガミの怒りに触れ、お隠れになったという事実が、集落じゅうに改めてケモノガミへの恐れを植え付けたのです。
……これは、古い古いおはなし。
ケモノガミと呼ぶモノ達が、記録だけを残して幽世(かくりよ)に姿を消す前の、おはなしだったということです。