はじめに
本作は作者が2017年ごろに書いた作品となっています。
当時の僕は浪人生。センター試験を控えた12月に、模試と模試の合間に入ったドトールコーヒーでこれを書いていました。
東北の寒さにかじかんだ手に鞭打ってスマホのフリック入力で小説を書いていたせいで、第一志望校の二次試験の一週間前という大事な時期に腱鞘炎一歩手前まで行ったことをよく覚えています。
再投稿に当たり改稿も考えましたが、結局当時のまま投稿することにしました。粗も多い作品ですが、けっこうお気に入りです。よければどうぞ。
12月1日 鈴代円香
昔から、寒がりな子どもだった気がする。 冬場に外に出ると、妙に長い首が寒さの為に真っ赤になった。幼い頃、小学校の帰り道に空を見かねた何処かのお婆さんが首にタオルを巻いてくれたことがある。薄汚れたタオルを首に巻いて帰った私を唖然としながら迎えた家族の顔が、いまも心に残っている。
そんな私が、十二月の寒風吹き荒ぶ夜に突然散歩に出ると言い出したのだ。何かしらの心配の言葉が投げられてもいいはずだった。弱くてズルい私は、それを期待していたのかもしれない。
「そんなことでいいのか? 受験まであと──」
居間から返ってきた男の安っぽい言葉をみなまで聞くことなく、私はドアを開けた。
アパートの近くにある高台まで自転車で駆け上がる。坂を登りきれず、途中で降りて自転車を引きずった。荒い息が白い粒子の塊となって口から漏れ出る、耳元で血管の中を血が駆け抜けるどくどくという音がする、少し走っただけなのに足は棒のようだ。私は冬の頬を切りつけるような寒さの中で自転車で走る時、他のどんな時よりも生きていることを実感するのだ。他の子に話したら笑われそうな話だ。
辿り着いたのは私のお気に入りの場所だった。木々の生い茂る道を抜けた場所で、空がよく見える。道の脇のガードレールに腰掛け、呼吸を整えた。
きりりと冷たい空気、その澄んだ空気の向こうに、淡い色に輝く月がくっきりと見える。大きく深呼吸をした。月の光が冷えた空気と共に私の血管の隅々まで行き渡るのを感じる。私と月との間には何もないと思えるその感覚が好きだった。 私が生まれるずっと前から空に浮かんでいて、私が死んだその後も満ち欠けを続ける黄金色の浮遊物。そんな奇妙で神々しい物体が、こんなにも側にいるのだ。それが目の前に迫った高校受験に向き合えず、両親ともうまくいっていない十五歳の女子中学生の現実逃避に過ぎないと分かっていても、こんなにも救われる気分になることは他になかった。 その日の月は見事な満月だった。なんの名前のつけようもない半端な形だったら、私はもっと月に親近感を覚えられたのかもしれないが、空に浮かんだ大先輩にそんなことを望むのは失礼というものだろう。
それにしても、今日の月は少し大きすぎないかしら?
実際、月はだんだんとこちらに迫ってくるように見えた。淡い黄金色の光が視界を覆い尽くすような感覚に襲われる。
私、いよいよおかしくなったのかな。月から目をそらし足元に目を向ける。ガードレールの外側は崖のようになっていて、バランスを崩したら真っ逆さまだ。ここで私はよく自殺することについて考える。受験を控えた女子中学生が自殺。クラスのみんなは驚いてくれるだろうか? きっと驚くだろう。成績はそれなりだけど不真面目で、授業も大抵寝ていて、学級活動にも殆ど参加せずのほほんとしている私。ノリは悪いけど決して無愛想ではなく、友人も程々にいた私。何かに必死になる姿を見せたことのない私。そんな私に、自殺するような複雑な事情があったのか。家庭環境か? 受験の悩みか? ところがびっくり、私にはなにもないのだ。 もっとも、自殺なんて本気で考えたことは一度もない。そこまで思い詰めることができる物があったら良かったと思う。私は軽薄な人間で、何かに必死になるのを馬鹿らしいと思ってしまうのだ。どうしようもない。 そんな自己嫌悪をひとしきり終えて、私は再び空を見上げた。
目と鼻の先に月があった。
驚いて声をあげようとしたが、口が思うように動かせない。月の光が質量を持つ粒子となって私の口をふさいでしまったような気分だ。 呼吸もままならないまま、私はすうっと意識を失った。
瞼を開いた途端に目に飛び込んだ太陽の光に、私は思わず呻き声をあげた。視界が白く包まれる。ぼやけた景色の中で、五、六歳くらいの子どもほどの背丈の小さな影が二つ動くのが見えた。 「あっ、起きたみたいだよ!」 「だからほっといても平気だって言ったのに」 「そんな風に言わなくたっていいでしょ。それより、村長に知らせなくちゃ」 視界を覆っていた靄が晴れ、私は自分が横たわっていた藁のベッドから身を起こした。自分の体を見る。月を見に行った時と同じコート姿だ。ポケットを探るとスマートフォンは消えていた。ポケットに手を突っ込む仕草に目の前の影が驚いたように身を引く。
それは、大きな鳥だった。一方は紅と白、もう一方はピンクとブルーの鮮やかな羽毛で覆われている。私の知っている鳥達と違うのは、その頭と足が妙に大きく、人間のような直立の姿勢を保っていることだった。 「ニンゲン、遅いお目覚めだな」 紅と白の方の鳥が私の顔を見てそう言った。よく見るとその頭に革製のバンドを巻いている。 「…喋れるの?」 「お前は喋れないのか?」 革バンドは小馬鹿にするように肩をすくめる。それでもその体は私から一定の距離を保ったままだ。 「ちょっとホークモン、わざわざそんなこと言わなくていいでしょ!」 革バンドの隣のピンク鳥がたしなめるように言った。そして、私の方を向くと微笑んで見せる。鳥の嘴でどう微笑むのかと聞かれると私も困るのだけれど、その鳥は確かに微笑んでいた。 「ニンゲンさん、ようこそ。わたしはピヨモン。あなたの名前は?」 訳の分からない場所で、訳の分からない生き物と突然の自己紹介タイムか。私は思わず頭を抱えた。すると、先程ホークモンと呼ばれていた革バンドを巻いた方の鳥が鋭い言葉を飛ばす。 「おい、ピヨモンは自己紹介したじゃないか? 礼儀ってもんがあるだろ。それとも、自分とは違う姿のモノとは話もしたくないか?」 そりゃあ、小学生くらいの背丈の喋る鳥と進んで仲良くしようとは思わないでしょうよ。そんな心の声になんとかセーブをかける。嫌われない程度に愛想の良さを保たなければいけない。大丈夫、いつもやってることだ。相手が何を考えているのか分からず恐ろしいと言う点では、クラスの子達と大して変わりはない。 私は口角を上げて笑顔を作った。少し引きつって見えたかもしれないが、まあこれくらいで勘弁してもらおう。 「私はマドカ、鈴代円香(スズシロ マドカ)です」 慇懃にそう名乗って、ホークモンの方をじっと見つめた。彼はふんと鼻を鳴らす。 「俺はホークモン。あんた、作り笑顔が下手だな」 「そんなこと…」 「俺たちもあんたみたいなニンゲンの相手をしたことは何回かある。いきなり別の世界に連れてこられて、笑顔でいられる奴がいるかよ。下手な嘘はかえってムカつく」 何よそれ、ちょっと酷くない? こっちは必死で愛想よくしてるのに、というか…。 「今、“別の世界”って言った?」 「その辺りの説明は、村長がしてくれるわ」私とホークモンとの言い争いの中で窮屈そうにしていたピヨモンがここぞとばかりに口を、いや嘴を挟んだ。 「ついてきて、マドカさん」
「あなたみたいな人はたまにやってくるんですよ、マドカさん」 ピヨモンに半ば引きずられるようにして連れてこられた教会のような建物で、私は目の前に置かれた止まり木に向き合っていた。ここがどこか知らないが、少なくとも気温は私のいた十二月の東北の町のそれではない。コートはとっくに脱いで手に抱えて膝に乗せていた。 「自己紹介が遅れましたね。私はアウルモン、この“止まり木の村”の村長です」 鳥類が止まりやすいように立てられたその湾曲した木材の上に止まった大きな梟も、例に漏れず言葉を話すらしい。目から後頭部にかけてを覆うつるつるとした質感の金属を除けば見た目はいたって普通の梟に見えたが、その分その口からヒトの言葉が放たれるのを聞いた時の薄気味悪さはピヨモンやホークモンの時よりも大きかった。 「どうぞ、召し上がってください」 アウルモンは私の前のテーブルに置かれた木製のカップを嘴で指した。目をその中を満たす赤い液体に向ける。のぼりたつ湯気とともに酸っぱい匂いが鼻をついた。 「この村の近くで取れた果実で作った飲み物です。美味しいですよ」 自分の味覚と猛禽類の味覚がどの程度共通しているのか私には分からなかった。目の前で私の顔をじっと見つめてくるアウルモンの『美味しい』はネズミやらミミズやらの事かもしれない。 ひょっとして、自分は何か試されているんじゃないだろうか。私はアウルモンの顔を盗み見る。もしここで覚悟を決めて飲んでしまえば、賢治の童話「雪わたり」の要領でハッピーエンドになだれこめるかもしれない。 自分の思考が程よく壊れてきたのに気づき、今が頃合いだとカップを手に取った。唇に触れたその液体はどろりとしていて、胸から込み上がってくる何かに思わずえずく。しかし構わず口の中にそれを流し込んだ。 「…美味しい」 口の中を満たしたのは、チョコレートの甘い風味だった。家の冷蔵庫に常備しているほど大好きな味は、私に落ち着きを与えてくれた。 アウルモンが先ほどのピヨモンと同じように、私には分からないやり方で微笑んで見せる。 「美味しいでしょう? 我々の村の名産です。ニンゲンの中には中々飲んでくださらない方もいるんですが」 やっぱり試されていたという不快感は心地よい甘さの中に消えていった。それに、彼の言葉にはもっと大事なことがある。 「他にも人間が、いるんですか?」 「そう滅多には来ませんがね。今日はそのことも話そうと思って来てもらったんです。順を追って話していきましょう」
そうして始まったアウルモンの話は、それが巨大な喋る梟の口から語られたのでなければきっと馬鹿な作り話に聞こえたろう。
私達の住む世界の隣にあるもう一つの世界、デジタルワールド。 そしてそこに住む多種多様な知的生命体--デジタルモンスター。
「…理解していただけましたか? 理解していただけないと、こちらとしては困るんですが」 「…まあ、それなりに」本当なら今にも叫び出したいところだったが、私は慇懃な態度をとることにした。こういうのは慣れている。みんなが私を、表情豊かだがしおらしくて大人しい少女だと思うだろう。 アウルモンはまた微笑んだ。「良かった。なかなか信じてくれない人も多いんですよ」 「信じたくはないですけど、信じるのが一番楽そうだったから」 ふいに私は、小学校の通知表の一番下の欄に書かれた担任のコメントを思い出した。
スズシロ・マドカ、明るくて、誰とでもすぐ仲良くなれる子です。
そう、マドカは誰とでもすぐ仲良くなれる。簡単だ。相手の一切を否定せず、自分からは一切の肯定を求めない。それが一番楽だということに私は他より早く気づいただけのことだ。この道では私はちょっとしたプロ、喋る鳥だって、チョコレートの味のする木の実だって、肯定して見せるわ。
今のところアウルモンは穏やかな態度を見せているが、これがいつまで続くか分からない。なるべく相手の機嫌を損ねたくなかった。 「その通り、信じてしまうのが一番楽だ」 「私は、どうやってここにやって来たんですか?」 「そうですね、満月を一人で見たりしてませんでした?」 驚いた、当たり。 「…見てました」 「それですね。月は、この世界とあなたたちの世界を繋いでいると言われています。仕組みはわかりませんが、実際ニンゲンはみなさん満月の夜にやってきます」 なるほどね。私は眉を寄せる。次はなんと言えばいいのだろう? 元の世界に返してと言うのは怖かった。歓迎してくれているアウルモンに対してそんなことを言ったら、彼は激怒して私の目をつつき、腹を裂いて臓物をついばむかもしれない。 「その、ここにやってきた他の人間達は、どこに行ったの?」私はおずおずと尋ねた。そんな顔しないでくださいと笑いながら前置きして、アウルモンは話し始める。 「彼等は手始めに、この村で一ヶ月間暮らします。それからの選択は二通りあります。次の満月で元の世界に帰るか、或いは--」 私たちが人差し指を立てる時のような仕草なのだろうか、彼は右の翼を顔の前に出した。 「この世界で生きることを選びます。大抵はこの村を出て、旅に出ますね。どうしますか?」 アウルモンは顔を突き出し、私の目をじっと見つめた。 「それは、勿論…」 元の世界に帰るに決まっている、そう言おうとして私は口を噤んだ。脳裏に様々な像が浮かぶ。友人達の、両親の言葉。
──マドカは良いよね。そうやってのほほんとしてても受かるんだからさ。
──何かに真剣になったことある?余計なお世話かもしれないけど、そんなんじゃいつか後悔すると思うよ。
──甘えたことを言うな。お前の人生なんだぞ。
──マドカ、あなたはできる子よ。私は知ってる。
「まあ、少なくともあと一月は帰れないわけですから、決断はそれからで…」 「残ります」 「え?」自分を遮って私が言った言葉に、彼は素っ頓狂な声を上げた。 「元の世界には帰らないって言ったんです。ここで暮らしていくわ」
元の世界に帰っても、私を待っているのは高校受験へのカウントダウンとお節介でうざったい友人とも呼べないような友人達、そして安っぽい言葉しか吐けない男と、私のことを何もわかってくれない女だ。必死になって帰りたいと願うような場所ではなかった。 「ほう、それはそれは…」アウルモンは目を細めて私を見つめた。 「ここに来たばかりで、そんなことを言ったのはあなたが初めてだ。マドカさんは面白いお客さんですね」 いや、あなたは最早お客さんじゃないな、と彼は呟いて自分で何回も頷く。 「どちらにしろ、一月はここで暮らしてもらいます。歓迎しますよ。そして--」 彼は翼をはためかせた。 「ついてきてください。あなたに会って貰いたい奴がいるんです」
すう、はあ。アウルモンの背中を見ながら、私は呼吸を整え、動揺を抑えた。
アウルモンに連れられて、私は村外れにある一軒の家に向かっていた。その道中も、多くの視線が私に向けられた。意外にも奇異の感情を向けられることはない。アウルモンの言う通り、人間はここではそれなりにありふれた来訪者なのかもしれない。
「ここです」アウルモンが小さな茅葺屋根の家を指し示す。 「実は我々は、あなたの来訪を前から知っていました。あなたというか、誰かニンゲンがここにやってくるということをね」 「どういうことですか?」 「ニンゲンがこの世界にやってくるとき、そのニンゲンと共に生きるよう定められるデジモンがいます。我々は、パートナーと呼んでいますがね」 うへえ、何それ。私は眉をひそめた。面倒臭い色んな関係性を放り出したい一心の私に、また何か押し付けようというのか。大体そのデジモンも気の毒じゃないか。私みたいなただでさえ暗い外面の裏に性格の悪さを隠した女と無理矢理に組まされるなんて。 「ニンゲンの来訪が迫ると、パートナーに選ばれたデジモンの元にあるデヴァイスがどこからか届きます。ニンゲンとデジモンの絆の象徴、我々はデジヴァイスと呼んでいます」 デジヴァイス、デジヴァイスね。私はそれを渡され次第枕の下にでも放り込めば良いんだわ。 「それで、ここがその、私のパートナーの家なんですか?」 「そうなんですけどね…」アウルモンはむにゃむにゃと要領を得ないことを呟いた。 「会わせてくれるんじゃないんですか?」 「いえ、その」 「どうしたんですか?」 ひたすら恥じるように、アウルモンは口にした。
「その、あなたのパートナー、ヒョコモンは引きこもってしまったんです。デジヴァイスの中に。そして、当分出てこないつもりみたいだ」
あら、好都合。そんな表情を私は必死で押し隠した。
12月1日 ヒョコモン
ボクは体に不釣り合いなほど大きなベッドで目を覚ました。窓から差し込む光で、もう日が高く昇っていることに気づく。しまった。修行に遅刻だ。村長にこっぴどく叱られるに違ない。ホークモンにとびきりの嫌味も飛ばされるだろう。 慌てて目をこすり、脇に置いた刀を手に取る。それからしばらくして、もう慌てる必要はないことに気づいた。ボクは“デジヴァイス”の中に閉じこもったのだ。刀の修行なんかもうどうでもいいと、決めたのだった。 起き上がる。デジヴァイスの中がこんなふうになっているとは、これなら当分籠城できそうだ。
そこは、ボクの見たこともない部屋だった。いつものようなわらを敷き詰めたベッドや壁の隙間から差し込んでくる風はない。部屋中が人工物で満たされていた。デジタルワールドにもデータにより形成された人工物は少なくないし、デジモン達はその利用法も分からないまま、それらをなんとか生活に組み込んでいるのだが、ここまで沢山の人工物の詰め込まれた部屋を見るのは初めてだった。これまで何枚かのパズルのピースしか見たことがなかったのが、急に完成したパズルを見せられたような感じだ。
ベッドから降りて、部屋を歩きまわる。その調度品はどれも、ボクよりずっと背の高い誰かの為に作られたような感じだった。 ここは一体、どういう空間なのだろう。ここで暮らしていく為に、それくらいは把握して置かなければいけない。 部屋に置かれたいくつもの引き出しのついた木の箱から手をつけることにした。引き出しを開けると、その中には何枚もの布が収められていた。黒やピンクといった色が目立つ。レースのついたものもある。 引き出しをいくつか引き開けていき、開けられた引き出しが階段状になるようにする。僕はまだピヨモンやホークモンのように飛べないから、こうするしかないのだ。即席の階段をのぼり、箪笥の上に立った。
そこには様々な物が置かれていた。それを見るに、この部屋の主が飾った物のようだ。鮮やかな紙がはめ込まれた板に目が止まった。 写真、というものが何か、昔村に来たニンゲンから聞いたことがある。景色を鮮明に残しておける紙という彼の説明が正しいのなら、目の前の紙はまさにそれだった。 アウルモンのいる教会よりももっと大きな建物、それをバックに一人のニンゲンの女の子が無理矢理に作ったような笑顔で立っている。真っ黒い髪を肩まで伸ばしたその少女は、ボクにはなんとなく陰気に思えた。
不意に部屋に光が差し込み、目を細めた。レースのカーテンがひかれた窓に駆け寄る。窓を開いたボクの頬に、冷たい風が吹き付けた。
アウルモンの村とは比べ物にならないほどに大きい、そして、とても静かな街。
その街が、なぜか見慣れた物のように感じられて、ボクは首を振る。立ち並ぶ背の高い灰色の建物達を、ボクは生まれて初めて見た筈だ。デジャヴだって起こりようがない。こんな景色が存在しうる事すら、ボクはたった今知ったのだから。
「とにかく…」誰に言うともなくボクは呟く。
「…お腹が空いたな
何か食べ物を探そうと考える前に、足は勝手に部屋を出ていた。ボクにとってはいささか長い廊下を迷いを抱く事なくあるく。助走をつけたジャンプでドアノブに飛び付いて扉を開け、先程よりも大きな部屋に入った。 その部屋に入った途端、何か重いものが心にのしかかった。この憂鬱には覚えがある。やりたくもない剣の修行をアウルモンに言われてする時、組み手でホークモンに手も足も出なかった時、だらけている所をピヨモンに見咎められた時、そんな時と同じ憂鬱だ。部屋を見回すが、そこには誰もいない。自分をそんな気持ちにさせる原因も、いなかった。 ここに本当に食べ物があるのだろうか? ここでも足は勝手に動いた。気がつけばボクは部屋の隅に立っていて、これまた背の高い白い箱が目の前にあった。
「…この中に、食べ物があるのかな?」
なぜか、そうに違いないと思った。 しかし、ボクの背丈ではその箱につけられた戸を開けることができない。振り返る。円形のテーブルを取り囲むように置かれたいくつかの椅子に目が止まった。あれを台にすれば取っ手に手が届くだろう。 手近な椅子に近づこうとして、足が止まった。胸を圧迫している憂鬱が、さらに強くなる。
あの椅子は駄目だ。あの席には、一歩だって近づきたくない。
ボクは後ずさりし、他の椅子に向かった。それを白い箱の前まで引きずり、その上に飛び乗る。 扉を開けると、這い出してきた冷気がボクの顔を冷やした。思わず声を上げたが、そこまで驚いたわけじゃない。誰かが耳元でその結果をあらかじめ教えてくれていたような気がした。 中に並ぶモノはどれも食べ物らしい。何に手を伸ばすかについても、ボクは迷わなかった。慣れた手つきで、赤い紙箱をとる。 扉を閉める。紙箱の中からは、茶色く硬い板が出てきた。 「コレ、食べれるのかよ…」
大丈夫、ソレは食べることができる。何も心配いらない。
頭をかすめた思考に従い、恐々ソレを口に運んだ。
「…美味しい」
ソレはボクの住んでいた村で取れる木の実とそっくりな味がした。甘くて、いつまでも舌に残るような風味。胸を締め付ける憂鬱が、少しだけ軽くなったように感じた。
この家を探索したいという気持ちはあったが、足は外へと繋がるドアに向いた。この家にいるだけで、どことなく居心地の悪さを感じるのだ。空気に小さな棘が混ざっていて、それが肺に突き刺さるような感覚。それから逃げ出すように、ボクはドアノブに飛び付いた。出かける際はいつも背負うことにしていた刀を寝室に置いたままであることを思い出したが、首を振ってそのことを頭から振り払った。
ここはどうも高い建物の一室らしい。地面に降りるだけでも一苦労だろうな、とため息をついた。 ピヨモンなら、ホークモンなら、建物の高さなんて気にしないだろう。彼等は軽やかに飛ぶことができるのだから。同じ成長期のはずなのに、ボクだけが未だに卵の殻を抱きしめたヒヨコのままだ。 まったく、どうしようもないな。自分自身の考えに苦笑を浮かべる。ここはデジヴァイスの中、誰もボクのことを気にするやつはいない。ボクだけの場所だ。翼のことで悩む必要なんかないのだ。
でも、とボクは思う。なぜボクはここがデジヴァイスの中だと分かるのだろう?
前の晩の記憶ははっきりとしている。ボクが自らあのちっこいデヴァイスに話しかけたのだ。今でもその一言一句をはっきりと思い出せる。
お節介なデジヴァイス。お前がどういうわけでボクの元に来たのかは知らないけどさ、残念ながらボクはお前の期待に沿うような奴じゃない。突然枕元にやってきて、誰かもわからないニンゲンと一緒に戦えだって? ニンゲンと一緒って言ったって、戦うのは結局ボク一人ってことじゃないか。ただでさえお前が来たおかげで、村のみんなから妙な期待をされて迷惑だってのに。
お節介なデジヴァイス、もしお前が本当にボクのことを思うなら。ボクをここから連れ去ってくれ。色んな面倒ごとが届かない場所に、アウルモンの説教も、ホークモンの叱責も、ボクを庇う鬱陶しいピヨモンの声も、届かない場所に連れてってくれよ。
それから…それからのことはよく覚えていない。一つ確かなのは、ボクが願いを口にした途端にデジヴァイスに付けられた小さな窓のような部分が迫ってきたということだ。そしてボクは意識を失い。この場所にいる。デジヴァイスの中に吸い込まれたと考えるのが妥当だろう。それに、そんな記憶よりもずっと確かな直感が、この場所に関する自分の予想を裏付けてくれている。
何回も息をつきながらやっとの思いで階段を降りきって外に出る頃には、そんなふうに多少状況の整理がついていた。それをきっかけにして色んな疑問がボクの中に流れ込んでくる。
最初に頭に浮かんだのは、自分がここから出る方法を知らないということだった。それは大した問題じゃない。あの村に帰る気なんて毛頭ない。そう腹を決めた途端に、頭の中のひと塊りの疑問は消えた。面倒な関係を捨てるというのはこんなに楽なことだったかと驚く。 しかし同時に実際的な、差し迫った疑問が降り注いできた。ここで暮らしていくにあたって、知らなくてはいけないことは山ほどあった。
とりあえずは、そう心で呟いてボクは見たこともないほど幅広く、そして不気味なほどに静かな道に立った。 「ここがどんなところなのか、知らなくちゃな」
自分の出て来た建物を背にして右には山があり、木々の葉が落ちてしまっているのが目についた。怪訝そうに眉をひそめて、しばらくしてキセツとかいうモノのせいかなと思いつく。ボクの村では一年を通して気温が大きく上下することはないけれど、世界には暑くなったり寒くなったりする忙しい場所もあり、そこの木々はその変化に気疲れして緑の衣を落としてしまうのだと聞いたことがある。裸の木々に興味はあったが、山への道は急な上り坂となっており階段を降りるだけで疲れていたボクは登る気にもならなかった。 とすると左に進む事になる。此方には背の高い家々がいくつも立ち並んでいた。その更に向こうにはもっと背の高い灰色の建物が見える。 これだけの建物があるのだ。相当な数のデジモンやニンゲンが住んでいるに違いないのに、街は不気味なほど静かだった。もうとっくに日は登っている。誰かしらの声が聞こえてもいいはずだけれど。 そんな疑問を抱きながら、ボクは歩き出した。灰色の地面は硬く、一歩踏み出すごとに足に力が跳ね返ってくるような不思議な感覚だった。
夕陽が街を腐ったトマトみたいな色に染め上げる頃には、ボクは一つの結論を得ていた。
「…ここには、ボク以外には誰もいない」
胸を満たそうとする寂寥感を誤魔化そうとボクはわざと声に出して言った。 一日かけて、大した範囲ではないにせよ街を歩き回ったが、他者の気配は全く感じられなかった。規則正しく赤と緑に色を変える何本もの塔はどうも生物ではないらしいし、この夕暮れになって街中で光を放ち始めた物体に話しかけても応答はない。何度かは戸の開いている家に勝手に入ることまでしたが、そこにも誰もいなかった。 その静寂の持つ違和感にも、すぐに気づいた。街にあったパン屋のオーブンの前には、まだ暖かなパンがあったし、民家の中には水を流したままの蛇口も多くあった。沢山の人がたった今まで生活していたかのような痕跡がいくつも残されていたのだ。 それなのに、ここには誰もいない。悪寒が背中に這い寄るのを感じた。
なに、はじめから分かっていたことじゃないか。引きこもるってことはそういうことだ。望んで孤独になることだ。逆に何でお前は、デジヴァイスの中に自分以外の誰かがいるなんて期待したんだ? いる筈がないじゃないか。
それでも、こんなに大きな街に独りぼっちだと思い知るのは辛いことだった。帰る術を知らないという事実が、重く心にのしかかってくるような気がした。
しっかりしろ。ボクは自分に言い聞かせる。お前は村でも好き勝手をやってみんなに迷惑をかけていた。見てみろ。ここでは何をしても誰にも迷惑をかけることはない。悲嘆にくれることなんて何もないだろ? ここで自由を謳歌したらいい。それとも、村に帰ってみんなの小言を聞きたいか?
ボクは首を振って歩き出した。足は目覚めたあの部屋に向いている。
「…嫌だな。帰りたくないな」
無意識に溢れ出た言葉にボクは目を丸くする。今のはボクの声か? 目覚めたあの家に帰りたくないのなら、帰らなければいい。この広い街に他に誰もいないのだ。どこでも手近なところに入り込んで泊まればいいじゃないか。
「でも、帰らないと」
また声が出た。だから、帰らなくてもいいんだってば! 先程よりもはっきりとした不気味さを肌に覚える。誰かがボクに勝手に別の感情を流し込んでいるような、この体がボクだけのものではなくなったような、そんな感覚。
君は誰だ?
階段をなんとか上りきり、肩で息をしながらドアを開けると、途端にあの憂鬱が心にのしかかってきた。 勘弁してくれ。ボクは自分のそばにいる誰かに話しかけるように呟く。こんな気分になるためにボクは帰ってきたっていうのか? 寝室に入る。起きた時と同じ風景。ここは誰かの部屋だったのだろうか? ベッドに寝転がり、あの写真の少女にもう一度目を向けた。真っ黒に見えた髪は、暗い部屋の中では青みがかって見えた。
ここは、君の部屋なの?
めでたい写真みたいなのに、ちっとも楽しそうじゃないね。そう呟いてボクは目を閉じた。
12月8日 鈴代円香
マズったな。
デジタルワールドにやってきて一週間、アウルモンにあてがわれた教会近くの家に置かれた藁のベッドに横たわり、私はそんなことを考えていた。住まいは予想よりも快適で、開け放した窓から吹き込む明け方の風が心地よい。ここの気温は年中日本でいう秋頃ぐらいの冷え込みらしく、セーターを着た私にはちょうど良かった。それでも今は心にのしかかる憂鬱の方が大きい。
一番最初の対面の日に、得体の知れない生き物達への恐怖から必要以上に慇懃に振る舞ったのがいけなかったらしい。私は「昨今珍しい礼儀正しいニンゲン」として認識された。それに加えて、デジタルワールドに住むと即断してしまったこともあり、村のデジモン達(ここは鳥の姿のデジモンの住む村らしい。多様な大きさの鳥がいた。そして、全員が喋ることができるらしい。やれやれ)の歓待を受ける羽目になってしまったのだ。やってきた最初の日に歓迎の宴が行われた。
道を歩くたびに多種多様な翼と嘴を持ったデジモン達が声をかけてくれる。子ども達(単に無邪気で小さいデジモンを指してそう呼んでいるだけだ。彼等に子供とか大人があるかは分からない)は私に木の実やら何やらのささやかなプレゼントをくれた。 私はその一つ一つににこやかに対応した。よくない兆候だと思う。彼らの好意は物珍しさによるものに過ぎないと分かっているのに、おだてられ笑顔を向けられると、心の底から舞い上がって必要以上の笑顔を返してしまうのだ。問題は、私に彼らの期待と笑顔に応え続けるだけの中身がないことだった。
ああ、マドカ。お前はまたこんな風に、誰かを裏切るんだな。
苦い記憶が幾つか脳裏を掠め、私はベッドから起き上がって体育座りになり、膝頭に額をつけた。
その時、窓の外でごそごそと音がした。 誰か来たのだろうか、鳥の姿のデジモン達の朝が早いことはここ数日ですぐに分かったが、そうは言ってもまだ外は薄暗く夜といってもいい時間だ。 最初に頭をかすめたのは、遂にデジモン達が怪物の本性を現したのではないかということだった。これまでの美味しい食事は私を肥え太らせる為の下拵えで、私が眠っていると踏んだ料理人が塩と胡椒、そして鋭利な嘴を携えて窓から飛び込んでくるのかもしれない。 もしそうだったら? 私は荒い息遣いで考える。鳥に生きたままついばまれるなんてごめんだ。ズボンでもなんでもいい、それで首を吊ってやる。 しかし、とりあえず私は窓から顔を出すことにした。ここで目覚めた私と鉢合わせすれば、いくら腹を空かせた怪鳥といえどにこやかに挨拶してこんばんは撤退するしかないだろう。そしたら私にも、逃げるチャンスが生まれる。ついでに、私が食べがいのある程には太ってないことも教えてやる。ほんとに、太ってなんかないわ。 すう、はあ。一度呼吸を整える。それは私のおまじないだ。何かが始まろうという時、私は緊張の度合いに関わらず一度深呼吸をする。それは私が頭でした決意を、体全体に知らしめるための呪文だ。唇が震えないように、足が止まらないように。
決死の覚悟で窓から頭を出した私の目に、鮮やかな赤い羽根とヘッドバンドが映った。
「なんだ? 随分と早いお目覚めだな」 「…あなたが料理人?」 「なんのことだよ?」 窓の下からこちらを見上げると、ホークモンは呆れたように肩をすくめた。村で唯一、この無愛想な鷹だけが私に冷たい態度を取っている。彼の意に反して、それは私には心地よいことだった。剥き出しにされる悪意には、何も応える必要はない。 「少し早く目が覚めちゃったの。あなたは? 夜の散歩?」 私の問いに、全くこれだからとでも言いたげに彼はため息をついた。 「そんなわけあるか。鍛錬だよ、鍛錬」 「鍛錬?」 彼は少し迷うように首を傾げ、やがて言った。 「お前も来るか? もしお前が本気でここに住むつもりなら、そろそろ知っといた方がいいだろ」 「いいの?」 「安心しろ。ピヨモンもアウルモンも来る。村はずれの広場に来い」 彼はそう言い残して立ち去ろうとしたが、一度振り返って言った。 「そういえば、デジヴァイスあるか?」 「え? あるけど」村に来た初日に渡されたその子どもの玩具くらいの大きさのデヴァイスを、私は心に誓った通りすぐに枕の下に放り込んで無視していた。 私の“パートナー”だとかいうデジモン(ヒョコモン、だっけ? ダサい名前だ)は、慢性的な五月病か何かの為にこのデジヴァイスに引きこもっているらしい。何度か他のデジモン達の前で彼の話題を出した時に、何か諦めたような、呆れたような気まずい空気が流れたことを覚えている。 枕の下からデジヴァイスを引っ張り出す。明け方の薄明かりの中で、その小さな箱は鈍く光った。子ども向けのオモチャみたいな安っぽい液晶に何かが映っているのか、この薄闇の中では判然としない。
ああ、ヒョコモン、何があったか知らないけど、あなたの気持ちはよく分かる気がするわ。同志である私のことを思って、どうかそのまま出てこないでね。
コートの前を開いたまま羽織り、ホークモンの言っていた広場についた私をアウルモンが出迎えた。広場の端に立てられた止まり木は彼専用のものらしく、他のデジモンが止まっているところを見たことがない。 「ああ、マドカ。ホークモンから話は聞いています。彼らの鍛錬を見て言ってください」 「鍛錬って…」 私の目に見えるのは、二つの小さな竜巻だけだった。木の葉を舞い上げ恐ろしい速さで動くそれは、時にぶつかり合い、時に距離を置く。私とアウルモンのいる場所と竜巻とはかなり離れていたが、その凄まじい風圧を私は頬で感じることができた。 その時、風とともに頬に何かがぶつかる。風圧のために張り付いたままのそれを私は手に取った。 「ピンクの羽根…」 「あれはピヨモンとホークモンですよ。今は組手の真っ最中です」 「組手?」なんでそんなことを、と言おうとした時、竜巻がやみ、ホークモンと先ほどのピンクの羽根の持ち主であるピヨモンがこちらに駆け寄って来た。 「マドカ! 見ててくれたのね」ピヨモンが目を輝かせて私を見上げる。彼女は私が最初にここで目を覚ました時から一貫して私に優しくしてくれている。勿論それが重荷に感じられるのは確かだったが、まっすぐに向けられる好意はやはり嬉しいものだ。 「見てたよ。二人とも凄いんだね。全然姿を追えなかったよ」 「凄い? この程度じゃ駄目さ」ホークモンが肩をすくめる。 「俺は切り返しを何回もミスしたし、ピヨモンは攻撃を外しまくってる。そもそも、二人とも速度が全然足りない」 「立派な先生が居てくれて助かるわあ」ピヨモンが不満げに嘴を尖らせた。アウルモンが二人を見て微笑む。 「自分達の戦いの振り返りにしては悪くない考察ですね、ホークモン。でもあまり自分と他人に求め過ぎてはいけない。二人の速度は、成長期が出せる最高にまで達しているよ」 「そうそう! ホークモンは厳し過ぎるんだよ」追い風に翼をはためかせるように、ここぞとばかりにピヨモンが言った。 「それに、言い方がキツ過ぎるって。そんな風な言い方をしてなければ、ヒョコモンだって…」 そこで彼女は口ごもり、私の方を見上げた。ホークモンも私の方を向く。 「そうだ。ヒョコモンだ。俺がお前を暇つぶしの為に呼んだと思ったか?」 「ホークモン…」口を挟むアウルモンを、鷹は遮る。 「村長、こいつはこの村に住むつもりだって言ってるんだ。さっさと話してやった方がいいさ。こいつ、村の奴らが優しいのは自分の人望の為だと思ってるぜ。それか、自分を取って食うつもりだとでも思ってるのかな」 「そんなこと、思ってないよ」このクソ鳥、なんで分かるのよ。 「ちょっと、ホークモン。そんな言い方ってないじゃないの。マドカは優しいんだから、そんなこと思うわけないじゃない」ピヨモンがその場で羽ばたいて抗議の意を示してみせる。 「こいつは嘘つきだよ。ピヨモン、お前と一緒でな」 「もう一度言ってみなさいよ!」 「静粛に!」 アウルモンの一喝でその場は静寂に包まれた。 「ホークモン、今のは君が悪い。言葉がすぎるよ。謝りなさい」 威厳のある低温で迫られ、ホークモンは渋々と言ったようにピヨモンに頭を下げた。 「これでいいか?」 「…マドカにも」ピヨモンはそっぽを向いたまま言う。 「私は別に良いよ。怒ってないし」私は優しく言った。ホークモンが私にだけ見えるように怒りの目を向けてくる。単に頭を下げるより、私のいい子ぶりっ子のおかげで謝罪を逃れる方がこのクソ鳥にはよっぽど効くだろう。 「ふう、まあ良いでしょう」アウルモンがまたいつもの落ち着いた声に戻って言った。 「ホークモンの言うことにも一理あります。マドカ、あなたには話さなければいけないと思っていました。村の置かれた状況をね」 そんな風に前置きして、アウルモンは語り出した。
「…盗賊?」 「子攫いといった方がいいかもしれない。幼年期や成長期のデジモン達をさらっていくんです」 「事の起こりは一月ほど前かな」ホークモンが嘴を挟んだ。 「俺たちデジモンにはニンゲンみたいに親子の関係はない。卵はどこからかやってくるんだ」 その時点でちょっと意味わかんないんだけど、そう口を挟みたくなるのを必死で我慢し、説明を引き継いだピヨモンの言葉に耳を傾ける。 「その卵から生まれた子どもは村のみんなで育てることになるんだけど、近くの村でその子どもが攫われたのよ、一月に三体も」 「村が三つやられた。この辺じゃ、残ってるのはこの“止まり木の村”だけだな」 「そんな大変なことが起きてるなんて」私は呆然として呟く。 「全然気づかなかった、か? 安心しろ。あんたが間抜けなわけじゃない。まあ、それもあるかもしれないけどな」ホークモンが皮肉っぽく言った。釘をさすように彼をじろりと睨みつけてから、アウルモンは私に目を向けた。 「今のところ、この村には被害が出ていません。我々は、なるべく普段通りの生活をしてるんです。そっちの方が、心が安まります」 「それにしたって、私の歓迎会なんてしてる場合じゃ…」 「みんなあんたに期待してるんだ。正確には、あんたとヒョコモンに」 「どういうこと?」なんだか急にきなくさくなってきたわね、そう心の中で呟きながら私は首をかしげた。 「ニンゲンは、我々にとっては単に事故でこの世界にやってきた来客ではないんですよ。マドカ」アウルモンが何かを教え諭そうとするように羽を広げる。 「ニンゲンは我々デジモンにとってはその力を高めてくれる触媒になるんです。もっとも、パートナーに選ばれたデジモンに限って、ですが」 あ、なんとなく読めてきた。 「つまり、村がに危機が迫ってる時にやってきた私はみんなから、ヒョコモンの力を高めてあげて彼と一緒に子攫いをやっつけることを期待されてるってこと?」 「分かってくれるのが早くて助かります」アウルモンが微笑んだ。 うげえ、最悪だ。つまり彼等からしたら、私は村の窮地にやってきたヒーローというわけだ。どうせ心の声は誰にも聞こえないのだから、もう一度言おう。うげえ、最悪だ。 「で、でも。当のヒョコモンは…」私はコートのポケットからデジヴァイスを取り出した。アウルモンが頷く。 「ええ、天から彼の元にデジヴァイスが届いた時、ヒョコモンもあなたと同じ期待を背負いました。彼は元々…その、戦闘においては優秀とは言えなくてですね」 「ホークモンからしょっちゅう怒鳴られてたわ。トロいだの弱いだの、なんで飛べないんだ、とか」ピヨモンが嘴を挟んだ。 「それなのに彼は急に村を守る役目を負わされた」 そこから先は話を聞かなくてもわかる。ヒョコモンにデジヴァイスが届いた時、村の反応は二通りだったろう。
今度こそ、良いところ見せてくれよ。期待してる。
なんでよりによってお前なんだ。最悪だよ。
なるほどね。私は頷いでデジヴァイスに目を向ける。気の毒なヒョコモン、事情を知ったばかりの私から、安っぽい同情をあなたにあげるわ。
「なんとなく、分かりました」私は、師としての立場からヒョコモンの気持ちを想うアウルモンの言葉を遮った。 「それで、結局私は何をすれば良いんですか?」 「ヒョコモンが出てこない以上、あなたにも盗賊に気をつけて、としか言えません。とにかく、この村での生活に慣れていただければ」
「そうそう、とにかく村に慣れてもらわなくちゃ。ねえマドカ。この村に来たニンゲンにいつもやってもらってる仕事があるんだけど、お願いしていい?」ピヨモンが明るく言った。 「…そうね。教えてくれる?」私は頷いた。仕事なんか嫌でしょうがないが、ここで生活させてもらっていて、なんの恩返しもできていない立場はもっと嫌だった。変なヒーローの役割を押し付けられそうになった時に、ちゃんと胸を張ってデジモン達とは貸し借りなしだと言えるようでなくてはいけない。 「それじゃあ朝ごはんの後、ここにまた集合ね。ホークモンも」 「なんで俺まで…」 「いいから」ホークモンの異議を黙殺すると、ピヨモンは私の方を向いた。 「マドカ、一緒に朝ごはん食べよう? ずっと木の実ばっか食べてるでしょ」 「良いの?」少し迷ったが、私はその好意を受け取ることにした。チョコレートは元の世界にいた頃から大好物だったが、三日三晩チョコレート味の木の実で、流石にうんざりしていたのだ。
それにしても、と私は思う。ヒョコモンについての話はずいぶんあっさりと終わってしまった。私にしてみればその方がありがたいけれど、友達の一人に対する態度としてはあまりに冷たいのではないかとも思う。もともと村の鼻つまみものだったみたいだし、しょうがないことなのだろうか。
気の毒なヒョコモン。私はまた心の中で呼びかける。
ねえ、ひょっとして、私達、似てるのかもね。
畑の肉、大豆の事ではない。この世界では、肉は畑から取れるのだ。しかもそれは単なる肉ではない、アニメやマンガではよく見る、というよりもアニメやマンガでしかお目にかかれない、一本の白く太い骨を取り巻くように不自然なほど分厚い肉がついた所謂「あの肉」だ。 ここの肉は最初から焼かれた、食べることが可能な状態で収穫される。仕組みは分からないが、食べるためだけに育てられる肉に生肉の段階は不要ということだろう。 想像してほしい。デジタルワールドに来て初めて、肉の収穫風景を見た私の気持ちを。遠目に見てもそれが肉だとわかるような主張の激しいシルエットのそれが、黒々と湿った土から掘り起こされたところを見た私の気持ちを。肉には土がこびりついている。その土がはたき落とされた時、一緒に何か細長いものが地面に落ちた。ミミズだった。 ミミズは昔から大の苦手だ。小学校の頃にやったサツマイモ掘りの時にミミズが手に引っ付き、目を回して倒れたこともある。 殺すと言われたってあれは食べたくない。いつも食べてきた野菜も似たようなものだと言われても、肉で同じことをやられて、しかも収穫の現場を見せられても平気というわけじゃないんだ。私はそう心に固く誓い、歓迎の宴の時も肉だけはさりげなく避けてきたのだった。 その誓いにもかかわらず、ピヨモンの家の食卓で、私はなるべく収穫の際の光景を思い浮かべないようにしながら肉を口に運んでいた。私を追い詰めるのには脅しよりも無邪気な好意が効果的らしい。 「沢山食べてね。マドカ」 笑顔で新しい肉の皿を持ってきたピヨモンに、私は引きつった笑顔で応える。気持ちはありがたいけど、私の好き嫌いを抜きにしても、朝からこんなに沢山の肉は重いんじゃないの? 味は確かに絶品だけど。 「それで、私が今日する仕事ってどういうものなの?」箸休めの為に私は話を切り出した。ピヨモンは頷いて私の向かいの席に腰掛ける。 「村の真ん中の、アウルモンのいる教会近くに空き家があるじゃない?」 私は頷く。村の中心部の往来が盛んな場所にあるその空き家の存在については、かねてから不自然に思っていたのだ。 「あそこには色んなニンゲンの作ったものが集めてあるんだ。…なんだろ、ちょっと説明しづらいんだけど」ピヨモンは首をかしげる。細やかな仕草の一つ一つが可愛らしい子だ。私とは大違い。 「この世界にはね。ニンゲンの作ったものが、というかそのカタチをコピーしたものが沢山転がってるの。例えば、そのフォークだってそうよ」 私は自分が使っていたフォークに目を向ける。お前、拾い物なのかよ。 「私達は自分じゃそういうものを作れないから、色々なものを拾ってきて使ってる。でも、ニンゲンの作るものはどれも不思議で、使い方が分からないものもあるんだ」 「それを、私が説明すればいいのね?」 「そういうこと。あの空き家に、使い方の分からないモノを手当たり次第に詰め込んでるんだ」 なるほどね、私は頷く。まあ、ミミズと友情を育みながらの肉の収穫よりは余程いい。 「それじゃあ、そろそろ行く?」私はいそいそと言った。 「えー、もうちょっと食べてってよ。ホークモンは待たせるくらいが丁度いいんだって」
もう胸がいっぱいの状態で肉をさらに口に運ぶことと、あのクソ鳥を冷えた朝霧の中立ちっぱなしで待たせることを天秤にかけ、私は再びフォークを手に取った。
「おい、遅いぞ! …どうした、ぐったりして」 文句も程々にホークモンが口にした心配の言葉に私は面食らった。まさかお前の「遅いぞ」の一言を聞く為に脂と格闘し、胸焼けで死にそうなのだとも言えない。 「何でもないよ。さ、何を説明すればいいの?」 ホークモンは肩をすくめる。 「言っとくけど、ここに来たニンゲンはお前が初めてじゃない。此処にあるのは、そいつらがこれまで使い方を説明できなかったモノだ。お前が果たして役にたつかな?」 「ホークモン、ついさっき怒られたばっかりでしょ!」ピヨモンがバタバタと翼をはためかせて嗜める。 「いいの」私はそう言って空き家に歩を進めた。何があるか知らないけど、やってやるわよ。
「これは?」ホークモンが埃をかぶった機械を指差す。 「…コンバイン、農作業に使う機械で」 「お前、使えるか?」 「…ううん」 「じゃ、意味無いな。次は…」 先ほど意気込んだにもかかわらず、私は思ったよりも役立たずだった。バックギャモンのルールだの脱穀機の有効利用の方法だのを急に聞かれても、分かるわけがない。 「なんだ、一階は全滅じゃないか。思った以上に使えないな」ホークモンがどこか満足そうに言って私の顔を覗き込む。 「…二階に行こ」私は頬を膨らませて言った。こいつの魂胆は分かってる。今の所村でにこやかに振舞っている私の底意地の悪さを露呈させようと言うのだ。私の性格はそこまで悪くないことを、このクソ鳥に優しく思い知らせてやれればいいのだけれど。 二階は一階以上に埃がひどかった。咳き込みながら雑多な物で満たされた部屋を見回す。 その一番奥に、見慣れた巨大なシルエットがあった。 「…あれ」私の指の先を見て、ピヨモンが目を見開く。 「あれはなんだっけ? 昔来たニンゲンが言ってだけど…」 「『ピアノ』じゃないか? 綺麗な音を出して楽しむ為のモノ」ホークモンが私を見た。 「使えるのか?」 私はこくんと頷いた。我が家には無かったが、母の実家にはピアノがあり、私は幼い頃から祖母にその弾き方を教えて貰ったものだった。 「やってみろ」 ホークモンに促されるままに、私はそのピアノの前に腰掛けた。埃が積もった蓋をあけると、白と黒の美しい配列が目の前に現れる。手を鍵盤の上に下ろすまでの間に、指が勝手にCのコードの形を作っていた。 ド・ミ・ソ、美しい音の並びが空き家に響き渡る。こんなに乱暴に保管されていたのに、音は全然狂っていなかった。ピヨモンとホークモンが驚きの声をあげる。コードだけでも新鮮なのだろう。 何か曲を演奏しようと思って、私は両手を鍵盤の上に置く。と、その途端に、苦い記憶が蘇ってきた。
中学校の教室には、どこにも必ず電気ピアノが置いてあった。祖母が教えてくれたピアノが大好きだった私は朝早く学校にやってきては誰もいない教室でそれを弾いていたものだ。 それがある女子、クラスの中心的な存在である女子に見つかったのは、中学二年生の合唱コンクールを控えた夏のことだ。 私のピアノの腕は褒められたものではない。そんなことは誰でも聞けば分かる。それなのに、そのバカな女はクラス中に聞こえる。大きな声で私のことを褒めちぎった。そして--何よりも嫌なことに--私もその賛辞に満更でもない顔をして照れていたのだ。
「ねえ、合唱コンクールの伴奏、やってよ」
断るべきだった。今になってそう思うのではない。そのバカ女の持ってきた楽譜は、いくつかのコードと単純な曲で満足していた私にとっては複雑すぎることは最初から分かりきっていた。家にはピアノもなく、練習できる環境も満足にない。最初から無理な話だった。 それなのに、どうしようもなく愚かな私は、はにかみながらそれを快諾してしまったのだ。なんの決心もせずに、あの深呼吸のおまじないもせずに。 練習しなくちゃ、勿論私もそう思った。家にピアノが無くたって学校で練習すればいい。たとえ下手くそだったとしても、頑張って練習している様子を見ていれば、クラスのみんなも許してくれるはずだ。
それなのに、私はそうしなかった。
平気なふりをして、みんなと笑っていた。
理由? そんなものはない。強いて言うなら、面倒くさかったのだ。頑張るのが、馬鹿みたいに思えたのだ。
コンクールの二週間前、初めてクラス全体で歌を合わせる日の朝、私はトイレで三度吐いた。今からでも白状してしまおうかと思った。少しも練習していないと、楽譜に目を通しすらしなかったと。
ピアノの椅子に腰かけた私に伴奏の開始を促す指揮者の男子の厳しい声、クラスのみんなからの冷たい視線、白い鍵盤の上に落ちた、誰かの涙。
それからのことはよく覚えていない。急遽曲目を変更し、クラスのみんなは--私以外のクラスのみんなは一致団結して何とか本番に間に合わせたはずだ。 本番当日、私は学校を休んだ。吐き気、寒気、喉の痛み、証拠のいらないエトセトラ。聞いた話では、コンクールの結果は惨憺たるものだったらしい。
私に伴奏することを進めたバカ女とその取り巻きの女子達、合唱コンクールに本気になって取り組んでいた女子達は声高に私を非難したが、それもやがておさまった。学校行事なんてものは青春の中の僅かな通過点に過ぎず、やがてはみんな忘れてしまうものなのだ。男子達は合唱のことなんか始めから気にもかけていなかったし、何人かの友人は私と引き続き親しくしてくれた。 それでも、一度失った信頼を私が取り戻すことは遂になかった。
調子に乗って無理な願いを聞き入れ、大した理由もなく努力を放棄し、信頼を裏切る。 高校受験で、私は両親に対して同じ過ちを犯そうとしていた。どんなに彼らのことを嫌っていようが、私を気遣ってくれる親に対してだ。全てがバレる前にデジタルワールドに来れて良かったと、心底思う。
「…マドカ?」 ピヨモンの声が、私を現実に引き戻した。顔を上げる。私はどんな顔をしていたのだろう。彼女は少し怯えるようにたじろいだ。慌てていつも通りの笑顔を作る。 「何でもないよ。少し昔のことを思い出してたんだ」 「そ、そうなんだ」彼女も笑顔を取り戻し、明るく言う。「もっと弾いてよ、ピアノ」 ピアノ、ピアノか。中学二年のあの事件から、ピアノには指も触れていなかった。もともと下手な上に一年のブランクがあるのだ。弾ける曲は限られてくるだろう。 そう、弾ける曲は限られている。おばあちゃんが教えてくれた、いくつかの曲。 私を心から救ってくれる、甲虫の歌。
すう、はあ。
私は鍵盤に指を下ろし、そして同時に歌い出した。ビートルズの「ブラックバード」だ。
ブラックバードは歌う 夜の死の中で
傷ついた翼で それでも飛ぼうとしている
君はずっと 待っていただけだったね
自分が自由になる瞬間をさ
ポール・マッカートニーは、黒人女性解放の思いを込めてこの歌を作ったらしい。知ったことか、これは私の歌だ。飛び立てるようになるのをただ待っているだけの、私の歌だ。 何年も前に死んだ作詞者(あれ、ポールは死んでないっけ? どっちでもいいや)の思いなんか、私には関係ない。
だから、飛べ、ブラックバード。どうしようもない私のことなんか置いて、どこかへ飛んで行ってしまえ。
最後の一音を弾き終わると同時に、ピヨモンが目を輝かせて翼を打ち合わせた。 「凄い、凄いよ。マドカ」 「そ、そうかな」 「アタシ、感動しちゃった。ホークモンは?」 「…そうだな」 腕組みをするように翼を合わせたまま、彼も言った。ふふふ、ザマアミロ。
それから私は、ビートルズのナンバーをいくつか弾き語った。「イン・マイ・ライフ」に「ヘイ・ジュード」それから「ノルウェイの森」。ピヨモンもホークモンも、黙ってそれに聞き入っていた。
「…今日のところは、こんな感じでどう?」 やがて私が言った。ピヨモンは頷く。 「今度、みんなにも聞かせてあげなくちゃ。ねえ、アタシにもその歌教えてよ!」 「いいよ」 「…それから、マドカ」 「なに?」
「ヒョコモンがもし帰って来たら、一緒に、私達のこと、助けてくれる?」
私の顔から笑顔がすうっと消えた。あまりにも切り出し方が急すぎるのではないかと思ったが、仕方のないことだ。村の子ども達が攫われている。その中には、ピヨモンの友達だっていただろう。私が知らないだけで、それは彼女の、いや、村のみんなの心の中にいつまでもわだかまっているのだ。多分、何かをきっかけに彼女の思いが溢れてしまったのだろう?
きっかけ? それはお前の歌だ。
そうかもね。
それで? お前はどう答えるんだ、マドカ? お前はまたそのピアノで、誰かを裏切るのか?
そんな心の声に、しばし俯く。そして、口を開いた。
「私は…」
「やめてやれ、ピヨモン」私の言葉を遮り、ホークモンが言った。 「ホークモン?」 「こいつはまだここに来たばかりだ。それに、子ども攫いの話を聞いたのだって今朝のことじゃないか。ヒョコモンのこともどうにか出来るか分からないのに、今決断を迫るのは酷ってものさ」 ピヨモンは彼の言葉にしばし目を見開き、そしてどこか寂しそうな顔で私の方を向いた。 「う、うん。そうだね。ゴメン、マドカ」 「気にしないで」 「アタシ、先に帰ってるね」
ピヨモンはいそいそと家を出て行った。扉が閉まる音を聞くと、ホークモンがこちらを睨む。 「お前が誰かを裏切る分には構わないさ。俺や他の村の連中になら、いくらやっても構わない」 でも、という声が目の前で響いて私は驚きに仰け反った。いつの間にか、ホークモンが目の前のピアノの上に乗っている。 「ピヨモンはやめろ。あいつを裏切ったら、俺もみんなもタダじゃおかないからな」 首に押し当てられた彼の羽先は柔らかかったが、背中からは汗が噴き出した。 「私がなんて答えようとしたか、分かるの?」 「さあな。でも、過去のニンゲン達を見てる」 眉をひそめた私の首から羽を離し、ホークモンは肩をすくめた。 「ニンゲンってのはズルいもんさ。そりゃあ、始めは良い奴も多いだろう。今のお前みたいに村のみんなと仲良く暮らす奴も少なくない」 だけどさ、とホークモンは語る。 「一ヶ月に一度やってくる満月が、奴等を嫌なやつにする。一月に一度帰るチャンスがあるんだ。そりゃあ誰だって思うだろうよ」
--飽きたら、帰ればいいや。
そんなこと、思ってないわ。自分の中の偽善者が叫ぶ。 嘘をつくな、私はそいつをを一喝した。私が自分の中で一番嫌いな部分であるそいつは、村の皆との楽しい一週間の中で気づかないうちに大きくなっていたようだ。
私はこの村を、元の世界の生活から逃げる為の場所として使っていた。そして今、この世界でも厄介な繋がりを作ろうとしている。私は一度逃げてこの村にいるんだ。この村からは逃げないと、どうして言い切れる?
「ありがとう、ホークモン」 彼のお陰で自分の嫌いな自分を目にしないで済んだ。 「礼を言われる筋合いはないね。俺も帰るよ」 そう言い残して、ホークモンはゆっくりと一階へと降りる階段へと飛び立つ。そして途中で、少し振り返って言った。 「さっきの歌、良かったぞ」
部屋に一人残された私は、驚きに声を失いながら、もう一度だけ鍵盤を叩いた。
もう一日を終えたというような気分だったが、時刻はまだ昼過ぎで、空には太陽が高く輝いていた。 「これ、貰っていいのかな…」 私はあの小屋にあった衣類を抱えていた。男物、女物、それぞれ数着ずつ。どれも色あせてはいるが、生地はしっかりしていたし、ボタンを付け替えれば着られるだろう。昔ここに来た人間が残していったものらしい。そんなものを着るのは御免被るというのが正直なところだったが、時たま下着を洗濯するだけで、上にはデジタルワールドに来た時のセーターとジーンズを着続けているという今の状況よりはよほど清潔だろう。 他にも使えそうなものは好きに持って帰っても良いとピヨモンが言っていたので、私は大きなチェス盤を選んだ。黒と白が規則正しく並んだチェス盤と精巧な細工の施された象牙の駒はこの世界でも変わらないらしい。もっとも、それは大量の衣類とともに運ぶにはあまりにも重く、私は何度も立ち止まって息を突かなければいけなかった。
「ニンゲンさん」
話しかける村のデジモンの声に、私は我に帰った。 「そんなに大荷物を抱えて、大変だろう。持ってあげるよ」 返事を待たずにその鳥(スワンモンといっただろうか)はチェス盤を抱え、私の横を歩き出した。大きな翼の持ち主なのに、わざわざその足で私とともに歩いてくれている。 「ありがとう…ございます」 「いいんだ。お礼なんか」 私は何故か申し訳ないような気持ちになって俯く。自分が先ほどピヨモンに言うかもしれなかった嘘が、あたまをぐるぐると回った。 「ごめんなさい…」 「ん? 何か言った?」 「あ、いいえ。なんでもないんです。ただ…」 私はかつてないほど純粋な気持ちになっていた。こんなにも優しくしてくれる村のみんなの力になりたいと、本気で思った。 「こんなにみんな良くしてくれるのに、なんの恩返しもできないのが申し訳なくて」 私の言葉に、その鳥デジモンは彼等特有のあのよく分からない方法で嘴に笑みを浮かべた。 「子攫いのこと、聞いたのかい」 なんで私はよく話したこともないデジモンにこんなにも心を開いているのだろう。そう思いながらも、こくりと頷く。 「気にしなさんな。俺たちだって自分達のことは自分達でなんとかできる。勘違いしちゃいけないぜ、俺はあんたがニンゲンだからこうして荷物を持ってやってるわけじゃない。村の仲間だからだよ」 ハッとして彼の顔をまじまじと見た。 「村の…仲間?」 「そうさ、ここに住むって、あんたが言ったんじゃないか」 「そっか、私が言ったんですよね」 二人でそうやってひとしきり笑った。 私はスワンモンの持つチェス盤に目を向ける。チェスのルールを知っているデジモンはいないということだったが、デジモン達にもルールを教えれば、今度は私がピヨモンや他のデジモン、それに、ホークモンを自宅に招けるかもしれない。
こんな考え、らしくないのは分かっている。元の世界の面倒で細やかな関係性から逃げ出すという目的と矛盾しているのも分かっている。でも、私は、やり直そうと思ったのだ。 誰にも嘘をつかず、立ち向かうべき場所で立ち向かうことのできる人になる。ここでの生活は、そのチャンスだと思う。
「あ、あの」私はスワンモンに話しかけた。 「どうした?」 「その、突然のことで申し訳ないんですけど、お願いがあるんです」 「いいとも。けれど、あまり無理を言っちゃいけないよ」 口を開く。自分の言葉が頭の中でこだました。
ああ、マドカ。お前はまたこんな風に、誰かを裏切るんだな。
いいえ、違うわ。私は心で唱える。そして、深呼吸をした。
すう、はあ。
「私のことを、信じてくれませんか?」 「はぁ?」 「き、急にわけわかんないお願いしてごめんなさい。でも、本当にそうして欲しいんです」 スワンモンは、肩をすくめるようなポーズをした。 「俺はバカだからな、分かりやすい頼みしか聞けねえよ」 「それなら! ええと」 あたふたとする私の顔を、彼は面白そうに見ている。 「そ、それじゃあ、こうしましょう。あなたが今の私みたいに大荷物を抱えて困っていたら、私に、それを持たせてもらえませんか?」 スワンモンはにっこりと笑った。 「それなら、勿論オーケーだよ」
「ふう、ここで良いかい?」 スワンモンはそう言ってチェス盤を優しく私の家の扉に立て掛けた。 「は、はい! ありがとうございました」 こんな時、私はいつも相手が気分を害するくらいまで沢山頭を下げる。でもその時は、何故か軽い会釈と笑顔だけが溢れた。それで良いと思えた。 「おうよ、それじゃあな」 飛び去っていくスワンモンの背中を見送り、私は扉を開けた。妙な早起きの後に色々なことがあって、昼過ぎにもかかわらず眠ってしまいたい気分だった。 軽やかな足取りで寝室に向かった私の足は、藁のベッドの前で止まった。
「なに…これ」 この世界に来るときに来ていたコートを、私は布団がわりに使っていた。畳んで藁のベッドの上に置いていた筈のそれは千々に割かれ、部屋中を綿が待っていた。 しゃがみ込み、今では何の用も為さなくなった布切れを覗き込む。ずたずたに切り裂かれたそれの切り口に目を向けた。
「これは…嘴?」
地面がぐらつくような感覚を覚える。中学二年のあの日、ピアノの前に座って受けた視線と囁きが再び私を捉えようとする。私は自分の頬を叩き、それを振り払った。 しっかりしろ、マドカ。分かっていたことじゃないか。どこにだって無言の悪意はある。お前はさっき決意したんじゃないか。新しい信頼を築き、ピヨモンやホークモンとチェスをするんじゃないのか。この程度で揺らぐ決意があるものか。
私はコートだったものを横に放り、ベッドに飛び込んだ。今はとにかく眠りたいような気分だった。
その夜、私は自分が黒い鳥になる夢を見た。私は死んだように静かな夜に向けて必死で叫んでいた。飛び立つ準備はできてるんだ。ただ、足に蔦が絡まって動けないの。自由になるのを待たなくちゃ。
次の瞬間、私は空気銃を持った若い男で、目に映った黒い鳥に照準を向け、何のためらいもなく引き金を引いた。ちっとも逃げないとは、バカな鳥もいたものだ。
12月8日 ヒョコモン
ここで暮らし始めて一週間が経つ。 生活には何の不自由もなかった。厄介だった階段の上り下りも、階段の隣に据え付けられた動く部屋の使い方を覚えてからは何の苦もなくできるようになった。ボタンを押すと体を運んでくれる箱とは、不思議なものがあったものだ。一人きりの生活に孤独を感じないと言ったら嘘になるが、村で向けられる冷たい視線のことを思えばどうということもない。
その一方で、この空間についての疑問は増していくばかりだった。最初にここに来た日に感じた、自分のものではない何かが耳元で語りかけてくるような感覚は、この一週間で消えるどころかかえってその頻度を増していた。最初に目覚めたあの家に帰ろうとする度に、帰りたくないという憂鬱に襲われ、それなのに足は勝手に家に向く。
街を散策している時も似たような感覚に襲われることがあった。ここは好き、ここは嫌い。そんな声が語りかけてくる。新しい場所を歩いている時には、ここから先の道はよく知らないと言ってくる時もあって、そんな時ボクはおとなしく引き返すのだった。 お節介とも思えるその声だったが、ボクに対する敵意を感じたことはない。声のおかげで孤独がいくぶん紛れていることも確かだった。それでも、正体不明の何者かの声が聞こえるというのは不気味でしょうがない。
そんなわけで、ボクはこの声について調べることに決めた。街のあちこちをめぐり、その何者かがボクにどんな感情を託すかを並べ上げていく。どんな場所に彼(或いは彼女)は好感を覚え、どんな場所に嫌悪を抱くのか。それをまとめれば、彼(或いは彼女)がどんな嗜好の持ち主かくらいは分かるかもしれない。 そんなことを考え、張り切ってドアを開ける。外に出た途端に、朝の光が目を刺し、いつものように心から憂鬱がすっと抜けるのを感じた。
もし仮にこの家がボクに語りかけてくる声の主の住まいだったとして、自分の住んでいる場所が嫌なところというのは変わってるな。 そこまで考えて、ボク自身も自分の住む村が嫌でここに逃げて来たのだと思いあたり、ため息をついた。
なあ、ひょっとして、ボク達、似てるのかもな。
最初は、声に従うことから始めた。声が右と言ったら右、左と言ったら左に向かい、どこに行き着くのかを確かめる。 そうやって足の向くままに歩いていると、心がまた憂鬱を感じ始めた。この感情は、朝眠い目をこすって渋々とホークモン達との鍛錬に行く時のものに似ている。
行きたくないな。行かなくちゃ。
またかよ。ボクはため息をつく。憂鬱な家をやっと出たのに、また憂鬱な場所に向かうのか。君も物好きなやつだな、と声の主に向けて心の中で呟く。
やがて見えて来た建物は、周りの家々に輪をかけて巨大だった。その白壁と大きな門には見覚えがある。 「…あの写真だ」 それは、ボクの部屋、そして多分ボクに語りかける何者かの部屋に飾ってある少女の写真の背景となっている建物だった。 その建物の巨大な庭を突っ切り、玄関口に立ちながらボクは自問する。 やっぱり、あの少女が声の主なのだろうか?
全く最低なことに、その高さにも関わらず、その建物にはあのボクを乗せて上下動する箱が取り付けられていなかった。 階段をやっとの思いで上ると、ある階で心にのしかかる憂鬱の色が一段と濃くなった。声がやだ、やだと子どものように喚き、胸に重い感触を覚える。 「…ここに、何かあるのかな?」 ここで引き返す手はない。ボクは吐き気と戦いながら、憂鬱の濃くなる方、声が駄々をこねる喚き声が大きくなる方へ進んだ。 とある一室の前で、ボクは床に手をついてはついに嘔吐した。硬く冷たい床にこぼれ落ちた食物だったものをしばらく見つめ、ボクは再び立ち上がる。 この部屋なんだな。ボクはまだ大丈夫だ。吐いたおかげでかえってスッキリした。教室に足を踏み入れる。大きな部屋だ。ボクの住む家のあの居間よりももっと大きい。たくさん並べられた椅子を見る限り、よほどの大人数、ボクの村の住人を全部合わせたよりも多いくらいの人数を入れる空間なのだろう。 重くのしかかる空気の中でも、どこに向かえばいいかははっきりと分かった。 部屋の前に置かれた黒い台、そこに向けて足を踏み出す。鉄の輪でも括り付けられたかのように足は重かったが、ゆっくりとそれを持ち上げ、前に出した。声はもう抵抗する気力すらないのか、だんまりを決め込んでいる。
「これは…村で見たことある」 その台に敷き詰められた黒と白の棒には見覚えがあった。村外れにある倉庫、ニンゲンのモノの中でボク達デジモンには使い道が分からないものをまとめて放り込んでいるその場所に、これと似たものがあった。 「確か…ピアノ、だっけ?」 そう言ってピアノの前に置かれた椅子に飛び乗った瞬間に、体が凍りついたような感覚に襲われた。かなり無理な体勢で椅子の上にいるにもかかわらず、一歩も動ける気がしない。 それだけではなかった。 体にまとわりつくように感じるいくつもの視線の感覚、ここには誰もいないのに、四方八方から感じる、冷たい、軽蔑するような視線。
なあ、アイツ、何してんの?
おい、さっさと弾けよ! 声が大きいって? 別に良いじゃん。アイツのことよく知らねえけど。
やだ、嘘、泣いてる?
意味わかんないんだけど、調子乗ってやるって言ったの、アイツじゃん。
「やめろ…!」 ボクを村からこの場所に追い立てたのと同じ感触に、必死で重い嘴を動かして、声を上げる。それでも視線は消えず、体は動かないままだった。 おい、頼む! 助けてくれよ。 隣で沈黙している声の主に向けて心でそう叫ぶ。この感覚がどういうものかははもう嫌という程思い知ってる。お前も、変われない自分のダメさ加減のせいでこんなところに落ち込んだんだろ? わかったから! なんとかしてくれ! 体中を不躾に突き刺すような視線にがんじがらめにされ、ボクはまた胸に酸っぱいものがこみ上げるのを感じた。 ちくしょう、なんで逃げてきてまでこんな目に遭わなきゃいけないんだ!
ぽーん、という美しい音で、ボクは我にかえった。いつのまにかボクは自由に動けるようになっていた。 きょろきょろと周りを見回す。今の音は?
だーん、また音がした。今度はいくつかの音が重なり合ったような感じ。見れば、目の前のピアノの白と黒の棒が勝手にへこんでいる。 普通なら、声を上げて逃げ出すところだ。でもボクは、その見えない奏者が奏でる音の連なりに心を奪われていた。
その歌はーーボクはなんでこれが“歌”だと分かるんだろう? そうか、ボクは頷く。あの声、ボクのすぐ側にいるあの何者かがピアノに合わせて歌っているのだーーその歌はシンプルな音のつながりに過ぎないのに、とても美しく、力強く、そして、とても悲しかった。
これはボクの歌だ。声が歌い上げる言葉の意味はよく分からない、けれど分かる。これはボクの歌。チャンスを単に待っているだけの、いつまでも飛び立てないボクの歌だ。
やがて歌が終わり、ピアノがその沈黙を取り戻した頃、ボクの瞳には、なぜだか涙が溢れていた。
「これは、君の歌でもあるんだな」
声の主にそう話しかける。隣にいる彼(または彼女)が自分と似たような境遇だと知って、ぐっと気分が楽になった。この世界にきて、初めて救われたような気分だった。
「でも、君は変わった。少なくとも、変わろうとし始めた。たった今、ボクの前で」
声の主はその歌で、ボクと同じ止まり木から飛び立っていってしまった。
「なあ、教えてくれよ。ボクも、君みたいに…」
変わることができるかなと口に出そうとしたボクの顔は、近くで聞こえた大きな音に凍りついた。
足音だ。
その後に今度は粗暴な声がついてきたのを聞き、肌が逆立った。 まさか、ここには他に誰もいないはずじゃ。
いや、そんな事を言ってる場合じゃない。相手が何者かも分からないんだぞ。とにかくどこかに隠れるんだ。
ボクはその部屋を見回す。後ろの方の荷物をしまうための棚に目が止まり、そこに向けて走り込んだ。引き戸を開け、中に閉じこもる。 部屋のすぐ外で声が聞こえた。間一髪だったみたいだ。
「うわ、なんだよこれ!」
最初は先程と同じ粗暴な男の声。それに答えるように、今度は落ち着き払った女の声がした。
「…吐瀉物みたいね」 「はあ!? ざけんなよ。ここには俺たちの他に誰もいないんじゃねえのか?」 「その筈なんだけど、妙ね」 「うわ、よく触るな。きったねえ」 「…まだ乾ききってない、ついさっきまでここにいたのよ」 「ここの中か?」
部屋に入ってくる二つの足音が聞こえる。ボクは恐怖に震える足を抑え、息を殺した。
「誰もいねえな」 「ほっときましょうよ。私達の邪魔をしない限りは無視すればいいじゃない」 「それはそうだけどよ、誰かわからない奴にうろつかれるのも気味が悪いぜ」
それはこっちのセリフだ、心で呟く。二人の言い争いが女の勝利で終わる事を祈った。二人がボクのことを手始めにこの部屋から探すなんてことになったらアウトだ。
「とにかく、今はやるべきことをしましょう。この部屋であってるみたいだわ」 「ま、そうだな」
二人がうなずきあう声が聞こえたと思うと、大きな音が部屋中に響き渡った。
何発もの銃声、木が砕ける音、そして、ピアノの奏でる不協和音。
ピアノを壊しているのだ。原型を留めないほどに、バラバラにしようとしているのだ。息を飲む。情けなく棚に隠れながらも、怒りのために手が震えた。 何をやってるんだ! そのピアノは、ボク達の歌を奏でる為のものなんだぞ! 背中に手をやり、すぐに刀を家に置きっぱなしにしてきたことに気づいた。いや、仮に刀があっても、ボクには何もできなかったろう。ボクは弱虫で、どんなに怒っていても、刀を抜いて立ち向かって行く勇気はない。
やがて音はやんだ。二つの足音が部屋を出て行く音がする。僅かに扉を開け、その後ろ姿を目に収めた。
赤いコートの女、紺色のコートの男、女はサングラスで、男はコートに顔を深く埋めることで人相を隠している。
足音が去るのを確かめ、扉を開けた。ピアノの残骸に駆け寄る。飛び散った木片の一つを手に握りしめると、怒りがまたこみ上げてきた。
「…許さない」
ボクは何もできない、でも、正義感だけは人並みにあるのだ。特に、自分と似たような人が変わろうとする瞬間に水を差されたような時には。
後編に続く