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12月22日 鈴代円香
「…ホークモン、ひょっとして、チェスのルール昔から知ってた?」
「いいや、今週お前から教えてもらったばかりだ」
「ねえねえマドカ、今はどっちが勝ってるの?」
「ピヨモン、私が勝ってるんだよ」
「嘘は見苦しいぞ」
私はピヨモンに向けた引きつった笑顔をなんとか保ったまま、チェス盤に再び向かい合った。ホークモンのビショップによって追い込まれるところまで追い込まれた私の黒い兵隊達の慟哭が耳元で聞こえるような気がする。
ホークモンは渋い顔でルークを進めた私を嘲るように見つめ、ルークが退いたお陰で私の陣の奥まで開通した斜めの道にクイーンを走らせた。私は頭を抱えて叫ぶ。
「あー! ちょっと、今のナシ!」
「待ったはナシってお前に教えてもらったのも、今週のことなんだがな」
「チェスすると性格の悪さが出るって言うよね。そう思わない、ピヨモン?」
「え? そ、そうかもね」
「性格の悪さがバレてるのはお前の方だろ。さっきの『クソ鳥』ってのは俺のことか?」
「あら、私がそんなこと言ったんですか? 気のせいじゃない?」
言い争う私とホークモンを止めたのは、ピヨモンのくすくす笑いだった。
「どうしたの? ピヨモン」
「いや、二人とも仲良いなーと思って」
「良くない!」
同時に叫んだ私達を見て、ピヨモンはさらに笑った。私も少し息を落ち着けて、日の光に照らされたピヨモンを眺める。東北にある私の街でいうと秋頃にあたる気候が年中続くこの村にしては、今日は暖かい日だった。私もいつもの冬物のセーターを脱いで、かつて村に住んでいた人の持ち物だったという赤い男物のネルシャツを着ていた。
デジタルワールドに来て二週間、そろそろ半月だ。村の全員と打ち解けられたわけではないが、手伝いを率先して引き受けたり、家に招待したりして、多少は村に馴染めた気がする。特にピヨモンやホークモンとは、最初に装っていた大人しい少女の皮を脱いで、素の私で接することができるようになった。こんなにみんなと仲良くなったニンゲンはマドカが初めてですよと村長のアウルモンも言ってくれている。
もっとも、油断は禁物だ。私の中の弱さは、決まって私が楽しさの絶頂にいるときに忍び寄って来る。奴は私がみんなを裏切るように仕向けようとしているのだ。
それだけじゃない。私は視線を部屋の隅の小箱に向けた。その中には先週に何者かによって引き裂かれた私のコートが入っている。それと似た嫌がらせは、この二週間で三回行われた。家に傷をつけられたり、藁のベッドに少し尖った木の枝を仕込んだり。特に死んだ虫の塊を窓から投げ込まれたときには心臓が止まりそうになった。
私はそのことを村長のアウルモンや他のデジモン達には相談していない。相談するだけ無駄だと知っているからだ。中学二年生のあの合唱コンクールの後も似たような嫌がらせは幾つかあったが、大ごとにして碌なことはなかった。
しかし、これ以上虫を投げ込まれ続けることを甘んじて受け入れたわけではない。こういうことを先延ばしにすることの積み重ねで、元の世界の私は駄目になったのだ。私はこの村で信頼を掴み取ると決めたのだ。いずれは立ち向かわなくてはいけないだろう。
思えば元の世界にいた頃の私は、逃げてばかりだった。家と学校以外にも、嫌な場所は街にたくさんあった。昔他の生徒と喧嘩して辞めた古い雑居ビルの二階にある塾、昔通っていた面倒くさい体育会系の空気が支配するスイミング・スクール、よく話しかけてくる鬱陶しい知り合いの親がやっているパン屋。そんなもの全てから、私は逃げていた。それを通して見える弱い自分を見つめることから、逃げていた。
そして、こっちの世界でも、私が向き合わなくてはいけないことは山ほどあった。今度は逃げない。チェスを口実に二人に自宅に来てもらったのも、その為なのだ。
「あのさ」ネルシャツの長い袖をぎゅっと握りしめ、私は口を開いた。
「どうした、もう一戦負けたいのか?」そう茶化してすぐに、私の口調が真剣なことに気づいたのだろう。ホークモンは口を噤んだ。
「どうしたんだ、マドカ?」
私は棚に置かれたデジヴァイスを手に取った。
「ヒョコモンのこと、教えて欲しいの」
「…わたし、予定思い出しちゃった」
ピヨモンは私の言葉に無表情になったかと思うと、不意にそんなことを言い出した。ホークモンが彼女に鋭い目を向ける。
「ピヨモン」
「それじゃあ行くね。今度わたしにも、それ、チェス、教えて」
そう言ってピヨモンは翼を広げ、ホークモンと私の制止を振り切り、窓から飛び出していった。やれやれと言ったようにホークモンが私の方を見る。
「お前の言い方が急だったから、驚いたんだろう」
「ヒョコモンのこと、やっぱり何かあったの?」
「まあな。事情があるんだ。余りピヨモンを責めないでやってくれ。いや、俺にもそんなことを言う資格はないな」
ホークモンは落ち着かなさげにチェス盤に乗った白いナイトを掴み、その翼の上で転がした。
「マドカ。お前は薄情だと思うか? これまでの二週間、俺たちがヒョコモンのことを話題にも出さなかったことを」
「…どうかな」
私は口ごもる。確かにデジモン達がヒョコモンの話をするのは聞いたことがなかったが、私はこの近辺で子どもの誘拐が起きているということにもアウルモンの話があるまで一週間気づかなかったような鈍感だ。それに。
「…人間界でも引きこもりはそういう扱いだから、薄情だとは思わないかな。あまりにも話題に出ないから、違和感は感じたけどね」
「そうか」ホークモンはもう片方の手で今度は黒のナイトを掴んだ。両手で象牙の駒を転がしながら、遠くを見るようにして話を続ける。
「俺たちは、みんなあいつに負い目があるんだ。それなのに、それから逃げてるんだよ」
「昔な、タチの悪い盗賊がこの村を襲ったことがあった」
「…子攫いといい、ここ、そんなに治安が悪いの? 今もみんな呑気にしてるけど」
「仕方ないさ。村の雰囲気ってもんがあるからな。でも俺も、皆そろそろ真剣に防衛を考えなければいけないと思ってるんだ。俺たちの“止まり木の村”は戦えたとしても非力な成長期か成熟期、村長のアウルモンも成熟期だしな」
「どうにかならないものなの、それ?」
「どうにかしようとしてるんだ。俺たちの鍛錬は見てるだろ」
私はホークモンとピヨモンが毎朝やっている空を飛びながらの組手を思い出した。なるほど、戦いの訓練なんてしてたのはそういうことか。
「偉いね」
「偉かないさ。俺たちが戦おうという気持ちになったのは、あるデジモンに出会ってからなんだ。そいつはさっき話した盗賊に村が襲われてる時に通りかかって、盗賊達を倒しちまった」
「強かったんだ」
「強かったよ。でも、そいつ一人じゃ多勢に無勢だった。この村のデジモンが手助けすればあるいはもっと楽だったかもしれないが、みんな怯えてしまって、隠れて見てるだけだったんだ。結果として、そのデジモンは盗賊達を倒すのと引き換えに命を落とした」
ホークモンはそこで一呼吸置いた。どんな映像が彼の中に浮かんでいるのだろう。血の赤に染まった光景を知らない私には、到底想像できなかった。
「そのデジモンはディノヒューモン。旅の途中で拾った鳥デジモンの子どもをこの村に託す為に偶々やってきていたんだ」
ピンときた。「もしかして、その子どもが…」
ホークモンが頷く。
「そう、ヒョコモンだよ。俺たちは、あいつの親代わりだったディノヒューモンを見殺しにしたんだ」
「最初に言っとくが、俺は村の皆がヒョコモンに負い目があるとは言ったが、あいつ自身に気を使う必要があったとは言ってない。ヒョコモンは掛け値無しのクソ野郎だった」
ホークモンは鋭い目つきのまま語った。
「それで、強く当たったんだ」
「初めて会った時から、あいつの事は嫌いだったよ。だから、今も後悔はしてない。ディノヒューモンに憧れてた。刀をいつも持ち歩いて、これで人を助けるんだなんてことを言ってたな。それなのに、肝心の修行はなんやかんやといってサボるんだ」
「彼が引きこもった直接の原因は、私よね」
「お前というか、デジヴァイスだな。デジヴァイスがヒョコモンの元に来た時、村の連中は馬鹿みたいに、これまで鼻つまみ者にしていたあいつに期待を寄せた。ヒョコモンも最初はいい気になって、村を救ってやるとか意気込んでたんだが、意気込みだけで強くなるわけでもないしな。これまでもサボりがちだった鍛錬についても、変わる事はなかった」
私はため息をついた。どこかで聞いた話だ。
「ヒョコモンの所にデジヴァイスが来た時、あなたはどんなふうに思った?」
ホークモンは肩をすくめた。
「特に何も思わなかったな。あいつが頼りにならない事は分かりきっていたし、俺が村を守るつもりでいた」
「ピヨモンは?」
「あいつがヒョコモンをどう思っていたかは俺にもよく分からない。ただ、俺がヒョコモンを責める時、ピヨモンはあいつの肩を持つことが多かったな」
「でも、あんな風に出て行ったってことは、何かあるのよね」
「かもな」
「…ヒョコモンは、どうやったらデジヴァイスから出てくると思う?」
「興味ない。アウルモンは色々と調べてるみたいだが、デジヴァイスの中にこっちから干渉することは不可能だ。でも、あいつは何もかも中途半端だからな、いずれ出てくるさ。村の幼年期が一体残らず攫われた頃にさ」
ホークモンの素っ気ない態度に、私はまたため息をついた。ヒョコモンの辛い立場はよく分かる。よく分かるからこそ庇ってやりたくなるのと同時に、そんな奴に優しくしてやる必要はないと思う。自分と悪い部分が似た者について判断を下すのは難しいことだ。
「ヒョコモンのことはこの際どうでもいいんだ」ホークモンは、とどめを刺すようにそう宣言した。
「俺の気にしてるのは、マドカ、お前のことだ」
「私?」
「そうだ。お前がこの村で暮らしていく腹を決めたのは、何となくわかった。一週間前までのムカつく猫っかぶりも減ったし、村の連中も歓迎してくれるだろう」
「そ、そう。ありがと」
「だけどな。お前がどんなに村の一員として普通に暮らしたいと言っても、どだい無理な話なんだ」
「…やっぱり、これ?」私は手にしたデジヴァイスを振ってみせた。
「そうだ。お前は村の窮地にやってきた英雄なんだ。賭けてもいいが、村の連中はお前を見捨てるぞ。ディノヒューモンにしたことを、ヒョコモンにしようとしたことを、お前にする」
「…そうかな」
ホークモンの話す偽善的な村の雰囲気と、私が二週間暮らした村の雰囲気とは、中々イメージが噛み合わなかった。二週間前に私と約束をしたスワンモンの笑顔が脳裏に浮かぶ。
「ありがとね。ホークモン」
「礼はいらな…」
「でも、私。もう少し皆を信じてみることにするよ。ホークモンのこともね」
彼は目を開いて私を見つめ、呆れたように翼を広げた。
「忠告はしたぞ。勝手にしてくれ。…お前、人間界でも、そうやって素直にしてればよかったんじゃないか?」
私は俯く。人間界で私に何かあったって、何で分かるのよ。
「…ホークモンこそ、少しはヒョコモンにこういう風に素直に話してやれば良かったんじゃないの。なんだかんだいって、友達だったんでしょ?」
鷹は何も言わずに、窓から飛び立っていった。
「あんたも色々あったのね」
夜、私は目の前に置いたデジヴァイスに向けて話しかけていた。ヒョコモンに聞こえているかどうか分からないが、何となくそういう気分になったのだ。
「あんたの育ての親、ディノヒューモン、だっけ?」
沈黙。
「カッコいいデジモンだったの? あんまり立派で、押しつぶされるような気分になるくらいに?」
沈黙。
「私も、そのくらいカッコいい親が欲しかったな」
私はこの二週間、ビックリするほど親のことを気にしていなかった。二人が私のことを心配しているかどうかも気にならなかった。
「私ね。お父さんもお母さんも大嫌いなんだ。お父さんは幼稚で気分屋で、私のことをおだてたかと思えばすぐに突き落とすようなことを言う。そのどっちの台詞も安っぽくて、大嫌い」
誰も聞いていないのは分かりきっているのに、言葉は勝手に溢れ出した。
「お母さんは割とマシな方なんだけど、とにかくアタマが悪いのね。私のこと碌に知ろうともしないのに、勝手に無理な期待をかけられて、うんざりしちゃう」
久し振りに高校受験に関わるエトセトラが頭をよぎり、私はため息をついた。
私は頭は悪くない。これまでは大した努力をしなくてもそれなりの成績を取ることができた。親の勧めるままにとある大学に付属した中学校を受験し、苦もなく合格を収めた。両親は優秀な娘を持ったと満足そうだったが、私は何の感慨も抱かなかった。部屋に飾ってある、入学式の日に校舎をバックに撮った写真の私は嘘っぽい笑顔を浮かべている。
そして現在、親からおだてられ私が目指している高校は、先生曰く私の学力では『努力次第』ということだった。春にもそう言われた。夏にもそう言われた。
そう言われて私が何をしたかは分かるだろう。何もしなかったのである。
私が渋々と提出する成績が段々と下がっているのに親もいい加減気づいたのだろう。最近になって妙な焦りとともに私を叱り始めた。そのどれもが安っぽくて、私はうんざりだった。
「何より悪いのはね。それが全部、私のせいだってこと。お父さんやお母さんが嫌いなのも、元を正せば私が悪いんだよ」
金持ちとは言えなくても、両親は私に不自由のない生活を送らせてくれている。高い金を払って塾にも通わせてくれている。感謝しなければいけない。
それなのに、父に塾の授業料を引き合いに出されて努力を促される度に、私は父が嫌いになるのだ。そんなことでケチケチするなよ。安っぽい。我ながらとんでもない娘だと思う。
「刀で人助けをしたい、だっけ?」
私はホークモンから聞いたヒョコモンの台詞を思い出した。彼の掲げたご大層な目標、それを周りに言いふらしながら、達成の為のなんの努力もしなかった目標。
「でも分かるよ。あんたは本気でそうしたいと思ってたんだよね」
そう、合唱コンクールのピアノ伴奏を申し出た時も、三者面談で父の視線を感じながら身の程似合わない志望校を口にした時も、私はいつだって“本気”だった。
分かるよ。分かる。私もあなたと同じ、逃げ出したクズだから。
でもさ。
「刀は好きだったんでしょ? そんな風にいつも持ち歩いて」
その気持ちもヒョコモンにとってきっと“本気”のものであったはずだ。
「あんたがもし、アウルモンとか村のみんな、それにあのクソ鳥に叱られたせいで刀を見るのも嫌になってたら、それは悲しいことだと思うな」
私はあの合唱コンクールの件のあと、ピアノに近寄るだけで胸に何か重いものがこみ上げるような感情を抱くようになってしまっていた。ピアノは嫌いになったと、もう二度と弾くことはないだろうと思っていた。
それでも、この村で、もう一度ピアノを弾くことができた。下手くそではあったけど、ピアノを弾くことを、何よりも幸せで楽しいことだと思えた。
「色んなしがらみは置いといてさ。スキなものはスキでいいんだよ、きっと」
出てきなよ。あんたを分かってやれる可愛い女の子が、ここに一人いるよ。
デジヴァイスの方をちらりと見る。なんの反応もない。一人で恥ずかしいことを口走ってしまったような気がして、私は慌てて目を瞑り、デヴァイスに背を向けて寝転んだ。
それでもなお、夜の静寂の中で私は語り続けた。気の置けない友人に話すように。
「…さっきはああ言ったけど、私の父さんと母さんも昔はカッコよかったんだよ。いや、写真で見ただけなんだけどね」
その写真は、家のリビングに置いてある。若い二人のオーストリア旅行での写真だ。当時の母はまだ第一線で活躍するファッション・モデルで、父親も平凡な地方公務員ながら弁護士になるという夢を抱いて輝いていた。その年のオーストリアは記録的な寒波に襲われたらしく、真紅のノースリーブの服と紫の手袋に身を包んだ母はサングラス越しにそうと分かるほど凍えている。紺の外套に顔を埋め、大きな帽子を被った父が、そんな母の肩を温めるようにそっと抱いていた。笑顔の二人は現在そのリビングに座っている平凡な優しさとひらめきのない趣味の良さだけが取り柄の女と、夢破れて娘に安っぽい言葉を吐き出すだけの男とはかけ離れて見えた。
「私は昔から今の父さんと母さんにウンザリしててね。写真の中の二人をヒーローに見立てたりしたの。あのカッコいい夫婦がある日やってきて、私を連れ去ってくれるんじゃないかってね」
写真の中の二人の顔は寒さの為に顔を隠しており、幼い私にはそれが正体を隠したヒーローのように見えたのだった。私の想像の物語の中で、あの二人はいつも主役だった。
「赤い服の“謎の女”と、青い服の“謎の男”。馬鹿みたいだよね」
そう言ってけらけらと笑うと、私は眠りについた。
翌朝、デジヴァイスが消えたことに気づくのに、そう時間はかからなかった。
12月22日 ヒョコモン
あのピアノを破壊した二人組を目撃したあと、ボクは再び刀を背負うようになった。 実際に連中に出くわしたら、尻尾を巻いて逃げるしかないだろう。それでも、これを持っているだけで幾らかでも勇気が湧いてくるような気がした。
この世界に来て三週間目の最初の朝も、ボクはそんな風に刀を背負った。
「ディノヒューモン…」
みなしごだったボクを救い、村まで届けてくれた彼の名を呟く。勇敢な剣士で、ボクの憧れだった。 この刀は彼に連れられて旅をしていた時に貰ったものだ。彼は、ボクに自分と同じような剣士になってもらいたかったのだろう。
なりたい、と思う。
なってやる、と思う。
それなのに、ボクは今日に至るまで訓練らしい訓練をロクにしてこなかった。いろんな理由をつけて。この村は平和だから。もっと強いホークモンがいるから。ディノヒューモンは、もう、いないから。
日々の鍛錬でどんどん強くなっているホークモンとピヨモンには、ボクのハッタリはとっくにバレてしまっているだろう。声高にボクをなじるホークモンも、ボクの駄目さ加減をよく知った上でなおも庇うピヨモンも、嫌で仕方なかった。
それでこんなところまで逃げて来たのに、また自分の意思で刀を持つことになるとは。 部屋で刀を抜き、試しに一度振ってみる。太刀筋には少しの勢いもなかった。これではポヨモンみたいなゼラチン質のデジモンだって斬れないだろう。 むきになって、無茶苦茶に刀を振り回す。切っ先が箪笥にあたり、木製のその箱に傷がついた。息を吐きながら手を止め、箪笥の上の写真を見上げる。
嘘っぽい笑顔の少女。そして、たまに語りかけてくる声の主。この二人が同一人物であるということに、ボクはもう殆ど疑いを抱いていなかった。
「君のために、こんな惨めな気分になってるんだぞ」
写真に向けて呼びかける。それも自分の無力から逃げるためにでっち上げた無茶苦茶な言葉であることは分かっていた。
「大体さ。こうして刀を持って外に行こうとしてるのも、君のことを知りたいからなんだぜ」
この少女が何者か知ることに、ボクは躍起になっていた。そうはいっても手がかりとなるのは“彼女”がボクに託す好悪二つの感情のみ。この場所は安心できる。その場所は憂鬱になる。それだけだった。 調べ始めてすぐに、この街には“彼女”を安心させる場所よりも、憂鬱にさせる場所の方が圧倒的に多いことに気づいた。色々な店が集まっているらしい高い建物、パンをたくさんおいた店。理由は知らないが、“彼女”は街の至る所で心にのしかかる重石を増やしているらしかった。
「そんなに窮屈なら、ボクみたいに逃げてしまえばいいのに」 そこまで言って、“彼女”はもう逃げることはないのだと気づいた。一週間前に、これまででもトップクラスに濃い憂鬱を纏ったピアノの前で起きた不思議な出来事。そこでボクは、“彼女”がその憂鬱に立ち向かい、克服するのを目にした。そんな風にして、“彼女”は今までのさまざまな憂鬱を振り払っていくに違いない。
ボクをおいて、また誰かが飛び立つのか。
そんな感情が頭をよぎり、ボクは思わず頭を振った。“彼女”はボクと似ている。その前向きな変化を、ボクが応援しなくて誰がするだろう? それに、ボクが足を引っ張んなくたって“彼女”を邪魔する奴はいる。青いコートの“謎の男”に、赤いコートの“謎の女”。あの二人が、彼女の変化の象徴とも言えるピアノを破壊した時に感じた言い知れぬ怒りは忘れられない。
あんな奴らに負けるなよ。頑張れ。
そう心で呟くと、ボクはドアを開ける。頬に吹き付ける冷たい風にも、もうすっかり慣れてしまっている自分がいた。
街の変化に気づくのにそう時間はかからなかった。 見慣れたアスファルトの道に昨日までは無かった傷を見つけ、覗き込む。それが何によってついたものか知るのには、周りを少し見回すだけで良かった。傷から離れた場所に転がった、先の尖った円筒型の物体を手に取る。 ディノヒューモンと物騒な地域を旅をしていた頃には度々見た形だが、長い平和な村の暮らしの中では見る機会が無かった為に、それが何かを思い出すのには時間がかかった。
「…銃弾?」
ごくり、と喉がなるのが分かった。あの二人組も銃を使っていた。やはり、奴らがこの街をうろついているのだ。 しかし、一体なんで銃なんか撃ったんだ? 周りを見回す。血痕のようなものはなく、戦闘の跡といったものも確認できなかった。 しかし、ふと上を見上げると銃の向けられた先が分かった。 背の高い建物、その中腹、おそらく二階にあたるであろう場所が、滅茶苦茶に破壊されていた。窓ガラスは砕かれていて、ぼろぼろになった壁紙や砕かれて床に転がる机が見えた。
その有様に驚く前に別のことに思い当たった。自分の息が荒くなるのを感じる。 これはあの建物じゃないか。ボクのリストの中にあった場所。
“彼女”の嫌いな場所だ。
肌が逆立つ。背負った刀に手をやり、握りしめた。 落ち着け、考えろ。これは一体どういう意味だ?
連中が一週間前にピアノを破壊したことは気まぐれじゃない。絶対に意図があってやったことだ。 今まではそれを変わろうとする“彼女”を邪魔しようとするための事だと思っていた。でも、そうじゃない。
あの二人組は、“彼女”の嫌がる場所を破壊しているんじゃないのか?
そうだ。あのピアノは今でこそ、“彼女”の前向きな変化の象徴だが、あの二人組が来る直前まで、“彼女”にとって最も忌まわしいものの一つだったじゃないか。あいつらがピアノを破壊したのは、わずかな時間差が招いた不幸な誤解の結果だったと考えられないか?
銃弾を手で転がしながら、もう一度滅茶苦茶にされた建物を見上げる。仮にそれが“彼女”を想ってのことだったとしても、彼らがあのピアノにしたことを許す気にはならなかった。 “彼女”は変わろうとしている。自分の避けていたものと向き合い、克服しようとしている。それを破壊するのは、彼女をいつまでも鳥籠に閉じ込めるようなものだ。 そこまで考えて、ボクは自嘲気味に唇を歪める。自分の嫌なものから逃げて来た奴が、他人のこととなると随分と偉そうなことをぬかすじゃないか。 それでもいい、そう嘴の中で呟いて立ち上がる。
ボクとそっくりの怠け者で、多分ボクとそっくりのクズで、ボクと同じように自分の事が嫌いで嫌いで仕方なくて、それなのに、変わろうとしている少女。
“彼女”は、ボクの希望なんだ。
これまであちこち歩き回って調べたおかげで、あの二人組が現れそうなところについて大体の検討をつけることができた。
あの二人組に会うのか? 本気で?
ああ、本気さ。
そう心で呟いた瞬間に、脳裏で一週間前に棚の中に隠れて目にした光景が蘇った。乱射される銃弾の音が耳元で響く。震える翼で背中の刀を握りしめた。
しっかりしろ。状況はこちらに向いている。あの二人組も“彼女”の味方なら、説得すれば分かってもらえるかもしれない。
分かってもらえなかったら?
その時はその時で構わないさ。止まり木から飛び立てない小鳥は死に、勇気を手に入れたもう一羽が飛び立つ。それだけのことだ。
その後もボクは、“彼女”が嫌がる場所をまとめて脳内に作り上げたリストを上から順番に潰していった。そのどれもが、悉く破壊されていた。
ことが起こったのはリストの一番下、パン屋でのことだった。
「なんだ、お前?」 道の真ん中に震える足で立つボクに気づき、青い服の男が声を上げた。その手にはボクの背丈を二つ縦に重ねたよりも大きな木と鉄の塊を持っている。彼はそこから放たれる鉛玉で、今まさにパン屋を破壊しようとしていたのだ。 「ボ、ボクは…」 「あら、何? 可愛いじゃないの」 震えるボクの声を遮り、赤い服の女がボクの頭を掴んで持ち上げた。紫の手袋をはめたその手から逃れようともがくボクを気にも留めずに、女は男の方を向く。 「こないだからあった何者かの気配は、この子だったのね」 「ったく! 人騒がせな野郎だ」 男が手を伸ばし、ボクの眉間を指で弾いた。痛みよりも先に、胸が屈辱に沸き立った。 「放せ!」 「おうおう、元気がいいな」 「ボウヤ、そんなに暴れないでよ。こんな寂しい世界で会えたんじゃないの。話の一つや二つ、聞かせてくれたっていいじゃない」 子ども扱いするんじゃないと叫びたかったが、女の言葉にボクは落ち着きを取り戻した。そうだ、ボクの目的はこの二人との対話じゃないか。喧嘩なんかしたところで、何にもならない。 「ボクは、話があって、あなた達にお願いがあって来たんです」
ボクが女の手の中で語った“彼女”の為にもう何も破壊しないでほしいという願いを、二人は黙って聞いていた。やがて、女が口を開く。 「…ボウヤはあの子の声を聞くことができて、あの子に何かがあったのを知ったのね」 「は、はい」 この女は“彼女”のことを、『あの子』と呼んだ。ボクらが別々の名で呼ぶ女の子が同一人物であることはもはや疑いようがない。やはりこの二人は、“彼女”の味方なのだ。不気味な男の方も、腕組みをして下を向いている。 説得に希望を見出し、ボクは早口でまくし立てる。 「“彼女”は変わろうとしています。あのピアノのことも、もう怖がっていません」 「だから、これ以上あの子の怖がるものを撤去するのは、あの子の成長を邪魔するだけだって言いたいの?」 「そう! そういうことなんです!」 「ダメね」 「じゃあ…え?」 とんとん拍子に進んでいると思えた会話に突如挟まれた拒絶の言葉に、ボクは声を失う。ボクの開かれた目に顔を近づけ、女は笑った。 「だって私達、あの子が願ったから壊してあげてるのよ。あなたが声を聞いたのが誰か知らないけれど。きっと別人だわ」 「そんなことあるわけない!」ボクは叫んだ。 「あなた達だってわかってるでしょう? ボクの聞いたのは間違いなく…」 「仮にそうだったとしてだ」青い服の男が不意に口を挟んだ。その声は深みのあるテノールだったが、下卑た喋り方が全てを台無しにしていた。 「なんであの子が変わる必要がある?」 「そうよ。せっかく私達が、あの子が今のままでも気持ちよく暮らせる世界を作ってるのに」 二人の言葉は“彼女”を思う深い優しさに溢れていたが、その内容ときたら真反対だ。気づけばボクは、躍起になって二人に訴えかけていた。恐怖はもうほとんど無かった。 「そんなことはどうでもいいでしょう? “彼女”自身が変わりたいと思ってるんです」 「本当かよ?」 「疑わしいわ。ボウヤ、本気でそう言うなら、あなたに話しかけてくるその声とやらに聞いてみなさいよ。私たちのことをどう思うか。私たちがやっていることをどう思うか」 お安い御用だ。“彼女”はいつも引っ切り無しに自分の感情を訴えかけてくる。ボクはそれにすっかり慣れっこになっていて、最近ではそれを聞き流すことさえ覚えていた。今だって彼女はうるさく何事か喚いているに違いない。意識を声に向ける。
ところが。
「…あれ?」
そこには、冷たい沈黙だけがあった。 「おい、どうした? さっさと言ってみろよ」男が馬鹿にするように声をかけてくる。
どうしたんだよ。いつもみたいになんか言えよ。 そう語りかけても、ボクの声は自分の意識の中を木霊するだけ、なんの返事も返ってこない。なんの感情も湧いてこない。 「おいおい、黙っちゃったぜ」 「あまり虐めないであげてよ。よくある子どものインチキでしょ」
女の言葉に湧いた怒りが、ボクを現実に引き戻した。ボクを捕らえている紫の手袋に、思い切り嘴を突き刺す。 「痛っ! なにすんのよこのガキ!」 先程までの優しげな声とは似ても似つかない女のドスの聞いた声を背に、ボクは逃げ出そうとした。 ところが、ボクの走りは不意に胴体に巻きついた何かによって止められる。それを意識する頃には、体はもう頭を下に宙に浮いていた。 「よくもやってくれたわね」 見れば、女の手から放たれた白い糸のようなものが、ボクに巻きついている。糸はどこか粘ついた感触だった。まるで、蜘蛛の糸のような。 「この手袋、高かったんだから!」 女が糸を操る手を振り、ボクを地面に叩きつけた。頭ががんがんとなり、全身に痛みが走る。 女はその後も、何度も何度もボクを地面に叩きつけた。 「お、おい。やり過ぎじゃねえか?」 「いいのよ。こういう生意気なガキには、よく思い知らせてやらなくちゃ。こんな! 風にね!」 「やめろ。死んじまう」 女の勢いに怯えながらも、彼女を制止する男の声を、ボクは妙に冷静に聞いていた。魂なんて信じていないけれど、それに似た何かが痛みに苦しむボクの肉体を離れたのかもしれない。
いつの間にか地面に放り出されていたボクの体が浮き上がった。今度は男がボクの体を掴んでいる。 「おいガキ、これで分かったろ? もう痛い目に遭いたくなかったら、俺たちに関わるんじゃねえ。お前がこの世界で暮らしてくくらいなら見逃してやるが。もしまた俺たちに余計な口出しをしたら、命はねえ」 男が銃をボクの頭に向けた。 「それと、あの子のことなら安心しときな。俺たちはな、あの子のヒーローなんだ。あの子も、どこの誰かも分からねえヒヨコよりは俺たちを信用するさ」
それからの記憶は曖昧だ。二人がパン屋を蹂躙する音を聞きながら、背中の刀に手を伸ばそうとしたことだけ、覚えている。
目が覚めたとき、ボクは夕焼けの中で一人だった。喉がひどく乾いている。それなのに、涙が地面に落ちた。
己の不甲斐なさと同じくらい、“彼女”の声が聞こえなくなったことが悲しかった。
いつものようにボクの足を導く声はもういなかった。どこで眠っても構わないはずなのに、それでもボクは傷ついた体を引きずってあの家、ボクと“彼女”の家に帰った。
家に入っても、いつものような憂鬱は襲ってこなかった。試しに居間に近づいてみる。いつもなら鉄の鎖をつけられたように重くなる足が、すんなりと動いた。嫌だ嫌だと喚く声も、どこにもいなかった。
居間に入る。今までなら見るのも嫌だった部屋の風景をじっくりと眺め回した。 壁にかかった写真に、目が止まった。痛む体で、なんとか壁に近づく。 赤と青の二人組のシルエットに、体が凍りついた。 「…あの二人が、なんでここに?」
青い男の言葉が、頭を木霊する。
--俺たちはな、あの子のヒーローなんだ。
居間をもう一度見渡す。丸テーブルを囲むように、椅子は全部で三つだった。最初の日に、椅子の一つに座ることを拒否した“彼女”がボクに託した感情を思い出す。体はボロボロなのに、記憶も想像力も、いつになく冴えきっていた。
「“彼女”、そして、お父さんに、お母さん?」
多分そうだろう。“彼女”が何よりも嫌っていたものは、その両親だったのだ。
あの二人組が、彼女の両親なのか? そうであって、そうじゃないんだ。ボクは思う。あの二人の写った写真はかなり古いものだ。あの二人は多分『過去』そのもの。“彼女”の変化を認めようともしないのも、きっとそうだ。 だとしたら。ボクは息を飲む。
あの二人が最後に来るのは、ここだ。
ボクと“彼女”の、この家を壊しにやってくるんだ。
逃げた方がいい。いつになく良く回る頭がそう告げていた。ボクの作ったリストの建物はほとんど壊されていた。仮にリストに穴があったにしても、そこまで沢山ではないだろう。“彼女”の憂鬱を破壊し尽くした二人が此処を嗅ぎつけるのも時間の問題だ。
逃げろ。勝てるわけないだろう。分かってるはずだ。
ああ、分かってるさ。
ボクは背中の刀を取り、黙って素振りを始めた。どこかに行ってしまった少女にむけて、それでもなお語りかけながら。
君を襲った憂鬱は、両親への憎しみのためのものか? 違うだろう。
君は、両親を通して見える自分が嫌いだったんだ。両親を愛さなくちゃいけないと思うのに、憎んでしまう自分が嫌いだったんだ。
バカなやつ。キライなものはキライ、それでいいじゃないか。
君を分かってやれる奴が、ここにいる。青い服の男がなんと言おうと、ボクにはその気持ちが分かる。ボク達はよく似ているんだ。
口の中で、あの日ピアノから流れてきたメロディを口ずさむ。
ブラックバードは歌う 夜の死の中で
傷ついた翼で それでも飛ぼうとしている
君はずっと ずっと待ち続けてきたんだ
自分が自由になる瞬間を
だからさ。飛ばせてやるよ。そう呟いたのは、果たしてボクだっただろうか。
12月29日 鈴代円香とヒョコモン
「マドカ、どうかしたのか? こんな時間に」 スワンモンの長い首が窓から私の部屋を覗き込んだ。 「ちょっとスワンモン、レディの部屋に首を突っ込んじゃダメだよ」 「そりゃ失礼。日の出もまだだっていうのにマドカの部屋から悲鳴が聞こえたんでな。確かにこの村にはニワトリのデジモンはいないけど、わざわざ朝の掛け声の役目を買って出る必要はないよ」 「あ、え。私の声、そんなに大きかった?」 「かなり」 「…ごめん」私は恥ずかしさに俯いたが、すぐに顔を上げた。 「ところでスワンモン、今そこの通りで他に誰か見なかった?」 「いや、見てないけど。どうかしたのかい?」 「ううん、なんでもないの」 私は目を部屋の隅に向けた。虫の死骸をまとめてソフトボール大にしたものが転がっている。この二週間私に嫌がらせをしていた何者かは、遂に私を驚かせるのには虫が一番効果的だということに気づいてしまったらしい。 これからの生活を思うと気が重かった。 最近の私は、この匿名の敵の正体を炙り出す事に躍起になっていた。憎しみの為ではない。 「ところでマドカ、デジヴァイスは見つかったのか?」 白鳥の問いに私は首を振った。私が敵を探す理由もまさにそこにある。
一週間前の朝、目が覚めた時にデジヴァイスが昨日までの場所に無かった時には、心臓が止まりそうになった。手のひらにくるまってしまうほど小さなものだし、どこかになくしてしまったのだろうかと焦ってアウルモンの住む教会まで走った。
「安心してください、マドカ。デジヴァイスはそう簡単に無くなったりするものではありませんよ」 泣きそうな顔で自分の失態を訴える私を落ち付けようと例のチョコレート味の飲み物を出し、アウルモンはデジヴァイスについて色々なことを教えてくれた。書物でかじっただけで本当のところは私もよくは知らないのですが、と前置きして。 「デジヴァイスは、その持ち主である人間の心を反映するものです」 「鏡みたいなものってこと?」 「というより、鏡に映る像といった方がいいかもしれませんね。鏡を見れば、そこには必ずもう一人の自分がいるでしょう? 持ち主の方で鏡を見ることを拒絶しない限り、つまりはデジヴァイスの持ち主であることを拒絶しない限り、デジヴァイスはあなたの知覚できない場所に行くことはありません」 ううむ、と私は唸る。分かるような分からないような話だ。それに何より。 「実際、デジヴァイスは消えちゃったじゃない。私はデジヴァイスの持ち主であることを拒絶したりしてないわよ」それにヒョコモンのパートナーであることも、最初は仕方なしに、今では積極的に受け入れられている。 「ええ。つまり、あなたの知覚できる範囲にデジヴァイスはある。心当たり、あるんでしょう?」 私はうつむき、度々自分に対して行われた嫌がらせの事を打ち明けた。アウルモンは目を瞑ってそれを聞いていたが、やがてため息をつく。 「村長としてお詫び…はお客さんに対する振る舞いですね。かわりに私はあなたを叱ります。マドカ、どうしてもっと早く相談してくれなかったんです?」 「…ごめんなさい」親に叱られるように私は首をすくめた。親に叱られるように、とは妙な表現だ。私はもう長いこと、両親にこんな風に慈愛に満ちた目で叱られていない。 「村の誰かがデジヴァイスを盗んだと考えれば、納得がいきます」心底悲しそうな目でアウルモンが首を回した。 「あの、アウルモン?」 「なんです?」 「私、あまり大ごとにはしたくないの、この事」 梟は首を傾げて私を見つめた。 「デジヴァイスの事は私だけの問題じゃない。中にはヒョコモンがいるんだものね。だからその事はみんなに相談しなくちゃいけないと思ってる。でも他のことについては…」 私は喧嘩がしたいのだ。私にあんな事をした奴が何を考えているか聞いて、それに対して言い返してやりたいのだ。みんなの前ではやりづらい。勿論そんな事はアウルモンには言わない。単にウインクだけを彼に投げた。 「…仕方ないですね。マドカ自身も気に病んでないみたいだし、気がすむまでやればいいでしょう」 「ありがと! アウルモン大好き!」 「余計なお世辞は要りませんよ」 「つまんない。ところで…」 その動体に抱きついてみせても動じない長老に、私は尋ねた。 「さっきのデジヴァイスの話、最初に聞かせてくれても良かったんじゃないの?」 「…自分の心を映す鏡なんて言われて渡されたデジヴァイスを、あなたは受け取りましたか?」 「…」 「この村に来た時のマドカは、そういう人には見えなかったので」 今と違ってね、と梟は微笑む。 私の最初の猫っかぶりは、この長老にはお見通しだったわけだ。私は赤くなる顔を持ち上げたカップで隠した。
「しかしあれだなあ。マドカもそろそろここに来て一ヶ月か」 スワンモンの声が、私を一週間前の記憶から呼び戻した。白鳥はその美しく長い首を空に向けて持ち上げる。 「もうすぐ、満月がやってくる」 「…不安なわけ? 私が帰るかもしれないって」 「マドカが俺たちとの関係を蔑ろにする奴じゃないのはよく分かってるよ。でも…」 彼はその首で今度は私の顔を覗き込んだ。寝起きなんだからやめてよ、とその目をかわす私に、彼の問いが突き刺さる。 「だからこそ心配なんだ。あっちの世界に置いてきたものが、沢山あるんじゃないか?」
その通りだった。
最初は逃げるつもりだった。帰りたくなんてなかった。 でもこの村で、立ち向かう事を覚えた。心を開く事を覚えた。笑顔でいられることが増えた。 でも、最近よく両親の夢を見るのだ。あの二人も私のことを心配しているだろう。一週間前には想像もできなかったことだけど、今は自然とそう思えた。 私は、色々なものを放り投げてここにいる。ここでどんなに笑えても、正しく生きることができても、そうすればするほど、満月の向こうの世界に残してきた沢山の心残りが頭をかすめる。 「…私もそう思う」 でもね
「今は目の前のことから逃げたくない」 目の前のこと、村のみんなとの絆、無くなったデジヴァイス、嫌がらせしてくるクソ野郎。それに、ヒョコモン。 「それについて、私の中で決着が着くまでは、帰らないよ。それが三分後でも、一年後でもね」 「そうか…」 微笑むスワンモンの頭に手をやる。撫でてみると、その羽は絹のような手触りだった。 「そうだスワンモン、あなたもヒョコモンについて教えてくれない?」 「俺かい? ヒョコモンとはあまり親しくなかったがな…」 ヒョコモンは村の鼻つまみ者だったという話は散々聞かされた。温和で優しいスワンモンも、彼と仲良くすることはなかったのだろう。それを薄情だとは思わない。無理もないことだ。むしろいきなりこんなことを尋ねて、悪いことをしたという気持ちがあった。 「それなら…ピヨモンのことは? ピヨモンが、ヒョコモンをどう思ってたか、分からない?」 ピヨモンは一週間前、私の質問から逃げ出してからもいつも通りだったが、ヒョコモンについての話は巧みに避けていたし、私も無理に聞こうとはしなかった。 「ああ、それなら」私の問いに、スワンモンはあっさりと答えた。 「好きだったと思うよ」 「は?」 一瞬、何を言っているのか分からなかった。 「え、好きって、その、人としてって事?」 「違うだろうな。人じゃないし」 「あ、いや、ゴメン。そういうことじゃなくて…」 好きという言葉にこんなに狼狽えるとは、これじゃあまるっきり恋愛経験のない女子中学生か何かじゃないか。まあ、恋愛経験のない女子中学生なんだけど。 「ええと、つまりピヨモンは、ヒョコモンに惚れてるってこと?」 「そうだよ」白鳥は何を分かりきったことをとでもいいたげだ。 「え、あの、それって」 「別に珍しい話じゃないさ」 「そ、そう」 デジモンには性別の概念がない、というような事を聞いたことがあったような無かったような。まあ、彼らは彼らのやり方で愛を交わすのだろう。 「ええっと、スワンモンはどこでそれを知ったわけ?」 「どこって、みんな知ってるよ。ヒョコモンを庇う時のあの様子を見ればね。知らないのは当のヒョコモンにホークモン、それにマドカくらいじゃないか?」 その二体と鈍感トリオに数えられるのはごめんだ。第一、私はここに来たばかりで、ピヨモンからヒョコモンの話を聞いた事だってほとんどないのに。 そうだ。ピヨモンがヒョコモンについて話したがらなかった理由はこれでほぼ分かった。好きな人について、あまり多くは語りたくないだろう。特に、みんながその人に批判的であるような時には。
そこで、何かが心に引っかかった。
「ねえ、スワンモン」 「ん? どうした」 「ヒョコモンって、デジヴァイスを貰った重責のせいで引きこもったんだよね」 「ああ。そう聞いてる」 「つまりは、私が来たから、ヒョコモンは引きこもったって、ことだよね」 「おい、そんな風に思う必要は…」 「うん、分かってる」
でも、そんな風に思った奴もいたのだ。
「心配してくれてありがとね、スワンモン。もうそろそろ夜も明けるし、私、行かなきゃならないとこが…」 その時、アウルモンの教会の鐘が音高く鳴った。私は驚いてベッドから飛び上がる。この村の時計の時間に縛られない生活の中では、時を告げる鐘も鳴らす必要がなく、教会の上についたその鐘は単なるお飾りだとばかり思っていたのだ。 スワンモンの反応は私と対照的だった。落ち着いた様子で翼を広げると、寝間着(村に残されていた服の一つで、色褪せているけど肌触りのいい綿のシャツとズボン)のままの私を嘴でくわえ窓から引っ張り出した。 「ちょっ、やめてよ。エッチ!」 「悪いね。でもこの鐘はヤバい、外敵の襲来の知らせだ。噂の子攫いかもしれない」 彼の言葉に、私の顔から色が引いた。大人しくその背中につかまり、通りに目を向ける。先程までの静けさは跡形も無く、あちこちの家から慌ただしい音がした。 と、はるか前方から吹いてきたつむじ風が、私とスワンモンの前で止まった。 「ホークモン!」 「急げ、教会に避難だ」 「今晩の寝ずの番はお前だったか」スワンモンが安心したように口にする。「猶予はどのくらいだ?」 「かなり遠方にいる時点で捉えられたはいいが、敵も相当なスピードだ。猶予はないよ。全力で飛んでくれ」 「オーケー」スワンモンが翼を広げ、ふわりと浮く。背を向けて立ち去ろうとするホークモンに、私は声をかけた。 「ホークモンは? 逃げないの?」 「俺は全員の安全を確認してからだよ」 「そんな…」 「偶々俺が当番だっただけだよ。心配ない。それに、デジヴァイスもパートナーもいないんじゃ人間は足手まといだ。さっさと逃げて俺の不安の種を一つ消してくれ」 「…うん」私は少し俯いたが、すぐに顔を上げる。 「そうだ、ピヨモンは?」 「ピヨモンか? まだ安全は確認してないが、逃げてるだろう。アイツはトロくないし…」 彼がそう言った途端に、私たちの横を再びつむじ風が通り抜けた。ホークモンじゃないとしたら、あんな風に飛べるのは… スワンモンの首から飛び降り、私は走り出す。 「おい、待てよ!」 「追いかけてこないで!」 後ろで聴こえる二人の声にそう返すと、私は大きく深呼吸をした。
すう、はあ。
朝の新鮮な空気をいっぱいに詰め込んだ胸を抱えて、薄暗い村を村はずれの家に向けて走る。目の前に見える炎の赤は、見間違えようも無かった。 片端から家を燃やしてるのか。舌打ちする。だとしたら、一番最初に燃やされるのは--。
真っ赤に燃えるヒョコモンの家の前で立ち止まり、肩で息をする私を、ピヨモンが驚いたように見つめた。 「マドカ、何してるの! 逃げてよ!」 「デジヴァイスは…ヒョコモンは…」 ぜえぜえと息を吐きながら私が放った言葉に、彼女の顔が凍りついた。 「マドカ…」 「教えて、ヒョコモンは、この中にいるの?」 彼女が力なく頷くのを見て、私は燃え盛る家の中に踏み込もうとした。私の服の裾をピヨモンが掴む。 「ダメ!」 「ダメじゃない!」 自分でも、何を言っているのか、何をしようとしているのか、よく分からなかった。耳の裏側で血の流れるどくどくという音がする。その音が繰り返し呼びかけるのだ。ダメじゃない。ダメでいいわけがない、と。
と、目の前からピヨモンが消えた。何が起きたか理解する前に頭に鈍い衝撃が走り、私は意識を失った。
あの二人組は、ボクが予期していたよりもこちらに時間をくれた。しかしながら銃を乱射する男と手から糸を出す女を前にできることなど、与えられた時間が三分でも一週間でも変わらない。 それでも時間を無駄にはできなかった。廊下に陣取り、刀を振る。隣には赤く重い円筒が置かれていた。あちこちにあったこの物体の脇には、ご丁寧に使い方が図解してあり、ニンゲンの文字が読めないボクでもその物体から勢いよく白い粉を噴射することができた。 火を噴く箱や粉を出す円筒に目をやって、それからまた刀を握りしめると、呟いた。 「安心しろ、お前を信用してないわけじゃないさ」 連中に一太刀浴びせるのはボクのプライドの問題だ。でも今日はそれだけじゃない。この家を、ボクの家を、“彼女”の家を守らなくてはいけないのだ。手段を選ぶ余裕はない。 “彼女”の気配はこの一週間すっかり消えてしまっていた。生まれて初めてボクは誰からもうるさく指図されなくなったということだ。そんなボクが、毎日のように刀を振るっている。不思議な話だった。
どこか遠くで物音がした。銃声、男の叫び声。結局のところ、奴らがボクにくれた猶予は一週間だったということだ。 この後に及んでも、手は震えている。ボクの中の臆病な誰かが頭をもたげる。
逃げちまえよ。誰も何も言わない。だって、誰もお前に期待なんかしてないんだから。
「うるさい!」
こんなところで頑張ってなんになるんだよ? 誰も見ていてくれないし、誰も褒めてくれないんだぞ?
「だから、だよ。だから意味があるんだ」
おいおい、綺麗事はよせよ。一週間前はびくびくしてたじゃねえか。たったの一週間で、自分が変われると思ってるのか?
「彼女は変わった」
仮に、そいつがお前のいう通りの奴だとしてだ。お前は勝手にその女に自分を重ねてるだけだろ? その女は「変われる奴」だったってだけのことさ。お前と違ってな。
「うるさい!」
なあ、逃げちまえよ。お前はダメな奴なんだ。こんなとこでお前が死んだって、誰も気にしない。
「ダメじゃ…」
--ダメじゃない!
心の中で、あの声が響いた。今までのどの時よりも、大きくはっきりとした声。“彼女”はどこで何をしているのか、ダメじゃない、ダメでいいわけない、と何度も繰り返し叫んでいる。 それはボクに向けて言っているのだろうか、はたまた、単にボクの勘違いだろうか。
どっちでもよかった。
声はすぐに消えてしまったが、それは決して幻聴ではない、ボクの耳が、確かにそれを聞いたのだ。心の底から勇気が湧き上がってくるような気がした。
「君のいう通りだ。ボクはダメじゃないよ」
刀に手をかける。男の声はもうドアのすぐ外まで来ていた。
背中に感じたざらざらとした感触で。私は目を覚ました。気を失う前はまだ夜明け前だったのに、もう日が高く上がっている。 「マドカ! 大丈夫?」 ピヨモンの声が聞こえる。最初にデジタルワールドに来たときみたいだな、という暢気な考えは、頭に走るずきりとした痛みでかき消された。 「今のとこね。私達、盗賊にぶん殴られたの?」 「うん。それで、捕まったみたい」 どうも私は手と足をロープで縛られ、その上で木に縛り付けられているみたいだった。背中に感じたざらつきは木の幹の感触だったというわけだ。あたりには林が広がっており、似たような木々が等間隔で並んでいた。 「ここがどの辺か分かる?」 「ううん。でもあまり村から離れてはいないと思う」声の近さからして、彼女も私と同じ木に縛り付けられているらしい。 「盗賊達は?」 「太陽の反対側を見て」 ピヨモンに言われた通りに、私は首をひねって視線を変えた。胸がむかつくほど青い空に、一筋の煙が立ち上っている。 「休憩してるみたい。昼ごはんかな」 「私達がメインディッシュ、ってことないわよね」
「安心しな。それはねえよ」 私の問いに後ろから野太い声が返答した。驚いて目を向けると、背の高い影が私のすぐそばに立っていた。思わずかすれた悲鳴が口から漏れる。 ゴツゴツとした緑色の肌、その体を覆う鋼のような筋肉はところどころひくひくと引きつっている。それに、手に握られた私の背丈ほどもある棍棒。私たちを殴ったのとは別のものだろう。あれではどう手加減しても私の頭のほうがもたない。 そして何より、その大きな顔。長い牙に角は、鬼としか呼びようがなかった。 体ががたがたと震えている。こういうデジモンの存在はアウルモンから聞いてはいたが、それと実際に間近に見るのはまた別だ。おまけに、私は両手両足を縛られているときている。 「あんたオーガモンね。わたし達のことどうするつもりよ!」隣で、ピヨモンが果敢にさえずった。 「聞きたいか?」緑色の鬼はさも楽しそうに目を細め。その太い腕でピヨモンの額を指差した。 「お前は他に攫ったガキどもと同じだ。ここからは遠いが、砂漠地帯に幼年期や成長期を売り飛ばすのにうってつけの街がある。売られた奴がどうなるのかは知らないが、安心しろよ。焼き鳥にはされねえ」 そして、とその目をこちらに向けて、オーガモンと呼ばれた鬼は今度はその口を開いて笑ってみせた。茶色い歯と悪臭を放つ唾液が顔のすぐ目の前に現れる。私が思わず伏せた顔は、鬼の太い指で元の向きに戻された。 「ニンゲン、今回の仕事じゃお前さんが一番の収穫だよ。さっき調べたら、お前、雌みたいだな」 調べるって、一体何したのよ。背筋がぞわぞわと騒ぎ、嫌悪感に顔をしかめる。そんな顔を見て、オーガモンはさらに嬉しそうな顔をした。 「雌のニンゲンにはそれ用のマーケットがある。教えてやろうか。お前さんを買うのは別のニンゲンだよ。俺たちにゃ分からねえが、この世界じゃかなり貴重らしい。とくに、若い雌はな」 その手の事に疎い私でも、鬼の言わんとすることはなんとなく分かった。それでも私がこれからどんな仕打ちをされるのかははっきりとは分からない。分からなくて幸いだった。 「ちょっと! マドカに何かしたら…」 さえずるピヨモンの頭を、オーガモンが指で弾いた。ぐえっ、という音がして、声が止まる。 「ピヨモン!」私は一生懸命に首を回して、彼女の顔を見ようとした、ピンクの羽毛を朱に染めてはいるものの、命は無事みたいだ。 「売り物は殺せねえがな、しばらく動けなくすることくらいはできるんだ。分かったらじっとしてろ。逃げようとしても無駄だぜ。俺の他にも仲間がいる」 オーガモンはそう言うと、また顔を私に向けた。 「俺はよく知らねえけどよ、この世界に来たニンゲンは、みんなデジヴァイスっつーのを持ってるんだろ? なんでも、それを使うとデジモンを強くできるって言うじゃねえか?」 高く売れそうだ、と鬼は笑う。 「さっき体を調べたが、それらしいもんは持ってなかったな。何処かに隠してるのか?」 鬼は棍棒をちらつかせる。なるほど、拷問も辞さないってわけ。 「どこにもないわ。失くしたの」 「おい、下手な嘘をつくと、為にならないぜ」 「本当だよ!」隣でピヨモンが叫ぶ。 「嘘はついてないわ。本当に失くしたのよ」 鬼はその指を私に向けた。それをまっすぐ見据える。 「言っとくけど、私のこの可愛い顔と綺麗な体に傷の一つでもつけたら、買い手は喜ばないと思うわよ」 鬼はしばし私を見つめ、それから手を下ろした。 「本当に、持っていないんだな?」 「嘘をつく余裕はないわ」 ふん、と鼻を鳴らすと、鬼は私の胸のあたりに唾を吐き、立ち去った。粘っこい感触と鼻の曲がりそうな悪臭、最悪だ。 「マドカ、大丈夫?」 「大丈夫よ。臭くて気持ち悪くて、最悪の気分なだけ」私は吐き捨てるように答えた。 「ピヨモンこそ、血が出てるじゃない」 「このくらい、大したことないよ。これからどうしよう」 「どうしようもないわね。あのクソ鳥が助けに来てくれるといいんだけど。それか…」 私はしばらく逡巡して、口を開いた。 「ピヨモン、もしかしてデジヴァイス…」 「ごめん」ピヨモンが暗い声で私を遮った。 「持ってない。ヒョコモンの家の中に置いたまま。隠してたから、あいつらには見つかりっこない」 私は俯いた。この荒んだ気分と最悪な状況の中でデジヴァイスの話を持ち出すことは良策とは言い難い。でも、このままお互いに心に暗い影を抱えたままでいることには耐えられない。下手をしたら、これを最後に離れ離れになってしまうかもしれないのだ。 「デジヴァイス隠したの、やっぱりピヨモンだったんだ」 「…」 「他の、コート裂いたり、虫投げたりも、ピヨモン?」 「…」 「私が嫌になって元の世界に帰れば、ヒョコモンが帰ってくると思ったの?」 「…」 ピヨモンはいつまでもだんまりのまま。これでは私が悪者みたいだ。
このままそれぞれ知らない街で奴隷として生きていくのかと思ったとき、側ですすり泣きが聞こえた。 「ピヨモン、泣いてるの?」 ここで態度を軟化させるのも違うと思いながらも、私は柔らかい口調で尋ねた。 「…のに」 「え?」 「謝りたくなんて、無かったのに!」 突然ピヨモンの嘴から漏れた激しい言葉に、私は思わず飛び上がりそうになる。 「ピヨモン…」
「だってそうじゃない? なんで突然やってきたマドカのせいで、ヒョコモンが辛い思いをしなくちゃいけないの? マドカは、自分が立ってる場所が本当はヒョコモンの場所だって気づいてる? どうしてそこに立って、なんでもなく笑ってられるのよ!」
ムカつくやつだと思った。だから追い出してやろうと思ったのだ。それなのに。
「マドカはとってもいい人で、わたしも貴女の前で、ついつい笑顔になっちゃう」
そんな自分に腹が立って、嫌がらせはますますエスカレートした。そして次の朝になると、今度は昨夜の自分の行いに腹が立ち、笑顔を作ってしまう。
「わたしも、自分がどうしてこうなのか、分からないの…」
声を上げて泣き出したピヨモンをすぐ傍に感じながら、私は俯いた。彼女は明るくて朗らかで、自分とは遠い存在だと思っていた。あのうんざりする学校の教室でいつもみんなに囲まれるタイプだと。 でも、そんな彼女も私と同じだったのだ。自分のやることなすこと全てが嫌で、それなのにそんな自分を変えられない。ちっぽけな悩みを、それすら支えられない小さな体に押し込んだ哀れな生き物。 そんな生き物にかける言葉を、私は知らない。でも、言葉をかけなければいけないと思ったのなら、止まってはいけないのだ。 「ピヨモン」 私は口を開いた。
「私は、あなたを許すよ」
私の中にいるかもしれない、ほんの時たま顔を出す強い私、その、私が一番誇りに思う部分であなたを許すから。
「だから、あなたも、私を許して」
あなたの中にきっといる、あなたが一番好きなあなたで、私を許して。
ピヨモンの泣き声が止まる。しばらくして、囁くように小さな声が聞こえた。 「何よ、それ…」 なんでマドカが謝るのと、ピヨモンはまた嗚咽を漏らす。 「最近みんなからヒョコモンの話を聞いてたんだ。そうしたら、どうしても他人とは思えなくなってきてさ」 本心だった。最初はあれほど邪魔に思っていたパートナーという存在を、私は近くに感じていた。一度だって話したことがないのに。 「それに、自分の場所をこんな陰気な女に乗っ取られたら、誰でも怒るだろうし」 「陰気なんかじゃないよ」 ピヨモンがはっきりと言った。ああ、この子は、どんなに追い詰められても、人の為に言葉を口に出せる子なんだ。眩しいな、と思う。
「ねえ、マドカ?」 「何?」 「もしかしたら、私たちこれで離れ離れなのかな?」 「もう少しは一緒に居られるだろうけど、オーガモンは私たちを別に売るって言ってたわね」 「うん…」 「ピヨモン?」 「それは、やだな」 「そうだね。やだね」 なぜか私たちは、同時に笑いだした。 「私、ヒョコモンにだってまだ会ってないし。ピヨモンもまだ告白してないんでしょ?」 「それよ! なんでわたしがヒョコモンを、その、好きってことがバレてるの?」 「スワンモンから聞いたわ。みんな知ってるって」 「ちょっと、それホント?」 「本当だよ」 「うそ、わたし次にみんなに会う時どんな顔すれば…」 これまでになくくだけた雰囲気の中で自分が自然に漏らした言葉に気づき、ピヨモンは嘴を噤んだ。やがて、さっきより強い調子で言う。 「やっぱり、これでおしまいなんて、やだ」 私は頷き、その仕草がピヨモンには見えないことに気づいて口を開いた。 「うん。まだなにか、出来ることがあるよ」
「そういうことだ」
ふいに、自分を木に縛り付けていた縄の締め付けが緩んだ。驚いて声を上げようとする私の口を、柔らかい羽がおさえる。その濃い赤と白には見覚えがあった。 「静かにな。バレたらおしまいだ」 「ホークモン…!」 隣でピヨモンが、泣きそうな声で言った。ホークモンは肩をすくめる。 「まったくお前らは、余計な手間をかけさせやがって。林の中だから空からじゃ場所が…」 そう言いながら彼は私たちに交互に目をやる。血を流し、涙に目を腫らしたピヨモンの顔をしばし見つめ、彼はため息をついた。 「まあ、なんだ。元気そうでよかった」 私とピヨモンは顔を見合わせ、小さく吹き出した。
どこかから地面に落ちた枝を踏みしだく足音が聞こえた。オーガモンがこちらに向かってくるのかもしれない。 「さっさと逃げるぞ」 ホークモンが翼を広げた。私は頷き、口を開く。 「二人は先に逃げて」 「何言ってるの!」 「飛べない私が足手まといになっちゃ、悪いからさ」 「バカなことを言うんじゃない」 ホークモンが翼で私の顔を指す。 「手間をかけたと言ったろ。それは、俺だけの話じゃないぜ」 彼がそう言った瞬間、近くで大声がした。敵が攻めてきたとか何かそう言うことを、野太い声が喚いている。 「村の皆もきてる。言われたよ。ディノヒューモンのことを後悔して鍛えてるのは、何も俺たちだけじゃないってな」 さあ走れ! というホークモンの声に従い、私は足を踏み出した。
躓いた。そのことが、妙にはっきりと分かった。後ろを振り返る。
緑の鬼が、すぐそこに来ていた。すっかり頭に血が上っているらしい。私の商品価値を説く余裕はなさそうだった。
ここまでか。私は思う。村にも、元の世界にも、言い残したことややり残したことが、沢山あるのにな。
ヒョコモンにも、会ってないのにな。
鬼が棍棒を振りかぶる。それが、やけにゆっくりと感じられた。 今の私にはいろんなものがはっきりと感じられる。鬼のしてやったりと言わんばかりの薄笑いも、ピヨモンの悲痛な叫び声も。
ホークモンが、何か光るモノを投げたのも。
ドアが開かれた瞬間に、二人組の顔に向けて白い粉を浴びせた。 「きゃあ! なによこれ!」 「こないだのガキか!」 そう喚く二人の足元に滑り込む。まず目指したのは男の銃だ。その銃口に、手に握っていた石を詰める。そして刀を抜くと、彼の足を思い切り切りつけた。 「いってえ! 何しやがる!」 男が足を振り回し、ボクは廊下の端まで吹き飛ばされた。それでいい。 「やっぱりあのガキね!」女がヒステリックな金切り声を上げた。 「そんなに死にてえか!」男が叫び、銃を構えた。頭に血が上っていて、銃口に異物が詰まっていることになど気づきそうにもない。
破裂音、予期はしていたものの、思わず目を瞑る。ディノヒューモンが教えてくれた知識だ。二人がこれで大怪我でもしてくれれば--。
ところが、開けた目が捉えた光景は、予想とはまったく違っていた。 女の赤い服も、男の青い服も、破れてしまっている。その下から覗く体は、どう見ても人間のソレではなかった。 ミイラ男にクモ女、そうとしか形容できない。二人は、明らかにデジモンだった。 「どういうことだよ…!」 「まったく、この姿は好きじゃないのよ!」 その真っ赤な口を開き、クモ女が言った。ミイラ男も平然と立ち上がり、女に話しかける。 「アルケニモン、悪い。銃が壊されちまった。こないだの要領で、このガキ、殺してくれねえか?」 「言われなくても…」 女の言葉を聞き終わる前に、ボクは刀を構えて駆け出した。自分でも訳のわからないことを叫びながら、刀をめちゃくちゃに振り回して走る。
こんなおぞましい奴らが、彼女のヒーローであるはずがない。やはりこいつらは、彼女の、ボク達の敵だ。
蜘蛛の糸を斬った手応えがあった。 第二撃が来る頃には、ボクは床を蹴っていた。
聞いてるか! ボクは“彼女”に呼びかける。
君が嫌いで嫌いで仕方なくて、それでも目を逸らせないほど愛しく思っているモノ、それを、ボクが守ってやる。
君を、ボクが守ってやる。
女の頭めがけて、刀を振りかぶった。
予期していた衝撃はこなかった。手で頭をさわる。どうやら、頭蓋骨を砕かれてはいないらしい。 大きな地響きがする。前に目をやると、オーガモンが仰向けに倒れていた。 「離れろ!」 後ろから聞こえるホークモンの声に従い立ち上がると、オーガモンから離れる。うめいている緑の鬼に目を向けたまま、ホークモンに話しかけた。 「さっき、何投げたの?」 「デジヴァイスだ」 「え?」 「このタイミングでも出てこなかったら、あとで殺してやったところだ」
ホークモンの言葉に、私は初めて足元に目を向けた。
刀を構えたヒヨコが、そこに立っていた。状況がうまく飲み込めないかのように、その小さな目をキョロキョロと動かしている。
そして彼が、私を見上げた。
「君か」 「え?」 「なんというか、写真うつりだけは良いんだね」 「は?」 思ってたより可愛くないよとほざくそのヒヨコを、私は睨みつける。 「あんたヒョコモンでしょ。あんたこそ、思ってたよりもだいぶ不細工ね」 「なんだって!」 「二人とも、前! 前!」 出会い頭に言い争いを始めた私達に、呆れたようにピヨモンが声をかける。同時に前に目を向けた私達の目に、怒りに燃えて立ち上がるオーガモンがうつった。 「今の、てめえか?」オーガモンがヒョコモンを見下ろす。 「そうみたいだ」憮然としてそう返すヒョコモンの足が、しかし小刻みに震えているのに私は気づいた。 「ガキのくせに舐めやがって!」 オーガモンが棍棒を振り上げる。その動きは改めて見ると単純で、私もヒョコモンも後ろに飛びのいて簡単にかわすことができた。鬼はますます怒り狂って声を上げる。 「ねえ」 ヒョコモンが先ほどの光る物体を私に放った。受け取ると、確かに私のデジヴァイスだ。でもそれはこれまでと違って、どこか輝いているように見えた。 「ソレの使い方、分かる?」 私は頷く。デジヴァイスはしっくりと手に馴染み、使い慣れた自転車がそうであるように、深く使い方を考えなくても操ることができると思えた。 「じゃあ、使ってくれ」 「戦える?」 「戦えるよ。怖いけど、君がいれば平気な気がするんだ」 私ははっとした。ヒョコモンが何を根拠にそう言うのか知らないが、彼には彼の物語があったのだ。刀を構えて立つその小さな姿は、話に聞いた村の鼻つまみ者とはまるで違った。 「私も」口を開いた私をヒョコモンが見上げる。 「あんたとなら、やれる気がする」 黄色い顔と頷きあうと、私はデジヴァイスを胸の前で構えた。その液晶の画面が輝きだす。
「行くよ、クソ鳥二号!」 「ちょっと待って! その呼び方は…」
ヒョコモンを光が包んだ。
オーガモンは思っていたよりも強敵だった。 攻撃は簡単にかわせるものの、その動きは意外にも素早く、進化したばかりの背の高い使い慣れない体では、なかなかボクも刀を浴びせられない。 「ヒョコモン!」 背後から聞こえたその声とともに、両脇を二つの風が吹き抜けた。 前を見れば、ホークモンとピヨモンだ。その俊敏な動きでオーガモンの周りを飛び回り、翻弄している。みるみるうちに緑色の巨体にいくつもの切り傷がついた。 二人はやっぱりすごいな。ボクは刀を握りしめる。
でも、ボクだって。やるときはやるんだぜ。
今だというホークモンの叫び声に応え、オーガモンに刀を突き立てた。
12月31日 ヒョコモンと鈴代円香
「ふう、今日は疲れたよ」 村はずれの空き地での鍛錬からの帰り道、ボクがそう漏らした。隣を歩くホークモンがそれに目を釣り上げる。進化して背が高くなった(この姿はブライモンというらしい)せいで、ボクは常にホークモンを見下ろす形になった。 「あの程度でそんなことを言ってるのか。進化したっていうのに、変わらないな」 「しょうがないだろ。進化したと言ったって、力が強くなっただけで、戦いは下手なままだ」 「第一お前、なんで飛べないんだ。そんなに大層な羽があるのに」 「ボクに聞くなよ!」 「まあいいさ。飛び方もおいおい教えてやる」 「…随分優しいな」 ホークモンのことだけじゃない。村のみんなもだ。 「村のみんな、帰ってきたボクに最初にすることが謝罪だなんて」 「アウルモンが言ってくれたんだよ。お前に余計な重荷を背負わせて、自分達は平和を装っていていいのかって」 みんな強かったぜ、とホークモンは笑う。聞いた話では、アウルモンはあのオーガモンの一味を三体一度に片付けたらしい。 「ホークモンもそれ、言われたのか?」 「いや、俺の場合は、マドカだ」 「彼女が?」 「お前ともっと、腹を割って話せってさ」 「そんなこと、言ったのか」 「マドカとは話したか?」 「うん。アウルモンも交えて、あったことの説明をね」
あのデジヴァイスの中の風景は、やはりマドカの街のもので、ボクが住んでいた家も、やはりマドカの家だったらしい。冷蔵庫の中のチョコレートのことまで話が一致したのだから間違いない。 アウルモンが言うには、デジヴァイスは持ち主の人間の心を映る鏡のようなものだという。それならば、ボクは鏡に映った彼女の心の中で勝手にうろついていたということになるのだろう。 赤と青の二人組との戦いのことは最後まで言わなかった。あの二人がマドカの両親の姿を歪んだ形で映したものであることは分かったし、彼女もそんなことに触れられたくはないだろう。デジヴァイスが持ち主の心に干渉したという記録はないということで、あの二人組から彼女を守るためにしていたことも、特に何の意味もなかったことになる。でも、それで構わないと思った。
「ねえ」ボクはホークモンに話しかける。 「どうした?」 「ボクは、今回のことで、結局何かできたのかな?」 「オーガモンを倒したろ」 「そうだけど、それはマドカに力をもらって、しかもホークモンとピヨモンの…」 「いいんだよ」ホークモンがボクの言葉を遮った。 「大体お前とマドカは、初めて出会って進化して、敵を倒すのに一ヶ月もかけてるんだ。大抵の物語なら、最初の一日で終わってしまうような程度の内容だ」 それでもボクとマドカはそれを成し遂げたのだ。だとしたら、それがボク達の歩む速度なのだろうと彼は言う。 「なんにせよ、お前が逃げなかったことが、俺は嬉しいんだ」 「ホークモン…」 「俺も、歩み出さなくちゃいけないな」彼は突然呟いた、 「どういうこと?」 「しばらくしたら俺は旅に出ようと思う。武者修行の旅だ。もっと強く、速くなって、大切なものに何かがあった時に、すぐに助けに行けるようになりたいんだ」 ボクの顔を見上げ、真剣な目で言うホークモン。その顔を見つめるボクの口から、言葉は勝手に溢れていた。 「ホークモン、飛び方教えてくれ。明日からだ」 「どうした、慌てて。そんなにすぐに出て行くわけじゃないぞ」 「でも、旅の相棒が飛べなかったら不便だろ?」 ホークモンは面食らったように目を見開き、今度は珍しく微笑んだ。
村の中心部に差し掛かったとき、ボクの耳があのメロディを捉えた。隣のホークモンも、目を閉じて耳を澄ましている 「ホークモン! これは」 「ああ。マドカのピアノだ」 ボク達は顔を見合わせ、走り出した。 一月ぶりに見るこの村の夕焼けが、何故だか前よりも眩しく思えた。
私とピヨモンは、アウルモンの教会でチョコレート味の飲み物を啜った。並んで椅子に腰掛ける私たちの前では、止まり木の上に立った村長が一昨日の事件の顛末を語っている。 「…というわけで、近くの村との協力で無事子攫い達のアジトは占拠され、子どもたちは解放されました。連中の犯した失敗は二つあります。一つは手当たり次第に子どもを連れ去って“おもちゃの町”のもんざえモンを怒らせたこと、そして--」 アウルモンは私たちに交互に目を向けて、微笑んだ。 「私の村の自慢の仲間に手を出したことですね」 私とピヨモンは顔を見合わせて、笑った。そこにおずおずとアウルモンが口を挟む。 「それで、デジヴァイスのことなんですが…」 「ああ」私はあっさりと言った。 「あのことはもう別にいいの」 「そうですか…」 「ピヨモンとも、こうして仲直りしたし」 少し驚いたように目を開いた後、それならいいでしょうと、村長はまた微笑んでみせた。
「本当に今日で帰っちゃうの?」 教会からの帰り道、私の脇を飛ぶピヨモンが尋ねてきた。 「うん。私もずっとここにいたいけど…」 私は自分に言い聞かせるように何度も頷いた。 「あっちの世界に残してきた宿題が、多すぎるからさ」 「宿題?」ピヨモンは首をかしげたが、やがて頷く。 「なんか、分かるような気がするよ」 「ありがと。ピヨモンも、ヒョコモンのこと頑張って」 「ちょっと、やめてったら!」ピヨモンがバタバタと羽ばたき、ピンクの羽が散る。 「マドカだって女の子なんだし、あっちの世界に好きな人とかいないの?」 「私はそういうの、あんまり興味ないし」 「そんなこと言って、恋は不可抗力なの。突然に落ちるものなのよ」 ピヨモンの自信たっぷりの言葉に私は肩をすくめた。
村の中央の通りに差し掛かると、寂しさを含んだ沈黙が流れた。目頭が熱くなるのを感じた。私はバカだ。こんなに仲良くなれたのに、別れることを選ぶなんて。 「ねえ」ピヨモンが前を見たまま呟く。 「なあに?」 「また、会えるよね」 「もちろん」 強く頷いた私の手を、ピヨモンがとった。 「わたし、決めたの。もっと強くなるって。今よりもっと強くて優しいデジモンになって、この村を守るって。そしたら、いつマドカが来ても安心でしょ?」 呆気にとられたままの私の腕を、彼女が引いた。 「え、どうしたの?」 「こっちきて!」
ピヨモンに引きずられてやってきた村の真ん中で、私は息を飲んだ。 「これ…」 煤まみれのピアノの前で、私は立ち尽くした。 「あの倉庫は焼けちゃったんだけど、村のみんながね、これだけは守ったんだって」 弾いて弾いてとねだるピヨモンの頭を撫でていると、村のみんながどこからかやってきて、ピアノを囲んだ。そのどの顔にも、笑顔が浮かんでいる。 彼らを見回す私の視線が、一つの頭で止まった。 「スワンモン!」 「よお、元気そうでなによりだ」 あの朝以降、彼とゆっくり話す時間は無かった。 「ごめんね。勝手に走り出したりして」 「本当だよ」 でも、と彼は笑う。 「あまり心配はしてなかったよ。マドカが決めたことを信じるって、約束したからな。そんなことより、今日はマドカのリサイタルだよ。みんな楽しみにしてたんだぜ」
頷くと、私はピアノの前の椅子に腰掛けた。この一ヶ月の記憶が、次々と瞼の裏に蘇ってくる。
一ヶ月程度の時間で人がそう簡単に変われるとは思わない。でも、私はもう弱い自分に怯えることはない。私はいつだってそいつを怒鳴りつけることができる。自分の強さを信じることができる。そんな私を信じてくれる友達を得ることができたから。
すう、はあ。
一度の深呼吸。冷たい鍵盤に触れる指。暖かくて美しい、甲虫の歌。
私はブラック・バードだ。私は自由になって飛び立つ日を、今日までずっと待っていたのだ。
一月一日 私と、多分あなた。 目を開いた瞬間に、白い光が目に飛び込んできた。 「円香!」 私の胸に、暖かい何かがすがりつく。視界の霧が晴れると、私はその顔を見つめた。 「お母さん…」 私は病院のベッドに横たわっているらしい。目を覚ました私にすがりつく母さんと、その後ろで涙を流す父さんが目に映った。 「円香、大丈夫なの? 私のこと、分かる?」 「ちゃんと分かってるよ。今日は一月一日?」 私が正確に日にちを言い当てたことに母さん怪訝そうな顔をした。 私は一ヶ月のデジタルワールド生活を終え、ホークモンやピヨモン、アウルモンにスワンモン、そしてヒョコモンもといブライモンと別れの挨拶をした。そして、十二月三十一日に月の光をいっぱいに満たした藁のベッドの上で眠りについたのだ。つぎはぎだらけのコートを着て、ポケットにデジヴァイスを入れて。ズタズタに裂かれた私のコートはアウルモンとピヨモンが一生懸命治してくれたのだ。 「私、ひょっとして一ヶ月眠ってたの?」 「家の近くの山で気を失ってたんだ。ガードレールの外側の崖の下に落ちたんだよ」 父さんが涙ながらに言った。 「本当にごめんな、お前が散歩に行くって言った時、俺がしっかり気にかけていれば…」 「いいんだよ、そんなこと」私は苦笑する。今思えばあれは完全に私の勝手な行動だ。 それと同時に、私は眉をひそめる。デジタルワールドでの一ヶ月の生活は、もしかして夢だったのだろうか? そうは思えない。それは、あまりにも鮮明だった。 「あのさ、私が着てた服ってどうなった?」 今の私は完璧な入院着だ。どこかにあのコートがあるはずだった。 「ああ、そのことなんだが…」 私が妙にしっかりしていることに変な顔をしながら父さんは答える。 「落ちた時にダメになったんだろう。コートはズタズタに破けていたよ。そこの箱に入れてある」 お前を繋ぎ止めるものは大切にしたかったんだと父さんが指差した箱に私は手を伸ばした。それを慌てて母さんが抑える。 「一ヶ月点滴で暮らしてたんだから体が思うように動かなくて当然でしょう。私が開けるから」 いや、私昨夜もピンピンして動いてたんだけどな、と心で呟きながら私は箱に目をやった。 「ねえ、それって…」目を輝かせる私と反対に、二人は眉をひそめている。 「直されてるわね。下手くそだけど、どうしたのかしら?」 「看護師が誰か勝手にやったのか?」 「ねえ、ポケットの中、見てよ」 「え? ええ」母さんがコートのポケットに手を突っ込む。 「あら? ここに入ってたのね」 母さんの手には、私のスマートフォンが握られていた。そういえば、デジタルワールドに来た時、持ち物からスマートフォンだけが消えていた。 「貸して」 「充電切れてると思うぞ」 「いいの」私はスマートフォンを受け取ると、電源ボタンをゆっくりと押し続けた。 と、スマートフォンのスピーカーから、美しいギターの旋律が溢れ出た。 「『ブラック・バード』?」母さんが首をひねる。父さんも不思議そうな様子だ。 「円香、お前ビートルズなんか好きだったか?」 「うん」私は涙を流しながら笑った。 「大好きだよ」 病院の検査で医者も呆れるほどに健康体だったこと。これ以上点滴なんか打ったらそれこそ死んでしまうと私が強硬に主張したことにより、私は病院の食堂にいた。お粥にインスタントの味噌汁、生気のない茹でた野菜に豆腐ハンバーグ。正直食べる気はしなかったが、箸は勝手に進み、結局完食してしまった。なんだかんだ身体は疲れているのだろうか。 「ところで、受験は?」私は目の前で私の食べっぷりに目を丸くしている両親に話しかけた。 「そんなことは気にしなくていいんだ」父さんがわざと厳しい顔を作って言う。 「行けるところに行けばいいし、来年まで待ってもいい。どっちにしろ、今決めることじゃない」 「いやあでも、あと三ヶ月あるわけだし、なんとかなるよ」 「でも、第一志望にしてたとこは厳しいんじゃないかしら」母さんが言った。 その通りだ。敵前逃亡のようで悔しいが、こればかりはしょうがないだろう。見栄を張らず弱い自分を認めることは、ホークモンから学んだことだ。 「うん、そうだね…」 一つ下のレベルの高校にするよと言いかけたその時、隣のテーブルから声が聞こえた。 「身体は大丈夫か?」 「うん。受験には間に合うよ」 「第一高校は余裕で入れるって判定を貰ってるんだ。身体にだけは気をつけてくれよ」 第一高校は私が第一志望に掲げていた高校だ。思わずそちらのテーブルに目をやった。私はと同じ入院着で父親とおぼしき男と明るく話すその少年、その少年を見た途端、私の思考は凍りついた。 「円香?」 「第一高校にする」 「は?」 「私、第一高校に行く」 「いやでも、今それは厳しいって…」 「死ぬ気で勉強すればなんとかなるよ。見てみて! 私、こんだけやっても死んでないし!」 元気でしょ? と笑ってみせる私を呆気にとられたように両親は見つめ、頷いた。 「分かったよ。やれるだけやってみろ」 「ありがとう!」 私は二人に抱きついた。 恋は不可抗力。こっちはピヨモンから学んだことだ。 夕方、私は病室の窓から夕日に照らされる街を見渡した。 ここと同じ場所を、彼は一月冒険したのだ。そこには誰もいなかったと言うけれど、私の生活の跡はあったかもしれない。 彼はこの街をどう思っただろう? 私はこの街をどう思っているだろう? 「いつかまた、会えるよ。ヒョコモン」 新年の街を流れる雲に向けて、私は呟いた。
〈おしまい〉
お久しぶりですウウウウウウ。夏P(ナッピー)です。一気に前編から読ませて頂きましたので感想をば。
どこかで聞いたような名前……と思ったら5年ものの作品であったとは。というか、前後編通して数多の記憶から散々自らを「悪い子」「いい子じゃなかった」と自嘲しとりますが、オーガモン相手に自分の可愛さ希少さ説ける辺りからもイイ性格ではあるな円香サン。いきなりのデジタルワールド及びデジモンの前でいい子を演じられるだけでも大した奴だ……と思ってたら、ホークモンだけでなくしっかりアウルモンに最初から見抜かれてたらしくてダメだった。
というか、鳥デジモンの村! 鳥デジモン大好きな俺歓喜。スワンモンいましたが村長が小ぶりっぽいイメージのあるアウルモンなので、これは盗賊オーガモンがかなりの脅威に……は? 一人で三体撃破? アウルモン鬼つええ! 逆らう奴ら全員ブッry
そんなわけで、最後の最後で突然サラッと地の文で明かされた村長の強さに色々吹き飛びましたが、ヒョコモン(ブライモン)と円香サンの関係はホークモンの言う「他の奴らが一日目で終える話をお前らは一月かけただけ」というもので感慨深い。デジヴァイスの内外でキチンと要素が絡み合うのもまた心地良し。実は過去に旅行の寒波の中ご両親もデジタルワールドに訪れたこともあり、あの謎の男女はきっとそんな父母の残留思念が……と思ったらテメーらかよ!?
ピアノの記憶は真に迫っていて、かつてピアニストを標榜していた身としては来るものがありました。練習はかったるいからな! でも逃げずに吹っ切れたのは良かったですね。というか、ピヨモンホークモンとパートナーのヒョコモン以外とも各々の関係が築くことのできた一月が実に良い。
総じて所謂アニメの一話の内容をしっかりと描いた上でそこ単体で完結させる素晴らしい短編(中編?)でございました。
しかしそうか、これで両親とも腹を割って話せるようになり、きっとこの先……恋はいつでもハリケエエエエエエン! 我が友ピヨモンよ……お前の言葉は正しかったぞ!
それではこの辺りで感想とさせて頂きます。