はじめに
こちらは交流企画『Digimon/Granddracmon Order』の序章です。
本作には前日譚および参加条件のひとつである『チュートリアル』と呼ばれる章が存在します。各参加者様と主催のチュートリアルはこちらの4ページ目のリンクから閲覧出来ますので、よろしければお読みになってください。
なお、この序章に直接繋がる『チュートリアル』は主催作のものになります。
以下、本編です。
*
もふ、と。
何かあたたかく、やわらかいものが青年の指先に触れる。
「くぅーん、くぅーん。わふっ」
次は頬だ。すりすりとその温もりは青年に身を寄せて、次いで、今度はぴちゃぴちゃと、濡れた感覚が接触の後を撫でる。
「ん……んん……」
冷たく硬い場所に身を横たえている事実が、対比のようにじわりじわりと青年の意識を覚醒へと導いていく。
―――ええっと、確か、俺は。
重い瞼を持ち上げながら、青年は靄のかかったような頭の中に現状の答えを。こうなるに至った原因を探す。
電子人理守護機関ラタトスク
48人目のテイマー候補
テイマー訓練用疑似相違点
そして、エインヘリヤル。
バラバラになったパズルのピースを、ひとまず掻き集めて。
組み上げようとした、その矢先。
「くーん」
「……」
目を開いた先にいた、紺色の体毛を持つ垂れ耳の丸い犬。その無邪気な赤い瞳を前に、色々なことがどうでもよくなって、青年の考えは霧散してしまう。
撫でてほしそうだ、と。そんな判断だけを下して青年が丸い犬の額に手を伸ばす青年。
が、自分からすり寄るのはOKでも、相手から触られるのはNGらしい。犬というよりは猫を彷彿とさせる唐突な塩対応で丸い犬は青年の手の平をすり抜け、白い廊下の奥に向かっててちてちと駆けて行ってしまった。
「……なんだったんだ、今のデジモン」
青年は独りごちる。
と同時に、デジモンという生き物がよく解らない存在だと言う感覚は、今に始まったものでも無いなと、軽く自嘲するような気持ちも僅かに胸の内に浮上するのだった。
と、
「質問があります、先輩」
不意に耳に届いた、どこか凛とした印象のある女性の声。
青年が慌てて顔を上げると、そこには白いパーカーを羽織った少女が、印象的な緑ぶちの眼鏡越しに、じっと、観察でもするかのように、蜂蜜色の眼差しで青年の事を見下ろしていて。
ふわりと軽く内に巻いた、柔らかそうな赤い髪。あどけなさは残るのに、心情を伺いきれない、色々な意味で人形のような印象の顔立ち。線の細い身体付き。
初めて見るのに、どこか馴染みのあるような、無意識に親しめるような。不思議な少女だと、青年は目を見開く。
……そういえば、自分はさっき、夢の中で。こんな赤い髪の人を見たような、見なかったような―――と、そんな記憶も過ったり過らなかったりした、ところで。
「とても気持ちよさそうにお休みしておられましたが、通路のただ中で就寝する意図が私には理解できません。理由を、お聞かせ願いたいのですが」
夢。
夢を見ていた、ということは、眠っていたのだと。
ようやく自覚した青年は、「寝てた!?」と、事実に疑問符を添えながら飛び起きる。
少女の言う通り、人は、普通通路で寝ないのだ。
「はい。それはもう、すやすやのレム睡眠でした」
「すやすや……」
「即ちレムレムです」
「レムレム……」
「いえ、ぐっすり眠っていた以上、ノンレム睡眠という可能性もありますね。その場合はノンレムレムです」
「ノンレムレム……」
現状も会話のペースもつかめず困惑を深める青年。
加えて、少女の放った一言が、余計に彼を混乱させていて。
「あの……」
「はい、何でしょう先輩」
「俺達、初対面だよね?」
「そうですね、先輩」
「……」
先輩、と。
間違いなく、少女は青年の事を、そう呼んでいて。
それは、彼の名前では無い。
なんらかの集団に先に属している者を指す呼称で、彼は、ここに先程足を踏み入れたばかりなのだ。
青年の名は、三角(ミカド) イツキ。
電子生命体デジタルモンスター、通称デジモンの存在が一般的なものとなり、ほとんど全ての人間にパートナーデジモンが付き従うようになったこの時代において、悪い意味で珍しい、パートナーデジモンを持たない人間だ。
にもかかわらず、運命か、もっと他の何かのいたずらか。三角は『デジタルワールドに渡航する』適性だけは一般人よりも高いらしい、というのが数か月前、通っている高校で受けた検査で明らかになり、48という番号と「テイマー候補として貴殿を招集する」という文言を添えた長ったらしい書類に従って、彼はこの『電子人理守護機関ラタトスク』へとやって来たのである。
『電子人理守護機関ラタトスク』。
多くの人間の例に漏れず、三角は規約書の類をあまり真剣には読まないタイプだ。
それが所謂『先手に回った選ばれし子供』―――即ち、1999年のお台場での事件以降顕著になった『デジタルワールド』からの脅威を対策・防止する組織だというのは、三角もニュースで聞きかじれるレベルの知識としては有している。
だからこそ、三角には解らなかった。
何故、そんな大それた組織が、パートナーデジモンを持たない自分を「デジタルワールドに行くための適性が高い」という理由だけで招集するのかが。デジタルワールドに行くだなんて、みんな普通にやっているような事なのに。
だがそれ以上に、「テイマー候補」と。ひょっとすると、自分もようやくパートナーデジモンを得られるかもしれないという期待に胸を高鳴らせ、三角はラタトスクの招集に応じたのである。
……が、こうやって足を踏み入れてみれば自分は何故か廊下で寝ているわ、デジモンとの接触は有ったが秒で去っていくわ、知らない少女に身に覚えのない肩書で呼ばれるわ。
「その……君、『先輩』っていうのは? ひょっとして、うちの高校の子?」
そろそろ疑問の1つくらい解消しても良いだろうと問いかけて。
「いいえ。そもそも、私は高等学校には通っていませんので」
しかし赤毛の少女は、きょとん、と。三角の問いかけの方がまるで不思議であるかのように大きな目を瞬かせてから、あっさりと三角を余計に混乱させる台詞を口にするのだった。
と。
「おや、ここに居たのか『シフ』。ダメじゃないか、断りも無く移動しては」
もうすぐ説明会が―――と言いかけて、廊下の奥から歩いてきたその人物は、軽く体を傾けて、彼から見て少女の向こう側に居る三角の姿を確認する。
「なるほど、新人くんを出迎えに来ていたのか。なら、その心掛け自体は良い事だ」
でも、やはり次からは一言声をかけてくれたまえよと、少しだけ歩調を速めてこちらに向かってきたその男に、「すみません、ノルエル教授」と軽く頭を下げる、シフと呼ばれた少女。
謝罪の言葉ではあったが、三角に話しかけていた時よりも、僅かに声が弾んでいるように思えた。
「さて」
そして、シフにノルエル教授と呼ばれた男は柔和に微笑みながら、三角へと手を差し出した。
「ようこそラタトスクへ。48番目、即ち最後のテイマー候補くん。私はノルエル。ノルエル・フロースト。ラタトスクに協力しているデジタルワールド研究家だ」
青みがかったクセのある黒髪に、白い肌。頭に乗せたシルクハットを含めパープル系で纏めた装束は攻めた配色の割に品があり、細い目は見るからに穏やかそうな印象を湛えている。
話しやすそうな相手だと、ここにきてようやく一種の安堵を覚えながら、三角は白い手袋を嵌めたノルエルの手を握り返した。
「ええっと、三角イツキです。よろしくお願いします。えっと……すみません、俺、なんかここで気を失っていたみたいで」
「ほう? ……ふむ、恐らく入館時のシミュレーション―――『疑似コネクトダイブ』の影響で半ば夢遊状態に陥っていたのだろう」
「つまり先輩はやはりレムレムであったと」
「レムレム……」
「うーむ、本来であればその手のトラブルには技術班チーフのナシロが引き続き対応に当たる筈なのだが……」
ナシロ。
ノルエルが口にしたその単語が、ふと引っかかる三角。
聞き覚えのある名前だと、そう思ったのだ。
そしてその名を耳にするタイミングがあったとすれば、それは間違いなくノルエルの口にした「入館時のシミュレーション」の時に違いなく―――
「まあそろそろ説明会の時間だ。となると、アイツも何かと忙しいのだろう。大目に見てやってくれ三角くん。悪い奴じゃないんだ。そんなに良い奴でもないけれど」
「はぁ、はははは……」
目星がついたとはいってもおぼろげにしか記憶にない人物のフォローをされて、笑って返すしかない三角。
そんな彼の内心を察したのか、あるいは当初の予定を切り出しただけか。ノルエルは三角とシフを交互に見渡して軽く肩を竦める。
「ナシロの事だ。説明が足りていない箇所が大量に残っていると想像に難くは無いが、生憎我々には時間が足りていない。シフ、先に言った通り、そして君も忘れている訳では無いだろうが、そろそろ所長による説明会の時間だ。三角くんと一緒に会場に向かいたまえ」
「了解しました。では、ご案内しますね、先輩」
「あ―――あのう」
時間が無い、との事ではあったが。
ならばなおの事。同じ会場に向かうとは言っても、この少女と言葉を交わす機会が、この先あるかどうかもわからないのならば。
せめて、状況が何も解らないなりに、このたった1つの疑問だけでも解消しておきたいと、三角はおずおずと手を挙げる。
なんだね? と。
急かす風な事を言った直後であるにもかかわらず、ノルエルは嫌そうな顔1つせず振り返った。
「どうして彼女、俺の事「先輩」って呼ぶんですか?」
*
ラタトスク管制室。
『ヘイムダル』と名付けられた、天球儀にも似た装置を背景に、三角よりも少し年上といったくらいの女性は、プラチナブロンドの髪を苛立たし気に軽く引っ掻いた。
「定刻を少々超過してしまいましたが、全員揃ったようなので始めましょう。……仕事を任せた相手が相手なので今回だけは大目に見ますが、それでもここに居る全員の貴重な時間を奪った事、大いに反省するように」
「う……」
鮮やかなグリーンの瞳から、眼鏡越しに鋭い視線が三角に突き刺さる。
ラタトスク女性スタッフの制服が白と寒色系で纏められている事も相まって、まるで氷のようだと、彼は軽く身を縮ませるのだった。
あるいは、彼女の傍に控える巨大な『コキュートスの王』が、その印象をより強めているのかもしれないと、三角は泳いだ視線をその『獣』の双頭に留まらせる。
「まあまあレナ。それこそ記念すべき作戦初日なんだ。君の方こそ、あまりカリカリした態度で皆に接してはいけないよ」
鮫を彷彿とさせる2つの頭を持つ、4つ足の獣―――から生えた男の上半身。長い角を生やした仮面の貴人は、唇を艶やかに歪めながらパートナーである女性をなだめる。
最もなだめられた側である女性は、より一層眉間の皺を深くしたのだが。
「……不死の王である貴方と違って、私達の時間は有限なのグランドラクモン。というか、仕事中です。私語は謹んで頂戴」
ラタトスク所長、ヘレーナ・マーシュロームと、そのパートナーにしてデジタルワールド最下層『コキュートス』の王、グランドラクモン。
三角が生まれるよりも以前、デジモンの存在が公になり始めた当時。この世界で猛威を振るったデジモンが吸血鬼の特性を持っていた事から、いわゆる吸血種デジモンは人間にとって長らく恐怖と嫌悪の対象であり、吸血種デジモンもまた、他種族よりも人間を見下す傾向にあった。
それが吸血鬼デジモンの王と言っても過言では無いこのグランドラクモンの登場によって、徐々に世間の風向きが変わり始めた。というのは、三角にとっても記憶に新しい。
そも、この『電子人理守護機関・ラタトスク』の存在を一躍有名にしたのは、このヘレーナ・マーシュロームがグランドラクモンとパートナー関係を結んだ事がきっかけであった。
人と友好関係を結び、人間排斥を訴える同種を排除するのではなく説得し、人とデジモン、双方のために尽力するその姿は大きな話題を呼び、漫画以外にあまり本を読まない三角でさえも、グランドラクモンを取り扱った書籍がフィクション・ノンフィクション問わず広く取り扱われている事ぐらいは知っている。
世間に大きな影響を与える一組が目の前に居る、という事実に、三角は軽く眩暈を覚えるのだった。
「では、改めてご挨拶を。私は電子人理守護機関ラタトスク所長、ヘレーナ・マーシュローム。そして隣にいるこの……説明し辛い姿の吸血種デジモンが、私のパートナー、グランドラクモンです」
ヘレーナ所長に言われた事を律儀に守って、しかし気さくな調子で、グランドラクモンは両手を集まった者達に振って見せた。
……そんな中、三角は気付いてしまう。眩暈を覚えているのではなく、実際に眩暈が起きているのだと。
意識してしまうと余計にダメだった。ぐらり、ぐらりと、世界が揺れて見え始める。
「そしてここに集った48名は、各国から選抜、あるいは発見された、稀有な『コネクトダイブ』適性および『テイマー適性』の持ち主―――」
このふわふわとした感覚、何かに似ているな、と。意識を保つために脳内を駆けずり回った事で、三角は1つ、記憶を取り戻す。
「……先輩?」
入館時のシミュレーション―――コネクトダイブ訓練。肉体が、電子に変換される感覚の、疑似体験。
その時の覚えた浮遊感に似ているな、と。そんな、記憶を。
「……テイマー番号48番?」
―――とりあえず、習うより慣れろです。
そんな声が、再び、耳に届いたような気がした。
「……失礼。『選ばれた』テイマー候補は、ひょっとすると47名だったかもしれませんね」
そしてヘレーナの棘のある声音は、さっきよりもずっと、三角の傍で―――
「出て行きなさい、テイマー番号48番、三角イツキ! 私が話している最中に居眠りをするような輩は、この作戦には必要ありません!!」
次の瞬間、完全に飛び掛かっていた三角の意識が一気に覚醒する。
ヘレーナの、頬への強烈な平手打ちによって。
凄まじい音が、厳粛な説明会の場いっぱいいっぱいに響き渡った。
*
「……大丈夫ですか、先輩」
「目は覚めたよ。説明会からは追い出されちゃったけど……」
コネクトダイブ訓練の影響でまだ意識がはっきりしていないのだと、近くに居たシフや、部屋の奥で待機していたノルエルがヘレーナ所長をなだめてくれなければ、本当に『テイマー候補』とやらからすら外されていたかもしれないなと、三角は嘆息する。
いや、舟を漕いでいた事自体は自分の落ち度だ。いくら慣れない体験の連続で疲れていたとはいえ、真面目な説明の最中に寝られて気分のいい人間はいないだろうと、三角にもそれは理解できる。
彼が気を落としているのは、平手打ちの後も三角を叱責したヘレーナ所長の台詞だ。
―――『テイマー候補』の自覚が全く以って足りていません! パートナーの居ない人間は、これだから。
「……」
自分もテイマーに―――『普通』になれるかもしれないと勇んでやって来たラタトスクでそう言われてしまっては、いくら自分に非があるとは言っても気落ちするなと言う方が無理な話だ。
「先輩?」
そんな三角の顔を、シフが覗き込む。
相変わらず感情の読めない目をしているが、彼女が傍に居ると、何故か少しだけ気分が落ち着くのだった。
「ううん、大丈夫。なんでもない。……ああいや、結局何も解らないままだから、そこは、どうしようかと思って」
「すみません。このまま私がご説明できれば良かったのですが」
「いや、そこまでしてもらう訳にはいかないよ」
ただでさえ、また倒れてはいけないから、と理由を付けて、シフは自分を、後程案内される予定だった三角の自室へと案内してくれているのだ。
シフは既に説明の内容を知っているという話だが、それだって自分に気を使っての発言かもしれないと思うと、なおの事。これ以上彼女を引き留める訳にはいかないと、三角はそれらしいジェスチャーを交えて大丈夫だとシフにアピールする。
そうこうしている内に、自室へと辿り着いたらしい。
扉のデザインは他の部屋と変わらないが、入り口のプレートには48と、彼を示す番号が電子表示で浮かび上がっていて。
「こちらが先輩のお部屋です」
「うん、本当にありがとう」
「いえ。先輩のお困りごとは、見過ごせませんので。これからも、何かあれば何でもお申し付けください。いつでも力になりますから」
どうしてこんなに良くしてくれるんだろう。理由自体は聞いたとはいえ、全然先輩じゃないのに、自分。と、やはり笑って返すしかない三角に背を向けて、シフは元来た道を引き返していく。
と。
「最後に1つだけ」
シフが、今一度振り返った。
「?」
「私も、パートナーは居ないんですよ」
その時、シフは僅かに微笑んだ。
「え?」
呆気に取られる三角に、しかしそれ以上は構う事無く、シフは再び背を向けて歩き始める。
まるで、その一瞬が、それこそ夢幻であったかのように。
「……」
ぽかん、とその背中を見送って―――やがて三角も、小さく口角を上げてみせる。
自分だけでは無かったのだと。それは、安堵からくる微笑だった。
「……っと」
だがすぐに気を取り直して、三角は扉の前に向き直る。
部屋の中に、ひょっとしたら詳細を載せた書類的なモノがあるかもしれない、と。そう考えたのもある。何にせよ、いつまでもこんなところでぼーっとしているわけにもいかないと思ったのだ。
ノルエルが気を効かせて先にシフに持たせてくれたという、自分用のスマホ型デジヴァイスを他のテイマー候補より先に受け取っていた三角は、その上部を扉の隣にあるパネルへと翳す。
扉が開いた瞬間、備え付けのガラステーブルに脚を投げ出し、だらしなく、これまた備え付けの椅子にもたれ掛かってココアの缶を傾けていた、赤茶けた髪に白いメッシュを入れた女性と目が合った。
「……」
「……」
どうしようもないような静寂の中、三角はやっとの思いで、女性が白衣の下に着ている作業着が、所長のベストと同じミントグリーンである事を―――即ち、彼女もまたラタトスクの職員である事を、理解する。
「……」
「……」
だからと言って気まずい沈黙がどうにかなる訳でも無く、さらにたっぷりと数秒の時が流れる。
「わふっ」
……ようやく静けさを打ち破ったのは、どちらかの口では無く、どこからともなく現れて部屋に入り込んできた、三角がここに来て最初に目にした、あの紺色の仔犬だった。
「え……っ」
「誰ですか貴方」
困惑気味に仔犬を目で追っていた三角に、女性が、一言。
ことり、と置いたココアの缶を見るに、彼女は驚いて固まっていた訳では無く、引き続きココアを飲んでいただけだったらしい。
シフとはまた違った意味で表情の伺えない眼差しが、改めて三角へと向けられている。
「ここは、わたくしのサボり部屋なのですが」
「いや、俺の部屋なんだけど」
「えっ」
「え?」
交差した視線はお互いに「何言ってるんだコイツ」と訴えかけ、ただ紺色の仔犬だけが、わふ、と無邪気に鳴いて見せるのだった。
*
「はぁ、空き部屋という事で有効活用していたのですが、それも今日までという訳ですか」
今日からここにやって来た新人だと自己紹介すると、残念です、と、さも三角に非があるかのように言う作業着の女性。
聞き間違いで無ければ堂々と「サボり」宣言をしていた以上、有効活用というより不正利用では? と三角は訝しんだ。
「ま、新入りとあれば歓迎くらいはしなければなりませんね。よろしければこちらにどうぞ」
「いや、だからここ俺の部屋」
自分の座っていた席をぽんぽんと叩く女性に、思わずツッコミを入れる三角。
とはいえやはり立ったままで居るのも何なので、彼はとりあえずその椅子へと腰かけた。
「わふっ!」
「わっ」
と同時に、膝の上に飛び乗って来る紺色の仔犬。
恐る恐る三角が手を伸ばすと、今度は逃げ出したりせず、むしろ気持ちよさそうに、撫でられるのを受け入れている。
やはり犬というよりは猫のようだと、三角はくすりと微笑むのだった。
「幼年期デジモンが懐くという事は、怪しいながらに悪い者では無いのでしょう」
「いや、だから怪しいの、むしろそっちなんですけど」
「怪しいとは心外な。わたくし、これでもラタトスク技術班のチーフなのですよ」
「技術班チーフ……」
その肩書に、三角の中でノルエルの言葉が蘇る。
「もしかして、あなたがナシロさん?」
「おや、よく御存知で。……ひょっとしてわたくし、あなたと初対面では無い?」
「……ノルエルさんの言ってた通りなら、数十分前には会ってる筈なんだけど」
「……」
「……」
「……」
「……三角イツキです。サンカクに、カタカナのイツキで、ミカドイツキ」
「OK思い出しました。名前の響きの割に全体的なインパクトが薄くて、ついうっかり。あと三って奇数ですし」
口調が丁寧な割に滅茶苦茶失礼だしわけわかんないなこの人。と、思わずジト目気味になる三角。
名城はそんな三角を大して気にする素振りを見せず、白衣のポケットから新たにココアの缶を取り出して、三角へと差し出した。
「改めて。わたくしは電子人理守護機関ラタトスク技術班チーフ、名城明音(ナシロ アカネ)です。メンテナンス職故、ドクターと呼ばれる事も多いので、お好きな方で呼んで下さい。何にせよ、以後、よしなに」
「えっと……俺も改めて。三角イツキです。よろしくお願いします」
「ばうっ」
「で、そちらはバウモン。多分誰かのパートナーデジモンでしょう」
「名城さんのパートナーじゃないんですか?」
「いえ、わたくしのパートナーは、ここには居ないので」
パートナーを持たない自分が何だが、それはそれで珍しいなと思う三角。
人間の世界で日常生活を送るのが困難なデジモンというのはそれなりの数存在するが、それにしたってデジヴァイスにすら入れていないというのは、あまり聞かない話ではあって。
まあ、単純に別行動中なだけかもしれないと、三角は気を取り直す。あまり深く尋ねる話題ではないというのは、パートナーを待たない彼が一番よく解っていた。
それよりも、技術班チーフという肩書の方が、今の三角にとっては重要なものだった。
サボりというのも、ある意味で都合が良いかもしれないと、名城の出したココアの缶を受け取りつつ、三角は名城の方へと向き直る。
「その……俺、実はシミュレーターの後遺症で居眠りしてしまって、ヘレーナ所長の説明会、追い出されちゃいまして」
「それは災難でしたね。彼女、ちょっと気難しいところがあるので」
「そのせいで、ちょっと、俺がここに呼ばれた理由とか、全然解って無くて」
「……あの、まさか」
「そもそもその手の説明って、名城さんの仕事だったって、ノルエルさん、言ってたんですけど……」
「……」
「もし良かったら、その……ね?」
「わふ」
ふう、と名城が息を吐く。直後、「サリエラに頼んでおいた筈なんですけれど」と彼女が呟いたのを、三角は聞いた気がした。
「こんなに解り易くサボりのツケが回って来る事ってあります? とはいえ仕方がありませんね。ご説明しましょう」
聞き覚えのある名にまた何かを思い出しかけた三角だったが、名城があまりにも堂々とと「サボり」と口にしたせいで色々とどうでも良くなってしまった。
お願いします、と、彼はバウモンのやわらかいほっぺをこねながら、名城へと軽く頭を下げた。
「さて、ラタトスクの説明自体はいいですね? 「先手に回った選ばれし子供」云々、脅威に対する防止と対策の機関等、それさえ理解してくれているなら、この点については省けるので」
「そこは大丈夫です」
「結構。ついでにその他必要な説明についても、「思い出して」もらえれば助かるのですが」
そのためにも、まずは結論から言ってしまいましょうかと。説明を渋っている割にはやや表情を改めて、彼女は真剣に三角を見据える。
「2024年。このままだと世界は滅びます」
「……は?」
だが、名城のあまりにも真剣な態度とは裏腹に。
三角は呆けたように、疑問符を捻り出す事しか、出来なかった。
*
電子人理守護機関ラタトスク
『電子人理』とは、人とデジモン、そのその双方が積み重ねてきた歴史であり、未来への理(ことわり)の事を指す言葉だ。ラタトスクはこの電子人理を基盤に、人間とデジモンに対する脅威を事前に取り除く事を目的として立ち上げられた、国連に承認された組織である。
では、具体的にはどのように、迫りくる脅威を取り除くのか。
まずは、脅威の予測・観測。
これは三角が先程管制室で目にした天球儀―――『ヘイムダル』の役割である。
2005年にデジタルワールドの現管理システム『ホメオスタシス』にシャットダウンされた旧管理システム『イグドラシル』を流用して制作されたこの観測機器は、その膨大な演算処理能力によって疑似的な未来予知までもを可能とし、ラタトスクの狙い通り、人とデジモンを脅かす存在をも事前に察知する事を可能とした。
脅威の種類が判明すれば、自ずと対策も可能となる。
実際この試みは概ね上手く行き、各国の専門家とも提携する形で、ラタトスクは世間で公になっている以上に、問題解決に向けて多大な成果を上げてきたのである。
約半年前までは。
「突如として、ヘイムダルは地球及びデジタルワールドの未来を2024年以降、観測しなくなりました。……いえ、正確には観測できなくなりました。「2024年に世界は滅ぶ」と。何度計算を繰り返しても、その観測結果だけを表示するために」
管制室がざわめきに包まれる。ヘレーナ所長は当然の結果だとしばしの間目を閉じてその騒々しさを許容したが、すぐに「静粛に」と手を叩いてその場を収める。
「ですが、未来予知は兎も角、問題の原因についてはどうにか再計算の末、弾き出す事が出来たのです。それが」
表面が地球上の大陸を表示する形に切り替わったヘイムダルが回転し、ユーラシア大陸がヘレーナ所長達の正面に来るような位置で停止する。
日本の東京にあたる位置で、赤い点が瞬いていた。
「1999年。日本国首都、東京都練馬区光が丘。この国の出身者で無い者も、大半は聞き覚えがある地名の筈です。少なくとも『デジモンアドベンチャー』の舞台の一つだと言えば、知らない者はいないでしょう」
『事件』の舞台の名としてはお台場の方がよく知られてはいるが、デジモン観測においては光が丘も、ひょっとするとお台場以上に重要な役割を担っていた土地である。
少なくとも『デジモンアドベンチャー』のタイトルで出版された、1999年の選ばれし子供の1人・高石タケル氏による『事件』の手記に目を通す限りでは、読者はそのような印象を覚えるに違いなく。
「ヘイムダルの未来予知は、膨大な過去のデータがあってこそのものです。この赤い点は、その「過去のデータ」の中に突如現れた異物とでも呼ぶべきもの。……ここからは私より私のパートナーの方が上手く説明できるでしょう。グランドラクモン、お願いできるかしら」
「もちろん。それがレナの望みであれば。……さて」
君達は聞いた事があるかな? デジタルワールドにおいて、記録と歴史は等価なものである、と。
ヘレーナ所長と交代したグランドラクモンは、そんな風に話を切り出した。
「つまるところ、記録さえあれば簡単に歴史―――過去をねつ造出来てしまう、という訳だ。君達、自分のデジモンに強化アイテム的なものを使った事はあるかな? 例えば、攻撃力を増幅させるものだとか。デジヴァイスを通じてこういったアイテムでデジモンを強化すると、トレーニングをした訳でも無いのに実際にデジモンのパラメータが上昇するだろう? 理屈としては似たようなものだ。デジタルワールドに『記録』をラーニングさせると、それが実際の『歴史』として世界に反映される」
そうだね? ノルエル。とグランドラクモンが話を振ると、デジタルワールド研究家としてここに呼ばれているノルエルはこくりと頷いた。
「もちろん詳細は異なるが、概ねそう理解してもらって問題無い」
「ありがとう。……さて、ここで聡明なる諸君に問題だ」
もしも、「世界が滅ぶ」という『記録』の書き込まれたデジタルワールドが存在したら、そのデジタルワールドは、『歴史』にどのような影響を及ぼすだろう?
妖しい笑みを湛えたグランドラクモンの問いかけは、テイマー候補達を静まり返らせる。
答えは、最初に口にしているようなものだ。
まあ、と、あくまでにこやかに、吸血鬼の王はパン、と手を合わせて話を続ける。
「もちろん君達が良く知るデジタルワールドであれば、多少そんなデータが書き込まれたところで歴史に反映される訳じゃない。記録同士の整合性もあるし、ホメオスタシスだって滅びの因子をあっさりと世界に引き込む程バカじゃない」
多分。と付け加えて軽薄に笑うグランドラクモンを小突くヘレーナ所長。
吸血鬼のブラックジョークを軽く流すようにして咳払いを挟み、ノルエルがグランドラクモンの説明を引き継ぐ。
「だが、デジタルワールドと呼ばれる世界は1つでは無い。『デジモンアドベンチャー02』に登場した異世界のような、細分化したデジタルワールドとでも呼ぶべき世界が無数に存在している。滅びの歴史が書き込まれたのは、そういったホメオスタシスの影響下に無い、小規模なデジタルワールドだと考えられる」
加えて、とノルエルが指し示すのは、他ならぬヘイムダル―――旧管理システムを流用した機器。
「シャットダウンされているとはいえ、イグドラシルは未だ多大な力と膨大なデータを保持している。……この旧管理システムを利用する者は、我々ラタトスクのみに留まらなかったという訳だ」
ホメオスタシスの影響を受けない小規模なデジタルワールドと、デジタルワールドにおいては神の如き力を持つイグドラシルのデータ。
その2つを揃えた何者かによって、「滅びの歴史をリアルワールドに伝播させるほどの規模を持つデジタルワールド」が、実際に創り出されてしまったのである。
「1999年の光が丘」
ヘレーナ所長が繰り返す。
「この「悪意ある何者か」は、小規模なデジタルワールドにリアルワールドの過去を当て嵌め、その上で『何か』を施した。我々ラタトスクがあなた達を招集した目的は、異世界への渡航すら可能とする程のコネクトダイブ適性を持つ皆さんに、その『何か』を取り除いてもらうためです」
またしても会場がどよめきが走る。
通常のデジタルワールドならまだしも、異世界への渡航については、一般的には厳しい制限がかけられている。それだけ危険を伴うのだ。
いくら適性があると言われても、言われただけで実感が湧くような話でも無い。ましてや世界を救うために見知らぬデジタルワールドに赴くだなんて、簡単に呑み込める話ではないのだ。
だが、静かに、と。先程よりも早急に、ヘレーナ所長が声を張り上げる。
「混乱するなと言う方が無理な話であるとは承知しています。しかし私達もただ手をこまねいていたわけではありません。……グランドラクモン」
「そう。奇しくも私がデジタルワールドの最下層―――コキュートスの王である事が功を制した」
コキュートスとは、全てのデジタルワールドにとっての最下層。ありとあらゆるデータが流れ着く場所だ。
異世界とまで称される微小デジタルワールドにおいても、それは例外では無い。
「私の城がある区域からなら、比較的通常に近い形でこの『異世界』にもゲートを繋ぐ事が出来る。ようするに、諸君らの一般的なデジタルワールド渡航と同様に、行き来そのものは難しくは無い。という訳だ」
行き来そのものは難しくは無い―――つまり、危険が迫ればすぐにでも脱出が可能、という事だ。
そもそも、本来であればその「コキュートスへの渡航」が難儀であるのだが、そこはヘレーナ所長のパートナーの協力がある。グランドラクモンの城が拠点となれば、むしろ生半なデジモンでは、たとえ人間に敵対的な意思を抱いていたとしても、おいそれと手を出す事など出来ないだろう。
「ああいや、『異世界』という呼び方は、もう正しくはないのだったかな?」
徐々にテイマー候補達が平静を取り戻し始めたのを見計らって、グランドラクモンはあくまで軽く、自身のパートナーへと問いかける。
ヘレーナ所長は、静かに頷いた。
「本来の電子人理とは異なる『記録』を書き込まれた世界として独立し、しかし本来の電子人理に異なる『歴史』を刻み付けんとするもの。我々はこの特殊なデジタルワールドを他のデジタルワールドと区別するために、このような名称で呼ぶことにしました。それは―――」
*
「―――『相違点D』。それが、貴方達がコネクトダイブを試みる、微小デジタルワールドの名称です」
「相違点……」
本音を言えば名城の話は情報の嵐のようで、三角には半分も理解できた気がしなかったのだが、それだけに、自分達の知らない所で大変な事が起きていたのだなという実感そのものは得る事が出来た。
「そして、テイマー候補に課された使命は、相違点を相違点たらしめるもの―――先に述べたイグドラシルの破片とでも称すべき、強力な聖遺物―――『聖解』の回収です。これが相違点から失われれば、少なくともデジタルワールドを介して現実にまで飛び火する滅びの歴史は消滅する、と。ヘイムダルはそのように観測しました」
そして詳細は理解できずとも、やるべき事は単純明快ときている。
「ようするに、その、相違点Dに行って聖解を探して持って帰る、っていうのが俺達の仕事……って事ですか?」
「そうなりますね。……最も、回収チームは計画のかなり早い段階で結成済みですから、貴方のような後から集められた候補の仕事は、どちらかと言えば回収チームのバックアップになるでしょうか。相違点が1999年の光が丘を模しているというのであれば、再現された現地の住民とコミュニケーションを取るにあたり、デジモンを持たない人間役がいた方が、何かと都合の良い事も多いでしょうし」
「デジモンを持たない、人間……」
自分や、先程の少女の事だとは、想像に難く無かった。
実際にパートナーデジモンの居る人間と居ない人間とでは、やはり立ち振る舞いは変わってくる。そして、あそこに集まっていたテイマー候補達が全員パートナーデジモンを持たない人間だとは、三角には思えない。
つまり、自分がここに来た意味は、パートナーデジモンを持たない人間の『模範』として振る舞う事にあるのではないか―――と。そんな、あまり芳しく無い想像が、三角の頭を過って行って。
「えっでも」
で、あるならば。
ここで新たに、疑問が生じる。
「『テイマー候補』って言うぐらいなんだから、その、パートナーデジモンを貰えたりとかって……」
三角の言葉に名城が片眉を吊り上げる。
直後、至極面倒くさそうにかりかりと長い髪を引っ掻いた後、殊更面倒くさそうに、彼女は深々と息を吐いた。
「その……本当に、サリエラの事、覚えていないんですか?」
名前に聞き覚えは有る。
そしてその名前に反応して、頭の片隅にぼんやりと赤い影が浮かびもする。
だが詳細となると……と、三角が返答に迷っていた、その時だった。
「っと、失礼」
不意に名城の胸ポケットから、歯車の回るようなカタカタ音が鳴り響く。
彼女がデジヴァイスを取り出したのを見て、音の正体が着信音だと悟った三角は、何にせよ珍しいチョイスだなと思いながら背を向けて部屋の隅に歩いていく名城の背中を目で追いかけた。
「名城、『休憩中』に悪いがそろそろ第一回コネクトダイブ……コキュートス経由での相違点への渡航開始時刻だ。テイマー候補込みでの装置の最終確認が必要だろう?」
「おや、もうそんな時間でしたか。通達感謝しますよノルエル。すぐに向かいます」
「ああ、急いでくれ。……とは言っても、メンテナンスルームからなら2分もかからないだろう。レナに仕事を増やされたくなければ、走って来る事をお勧めするよ」
「善処します」
通話を切り上げ、手持ち無沙汰にバウモンを撫でる三角の方を振り返った名城は、相変わらず無表情気味ではあるものの、髪と同じく赤茶けた色の瞳には、隠しきれない動揺が滲み出ていて。
「……管制室まで、ここから5分はかかりますね」
「こんなところでサボるから……」
「くぅーん」
まあいいです、と、名城は気を取り直す。
「遅刻を免れない時は周辺機器を入念にチェックしていただの何だの適当に理由を付けて、堂々と現場に向かうべきでしょう。その方が案外信じてもらえるものです」
「せめてもう少し取り繕ってもらえません? 俺が居るの、忘れてませんよね?」
「もちろん。口止め料として今度はケーキでも御馳走しますから。……いや、それよりここは、さも道中貴方を発見した風に装って、一緒に連れて行くのもひとつの手かもしれませんね。貴方とてこのままここに居るのも1人で管制室に戻るのも気まずいでしょう?」
「いや、巻き込まないでくださいよ。それはそうかもですけど。……っていうか、本当に急いだ方が良いんじゃ―――」
ぷつん。
2人の会話を遮ったのは、そんな、か細く電灯が落ちる音だった。
「停電?」
「……いや、ラタトスクでそんな事が起きる訳」
そして次の瞬間に名城の言葉を遮ったのは、ずどぉんと、地の底から響き渡るような音を伴う、地面の揺れ。
自分の身体が軽く浮かび上がったのを感じて、思わず三角はバウモンを抱きしめる。
「ばふっ!?」
「っ、あ、ごめん。……あ、あの、名城さん。今のは―――」
地震であれば、デジヴァイスに通知があった筈だ。それに、揺れがたった一回というのも不自然過ぎる。
だが名城が応じるよりも前に、天井のスピーカーからけたたましく警告音が鳴り響き、女性の声を模した電子音声が続けざまに響き渡った。
「緊急事態発生、緊急事態発生。中央発電所及び中央管制室で火災が発生しました。職員は速やかに―――」
「っ」
策程までの気だるげな表情を一変させ、壁のモニターに何らかの操作を施す名城。
映し出された映像に、三角までもが思わず息を呑んだ。
管制室の壁は崩れ落ち、代わりに炎と煙が部屋を囲い、ヘイムダルの前には、底の無い暗がりのように、大きな穴が、開いていて。
「名城さん、これ」
顔を上げた三角の目に映ったのは、口元を押さえ、真っ青な顔で震える名城。
緊急事態。緊急事態。と。
アラートと同じ言葉が、三角の脳内で渦を巻く。
「……じきに中央区画は封鎖されます。三角。貴方だけでも外に避難なさい」
「名城さん?」
「わたくしは、管制室に行かねばなりませんので。……早く!」
呆然とする三角を部屋の外まで引っ張り出してから、名城は三角がシフと共に歩いてきた道を真っ直ぐに駆けて行く。
「避難、って」
その背中を見送りながら辺りを見渡し、しかし彼女が消えて行った方向に、彼はひとつの面影を見出した。
―――私も、パートナーは居ないんですよ。
「……そうだよ、管制室には、あの娘が」
それは、同調だったのかもしれないし、同情であったのかもしれない。
たったひと時、自分に良くしてくれた、少し風変わりな少女。
自分と同じで―――きっと、「普通」では無かったに違いない、同じ年頃の、女の子。
ここまで自分を送ってくれた彼女を、自分は、置いて逃げるのか?
「ばうっ!」
「あっ」
と、バウモンが三角の腕から飛び降りる。
バウモンは管制室の方向に足を進め、しかしすぐに、三角の方を振り返ってもう一度「ばう」と鳴いてみせた。
「……案内してくれる、ってこと?」
「わっふ!」
「……ありがとう。ごめん……!」
こんな非常時に幼年期デジモンを頼らなければいけない不甲斐なさに身を焦がしつつも、しかし一先ずその感情を振り切って、三角は走るバウモンの後に続く。
幼年期とはいえデジモンはデジモン。相応の速度で駆け続けたバウモンはあっという間に管制室の前に辿り着き、傾いた扉の隙間に身体をねじ込むようにして、その中へと入り込んでいく。
「……っ!」
三角に同じ真似は出来なかったが、その隙間に指を引っ掛け、思い切り引くと、がたん、と音がしてどうにか人一人分通れそうなスペースが開いた。
「!? 三角、どうしてここに来たのです!」
「名城さん!」
音に反応したのか、立ち上る煙を前に立ちすくんでいた名城は、焦りに満ちた形相で振り返る。
彼女はスタッフ用の通路から、先に管制室に足を踏み入れていたのだ。
「それよりも、ここに居た人達は!?」
「っ……」
三角が見渡す限り、人影は名城以外に確認できない。
あの、巨大な身体を持つグランドラクモンでさえ。
「皆、大丈夫、ですよね?」
名城は答えない。
「こういう時って、パートナーデジモンが、助けてくれるものなんでしょう……?」
名城はやはり、答えなかった。答えなかったが―――彼女は静かに、三角が入ってきた部屋の入り口を指さす。
「わたくしはこのまま、発電所の方に向かいます。貴方は来た道を戻りなさい。まだ、間に合う筈です」
「で、でも」
「貴方は、貴方達は、物語の主人公では無いんです。無茶や無謀を、運命や偶然が守ってくれる訳じゃない」
だから、早く。と。
そう言い残して、名城は更に奥へと駆けて行く。
「っ」
そして言われるまでも無く、三角はそれを理解していた。
自分が物語の主人公ではないなどと、そんな事。
痛い程に。
だが、それでも。
それでも―――
「くぅーん、くぅーん!」
「!」
バウモンの鳴き声が聞こえた方角に目を凝らすと、煙の中にあの紺色の毛並みと、その前に女性の細腕が投げ出されているのが辛うじて見えた。
三角は防災訓練の記憶に従って身を屈め、口元に腕で覆いながら、その方向へとにじり寄る。
そうして赤い髪が見えた時、ようやく『彼女』を見つけたと、三角が胸をなでおろしたのも束の間だった。
「ッ」
三角は鋭く息を呑む。
床に倒れ込んだ彼女は、確かにシフと呼ばれていた赤毛の少女だった。
だが「そう」だったのは、彼女の半分だけの話。
身体の半分がどろりと崩れ落ち、半ば液状化した肉体は、彼女の特徴的な眼鏡と同じ鮮やかな緑色をしている。
腕の先や顔の一部は身体とは逆に光沢のある金属に置き換わっているらしく、特に三つに分かれた指先は鋭く尖り、三角の目にも留まる位置に伸びていた少女の細腕と対比を成していて、彼女をより一層異様に仕立て上げていた。
否、否。
それよりも、何よりも、強く三角の目を引いたのは―――
「ごめんなさい、……三角さん」
シフは、幾重にも他の音が混ざったその声で、この時彼を、「先輩」とは呼ばなかった。
―――シフにとって、君ぐらいの年頃の人間は皆先輩なんだ。
ノルエルは、三角がシフからの呼称について尋ねた際、そんな風に応えた。
……そうだ、ノルエルも、一体どこに行ってしまったのだろう?
―――ただ、こんなにもはっきりと口にするのは珍しい。いや、ひょっとすると初めてなんじゃ無いか? シフ、どうしてまた、わざわざ彼を、先輩と?
―――彼が、今まで出会ってきた人間の中で、最も人間らしいと、そう感じたからです。全く脅威を感じず、敵対の理由が一かけらも無い。故に、最も模倣するに相応しい人間だと。
ノルエルの問いに、シフへ間髪入れずに、そう答えていた。
そういう事だったのか、と。三角の中で、疑問符の数を増やしただけだったシフの返答が、今更になって胃の腑に落ちる。
最も模倣するに相応しい人間。
人間らしい、人間。
普通の、人間。
誰にも選ばれていない、デジモンから見て、人間でしかない、人間。
「優しいあなたを、騙してしまって。嘘を吐いてしまって」
シフのただでさえか細い声が震える。金の瞳には、今にも溢れ出しそうな揺らぎを湛えていた。
「こんな悪いデジモンの事なんて、どうか放って、逃げて下さい。今なら、まだ―――」
そんなシフの望みを塗り潰すようにして、炎が出入り口にまで這い始める。
それを合図にするかのように、彼らの背後に浮かぶヘイムダルもまた、その色を塗り替え始めた。
「警告、警告。近未来観測結果が書き換えられました。近未来百年までの地球及びデジタルワールドにおける、人間・デジモンの『痕跡』が発見できませんでした」
焼け焦げたような、光を呑むような、黒一色に。
「人類の生存は、デジモンの生存は、電子人理の存続は、確認できません」
「……こんなことなら、あの時お声がけしなければ良かった。出会わなければ、あなたは、ここには……」
入ってきた扉から逃げる事は、もう叶わない。
名城が使ったスタッフ用の通路の存在を、三角はそもそも知りもしない。
だが、この瞬間ばかりは、その事実さえ、三角の頭から抜け落ちていて。
「……そんな事言わないでよ」
三角は、シフの傍に膝を付いた。
「俺、騙されただなんて、思ってないよ。だって君、そもそも自分が人間だなんて、一言も言ってなかったじゃないか」
そうやって、足の震えをどうにか隠す。
そんな三角に力添えするかのように、バウモンもまた、彼らに寄り添った。
……人の姿を半ば失ったシフよりも三角の目を引いたのは、彼女の下半身を圧し潰す、どうあっても人間1人では持ち上げられそうにない大きな瓦礫だった。
一目見て助からないと、そう思ってしまった。
そしてその印象は、彼女が人間では無いと理解した後も、変わらない。
デジコアは無事かもしれないが、肉体の損傷度合いによってもデジモンの生命維持は難しくなるとは、流石に三角だって知っている。
生きるにしても
……死ぬにしても
こんな時、『普通』はパートナーが、傍に居てくれるものなのだ。
そして、彼女はやはり、嘘をついてなどいなかった。
「私も、パートナーは居ないんですよ」と。……それは、人間でも、デジモンでも、成り立つ台詞で。
こんなところで、ひとりぼっちで死んでいくのはどれだけ寂しいのだろう、と。
ずっと寂しかった三角は、考えずには、いられなくて。
「大丈夫、きっとなんとかなるよ。助けが来てくれる」
泣きそうな顔で、三角は笑いかける。
精一杯の強がりは、シフにも透けて見えてはいたが―――同時に、今まで向けられたどの笑顔よりも、真っ直ぐで、『普通』の笑顔だと―――彼女はつられるようにして、微笑んで見せた。
「先輩」
今ひとたび、シフはその呼称で、三角に呼びかける。
「……どうか、私の手を、握ってはもらえませんか」
辛うじて動くのは、擬態の解けた左腕の方だった。
鋭い爪が、三角へと伸びる。
三角は、迷わずその手を取り上げた。
「うん」
両の手で、包み込むように、しっかりと握り締める。
ようやく安心したかのように、すう、とシフの瞼が落ちて。
その安らかな表情に、今まさに熱風に煽られている筈の三角は、しかし穏やかな空気をその身に感じるのだった。
*
「コネクトダイブ装置内のテイマーのバイタル値が基準値に達していません。コネクトダイブを行えません」
無機質な宣言が、発電所隣の制御室に響き渡る。
名城を始めとして、自体を察知して集まった職員達の、ただでさえ青ざめていた顔から、更に血の気が引いていく。
「……っ」
意味するところはただ1つ。
転送に備えて待機していたテイマー候補達は、もはや、生命活動を行っていないのだ。
「テティスモンは!?」
「今館内の生存者を回収しています! ……こんな時だからこそ、確実な生存者が優先だ、と」
「……」
他の職員達のパートナーデジモンを頼ろうにも、彼らが相方のデジヴァイスから飛び出してくる事は無かった。
こちらはこちらで、反応が、完全に消えてしまっているのだ。
「コネクトダイブ該当テイマーを再検索中」
「……装置のリソースを他に回してください。これ以上は、もう……」
諦める他無い、と。テティスモンの言う通り、生存者を優先する方向に切り替えねばと、この場で最も高い地位を持つがために、歯噛みする名城が苦渋の判断を下そうとした―――その時だった。
「該当者を発見しました」
「……え?」
呆ける一同の前。モニターに表示されるのは、この部屋から追い出された筈の1人のテイマー候補。
「適応番号48番『三角イツキ』を、テイマーとして再設定します」
「三角……!?」
半ば肉体の崩れたシフの手を握り締める青年の姿が、はっきりと映し出されていた。
「全行程クリア。これよりファースト・オーダーを開始します」
管制室が、炎では無い光に、包まれた。
*
もふ、と。
何かあたたかく、やわらかいものが青年の指先に触れる。
「くぅーん、くぅーん。わふっ」
次は頬だ。すりすりとその温もりは青年に身を寄せて、次いで、今度はぴちゃぴちゃと、濡れた感覚が接触の後を撫でる。
「ん……んん……」
冷たく硬い場所に身を横たえている事実が、対比のようにじわりじわりと青年の意識を覚醒へと導いていく。
―――ええっと、確か、俺は。
重い瞼を持ち上げながら、青年は靄のかかったような頭の中に現状の答えを。こうなるに至った原因を探す。
電子人理守護機関ラタトスク
48人目のテイマー候補
真っ黒に染まったヘイムダル
そして、自分の事を「先輩」と呼ぶ少女
バラバラになったパズルのピースを、ひとまず掻き集めて。
組み上げようとした、その矢先。
「くーん」
「……」
目を開いた先にいた、紺色の体毛を持つ垂れ耳の丸い犬。その無邪気な赤い瞳を前に、色々なことがどうでもよくなって、青年の考えは霧散してしまう。
「……無事でよかった」
三角が手を伸ばしても、バウモンはもう逃げなかった。
撫でられるままにして、どこか嬉しそうに、目を細めている。
「本当にその通りです、先輩」
「!」
頭上から聞こえたその声に、三角はがば、と体を起こす。
見上げれば、1体のデジモンが宙に浮かび、三角の事を見下ろしていて。
風船にも似たフォルムの、緑色の身体。
スキャナーを思わせる胸元に、鋼鉄の鉤爪。
顔は同じく黒鉄の仮面に覆われ、嘴のように先が尖っている。目に該当する器官は見当たらず、代わりにひし形の赤い宝玉が、仮面の中央に植わっていた。
だが―――そんな異様な姿をしていようとも。その声を間違える筈があろうか。
「君、怪我―――」
と、心配と安堵がない交ぜになった表情を浮かべる三角に向けて、そのデジモンはすっと指を前に出す。
三角の唇の前で止められたその手は、彼に沈黙を促しているようだった。
「状況の説明の前に、私、どうやら先輩に、まだきちんとご挨拶をしていなかったようですから。……どうか、自己紹介させてください」
言うなり、デジモンの輪郭がうにょうにょと蠢いて、三角の見知った姿を形作る。
赤い髪、金の瞳。線は細く、どこか人形のような印象で、そして、緑色の眼鏡がよく似合う、1人の少女の姿を。
「シフ。シェイプシフター、メタモルモン・シフ。あなたのエインヘリヤルです、先輩(テイマー)」
瓦礫の山―――ここまで崩れ落ちてなお、光が丘団地の景色だと判る―――の中、吹き抜けた一陣の風に肩までの髪をたなびかせ、シフは普通の少女のように、微笑んだ。
相違点D
A.D.1999 崩落伝染史記 光が丘
『デジモンアドベンチャー』
序章前編・了