それは、悪い夢のようだった。
世界が、端から崩れ落ちていく夢。
自分の家の、自分の部屋。カーテンをめくって覗いた外の景色が、パニック映画のワンシーンのように、しかし作り物とは到底思えない、奈落の底よりも深い暗がりへと呑み込まれていく光景。
すぐにでも、この場所も同じところに連れていかれてしまうだろう、と。青年は、せめてもの抵抗のように目を閉じる。
己で作り出した暗闇の中で、ふっ、と足場が消えたのを感じて。
そうして、それが異世界に旅立つ時の感覚に似ていると気付いて、彼はふと、理解する。
世界は、こうやって滅んでいったのだ、と。
*
「っ!!」
額に玉のような脂汗を浮かべながら、青年はベッドから飛び起きる。
そうして息を切らしながら見上げた天井が、自室の見慣れた木目ではなく、ところどころを白色に浸食された石畳だと気づいた瞬間。彼は自分の見ていた光景が『悪い夢』ではなかった現実を叩きつけられる。
世界―――リアルワールドと、デジタルワールド。2つの世界は。
人間とデジモン。2つの種族が積み重ねてきた歴史は。
一瞬にして暗がりに飲み込まれ、この『電子人理保護機関・ラタトスク』の職員、その約3割。約20名の人とデジモンだけを残して、消滅したのである。
人類の滅亡。
そんな、今日日フィクション作品でも滅多に耳にしない危機の渦中に、青年は居る。
と、
「先輩!」
「ばう!」
機械的な扉の開閉音と共に、赤毛の少女と紺色の毛玉のようなデジモンが、青年の部屋へと駆け込んでくる。
「あ……」
おはよう、と。そう声をかけるべきかもしれないと思いながら、声が出ず
どうしたの? と尋ねるには、少女――シフという名の、人に化けたメタモルモンというデジモンだ―――の形相があまりにも必死で
結局何も言えない青年に向かって、「すみません」とシフが切り出した。
「先輩のバイタルに大きな乱れが発生したようでしたので……」
「えっと……ああ、そっか。部屋に居る時も、測ってるんだっけ」
大丈夫、と。
青年は、どうにか言葉を絞り出す。
自分の健康状態は、もはや自分だけの問題では無いのだと。
早鐘を打つ心臓に、比喩でも何でもなく世界の命運がかかっているのだと。
彼は、誰よりも自分に対して誤魔化すようにして、ぎゅっとTシャツの胸元を握りしめた。
「ちょっと……悪い夢を、見ただけだから」
青年の名は、三角イツキ。
2023年。全ての人間にパートナーデジモンがいる世界が間近に迫ったこの時代において、悪い意味で珍しい、未だパートナーデジモンを持たない人間。
「おはよう、シフ。バウモン」
「……おはようございます、先輩」
「ばう……」
そして地球上に唯一残された、この『事件』を解決するために必須である「異世界へのコネクトダイブ適性」を持つ人間であり。
故に彼と、彼の仮のパートナーであるシフは、世界最後の希望であった。
*
「おはようございます、三角。よく……は眠れなかったでしょうが、今のところ体調に問題は無いようですね」
何よりです、と、あえて事務的に三角の様子を確認しているのは、作業着の上に白衣を羽織った女性――現状のラタトスクの司令官・名城明音である。
相変わらずドライな調子ではあったが、無理に詮索をしようとしない彼女の態度は、三角にとってはある意味心配よりもありがたいものだった。
相違点Dの攻略から一夜明けた、唯一崩壊を免れ、ラタトスクの本部と融合したグランドラクモンの城、その中枢。元々は玉座の間であったその空間は、巨大な四つ足の獣であるグランドラクモン用に誂えられた豪奢な玉座の上に浮かび上がる漆黒の球体―――リアルワールドとデジタルワールドを観測する機器『ヘイムダル』―――を中心に、すっかり様変わりしてしまっていた。
焦げ跡の残る機器は、しかし夜通しの作業で復旧させたようで、どれにもしっかりと起動中であることを示すランプが灯っている。
「これって、『ゲート』の」
厳密には同じものではないが、三角もニュース等で見覚えがあった。
デジタルワールドへの大規模な渡航が行われる際に用いられる、デジタルゲートを開閉するための機械だと。
「そう。デジタルワールドの聖遺物であるD-3のシステムを人為的に再現したゲート開閉装置。ラタトスクにあるものは、他の機材とネーミングを合わせて『ワルキューレ』と呼ばれています」
ワルキューレ。
北欧神話における、戦死者を死者の館ヴァルハラへと運ぶ者。
エインヘリヤルの導き手。
「あなたとシフがコレの正規の手順抜きで相違点Dに赴く事が出来たのは、はっきり言って奇跡です。……ですので、今回からはきっちりと、現実的な手段であなた達を送り出すために、わたくしが一晩で仕上げて差し上げました。褒め称えなさい」
「えっと……すごいですね?」
「先輩、ドクターのこの手の冗談には、真面目に対応しなくても大丈夫です」
急にだいぶ手厳しいことを言い出すなこの子、と、思わずシフを二度見する三角。一方で名城は慣れているのか、それとも今まさに死地に送り出さんとする子供相手に褒めろも何も無いだろうと思い直したのか、名城は軽く肩を竦めてから、部屋の両端に配置された、モニター付きのデスクの方を見渡した。
「十全とはいきませんが、幸いコントロールルームまでは火の手が及ばず、技術班への被害は最小限に留まりました」
「……」
それでも、その言い方だと犠牲者はいたのだろうと表情を曇らせる三角に、しかし名城は声音を変える事無く続ける。
「わたくし達は、持てる技術の全てを用いて、手の届く範囲内では必ずあなたとシフを守り切ります。……それがわたくし達に出来る、せめてもの助力ですから」
相違点に送り込むまでは、名城達がなんとかしてくれる。
だが、相違点に着けば、ラタトスクのスタッフに出来るのは俯瞰の視点を利用したアドバイスが精いっぱい。
名城の口調には自身に言い聞かせるような部分もあって、故に、全てを三角に押し付ける事への歯がゆさは、そのドライな振る舞いでも隠しきれていなかった。
それだけでも、三角は安堵に近い感覚を覚える。
自分しかいないからだとはいえ、名城は三角に対して「お前には無理だ」というニュアンスを微塵にもにおわせたりはしていない。「全てを背負う」と宣言した三角を、信じているからこその苛立ちだった。
三角にとってはそれがなんだか新鮮で、少なくとも、改めて腹をくくる理由の一つにはなっていて。
と、
「安心したまえ! 君たちを守るのは技術屋ばかりではない。このイリアスの大天才・テディちゃんも居るのだから!」
良く通る、水のように澄んだ印象の女性の声に三角達が振り返ると、そこにはコルセットで胸元をやたらと強調した、クラゲのモチーフを取り込んだ装束に身を包んだ色白の過ぎる背の高い女性……に、見えるデジモンが、右手に穂先の部分にワイヤーフレームに似た封印を施された巨大な槍を掲げながら、得意げな笑みを湛えて彼らを見下ろしていて。
「テディちゃん!」とそのデジモンに対するシフの呼称と、本人の自称。
その名前を聞くのは初めてではないなと記憶を掘り返すと、思い起こされるのは、相違点Dから帰還し、目を覚ました、その直後。
「……」
ラタトスク所長、へレーナ・マーシュロームがあの相違点から戻らなかったと知る、直前。
「だから、そう不安がる必要は無いとも」
つい視線を落とした三角の目の前に、すっと差し出される、鋼鉄のグローブじみた右手。
槍を左手に持ち替えた『テディちゃん』は、三角の眼前で、それこそ女神のように微笑んでいて。
「ミネルヴァ院の医療魔術教授兼電子人理守護機関ラタトスク医療班チーフ、テティスモンだ。そのまま呼ぶのは愛らしさに欠けてワタシの趣味に反するのでね。キミもテディちゃんと呼んでくれたまえ」
ミネルヴァ院。『イリアス』と呼ばれる、三角のような一般人の良く知るデジタルワールドとはまた別にある、ギリシャ神話をモチーフにしたデジタルワールドに存在する教育機関だ。
元々イグドラシルが管理している頃からこちらのデジタルワールドと交流のあったイリアスだが、人とデジモンの関係が安定してきた時期を見計らってリアルワールドとも接触。現在ではお互い友好的な関係が築き、交換留学的な事も行われていたとは三角も耳にしたことがあった。
テディちゃんは、そんなイリアスからの代表として、元々の上司でありイリアスの海洋守護を担当するネプトゥーンモンの槍『キングスバイト』のレプリカを携えて、『世界を守護する機関』へと派遣された逸材なのだ。
「よろしく、最後のテイマーくん」
「あ……はい、よろしくお願いします、テディちゃん……さん? い゛っ!?」
「おっと、さんは結構だよ」
びり! と、テディちゃんから差し出された手を握り返した瞬間、三角の身体に電撃が走った。
「先輩!?」と声をひっくり返しながら慌てて駆け寄ってきたシフの隣で三角が未だひりひりと痛む右手の甲を見下ろす、と―――
「……!?」
そこには、円と、それを受けるように配置された弧。さらにそれを支えるように伸びる細長い二等辺三角形……赤い色の文様が、浮かび上がっていて。
ちょっとけん玉に似てるな、というのが、混乱の中三角の頭に浮かんだ、ぼんやりとした印象だった。
「その……テディちゃん、先輩には説明が必要な事柄だったのでは?」
「善は急げ、だよシフ。それに、先に現物がある方が三角くんも話を飲み込みやすいだろう?」
「あなたというデジモンは……」
「ドクターにはテディちゃんを非難する権利は無いと思います」
「……」
シフ、なんでホントに名城さんには当たりがキツいんだ? と首をかしげる三角。
そんな彼の前に軽く屈んで、テディちゃんは改めて三角と視線を合わせた。
「それは『紋章』。聞いたことはあるだろう? 『デジモンアドベンチャー』ではパートナーデジモンを完全体以上に進化させる際に用いられていたアイテムだ。君のそれは、そんな『紋章』をエインヘリヤル用に改造したものさ」
「エインヘリヤル用の紋章……」
そういえば、最初の『訓練』の時も説明を受けたような……と思いつつ、確認もかねて、三角はテディちゃんの話を促した。
「例えば、エインヘリヤルは宝具の使用時に莫大なリソースを必要とする、というのはもう知っているね? 場合によっては、そのリソースをテイマーが肩代わりしなければいけないという事も」
「えっと、相違点で宝具を使った後、俺、気を失って……シフもしばらく動けなくなったって……そういう話、ですか?」
「うむ。あの時はラストバトルというやつだったけれど、相違点攻略の途中に、そういった状況に陥るのはマズいだろう?」
そこでこの紋章だ、と、テディちゃんがとんとんと三角の右手の甲を叩く。
一瞬警戒した三角だったが、もう電流が流れるような事は、無かった。
「紋章を用いれば、そのリソースをラタトスクから提供する事が出来る。君の肉体を中継器として利用する都合上、負担を0にする事は出来ないけれど、それでもかなりのリスクを軽減する事が出来るはずだ」
それに、紋章が出来る事はそれだけじゃない、と、テディちゃんはさらに続ける。
「宝具の使用の他にも、エインヘリヤルの負傷の治療、身体強化、緊急回避、命令の強制……データを用いてデジモンにできる事なら、大概の事は出来る」
「めちゃくちゃすごいじゃないですか……!」
「そう! めちゃくちゃすごいのだよ!」
ただし! と、一層ずい、と、テディちゃんは三角に身を寄せる。
……圧迫感がすごい、と、テディちゃんの“強調”に対して三角の額に冷や汗が浮かび、シフがそっと、そしてじと、と、目を細めた。
「紋章は使用回数に上限がある! 相違点1つにつき3回が目安だと思ってくれたまえ。リソースだってタダじゃないし……それに、それくらいの方が、慎重に判断して使えるだろう?」
「……」
デジモンがデータであることを利用したハッキング事件は、人間とデジモンの交流が始まって以来双方を悩ませる『悪意』である。
命令を強制する力もある、と、テディちゃんも言っていた――と、三角は右手を胸元に添える。
「肝に銘じます」
「……紋章のデザインは、残念ながらワタシじゃない。キミの精神に由来するものだ。……キミの紋章には、なんとなしに『誠実』の意匠を感じる。この加護を施す事に不安を覚えずに済むのは、本当に喜ばしい事さ」
「『誠実』……」
―――そんな風に友達を想うキミの事、やっぱりヤマトは、見捨てられないだろうから。
ヤマト―――選ばれし子供・石田ヤマトが友情の紋章を初めて輝かせた時、きっかけになったのは誠実の紋章を持つ選ばれし子供・城戸丈だったという。
ワーガルルモンは、ひょっとして、自分にあの高名なデジモン医となった彼を重ねてくれていたのだろうか? そう思うと、三角は嬉しいやらどこかこそばゆいやらで、ほんのりと頬を赤らめるのだった。
「それからリソースの運用とは別に、この紋章にはワタシ個人の加護……『ドクテアーゼ』による病毒を無効化する加護が施してある。これに関しては紋章の力を3回分使い終わった後も作用し続けるから、是非覚えておきたまえ」
「……本当にありがとうございます、テディちゃん」
「うむ。良い返事だ」
もう一度、今度は加護も何も関係無しに、2人は握手を交わす。
少し変わったデジモンだとは思ったが、テディちゃんもまた、三角にとって頼もしい味方の1人だった。
と、
「ふあ……ああ、すまない。私は寝坊したのだね?」
玉座の間に入ってきた人影に、頭では解ってはいても、三角、そしてシフも、つい目を見開いてしまう。
寝ぼけ眼のヘレーナ……の身体を使用している彼女のパートナー・グランドラクモンは、そんな2人を視認して、やあ、と気さくな調子で片腕を持ち上げた。
「……グランドラクモン」
名城が頭を振りながら彼の下に歩み寄る。
「確かに現在はわたくしが当組織の司令塔ではありますが……あなたにその身体でたるんだ真似をされると、他の者に示しがつかないでしょう」
「サボり魔の君がそれを言うのかい? なあシフ、どう思う?」
「こればかりはドクターの言う通りかと……」
あ、そこは流石に名城さんの肩を持つんだ、と、3人をそれぞれ見渡しながら内心で、三角。
やれやれ、と、グランドラクモンは肩を竦めた。
「人間の健康維持については疎くてね。睡眠を自発的に取るのも久方ぶりで、レナの身体を休ませるための加減もよく解っていないんだ。慣れるまでは多めに見てほしい」
「ふむ、マーシュローム所長の肉体の健康管理も業務の一つとすべきかもしれないね。流石に今回の相違点の攻略時は三角くんとシフのバイタルを優先させてもらうけれど、後日指導をさせてもらおう」
「……。……まあ、そこは確かにプロを頼るべきか。では、その時はお願いするよ、テティスモン」
「テディちゃんだと言っているだろう?」
テティスモンの提案にも若干気乗りしない様子――つまるところ、引き続き眠そうな調子で、しかしグリーンの瞳に複雑そうな表情を宿しながら、グランドラクモンはヘイムダルを見上げる。
「我が玉座の間……仕方のない事とはいえ、まさかここと管制室が融合してしまうとは。この不死王から一度にこうも多くのものを奪い取るだなんて、さぞかし犯人は愉快な気分だろうよ」
「ばう……」
「グランドラクモンさん……」
ヘイムダルを見上げる鮮やかな緑色の瞳は、本来であれば、彼のパートナー、ヘレーナ・マーシュロームのものだ。
多くのもの、と。己の玉座を挙げつつも、彼が見ているのはどこかに反射した『今』の自分の外見だと、三角とシフには、そんな風に思えて仕方がなかった。
と、2人の視線に気付いたのだろう。グランドラクモンは視線を彼らに移して、軽く肩を竦めた。
「ああすまない。作戦初日から湿っぽい空気にしてしまうだなんて、こんな姿を見せたらレナをまた怒らせてしまう」
そのまま、彼は2人に微笑みかける。
本来の彼女のものとして見る事は、終ぞ叶わなかった穏やかな笑みを。
「それに、言う程は心配していないんだ。私は信じているからね。三角、シフ。君達の活躍を、レナに聞かせられる日を」
期待の言葉である割に、不思議とプレッシャーには感じない、優しい言葉遣い。
シフも同様のものを感じ取ったのだろう。2人は揃って、グランドラクモンに向けて大きく頷いた。
……最も、2人の足下に居るバウモンは、人間で言うところの鼻を鳴らすような仕草をしていたが。
「さて、メンバーも揃ったようですし」
いつの間にかヘイムダルの手前に移動していた名城が、パンパンと手をたたいて注目を集める。
彼女の頭上には、相違点Dからの帰還後に見せられた、新たなる相違点の日本語版リストが表示されている。
「相違点Dに続く相違点……これより攻略を開始する、グランドラクモンオーダー発令後初の相違点、通称『第一相違点 デジモンプレセデント』の説明を開始します」
心して聞くように、と名城が左手の人差し指を立てると、モニターから『デジモンプレセデント』のタイトルがピックアップされた。
「『デジモンプレセデント』」
聞き覚えのあるタイトルだと、三角は目を瞬かせる。
「ご存知でしたか? 三角」
「えっと、名前と、簡単なあらすじだけなら……」
「先輩は『デジプレ』未読勢なのですか!?」
と、途端に三角へと食いつくシフ。
普段大人しい彼女の瞳に突然宿った『熱』に、思わず三角の肩が跳ねた。
「どうして今までお読みにならなかったのですか? 発売時には、かなりの話題になっていたと聞いているのですが」
「いや……その、話題になり方がね……?」
炎上作家。
『デジモンプレセデント』の作者の、もちろん悪い意味でのあだ名である。
身内にデジモン研究者がいるらしく、デジモンの特性を活かすという点についてはそれなりに優れた小説家ではあるのだが、『闇』のデジモンを擁護するような発言も多く、その上で本人も攻撃的な性格をしているため、頻繁に界隈でもめ事を起こしているのである。
自身のハンドルネームの由来も、「炎の威力を1.5倍にするから」だとか、何だとか。
『デジモンプレセデント』発売当時の『話題』とは、『デジモンプレセデント』の内容以前に『デジモンアドベンチャー』作者・高石タケルとの大喧嘩を指している。
これについて、2003年の選ばれし子供の1人・一乗寺賢が「実際に顔を合わせていたら殴り合いになっていたかもしれない」と発言した、という噂が真しやかに囁かれたが、本人は否定している。
否定しているが、それぐらいの騒動になった、というのは事実で、それ故に三角は、『デジモンプレセデント』および同作者の作品を敬遠していたのだ。
「お気持ちは解りますが、作品自体は良いお話なんです……! これを気にどうか一読を。せめて、せめて主人公の多島柳花さんと京山玻璃さんが友達になるところまでで構いませんので……!」
人に物語を薦める時の「○○までで良い」が表す地点は大体最終回かその付近、という知識自体は三角も有していたが、シフのあまりの熱量に、三角はとてもツッコミを入れられないでいた。
ただ、シフは『デジモンアドベンチャー』以外でも、本当に『物語』が大好きなのだな、と。その点については微笑ましく思いつつ、結局どう答えて良いか解らない三角は、ちらり、と、名城の方へと目配せする。
こほん、と、それを受けた名城が、咳払いを一つ挟んだ。
「作品を布教したい気持ちは解りますが、シフ。あの小説、ここで読んでもらうには長いので、ここはひとまずわたくしが簡単な解説を」
「あ……っ、すみませんドクター。つい……」
顔を髪に近い色にまで赤らめて、すごすごと三角の後ろに引き下がるシフ。
なんだこの子、可愛いな。と。三角まで頬に熱を帯びるのだった。
「……。……解説、始めますね。『デジモンプレセデント』。2019年に発表された、『デジモンアドベンチャー』を下地に書き上げられた長編小説です」
時は2040年代。即ち、今から約20年後の未来。
お台場霧事件を引き起こしたデジモンと同じデジモン、即ちヴァンデモンをパートナーに持つ事から迫害されていた女性、多島柳花が、就職活動中に巻き込まれた事件をきっかけに出会ったデジモン研究者・雲野環菜を始めとした仲間達と共に、古代鋼の闘士の陰謀に立ち向かう物語。それが『デジモンプレセデント』だ。
「我々が8つの相違点の中で、この『デジモンプレセデント』最初の攻略対象として選んだのには2つの理由があります。第一に、この相違点では我々の「常識」―――即ち『デジモンアドベンチャー』の知識が通用する、という点です」
「現実と地続きの世界観」
『デジモンプレセデント』の最大の特色は、この点にあると言っても過言では無い。
作者は炎上作家と呼ばれる程苛烈な字書きではあるものの、前述したデジモンの知識や関係者への取材。事件の記録に基づいた考察等は丁寧で、それ故に最終的には(少なくとも表面上は)高石氏とも和解し、世間的にも一定の評価を得ているのである。
「確かに氏は『お台場霧事件』とは縁もゆかりも無い地方出身者で、それ故に無知な『闇』贔屓のきらいはあったものの、実際ウイルス種デジモンのパートナーへの差別や偏見は、当時大きな社会問題になっていたそうじゃないか。舞台は未来でも『デジモンプレセデント』の切り口は現代、現実の問題ではあったし、あの頃は『デジモンプレセデント』の他にも多くの『闇』を題材にした作品がプロアマ問わず制作されていたと聞く。そういった物語に後押しされて、暗黒系デジモンへの研究や理解が一般にも普及していった、とも」
そういう意味では、私のようなデジモンはかの作品達に感謝しているのだよ、と、吸血種の王がパートナーの顔で機嫌良さそうにくつくつと笑う。
少し話は逸れましたが、と、名城がグランドラクモンの後に続いた。
「ようするに、彼が言った通り。『デジモンプレセデント』は未来を舞台にしつつも現代・現実の問題……『デジモンアドベンチャー』に残された一種の『課題』を取り扱っている作品、という訳です。そもそもこちらの小説、未来要素が薄いんですよね。作中に出てくるアルミの鍋焼きうどんがこの年代になっても時間通りに出来上がる代物で無かったりだとか」
「まあ……そこは作者の私怨らしいですし……」
「そうなんだ……」
変なポイントで『デジモンプレセデント』に若干の興味が湧く三角なのだった。
「色々言いましたが、とどのつまり『デジモンプレセデント』は実質現代日本が舞台で、現実との乖離が少ない。小学校高学年レベルの『社会』の知識さえあれば、少なくとも言語や文化面で困らされる事はまず無い、という事です」
世界を救う上では大した問題では無いかもしれないが、自分にとっての「当たり前」が通用する世界観、というのは、確かにありがたいかもしれないと三角は頷いてみせる。
1999年の選ばれし子供のように、突然『デジタルワールド』を冒険しろ、と言われるよりは、ずっと親切で、文字通り「現実的」な話だと。
「第二に」
三角の反応を伺ってから、名城がさらに続ける。
「『デジモンプレセデント』は、「世界の滅び方」がはっきりしており、なおかつその滅びが緩やかである、という点です」
「世界の滅び方……」
忘れていたわけでは無いが、常識云々以前に相違点にはそれがあるのだと息を呑む三角。傍らでシフが、三角と名城の顔を交互に眺めた。
「ドクター、それについては、私から先輩に説明しても良いですか?」
「構いませんよ。とはいえ申し訳ありませんが、ネタバレへの配慮は、今回は無しで」
解っています、と頷いて、シフは三角と向き合った。
「『デジモンプレセデント』の黒幕が古代鋼の闘士―――エンシェントワイズモンである事は、ドクターが概要でお話しした通りです」
十闘士。
近年のデジタルワールド研究で明らかになった、デジタルワールド初の究極体と称されるデジモン達。および、そのある種末裔として残されたオーパーツ……デジメンタルと近い性質を持つ『鎧』を纏うことで進化できるデジモン達だ。
『デジモンプレセデント』の作者の身内に居るというデジモン研究者は、その分野の専門家なのだろう。
「十闘士のスピリットは、人間にも使用可能だという話はご存知ですか?」
三角は肯定する。スピリットについても発見・解析時には随分とニュースになっていたし、モチーフにしたアニメーション作品も作られている。
加えて、『訓練』を手伝ってくれたエインヘリヤルの1体がスピリットに関連するキャラクターであった事も、三角は思い出してはいて。
「エンシェントワイズモンはこのスピリットや、デジモンのデータを移植した人間という段階を踏みつつ、暗黒の海の力を借りて「人間が自然にデジモンに進化してしまう世界」を作り出す事で、世界を滅ぼそうとしていたのです」
「人間がデジモンに進化する世界……それが「世界の滅び」になるって事は……」
ユミル論? と問いかける三角に、シフはこくんと頷いた。
人間のデジモン化。変身譚としては、オーソドックスなジャンルだ。
だがオーソドックスなジャンルであるだけに、実際に人間がデジモンになると、どんな問題が起こりえるのか、という研究も盛んに行われていて、ユミル論はその中で提唱されている有名な説のひとつである。
死後生まれ変わるデジモンに、『寿命』という生命の終わりの概念が付与された場合、どうなるのか。
来世の成長に賭けるのではなく、寿命という上限に向けてリミッターを解除した、一世代限りの強力な個体が生まれる可能性があるのではないか。
選ばれし子供のパートナーデジモンが、子供の成長に伴い消失する、という事例を経て、デジモンと寿命の関係は一時盛んに議論され、真面目な考察から胡乱な発想まで、幅広い書籍が発行されている。
ユミル論はその中でも、有名ではあるが、胡乱寄りの説だ。
仮に寿命を得たデジモンが強くなるとしても、全てのデジモンにそれが伝播して滅びを迎える程、デジモンのデータは愚かでは無いだろう、と。
ただ、それ故に。実際はそうはならないと誰もが理解しているがために、物語に組み込む分には、おそらく扱いやすかったのだ。
「人間は寿命があるままデジモンになり、子孫を残すことが出来ない代わりに強力な個体となる。デジモンは元人間のデジモンの強化方法をデータに取り入れ、転成の力を失っていく。そうやって両者が緩やかに滅んでいく、『ユミル論』の『極論』……それが、作中ではエンシェントワイズモンの計画に設定されているのです」
「じゃあ、『デジモンプレセデント』相違点の「滅び」は」
「十中八九、作中で阻止される筈のエンシェントワイズモンの目論見が上手くいってしまった世界。……という事になるでしょうね」
結論をシフから引き継ぐ名城。
話を続ける内に、相違点Dの時と同様に、シフの表情は曇っていた。物語を愛する彼女は、やはり本来の『デジモンプレセデント』について、考えずには居られなかったのだろう。
書き換えられた結末。
『ユミル論』が、現実のものとなってしまった世界。
「相違点Dの例を鑑みるに、この相違点に現れるデジモン達は、恐らく既に寿命を得たデジモン達、あるいはデジモンと化した人間達、という事になるでしょう。それだけに、積極的に戦闘を仕掛けてくる個体は、そう多くは無いと考えられます」
「まあこの点についてはいささか希望的観測ではあるが、私自身、不死性を失った時にまで無茶を出来るか、とと問われれば、そうなってみなければ解らないと答えたくなる程度には的外れな考察では無いと思っている。聖解探索に比較的集中出来る筈だ、という点も、この相違点が選ばれた理由の一つなのさ」
『デジモンプレセデント』が選ばれた理由に今一度納得しつつ、ふと脳裏を過った疑問に、三角は手を上げる。
「えっと、その……俺がデジモンになったりとか。そういうのは大丈夫なんですか?」
「その点はご心配なく。ですよね? テディちゃん」
うむ! と、説明を名城に任せて『ワルキューレ』の調整を手伝っていたテディちゃんが、大きく頷いた。
「それについても、ワタシの加護があれば心配は無用だとも。そも、そういった『異世界の特色』の影響を受けにくいからこそのコネクトダイブ適性だ」
ついでに言っておくと、と、テディちゃんはさらに付け加える。
「シフ―――クラス・シェイプシフターは相違点の影響を受け入れるタイプのエインヘリヤルだが、こちらについても心配はいらない。逆を言えば、相違点を出ればシフが受け入れる理(ことわり)も元通り、という訳だからね」
「なるほど……ありがとうございます、テディちゃん」
お安いご用さ、と笑みを湛えてひらりと手を振るテディちゃん。
現状こちらから説明できるのは、このくらいですかね。と、三角達が向き直った先で、名城が三角とシフを見渡した。
「コネクトダイブの準備も、およそ完了しています。三角イツキ。シフ。……準備はよろしいですか?」
「いよいよですね、先輩」
それが合図であるかのように、三角とシフはお互いの手を握り合う。
お互いがお互いに、何度も勇気を分け与え続けた手を。
「行けます。聖解探索に」
「……よろしい」
舞台は2019年発行『デジモンプレセデント』
『死』という結末を全ての人とデジモンに押しつける滅びが蔓延したものと推定される未来―――第一相違点。
「『デジタルゲート』展開準備完了」
「『ワルキューレ』起動電力、基準値をクリア」
「『ヘイムダル』、相違点の座標を特定、補足済みです」
「三角イツキ、シェイプシフター・シフ。両名ともバイタルに問題はナシさ」
全工程完了。
ラタトスク職員から声が上がり、最高責任者である名城に指示を促す。
ふぅ、と、名城は息を吐く。
安堵では無い。これより全ての―――比喩でも何でも無く、全人類、全デジモンの『未来』に対する責任からくる重圧を、そしてそれを2人の少年少女に押しつける罪悪感を、少しでも軽くするためだ。
加えて―――それは、神には祈れない名城が、それでも何かに、今まさに『ワルキューレ』の転送パネルの上に立つ三角とシフの無事を祈る所作でもあった。
「コネクトダイブ―――始動」
グランドラクモンオーダー、実証開始。
あくまでいつもと変わらぬ調子で
日常(いつも)から彼らを切り離す命令(オーダー)を、名城は下す。
「頼んだよ、三角。シフ」
レナのためにも。
転移の光と、浮遊感に包まれながら、三角はヘレーナの身体を借りたグランドラクモンの口から、そんな言葉を聞いたような気がした。
*
「っ!」
ちょっとした段差から飛び降りたような、あるいは、階段の段数を誤認して、一歩余計に踏み込んだかのような。なんともいえない衝撃が三角の膝を伝う。
大丈夫ですか先輩! と振り返ったシフに、三角は慌ててちょっとびっくりしただけだと自分の無事をアピールする。
「よかった、お怪我は無いようで……コネクトダイブ、無事完了のようです」
「ばう!」
「バウモンさんもこの通り……バウモンさん!?」
「バウモン!?」
三角とシフの声が同時にひっくり返る。
ひょこ、とシフの肩から顔を覗かせたバウモンは、しかしコネクトダイブの際に、2人の側には居なかった筈なのだ。
「直前でパネルに侵入したのでしょうか……」
「わーふ?」
「まあ何にしても、バウモンも問題なくコネクトダイブできたなら良かった」
シフからバウモンを預かりながら、三角は改めて周囲を見渡す。
ブランコに滑り台、砂場に鉄棒。周囲を背の高い植物で囲まれた、閑静な住宅街の中にあるような、昔ながらのシンプルな公園。それが、三角達のいる場所だった。
確かに未来っぽくは無いな、と。出立前に名城が言っていた情報と照らし合わせて、三門は僅かに苦笑する。
対して、シフはキョロキョロと、興味深そうに遊具を見渡していて。
「ここは……」
「シフ、ひょっとしてここ、知ってるの?」
「いえ。ただ『デジモンプレセデント』には3カ所、公園の描写があるのです。こうして転移先になっているという事は、作中で使用された場所だと考えるのが自然かと思いまして」
「なるほど。……で、どう?」
「詳しい描写があった訳ではないので断定は出来ませんが、ほら、先輩。あそこの壊れたベンチ―――」
シフの指さす方向には、中央から真っ二つに折られたベンチらしき残骸が重なり合っていて。
近くには、すっかり空気の抜けてしぼんだボールが転がっている。
三角達が、そちらに歩み寄ろうとしたその時、三角のデジヴァイスが通知音を発した。
「あ、待って。名城さんから連絡だ」
デジヴァイスを起動する三角。途端、相違点Dの時のように、名城の姿がモニターに表示された。
「無事繋がりましたね。三角、シフ、身体に異常はありませんか?」
「大丈夫です」
「同じく」
「映像にも乱れが無いところを見ると、通信は相違点Dよりも安定しているようです。周辺にエインヘリヤルの反応も無し。詳細なマップ情報についても、あと数分程で送信できると思います」
ひとまずコネクトダイブについては問題なく成功したと見て、ほっと胸を撫で下ろした様子の名城。
そこへひょこ、と、グランドラクモンも顔を覗かせた。
「とはいえシフ、その顔だと転移場所についてアタリはついているのだろう?」
「ええっと、はい。恐らくここは、『デジモンプレセデント』の『タジマ リューカ - 2』のエピソードに登場した公園だと思われます」
「?」
首をかしげる三角に、『デジモンプレセデント』は群像劇モノで、章タイトルは主人公の名前とお話のナンバーが使われているのですよと補足するシフ。
で、あれば、と。念のため『デジモンプレセデント』のデータを確認するよう他の職員に指示しながら、名城は改めてモニター越しに三角達を見やる。
「作中での主人公達の拠点である『雲野デジモン研究所』もそう遠くない位置にある筈です。今マップをお送りしましたので、早速向かってもらえますか?」
「わかりました」
「ばーう!」
「あ、バウモン」
まるで先導するかのように、公園の出入り口に向けて駆けていくバウモン。
道、流石に知らないだろう? と苦笑いしながら、三角達もバウモンを追いかけて―――
「……え?」
露わになった景色に、三角は絶句し、シフは息を呑む。
一面の、廃墟。
相違点Dとは、また毛色が違う。家屋の形そのものはほとんど残っているが、あちこちが不自然に黒ずみ、しんと静まりかえった景色は、『街の死体』とでも例えたくなってしまう。
人の姿も、デジモンの気配も。何も無いのだ。
そして、それ以上に目を引くのが、彼らの頭上。
雲一つ無い青空に、電子的な光を放つ『穴』が瞬いていて。
「あれは……まさか、『コラプサモン』!?」
「いいえ、違います、シフ。アレにデジモンの反応はありません。『デジモンプレセデント』の実質最後の敵であるコラプサモンとは、また異なる……」
シフの言葉を訂正する名城だったが、ラタトスクの観測機器を以てしても、正体を掴めるものでは無いらしい。
数値と視覚情報を照らし合わせながら、言葉を失う名城。辛うじてグランドラクモンだけが「一種の術式(ハッキング)か……?」と頼りなく所感を呟くのだった。
「気をつけてください、2人とも」
呼吸を整え、名城が再び、今度は重々しく口を開く。
「『電子人理滅亡』の影は、想像以上にこの相違点に深く根ざしている可能性があります。事態は、想定よりもずっと悪い」
「……!」
「解ってはいたつもり」の現実に、身を震わせる三角。
だが、彼もまたすぐに、彼女に習って深く息を吸い直す。そうして、シフと目を合わせ、頷きあった。
「それでも、立ち止まってはいられないんですよね?」
「……」
「指示をお願いします、名城さん」
脳裏を過るのは、変わり果てた物語に苦しむ、本来の物語の登場人物達の姿。
「聖解を回収すれば―――この世界だって、「元通り」になる筈なんですから」
決意を秘める三角の眼差しを前に、名城は目を見開き、すぐに小さく微笑む。
「それもそうですね。……まずは、情報収集を。街がこの有様とはいえ、『デジモンプレセデント』の世界はまだ滅亡していない。どこかに住民が存在する筈です」
「一先ず当初の目的通り、『雲野デジモン研究所』とやらに向かうのが良いだろう。物語上の重要拠点であるのなら、そこに『デジモンプレセデント』のエインヘリヤルが存在する可能性が高い」
敵にせよ、味方にせよ。と。グランドラクモンはそう付け加える事を忘れなかったが―――この相違点を攻略すると、覚悟の上で足を踏み入れた三角に、この場で足踏みを続ける選択肢は残されてはいなくて。
「行こう、シフ、バウモン」
「はい、先輩」
「バウ」
少年達は、この相違点における第一歩を踏み出した。
*
時は、三角達のコネクトダイブより数日を遡る。
「うげっ」
両手足の関節を無茶苦茶な方向に曲げられた青年が、1人の女性の前に投げ出される。
半分潰れた虫のようにもぞもぞと身をよじり、何度も殴られて腫れ上がった瞼をどうにか持ち上げて女性を見上げた青年は、ひい、と鋭く、息を呑んだ。
「……まだ人間のままでいたとはねぇ。相変わらず、悪運だけは強い野郎だ」
だがそれも今日までさね、と。青年とは対照的にひどく落ち着いた―――あるいは、獣のうなり声のように、極限まで低めた―――声音で男に語りかけながら、彼女は手元の端末……『現代人』にも馴染みの深い、オーソドックスなスマホ型デジヴァイスを操作する。
中に保存されていたデジモンの進化プログラム―――女が作中でも収入源として、頻繁に解析を行っていたアイテムだ―――が起動する。途端、青年の身体が炎に包まれた。
悲鳴が上がる。悲鳴すらも焦がすように、炎は青年の身体を覆い尽くす。
辛うじて、頭部に出現した銀色のメットだけは性質上火の手を免れていたが、それ以外の部位は、例外なく。ごうごう、ごうごうと燃え盛り、そうして青年の皮膚を舐め焦がす毎に、彼の肉体を再生させた。
さながら、地獄の縮図かのように。
「あつい、あつい、あついあついあつい……! いやだ、いたい! たすけて、ゆるして……!」
「アタシじゃなくて、アンタが同じ目に遭わせたヤツらに聞いてみな」
女がしばし沈黙を保ち、ワイヤーフレームと化しても逆方向に折り曲げられたままの手足で、必死に青年がもがいても。彼の状況が好転することは無い。
「じゃあ、それが「彼ら」の総意ってワケだね」
それが答えだと、女は嗤う。
「やめ―――」
「センキっちゃんと同じ苦しみを味わえ」
吐き捨てて。
再度女がデジヴァイスを操作すると、青年だったフレアリザモンの両手足にクロンデジゾイド製の針が降り注ぎ、彼の身体を床に固定して、唯一の抵抗すらも奪い去る。
男の絶叫に背を向けて、女は部屋を後にする。分厚い扉がばたんと音を立てて閉じられるのと同時に、フレアリザモンの地獄は完全に外界から遮断されるのだった。
「さて、カンナ」
女―――雲野環菜が部屋を出た先で待ち構えていた長身痩躯にスーツを纏った男は、フレアリザモンだった男をこの部屋に投げ込むために用いた手を優雅に叩いて、にこり、と、唇の片側をつり上げるような、特徴的な笑みを彼女へと向ける。
「多少なり、気は済みましたか」
「見くびられたもんだね」
対照的に、環菜は唇をぐい、とへの字にひん曲げた。
「まだ、全然足りないよ」
瞳に、あの赤々としたフレアリザモンよりも激しく燃え盛る炎を宿しながら、しかし口調だけはぽつりと零すように、彼女は静かに呟く。
男は一瞬だけ、複雑そうに目を伏せて。しかしすぐに環菜を―――この復讐鬼を、真っ直ぐに見据えた。
「カンナ。我が主。……今度こそ、最後までお付き合いいただけますか?」
「アンタねぇ……。アタシらを置いて飛び出していったのは、アンタの方だろうに」
「そうでしたね。……そうしてワタクシは」
「あー、辛気くさい話はやめやめ! 大体、こんなところで尺使ってたら―――」
「もぉー! いつまで待たせる気!?」
そら、おいでなすった。と環菜が顎で指す方向から駆けてきたのは、1人の少女。
男と同様にスーツに袖を通した、しかし衣装の割に多く見積もっても10代前半にしか見えない、ショートヘアーの女の子だ。
彼女は走ってきた勢いをそのままに男の腕に抱きついて、べえ! と、環菜に向けて赤い舌を突き出す。
「「す、すみません……!」」
女性と、それから少年のものが混ざり合った声で謝罪しながら少女の後を駆けてきたのは、吸血種のデジモン。
紫色の装甲を纏った、仰々しい姿の吸血鬼は、しかしその恐ろしい種族からは想像も出来ないほど低い姿勢で、少女の側に膝をつく。
「「僕達とクロさんだけじゃ、引き留め続けられなくて……」」
「別にリューカ達がつまんないワケじゃないよ。悪いのはカンナさん!」
「おーおー、すまないねえ。ちょっとオトナの、大事なハナシをしてたのさ。許しとくれよ」
「イヤ! ゆるさない!!」
環菜を睨み付けて、男のスーツの袖を皺になるまで握りしめる少女。
それをさも微笑ましそうに環菜は笑い、柳花と呼ばれた吸血鬼は2人を交互に見ながらおろおろと焦りの表情を浮かべ、……スーツの男は、彼女達を見渡して、再び唇の片側を持ち上げる。
まるで、楽しかった夏休みを繰り返しているかのように。
「貴女の言う通り、少々長居が過ぎたのは事実です。……『客人』を待たせるのも、あまり良くは無いでしょうし」
「でしょ!? ほーら、やっぱり私が正しいんだ~!」
再びあっかんべえと環菜に向かって舌を出す少女を制止するように。しかし咎める事はしないまま、男は彼女へと手を差し出す。
「行きましょう、玻璃」
「うん、お兄ちゃん!」
玻璃と、水晶を意味する名で呼ばれた少女の小さな手が、男の節くれ立った指を握り返す。
男にとって―――このデジモンにとって。それが、世界の全てだった。
男と少女を先頭に、彼らが向かう先には、聖解が安置された部屋がある。
……聖解によるエインヘリヤル召喚の準備が、整えられた部屋が。
「「……どれだけの方が、呼びかけに応じてくれるでしょうか」」
不安げな柳花へと男が口を開く前に、今度は彼女に向けて、玻璃が唇を尖らせた。
「もうっ、リューカったら辛気くさい! 私に応えないようなエインヘリヤルならいらないもん。嫌な奴らなんて、今まで通りリューカと私でみーんな殺しちゃえばいいんだから」
「「それはそうだけど……」」
「ええー、アタシは数にも数えてもらえないのかい? せっかくやる気満々なのに」
「ふんっ、クロが強いのは認めてあげるけど、オバサンの出る幕なんて無いもんね!」
この相違点の『間違い』を正そうとする者達との決戦が間近に迫っているというのに、とても緊張感の感じられない彼女達のやりとりに、やはり男はふっと笑みを漏らす。なんなら1人足りていない分騒がしさは控えめなぐらいだと思いかけて、その点には、彼は思わず肩を竦めたが。
そうして、ふと。男は窓の外を見やる。
『あの日』世界を侵した邪神を再現するかのように開いた電子の穴。
『暗黒の海』に呑まれた静寂の街。
「……」
多くの神話をなぞらえるかのように、屍の上に成り立つ世界。
今度こそ、彼の『妹』が何不自由無く生きられるよう、祈りの果てに構築された世界。
目的の部屋。
中央に光り輝く聖解の元へと、男は玻璃の背を押して、彼女を送り出す。
少女は促されるままに、白いUSBを手元に掲げた。
「告げる」
兄に習った通りに、彼女は『台詞』を高らかに謳い紡ぐ。
「汝の物語は我が下に。我が命運は汝の筆に。聖解の寄る辺に従い、この意、この理に従うならば応えよ」
誓いを此処に。と。玻璃は一層に声を張り上げる。
「我は闇の闘士。常世全ての悪の代弁者」
部屋いっぱいに広がる、電子的な光の輪。
そこから零れ落ちた0と1の列が、徐々に形を成し始める。
「汝、電脳の言霊を纏う七天。抑止の輪より来たれ! 箱船の守り手よ―――!!」
そうして、彼女達の目の前に降り立ったエインヘリヤル達を見回して。
玻璃は、年頃の少女らしく、あどけない笑みを浮かべた。
「ようこそ、我が同胞(エインヘリヤル)達。私はあなた達のテイマー、剣士(セイバー)の京山玻璃!」
名乗りを上げて。
最優とされるクラスと真名を明かした少女は、さらに大輪の花のように、表情を綻ばせる。
「私があなた達に下す命令(オーダー)はひとつ。私にとってもとーっても嫌な思いをさせ続けたこの世界を、めちゃくちゃにする事です。私の知らない「普通」を知っている奴らをゆるさない。こんな世界で未だに平穏にすがりつこうとしている弱虫達をゆるさない。怒りに身を任せて、心の赴くままに。積み木のお城を崩すみたいに、みんなみんな押し潰して―――」
にいっ、と。唇の片側をつり上げるようにして。
「―――この世界の終焉(おわり)に、最悪の『前例(プレセデント)』を刻み込むの!!」
第一相違点
A.D.2019 悪例融解未来 ユミル
『デジモンプレセデント』
最愛なる水晶
Chapter:1に続く