「主人公、か。……言われてみても、実感は湧かないもんだな」
ぺたぺたと音を立てながら、颯也が下水道の通路を先導する。
入り口から覗いた時こそ真っ暗闇に見えていたが、トンネルの中には非常灯が張り巡らされ、視界の確保に困る程では無かった。加えて、必要以上にじめじめしていたり、不快な臭いが立ちこめている、というような風でも無く。
三角自身、こういった場所に足を踏み入れた事は無いが、下水道というよりはゲームのダンジョンのようだと、そんな印象を覚えるのだった。
「相違点Dの地下エリアに似た状況、とでも言いますか。『デジモンプレセデント』の作者も、流石に町の下を流れる水路の設定まで考えてはいなかったのでしょう」
「って事は、この辺は『デジモンプレセデント』本編より、デジタルワールドっぽい理屈が働いてる……みたいな感じですか?」
「かもしれませんね。デジタルワールド、結構下水道みたいなエリアがあるという話ですし」
「懐かしいね。私も幼い時分は、ナニとは言わないけれど悪戯用の『アイテム』を採りに行ったものだ」
明言はせずとも、下水道に似たエリアという時点で答えは言っているようなものじゃないかな、と苦笑いする三角。
「あきれた。デジモンで、王さまでも、そんななんだ。ううん、男子ってバカばっかりだけど、いまどき小学生でもそんなことしないよ」
「手厳しいねアーチャー。だが私の渾身の悪戯(若気の至り)を、児戯未満と片付けられるのは少々心外だ。私のそれは、規模が違うのだよ、規模が。そう、あの時は収穫物を、ロイヤルナイツの―――」
「……」
いよいよヒトミの眼差しから温度が下がり始めたその時、不意にグランドラクモン―――正しくはへレーナの、静かに響く鈴のような声音がぷつんとかき消える。
「……へレーナ所長の尊厳のために、グランドラクモンの音声を一旦シャットアウトしました」
「いい判断なんじゃないかな」
「お疲れ様です、ドクター」
ちらちらと振り返りながら成り行きを見守っていた颯也が、話が一段落したとみて、ふっ、と笑い声を漏らした。
「ちょっとだけ、安心した」
「?」
「「世界を救うために戦ってる」って言う割に、なんていうか、『普通』だから」
「ふざけてるのは、グランドラクモンさんや馬門ぐらいだと思うんだけど」
「あれ? アーチャー的にもボクは既にカウントに入ってるワケ?」
「ああいや、馬門がふざけたヤツなのはホントだけど、そうじゃなくて」
「再会早々ヒドいなキミも?」
「なんて、言うんだろう。君達が守りたいのは、漠然とした、大きな世界。って感じじゃ無くて―――あくまで日常の延長線、って感じがしたから。……世界のためなら何してもいい、って感じの人達じゃないのに、安心した、っていうか」
馬門の台詞を聞き流しながら、颯也。
それなら、ちょっとわかる。と、ヒトミも同調する。その一方で、シフが僅かに、緑縁眼鏡の奥で、視線を落とした。
あくまで日常を守るために、世界を救う。
それは、他ならぬ『デジモンプレセデント』の主人公達の、決意だった筈だ。
「……カジカPさん」
「ん?」
「柳花さんの事は」
シフの問いかけに、颯也は大きな目をさらに見開いて、しかしすぐに、ゲコモンのどこかコミカルな顔つきでも十分に伝わる、悲痛さの籠もった笑みを浮かべる。
「知ってる。……柳花ちゃんだけじゃなくて、この世界の玻璃ちゃんや、お兄さん。……環菜先生の事もね」
環菜先生。
雲野環菜。
ダスクモンが既に言及している主人公の1人―――『デジモンプレセデント』の根幹に関わる『前例』の研究者の名前に、シフは言葉を詰まらせる。
恐らく、彼女もまた、敵側にいるのだ。
どうしてこうなっちゃったんだろうな、と。颯也は無理矢理に声音を明るいものへと切り替えた。
「いや、わかってる。……みんな、やっぱり『自分達の日常』が大切だったんだよ」
それで世界が、滅ぶとしても。
……実際に、本編中でも何度も触れられていた事だ。「世界なんて滅んでいい」と。そう、直接的にも間接的にも心情を描写されなかったのは、それこそ鹿賀颯也ぐらいのものであったと、シフは記憶している。
「まあ、ボクらはそんな『主人公』の1人であるキミに、世界を救うための協力を要請したいと思ってるワケなんだけどさ」
「……あんた、ホントに空気読まねーよな」
曇るシフに代わって、ズバリ結論を口にする馬門。
颯也は、首を横に振った。
「迷っていい話じゃないのは解ってる。……でも、返事は俺のミューズがいるところでさせてくれ。いくらデジモンになっていわゆる『選ばれし子供』じゃなくなったっつっても、やっぱり、考え事はパートナーと一緒にしたいからさ」
「……」
「パートナー」の言葉に、今更のようにこの世界が、名城の言っていた通り、フィクションとはいえ自分達の世界と地続きである事を実感する三角。颯也の言い分は、三角にとってもあまりに馴染み深い考え方で。
三角は、隣を歩くシフの方を見やる。
浮かない顔を続ける彼女にとって―――自分は果たして、そういうものになれているのか、今、そうで無いとすれば、この先なれるのか、と。
あまりにも現代じみた未来設定の世界で、先の見えない、未来のことを、思いながら。
と、
「とか言ってる間に、到着、っと」
ぴょん、と颯也はカエルのデジモンらしく地面を蹴って、空間の境目となっているラインを飛び越える。
すぐに前へと向き直り、その『部屋』へと足を踏み入れる三角。
そこには、いつかテレビで見た首都の貯水槽もかくやといった、巨大空間が広がっていて。
「わあ」
きっちりと壁で区切られている故か、相違点Dの地下エリアよりかは狭く感じられるものの、それでも今し方通ってきた通路と比べて、どう考えても不必要な程に広い。少なくとも、ワゴンで走ってきたあの街の下に『コレ』が広がっているとは到底考えられなかった。
「俺自身変だなと思ってたけど、デジタルワールドとして独立してるならそれも納得だな」と、感嘆を漏らした三角に、可笑しそうに笑いかける颯也。
彼はそれから、すぐに前方へと向き直った。
「おーい、今戻ったぜ」
「ゲコ。おかえりゲコ、ソーヤ」
空間の奥。手を振る颯也に野太い女性の声で応えたのは、オタマモン―――ではなく、赤い皮膚と丸く巨大な身体つきが特徴の、いわゆるゲコモンの「正統進化」的な完全体デジモン―――トノサマゲコモンで。
「トノサマゲコモン……!? えっと、ひょっとして、あの方がカジカPさんの」
「そ。俺のミューズ。ユミルの力で、世代が完全体にまで押し上げられたって感じかな。見ての通り、今やハスキーボイスのよく似合う憂いと影のあるほどよくふくよかでシックな大人の女性系歌姫。ってワケだ」
「?」
「えっと、カジカPさんには通称『カジカフィルター』といって、あらゆるデジモンを脳内で女体化させる事が出来るという特技が存在するのです」
「どういう事……!?」
人間用『レーザートランスレーション』いらずですね、と、シフ。……三角の困惑は、全く解消されなかったが。
「ごめんねゲコ、ゲコモンになってもソーヤがアホゲコで」
「そういう俺のミューズはトノサマゲコモンになってもド辛辣!! でもそこも魅力!!」
「っていうか、思わず先につっこんじゃったゲコけど、どちらさまゲコ、か……」
ぐるりと一行を見渡して。
……馬門を視界に収めたらしい。なんとなく察した表情を浮かべて、あー、と、トノサマゲコモンは巨大な弦楽器にも似た声音を漏らす。
「えっと、俺は三角。三角イツキっていいます。こっちはパートナーのシフ」
「はい、エインヘリヤル・シェイプシフターのシフです。よろしくお願いします」
「わたしは神原ヒトミ。こっちはギギモン」
「ばうばう」
気を取り直した三角達が、トノサマゲコモンに向けて自己紹介をする。ヒトミのリュックから飛び出したギギモンと、三角の肩から降りたバウモンも、挨拶代わりに耳をぺこ、と動かした。
「エインヘリヤル……最近よく聞く単語ゲコね。一応ゲコ達と同じ、デジモンって扱いでいいのゲコよね?」
「デジヴァイス越しに失礼。わたくしは名城明音。三角とシフが所属する組織の司令官代理です。……エインヘリヤルについては、そのように解釈してもらって構いません」
頷くトノサマゲコモン。名城は更に「わたくし達は」と切り出す。
「貴女方の物語―――『デジモンプレセデント』と、我々は呼んでいます。我々の世界に滅びを伝播させる、結末の書き換えられた『デジモンプレセデント』を元通りにするために、三角とシフをこの世界に派遣しています」
「……やっぱり、おかしくなってたのゲコね、この世界は」
「解ってるなら話は早いね。……ボクらは、カジカPとキミに、協力を要請しに来たんだ。水のスピリットの適合者である、キミ達にね」
「……まあ、もうゲコは水のスピリット、使えないのゲコけどね」
でも、持ってるのは持ってるゲコ、と水かきのついた細い指でトノサマゲコモンが指し示すのは、空間の奥の方。
左右に2列、天井を支えるために並んだ柱の、奥から数えて2列目。柱の同じ箇所が切り取られ、その間に、どういう原理かヒューマンとビースト、それぞれの水のスピリットが、向かい合うように宙に浮かぶ形で、安置されていて。
「せめてと思って、ここで保管してたんだけど。……世界を救うのに使うなら、水の闘士も本望だろ。取り外すから、一緒に来てくれるか?」
揃ってそちらに歩き始めるゲコモンとトノサマゲコモン。わかりました、と、三角達も後に続く。
―――そうして、全員の視線が、ヒューマンかビースト。どちらかの水のスピリットに固定されたと思われた、その時だった。
「スピリットエヴォリューション・ユミル!!」
不意に響き渡る進化の宣言は、あの声変わり直後のような、やや高く、かすれた男の声―――即ち、馬門の声。
「!?」
背中から一瞬伸びた光とその声に驚いて振り返った三角が見たのは、ブリザーモンに進化した馬門と、金属のような光沢のある鋭い爪にあっけなく引き裂かれる、ブリザーモンの愛斧『エジ』と『オジ』の姿だった。
「え……?」
「全く、これはちょっと出鱈目が過ぎるな……!?」
「「こんにちは、ラタトスクのみなさん」」
高速で引き戻された爪と二重螺旋の声の出所を辿れば、そのデジモンは、三角達が先程くぐり抜けたばかりの入り口を背に、立ち塞がっていて。
宵の紫を鎧として全身に纏った、金髪に金の瞳の吸血鬼。
ヴェノムヴァンデモンとも、ベリアルヴァンデモンとも異なる、しかし三角にも馴染みの深い、『世界』に実害をもたらした闇のデジモンの代表格―――その、正統なる進化先の1体。
―――ネオヴァンデモン。
「……多島さんと、ピコデビモン。だね?」
シフが青ざめた顔でブリザーモンを、ネオヴァンデモンを、そして颯也達を交互に見渡す。
やれやれと斧の残骸を投げ出して肩を竦めるブリザーモンは、しかしその獣の額から冷や汗を伝わせていて。
反対に、ネオヴァンデモンは、心底可笑しそうに、そして妖艶に兜から露出した唇を歪めた。
「「流石に、玻璃と同じ最優のクラスは伊達ではありませんね。不意打ち、完璧に決めたと思ったんですけれど」」
「あー、そこはキミというよりカジカPのミスかな」
「!」
「いや、演技は上手かったよ。流石だね。その証拠に、誰も気付いてなかった。……でも初動が良く無かったね! 「生きてたのか」なんて。ボクの知ってるカジカPは、いくら相手がボクだとしても。……人が死んでいる事を前提に話したりはしないよ」
「―――っ」
「知ってたんだろう、この相違点の『ボク』は、幸樹さんに殺されているって」
振り向きもせず淡々と告げる馬門に、罠に嵌めた側である筈の颯也の表情が悲痛に歪んでいく。
非難よりも、耐えがたかったのだ。よりにもよってこの軽薄の擬人化のような男が、自分の善性を肯定しているからこそ、自分の嘘を見抜いていた事実が。
「「……で、あれば。やはりそれは、僕(わたし)達のミスですね。優しい鹿賀さんに、知らなくてもいい話を伝えてしまった」」
「柳花ちゃん……」
困ったように目を細める柳花。ラタトスクからの通知音が、いつもよりもどこかけたたましく鳴り響く。
「馬門……ッ! 気付いていたなら何故―――」
「いやいや、ボクが気付いたのはカジカPが向こうの陣営と繋がってるってトコだけ! 良い感じのタイミングでテイマーに伝えた後、水のスピリットだけ奪取して離脱するつもりだったよ! まあアーチャーも居るし並のエインヘリヤルなら返り討ちに出来ると思って警戒は怠らないようにしてたんだけど、まさかよりにもよって多島柳花が来るなんて! 困っちゃったね!!」
「こんのボケナス豆もやし……!!」
「……わたし、やれるけど?」
まるで自分が柳花に勝てないかのような物言いに眉をひそめながら、ヒトミはギギモンの隣に並ぶ。
「……っ」
唇を噛み締めるようにしながら表情を歪めたシフも、それでもバトルスーツに姿を切り替えて『リヒト・シュヴェーアト』を構え、三角を庇うように、前に出る。
と、
「ま―――待ってくれ!」
三角達とネオヴァンデモンの前に、颯也が割って入る。
水かきをいっぱいに広げて、彼は双方に向けて、制止を促した。
「柳花ちゃん。……向こうの言い分も、聞くって約束だ」
「「ええ。わかっています」」
柳花はゆっくりと頷いて、実質の武器である両腕を持ち上げる事もしない。
話し合いの余地がある―――と、言うよりは、慢心の方が近いだろう。三角達を、歯牙にもかけていないのだ。
舌打ちするヒトミに、構えを解きはしないシフと馬門。
……そんな彼らを制して、三角は一歩、前に出た。
「先輩」
「シフ、ヒトミちゃん、馬門さん。……話を、させてほしい」
震えを押さえるために拳を固めて柳花の方に向き直り、三角は深く息を吸ってから、口を開く。
自分の世界を取り戻したい事を。
『デジモンプレセデント』の世界を元通りにしたい事を。
彼なりに言葉を選んで、一生懸命に、訴えかける。
心からの本音を、柳花に。ひょっとすれば、聖解の持ち主と考えられる「こちら」の玻璃や他の主人公にも届けられるかもしれないと、そう願って。
「「成程、言いたい事は解りました」」
やがて、三角が全てを吐き出し終えて。
もう続きは無いと判断した柳花が、微笑んで返す。
「「皆さんの志は、とても立派だと思います。……自分達の世界だけじゃ無くて、『デジモンプレセデント』の『本来の』物語の事も、考えてくれているなんて。……『本来の』僕達がどんな結末を選んだのかは解らないので正直実感は無いのですが、その点には、感謝しましょう」」
「!」
思わぬ、しかし期待以上の反応に、三角の胸が弾む。
今一度呼吸を整えて、「なら」と、三角は問いかけて―――
「「ところで、この相違点のデビドラモン達って、『どういうもの』か。三角さんはご存知ですか?」」
彼の言葉を遮るように、悪戯っぽい、彼女のパートナーだという小悪魔を想起させる笑みを浮かべて、柳花の方が、三角に尋ねる。
「え? えっと……確か、吸血種の性質が混ざってる、って」
「「あの子達はね、僕達が創ったんです」」
柳花の鎧の隙間から、ずるり、と鋭い牙の並ぶ大口だけを顔に備えた、名状しがたい生き物が1体這い出す。
ネオヴァンデモンの使い魔・イビルビルだ。
柳花はイビルビルを手の甲に乗せ、慈しむように頬をすり寄せた。
「「僕達が、この相違点の『人間』にイビルビルを寄生させて洗脳しつつ、ユミル進化の方向性を操作して生み出したのが―――吸血デビドラモン達という訳です」」
「……え?」
一瞬、三角の頭が真っ白になって。
柳花の言葉をもう一度噛み砕いて、飲み込んだ瞬間―――
「……っ、オ、エ……!?」
―――胃の中身が、せり上がる。
三角の背後に控えるシフとヒトミの表情も目に見えて青ざめたのを確認して、柳花は本編ではけして見せることの無かった、けらけらと口を開けての笑い顔を、彼らに見せつけた。
「「聞いていますよ? 別に助ける必要も無い、この世界の住民達を何度も助けてくれているんですよね? ……でも、あなた達の中では、僕達の可愛い『この子達』は、暗黒系デジモンであるがために、この世界の住民とは認識してもらえなかった。……どこかで聞いたような、悲しい話です」」
「それ、は―――デビドラモン達が、集落を―――」
「「ええ。襲っています。襲っているから、あなた達はこの子達を撃退した。……食べ物を欲しがっているだけのこの子達の味方になろうなんて、これっぽっちも思わずに」」
「う―――」
「あー、多島さん。良い感じにテイマー達に揺さぶりをかけているところ悪いんだけど、そろそろ素人質問してもいい?」
ここまで来て、やはり空気を読まない馬門がすっ、と手を挙げて三角と立ち位置を入れ替わる。
どうぞ、と楽しそうな表情を崩さずに、柳花は馬門の発言を促した。
「素人質問とは言ったけど、まあ、剥奪済みとはいえ博士号持ちを舐めないでほしいね? できっこ無いでしょ? そんな事。……進化の方向性の操作。それも、ただでさえ適性持ちが少ない暗黒系の、狙ったデジモンに人間を進化させるなんて。少なくとも、あの数のデビドラモンを揃えるなんて、とても出来た話じゃ無い」
「「聖解を使ったとは考えられないんですか?」」
「そんなぽっと出のアイテムの介入程度でデジモンの進化の根幹まで歪められるなら、ボクのパートナーは溶けて死んだりしなかったよ」
馬門の言葉に、柳花は大きく目を見開いて。
ふふ、と、ちょっとした悪戯がバレた子供のように、照れくさそうな笑みを浮かべ直す。
「「あっさりバレてしまいました。これでは環菜博士に顔向け出来ません。……ええ、そうです。デビドラモン達は、聖解のリソースを借りて、イビルビル達を直接進化させたもの。……みんな、僕達の可愛い使い魔ですよ」」
嘘。
喉元までせり上がっていたものが、すぅと下がっていくのを三角は感じていた。
守ろうとした、守れなかった、この世界の無辜の民達を、知らず知らずの内に殺していた訳ではなかったのだと、三角は、安堵して―――
「「まあ、別に良いんです。本題はそこじゃないですから。……ねえ? 『モブ』じゃなくて『悪役』なら、いくら殺してもいいと思っている、人類最後のテイマーさん?」」
―――撫で下ろした胸の内が、今度はそのまま、凍り付く。
「それ、は」
違う、と、言いたいのに。
せめて、シフはそうじゃないと、そう反論したいのに。
否定に使える、材料が無い。今し方の安堵が、デビドラモン達が集落を襲っているから倒したと、シフ自身が用意した反論が。言い訳の道筋を、塞いでしまう。
「「良いんです」」
多島柳花は、繰り返す。
「「「『デジモンプレセデント(僕達の物語)』を元通りにしたい」だなんて。僕達の大事なこの子達を悪役と断じておきながら、僕達の都合を考えもせずに。……薄っぺらいな、と。そう思っただけですから」」
「柳花さん……!」
「「玻璃に便乗するみたいになってるのは、申し訳ないんですけれど。……僕達、ずっと、ずうっと、『こう』したかった。『優しいヴァンデモン』っていう、世界に認めてもらえない『前例』になるために、ずっと、ずうっと、我慢してきたけれど。僕達―――最初からこんな世界、大っ嫌いだった」」
「貴女達の、『物語』は―――」
「「僕達は『この世界』の話をしているんです。誰よりも安全地帯にいた『読者』ごときが、上から口を挟まないで下さい」」
柳花の真っ黒な翼から、何体ものイビルビルが零れ落ちる。
そして彼らは、生まれ落ちた直後から、今の彼女達の心を写したかのように、暗い、昏い色の悪魔へと育っていく。
だが―――それだけでは、終わらない。
「「デビドラモンズ―――強制デジクロス」」
柳花は、かつて暗黒の海に蝕まれ、闇の力を孕んだ自身のスマホ型デジヴァイス―――今は『ダークネスローダー』と名付けたそれを高々と掲げる。
それは柳花が、今の彼女達と同じ種族をパートナーに持つ、アサシン・中舞宵から得た知見だ。
『デジモンプレセデント』の世界では取り上げられる事が無かった故に、本編の柳花では知るよしも無かった進化の技術(かけ算)。
ある意味で、『本来』と『この世界』の多島柳花とピコデビモンを、手に入れた進化以上に断絶し、違ったものとして確定付ける力。
強制、とは付いても、元はイビルビルであるデビドラモン達は、皆柳花とピコデビモンの忠実な使い魔だ。主を護るため。そして主の愛する人やデジモンを護るためであれば、その身を差し出す事を厭わない。……ブラフとして口にした「この世界の住民達を変異させただけの兵隊」など、柳花は最初から求めていないのだ。
「……鹿賀さん」
ただ、1つだけ。
柳花には、気がかりな事があった。
「鹿賀さんはもう、無理に私に手を貸そうとしなくて、いいんですよ。鹿賀さんが『ヴァンデモンの前例』じゃなくて、『私達』を見てくれたのは、もう十分に、解っていますから」
「柳花ちゃん……?」
「目の前の困っている誰かに全力で手を差し伸べられる鹿賀さんが―――もはややりたい事をやっているだけの私にその『手』を使う、理由なんて」
進化の奔流に紛れさせながら。柳花は、パートナーと混ざり合ったものではなく、自分ただ1人の言葉で、堕ちた己の言葉に黙って耳を傾けてくれていたデジモン(人)に、言葉を投げかける。
「……トノサマゲコモン」
「……」
颯也の呼びかけに、トノサマゲコモンは、ただ、静かにこくんと頷く。
次の瞬間、2体のゲコモン種のパイプから、場違いなほどにゆったりとした音楽が、流れ始める。
バレエ曲―――『ボレロ』だ。
「三角、シフ! 気を確かに!! 力の差は―――ダメ―――っ、これ、は――――――」
音楽に対してあまりにも耳障りなノイズをかき鳴らしながら、不意にラタトスクからの通信が途絶える。
「名城、さん?」
「ドクター?」
三角とシフが同時に問いかけても、彼女から応答は返ってこなかった。
ようやく顔を上げれば、広大な空間いっぱいに、相違点Dでもみた白い水の壁―――結界が、広がっていて。
「―――ッ!?」
「……カジカP。キミ、それでいいんだね」
ブリザーモンの大きな手の平に、雪だるまに似た小さなオブジェが出現する。
氷のヒューマンスピリットだ。
「「……鹿賀さん」」
「リューカさん、ピコデビモン。……ソーヤは、もう決めてるゲコ」
「謝って済む話じゃ無いってのはわかってる。柳花ちゃんが間違ってるのもわかってる! でも、でも―――」
もはやスピリットを纏うことは出来ないと、トノサマゲコモンは、そう言っていた。
だが、それでも水のスピリットは、所有者として認めた1人の青年の『心』に応え、水路中の『水』をかき集めて、彼の望む通りの結界を作り上げる。
電子機器の通信機能を阻害し、吸血鬼を強化する『霧の結界』を。
「俺、俺―――『あんな事』になった『お兄さん』の事、やっぱり見捨てられねえよ……!!」
恐怖に、後悔に、罪悪感に。蛙の目からぐしゃぐしゃに涙をこぼしながら、颯也が言葉を絞り出す。
「……」
そんな彼の、何よりも愛おしい善性に対して主が浮かべた表情を、けして敵対者達には晒すまいと、強制デジクロスによって生み出された彼女の新たな使い魔は、三角達の前に立ち塞がる。
漆黒の身体。
2対の翼。
そして、左腕には―――盾。
レグルスモン。
『王』の名を冠し、『災害』と謳われる邪竜型デジモン。
「「さあ、偽善者のみなさん。そんなに僕達が気に食わないのなら。『本物の未来(デジモンプレセデント)』とやらが大切なら。……殺し合いましょう。シンプルに。だって僕達、デジモンですもの。その方が、ずっと解りやすいでしょう?」
颯也を背に回し、レグルスモンに並んだ柳花が、両腕を広げる。
強化抜きでも、簡単に十闘士の武器を引き裂いた手を。
「「月光将軍・ネオヴァンデモンがお相手します」」
負けませんよ、僕達(私とピコデビモン)は。
そう言って彼女は、あまりにも傲慢に、己の牙を見せつけ、笑ってみせた。
*
「マジかよ」
「大マジさ。天才的につまらない嘘なら、どれだけ良かったか!」
『妹エインヘリヤル』捜索チーム。
カジカPに会いに行った三角達との通信が霧の結界によって途絶えた直後、ラタトスクに残る面々は、すぐさま通信相手をこちらのチームへと切り替えた。
当然、内容は救援要請。『妹エインヘリヤル』の捜索を切り上げ、三角達の方に向かえという指示だ。
「相違点Dのノウハウがあるとはいえ、水のスピリットを介して張られた結界だ。規模は小さくとも、性能は1999年のヴァンデモンのソレに引けを取らない。今、名城とグランドラクモンが必死で通信を復旧しているが―――どうにしたって、通信が繋がっただけでは根本的な解決にはならないからね」
急いで欲しい、と、名城に代わってエインヘリヤル達への連絡を請け負っているテディちゃん。
彼女が玻璃達を急かすのには、もう1つ、大きな理由があって。
「レグルスモンと、エインヘリヤル1体の接近反応……」
青ざめた玻璃が、口元に手を添える。
通信が途絶える寸前、ラタトスクの機器が解析に成功した、デビドラモン達の強制デジクロス体。……それによって、三角から離れて精度が下がっている探索機能でも、同じデータを持つ存在が集落に近付いていると、情報を拾うことが出来たのだ。
「幸い三角達とレグルスモンの現在地は逆方向だ。今の内にここを立てば、恐らく気付かれる事は無い」
「このコミュニティを……お客さん達を、囮にするって事ですか?」
「そうだ。いくら三角の方針がどうであれ。キミ達には彼を優先してもらわなければ、困るんだ」
エビバーガモンの言葉を肯定するテディちゃん。通信相手が名城だったとしても、同じようにしただろう。
三角が死ねば、このコミュニティどころか、この世界が―――否、全ての『世界』が、犠牲になる。
「……ま、自業自得だな」
最初に気持ちを切り替えた―――否。最初から、彼は自分に関わりの無い住民達を気にかけていた訳でもない―――のは、糞山の王だった。轢き肉号にリソースを割き、走行中には限界以上の速度を出せるよう、出発の準備を整え始める。
「糞山の王さん」
「おう、お前も解ってンだろ? これまで無事だったこのコミュニティが襲撃されそうなのは、十中八九住民(バカ)どもが、敵陣営でさえ警戒してた『妹エインヘリヤル』ってヤツを追い払ったせいだ」
だから助ける義理も無いし、気に病む必要もねーよ。と糞山の王は玻璃を諭す。
そして実際、それは玻璃自身も理解はしていた事だ。
彼女を躊躇わせたのは、自身と言うよりテイマーである三角の信念。ここで彼らを見捨てて三角を助けに向かう事を、彼は是とはしないだろう、と。
だが逆を言えば、懸念材料はそれだけだ。機械的な性質を持つ兄からさえ「思考が柔軟性に欠ける」と評され頃と比べれば人情も理解したこの姿の玻璃とて、必要があれば、命に優先順位を付ける合理性も未だ持ち合わせている。
加えて、純粋な気持ちの上でも、玻璃は、このコミュニティの住民よりも、テイマーである三角の方が大切だった。
滅びを目前に控えて尚「人に危害を加えた種族」というだけで、その人個人を見ずに吸血鬼のエインヘリヤルを追いやった、このコミュニティの住民達よりも。
「わかりました」
良心を振り払い、表情を引き締め。玻璃もまた、轢き肉号へと乗り込んだ。
シートの奥に詰め、エビバーガモンとバーガモンの姉妹が乗り込むための空間を確保する。
「さあ、お二方も、早く―――」
「「ごめんなさい」」
不意に、姉妹が揃って、頭を下げた。
「……え?」
「おいチビども。そいつは」
「あたし達、ここに残ります」
「だって、わたし達―――『お客さん達』を見捨てては、行けませんから」
「大王さま」と慕う糞山の王の言葉を遮ってまで、2体はそう宣言してみせる。
……玻璃や糞山の王が、状況に基づいて「命の価値」に優劣を付けたように。
エビバーガモンとバーガモンもまた、テイマーとここの住民達とを天秤にかけ―――その結果、双方の秤を釣り合わせた。
どちらも等しく、「自分達のハンバーガーを喜んで食べてくれるお客さん」だ。と。
そこには、種族も貴賤も、善悪すらも関係無い。彼女達は、全ての「お客さん」と定めた相手に、お腹を空かせた誰かに、惜しみない『愛』を向けるデジモンなのだ。
それこそが、エビバーガモンとバーガモンの姉妹の『レゾンデートル』。
彼女達の愛らしい丸い瞳は、しっかりとその『信念』を宿して、玻璃と糞山の王を見上げていた。
「……」
今まさに、自分も乗り込もうとしていた運転席の戸を閉めて、糞山の王はエビバーガモン達の元へと歩み寄る。
玻璃は最初、彼がベルゼブモンの膂力を用いるまでもなくエビバーガモン達を簡単に掴み上げて、轢き肉号に投げ込むものだと考えた。
そうするべきだろう、という、思いがあった。……否、そうして欲しいと、心のどこかで想っていた。
だが。糞山の王は。この小さな姉妹に手を伸ばすような真似は、けしてしなかった。
代わりに、ただ、堂々と。背筋を正し、彼女達を見据える。
「それがお前たちがいま本当にやりたい事なら」
開いた口から紡がれた言葉は、普段からは想像も出来ないほどに静かで、厳かなもので。
「そうしないとお前たちがお前たちでいられないなら」
それは―――
「俺はそれを肯定する」
―――紛れもなく、『王』の言葉であった。
「誰にはばかることもない。地獄の副王たるこの俺様が、お前たちの選択を言祝ごう」
玻璃も、そして通信越しにその様子を見守るテディちゃんですらも、口出しする事は許されない。邪魔はさせない。それだけの威厳を纏って、彼はエビバーガモンとバーガモンの『生きる意味』を後押しする。
「大王」
「さま……?」
「っと、そーいうワケで! そんな超スゲー王様から、がんばるチビどもに素敵なプレゼントでぇ~す!」
調子をいつも通りのものに改めて屈み込み、それより後はエビバーガモンとバーガモンにだけ聞こえるように何かを囁いてから、身を起こした糞山の王は、くるりと2体に背を向ける。
「オラ、ボケッとしてないで行くぞ闇の獅子」
「……! 糞山の王さん……!」
「考えようによっちゃ、チビどもだってエインヘリヤルだ」
ばん! と音を立てて、糞山の王は玻璃が扉側に詰め寄ろうとした轢き肉号の後部座席を閉める。
「住民(ボンクラ)どもよりゃあレグルスモンとやらも足止めしてくれるさ。……文句はねェな? サマナーども」
「……。……いいだろう」
テディちゃんの同意も得て、いよいよ運転席に乗り込んだ糞山の王が、全ての扉を閉ざす。
次の瞬間、軽自動車にあるまじき力強いエンジン音が鳴り響いた。
「エビバーガモンさん! バーガモンさん!」
本当に2体を置いていくのだと。悟った玻璃が、急いで窓を開け、身を乗り出す。
「あの、あの―――私、は―――」
何を言うべきか。
いや、言うべき事は沢山ある。だが、ここに来て優先順位が付けられない。
言葉が詰まっている間に、轢き肉号が発進する。
「―――っ」
「姉さんのハンバーガー!!」
「!」
にこり、と笑顔を浮かべて。
バーガモンが、声を張り上げる。
「美味しかったですかーー!?」
「―――ッ、はい!! とっても!!!!」
そうして、轢き肉号は、すぐにエビバーガモン達からは見えなくなる。
だがその前に、玻璃の言葉はしっかりと2体の耳に届いた。
えへへ、と、姉妹は、顔を見合わせて笑い合う。
「嬉しいなあ。ね? バーガモンちゃん」
「まあ、当然よ! 姉さんのハンバーガーは、デジタルワールド1なんだから」
それにそれに、と、差し迫った情報からは考えられない程朗らかに、彼女達は頬を薄紅色染める。
「あたし達のこと、『名誉〝かなん〟民』だって! 大王さま」
「始めて聞く名前だけど、でも、大王さまが納めている大地なら、きっと素敵なところなんだろうなあ。……っと、バーガモンちゃん。そういえば大王さま、最後に『大王』じゃない王さまを名乗ってなかった?」
「そういえば。えっと……『フク王』じゃなかった?」
「フク、フク……じゃあ、きっと『福』王さまよ。『大王さま』より、えっと、「ちょーすげー」王さまなら、きっとそんなお名前に違いないわ」
「それだわ! さすが姉さん!」
「ふふ。きっといつか、もっとも~っと美味しいハンバーガーを作って、『かなん』の福王さまのところに持って行こうね、バーガモンちゃん」
「ええ! その時は、テイマーさん達も招待しなきゃ!」
最後にもう一度轢き肉号が去った方角に手を振って、それから姉妹は、これから「お客さん」達を傷つけるかもしれない者達がやってくるかもしれない方角へと向き直る。
「さあ、皆さんに避難をお願いしに行かなきゃ」
頷くバーガモンの前で、エビバーガモンが旗の付いたピック―――自身を槍兵(ランサー)と定める武器を掲げる。
「やろう、バーガモンちゃん!」
「ええ、姉さん!」
とてとてと。
しかし力強く地面を蹴って。2体は、避難民達の居住区へと駆け出した。