相違点に日が落ちた。
常に雨降り前の曇り空であり続けるこの相違点は、しかしどこかで日が射し、沈むを繰り返しているらしい。
吸血鬼達の時間、と言われていた。
休める時に休んでおけとも言われた。
エインヘリヤル達が交代で警備に当たっているとはいえ、危ないのは、百も承知だ。……とはいえ、どうしても眠る気になれなかった三角は、京山デジモン研究所の屋上から、1人、周辺を見渡している。
目の前で消し飛ばされた人とデジモン達。
目の当たりにした戦力差。
……そのどちらをも、どうする事も出来ない自分。
『誠実』の意匠が混じっているという己の紋章を見下ろし、三角は息を吐く。
そういえば、選ばれし子供・城戸丈も、自分たちを助けてくれたレオモンが殺されてしまった時、無力感に苛まれたって話だったな、と。
「……トイレットペーパー未満だなぁ」
シフの前では、吐けない弱音だった。
「不用心ですよ、三角」
だが、たとえ三角が1人になりたくても、彼を1人にするワケにはいかないと、ここに居る誰もが理解している。
凜と響いたその声に三角が振り返ると、相変わらずスーツ姿の闇の闘士が、夜のとばりの中でも鮮やかな深緑の瞳を彼へと向けていて。
「……ごめん、ランサー」
「とはいえ謝る必要はありません」
しかし結局三角を室内に引き戻す事無く、闇の闘士は彼の隣に並ぶ。
「休息すべき時間に休息していないのは、私も同じですから」
「……眠れないの? ランサーも」
「ええ。……そんな時は、外の空気を吸うものです」
マスターもそうしていましたから。と呟く闇の闘士の声は、夜と同じくらい静かなものだった。
マスター。
彼女の、兄。
……鋼の闘士。
「私は、ダスクモンに―――京山玻璃に、何も言っては返せませんでした」
三角の視線を受けて、闇の闘士はぽつり、と言葉を零す。
「ランサー」
「マスターの望み。……あの方自身の口から聞いたことがあります。もう戦わなくて良い。人間らしく過ごす練習をしなさい。……自分を傷つける事は、しないように、と」
「……」
それは三角にとって、わざわざ口に出す事の方が不自然な願いだった。
それを「我が儘」と言わなければいけないのなら、自分の知っている人間の大半は「我が儘」という事になってしまう、と。
「優しい、お兄さんなんだね」
「ええ。あの方が私の兄である事が、私の一番の誇りですから」
それでも、三角はそう言わずにはいられず。
闇の闘士は、間髪入れずにそれを肯定した。
で、あれば。と。
三角は、ここでようやく、笑みを浮かべる。
足手纏いを自覚していたとしても。言うべき時に、言うべき事を言えるのが、きっと自分の強みになると、そう、信じて。
「だったら。大事な人の優しさを誇れる貴女の事。……俺は、俺達は、偽物だなんて思わない」
「……」
闇の闘士が、目を見開く。
「俺は『デジモンプレセデント』をちゃんと知らないから、こんな事を言う資格は無いかもしれないけれど。……でも、シフは違う。ランサーの物語を『駄作』って言われた時に、怒ってた。怒れるぐらい、君達の物語が好きなんだ」
「三角……」
「だから今は、『デジモンプレセデント』。帰って読むのを、楽しみにしてる。……いや、他にも沢山、読みたい物語があるんだ」
そうして。闇の闘士は、年頃の少女のように、微笑んだ。
「……戻りましょう、三角。シフに心配をかけてしまいますよ」
だが今は、まだ感傷に浸る時では無いと、闇の闘士は夜空に背を向ける。
そうだね、と、慌てて三角も後に続こうとして―――
「―――いえ、待って下さい」
不意に、闇の闘士が振り返る。
星の無い夜空にも、死んだような町並みにも。何も見えない。見えはしないが―――
「この気配……!」
闇のスピリットの祖、古代闇の闘士・エンシェントスフィンクモンは、闇より生まれた存在であると、伝説に謳われている。
闇の獅子。
夜を生きる獣。
故に、やはり彼と彼の系譜は、闇の中でこそ感性を鋭く尖らせる事が出来るのだ。
「三角、シフと共に戦闘の準備を。デビドラモンが複数と、それに混じって、恐らく、エインヘリヤルが―――」
「こちらでも反応を確認しました。すみません、ここまでの接近を許すとは……!」
少々遅れて、ラタトスクからも通信が入る。
焦る名城の声に、やれやれ、と、ため息のようなグランドラクモンの言葉が被さった。
「成程、吸血デビドラモン。単なるバフの類かと思ったが、所謂吸血鬼伝説の『実態の無さ』まで紐付けられているようだ」
夜間の彼らは昼間の彼らとはまるきり違う。気をつけたまえ。と。吸血鬼王が静かに忠告する。
緊張にゴクリと唾を飲み込む三角。と、その傍らへと、既にバトルスーツ姿になったシフが駆け込んでくる。
「先輩!」
「シフ! ごめん、俺、勝手に」
「いえ、戦闘態勢が整っているのであれば、むしろ結果オーライかと。私も出撃準備は完了しています」
采配を、と、促すシフに、マップを展開する三角。
研究所周辺が、じりじりと包囲されているようだ。その上、ここまで来れば隠す必要は無いと、ステルス機能を切ったのだろう。デビドラモン達に紛れて、敵のエインヘリヤルの反応が表示されていないのだ。
と、
「おいおい、何だ何だア? ベヒモスの奴、誰の許可を得て外に出てやがる」
突如、糞山の王が屋上の鉄柵の上に降り立つ。細い足場の上で所謂ヤンキー座りの姿勢を維持したまま、彼はとある1点の方角を睨み付けていて。
「ベヒモス……『ベヒーモス』ですか!?」
「ンだよ、母音の発音は省略しない派か? サマナーってそういうトコ妙にこだわるよなァ」
「じゃなくて、ベルゼブモンのバイクの名称です! マズいですよ三角。相手のエインヘリヤルは、ベルゼブモンの可能性があります」
「……昼間のハナシ、アレ、マジだったの?」
俺様、超辟易。と。昼間にも増してドン引きの表情を浮かべる糞山の王。
とはいえ彼の心情は兎も角、ベルゼブモンの愛機ベヒーモスの位置が糞山の王になら判るというのは、三角達にとっても都合のいい話ではあって。
「大王様」
ひとまず、エビバーガモン達に倣って糞山の王をそう呼称する三角。
あン? と彼が振り返った。
「俺とシフを、ベヒーモスの位置に案内してもらえませんか?」
一転、糞山の王はにぃと鋭い牙を三角達に見せつける。
「おいおい、もっと堂々と命じろよサマナーもといテイマー」
だが、王様を敬う態度はなかなか悪くない。と。彼は姿を、暴食の魔王へと切り替えた。
「着いてきな!」
「シフ、お願い!」
「了解です、先輩」
三角を抱えるために上背のあるヴォルフモンへと変身したシフの隣に、更に闇の闘士―――レーベモンが並ぶ。
「私も同行します。……させて下さい」
こくんと頷く三角。わかった、と、背後から残りのエインヘリヤル達を連れて屋上に出てきた馬門が応える。
「ならデビドラモン達はボクらに任せてくれ。いくら強化されているって言っても、通常のデジモンに負ける程、氷の闘士もやわじゃないからね!」
「私達も戦います!」
ピックのような槍をぎゅっと握りしめるエビバーガモンと、恐らく武器だと思われるピクルスを模したフリスビーを抱えるバーガモンの姿はむしろ三角を不安にさせた。が、
「わたしたちがみんなやっつけるから。テイマーさんは心配しないで」
そっちにもすぐ行くから。と続けたヒトミが馬門達より前に出て、彼女の背負うリュックからギギモンが飛び降りた瞬間。ギギモンの姿がかき消え、とてつもない威圧感が屋上を占領する。
そして次の刹那。ヒトミの身体が宙へと舞い上がり、迫り来るデビドラモン達へと、巨大な火球を浴びせかけた。
「やれやれ、ホントにアーチャーだけで良さそうだけれど、大人のボクがサボるのも何だからね。……スピリットエヴォリューション・ユミル!」
スマホ型デジヴァイスを取り出し、馬門が氷のビーストスピリットをその身に纏う姿を合図にするように、シフと闇の闘士は、屋上を蹴って糞山の王の後を追う。
そっちはお願いします! と、シフに抱えられながら、三角は馬門達に向けて、再度声を張り上げた。
そんな彼らを、見送って。
「……さ、ランサー達もボクの背中に。乗り心地だけは保証するよ」
「ほんとだ……!」
「ふかふかだ……!」
両手に巨大なトマホーク『エジ』と『オジ』を握りしめた雪原の獣―――ブリザーモンの結った髪に、エビバーガモン達がしがみ付く。
2体が乗ったのを確認してから、ブリザーモンもまた、デビドラモンの跋扈する夜の闇へと繰り出すのだった。
*
「『ダブルインパクト』ォッ!!」
「!!」
真っ先に巨大バイク『ベヒーモス』の進路へと辿り着いた糞山の王が、後を追う三角達への目印もかねて、脹脛のホルスターから抜き放った愛銃『ベレンヘーナ』の引き金を引く。
もちろん、これで仕留められれば万々歳だと考えてはいたものの、ベヒーモスはその巨体に反して素早くその場から旋回し、近くの建物を遮蔽物代わりにして身を隠す。
と同時に。己も本来喚び出す事が出来る筈の、陸の獣の名を冠したバイクを目にした瞬間。糞山の王は、自らの力が弱まっているその理由を、全てとまではいかずとも理解する。
こと騎乗に関しては、竜を駆る大公爵の力を以てしても太刀打ち出来ない、と。
「チッ、色ボケ大魔獣がよォ! ピンクの鰐公にどやされても知らねエぞ!?」
思わず悪態が口を突く。
無理からぬ事だろう。何せ、彼の中の『ベヒモス』の部分が、今し方ちらりと姿が見えただけの敵陣営エインヘリヤルに、完全に『惹かれて』しまっているのだ。
かの悪魔獣が、習合の末『アスタロトの跨がる竜』と同一視されてしまっているが故に。
「大王様!」
追いついた三角達が、糞山の王の隣に降り立つ。
その間にも、ベヒーモスは唸り声を上げながら辺りを駆け巡っており、正確な位置を捉える事は、間近に迫ってしまったからこそ、糞山の王でさえ困難になってしまっていて。
……にも、関わらず。
「こんばんは」
不意に、エンジン音だけは残したまま。三角達の頭上から、どこか涼やかな女性の声が、響き渡った。
「子供……!?」
顔を上げる三角。そこには長い紫色の髪を風になびかせたライダースジャケット姿の少女が、ベヒーモスに跨がったまま、感慨無さげに三角達を見下ろしていて。
「はたしてそうかしら。たった一つの真実を見抜くなら、目に見える全てを疑うべきよ。見た目は子供、頭脳は大人、でも高校生探偵ってぶっちゃけ未成年じゃない? 私は―――そういうエインヘリヤルだもの」
「難しいかもしれませんが油断しないで下さい三角。子供の姿をしたエインヘリヤルなんて、珍しくもなんとも無いんです」
紫髪の少女のセリフをどうにか噛み砕いて飲み込もうとしていた三角は、しかし名城の言葉にはっと我に返り、気を引き締める。
既にデビドラモン達との戦闘を始めているアーチャー・神原ヒトミも小学5年生という話だ。……目の前に居るのが自分よりもずっと年下に見える少女だったとしても。それを油断の材料にも、戦わないという選択肢にも、繋げる事は許されない。
解っていても―――三角の手は、震えていたが。
「先輩……!」
「……そう。貴方達別に、「戦いたくて戦っている」バトルジャンキーってワケでは無いのね。少し安心したわ」
「それは、どういう―――」
「でも、私が良くても、ベレンヘーナ(こいつ)が許すかしら?」
シフが少女の言葉に気を取られた刹那、ぞわ、とほとんど同時に三角達の背筋に怖気が走る。
「チィッ!」
やはり、というか、いの一番に反応したのは糞山の王であった。彼は両腕を広げて三角達と自分自身をその場から押しのける。途端。彼らの背後の壁が、幾重にも大穴を空けて、瞬く間に崩れ落ちる。
「メリークリスマス、クソヤロウ」
新たなる襲撃者―――三角達の背後に展開されていた暴食の文様を描いた魔方陣から顕現した魔王・ベルゼブモンは、酷く悪い目つきで建物の上を陣取る少女を見上げた。
「おいガキ、この台詞本当に必要だったのか?」
「最重要事項よ。これで貴方の仕事は9割以上終わったといっても過言では無いわ」
「んなもんで終わるならそもそも喚ぶんじゃねえ!!」
あまりにももっともな意見であった。
「ナメやがって……!」
意見であったが―――三角達からしてみれば、彼女達のやりとりは、ただの「余裕の表れ」としか捉える事が出来ない。それぞれの武器を構えつつ、シフと闇の闘士はごくりと固唾を呑み、糞山の王はぎりりと歯を噛み締める。
「これは―――そのベルゼブモンは、そのエインヘリヤル―――ライダーの宝具です! パートナーを宝具とする事で、ほとんど予備動作も無しに……!」
「宝具にしては妙にぬるりと呼び出せると思ったら、そういう原理だったのね」
「……」
一瞬沈黙を挟んで。しかし解析を続けていた名城はすぐさま気を取り直す。
「しかしその酷く目つきの悪いベルゼブモンで、真名は特定できました」
「もっと他に判断材料あっただろ!?」
「出典『デジモントライアングルウォー』、魔王陣営の『選ばれし子供』にして、ベルゼブモンのパートナー―――風峰冷香!!」
名城に名前を言い当てられ。
ライダー―――風峰冷香はふぅ、と艶やかっぽく息を吐く。
「目つきが悪いパートナーを持つと損しちゃうわね。せっかくかっこよく名乗りを上げるパターンを19個ぐらい考えていたのに」
「キリ悪いな!?」
真名がバレたのはそもそも本当に自分のせいなのかと思いつつ、ベルゼブモンが声を張り上げる。冷香の振る舞いを見るに、もっと他に気付ける場面はあった筈だろうと思いながら。
だが、冷香は。
モンスターマシンを駆るライダーは、魔王(パートナー)の疑問すらも置き去りにして、疾駆する。
「バレた以上は仕方が無いわ。行くわよベヒちゃん、あとベルゼブモン」
「ついで扱いするんじゃねえ!! だが、言われるまでもねえ」
食い尽くしてやる、と、ベルゼブモンが、改めてベレンヘーナを構える。
ベヒちゃんと呼ばれたベヒーモスも、冷香の命を受けて、マフラーから黒煙を吹き出した。
「今回は魔王陣営じゃなく、とある兄妹に助力する「お姉ちゃん」として―――」
しかし冷香は口上を途中で切り上げ、深く身を屈めると、クラッチをしっかりと握りしめ―――そのまま、建物の壁を垂直に駆け下り、平地を走るのと何ら変わりなく、三角達へと突貫する。
「『エーヴィッヒ・シュラーフ』―――っ!?」
咄嗟に『断罪の槍』を構え、ベヒーモスへと突き出す闇の闘士。
だがその穂先はベヒーモスのフロントとかち合う事すら出来ずに、ほとんどこのマシンが超高速で彼女の隣を走る抜ける際の風圧のみで槍の勢いを殺し、跳ね上げる。
「『ツヴァイ・ズィーガ」
「遅え!」
ならば疾さで、と『リヒト・シュベーアト』を構えたシフの前にはベルゼブモンが割り込み、彼女の腕を蹴り上げる。
がら空きになった胴には既にベレンヘーナの銃口が突きつけられており―――
「『ダブルインパクト』ォッ!!」
すんでの所でもう一体のベルゼブモンである糞山の王が冷香のベルゼブモンを撃たなければ、シフの腹には風穴が空いていた事だろう。
一度跳んで銃弾を回避したベルゼブモンは、シフと糞山の王へと左右のベレンヘーナをそれぞれ向け直し、今一度その引き金を引いた。
(重い―――!!)
光の刃はどうにか魔弾を捌き、焼き切るが、弾丸の一発一発が、まるで巨大なハンマーで殴られているかのような衝撃を持ち合わせていた。
回避も防御もすぐに間に合わなくなると、冷や汗がシフの額を伝う。
ならばこちらも攻撃に転じるまでだと、シフよりも戦闘に慣れている糞山の王が撃鉄を起こせば、それを妨害するかのようにベヒーモスが走り込んでくる。
回避自体は不可能では無い。だが、回避のために全ての動作を取り止めざるを得なくなる。
とある漫画家は言った。
歩兵が騎兵に挑むのは、徒歩のカップル達が、巨大な原付と戦うようなものである。と。
今こそ、まさにその状況。
味方も一騎当千のエインヘリヤルとは言え、その性能や体格差といった部分までを簡単に覆せるわけでは無い。馬や巨大な原付どころか巨獣の名を冠するバイク型マシンに跨がった騎兵は、完全に彼らの戦況を翻弄しているのだ。
いや、この場に居るシフ達だけに限った話では無い。
今まさにヒトミ達が交戦しているデビドラモン達もまた、この規格外の騎兵を慕い、集った『乗り物』達。
「く……っ!」
火球にもひるまず、世代差にすら怯まず。攻撃の合間を縫って彼女に迫ったデビドラモン達は、スキルで透明化こそしているもののその存在感を隠してなどいない火の出所―――四大竜にも数えられる、デジタルワールド最凶の邪竜メギドラモン(もっとも、究極体となったパートナーの事も、ヒトミは「ギギモン」と呼称するのだが)には目もくれず、ただただ幼い少女目がけて、その赤い爪を振り上げ続けていた。
『選ばれし子供』のパートナーデジモンは第一に、何を差し置いても己のパートナーを守ろうとする生き物だ。少なくとも、世間一般にはそのように認知されている。
ギギモンは、何があってもヒトミを守り切るだろう。
しかしそのためには、いくら腕の一振りでいなせる格下相手とはいえ、この数が皆捨て身の特攻を行えば、防御に意識を割く必要が出てくる。攻撃に転じる割合が、徐々に削り取られていく。
そうなれば、デビドラモン達は更に攻勢に出る事が出来る。……少なくとも、再三言う通り性能が戦闘向きでは無く、飛行能力を持たない馬門やエビバーガモン達の対処が間に合わなくなるのも、時間の問題だろう。
ライダー一騎に。
戦場は、支配されてしまっている。
「シフ!」
で、あれば。
もはや温存などとは言っていられない。
テイマーとして、三角は必要なカードを切らなければならなかった。
「宝具を!!」
「はい、先輩!!」
そしてシフは、パートナーデジモンとして彼の『意志』に応える。
(どうか、力を貸して下さい、所長―――!!)
その仮初めの宝具に名を与えてくれた人に、祈りながら。
シフは一度、ヴォルフモンの姿を解く。
「させるかよ!」
「させねエよ!!」
シフを妨害しようと彼女にベレンヘーナを向けるベルゼブモンへと飛びかかり、鉤爪を突き立てる糞山の王。
鬱陶しい! と、彼を引き剥がすべくベルゼブモンも己の爪を糞山の王脇腹へと沈み込ませた。
「大王様!」
「俺様はいいから今はそっちに集中しなサマナーもといテイマー! いい女のガンバリには応えてやるモンだろ!?」
「……っ、はい!」
紋章が熱を帯びる。
身体の中を、エネルギーとしか形容できないものが駆け巡る。
「宝具、展開します―――『仮想宝具 疑似展開/電子人理の支柱(ロード・ラタトスク)』!!」
留めきれなくなった力―――ラタトスクから三角を媒体に出力されたリソースは、ついにシフに向けて飛び出し、彼女の身体を光で包む。
―――やがてその場には、バトルスーツ姿のシフが、相違点Dでエンジェウーモンを倒した際と同じ白い輝きを纏いながら、二刃で構成された、黄金の大型剣を携えていた。
「……!」
だが、それは相違点Dの時のように、2つのデジモンの力を併せ持つ存在では無い。
人と、獣。2つのスピリットの力を纏った闘士―――英文学最古の叙事詩。その英雄の名を冠するデジモン・ベオウルフモンそのものである。
この相違点でのシフは、あくまで光の闘士と、定義づけられているらしい。
本音を言えば、その点に関してシフは思うところがあったが―――今は、それを気にしている場合では無かった。
「『ツヴァイハンダー』!!」
一瞬でベルゼブモンへと肉薄し、亜高速で黄金剣『トリニテート』を振るうシフ。
だが黙って斬られる暴食の魔王では無い。『トリニテート』の切っ先は僅かにベルゼブモンの肩口を捉えたが、剣の側面に叩き付けられたベレンヘーナの銃床がその軌道を逸らしてしまう。
……とはいえ、悪魔の名を冠するベルゼブモンに対して、相反する『光』の刃はより強い力を発揮する。かすり傷に過ぎない切り口からは、肉の焼ける音と共にうっすらと煙が立ち上っていた。
「鬱陶しい……!」
「その言葉、そっくりそのまま返してやんよォ!」
シフの隣まで退避した糞山の王が、彼女と三角を交互に見てからりと笑う。脇腹に空いた指の形の穴からはだらだらと血が零れていたが、まるで気にする素振りはみせていない。
三角は未だ焼けるように熱い右手を押さえながら、それでも反撃開始だと、糞山の王に向かって大きく頷いた。
「……ひょっとして戦況、あんまりよろしくない?」
ベルゼブモンのただでさえ悪い目つきが更に吊り上がったのを見て、ベヒーモス上の冷香がぽつりと呟く。
彼女は確かに、ライダーとしても過剰かつ異常な騎乗スキルの持ち主だ。
だが同時に、彼女の「戦闘スキル」そのものは、現代基準で一般的な中学生レベル―――ようするに、年相応の素人に過ぎない。
故に、風峰冷香には判らない。戦況が引き続き有利なのか、形勢が向こうに傾いているのかさえ。
「カザミネ レイカ!」
「わお」
シフの宝具に気を取られ、僅かに生まれた隙を付いて。カイザーレオモンにスライドエヴォリューションした闇の闘士が、魔獣のバイクを追走する。
「貴女は先程から、こちらを牽制しても攻撃らしい攻撃は行っていない」
「……見る人が見るとバレるのね、やっぱり」
「戦闘そのものを、望んでいないのではありませんか?」
闇の闘士の問いかけに、冷香は応えない。
だが、沈黙は何よりも雄弁な回答であった。
「貴女は、「とある兄妹に助力している」と言いましたね」
闇の闘士は、さらに続ける。
「兄妹―――京山玻璃の望みが「兄の望み通りに生きる事」だとして」
問いかけると言うよりは、どこか縋るように。
「兄―――マスター―――京山幸樹はっ! 何故そうまでして、妹(わたし)の暴虐を許すのですか!?」
不意に、ドリフトで振り返りながら、ベヒーモスがその場に停止する。
「!」
「そう、……そう。やっぱり貴女、ただの『闇の闘士』じゃないのね」
冷香と闇の闘士の視線が
三姉妹の長女と『鋼の闘士の妹』の眼差しが、交差する。
「答える前に、こちらからも1つ聞かせてちょうだい。……貴女は、どうして『彼』がそんな真似をしていると思っているの?」
背後では、シフと糞山の王がベルゼブモンと応戦している。その更に向こうでは、大量のデビドラモン達を、ギギモンが焼き払っている。
だというのに、この空間ばかりは、酷く静かで。
「……マスターは」
ぐっ、と。拳を握る代わりのように、カイザーレオモンの爪がアスファルトを掻く。
「相違点の京山玻璃が―――私が、そう願ったせいで。私ばかりに都合が良いように、捻じ曲げられてしまったのではありませんか?」
マスターを返して欲しい。
自分が聖解にかける願いがあるとすれば、それ以外にあり得ない。
そしてその願いが許されるとすれば。
京山幸樹がセフィロトモンによるエンシェントワイズモンと暗黒の海の封印を解いてまで自分の元に戻って来るとすれば。
「妹の幸せのために妹を置いて行く」という、何よりも辛く厳しい選択をした彼は、もはやどこにもいないという事になってしまう。
ただただ妹(自分)の目先の願いばかりを叶える機構と成り果て、最悪の形で尊厳を蹂躙された京山幸樹と、そんな彼の歪められた愛情を額面通りに受け止めて、最悪の形で応えようとする京山玻璃。
そんなシナリオが、この相違点の基盤なのではないか、と。自分でも気付かないうちに震えた声音で、闇の闘士は冷香へと問いかけた。
「……」
すっ、と、冷香が目を閉じる。
瞼の裏を過るのは、闇の闘士の『兄』が彼の『妹』に抱く感情となんら遜色無い愛情を傾ける、彼女自身の妹達。
「……そう」
そうして次に冷香が目を開いた時。
彼女はそれまで貫き続けていたポーカーフェイスを、崩していた。
「だったら、私は貴女をこの先に進ませる訳にはいかない」
ベヒーモスが低く、低く唸る。……もう先程までの風峰冷香で無い事は、それだけで十二分に伝わってきた。
「「妹がどれだけ可愛いか」が解らない貴女に、あの兄妹を引き裂く権利は無い」
「!」
「代わりに教えてあげるわ」
思わず身じろぐ闇の闘士を、冷香は真っ直ぐに睨み付ける。
「私がこの世で一番嫌いな死に方を。―――今からそれで殺してあげる」
それは―――覚悟を決めた眼だ。
刹那、『ベヒーモス』がほとんど予備動作も無しにトップスピードへと加速する。
「っ」
闇の闘士はどうにか横に跳んで突撃してきた『ベヒーモス』を躱す。躱したが―――
「―――!」
掠めただけの肩口の銃身が真っ二つに折れ、根元の装甲に深い亀裂が走る。
―――宝具。
『選ばれし子供・風峰冷香』ではなく、『ただの無力な子供・風峰冷香』であるからこそ具現化させてしまった宝具。
冷香は一度戦場の彼方まで走り去る。
当然、逃げたのでは無い。本来であればモンスターマシンにそんなものは不要だが、一中学生の感性的には、乗り物の加速には助走が必要となるために。
そも、『彼ら』は遠くから、見えないところから、油断したところへとやってくる。
これは風峰冷香にとって、最悪の運命を再現した宝具だ。
「宝具展開。真名解放―――我こそが母に死をもたらした死神(あくま)!」
ベヒーモスが折り返す。
あとは、真っ直ぐに走るだけだ。
「今こそ疾走せん! 『疾り去りぬ母の死の運命(ベヒーモス・オーバーラン)』!!」
空気が、爆ぜた。
風圧で周囲の建造物を粉砕しながら、死んだ夜の町を轟音と共に巨大バイクが駆け抜ける。
闇の闘士はスライドエヴォリューション・ユミルでレーベモンへと姿を切り替え、『贖罪の盾』を構える。
装甲の壊れたカイザーレオモンで対峙するよりは、という判断ではあったが、まるで敵わない事は火を見るよりも明らかで。
冷香の言葉や感情の真意も、闇の闘士には解らない。
ただ、「「妹がどれだけ可愛いか」が解らない貴女に、あの兄妹を引き裂く権利は無い」だなんて。……もはや京山幸樹にとっての妹は、ダスクモン(『彼女』)だけなのだと。そんな考えばかりが頭の中で渦を巻いて―――
「ランサー!!」
「! 三角!?」
闇の闘士の隣に、三角が並ぶ。
こんなところに来られてしまっては、確実に冷香の宝具の巻き添えを食らう。自分では守り切れず、だからといって、もはやシフ達のいる方に投げて返す事も出来ない。
そもそも、シフと糞山の王の戦況も引き続き芳しくは無い。
『トリニテート』の威力は『リヒト・シュベーアト』とは比べ物にならなかったが、小回りの効く二刀よりも、大剣の一振りは軌道が読まれやすい。加えて『ベレンヘーナ』の撃ち時を、ベルゼブモン本人が心得ていない筈も無く。
決定打には、至っていないのだ。
この状況で、何故私のところに?
人類最後のテイマーが、みすみす己を危険にさらすなんて。
必要性を感じない。合理的では無い。
闇の闘士が抱いた疑問は―――くしくも、ダスクモンに対して覚えたものと同じ。
「紋章を以て命ずる! ランサー、「負けないで」!!」
そして三角は、彼女の言葉にすら無かった問いかけに、ただ、命令とはとても言えない鼓舞を以て応える。
「―――!!」
その瞬間、リソースと共に、三角の思いが闇の闘士へと雪崩れ込んでくる。
―――『デジモンプレセデント』を読んでいない俺には、ランサーのお兄さんがどんな人なのかなんて、本当のところは解らない。
―――でも。ランサーが。ランサーにとって彼女のお兄さんが『誇り』だっていうのは、俺が実際に聞いた言葉だ。
「三角ッ!! 解っているのですか!? シフ以外のエインヘリヤルに紋章を使うという事は―――」
「解ってます! でも俺は」
―――否定したくない。
―――否定されたくない。
「それが俺に出来る事なら―――ッ!!」
―――ランサーの『物語』を、ここで終わらせたくなんか、無い!!
紋章の3分の1―――二等辺三角形の部分が、光と共に僅かな痕跡だけを残してかき消える。
「……そうですね」
闇の闘士は、スピリットによる進化を解除する。
残されたのは、いくら背丈が伸びたのは言っても、人の身でしかない幼い少女。
「この期に及んで、未だマスターに甘えていたのは、私の方だったのかもしれません」
だが、それで良かった。
それでこそ、彼女は己の名を名乗れる。
「マスターが胸を張って帰ってこられる未来を守る。……私はそのために、この盾を手に取ったのですから」
ランサーは己の左腕を掲げる。
それは、盾を持つ手。
盾を託された手。
左手首に装着していた鏡―――『イロニーの盾』が、三角から供給されたリソースと、そして何より彼女自身の意志に応えて、円盾としての姿を取り戻す。
「我が真名は京山玻璃! 闇の闘士にして、鋼の闘士の後継者(いもうと)。十闘士の盾!!」
ランサー・京山玻璃は、迫り来る『ベヒーモス』を前に、そして隣に並ぶ三角に向けて、己が真名を高らかに謳い上げる。
「そして、貴方の盾です。我がテイマー」
「いいわ! そこまで言うなら確かめてあげる!!」
冷香もまた、明らかに雰囲気の変わった彼女を前に、『ベヒーモス』のギアを上げる。
「私の『お姉ちゃんパゥワー』が勝つか、『妹パゥワー』が勝つか―――勝負よ、京山玻璃!!」
「チッ……いつになくアツくなってやがるなあのガキ」
玻璃と冷香、両者の衝突を間近に控えたその一方で、シフと糞山の王と交戦していたベルゼブモンが、パートナーの方へと振り返る。
相違点を形作る聖解を介して召喚された冷香には、魔王であるベルゼブモンの召喚を長時間維持できる程度には莫大なリソースが分け与えられているものの、宝具の同時展開ともなれば、本体では無いベルゼブモンの取り分は少なくなる。
もう少し長引けば危ないところだったかもしれないな、と。彼は足下に横たわるシフと糞山の王をちらりと見下ろした。
「うぅ……っ」
シフの宝具を以てしても。同種の力を以てしても。『選ばれし子供』と繋がっている魔王の力は絶大だった。
変身こそ解けていないものの、立ち上がろうと地面を押す手に力を込めるのがやっとのシフ。
いよいよ『ベレンヘーナ』の弾丸を身に受け、人間の姿に戻ってぴくりとも動かない糞山の王。
「まあいい、時間だって言うなら、ここまでだ」
元々得物をいたぶる手合いでも無い。
止めを刺そうと、暴食の魔王は二丁拳銃の銃口をシフと糞山の王、それぞれに向けて持ち上げ―――
―――ずどん、と。鈍い音が響き渡る。
「……あ"?」
それが己が引き金を引くよりも早く鳴った事。
穴が空いたのが、己の胸の中央だと気付いた瞬間には、もはや手遅れであった。
「俺様ってば、器用だろ?」
魔王の三眼が見開かれる。
半身を起こした糞山の王が、変身の解除と共に消失した筈のベレンヘーナを握りしめていたのだ。
銃口からは、か細く煙が立ち上っている―――間違いなく、この一撃は、この銃から放たれた物で。
何故、と困惑するベルゼブモンの赤い瞳が次いで捉えたのは、うずくまるような倒れ方をしていた筈の糞山の王の足下。
その膝から下だけが、ベルゼブモンのホルスター付きのブーツへと変貌していたのだ。
「―――ッ!!」
ベルゼブモンは見誤っていたのだ。否、普通であれば、デジモンから人間の姿への変化は、デジモンにおける退化のようなものであると考える。
だが、糞山の王のそれは違う。彼は、ベルゼブモンの力を完全に掌握しているのだ。
故に糞山の王は、上位の存在に進化して戦っているのではない。支配下に置いたこの魔王を、文字通り手足として使役しているのである。
エインヘリヤルとしてのスキル名は、『変化』。
ダメージの限界を超えて変身が解けたのでは無い。己を食らおうとした神魔を逆に食らい尽くすような精神の持ち主が、人の身なら死んでいるような攻撃を何発もその身に受けたところでそんな醜態を晒す訳がない。
決定打を叩き込むためにわざと姿を切り替えて、文字通りこの魔王を「化かして」見せたのである。
「て、めぇ……!!」
衝撃に仰け反る身体に、ベレンヘーナの照準がズレる。
それでも。
デジコアに風穴を開けられてなお。あとコンマ数秒の時間があれば、ベルゼブモンは体勢を立て直し、改めて引き金を引けただろう。
だが、その僅か過ぎる隙も、『光』の速度であれば、十分なものであった。
右腕に対して一回り大きい左腕が、がばりと開く。
それは遠距離戦用のミサイルポッド『ロラント2(ツヴァイ)』―――追尾ミサイルを搭載した、レーザー砲である。
「―――ッ!!」
「『ダブルインパクト』!!」
「『リヒトアングリフ』!!」
銃弾とミサイルの雨が、ベルゼブモンへと降り注いだ。
「これは私の罪。私を闇たらしめるもの」
けして私の背から出ないように、と。
契約を交わしたテイマーを背に回し、京山玻璃が詠唱を始める。
獣の唸り声どころか咆吼と化したエンジン音にさえ掻き消される事無く、少女の声は、水晶のように涼やかに響き渡る。
「ですが同時に、大切な約束でもあるもの」
―――力を貸して下さい、お兄ちゃん。と。
今度こそ玻璃は、己の自慢の兄に祈る。
「『贖罪の盾(オフセットリフレクター)』!!」
刹那。『イロニーの盾』と『ベヒーモス』が激突する。
「はああああああああああ!!」
「だああああああああああ!!」
闇夜に光が迸る。
『ベヒーモス』は玻璃を轢き潰そうとホイールを回転させ、火花を巻き上げる。
『イロニーの盾』はその威力を、勢いを、そして冷香の騎乗スキルが『ベヒーモス』から引き出す限界そのものを、内に込めたデータによって相殺し続ける。
まるで、罪を許すかのように。
「……なんだ」
薙ぎ払われたデビドラモンの合間から、神原ヒトミが盾を掲げる京山玻璃を見下ろす。
「ちゃんとカッコいいじゃん」
ひそめ続けていた眉をほんの少しだけ開いて、少女は僅かに微笑んだ。
……やがて、勢いを完全に殺された『ベヒーモス』を、すかさず取り出された『断罪の槍』が真っ直ぐに貫く。
この軌道であれば―――恐らく、冷香も無事ではいられないだろうと、理解しながら。
それでも、この場では互いに、彼女達は戦士であるが故に。
「……最後にお姉ちゃんあがきさせてちょうだい、玻璃」
玻璃は冷香の言葉を促さず。しかし遮りもしなかった。
ただ、彼女がその後続けた言葉に「それは」と問い返そうとして―――
「最後にこれだけは覚えておきなさい」
冷香は二回目の最後の言葉を口にする。
「私が死んでも第二、第三の風峰姉妹が現れるわ」
グッナイ!
その台詞と同時に、何らかのボタンをぽち、と押す冷香。
次の瞬間、『ベヒーモス』が爆発する。
「!?」
実のところ冷香が押したボタンに大した意味は無い。単純に『ベヒーモス』そのものが心臓部を貫かれて限界だったのだ。
ただ、それを合図にして、デビドラモン達も三角達の上空スレスレを飛びながら、一斉に京山デジモン研究所周辺から引き上げていく。
「先輩!」
「三角!」
その背中を見送って―――いよいよ極度の疲労を堪えきれなくなった三角が、その場に倒れ込む。
駆け寄る一同。負傷が原因では無いと補足する名城。現場は慌ただしい空気に包まれた。が―――
それでも、先程までの騒音が嘘のように。
彼らがこの相違点でようやく1つ得た勝利は、夜の静けさに彩られていた。