「来ると思ってたよ、私の偽物」
京山玻璃と京山玻璃
闇の闘士と闇の闘士
数日ぶりの対面だ。……まだ、数日しか経っていなかったのだなと、ランサーの京山玻璃―――ライヒモンは、頬を緩める。
たくさんの事が起きた。
辛い事も、悲しい事も、たくさんあったけれど。
「ある1ヶ月」のように、輝かしい日々を。
「ここまで来ました」
「……なあに? 気色の悪い。面構えだけは一丁前にそれらしく仕上げてきたみたいだけれど―――虫唾が走ります。お兄ちゃんの邪魔をする小悪党らしく、いつまでも惨めに怯えた顔だけをしていれば良いものを」
「そんな顔をマスターには合わせられませんから」
それに、と。
未だ断罪の槍の切っ先を向ける事はせず、ライヒモンは左手で、セイバーの京山玻璃―――ダスクモンを指し示す。
「ようやく割り切れた、とでも言いますか」
「はぁ? 何を」
「『貴女』の正体について」
「……決まっているでしょう。私は京山玻璃。お兄ちゃんの妹。貴女はただの―――」
「ずっと引っかかっていたんです。雲野デジモン研究所の周辺集落を襲撃した貴女が、「この世で一番嫌いな虫はカブトムシ」と発言した件が」
「……は?」
思わぬ話題に、ダスクモンが言葉を失う。
あまりにも些細な疑問。ダスクモン本人でさえ、言われるまで忘れていた、意識すらしていなかった発言であるが故に。
それを好機とみて、ライヒモンは更に続けた。
「だって、私。別にカブトムシ、嫌っていませんから。……いえ、もちろん貴女が言い表したかったのは、コガネムシ科カブトムシ属に所属する昆虫についてではなく、雷の闘士の器―――ハタシマさんの事であると理解しています」
その上で、「世界で一番」と断言する程、彼の事を嫌ってはいないと。
ライヒモンは、静かに主張する。
呆然と、唐突な告白に目を見開いていたダスクモンは、しかしようやくライヒモンの台詞を飲み込んで、ふんと鼻を鳴らしながら彼女をにらみつける。
「何? やっぱり「自分は薄情な偽物です」って告白? 柳花とピコデビモンにあんな酷いコトしたような奴を「嫌いじゃない」って? そんなの―――」
「もちろん、彼が柳花達にした事は許せません。ですが」
―――向こうの闇の闘士が、カブトムシが―――つまりハタシマさんが大嫌いだと発言していた?
思い返されるのは、彼女がシフに続いて馬門を訪ねた、ネオヴァンデモン戦後の夜中の出来事。
首をかしげる、馬門の姿。
―――それはおかしくない? いや、ボクはあの人の事嫌いだけど。それはどうでもいい? それはそう。……何にせよ、キミがボクやホヅミさん、セラさんなら兎も角、ハタシマさんを蛇蝎のごとく嫌うのは、ちょっと違和感があるな。だって―――
「あの研究所でマスターを除いて私を唯一気にかけてくれていたのは、他ならぬハタシマさんですよ?」
「え?」
「覚えていませんか?」
1999年のヴァンデモンによってデジモンにトラウマを植え付けられ、彼らを人間の世界に混乱と恐怖をもたらすものとして排除を試み、テロリストとして活動していたキャラクター。それがハタシマだ。
独善的な思想から作中で柳花達を追い詰めた彼だが、デジモンの都合で生み出され、好き勝手に人生を捻じ曲げられているように見えていた玻璃は、むしろ哀れみの対象であった。
……この『設定』は、本編に反映されてはいない。作者がSNS等でふと呟いた、いわゆる「こぼれ話」の類だ。
だが、『デジモンプレセデント』という作品の中を生きてきたライヒモン(この玻璃)は、その事を知っている。もちろん直接的に玻璃を構う事は無かったが、彼女を虐待しようとする風の闘士の器・セラをそれとなく追い払う姿くらいは、記憶している。
だから、「あの頃」よりも成長した玻璃がハタシマに覚える感情は、嫌悪よりも哀れみの方が強い。
彼だって、道を踏み外さなければ。踏み外した後でも何かきっかけがあれば、救われる方法もあったキャラクターだったのではないか、と。
「馬門の言う事なんて信じるの!?」
「それを言われると流石に思うところはありますが……不本意ですが、フォローしておきましょう。アイツはカスなりに、真実を改竄したりするカスではありませんから」
そして、ダスクモンの反応を見て、ライヒモンは確信する。
ダスクモン(向こうの玻璃)の霊基には、『『デジモンプレセデント』本編』の記録しか刻まれていないのだと。
そうして、この相違点で常に彼女に付きまとっていた『違和感』が、ようやくひとつの線(物語)として繋がる。
「私は、そして貴女は、確かにお互い、京山玻璃。……でも、私は私で、貴女は貴女です」
だから、臆する事は無い。
気後れする事も無い。
「エインヘリヤル、ランサー・京山玻璃!」
故に、ライヒモンは堂々と真名を名乗る。
「私は貴女を倒します、セイバー・京山玻璃」
怒りでも、拒絶でも、ましてや憎しみのためにではなく。
「マスターに―――お兄ちゃんに、妹(私)の『心』を、伝えるために!!」
京山玻璃は、槍を掲げる。
「やれるものなら」
対して。
深紅の剣―――ブルートエヴォルツィオンを構えるダスクモンは、怒りに、拒絶に、そして憎しみに声を震わせる。
「やれるものなら、やってみなさいよぉッ!!」
どこか、悲鳴のように。
剣と槍。
京山玻璃と、京山玻璃。
闇の闘士と闇の闘士が、この瞬間。お互いの武器を、『心』を、激突させる―――。
*
「スノーボンバー!!」
一見ただの雪玉に見えても、チャックモンの持つランチャー『ロメオ』から放出されるそれは、超硬度の氷結弾。人間どころか特殊な装甲や皮膚を持たないデジモンであれば、当たっただけで身体をズタズタに出来るような代物だ。
それが敵陣営のアーチャー・逢坂鈴音に向けて一斉に放たれ―――その全てが防護膜を前に砕け散るのを見て、チャックモン―――馬門は考える。
詰んだな、と。
「ラタトスクも案外不親切なんだね。私達の『盾』については伝えていなかったのかな」
「聞いてたさ! でもやっぱり、物事は実際に試してこそだろう?」
「それはそうだ。で、あれば。あなたの学者然とした態度に一学生として敬意を表して、今一度情報を詳らかにしておこう。「私には攻撃は通らない」……勉強になったかな?」
「ナニサマ」
逢坂鈴音の―――というより、彼女の出身作である『X-Traveler』の、トラベラーと呼ばれる『モンスター』との契約者達は、いくつか共通のスキルを所持している。
そのひとつがこの防御膜・『契約盾守』スキル。
契約モンスターが存在している限り、この世界の一般的な感性で言うところのテイマーを狙った攻撃を、自動的に展開される防御膜が防いでくれるというものだ。
「まったく、こっちは身ひとつでやってるんだぞ? インドア派の人間が、筋肉痛に悩まされながら!」
「それはご愁傷様。やはり体力を養うという意味でも実地研究には大いに意味があると、一種の反面教師として記憶しておこう」
「いっひっひ、学びがあったならそれは何より!」
照準をモンスター―――キャノンビーモン・アハトに切り替え、泣き言のように馬門は再びロメオの引き金を引く。
「ウットウシイ」
だが、いくら「超硬度の氷結弾」などと謳っても、本物のロケット弾に敵うような代物でもない。
アハトのコンテナから放たれた1発で雪玉は丸ごと爆散し、後に続いた数発が馬門に向かって降り注ぐ。
「うひゃあ!」
靴底をスキー板状に伸ばし、たまらずその場から退散する馬門。
宝具は、ダブルスピリットエヴォリューションは使用していない。故に本来であればスキー板など十全に力を発揮する筈が無いのだが、そこは氷の闘士だ。板の裏側を凍らせる事で地面を滑り、機動力自体は確保に成功している。
(とはいえ逃げ回ってるだけじゃ何の解決にもならないんだよな。第一、アーチャーから逃げ切れる訳が無いし)
詰んでいる、という認識は抱いたまま、それでも自称ポーラー軍の極地区防衛部隊所属軍曹の眼はぐりぐり動いて周囲を冷静に観察し、なけなしの策を練る。馬門の数少ない強みと言えば、強みであった。
(策はある)
エインヘリヤル同士の戦いにおいて、相手の真名や宝具を事前に知る事によって生まれるアドバンテージは計り知れないものがある。
ラタトスクからの情報提供を受けての作戦会議中、馬門が鈴音の担当を名乗り出たのも、交渉の件の他にも彼女とアハトの対処法が頭に思い浮かんでいたからに他ならない。
(問題は、ボクが思いつくような事は、相手だって思いつくってところなんだよなぁ)
馬門がミサイルを躱しながら鈴音やアハトを観察しているように、鈴音も逃げ回る馬門をつぶさに観察している。
好奇の眼差しであると同時に、冷静な状況を処理している目線。
『契約盾守』による疑似的な安全地帯と、強力なパートナーによって支えられた、テイマーの、視点。
実際、アハトはコンテナから無数の弾幕を張りはしても、今現在馬門の「欲しい」一撃を、一度たりとも放っていない。
鈴音の指示があるに、違いなかった。
「いいな~。強いデジモン、いいなぁ~!」
「何だい? 藪から棒に」
「それだけ強く育てられたって事は、きっと仲が良いんだね、キミ達! それこそ姉妹みたいに!!」
「イラッ」
「……あれ?」
心なしか―――いや、目に見えて、否、かなりあからさまにコンテナから発射されるミサイルの量と勢いが増す。
「あれあれ? ボクってばまた余計な事言っちゃった?」
「シラジラシイ」
「いやマジでそんな意図は無かったんだけど!?」
「ドウデモイイ。ドッチデモ、カス」
ちょうど馬門の背後に着弾したミサイルによって、十闘士の中でもかなり小柄なチャックモンの身体が大きく吹っ飛ばされる。
「わっ」
咄嗟の事に引っ込め損ねたスキー板からのアスファルトへの着地。
ばきん、と、裏に張り付けていた氷ごと、板の前半分が真っ二つに折れる。
「マズイマズイ」
すぐさま氷を付け足して、形だけは元通りに整え、馬門は再び地面を滑り始めるが―――「追いつかれた」事実が雪の身体に寒気を走らせる。
「彼の動きにも慣れてきたのかな? じゃあ、そろそろこちらもひとつ手札を切ろう」
鈴音の右手で、デジヴァイス『X-Pass』が一瞬、光を見せる。
「キャスト」
(ステータスの振り直し―――!)
エインヘリヤルのスキル名としては『変容(簡易)』。
モンスターの能力値を、一時的に振り分け直すスキルだ。
本来耐え切れないような攻撃を耐えたり、とどめの一撃のために『力』を1点に集中したり。
(上昇させるのが耐久じゃない事だけは確か。敏捷か? それとも筋力―――いや、ミサイルの攻撃力って筋力と魔力どっち由来だ? いやまあどっちにしたって攻撃力が上がるなら大差は無い……かな)
馬門はデジヴァイスを取り出す。
「ダブルスピリットエヴォリューション・ユミル!」
宝具ではなく、あくまで融合闘士の力を用いるために、馬門は2つのスピリットをその身に纏う。
巨大ペンギンサイボーグ・ダイペンモンと化した馬門を前に、鈴音はひゅうと口笛を鳴らした。
「すごいね、ここまで姿が変わるとは。さながら怪獣バトルだ」
「ナンカフホンイ」
「あなたは『キャスト』を面白がってくれたみたいだけれど、私からすれば柔軟に姿を切り替えて戦闘を行える人と獣、その両方の性質を持つスピリットの力こそ驚嘆に値するよ」
「いっひっひ、なんたってこの世界においても聖遺物だからね! でも無条件ではないとはいえ、姿を変えないままデジモンを強化できるっていうのも画期的で魅力的だ。デジモンにかかる負担はきっと最低限だろうからねぇ」
「……ん? となると馬門さんのその『ダブルスピリットエヴォリューション』も、ひょっとしてそれなりに身体への負担があるのかな?」
「おっと、口を滑らせたかもしれない」
馬門は自分の霊基が軋む音に、密かに耳を傾ける。
度重なる負傷に加えて、馬門はラタトスクからのリソース供給を、テイマーを経由せずに済む回復プログラムを含めて全て拒否し続けている。自分に使うくらいなら他に回した方がいいと、本気で考えているからだ。
彼が今現在こうやって動き回れているのは、京山デジモン研究所に保管されていた、デジモンにも使用可能な痛み止めで感覚を誤魔化しているからに他ならない。
自分の負傷が、消滅が。どうでもいいと思える程度には。
馬門は本気で、この相違点をどうにかしたがっている。
つまらないから。
デジモンの進化が死ににくい種に集中し、その上で緩やかな絶滅を待つだけの世界が。
それでデジモンが強くなれるならまだしも、死なないために戦闘そのものを拒否するという、デジモンの『本能』すら衰退した世界が。
本当の本当に、つまらないから。
「『イチゴデス』!」
赤いシロップの染みたコチコチクンが、ミサイルを迎撃する。
「『ブルーハワイデス』!」
続く第二陣も、青いカキカキクンで斬り払う。
仮にもセイバークラス。ダブルスピリットを抜きにしてもロメオよりも強力な補正が乗っているらしい棒アイスの剣で怒涛の弾幕を搔い潜りながら、馬門はキャノンビーモンに向けて前進する。
「巨大アイス、というのは少々そそるけれど……少し冷えてきたから、仕事終わりには京山さんに、ぜんざいでもお願いしようかな」
「カタいコト言わないで、今アイスを『喰らって』くれて一向に構わないんだけどね!」
キャノンビーモンの脅威は、移動要塞じみた武器コンテナが蜂の機動力を所持している点にある。
対するダイペンモンは、見た目よりは動けるとは言っても、やはり陸のペンギンらしく機動力に優れたデジモンとはとても言い難く。
(その上―――やっぱり上昇してるのは敏捷ステータスだな)
いくらエインヘリヤルだとはいっても、ミサイルの弾速そのものを変える事は出来ない。
だが、発射までの動作を詰める事は出来るし、反応速度を上げて敵の動きを予測するために用いる思考時間を短縮する事は出来る。
直撃も時間の問題だな、と。既にミサイルが着弾して焦げ目の付いた羽の付け根に横目をやって、ため息を兼ねた。深呼吸。
嘴の隙間から、馬門は空気を吸い込む。
彼はコチコチクンを握り直した。
「『イチゴデス』!!」
大きく振り被り、しかし次いで打った手は薙ぎ払いではなく、投擲。
一見すると羽の先からすっぽ抜けたようにも見えるコチコチクンは、そんなふざけた形をしているからこそ相手の意表を突いて、ミサイルを砕きながらアハトへと迫る。
「ッ、ジャマ!」
装填後即発射された『スカイロケット∞(ムゲン)』による集中砲火。
持ち手から離れたアイスの剣は、火力を以て迎撃される。いくら超越闘士の膂力をもってしても、セイバーがアーチャーに投擲武器で適う訳が無い。
故に、やはり剣士は剣士として、剣を振るう。
「『ブルーハワイデス』!!」
コチコチクンを迎撃した余波―――爆煙から、カキカキクンを構えた馬門が飛び出す。
速い、と鈴音が視線を落とせば、地面には妙な照りがある。……コチコチクンの冷気で氷の道を作って、馬門はそれを滑ってきたらしかった。
ほとんど無いに等しい、『スカイロケット∞(ムゲン)』の僅かなクールタイム。
ここまで時間を図ってきた甲斐はあったかな、と。馬門は嘴の端を歪つに持ち上げた。
「遠慮なく喰らいなよ―――っとぉ!!」
カキカキクンが、アハトに向けて振り下ろされる。
「ブラスト」
馬門の―――ダイペンモンの巨体が、弾かれた。
「……あれ?」
トラベラー達の持つスキルの一つ、ブラスト―――『怪力』。
筋力の瞬間強化。
アハトは馬門の斬り込みに対して、むしろ前進した。
巨大武器コンテナの突進。その物量だけでも十分に驚異的足りえる「体当たり」。
無傷とはいかない。だが、下手な回避で致命傷だけを避けて巨大コンテナを大きくえぐり取られるよりは、ずっと損傷は抑えられ、加えて武道の心得などまるで無い馬門は、それだけでまともに立っていられなくなる。
「ツミ」
ブラストは副作用として、モンスターの指示に対する反応速度を低下させてしまうが、ここまで来れば複雑なオーダーなど必要無い。
爆殺。
最初から、決めていた事だ。
衝突の反動を用いてアハトは後退する。
零距離ではなく、自身のミサイルによる爆発に巻き込まれない、最適な距離。
集中砲火。
文字通りの、蜂の巣。
最初の着弾でひびが入る。
次の砲撃で穴が開く。
それから数度の爆発を経て―――巨大ペンギンは、粉々に砕け散る。
「……だから、当然消し飛んだものとばかり思っていたのだけれど」
焼け焦げたダイペンモンの『跡地』から少し逸れた位置を見下ろして、鈴音は首をかしげる。そこにはうつ伏せに倒れた馬門が転がっていた。
袖を通した白衣はすす塗れとはいえ、崩れ落ちたダイペンモンから思えばそれらしい怪我すら見当たらない。
彼の左足を除いては。
「そういえば環菜さんが教えてくれたっけ。馬門さんは氷に姿を変えられるって。……で、あれば。大方あのガ〇ガリ君みたいな方に本体を切り替えた、といったところか」
「……」
「だが、こうして意識と足を失っているところを見ると、完全には間に合わなかった、と」
馬門は地面に突っ伏したまま、ぴくりとも動かない。その間にも、イチゴシロップじみた水たまりが、円を描くように馬門の残った左の太ももを起点に広がっていく。
「さて、彼の扱いはどうしようかな。こうして直に観察すると、スピリット、想像以上に興味深いアイテムのようだったし」
「ワタシハイラナイ。スキニシテ」
「じゃあ、解析のための器具もある拠点まで運んでくれるかい?」
「イヤ」
と、アハトがすげなく馬門の運搬を拒絶した、その時だった。
「スズ、シゴト」
不意にアハトが向き直るのは、鈴音達が先に注意していた方角。
空中基地の警護者とデジタルワールドでは定義づけられているアハトの探知能力が、巨大なリソースの消滅を察知する。
「……この方向だと、バーサーカーだね。彼の知識バンクには特に惹かれるところは無かったとはいえ、エインヘリヤルの狂気のメカニズムには多少思うところが―――」
「サッサトオーダーイエ」
一度軽く肩を竦めてから。
「もちろん、下すは一つ」
鈴音の肉眼では捉えられないとはいえ、アハトの照準は既に定まっている。
「見敵必殺(サーチアンドデストロイ)。望み通り墓標の下に沈めてあげよう」
その詠唱(オーダー)を以て、逢坂鈴音とアハトの宝具が展開される。
その命と同じ名を持つ宝具が。
―――『女王指令・見敵必殺(サーチアンドデストロイ)』
バーサーカーのリヴァイアモンが顕現していた位置を取り囲むようにしてアハトから発射された『スカイロケット∞』が遠方へと降り注ぐ。
ただでさえ悪魔獣に壊滅させられていた街並みは完全に塵と化し―――だが、やはりそれだけでは終わらない。
ラタトスクにとっての『最初の町』と同じように。
最後には、最大出力での『ニトロスティンガー』が、全てを薙ぎ払い―――
「『ツララララ~』ッ!!」
「!?」
突如として響き渡る、掠れた声での、どこか間の抜けた必殺技名。
刹那、アハトの大口径レーザー砲の前に苺色の氷の粒が集結し、凹凸の目立つ氷壁を形作る。
「な―――」
「いっひっひ。……ようやく使ってくれたね」
結局、ボクだけでは宝具を切らせられなかったけれど。と。
自嘲気味に、無理矢理に。真っ青な顔で足の付け根に痛み止めのアンプルを突き刺しながら、身体を起こした馬門が笑う。
鈴音の宝具は、アハトの一連の動作―――『スカイロケット∞』と『ニトロスティンガー』のコンボそのもの。
一度オーダーを下した以上、途中で止める事は出来ない。
「……やってくれたね」
レーザーの必殺技を持つエインヘリヤルのところに、氷の能力を持つエインヘリヤルが現れたら。
警戒する『作戦』はただ一つ―――氷によるレーザーの乱反射だ。
「だから、馬門さんには使わないようにしていたのだけれど」
形式通り放たれた『ニトロスティンガー』が氷に激突して無茶苦茶な方向に分散する。……だがその大部分は、馬門自身が氷の形状に施した調整も相まって、撃ち手であるアハトの方へと。
高出力のレーザーがコンテナを撃ち抜く。翅を、砲を焼き切る。……デジコアを貫く。
武器庫が、墜ちる。
「そうだね、さっきも言った通り、結局自力では使わせられなかった」
だが、アハトの消滅にはまだラグがある。
『契約盾守』によって、鈴音がレーザーに焼かれる事は無かった。
「だから―――バーサーカーの相手をしていたなら、セイバーか。彼女には悪いけれど、囮にさせてもらった。この距離からエインヘリヤルを殺そうとすれば、いくら遠距離を得意とするアーチャーといえど、通常攻撃では難しいだろうからね」
「私達は、まんまとそれに引っかかった、と」
だが解らない事もある、と。
馬門ではなく全身から火花を迸らせているアハトに視線をやりながら、鈴音が首をかしげる。
「状況から見て、先程の氷塊は馬門さんの左足だろう? こんな土壇場で、よくそんな真似を試したね。氷のスピリット、あるいは『変化』スキルならそこまでの芸当が出来ると、直感的に理解出来るものなのかな」
「スピリットはそんな親切じゃないよ。でも、出来るっていう確信はあった」
試したからね。多島―――ネオヴァンデモンと戦っている時に、切り離した肉体もまた『氷の闘士』として作用するのかを。
……などと。
雪か氷さえあれば再生できるからさと平然と続ける馬門に、さしもの鈴音も苦笑する。
「これはまた、れっきとしたマッドサイエンティスト様だ」
「いっひっひ。キミもその内、似たような事なら出来るようになるんじゃない? 所謂年季の違いってヤツさ」
「流石に気が乗らないな。……というか、そう歳は変わらないんじゃ?」
「キミ、大学生だろう? ボクはアラサーだから、そんな近いって程じゃない」
「……本当?」
「ホントホント。若く見られがちだけど、肌とかも寄りで見られると結構キツいとこあるし」
「……得るべき事が多い現界だと思っていたのだけれど、最後の最後に恐ろしくどうでもいい情報をインプットさせられるとは。柄にも無く思わずにはいられないよ。流石にバチが当たったのかもしれない、ってね」
「ホントニ、ドウデモイイ」
でも、『ツミ』は受け入れるまで。
そんな事を残された力で消え入るように呟いて、アハトが光の粒子となって消滅する。
「……これで、キミを守るものは無くなった」
「そうだね」
アハトの残滓を目で追っていた鈴音が振り返ると、馬門は既にチャックモンの姿を取っていた。
もっとも、片足を失いバランスを取れないためか、半身は解けかけの雪だるまのように地面に広がっているような有様だが―――氷柱になれば、四肢の有無は関係無い。
「痛いのは嫌だろう? 一撃で決めてあげるから安心して」
「心遣い痛み入るよ」
それではごきげんよう、と。
どちらともなく、どうでもよさげに別れを告げて。
「『ツララララ~』!」
氷の切っ先が、鈴音の霊核(しんぞう)へと真っ直ぐ伸びた。
「……と、ボクは敵陣営のアーチャーを倒した筈なのだけれど」
ひどい着地を決めてから顔を上げると、広がっていたのはアハトのミサイルに蹂躙された廃墟―――ではなく、見覚えのある部屋。
馬門志年が最初に召喚された場所。
ハタシマに受けた傷が元で入院させられていた病院を抜け出して、潜伏していた空き家の一室。
この世界の馬門志年が、死亡していた場所。
振り返れば、案の定。首があらぬ方向に曲がった自分が横たわっている。
……それよりも目を引くのは両手の指だ。
三角には「即死だったから平気」と伝えたが、死因自体は即死でも、その直前―――下手人であると考えられる京山幸樹には、「色々と聞きたいことがあったのだろうな」と、そう思わずにはいられない惨状で。
「とはいえ、びっくりするほど何も感じない」
まあ、こんな死に方ぐらいは当然か、と。やはり馬門は他人事のように自分の死体を見下ろす。
ただ、「両手の指全部」を見て、よっぽどこの相違点が気に食わなかったんだろうなと。そんな所感だけは抱きながら。
「でも、ユキトシはがんばったでしょう?」
ふと視線を上げると、自分の死体の更に向こうに、1体のデジモンが佇んでいた。
ダイペンモンよりもずっと小さく、かわいげのあるペンギンのデジモン―――ペンモンだ。
「だから、もういいんだよ。必要な事はしたじゃないか」
「……」
「だから、もう、休んでも」
「やめろよ、ボク。ペンモンに自分の弱音を代弁させるなんて」
馬門は凍てつく心の持ち主らしく、冷たく吐き捨てる。
そうは見えない程、柔らかく微笑みながら。
「その様子だと、ボクはまだ消滅にまでは至らないらしい」
「でも、これ以上戦うなんて無理だよ」
「ペンモンはボクを引き留めるような事は言わないよ。……結局、最後まで言わなかった」
「ユキトシ」
「だから、ボクはもう行くよ。忙しいんだ。本物のボクは、キミのいない世界で、キミが強くなる方法をこれからも探さなきゃいけないからね」
ペンモンに背を向ける。
振り返らないでいる内に、意識が彼に―――彼らにとっての『現実』へと浮上する。
「……」
「起きたか。見た目の割には、お前も存外に頑丈だな」
「……あのさ、セイバー。聞きたいことが2つ程」
意識の覚醒と共に馬門の視界に飛び込んできたのは、自分を片手で担ぐ、野袴姿の女性―――バーサーカーを撃破したと思われる、クヅルの半身。
「何だ」
「どうしてここに?」
「首を飛ばしたバーサーカーが、消滅寸前にこちらの方角を指さしてな。……奇怪な男だった故罠かと疑ったが、宝具の効果がある内であれば乗ってやるのも一興かと思ってな。……実際には、勝者への手向けであったという訳だ。おかげで1つ難を逃れたよ」
やはり無駄に律義な男のようだなとクヅルが笑う。彼女の弁を信じるのであれば、鈴音の宝具自体からは逃れたようだが―――その口元からは、正直無視の出来ない量の血が滴り続けていて。
「無事でよかったよ。……無事って言って良いの? キミ、今どういう物理法則に則って動いてるんだい? 『黒定理(シュヴァルツレールザッツ)』?」
「急に異国の言葉で喋ってくれるな。それが2つ目の質問か? 同じ事をバーサーカーにも聞かれたよ」
だが結局、クヅルから詳しい返答は無かった。
「……格好悪いなぁ、ボクってば」
結構頑張ったと思うのだけれど、と左足に意識を集中しても、動くものは無い。
……だが、クヅルと比べれば、どう考えても大した負傷だとは思えなくて。
「生き延びたからこその言い分だな」
テイマーの元に急ぐぞ、と。クヅルがとても歩けなさそうな足を平気そうに動かして歩調を早め始める。
馬門は呆れたように乾いた笑みを浮かべながら、「それもそうだね」と力なく彼女の言葉に同調するのだった。
*
「『太陽喰らいの黒き勇者(ヒーローオブソーラーエクリプス)』!!」
「また宝具……っ!」
ヒトミの声が引きつり、震える。
通常、よほどコストの良い、あるいは発動とリソースの回収が一体化しているような仕様でも無い限り、宝具の連続使用はマスターや聖解の協力込みでも不可能に近い。
だというのに、既に3発目。
1度はヒトミとメギドラモンの宝具『六月の龍は眠る、遠い夢の始まりで(メギド・フレイム)』と相殺し合い。
2度目はアヴェンジャー・雲野環菜の消滅直後。
そして、これが3発目である。
ただの『暗黒のガイアフォース』ではなく、わざわざ宝具に切り替えて。
何度でも、黒い炎はヒトミを、メギドラモンを、糞山の王を襲い、彼自身の『心』を見せつける。
復讐者―――アヴェンジャーは、止まらない。
止まれないのだ。
彼らは『自己回復』スキルによって、魔力を回復し続ける。
復讐を果たすまで。己を復讐のための機構にまで作り変えているが故に。
本来であれば、『太陽喰らいの黒き勇者』は負の感情を清算する宝具だ。この宝具を使えば、雲野環菜は原作の逸話通りに、己をアヴェンジャーとして保てなくなる。
だが、彼女のパートナーであるブラックウォーグレイモンは違う。『暗黒のガイアフォース』があくまで彼にとっては「ただの必殺技」であるのに加えて―――その精神性。
尽きないのだ。
怒りが。憎しみが。
火種がいくらでも沸いてくる。最愛のパートナーからではなく、自分自身の胸の底から。
最愛の婚約者を失った雲野環菜には、ブラックウォーグレイモンが―――スカモンが居たけれど。
ブラックウォーグレイモンには、もう、何もない。
「だからって当たんなきゃ意味ねーんだよブアァァァァァアカ!!」
嫌な空気を断ち切り、『ベヒーモス』のエンジン音さえ捻じ伏せる勢いで、糞山の王が声を張り上げ、中指を天に突き立てる。
「もう1体の竜」の咆哮に、はっとヒトミは我に返り、咄嗟に小さな指で黒い炎の球を逃れられる方角を、己の龍に指し示す。
『龍の瞳孔』は、ヒトミの瞳であるからこそ、炎を直視する事は出来ない。
それでも、飛ぶべき方向は判る。……やるべき事も。
髪を巻き上げる熱波に身を震わせながらも、炎が去った後であれば、ブラックウォーグレイモンを取り巻く『状況』を観察する事は出来る。
強力なエインヘリヤルだ。単純な力量に加え、頭も切れると見える。それは間違い無い。
だが、パートナー―――テイマーの視点を失った今、彼は周囲の情報を客観的に取り入れる事は出来ない。故に、ヒトミと糞山の王に対する注意力は均等ではなく、若干の偏りが現れる。
俯瞰の視点を持つヒトミにはよく見えた。
ブラックウォーグレイモンが最も警戒しているのは、メギドラモンではなく、糞山の王。
当然だ。糞山の王はエインヘリヤルの雲野環菜を直接手にかけた相手であり―――彼はまだ、宝具を使用していない。
現に先程の『太陽喰らいの黒き勇者』も、どちらかと言えば糞山の王に狙いをつけられていて。
―――あいつに隙を作ってくれ。
戦闘を再開する直前。糞山の王は、ヒトミにただ一言、そんな指示を寄越した。
作戦らしい話といえば、その程度だ。隙を作れば、糞山の王が具体的に何をしてくれるのか。ヒトミにはわからない。
「男子っていっつもそう。大事なはなしに限って、ひとこともふたことも足りないんだから」
不安を、不満に。軽口に変えて。
「だから、わたしたちがフォローしてあげなきゃ」
素直には無理でも、信頼のあかしとして、あえて口に出す。
「ね、ギギモン」
龍が吼える。
「!」
ブラックウォーグレイモンが顔の正面に来るように急降下したメギドラモンが、開いた大口から鋭い牙を見せつける。
メギドラモンの必殺技は、その両方が口から発せられるもの。宝具が使えなかろうが、直撃を免れない位置に甘んじて良い事などひとつも無い。
金に燃える眼がメギドラモンを捕捉する。
「アナタ達が、先?」
「さあ? でも、おしゃべりは後の方がいいよ」
わたしたち、すっごく強いんだから!
パートナーの言葉を噛み締めるように、がちん! とメギドラモンの両顎が合わさる。
身を翻し、その噛みつきを回避したブラックウォーグレイモンは、さらに1歩その場から引いて、両腕を前に構え、合わせた。
彼の向こうで、糞山の王が大きく頷いたのがヒトミには見えた。
復讐者を制すための一手。その準備が、これから始まるのだろう。―――時間を更に、稼ぐ必要があった。
「『ブレイブトルネード』!!」
最初の襲撃時にも用いられた、己を黒い竜巻に変えての突進。
『ドラモンキラー』という、竜種に特効を持つ武器の力を最大限に引き出す必殺技である都合上、それはひょっとすると、ヒトミ達にとっては彼の宝具よりも警戒に値する技で。
だが、それでも。
その攻撃は、復讐者の胸の内を焦がす炎以外には、『熱』を纏ってはいないのだ。
「ギギモン!」
真っ直ぐに渦を見据え、ヒトミが『龍の瞳孔』を用いてメギドラモンのために指し示したその位置に。
メギドラモンは寸分違わず、大きく体を捻って、ブレード状になったクロンデジゾイド製の腕を半ばのしかかるようにして叩きつける。
「っ」
ぎゃりりりり! と、火花が1回転。
2段に分かれた独特の形状の刃がブラックウォーグレイモンの鎧に引っかかり、彼の回転を無理やりに引き留めたのだ。
ヒトミ達が狙ったのは、ブラックウォーグレイモンのいわゆる『側面』。
攻撃力が『ドラモンキラー』、その先端に集中する都合上、高速回転によってある程度相手の攻撃を受け流せたとしても、それ以外の部分はある程度無防備になってしまう。
ましてやブラックウォーグレイモンとメギドラモンでは、体躯に倍以上の違いがある。物量の差は、単純であるが故に、簡単には覆らない「決め手」と成る。
回転が止まり
このまま地面に押さえつける。と。メギドラモンは、更に体重を腕に傾けて―――
「ふんっ!!」
「!?」
ドラモンキラーの下。
素の手の平で、ほとんど倒れるのを待つのみだったブラックウォーグレイモンが、ブレードに肉が食い込むのも気にせずメギドラモンの腕を掴む。
先に膝をつき、しかし重心を上半身に持ってくる事で衝撃は受け流し―――ブラックウォーグレイモンは、メギドラモンの巨体を「背負う」。
「はあああああああっ!!」
掛け声とともに―――メギドラモンの身体が、熱による上昇気流に関係無く、浮いた。
それはブラックウォーグレイモンが、本当にスカモンにしかなれなかった頃。
攻撃に『足』を用いる選択肢がそもそも存在しなかった頃。
環菜と共に研鑽した、個体の戦力差を覆すための戦闘手段の一つ。
―――投げ技だ。
なまじ体重を預けていただけに、それを「ひっくり返された」衝撃は全身を伝う。
背中から地面に叩きつけられ、メギドラモンの身体が弾んだ。
「っう!」
彼に抱えられていたヒトミもまた、デジタルハザードのマークの上を軽くバウンドし、硬いテクスチャに全身をぶつける。
メギドラモン自身を襲ったもの程では無いとはいえ、小学生が受けるには酷なダメージに、一瞬だけ呼吸が詰まって、視界が白く弾ける。
……そして彼女の世界が再び色を取り戻した刹那。ヒトミの前には、『黒』がそびえ立っていた。
「……っ、やめ」
突き下ろされたドラモンキラーが、メギドラモンの胸を穿つ。
「やめてっ!!」
痛みに呻き、弾んだ胸の上で、メギドラモンの腕にかろうじてつかまりながら、悲鳴のように訴えるヒトミ。
ブラックウォーグレイモンは、ゆっくりと引き抜いた右のドラモンキラーを、感慨無さげに見下ろした。
「ダメね。カンナがいてくれないと。碌に霊核(デジコア)を貫く事も出来ない。……もっとこっちだったかしら」
「やめて! やめてってば!!」
二撃目。
幼いヒトミにも判る。それがけして、メギドラモンの霊核を狙った一撃ではないと。
相手を嬲る事だけを目的とした攻撃だと。
起き上がろうとするメギドラモンを押さえつけるように拳の延長としてドラモンキラーを叩きつけ、振り払おうと伸びたヒトミを抱えていない方の手を逆に振り払い、持ち上げた左手で―――三度目。
「その辺にしとけよ、とんだノーコンカマ野郎がよ」
光が、走った。
「……」
今まさに、鉄槌のように落とそうとしていたブラックウォーグレイモンの左手のドラモンキラーが、肘の上ごと、消し飛んだ。
「こうやって当てンだよッ!」
ガァンッ!! と、破砕音にも似た、金属同士の衝突音。
……弾き飛ばされたのは、打って変わってブラックウォーグレイモンの方。
黒い竜人の居た場所に、黒い羽根が優しく降り注ぐ。
ヒトミはそれが、天使の羽根では無いと知っている。
だけど、悪魔の羽根でも無いと、そう思った。
「悪かった。待たせたな、嬢ちゃん」
スパイクが万に一つも刺さらないよう気をつけつつ、本来であれば拳でそうするように、ブーツのつま先がメギドラモンの胸を小突く。
「よくやった、赤い大きな竜(レッド・ドラゴン)」
そのまま『彼』は2人を飛び越え、わなわなと肩を震わせるブラックウォーグレイモンの前に、立ちはだかる。
大きく広がった黒い翼に、一度だけ鼻を啜ったヒトミが、メギドラモンの腕を一層強く抱きしめながら、安堵を誤魔化すようにフンと鼻を鳴らした。
「あーあーあーあー! 全くよォ!! サマナーもといテイマーの前でお披露目するつもりだったのになあコイツは」
「アナタ……アナタ、『それ』は……ッ!!」
「だが仕方ねえ、折角の機会だ。目に「焼き」付けろ。王様の御姿だ。讃え、崇め、感涙に咽び泣きやがれ」
「『そのデータ』は」
糞山の王の宝具。
暴食の大罪を司る悪魔として自らの近くで消滅したエインヘリヤルのリソースを喰らう事で―――糞山の王はベルゼブモンから、とあるデジモンへと。
悪魔から、神へと。姿を変える。
それは、遥か昔、カナンの地で信仰された嵐と雷雨、山岳を司り、恵みの雨を以て豊穣をもたらすとも崇められた神。
後に似た音を持つ『蠅の王(ベルゼブブ)』として貶められた『気高き主(バアル・ゼブル)』。
だが、その信仰を歪められてなお、その『音』が残る限り、かの悪魔と神は同一で在り続ける。
天に在るべきための翼を。
右腕には稲妻を。
供物を以て、取り戻す。
類似性のあるものは、呪術的に見れば同じものであるが故に。
「『讃え崇められるべき高館主(グロリアス・ベル)』―――エインヘリヤル、アサシン。渡部 桐彦(わたべ きりひこ)」
神魔を喰らった『暴食』は、にいっとその牙を見せつけ、堂々と己が真名を名乗る。
ベルゼブモン:ブラストモードと化した『彼』が、そこに立っていた。
「逃がさず喰らうぜ。手前の事もな」
「返せっ!! ヨくも、カンナのデータをッ!!」
ブラックウォーグレイモンの目が血走る。
残された右腕のドラモンキラーを振り上げ、風と成りうるだけの脚力で大地を蹴り上げ、瞬く間に桐彦へと肉薄する。
「今は『糞』山の王じゃないんでなア! 返してほしけりゃゲロらせてみなっ!」
『デススリンガー』
ブラスターが迎え撃つように光を放つ。
ただの光線ではない。破壊の波動と謳われる、『分解』の性質を持つエネルギー波だ。
「喰らう」という行為は、即ち「分解して吸収(ロード)する」という事。触れれば対象の性質に関係無くデータの構造そのものを破壊し、自身の糧へと繋げるその攻撃は、まさに『暴食』という概念の体現。
ブラックウォーグレイモンは既に、先の1発でそれを理解している。
復讐者は、怒り狂っているからこそ、狂戦士とは成りえないのだ。
身体を半回転し、腕を失った左半分の『隙間』をむしろ利用して長物の側面へと回り込む。
勢いをそのままに振り上げるのは、腕ではなく脚。クロンデジゾイドの脚甲を叩きつける、あの回し蹴りだ。
「その芸はさっきも見たっつーの!」
ベルゼブモンの尾が割って入る。
勢いを全て殺す事は出来ないが、しなる尾は胴とは違い、衝撃をある程度受け流す事が出来る。
それが出来れば十分だ。ブラスターを装着したとはいえ、元の武器、ベレンへーナが失われる訳ではない。さっとホルスターから引き抜かれた愛銃が、ブラックウォーグレイモンの鎧の隙間を狙い、火を噴いた。
だがブラックウォーグレイモンも僅かに身体を傾けて、クロンデジゾイドの強度に任せて弾丸を弾く。
そのまま肩の突起を槍に見立て、突進。
桐彦はそれを躱すではなく、むしろベレンヘーナを手放して鉤爪で掴みかかり、ブラックウォーグレイモンを引き寄せる事で、踏み込みの距離を誤らせ勢いを殺す。
双方、得物を用いるには近すぎるレンジ。
お互い、片腕の自由が利かない状態での組み合い。
踏ん張り過ぎた2体の足は、地面に亀裂を走らせながら、沈み込む。
―――とはいえ、ブラックウォーグレイモンの武器は体術だけではない。
「『太陽喰らいの―――」
4度目の宝具。
自身をも巻き込みかねない勢いで負の感情という名のリソースがその場に集結しかけた瞬間―――桐彦はただシンプルに、ブラスターをブラックウォーグレイモンの横っ面に叩き込む。
「ッ!?」
単純な物量がブラックウォーグレイモンの究極体にしては小柄な肉体を薙ぎ倒す。
宝具の発動も不発に終わり、受け身自体は取ったもののバランスの悪い片腕だけでのもの。
追撃が来る、と身構え―――しかし、彼は終に、何事も無くその場から立ち上がる。
顔を上げた先では、桐彦が顔だけを青年のものに切り替えて、べえ、と舌を突き出し、笑っていた。
「はいステゴロでも俺様の勝ち~! そんなモンにしとけよ黒トカゲ! せめて紀元前から出直して来な」
「ふざけるな!!」
再び桐彦へと飛び掛かるブラックウォーグレイモン。
だが、今度はブラスターを構える事すらせず、軽く翼で地面を打って、桐彦は空へと舞い上がり、そのまま、攻撃を躱すのみに留める。
ふざけるな。と。
通常の『暗黒のガイアフォース』を差し向けながら、ブラックウォーグレイモンは繰り返し、叫ぶ。
「墜ちろ。墜ちろ墜ちろ墜ちろ!! バラバラに引き裂いてカンナのデータをえぐり出してやるんだからッ!!」
「ンなコト言われて付きやってやるバカがどこにいるっつーんだよバーカバーカ! ましてや俺様、今や高き館の主だぜ?」
「知らないわヨ!? オイラは、オイラは―――ッ」
「こっちだってテメェの事情なんざ知ったこっちゃねえんだよ!!」
ああそうさ、と。
桐彦は、ブラックウォーグレイモンの発言を赦さず畳みかける。
「お前が「その気」なら俺様だって本気でやってやったさ! 戦士としては寿いでやっても良かったぐらいだ。だがそうじゃねえ。何が復讐者だバカバカしい! 餓鬼の癇癪よりひどいただの駄々ときた!」
「―――は?」
「テメェ、ホントはこれっぽっちも! 復讐(こんなこと)やりたかねーんだろうがよォ!?」
思わず呆けて動きを止めるブラックウォーグレイモンに
桐彦は、言い放つ。断言する。
復讐者は、忘れない。
―――ごめんね、コロちゃん。
忘れる事が出来ない。
―――最期まで、我が儘言って。
最愛の人の、最期の言葉を。
―――もう、十分付き合ってくれたんだから。だからアンタは、アタシと『同じ』にならないで。同じ苦しみを背負わないでおくれ。
忘れられる訳があろうか。
―――リューカちゃんやカジカP。……メルキューレモンの傍に、いてやって。あの子達を、助けてあげて。アタシに、そうしてくれたみたいに。
だって、「あの子」は最期まで、約束通り笑って生きてくれたんだから。
―――これからは、「同じところ」に行ける筈だから。……先に行って、センキっちゃんと、待ってるから。
「……―――さい」
ブラックウォーグレイモンが頭を振る。
「うるさい」
だからこそ、許せなかったのだ。
「うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさあいッ!!」
環菜の笑顔を踏み躙った世界が。
環菜の生きた証を復讐譚と片付けた世界が。
環菜が最期まで幸せを望んだ人とデジモンの幸せを、どれだけ望んでも環菜自身に見せてあげられない世界が。
あんなに、愛おしかった筈なのに。
「アナタに何がわかるのヨおッ!!!!」
「わかってたまるかクソボケがあああああっ!!!!」
桐彦が、雲野環菜のデータを抱えて叫ぶ。
……再び、『黒』がブラックウォーグレイモンの周囲に渦を巻き始める。
「……」
『龍の瞳孔』を用いるまでもない。
ヒトミの目に映るのは、炎ではなく水。
黒の中でひと際輝く金の瞳から尽きる事無く零れ落ちる、滂沱の悲しみ。
悲しい。
悲しい、悲しい、悲しい。
……ごめんね。守ってあげられなかった。痛かっただろうに。
一緒にいようって、約束したのに。
どうして。
……炎ではない。
黒い雲だと。「太陽を喰らうもの」の正体を、ヒトミは見つける。
「ギギモン」
重傷を負ってなお、退化する事無くいざという時はヒトミを守れるよう身を起こし、彼女に覆いかぶさって戦況を見守っていたメギドラモンが、どこか優しく喉を鳴らす。
……世界が違えども、パートナーデジモンとは、「そういうもの」なのだ。
「うん。……だから、わたし。使うよ? ギギモンにだけじゃなくなっちゃうけど」
ヒトミは、そっと自分の瞳と同じ色に輝くペンダントに指を添えた。
「特別、なんだから」
―――スキル『アンロック』。
ヒトミの、選ばれし子供としての力。
進化に、時には存在そのものにかけられるデジモンへの制限を、一時的に取り払う力。
気付いた桐彦が、ヒトミにニッと笑って返す。
エインヘリヤル・雲野環菜の現界は、ある種不完全なものであった。当然、彼女のリソースを取り込むことによって発動した『讃え崇められるべき高館主』にも若干の不安定さが付き纏っていて。
だが、この瞬間。ヒトミの助力によって。
渡部桐彦は、本当の意味で究極を超えた。
「それでいいさ」
彼はブラックウォーグレイモンへと向き直る。
「ちゃんと全部喰らってやるよ」
「『太陽喰らいの黒き勇者』―――ッ!!」
雷鳴じみた悲鳴と共に、大口を開いた黒雲が桐彦(バアル)を呑もうと彼に迫る。
……雨が降った。
慈悲の雨が。
「『カオスフレア』」
雲の隙間から、温かい黄の色をした魔法陣が煌めく。
……ブラスターの前方に展開された『それ』から放たれたエネルギー波に、パートナーの影法師と同じところを貫かれて。そうしてようやく、黒に染まった勇者は歩みを止める。
「……カンナ」
ブラックウォーグレイモンは手を伸ばす。
ここは、『ユミル進化』の適応した世界。
環菜の最愛の人、栗原千吉が描いた世界。
……人とデジモンが、最期に同じところに行けるかもしれない世界。
「ダメね」
復讐と名を、理由をつけて。
結局、エインヘリヤルではない彼女にはさせずに済んだ「してはいけないこと」で、ブラックウォーグレイモンは手を汚し過ぎた。
何より―――彼女との約束を、ひとつだって、守ってあげられなかった。
そして、違っていても、同じでもあった、もう1人の彼女自身の事も。
「同じところには、行けないわ」
そうであってほしいと、ブラックウォーグレイモンはむしろ願う。
もう、本当の意味で汚くなってしまった自分が行けない「綺麗なところ」で。大好きな人が、最愛の人と一緒にいられますように、と。
彼はただ、大事な「あの子」の幸せを祈る。
焦げて果てたような黒い塵が、そっと『王』の袂へと消えた。
*
「未来、さん……?」
「ば、ばう……!!」
「うううううう」
呼びかけに応じる事も。
逃げて、と訴える事も出来ない。
口を開いただけで。ただそれだけで。そのままがぶりと、三角の健康的でやわらかな首筋に、己の牙を突き立ててしまいそうで。
どうにか自分を抑えられているのは、やはり三角と契約しているから。
もはや理性ではなく、エインヘリヤルとしての本能がブレーキとなっているような有様。
GRB因子は、そんなエインヘリヤルの骨子すらも掻き乱し―――ミラーカをエインヘリヤルですらない『怪物』に変えようと、彼女の中で蠢いていて。
……アルクトゥルスモンは、「怪物扱い」が当人にとってどれだけ辛いものかを知っている。ピコデビモンを通して、彼はずっと、それを見てきたから。
だからこそ、スーツの男の挙げたその手段に乗った。
そのために、これ以上は手出しをせず、アルクトゥルスモンはミラーカ達から距離を置いて、その動向を見守っている。
最初はアルクトゥルスモンの不気味な静寂に困惑していた三角も、ミラーカの形相を、口元を伝う涎を前に、彼の行動の意味を察する。
ひどい、と。
あまりにも陰湿な手段に、尻もちをついたまま地に付けていた手の平で拳を作って―――だが、すぐにそれに力を籠められなくなる。
舞宵の弁によれば、アルクトゥルスモンは、多島柳花とピコデビモンの使い魔達で。
三角は、結局は『自分の物語』のために、彼女達を殺した。
柳花が指摘した通り、この相違点で活動し始めた当初、デビドラモンの事は『悪役』としか思っていなかった。
そして、ミラーカの―――未来のこと。
ヒーローになってほしい、と。それだけ言えば聞こえは良いが、結局は自分のためにミラーカを利用しているに過ぎない。
アルクトゥルスモン達からしてみれば、非道で、陰険なのは、自分の方に違いない、と。
だが
「未来さん!」
それでも先に進む。と。三角は玻璃と約束を交わした。
先に進むための歩き方を教えてくれた少女がいる。
行きたい場所に向かうための想いを新たにしてくれたデジモン達がいる。
直接三角のためで無くても、三角の帰る場所のために戦っている仲間達がいる。
シフが、すぐそばで。
今は1人で、戦っている。
(俺だけがうじうじなんてしてられない―――!)
三角はもう一度未来の名を呼んで、ラタトスクの制服の袖をまくり、彼女の方へと突き出した。
反射的に、だが決死の思いで、ミラーカは身体をのけぞらせる。
ダメだ、
ダメだ。と。
ミラーカは首を横に振るために、赤い目を逸らす事すら出来ない。
そうすれば、三角が僅かにでも視界から消えれば、もう何もわからなくなって、目の前に差し出された彼の腕に喰らいついてしまいそうで。
「欲しいなら、吸ってもいい。それでミラーカさんに怒ったり、怖がったり、しないから」
なのに、三角はむしろ、誘惑にも等しい真似をする。
「う、ああぁ」
ミラーカは唸る。
そんなことを言われたら、今度こそ耐えられない、と。代わりに牙を立てていた指先を、放しそうになって。
「だからっ!」
怖がったりしない、と、言いながら。
三角は、声を、否、全身を震わせ、それでも叫ぶ。
「アイツを倒して―――俺達を護って、未来さん!!」
「―――っ」
三角は知らない。ミラーカが吸血鬼の能力を持つ事は聞いているが、彼女をネオヴァンデモンたらしめる『メモリ』が吸血行為を行えば、一瞬で大の大人をしわしわのミイラのように出来る事を。
彼が『現実』として知る吸血鬼は、あくまで『1999年のヴァンデモン』。かのヴァンデモンも吸血による負傷者を出していたが、死者は出ていない。
故に、どこかで吸血鬼という概念に対する「認識の甘さ」があったのだ。……そうでなければ、いくらなんでもこんな自殺行為が、出来る筈が無い。
だが
「う……うう……悪……」
三角が、そんな無謀な真似を見せつけた事で。
ミラーカをミラーカたらしめる強固な『自己暗示』が、テイマーとして以前に、目の前の少年を強く、ミラーカに認識させる。
「『悪』じゃ、な゛い……ッ!!」
ミラーカ。
己を『悪を倒す者』と定義付けたエインヘリヤル。
物語の中で、彼女は騙され、悪に与し、手を汚し続けた。
それでも、いつかは正義を成せると信じ続けた。
……それが、未来が大好きなヒーロー達から、学んだ事だから。
学んだ事だから
実際に目の前にあるものだから
それだけは解る。
無力だとしても。己の命さえ顧みずに、自分自身を差し出してまで、誰かの『欲望』を肯定できる『人間』を―――彼女は、『悪』とは認識できない。
「三角ッ!!」
ほとんど怒号のように、デジヴァイスから名城の声が響く。アルクトゥルスモンへの怒り、三角の無茶に対する焦りと困惑、自分たちの無力、様々なものがない交ぜになって、言いたいことがあり過ぎて。しかしそんな場合では無いと無理矢理に言うべき事以外を飲み込んだ名城の声が。
ラタトスクの現場を指揮し、最悪の場合の三角とシフの退去を、そして、その最悪を訪れさせないために一縷の希望を搔き集めていた名城とスタッフ達は、動きを止め、改めてGRB因子に抗うミラーカに、僅かな活路を見出していて。
「紋章を! 紋章を、ミラーカに!!」
紋章の力は、ある種の簡易的なハッキングとも解釈できる。故に狂化に精神というプログラムを掻き乱されているバーサーカーには、紋章の力が効き辛い。
故に、それは賭けでもあった。
それでも、自分に託してくれたのだ、と。
三角は、突き出していた右腕を持ち上げ、ミラーカにもよく見えるよう、胸の前に掲げる。
「紋章を以て命ずる」
2画残された紋章の、円を支える器のような部分が、特に白熱し、光り輝く。
吸血鬼を焼く事は無く
しかしリソースの中継器となっている三角自身を内側から焦がす光だ。
「未来さん―――「俺達の、ヒーローになってください」!!」
その痛みを、熱を吐き出すようにして、三角が叫ぶ。
器の文様が掻き消え、ラタトスクから提供されたリソースが、ミラーカへと流れ込む。
「……!」
疑似的に、ではあるが。
リソースの提供によって、僅かにミラーカの『渇き』が癒える。
GRB因子に蝕まれた中では、暗い覆いの中に針で穴を空け、そこから差し込んだ僅かな光のように頼りない正気。
だが―――闇の中だからこそ、それは確かな輝きを放っていて。
「だい、じょうぶ」
ミラーカは
「人、かどう、かは―――」
確固たる意志を以て、三角から顔を逸らす。
「行動で、決まるッ!!」
視界から外れてなお、彼女は背後の血の匂いの出所に釣られるのを、どうにか堪える事が出来た。
故に、今、彼女の赤い目が捉えるのは、ただ1体。
―――悪。
自分を利用して、ヒーローに助けを求める子供を殺させようとしたデジモン。
悪と断じるには、十二分の存在。
「私もなれる」
なってほしい、と。そう言ってくれる人が居る限り。
「ヒーローに」
……きっと。
ここまで狂化を引き上げられてしまえば、「これ以上」など誤差の範疇。
ただ、このまま、目の前の『悪』に襲い掛かり、仕留める。
そのために―――ミラーカは蠢く肉の中、本来であれば所持していない筈の『もう1本』の『メモリ』を自身に突き立てる。
ジークグレイモンメモリ。
黄金の機竜のデータを取り込んで。
ネオヴァンデモンの姿が、更に禍々しく構築し直される。
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!」
ミラーカ。
吸血鬼王の娘。
最も名の知られた吸血鬼が『竜の子』の名を持つ以上、彼女がその姿を取るのは、ある意味で必然だったのかもしれない。
宝具『闇は闇に(ネオヴァンデモン ダークネスモード)』
そのシルエットは、どこか竜にも似ている。
「――――――!!」
もはや声とは呼べない咆哮を上げながら、ミラーカがアルクトゥルスモンへと飛び掛かる。
咄嗟に突き出した右腕のドリルは腕の一振りで粉砕され、肘から下がその余波だけで引き千切られる。
改めて、首筋に食らいつかれ―――しかしアルクトゥルスモンが、再び抵抗するような事は無かった。
ただ、詰みを認める。
主の死んだ世界に、未練は無い。力が及ばなかったのであればそれまでだ、と。
だが、どうしてだろう? と、疑問は生じる。
作戦は、この上なく上手く運んでいた。紋章によるリソース提供程度では、ミラーカがテイマーを正しく認識出来る程正気を取り戻せる筈が無かったのに、と。
環菜達の助力があったとはいえ、究極の位まで至ったデジモンだ。アルクトゥルスモンは、己の中に敗因を探し―――
ばり、と。デジコアに亀裂が入る音を耳にしながら、走馬灯の中に、それを見出す。
―――知らなかった? テイマー。年齢も性別も、そしてタイミングすらも関係なく。人は誰でもヒーローになっていいのよ。
主や主の大切な人以外で、不思議と背中に乗せてやってもいいと、そう思えたライダーのエインヘリヤル。そんな彼女の、遅刻の言い訳を。
……リソース切れか、宝具に課した制約か。邪竜の首を嚙み砕いたのを機に徐々に竜の輪郭を失い、通常のネオヴァンデモンに戻っていくミラーカは、規格外のデジモンであるアルクトゥルスモンからですら、どう贔屓目に見ても怪物にしか見えない姿を、力を、振るっていて。
だが―――それでもいいのだろう、と。アルクトゥルスモンは理解する。
人は誰でもヒーローになっていい。
それをただの与太話だと片付けたのが、本当に怪物でしかなくなってしまった自分達と、このエインヘリヤルとの違いであり、敗因か、と。
納得と同時に、アルクトゥルスモンの身体が完全に崩壊する。
そうして彼は、悪役らしく。爆散こそしなかったものの、塵となって、消滅した。
「っ」
アルクトゥルスモンの消滅に伴い、ミラーカはネオヴァンデモンへの変身を解除する。
「……あれ?」
そうしてから、彼女はアルクトゥルスモンからリソースを吸い上げたにもかかわらずそう出来た事に遅れて気が付いて、思わず首をかしげるのだった。
と、
「未来、さん」
呼びかけに、振り返る。
立ち上がり、こちらに駆け寄ろうとして、しかし紋章を使った疲労も相まって、足がもつれて倒れたらしい。
軽く息を切らしながら半身を持ち上げた三角が、どこか誤魔化すような照れくさそうな笑みを、ミラーカに向けて浮かべていた。
「! テイマー」
一瞬、近寄るのを躊躇して。
しかし擦り傷から漂う血のにおいに全く惹かれないと言えば噓にはなるものの、先程のように衝動に駆られる程では無いと気付いて、それでもおっかなびっくり、恐る恐る三角に歩み寄ったミラーカは、彼が完全に体を起こすのを手伝った。
そうやって間近で首筋を眺めても、もう、牙を立てようとは思わずに済んで。
「良かった、無事で。……ありがとう、未来さん。助かったよ」
「あの……私は……」
ミラーカは首を横に振り、それよりも、と、結局纏められなかった言葉を飲み込む。
「どうして、私。今は、頭がはっきりしていて……」
自分で答える代わりに、三角はデジヴァイスを取り出した。
「アルクトゥルスモンは幻のデジモンですが、GRB因子自体は黒化デジモン発見以来研究されていた因子ではありますからね。ラタトスクのデータベースから急いで過去の記録を取り出して照合し―――」
「紋章にはワタシの加護『ドクテアーゼ』が施してあるからね。それを通じて、キミに送り込んだリソースにワクチンプログラムを混入したのさ。……急ごしらえのプログラムとはいえ、流石ワタシ。その様子を見るに、無事に機能してくれたようだ」
安堵のせいか一気に老け込んだような声でぼそぼそと話す名城を見かねてか、途中からテディちゃんが説明を引き継ぐ。
ミラーカは、僅かに顔を伏せる。
「じゃあ、私がテイマーを襲わずに済んだのは」
「……それは、あなた自身の意志の力ですよ」
画像データが届いている訳では無いとは理解しつつ、名城はモニターの前で首を横に振る。
もう一度、ミラーカが顔を上げた。
「プログラムが効いてきたのは、あなたの宝具が展開してからです。……実質大事な時に間に合わせられなかったようなもので、本当に申し訳ないのですが……よく、がんばってくれました」
お疲れ様です。と。
ねぎらいの言葉を受けて、三角とミラーカは顔を見合わせ―――どちらとも無く、力なく笑い合う。
出来る事なら本当にもう少し急いで欲しかった、と。バウモンが呆れたようにくぅんと鳴いた。
「……少し、休みますか?」
極度の緊張が解けて、しかしどうにか今回は意識を保てそうだと深呼吸を繰り返す三角に、ミラーカが尋ねかける。
三角は首を横に振った。
「ううん。……シフの傍に行かなきゃ。力になれるかは分からないけれど……」
「なれる。……と、思いますよ。……三角さんなら」
「……ありがとう、未来さん」
運んでくれる? と問う三角に対して、ミラーカの方は頷いて見せる。
彼女はひとまず人のまま三角を抱え上げ、未だ自分のものではないイビルビルの飛び回るもう1つの戦場に向かって、足を踏み出した。
*
「『ツヴァイ・ズィーガー』!!」
柄同士を繋げたリヒト・シュヴェーアトを高速で回転させ、疑似的な円盾を作り出しながらシフは前進する。
刃に触れればイビルビル達はひとたまりも無いとは、これまでの戦闘で理解している。
「鬱陶しいなぁもお!」
だけど、芸が無い、と。
効かないのなら、それはそれで。圧倒的な物量を目くらましと割り切って、ヴォルフモンのレンジ外から、舞宵は己の尾をシフに差し向ける。
「っ」
リヒト・シュヴェーアトを分かち、右手で舞宵の尾の対処を、左手でイビルビルを斬り払い―――しかしシフの戦闘スキルでは、全てを同時に捌く事は出来ない。
「っあ!?」
先程は寄せ付けずに済んでいたイビルビルが、聖紫水晶の守りが薄い部分に牙を立てる。
途端、自分の中からリソース、あるいはそれに等しいものが抜き取られていく感覚が、シフの肉体を駆け巡る。
脚からは踏ん張るだけの力が抜け、手の平から剣を落としそうになる。
だが、それでも。
シフは倒れない。
「『リヒト・ズィーガー』!!」
リヒト・シュヴェーアトを真っ直ぐに振り下ろす。
ジュッ、と、肉の焦げる臭い。イビルビルのものだけではない。光の刃はやはり、断つ事を意識して振るえばネオヴァンデモンの装甲にも届く。
「んもう、ヤな臭い! サイアク!!」
悪態をついて、舞宵が尾を引っ込める。シフは歯を食いしばったまま唇の隙間で息を整え、出来うる限り冷静に、残されたイビルビルを斬り払った。
舞宵がイビルビルではなく自身で無理に追撃を仕掛けてくる様子は無い。
1秒でも早くシフを仕留めたいという気迫は伝わってくるが、そうはしない。
待っているのだ。
月が満ちるのを。
(きっと、それが―――『ギャディアックレイド』が、舞宵さんの宝具)
シフは半ば確信していた。
どうにかスキル『今は淡き脚光の標』で回避したとはいえ、柳花とピコデビモンのジュグレス体であるネオヴァンデモンのもので、その威力は痛感していた故に。
もしもあの攻撃が、エインヘリヤルの宝具として用いられたら、と。……そう考えるだけで、シフの背筋に冷たいものが走る程に。
だが、その恐れを抱えた上で。シフは舞宵に宝具を使わせようと考えている。
……一面のイビルビルの牙を見渡す中で、シフはこれまでの戦いを振り返る。
自分はこの相違点で、誰かに助けられてばかりだった、と。
集落を襲撃したデビドラモン達との戦いに始まって。
セイバーの玻璃達から逃げた時も。
風峰冷香のベルゼブモンへ逆転の一手を放ったのは糞山の王で。
ネオヴァンデモンと対峙した時は、馬門のフォローが無ければ死ぬところだった。
(さっきは玻璃さんを頼ろうとしたし、今だって、先輩を未来さんに守ってもらっている)
シフ。
現状唯一無二のシェイプシフター―――『適応者』のエインヘリヤル。
シェイプシフターは、あくまで「その世界に存在してもおかしく無い役そのものになる」クラス。
故に彼女は、物語の『主人公』ではない。……主人公にはなれないし、なる気も無い。
むしろ、だからこそ。他の『味方』の役割を持つエインヘリヤル達は、無意識に彼女に手を差し伸べる。確かに役を与えられたのに、右も左もわからないこの新米の演者に、先達として、舞台の歩き方を指導するように。
守られ、導かれ、歯痒い思いを何度も繰り返して。
『彼ら』の隣で必死に自分の『役』の在り方を模索して。
そうしてようやく、彼女は『物語』の一員になる。
……それは未熟そのものであるように見えて、その役を初めて演じる者にしか出来ない、得難い経験なのだ。
沢山感じて、考えて、伝える。
もちろんそこまで考えて言った訳ではないが、馬門のアドバイスは、そう、的外れなものではなくて。
「……嗚呼、満ちる」
そして
「満ちる。満ちる。……満ちた」
今が、本当の意味で、彼女が自分の舞台に立つべき時。
(―――来た!)
リソースが舞宵の<Gift>であるやや不気味なうさぎのぬいぐるみに集中するのを、シフは感じ取る。
さぁ、と。斬り損ねたイビルビル達も、雲が晴れるように、月光のために道を空ける。
月と、人狼の闘士が。真正面で対峙する。
「恋を叶える紅いお月様」
叶えてあげたかった友達に、見せてあげたかった『恋を叶えてくれる月』。
「恋路を邪魔する奴等をぜぇんぶ消し飛ばしちゃって!」
せめて。彼女の恋路を踏み躙った者へと。
舞宵は紅いリボンのうさぎのぬいぐるみを掲げ、妖艶に微笑む。
月色の瞳を、霧の中で爛々と輝かせながら。
シフもまた、今ひとたびリヒト・シュヴェーアトを強く、強く握りしめる。
膝を曲げ、舞宵を見上げる。月に吼える狼のように、舞宵の宝具展開に応じる。
「『血濡れの狂恋月(ストロベリームーン・ナイト)』」
本来のネオヴァンデモンが放つものとは異なる、ぬいぐるみのリボンと同じ、紅の月光。
ムーンライトの奔流は、ちっぽけな『光』を吞み込もうと瞬く間にシフへと迫る。
対するシフは、真っ直ぐに。
『血濡れの狂恋月』に向かって、踏み込み、飛び立った。
「! なんで」
舞宵が困惑に目を見開く。
正気の沙汰とは思えなかった。事実として、次の瞬間にはシフの姿が完全に掻き消える。
シフが回避のスキルを持つ事は、舞宵もスーツの男から聞いていた。だがいくらスキルがあろうとも、飛行能力を持たないデジモンがあの距離、あの位置から『ギャディアックレイド』を躱す事はまず不可能だ。
相手が「血迷った」のだと嘲笑うにも、あまりに突飛の無さすぎる行動が、むしろ宝具展開直後にもかかわらず舞宵の中の警戒度を跳ね上げさせる。
そうしていたからこそ、彼女は背後の気配に気付く事が出来た。
「!」
自分に向かって飛んでくる、ヴォルフモンとは異なり、丸みのある、緑色の風船じみたフォルムを持つデジモンに。
その方が強いから、と。シフ自身、固定観念に囚われていた。
だが、彼女の『姿』はけして1つでは無く―――光の闘士は『本来』の姿でもない。
彼女の『本来の姿』は、メタモルモン。
通常の個体よりも小柄で、それ故に小回りが利く、飛行能力を持つデジモン。
1つの能力に固執するのではなく、自分の姿や力を『最適なもの』に切り替えて戦う。
シフが、人とデジモンの境が曖昧になったこの相違点で、改めて学んだ事。
それは人からデジモンへの変化や進化であったり。
見える姿と見えない姿を使い分けての存在の誇示であったり。
姿そのものは変わらずとも、条件を満たす事で力の出力を強めたり。
……そして、伝説の十闘士のように。人と獣。その両方の力を、その身に纏って。
デジモンの強さは、出来る事の多さで決まる。
……それは、他ならぬ『デジモンプレセデント』作者の持論だ。
そうして学んできたから、シフはここで「自分本来の姿」というカードを切れた。
瞬時に『レーザートランスレーション』による変身を解き、『今は淡き脚光の標』で『血濡れの狂恋月』を躱し、舞宵に迫る。
「っ」
今回も、無傷では済ませられなかった。闇属性の光に焼かれて、シフは半身から黒煙を燻ぶらせている。
有効なレンジに入る前に、舞宵に接近を勘付かれてしまった。
だが、それでも月は、今、すぐ目の前に在る。
「『おいで、愛し子達(サモン・サモン)』!」
『血濡れの狂恋月』のために道を空けていたイビルビル達が、そして新たにぬいぐるみの口から吐き出されたイビルビル達が、瞬く間にシフを取り囲む。
「っうう」
『今は淡き脚光の標』は、連続で使用出来るスキルではない。
使用出来たとしても、イビルビルの群れ全ての攻撃を躱せる程、強力なスキルではない。―――まだ。
(痛い。怖い)
緑色の肌に、白銀の牙がいくつも食い込む。
「『血濡れの狂恋月』でぶっとばせなかったのは残念だけどぉ……今度こそ、ばいばぁい♡」
跡形も無く消えちゃえと、舞宵が妖艶に微笑む。
策はある。
ここまで来た。
自分なら出来る。
……だけど、もし失敗すれば。
「シフッ!!」
「先輩……!」
イビルビルによる暗がりの中。振り返って、姿を確認する事は出来ない。
だが、その声だけで十分だった。
心配に引きつり、裏返ったかのような声。不安に歪んだ表情が、目に見えるようだ。
……それでもシフは、三角の、三角を守っていたミラーカの勝利を確信する。
だって、底抜けにお人好しで、だけれど『普通』の人間の三角には、目の前の誰かの心配しかできない。
ミラーカではなく、自分の名を呼んだのが。ミラーカが戦闘を終えたという、何よりもの証だ。
「大丈夫です、先輩!!」
だから応える。
パートナーに。
今はまだ、難しいだろうけれど。
いつかはそんな心配すらさせず、むしろ他の誰かにも手を差し伸べる三角自身の助けになれるように。
―――勝利を。
「『レーザートランスレーション』!!」
イビルビルの塊の内側。
もう一度、シフは自分の姿を作り替える。
バトルスーツによってヴォルフモンの力を扱える、『人間』の姿へと。
「はあああ!!」
同時に出現したリヒト・シュヴェーアトを前方に振るう。
シフというメタモルモンのデフォルトのサイズは、同種の平均と比べればひどく小柄ではあるものの、それでも一般的な成人男性の平均身長を上回る程度の大きさはある。加えて丸みのあるフォルムには当然それなりの横幅も生じる。
故に少女の姿と切り替えれば、この超過密状態だったイビルビルの黒雲の中に、空間が生じる。……剣を振るうのに、十分な空間が。
シフの眼前が。
舞宵への道が。
文字通り、切り開かれる。
「な―――」
目を見開く舞宵に向けて、密集したイビルビルを足場にして、既に背中を何体者イビルビルに噛みつかれたシフが、それでも力の限り、前に跳ぶ。
十闘士の『光』は天使型の聖属性とは異なり、インターネットの『光通信』に起源を持つとされている。獣形態程には劣るとはいえ、その『光の速さ』は光の闘士の大きな武器だ。
狼が、月に追いつく。
「『リヒト・ズィーガー』!!」
突き出された光の刃が、真っ直ぐに舞宵の胸元を―――霊核を焼き、貫いた。
「―――っ、あぁっ」
相性的な事もあって激痛に端正な顔を歪め―――しかし己の表情が醜く歪む事も厭わずに、舞宵は歯を食いしばり、一瞬手放しかけた<Gift>の首元を握り直す。
「『愛し子達』!!」
「!」
新たなイビルビルを召喚する事はもはや叶わない。
だが、既に召喚されている者達だけで、シフを仕留めるには十分だ。
せめて、せめて。と、くい、とぬいぐるみを掴んでいない方の指を引き、シフに逃げられないよう左右からネオヴァンデモンの腕の尾を、まるで抱擁するかのように彼女に差し向ける。
「シフ!!」
彼女の名を呼ぶ声が響き渡った瞬間。
イビルビル達が、絡めとられ、飲み込まれていく。
大好きな『だぁりん』とも大事な『友達』とも同じ姿だけれど、大嫌いになったネオヴァンデモン―――ミラーカが、三角を抱えたまま、先に見せた通りテクスチャを蠢かせイビルビル達を喰らいつくしていて。
それでも自分の下に辿り着くまでに、シフを縊る殺す事は出来る、と。
舞宵の尾が、シフの喉元に迫り―――
「先輩!」
―――そんな危機的な状況にもかかわらず、僅かに振り返ってパートナーの名を呼んだシフの弾んだ声が。紅潮した頬が。輝く蜂蜜色の瞳が。
あまりにも、好きな人の話をする柳花に似ていたものだから。
「……あ」
ほんの、ほんの僅かな躊躇が芽生えて。
……その隙に、ミラーカの伸ばされた手が、シフの胴へと回り、彼女を引き寄せる。
リヒト・ズィーガーが抜け
羽ばたく力も失い
イビルビル達も、もういない。
「……あーあ」
たなびく自身のツインテールを眺めながら、真っ逆さまに地面へと落ちていく。
まるで、「あの日」を再現するように。
(殺されるなら、だぁりんに殺されて、取り込まれたかったなぁ)
そのだぁりんことネオヴァンデモンも、エインヘリヤルである以上、<D:code>スキル『月光の恋人』を発動した舞宵が致命傷を負った今、彼女と分離して舞宵の身体を受け止める事すら出来ない。
(死ぬのは兎も角、最期にだぁりんのお顔も見られないなんてなぁ)
地面が。
「あの日」、何も始まらなかったら。のIFが迫る。
「……ざぁんねん」
もに。と。
舞宵は最期に、自分が潰れる音を聞き―――
「……あれぇ?」
いつの間にか閉じていた目を開ける。
気付けば下に落ちるでなく、彼女は身体の向きとしては横方向に移動していて、ひんやり、しっとりとした2本の支えの上に寝かされているようで―――顔を持ち上げれば、目玉いっぱいに涙を湛えた、黄緑色のカエルの顔があって。
寸でのところで飛び出してきたゲコモン―――鹿賀颯也が、間一髪で舞宵を受け止め、べたべたと不格好に、三角達に背を向け、校舎に向かって、走っていた。
「テイマー」
ミラーカの呼びかけに、三角は首を横に振った。
「出来れば、追わないでほしい」
「私も、そうしてほしいです。……構いませんか? ドクター」
僅かな沈黙の後、ええ、と、デジヴァイスに返事が届いた。
「アサシン・中舞宵の霊基は既に崩壊を始めています。それにユミル進化体とはいえ、もう鹿賀颯也の能力を活かす手立てはありませんし―――あったとしても、バーサーカー以上の吸血種は、やはり、この相違点には存在しえないでしょうから」
わかりましたと了承するミラーカに、三角とシフは胸を撫で下ろす。
……視界の先では、颯也の後を引くように、金色の粒子が零れ落ちていた。
「ごめん、ごめん……!」
朦朧とする意識の中、こんな筈じゃ無かったのになぁと思いつつ、舞宵は颯也の良く通る声に耳を傾ける。
「俺、結局何の役にも立てなかった。キミ1人に戦わせて……」
「うー。だぁりんがよかったのになぁ」
「ああ、でも、聖解を使えば、まだ助かるかもしれない―――助かるから! 連れて行くから、もう少し堪えて―――」
助からない。
デジモンがデジコアを壊されれば死ぬように、エインヘリヤルは霊核を壊されれば消滅する。
もちろん聖解を使えばその限りでは無いかもしれないが―――きっと間に合わない事は、泣きながら走っている颯也自身、もう理解している事だった。
「それに、それは、まよじゃなくて」
所謂お姫様抱っこをされながら、敵に背を向ける。
どういう訳か、ラタトスクは追ってこない。やはり、舞宵がもはや手遅れだからだ。天使のような慈悲のつもりかもしれないけれど、余計なお世話だと腹が立ったし―――柳花に、申し訳なかった。
まよにそれが出来るなら、どうして。と。
そう、言いたくて―――
(でも、りゅーちんがこの『人』を好きな理由。……まよ、ちょっとだけ、わかっちゃったなぁ)
―――私は、私を特別だと思わない鹿賀さんが、好きだったんだと思います。
結局ラタトスクは追ってこなかったとはいえ、姿を現せば殺されてもおかしくなかった状況。
作戦以外で言葉を交わしたのは、彼が1人で帰ってきたあの時だけ。
見捨てて逃げたところで、舞宵は別にどうとも思わなかっただろう。
なのに、躊躇なく飛び出して。
「……カジカP」
だからこそ、許せない。
本来であれば、墓場まで持っていくべき秘密だろう。
だけれども、舞宵はそうはしない。彼女自身がそう思ったから、とどめてはおけない。
それが、女友達の心意気で―――舞宵自身の、ワガママだから。
「何!? 舞宵ちゃん!!」
颯也が舞宵の顔を覗き込んだのを見計らって、舞宵は静かに微笑んだ。
「りゅーちん、カジカPの事、好きだったんだって」
「……え?」
硝子が砕けるようにして、ストロベリームーンの夜が明けた。