「ねえ、お兄ちゃん」
『悪』の闇のスピリットの力で戦況を確認しつつ、玻璃は自分自身の2つの眼で、じっと兄の顔を覗き込む。
「結局、あの『京山玻璃』は『何』なの?」
そして、問いかける。
彼女の兄―――スーツの男は、唇の片側を持ち上げて返した。
「気にしていないものとばかり思っていたのですが」
「気にしてるワケじゃ無いよ。あんなのは、私の偽物。それは決まってるわ」
でも、と。半ばムキになっているような調子で、玻璃は頬を膨らませる。
「偽物なら偽物で、どーして私の邪魔ばっかりするのか。それは、気にしない方がおかしいじゃない」
「それは、その通りです」
「でしょ?」
兄の肯定に僅かに声のトーンを上げて、少女は繰り返す。
アレは。もう1人の京山玻璃は、何なのか。
「彼女は別の『デジモンプレセデント』の、異なる結末を辿った『京山玻璃』―――の、エインヘリヤル」
「じゃああいつも、お兄ちゃんの『妹』?」
「彼女は」
一瞬、言葉が句切られる。
嘘の吐けない闘士の、あまりにも正直過ぎる沈黙。
「『この世界』の『貴女』ではない」
愚直すぎる否定。
……玻璃は呆れたように頭を振る。
だが同時に、その横顔にはどこか安堵の表情が浮かんでいるようにも見えた。
兄の言葉の中に、自分に対する『特別』を見出したが故に。
「お兄ちゃん、やっぱり私も出撃(で)る」
「! 玻璃、それは」
「ここまで来て引きこもってるのなんて嫌。戦うったら戦うの!」
脳裏を過るのは、矮小だと嗤い、しかし実際には悉くこちらの企みを無に帰してしまった、とある姉妹の、姉の方の言葉。
―――あなたもあの子も、どっちもちゃんと『京山玻璃』さんじゃないですか。
違う、違う。と。改めて玻璃は首を横に振り、エビバーガモンの言葉を拒絶する。
「お兄ちゃんの味方をしない私なんて、私じゃない」
「玻璃」
「邪魔になっても、足を引っ張っても。私、それだけはしないもん、絶対に。お兄ちゃんの敵になる『京山玻璃』なんて、絶対絶対、許せないんだもん!!」
「……」
「ねえ、お兄ちゃんは、私の我が儘。全部許してくれるんでしょう?」
スーツの男は、そっと自らの妹を抱きしめる。
「許しますよ。貴女がそれを、望むのならば。貴女には、好きに考えて、好きに振る舞って、……好きに生きる権利があるのですから」
「でしょ?」
「ええ。……ワタクシが貴女に託した願い(オーダー)は、もはやそれだけです」
だから妹も、最愛の兄をしっかりと抱いて返した。
「いってきます。私の大好きなお兄ちゃん」
「いってらっしゃい。ワタクシの最愛なる水晶(いもうと)」
「お留守番、よろしくね」
闇のスピリットを纏い、ダスクモンと化した玻璃が校舎を立つ。
スーツの男は、かつて自分の『2番目に大切な人』が自分に対してそうする事を選び、認めてくれたように、妹の背が見えなくなるまで、彼女を見送った。
「殺してやるわ、ランサー・京山玻璃」
兄の目が届かなくなったと思われる辺りで『ブルートエボルツィオン』を抜刀し、玻璃は呟く。
「お兄ちゃんに、これ以上嫌な思いはさせないんだから」
それを世界が悪と断じるとしても。全ては、最愛の兄のために。
ダスクモンは、片割れとも言える闇の闘士が居る戦場へと向けて、駆け抜ける。
*
雨が降る。
少女と龍の、美しい夢にも。
「こんなところまで入ってこないでよ……!」
ヒトミの世界が揺らぐ。
もちろん、メギドラモンの胸にしかと抱かれている彼女に、黒い針の雨は届かない。届かせてなるものかと、メギドラモンは彼女の覆いとなって、羽ばたきよりも自らが起こす熱に頼って空を舞い続ける。
だが、先に仕掛けられた時と同様、装甲は低純度のクロンデジゾイドを弾けども、薄い皮膜は既に見る影も無い。そうでなくても、ばらばらと屋根を打ち跳ねる豪雨じみた音の連なりは不安をかき立てるものだ。
加えて。
「っ」
音が止んだ瞬間。
それこそがむしろ、ヒトミの精神を苛む瞬間であった。
「ギギモン!」
『メギドフレイム』が、2人の間近にまで迫った『黒』を相殺する。
ブラックウォーグレイモンの必殺技、『暗黒のガイアフォース』。
ウォーグレイモンの必殺技『ガイアフォース』は、大気中のエネルギーを1点に集めて放つ、超高密度・高熱のエネルギー弾だ。
対して『暗黒のガイアフォース』は、本来のガイアフォースに必要なエネルギーを『負の感情』で代用した、闇の一撃。
ヒトミにとって、『闇』とは優しい存在だった。
それを纏う人は優しい人で。
陽が傾けば、大好きな場所に大好きな人達が集う時間がやってくる。
だが、『暗黒のガイアフォース』は違う。
純然たる殺意。深い憎しみ。……耐えがたい悲しみ。
そんなものが、炎の熱を伴って、ヒトミのところへと押しかけてくる。
それが悪い夢であれば、どれほど良かっただろう。
「……お嬢ちゃんも、炎に嫌な思い出があるんだね」
「そう思うならあんまり虐めてやるなよクソババア」
糞山の王がベレンヘーナの引き金を引き、物憂げに龍の居る空を見上げて居た環菜は、しかし次の瞬間ほとんどノーモーションで自身の周りにプロテクターを展開する。
かと思えば、入れ替わるように環菜のデジヴァイスから、ドラモンキラーに斬られた傷目掛けて飛び出すクロンデジゾイドの針。
アヴェンジャー・雲野環菜の宝具『鉄槌の怨王(キング・オブ・シルバーブレッド)』。
それは、環菜のパートナーの、元々の究極体の姿・メタルエテモンの『概念』を宝具化したもの。
『デジモンアドベンチャー』において、メタルエテモンは、選ばれし子供達の敵であったエテモンが復讐のために「クロンデジゾイドで全身を覆う」という進化を果たした姿だ。
この逸話から、『鉄槌の怨王』は復讐を志す者が装甲や武器という形で用いるクロンデジゾイドの性能を大幅に上昇させる宝具となっている。
ブラックウォーグレイモンのドラモンキラーしかり。
ブラックウォーグレイモンから採取したクロンデジゾイドを培養して生み出した、針や防壁のデータしかり。
舌打ち。
退却。
退いた先には、既に待ち構えているブラックウォーグレイモン。
振り向きざまに放った弾丸は、手甲も兼ねているドラモンキラーの曲面に受け流されてしまう。
「『ダークネスクロウ』!」
爪を突き立てるような格好で、自分に向かって振り下ろされたドラモンキラーを受け止め、阻む糞山の王。
刃の部分にさえ当たらなければ、自慢の龍殺しも機能しない。
このまま腕を振り下ろせば、素の腕部分を抉り取る事が出来る、と―――
「か、はっ」
足技。
ブラックウォーグレイモンの、これまたクロンデジゾイド製の脚甲が、腕を持ち上げてすっかり空いていた糞山の王の脇腹に叩き付けられる。……竜人よりも人に近い姿―――パペット型のエテモン種として戦闘をこなしてきた彼が培ってきた、体術による一撃だ。
糞山の王の体勢が崩れる。
彼の傾いた身体、その心の臓にあたる霊核をドラモンキラーで貫かんと、ブラックウォーグレイモンの腕が折り返し―――
「!」
『変化』。
風峰冷香の宝具によって召喚されたベルゼブモンをも翻弄したこのスキルで、糞山の王はその全身の姿を切り替える。
デジモンと人間。人型というくくりにはあっても、その体格は単純な大きさも含めてがらりと、それこそ「変化」する。
結果としてドラモンキラーは糞山の王の肩を軽く掠めるに留まった。
「っオラァ!!」
一歩。
踏み出し、踏み止まった糞山の王の脚が再びベルゼブモンのものへと変わり、地面を陥没させる。
そのまま今一度全身をベルゼブモンへと変えながらのタックル。肉体の擬似的な膨張も交えた衝撃に、ブラックウォーグレイモンは後退を余儀なくされた。
「ハッ。あばらが何本か逝ったか?」
言ってみたかったんだよなコレとからりと笑って見せる糞山の王。だが紫の仮面の下には、誤魔化しきれない痛覚を訴えるように脂汗が滲んでいる。
「次は背骨ごと叩き折るわ」
「今だけ無脊椎動物補正付かねーかな、俺様、蝿の王でもあるんだぜ?」
「その時は胴を真っ二つにしてから踏み潰すだけ」
「……面白みのねえ奴だな」
「それが何か、カンナを助けてくれるの?」
「なんだ、笑う余裕もねエただの雑魚か」
黒と黒。竜と竜が再び組み合う。
環菜がふんと鼻を鳴らした。
「そうだね。笑って生きられる。それに越した事なんて無いよ」
「オォン? なんだよ、解ってンじゃねーかよ」
「だけどアンタ達はあの人から、柳花ちゃんとピコちゃんから、……メルキューレモンから。そうしてアタシ達から『それ』を奪った」
「……!」
表情を引きつらせているヒトミに静かに笑いかけてから、環菜は糞山の王がいる方角に向けて、寒気がする程穏やかに続ける。
「だからアタシは、アタシの大切な人から全てを奪うアンタ達を許さない。奪われた幸せに、いつか得る筈だった幸せの分を足して、アンタ達を苦しめる」
復讐者が、雨に歌う。
「アタシはそんなに間違ってるかい?」
「間違ってる!!」
『地獄の咆哮(ヘル・ハウリング)』が、歪んだ歌を打ち消した。
「っ!」
衝撃波としてはガードできても、その大音響を全てブロックできる程クロンデジゾイドも万能ではない。
きぃんと鼓膜を裂くような痛みに、環菜が耳を塞ぐ。
「カンナ!!」
「気にしなくていい! 大したダメージじゃない」
とはいえ必要以上に声を張り上げた環菜の様子は、パートナーが聴覚に異常を来したと判断するには十分だった。
糞山の王を突き飛ばし、大事なパートナーを傷つけた相手を滅そうと、ブラックウォーグレイモンは飛び上がろうとして―――
「テメェの相手は俺様だってーの!!」
「!」
『ダークネスクロウ』が行く手を阻む。
鬱陶しいと吐き捨てて、しかし捨て置いて行くのも危険かと判断を正し、ブラックウォーグレイモンは再びドラモンキラーの切っ先を糞山の王へと突きつける。
「あの人は!」
今の環菜にさえよく聞こえるように、ヒトミはもう一度、声を張り上げる。
脳裏を過るのは、先日の戦い。……ゲコモンの姿をした、1人の人間の事。
「カジカPさんは、あなた達のバカに付き合って、必死で大事なものを守ろうとしてたのに!!」
「……カジカPらしいね」
「『それ』を盾にして、盾なのに振り回して! そんなの、それこそズルじゃん!! いい歳した大人が、恥ずかしくないの?」
「諦めな、そういうクラスなんだ」
「知らない。そんな言い訳、聞きたくないよ」
「うるさい、うるさい、うるさい―――! 何も知らないクセに、知ったヨうな口! 利かないで!!」
ヒトミがまだまだ幼いからこそ発する事が出来た一種の癇癪に、大人げなく反応したのは環菜―――ではなく、やはりブラックウォーグレイモンの方だった。
彼は糞山の王の胸を蹴るような形で後退し、即座に生成した『暗黒のガイアフォース』を腕を振り上げて発射する。
「っ」
糞山の王の隙を突き放たれた急拵えの一撃は、これまでと比べれば小規模だが、凝縮された昏い感情と、闇を火種に燃え上がった熱そのものに違いがある訳でも無し。
ヒトミはぎゅっとメギドラモンにしがみ付き、『暗黒のガイアフォース』を振り払った尾から爆ぜ、流れてきた熱風に身を竦めた。
と、
「飛べ!!」
追撃を、と、今度は持ち上げた腕の間に『暗黒のガイアフォース』を形成し始めていたブラックウォーグレイモンを、意趣返しと言わんばかりに蹴りつけながら、糞山の王が叫ぶ。
「―――え?」
「いいから好きに飛び回れ!! それがお前らのやり方なんだろ!?」
「う―――うん!」
王の突然の気迫に圧されてか、あるいはメギドラモンの側が彼の意図を汲んでか。紅い龍が、ただ、空を飛ぶ。
「逃がすか」
逃げるつもりなど毛頭無い。
だが、再度振り始めた針の雨が、今度は自分達を追いかけるような格好になっていて、長い長い六月の雨を置き去りにしているような、そんな不思議な錯覚を、ヒトミは覚える。
空を飛ぶ。
夢ではない。
壊れた世界は上も下も灰色一色。これっぽっちも美しくなんてなくて。
だけど、それでも。
……独り占めするには、少しばかり、もったいない景色で。
―――すごい、飛んでる!
かつてこの風景を見下ろして、声を弾ませた誰かが居た事を、何も知らない筈なのに、ヒトミはその中に見たような気がした。
「……ふふっ。三角さんに言ってみせたばかりなのにね」
少女は共に飛ぶ龍に笑いかける。
「わたし達も、もっと悩んじゃおっか、ギギモン」
龍は、少女に堪えて吼えた。
一方で、空の下。
どうしても意識をヒトミ達にも割かずにはいられなかったブラックウォーグレイモンの隙を突いて、糞山の王は今一度ベヒーモスを自身の足下へと喚び寄せ、悪路を一気に駆け抜ける。
そうして滑り込んだのは、丁度、空を飛ぶメギドラモンの真下。
「チッ、そういう事かい」
小賢しいねと、環菜が一度『雨』を切る。
環菜がその意図に気づけた以上、『龍の瞳孔』も既に同じものを見ている。
高度を落とし、ベヒーモスの真上を並走するメギドラモンはさながら『傘』。……いかに宝具で強化しようとも、環菜の用意した針ではメギドラモンのボディは貫通できないとは再三証明済みである。
「関係無い」
すっ、と。
いつの間にか環菜の側に控えていたブラックウォーグレイモンが、両腕のドラモンキラーを前に突き出す。
「『ブレイブトルネード』なら追いつける。一緒にいるならむしろ手間が省けるわ」
纏めて墜としてあげる。と。黒き勇者は、その場を飛び立とうとして―――
「―――!」
すぐさま、踏み出した足をそのままにして、踏み止まる。
「ああ―――そう」
『ブレイブトルネード』の構えも解除だ。
「あくまでカンナを苦しめる気なのね……!!」
メギドラモンの口の端から、めらめらと火の粉が後方へと流れている。
ぎゅ、と。環菜は、密かに唇を噛み締めた。
「頼りにしてるぜお嬢ちゃん。せいぜい俺様の事守ってくれよ」
当たり前に声の届く距離で、糞山の王があえて軽い調子でヒトミに台詞を投げかける。
言われるまでもないと、ヒトミは唇を尖らせた。
「守るだけじゃない」
ヒトミは琥珀のペンダントを握りしめる。
「皆に願われて、守られて、わたしはここに居る。だからわたしの一撃は、何かを守るだけじゃ、絶対に終わらないの」
メギドラモンの口内から漏れ出る光も、また琥珀色。
それは、全てを焼き滅ぼす炎かもしれない。
だけど、ヒトミにとってそれは、世界を照らすあたたかな光そのものだ。
「行くよギギモン」
龍は応える。
「これが、わたしたちの誓いだ!」
彼女達は、守る時こそが一番強いと、自分達自身を、信じている。
その祈りを、誓いを詠唱として。
宝具が、その真名(な)を解放する。
「『六月の龍は眠る、遠い夢の始まりで(メギド・フレイム)』!!」
「アタシの悲しみ、憎しみ……絶望も恐怖も諦めも何もかも、今のクロちゃんなら、力に出来る」
対して。
深く、深く。喉を焼かんばかりに熱の混じった空気を吸い込んで。
環菜が震える声で吐露するその言葉もまた、宝具の詠唱。
「全部全部、使ってやる」
ブラックウォーグレイモンの両の手の平。その間に出現する、黒い渦。
環菜から、そしてブラックウォーグレイモン自身からどす黒い影を吸い上げて、渦は炎となり、太陽のように肥大化する。
「だから―――」
それは、雲野環菜の第二宝具。
彼女の『物語』に決着を付けた、負の感情を糧とした『暗黒のガイアフォース』を宝具にまで昇華したもの。
「―――アンタ達も、同じ苦しみをその身に刻め。未来永劫、アタシ達の怒りに焼かれ続けろ」
巻き起こる気流に、焦げたような黒髪を波打たせながら。
この環菜は、かつて自分を救ってくれたパートナーの必殺技に、自分の大切なものに仇成す者達への呪詛を乗せる。
「『太陽喰らいの黒き勇者(ヒーローオブソーラーエクリプス)』!!」
琥珀の火と呪いの火。
放たれ、ぶつかり合った二つの火炎球は、お互いを拒絶し、喰らい合う。
いつか降り注ぐ光が、人々を守るように。
光が降り注ぐいつかが、これ以上優しい暗がりを侵さないように。
だいじなものが炎の中に消えた2人が、だいじなものをもう失わないようにと投げたそれぞれの火種に、優劣は無い。
ただ―――
「―――」
少女と龍の側には、もう1騎の竜が居た。
ただ、それだけの話なのだ。
「……」
銃声すら、誤魔化されてしまったな、と。
直前に己の感情を燃やし尽くした環菜は、自嘲気味に微笑む他無かった。
絢爛の炎。
光の塊。
それこそ、太陽のような。
目くらましにして。
ごうごうと燃え上がる音で、竜の唸り声も銃声も掻き消して。
『六月の龍は眠る、遠い夢の始まりで』と同時にメギドラモンの守護下から発車し、光に紛れられるかつ、ブラックウォーグレイモンをすり抜けられる直線上で、糞山の王は引き金を引いた。
「カン、ナ……?」
クロンデジゾイドの守りが無い女の胸元を、銃弾はあっけなく貫いた。
「カンナ!!」
環菜の身体が地面に付かない内に、振り返り、彼女に駆け寄ったブラックウォーグレイモンがその身を抱える。
だが、倒れるのを止めたところで、主より先に地面に零れた赤色は、彼女がもはや助からない事を何よりも雄弁に物語っている。
「悪く思うなよ。いや、別に悪く思ってくれたっていいけどよ」
「先に「殺す」って言ったのは。……あなた達だよ」
「カンナ、カンナッ! やめて、待って、だめヨ。コウキちゃんとだって、約束―――」
ヒトミ達のことをまるで構わずに、ブラックウォーグレイモンは環菜の身体を揺すり、その名を呼びかけ続ける。
「カンナ、カンナ……!!」
「……」
「付き合ってやる必要は無え。……行くぞ、サマナーもといテイマーが待ってる」
「……うん」
パートナーを失ったデジモンは消滅する。
……『デジモンプレセデント』の作者は、20××年という未来を「ある程度その縛りが無くなった世界」と描写していたが、雲野環菜はエインヘリヤルだ。主体となっている人間が消滅すれば、パートナーデジモンは現代の彼らと同様、パートナーの後に続かざるを得ない。
既に環菜の身体の粒子化が始まっているのが、2人にも見えた。消滅は時間の問題だろう、と。……彼女達の最期までをも邪魔する謂れは無いと、糞山の王とヒトミは、彼女達に背を向ける。
「カンナ……ねえったら……」
「……ごめん、しくじった」
「もう少し一緒にいましョうヨって、言ったじゃない」
「少しは、一緒にいられたじゃないか」
「方便ってモンでしョ、わかんないの!? カンナはもっと、もっともっと! これから沢山、お洒落して、美味しいものを食べて、毎日毎日、面白おかしく、笑って生きる―――」
―――筈だったのに。
ぞくり、と。
低く、抑揚無く発せられたブラックウォーグレイモンのその過去形に、冷たいものが糞山の王とヒトミの背筋を駆け抜けていく。
「……ええ、そうヨ。その筈だった」
「……」
「それなのに、それなのに……!!」
思い返せば、最初から違和感はあった。
アヴェンジャーにしては―――『雲野環菜』というキャラクターにしては、冷静な振る舞い。
『デジモンプレセデント』の作者は復讐者の在り方を「持てる全てを以て自らの怒りを体現する者」と定義付けている。だが、復讐対象の一味を目の前にして、環菜は終ぞ、声を荒げる事すらしなかった。……そうしていたのは、『デジモンプレセデント』本編中では環菜の元在った優しさや理知的な部分を代弁していたスカモン―――ブラックウォーグレイモンの方ばかり。
そして、糞山の王とヒトミは与り知らぬ話ではあるが。
この環菜は、長い黒髪の環菜は。復讐を終えて、妄執から解放されて久しい姿。
何故、そんな彼女が、わざわざアヴェンジャーのクラスで現界したのか。
そもそも、この相違点の『元の雲野環菜』はどうなったのか。
「皆してカンナから奪っていく。カンナの綺麗な時間を。カンナの綺麗な思い出を」
ブラックウォーグレイモンは、その光景を見てきたかのように連ねる。
否、見てきたかのよう、ではない。
見たのだ。
婚約者・栗原千吉を奪われた彼女―――だけではない。
……ブラックウォーグレイモンは、すぐ側で見ていた。
ユミル進化が人間に伝播し始め、混乱に陥った世界をどうにか立て直そうと研究者達が対策本部を立ち上げ、その中心となって働き始めた環菜が―――『ユミル』という単語から栗原千吉に、そして彼女に辿り着き、雲野環菜こそが事態の元凶だと思い込んだ、もう人には戻れなくなってしまったデジモンに刺し殺されるのを。
あまりにも無力な、幼年期の瞳で。
「ごめんね、クロちゃん」
「どうしてカンナが謝るの?」
謝罪の言葉を最期にかき消えた環菜の残滓を抱きしめて、黒き勇者が立ち上がる。
「いっつもそう。カンナは何も悪くないのに、ヨってたかって、皆がカンナにひどい事をする」
振り返った彼の眼差しは、黒一色。
「嗚呼、カンナ。カンナはずっと、こんな気持ちだったのね」
―――許さないでやろうと決めた。何もかもを。
「クロちゃん、なんにもわかってなかった」
出現した聖解によって、エインヘリヤルとしての環菜がこの相違点に召喚された。
彼女は確かに、紛うこと無き雲野環菜で。
今度は自分を喚んだ兄妹の力になろうと、頼もしく笑う姿に「間違い」なんて無くて。
だけど彼女は、やっぱり彼の知る雲野環菜ではなくて。
そして、大切な人が帰ってきたとしても。世界の全てを憎むに至った絶望そのものが消えるわけでは無いし、愛する人を奪われた痛み自体が消える訳でも無い。
……環菜の死の遠縁となった、環菜の大切な人まで、恨んでしまいそうになる程に。
黒い炎はコロモンの胸を焦がし―――エインヘリヤル・雲野環菜と共に在ったブラックウォーグレイモンとの融合を果たすという形で、彼は、彼女からは独立したエインヘリヤルと化したのだ。
「……気ぃ引き締めろ、お嬢ちゃん。まだ何にも終わっちゃいねえ」
糞山の王にそう声をかけられても、身が竦むのをヒトミは抑えられなかった。
……程度の差はあれ、糞山の王も、それは同じで。
「アヴェンジャー・ブラックウォーグレイモン」
復讐鬼が、改めて真名を名乗る。
もはや、炎そのものを心の傷として抱えていたパートナーも、今度こそ側には居ない。消えてしまった。もう留める必要は無いと、彼の胸の内からこんこんと、尽きること無く湧き上がる黒い炎を、ブラックウォーグレイモンはその身に纏う。
「カンナ。……オイラ、こっちに来ちゃったヨ」
そうして、嵐がやって来た。
*
「『おいで、愛し子達』」
竜のなり損ないのような、デジモンの精気を貪る牙と翼だけを持つ黒紫の生命体―――イビルビルが、スピリットをヒューマン形態にスライドしたシフと、ダブルスピリットの使用に踏み切った玻璃へと降り注ぐ。
「『ツヴァイ・ズィーガー』!」
「『赤十字架(ロート・クロイツ)』!」
光の刃に触れただけで、イビルビルはぎゃっと短い悲鳴を上げて焼け落ち、獅子の赤い瞳から放たれる十字の光線は問題なく彼らを薙ぎ払う。1体1体は、そう脅威となる存在では無いのだ。
問題なのは、その数。
「ほらほらぁ、まだまだおかわり、あるんだからぁ!」
「っ」
舞宵がぬいぐるみを掲げる度に、多島柳花とピコデビモンの融合したネオヴァンデモンをも上回る量のイビルビルが喚び出される。彼らはあくまで使い魔であるが故に、玻璃の『オフセットリフレクター』でも無力化する事は出来ない。
加えて、舞宵は戦闘開始時から上空を陣取っている。制空権を取られている以上、飛行能力を持たない光の闘士は攻撃を仕掛ける事すら難しく、ライヒモンでさえ完全に動きを読まれてしまっているのだ。
柳花とは全く異なる戦闘スタイルは、2人の『飛行』に対する認識の差によるところが大きい。
柳花にとって、空を飛ぶ行為は本編中でも触れられている通り非日常的なものだ。
確かにヴァンデモンは飛行能力を持っており、相違点の彼女も移動時にはその力を用いていたが、それはあくまで人間である柳花にとって「やや特殊な移動の手段」。
故にパートナーと融合して尚、戦闘時の移動には『ブラッディーストリームグレイド』を利用し、スキルとしての飛行能力を持つヒトミとメギドラモンを使い魔・レグルスモンに任せる等、柳花は「地に足をつけて」の戦闘を好んだ。単純に、その方がイメージしやすかったのだ。
だが、元々はただの女子高生である筈の舞宵は、パートナーの飛行能力をその身に纏っても遺憾なく発揮することが出来る。
舞宵は、愛する『月の光(だぁりん)』を、目で、心で。常に追い続けている。
そして月は、空で妖しく輝くものだ。
ネオヴァンデモンが出来る事は
ネオヴァンデモンの力を纏った己にも出来る。
憧れに対する模倣。
故に舞宵は、『月光将軍』そのものとして、この場に君臨する。
(だから、これ以上戦闘を長引かせる訳には……!)
舞宵の強みを考察し、迫り来るイビルビル達を切り伏せつつ、シフは焦燥に歯噛みする。
舞宵が実質ネオヴァンデモンである以上。
月が満ちれば、やはりあの冷たい終焉の光が射す。
イビルビルの黒い羽の隙間から舞宵の胸元を伺えば、既に半月を迎えている。ここまでの時間経過から計算すれば、そう長く時が残されていない事は想像に難くない。
(宝具を用いての強行突破? ……ダメだ。私のベオウルフモンの力じゃ―――『リヒトアングリフ』ですら、柳花さん達のイビルビルを突破できなかったのだから)
加えて、これ以上のリソース消費は、とシフが視線を流した先には、ミラーカに抱えられ、彼女と共にアルクトゥルスモン―――柳花とピコデビモンが遺した最後の伏兵―――の対処に当たる、テイマーの姿。
ミラーカは文句なしに強力なエインヘリヤルだ。
だが
「っ」
『ブラックデス』―――アルクトゥルスモンの高速回転するドリルが、ほとんど掠めただけに過ぎないミラーカの翼をぐるんと巻き込み、根元から引き千切る。
お返しとばかりに『ブラッディーストリームグレイド』がアルクトゥルスモンの首へと伸びるが、どこか動きにキレが無い。それでも吸血鬼の爪は黒竜の横顔を抉ったが、アルクトゥルスモンが意に介した様子は無い。回避と同時に身体を深く傾け、再び右腕のドリルをミラーカに向けて突き出す。
……少し前から、ミラーカの行動は回避の割合が多くなっており、そして彼女の試みはお世辞にも上手くいっているとは言い難い状況だった。
不死王とまで称されるグランドラクモンの血を引くミラーカにとって、攻撃とはそもそも避ける必要の無いものだ。現にドリルに巻き込まれ、終いには粉砕された彼女の翼は、既に元の形を取り戻している。規格外の再生能力と言えるだろう。
「っ、うう……!」
「未来さん!」
にも関わらず、そんな彼女が「逃げ」に徹し、三角が必死に彼女の名を呼び続けているのは、アルクトゥルスモンの攻撃を受ける内に、ある異変が彼女の肉体では無く、精神に起こり始めたからである。
GRB因子。
それはデジモンの性格を変質させ、凶暴化させる感染物質である。
エインヘリヤルに対しては、擬似的な狂化を付与する因子だと言っても良いだろう。
元より狂化を持つバーサーカーである点。
霧の結界の力。
この要因によって、ミラーカはどうにかアルクトゥルスモンを敵と定めたまま戦闘を続行させるだけの理性を保っているが―――
(そんな中で、戦力で劣る私がこれ以上リソースを消費する訳には)
「ねえ、余所見してる場合ぃ?」
「っ!?」
イビルビルの運用がメインとはいえ、舞宵の必殺技はもちろん『ナイトメアレイド』だけではない。
今は舞宵の尾となっているネオヴァンデモンの腕が、イビルビルを掻き分けて天から降る。
直撃こそ免れたものの、迷いあるシフの聖紫水晶(セントアメジスト)の鎧は爪の先がなぞったとおりにざっくりと裂け、周辺にも深く、亀裂が走る。
「『リヒト・ズィーガー』!」
だが、僅かでも本体が迫った今がチャンスと咄嗟にリヒト・シュベーアトを振るうシフ。
舞宵の尾はすぐさま元の位置へと収縮したものの―――幽かな手応え。
「んもぅ、生意気! お城に来るあいつらみたいで、よけーむかつく!」
「……それはネオヴァンデモンさんを狙う天使型デジモンやウイルスバスターズのデジモン達の事ですか?」
「? ふぅん、へえ。よく知ってるんだぁ」
だからって、それに泣いて謝ったって。今更許してあげないんだからぁ。
蜜を塗ったように甘い声音が、容赦なくそう宣言して。更なるイビルビル達をシフに差し向ける。
だが、その苛立ちの意味するところは、「シフの攻撃はある程度有効である」という事。
(刃が届きさえすれば、ヴォルフモンの攻撃でも決定打になり得る)
少なくとも『デジモンアドベンチャー』の、現実の地続きと設定される未来の物語『デジモンプレセデント』では、『光』の力は『闇』に対して強い力を持つ筈なのだ。
(だけど―――どうやって? どうやってイビルビルを掻い潜って、空を自由に舞う舞宵さんに、攻撃を?)
「『黒定理(シュバルツ・レールザッツ)』!!」
イビルビルを捌くのが精一杯のシフの傍らで、意を決した玻璃が、物理法則を無視出来る『黒定理』をスキルとして用いてイビルビルの壁を抜ける。
闇の守護帝の金色の翼は空を駆け、断罪の槍の穂先が舞宵に迫る。だが実際にビッグデスターズに所属する月光将軍には「宙を縦横無尽に駆け巡る槍」に覚えがあるのだろう。
属性的な不利は起こりえないというのもあって、舞宵は臆すること無く槍を捌き、反撃に尾を差し向ける。
(でも、断罪の槍じゃなくて、リヒト・シュベーアトなら?)
その時、ふとシフの脳裏に閃くものがあった。
リヒト・シュベーアトをどうにか玻璃に手渡し、『黒定理』の力でもう一度イビルビルの壁を無理矢理突破すれば、今や光の闘士の資格は無くともリヒト・シュベーアトの扱いに心得はあるであろう玻璃であれば、舞宵に刃を届けられるのでは無いか、と。
「玻璃さ―――」
そう、呼びかけようと。
目の前のイビルビルを切り裂き、その合間から玻璃に手を伸ばそうとした、その時。
「―――!」
玻璃の視線は、シフに、ではなく、そして舞宵すら居ない方角へと固定される。
きっと、スピリットの片割れを持つ玻璃だけが持ち得る共鳴感覚。
―――セイバーの京山玻璃が、この場に接近しているのだ。
(だけど今は、舞宵さんが先決。最初の集落での事を踏まえれば、まだ、僅かといえど時間は残されている筈)
だから、リヒト・シュベーアトを玻璃に渡さなければ。
そうするだけで、彼女は察してくれる筈。
彼女という闘士なら―――エインヘリヤルなら。きっと、きっとこの状況だって、切り開いて―――
―――闇の闘士と、話さなければ。
「スライドエヴォリューション! 『スピードスター』!!」
ガルムモンに転じたシフが、玻璃に向けて突撃する。
翼のように開いた刃はその名の通り彗星になって目の前の、そして玻璃の行く手を塞ぐイビルビルを切り開く。雲の隙間から、僅かに漏れる光のように。
「行ってください、玻璃さん!!」
そのまま足を止めること無くイビルビルの増援を蹴散らしながら、シフは声を張り上げる。
「!」
振り返り、大きく目を見開く玻璃を見ても、シフにはわからない。
必要性を感じない、合理的で無い行動。戦闘に感情も感傷も必要ない。それで何度窮地に陥ったかもわからない。
のに。
―――沢山感じて、考えて、伝えればいいのさ。キミの想いってヤツを。
「あなたは、そのためにここに来たのでしょう!?」
これだけは、わかるのだ。痛い程に。
ずっと、憧れてきたから。
『造られた存在』で、ようやく飛び出した世界は解らない事だらけで、辛い事や悲しい事が沢山あっても。
大切な人の手を取って笑った1人の少女に、読者として、心から。
きっと『彼女』ならこうすると、自然と考えてしまう程に。
「シフ。……ありがとう、ございます」
感謝の言葉と共に、スピリットを機動力に長けたカイザーレオモンのものだけに切り替え、視線を向けていた方角に駆け出す玻璃。
「行かせないんだからぁ!」
「やらせません!」
一瞬の背中合わせ。
玻璃の『盾』となるように立ちはだかったシフが、口内に曇り空の下の、僅かな陽光をかき集める。
「『ソーラーレーザー』!!」
十全とはいかずとも、かつては蝙蝠であったもの達には眩しすぎる太陽の光。
玻璃に差し向けられたイビルビルは瞬く間に焼け落ちた。撃ち漏らしはあるが、闇の獅子を追える程に十分な数が残っているとは言い難い。
「……一度だって、まよにあたっくできてないのに」
呆れたように、しかし艶やかに、舞宵が花の蕾のような唇から吐息を漏らす。
「1人でどうにかできると思ってるのぉ?」
その間にも、霧を掻き分けて、親衛隊のように彼女の愛し子達が舞宵を囲む。
「わかりません」
愚直に応じ、姿を再びヴォルフモンへと切り替えながら、しかし『読者の視点』を改めて認識した事で、シフの中に新たな考えもまた、芽生えてはいて。
「でも―――負けません」
静かに啖呵を切ってリヒト・シュベーアトを十字に構える。
「……ふふっ」
シフがあまりにも真っ直ぐに訴えるものだから、つい、年頃の少女として、この時ばかりは舞宵もまた、笑みを零す。
「まよも負けてあげなぁい♡」
霧の中。
歪めた唇は妖艶な三日月を描き、しかし胸元の月は、今にも満ちようとしていた。
「う、うぅう゛う……!!」
「未来さん、しっかり!!」
「だい、じょうぶ、ていまぁ。……だんだん、わかってきたから」
たどたどしく、しかししっかりと三角の呼びかけに応えて、ミラーカはすんでの所でアルクトゥルスモンの『ブラックデス』を、今度は髪一つ傷つける事無く回避する。
所謂、死に覚え。
アルクトゥルスモンの必殺技は、両方とも両腕のドリルを用いて放たれるものだ。腕を注視していれば、ある程度動きが読めるようになってくる。
本来であればそれまでに戦闘不能にされてしまうのだろうが、ミラーカの規格外の不死性が、アルクトゥルスモンの動きを文字通り身体に覚えさせたのだ。
加えて、GRB因子による狂化の擬似的なランクアップ。
理性は削り落とされようとも、吸血鬼としてのバトルセンス、もしくは本能は、ある意味では研ぎ澄まされていく。
……そして、先に三角と契約を結んでいたことが、結果的に功を奏した。
彼が死ねば、再生のためのリソースを確保できなくなり自分も死んでしまう、と。『本能』の部分が、今回ばかりは三角を獲物と定める事を拒んでいるのだ。
「それに、三角さん。私の名前、たくさん呼んでくれるから」
GRB因子に思考を侵されて尚、三角が自分の名前を呼ぶ度に、ミラーカは僅かに幸せな時間を思い出す。
司会のお姉さんに合わせて、大声でヒーローの名を叫ぶ、子供達の背中。
「私は、ヒーローに」
「大丈夫です、俺、何回でも未来さんの事、呼びますから」
「……うん!」
左腕でがっちりと三角を抱え直し、ミラーカが右腕を伸ばしてアルクトゥルスモンに掴み掛かる。
高速で伸びる腕を避けることは叶わず、鉤爪はアルクトゥルスモンの首筋に突き刺さる。
だが、されるがままでいるようなアルクトゥルスモンではない。彼は冷静に、右手のドリルでミラーカの腕を切り離す。
本体に繋がっている側はすぐに彼女自身が引き寄せたが、ミラーカを離れた腕はそれまで攻撃を受けた部位同様、巻き取られ―――
「―――!」
がしり、と。
独りでに反転した吸血鬼の手首が、己と繋がっていた肉体が最後に下した命に従って、ドリルの台座部分に爪を立てる。
ぎゃりぎゃりぎゃり! と金属のこすれ合うような凄まじく耳障りな音を立てながら、「かえし」のようになっているネオヴァンデモンの手甲の棘部分もまたドリルに纏わり付き、接合部に絡みつき―――ついにドリルの片側を制止させるに至る。
「ああああああっ!!」
その右手のドリルにイビルビルをけしかけつつ、同時に仕掛けたミラーカが用いた武器は―――牙。
構造上絶対にアルクトゥルスモンが左手のドリルでは狙うことが出来ない彼の左肘に半ば飛び乗るようにして、ミラーカは竜人の逞しい首筋に食らいつく。
「悪から゛ならば、吸っても」
舌に滴り落ちたアルクトゥルスモンの血が更に理性を焼き焦がす。
「いぃ、よ、ね゛ッ!?」
GRB因子はアルクトゥルスモンの攻撃だけでなく、全身から分泌されている。もちろん、血液データも例外では無い。
更なる狂化物質が、ミラーカの精神を汚染する。
だが、ここまで来れば、『悪』のを血を吸い尽くし、首を噛み千切るだけでいい。後のことは、きっと、どうにでもなると―――それを考えるだけの思考力も、もはや欠如し始めている。
それでも―――
と。吸血鬼の顎が、邪竜のテクスチャをバリバリと噛み砕き始めた、その時だった。
「がっ」
回転の力を失い、イビルビルに穴だらけにされてなお。
右手のドリルにGRB因子を纏わせ、その単純に鋭い切っ先を相手に叩き付ける事は、不可能ではない。
ほとんど鈍器に近い扱いで黒い光を纏ったドリルはミラーカの口元を殴り飛ばし、牙を折り、アルクトゥルスモン自身の肉をも巻き込んで、無理矢理に彼女を自分から引き剥がす。
「み―――未来さん!!」
次いでドリルは、同じ要領で、己の左腕を切り落とす。
肉体が物理的に離れた事で、それを足場にしていたミラーカもアルクトゥルスモンから引き剥がされる。
咄嗟にミラーカはアルクトゥルスモンの左腕を蹴り、後ろに跳び退くが、着地にまで気が回らず地面を転がった。
「っ」
途中、軽く瓦礫で引っ掻いたのか。
三角の頬に、小さな小さな傷が走る。
「―――っ」
血のにおい。
なにものにも汚されていない、新鮮な血のにおい。
「う、ううううううう……!!」
「未来、さん?」
再生したミラーカの口から、GRB因子に汚染された己の血に混じって、涎が零れる。
必死に抑えても、敵を引き裂くことに特化した指は隙間だらけで、瞬く間に黒と赤混じりの斑点が、三角の目の前で地面に広がっていく。
「……」
アルクトゥルスモンは追撃を仕掛ける事すらしない。
最初から、「こう」戦闘を運ぶつもりだった。
―――GRB因子を用いてバーサーカーの狂化を更に上昇させ、彼女自身にテイマーを殺させなさい。
主を殺した者に相応しい末路を仲間達に尋ねて。
アルクトゥルスモンは、主の友の1人が上げたその案を、彼女への手向けとする事に決めたのだった。
「未来、さん……っ!」
吸血鬼の赤い目が、自分の名を呼んだ青年を捉えた。
*
絵本屋―――ゲイリー・ストゥーの脅威は、スキル『絵本屋』そのものではなく、彼自身に備わった所謂「辞書を引く力」にある。
マンモンの千里眼を含めた無数の情報の中から、その場に必要な最適解だけを抜き取り、新たに検索した的確な対処法をぶつける。『絵本屋』使用権を得たのが幼少期である事から自然と慣れ親しんだ、というのもあるが、その能力は本人の才覚によるところも大きいと、とあるインタビューで作者は述べている。
ゲイリー・ストゥーは、数回に渡る致命的な挫折さえ無ければ、割とどこででも通用するハイスペック人間になり得た、と。
多かれ少なかれ、物語の主人公なんてものは、そういう所謂『メアリー・スー』でなければならない、と。
件のインタビューは上述の部分やその他の発言を「他の作家さんを巻き添えにするな」「挫折も何もそもそも全部お前のせい」「心根が邪悪」「シンプルに悪趣味」「頭レンタルビデオ屋」と手ひどく叩かれたが、つまるところ、作者にとってゲイリー・ストゥーは「主人公らしい主人公」なのである。
「……図体だけの化生かと思っていたが、なかなかどうして、だな」
一度距離を置き、刀と鞘、異色の二刀流の剣士(セイバー)・クヅルは、今一度ゲイリー・ストゥー―――エインヘリヤル、バーサーカー・絵本屋のパートナー、リヴァイアモンの動きをつぶさに観察する。
姿の見えない絵本屋は「殺せ」「死ね」と喚き散らし、未だクヅルを仕留められないリヴァイアモンを時折罵倒するばかり。
リヴァイアモンもまた、その大きさに任せて暴れ回るばかり。
……と、一見すれば、それだけに見える。
だが。
「やはり、殺す動きが念頭にある」
クヅルの後退とほとんど同時に、リヴァイアモンは同じ方角に前進していた。
俊敏性で敵う相手ではないとはいえ、肉体の大きさは、歩幅の大きさに直結する。同時に距離を詰め、更に一歩踏み出し、鼻先を一見すれば華奢な少女にぶつけられれば、ただそれだけで、この体格差であれば致命傷に直結しかねない。
口先だけでは無い、人殺しのための効率的な挙動。
人を殺せる、殺した経験を与えられているクヅルには、それが解る。
絵本屋は思考を狂気に蝕まれようとも、直感的にその場に適した命令を下し。
リヴァイアモンはこれまでに積み重ねてきた経験から、要領を得ない絵本屋の言動を、千里眼を用いるまでも無く的確に読み取り、実行する。
そんな彼らの半端な賢さと絆が、こうして彼を狂わせたのだから。
突進を見越して今一度クヅルは斜め上に跳び、リヴァイアモンの上顎に飛び乗る。近付けば視認できる刀傷は無数にあるが、どれもこれも掠り傷。鼻先から後頭部にかけての黒い鱗は特に頑丈で、刃毀れを知らないクヅルの刀を以てしても打ち砕くのは容易ではないと、彼女は足蹴にした鱗をただの足場と割り切って、駆ける。
目を狙う事もとうに試したが、ここも周りを同じ鱗に守られている。己の身の丈を超える1枚を飛び越えたところで、着地に適した刀を振るうために踏ん張りの効く足場も無く、鱗の隙間に掴まったところでクヅルの体躯では肝心の刃が届かない。振り落とされれば、待ち構えるのは巨躯を支える太い脚か、ギザ刃じみた鋭い鰭を備えた長い尾による鞭打ち『カウダ』ときている。
故に、それも諦め、無視して進む。
クヅルが刀の切っ先を降ろしたのは、黒い鱗が途絶えた先。即ち、後頭部より後ろ。
リヴァイアモンの、背にあたる部位。2列に並んだ背鰭の間。尾では叩けない位置に付けた。
「はあああああっ!」
先に飛び乗った際に砕いた鱗の隙間に刀を差し込み、もう片腕に握りしめた鞘を鎚としてさらに打ち込む。
柄のギリギリまでリヴァイアモンの肉に沈み込んだ刀を、クヅルは改めてしかと握り、足裏で自身の身体を押し上げるようにして、刀をリヴァイアモンに刺したまま、前進を始める。
ばきん、ばきん。と。小気味良い音と共に人の身を超えた『怪力』が、斬るというより周囲の鱗を押し退けて、徐々に大鰐の肉を斬り開く。
たちまち溢れ出した生ぬるい血液データがクヅルの足下に満ち、濡れた鱗はずるりと足を滑らせた。
途端に前進は叶わなくなり、刃は割れた鱗に挟まれて。クヅルはほんの一瞬、身動きが取れなくなる。
その刹那を突いて―――視界が、横転する。
「!」
リヴァイアモンが、仰向けに転がったのだ。
「潰れろ、潰れろ、跡形も無く! 王さまも馬も何もかも無駄にして!!」
地面が迫る。
だが、クヅルは冷静に、今度は鞘で刀のすぐ側を打ち、その衝撃で赤の底から黒い刃を引き抜いた。
赤く濡れた髪をたなびかせ、傾き、血の引いた鱗を蹴って。
目の前の背鰭を引き裂き、悪魔獣の丸く肥えた横っ腹を走る。
「ようやく腹を見せたな」
可愛げの無い獣だとリヴァイアモンを鼻で笑って。
熟れた鳳梨にも似た黄色い腹に―――一太刀。
あくまで背中や鼻筋に比べれば、だが。しかしブラックデジゾイド製とも噂されるエインヘリヤルの得物は柔らかな腹に易々と沈み込み、それからは、背中でやった事の、背中でやるよりも容易な『繰り返し』だ。
一閃。
クヅルの早駆けに合わせて、一直線。刀が鰐の腹を割く。
噴き出す血すら、今度はクヅルを捕らえられない。リヴァイアモンの腹部を駆け抜け、彼女が向かいの地面に着地した時には、既にリヴァイアモンの足下は血の池のようになっていたにも関わらず、だ。
だが―――
「……まだはらわたにまで届かんか。ほとほと呆れる皮の厚さだ」
周囲の建物を下敷きにして巻き込みながら全身を一回転させ、リヴァイアモンは腹に赤い滝を拵えながらも、何でも無いかのようにその場で立ち上がる。
否、デジモンの負傷度合いを視覚的に表す血液データは、人間のそれと同じでけして飾りでは無い。致命傷には届かずとも、これまでのように軽傷では済んでいない。
だが、リヴァイアモンは、彼女は獣だ。
我が子を命懸けで守る母象になりたかった怪物の、成れの果て。
叶わなかった、叶うことの無い、己が己に定めた使命と本能に従って―――
「さっさと仕留めろ木偶の坊!! これ以上、俺を―――」
―――絵本屋が側に居る限り、彼女は命尽きるまでその力を振るう。
「案ずるな。次で終わらせる」
油断では無い。ただの事実確認。
クヅルの足運びを以てすれば、所謂ボディプレスが彼女の身体を潰すよりも早く、クヅルは次の一太刀で、リヴァイアモンの腹の内側に入り込めるまでの傷口を拓く事が出来るだろう。
いかにそれらしく血が零れようとも、リヴァイアモンはデジモン。テクスチャの先に待つのは内臓の類ではなく伽藍堂だ。
そしてその向こうには、彼らの心臓―――デジコアが在る。
クヅルの居た箇所が、静かに爆ぜる。
音も無く、ただ、常人には目視できない距離で、クヅルとリヴァイアモンの距離だけが縮まる。
黒鉄の刃が、リヴァイアモンの裂けた脇腹へと迫り―――
「―――っ」
穴が、空く。
1箇所ではとても済まない。全身に、大小無数の穴が。
右のこめかみから額にかけて裂けた傷口から流れ出た血液が視界の半分を塗りつぶし、クヅルは残された左目の世界に、「己の」負傷の原因を探す。
「……嗚呼」
成程。と、素直に感嘆を漏らした。
膝が、踏み込みには不必要な程の角度に傾く。濃紺の野袴からも、彼岸花のように鮮やかな紅の色が噴き出していて。
リヴァイアモンの回転攻撃。
あれはクヅルをふるい落とすためだけではなく、周囲の瓦礫を更に細かく粉砕する事を目的とした一撃だった。
ただでさえ遠くに伸びる魔獣の尾が、砂煙に紛れて、一振り。
密かにかき集めた瓦礫を払い、砲弾のように撃ち出して―――それは狙い通り、クヅルの全身を貫いたのだ。
「美事だ」
賞賛に舞い上がる神経など、はなから持ち合わせては居ない。
次の瞬間、再度振り直された尾による『カウダ』が、体幹を崩し、制止すらままならなくなったクヅルを打つ。
十数軒分の廃墟を突き抜けながら、少女の身体が遙か彼方まで吹き飛ばされる。
遠くで何かが崩れるような音を最後に―――あたりがしぃん、と、静まりかえった。
「っ、う……」
リヴァイアモンの内部。デジコアの側の空間。
周辺の形在る物を概ね打ち崩し、敵性反応もレンジ内から消え失せ。緩やかにランクを低下させ始めた『狂化』に絵本屋は軋む頭を押さえつける。
リヴァイアモンへの進化はその見た目通り、莫大なリソースを必要とする宝具である。
聖解のバックアップがあるとはいえ、エインヘリヤル自身の負担も計り知れない。僅かに明瞭になった思考回路が、まず鈍い痛みを訴え始めたのだ。
低い唸り声が、リヴァイアモンの腹の底から響き渡る。
「……骨の笛でも無いのに歌ってくれるな。ましてや橋のたもと、川辺のような有様で」
「―――」
「うるせえ」
己を心配するリヴァイアモンを、かなり遠回しに「お前の方が遙かに重傷だろうが」と突き放して。
だが、そんなものでも「今回は」勝利で戦闘を終えられたと。絵本屋は、半ば自動的にリヴァイアモンを退化させようと自身のデバイスを取り出し―――
「―――は?」
その直前。
デジコアの周辺に展開されるリヴァイアモンの視覚情報が、真紅の影を照らし出す。
「真血、解放」
ずきり、と。
「―――った」
穿つような痛みと共に、再び狂気に呑まれる頭が、それでも『絵本屋』から今より訪れる『敗因』を弾き出した。
「しくじった―――俺達はまたしくじったッ!!」
悲鳴のように。
「貴様らに恨みはないが……殺し合いだ、泣き言は聞けんぞ」
女の声が、凜と響く。
『絵本屋』は、けして万能のスキルでは無い。
使用者自身が知ろうとしなければ、『絵本屋』が自発的に情報を与えてくれる事は無いのだ。
例えばの話。
目の前に敵対者がいるとして。
その敵対者が全身から血を流しているとして。
その血の血液型や成分、含まれる遺伝子情報を、戦いの最中に。わざわざ知りたいと考える者は、果たしているだろうか。
そんな事を考える暇は無いと、そう考える者が大半では無かろうか。
絵本屋とてその例には漏れない。
否、それでも彼が絵本屋ではなく『ゲイリー・ストゥー』であれば。彼はマンモンを通じて『絵本屋』を正しく『ラプラスの魔』スキルとして運用し、敵対者―――クヅルの血の脅威に事前に気付けていた筈だ。
彼がエインヘリヤル・絵本屋で。
パートナーへの悪態を狂気と紐付けられ。
宝具という切り札を切ったからこそ、彼らは、完膚無きまでに、敗北する。
―――鬼。
ガイオウモンの血。
戦闘時の流血に伴い、人としての躰が死に近付く程に、彼岸の力を顕在化させる、クヅルの宝具。
その真名を、『鬼種流離譚・鬼哭愁終(きしゅりゅうりたん・きこくしゅうしゅう)』という。
絵本屋は、クヅルを一撃で仕留めるべきだった。
もちろん、絵本屋は最初からそのつもりであった。
狂気に犯された神経にむしろ慢心は無かった。だが、「知っていればもっと他に方法はあった」と言い訳を並べ立てる『絵本屋』の情報そのものを引き裂くように―――鬼が、天から降ってくる。
刀を突き立て。
鞘を叩き付けて突き破る。
やっている事は同じでも、ガイオウモンの力を顕在化させたクヅルは、今度は容易くリヴァイアモンの背を斬り開いた。
その身が落ちるに任せて、刀はリヴァイアモンのデジコアを両断する。
断末魔に、リヴァイアモンの内部空間が波打った。
「チューモンッ!!」
思わず手を伸ばし、絵本屋の口を突くのは、『彼女』のかつての姿の名。
だが、もはや何もかもが手遅れだ。デジコアを直接破壊されたリヴァイアモンは瞬く間にその巨体を粒子化させ、消滅する。
……『運命のパートナー同士』でもなんでもない絵本屋は、彼女の退去に自動的に続く事は出来ない。加えて、絵本屋の狂気の源泉は、『彼女』と選ばれし子供である。
その両方が側に無いこの瞬間、完全に正気の絵本屋は、血塗れの鬼とただ2人、その場に残された。
「……チッ」
誤魔化すように引き戻した手でズレていたサングラスのブリッジを調整し、絵本屋は舌打ちと共にクヅルへと向き直る。
そうして、彼女の頭頂からつま先までを、まじまじと見つめた。
「一寸法師は俺の方か。魔王の腹の中で胡座をかいていたら、針山の鬼が押しかけてくるたァ全く京の都は人外魔境だ。鼠に食われた蔵の壁より薄くて粗末な有様で、お前さん、一体全体どんな理屈で二本の足で立ってやがるんだい?」
「これは聖解の受け売りだが、手足の1つや2つ損なった程度であれば動けるらしい」
「ンなもん見りゃ解る。ほとんどもげてんだからな」
ふざけやがって、と絵本屋は肩を竦める。クヅルもふんと鼻を鳴らした。
「巫山戯ると言えば、貴様の方こそだ。急にどうした、べらべらと」
「……俺は『迷路』の救いの手。誰も彼もに親切な絵本屋と言えど、流石に『電子人理』なんぞにまで素面で付き合ってやる程お人好しじゃア無いんでね」
ズボンのポケットに手を突っ込み、おどけたように今一度首を竦める絵本屋。
……ふっ、と。クヅルは紅の代わりに赤い線の引かれた唇で艶やかに弧を描いた。
「言う割には、貴様。案外律儀な所もあるようだな」
「……」
刹那。
ポケットから瞬時に引き抜いた絵本屋の右手には、まずその空間には収まらない筈の『絵本』の背表紙が握り締められていた。
デバイスから取り出した、絵本の形をした電脳麻薬。実質の毒薬(『ポイズン・ス・マッシュ』)だ。絵本屋はそれを、クヅルに向けて振りかぶる。
だが、そもそも看破していた動作だ。
クヅルは冷静に足下に刀を刺し、絵本屋の手首を受け止め、引き続き人外の域にある握力で彼の骨を握り砕く。
「―――ッ」
声にならない唸り声と共にはらと絵本屋の手を離れた『絵本』は刀の鞘で打ち払われる。遙か彼方で地に落ちた『絵本』は、その場で毒々しい光の粉をまき散らすのみだった。
「クソッタレ!!」
自棄気味に足を持ち上げ、絵本屋はクヅルの胴を狙うも、好きなようにさせてやる道理も無い。
「狙いまでは悪いとは言わんが」
クヅルは握った手首から絵本屋を持ち上げ、背負い投げ、地面に叩き付けた。
続けざまに碌に受け身も取れずにバウンドした彼の身体を転がしてうつ伏せにし、握ったままにしていた腕を後ろ手に持ってきて、反対の手は膝で押さえる形で拘束する。
「~~~~~~ッ゛!!」
「所作自体はてんで素人だな。やはり、それではこの首はくれてやれん」
「それこそ素人にはコレで十分なんだよ普通はな!? クソ……ッ。……まあいいさ、そもそも仇討ちなんて柄じゃねえし、資格もねエ」
「……」
「くれてやるよ、俺の首は。大した首級にゃならねえけどな」
万策尽きて。
狙いを付けやすいようにか、絵本屋は顔を地面に向けて、首を僅かに傾けた。
クヅルが、地に刺していた刀を改めて抜く。
「だから精々、一撃で落としてくれよ? 『逆月紅鶴』」
一瞬の間を置いて。
「心得た」
血塗れの鬼武者が、刀を高く、持ち上げた。