Episode ウンノ カンナ ‐ 4
学生時代の話。
「見て見てカンナ」
クソ鬱陶しい6月の低気圧にぐったりとしているアタシを玄関先まで呼び出したアホはどのクリバラかと思って扉を開けたアタシを待っていたのは、いたって普通のクリバラと、ユキアグモンから進化したユキダルモンが、降りしきる雨と自らの表面温度のせいで全身に氷を纏った姿だった。
「じゃーん。名付けてユキダルモン:アイスアーマーモード」
「……」
「さっき急に思いついたから見せに来たんだ。どうだろう。なかなか強そうじゃないかな?」
「スカちゃん」
アタシの不機嫌な合図に察したらしく、溜め息交じりにスカちゃんはエテモンへと進化する。
「そうさね……エテちゃんのパンチを防げるなら、有用性を検討しても良いんじゃないかい?」
「え」
「わわわわわわ! あ、謝ってセンキチ! だからやめよって言ったじゃん! カンナさんご機嫌斜めだよ!?」
「うーん。ウケると思ったんだけど……カンナ、どの辺がダメだった? やっぱりトゲとかいる?」
「タイミングと発想自体が全部ダメだって解るまでユキちゃんで頭冷やせバカ!」
「んー……。うん。ユキダルモンは今日もひんやりしている」
「ホントにやるんじゃないよ!? ってか凍ってる! 凍ってきてる! なんでアンタまでそんなにずぶ濡れなんだい、風邪ひくよ!?」
結局アタシは1人暮らしをしているアパートにクリバラと退化したユキアグモンを上げて、タオルと風呂を貸す羽目になって、ついでに泊まっていきやがって、だからと言って当時は何をするでもなく身体が怠いのも忘れて夜が更けるまでデジモンの話をして――何故かアタシが風邪をひいて。
四季折々にくだらない、馬鹿みたいな思い出ばかりが残されていて――この日に限ってそんな事ばかりを思い出すアタシ自身も大概だと、窓の向こうの雨模様にため息を吐く。
残された時間は、あと1週間。
つまり今日は――クリバラの、月命日だ。
「降ってるわねえ」
バケツをひっくり返したような、という表現は、まさしく今現在の雨の降りようを例えるためにあるのだろう。
この雨のせいでタクシー会社はどこも大忙しなのか、いつもより、随分と出発が遅れていた。
「……幸先悪いね」
何となしに、そんな言葉が口をつく。
別に、梅雨の時期に雨が降るだなんて、当たり前の事過ぎて――むしろ、この時期の墓参りは、いつも雨に見舞われていたような気もするのだけれど。
それでも、無言での墓参りは最後になるかもしれない日にこの天気は、まあ、有りがたいものでは無かった。
まあ、晴れだと嬉しい訳でも、無いんだけれど。
と、
「カンナ」
「ああ、お帰りメルキューレモン」
買い物に行かせていたメルキューレモンが、多分リューカちゃんに渡されたのだと思われるタオルを首にかけた状態で入ってきた。
もちろん傘は差してたんだろうが、それでもそこそこ濡れた形跡がある。
やっぱり、大概な雨だよなぁ……。
「どうぞ。こちら、墓花と線香です」
「ん。ご苦労さん」
「……本当に出掛けるのですか? 酷い雨ですよ。……こんな時に、風邪をひく訳にはいかないでしょう」
わざわざ聞くな、と視線で訴えかける。
メルキューレモンもアタシの反応自体は予想していたらしい。軽く視線をそらされた。
……だが、その視線は、思いの外早く、こちらに戻って来て。
「なんだい」
「ご迷惑でなければ、ワタクシも同行させていただけませんかね。……クリバラ センキチの墓参りに」
「できれば「迷惑だ」って言いたいね」
いきなり、何を言い出すのかと思えば。
「アンタがアイツの墓参りしてどうすんだい。……いくらアンタがアタシと同盟関係だって言っても……そこまでの事は、望んで無い」
「アナタが望むかどうかではなく……ただ単に、ワタクシが確認しておきたいのですよ」
「父親が殺した相手の墓を?」
返事自体は無かったが、その沈黙は肯定だった。
また一つ、溜め息のカウント数が増える。
「加害者家族の自覚があるならなおの事来るなって言いたいんだけど……アタシも、別に、被害者遺族って訳じゃないから」
家族になる前に、アイツは――
「だから、解った。ついて来な。……傘持ちするのと、向こうにいる間喋らないって約束するなら、連れてってやる」
「了解しました」
……ああ、こんな時に限って、メルキューレモンの人間形態時の――本来は、ハッカー・ゼペットのものなのだが――キョウヤマに似ているパーツばかりが、目についてしまう。
アタシを見上げるスカちゃんがいつにも増して心配そうなのも、まあ、無理は無かった。
だけどアタシはそんなスカちゃんの視線に気づいていないフリをして、にやり、とそちらに笑いかける。
「だってさスカちゃん。今日はコイツが傘持ってくれるって」
「じゃあカンナ、小さい折り畳み貸してヨ。自分の分差すから」
「……どこやったっけか……」
「玄関じゃないのぉ?」
で、実際の所玄関には無かった折り畳み傘を探している内にタクシーが来て、結局、少しだけ待ってもらって、アタシはリューカちゃん達に声をかけてからスマホにスカちゃんを入れて、先に出て乗っていたメルキューレモンの隣に腰を下ろし、行先である霊園の名前を運転手さんに伝えた。
*
いつも通り20分ほどで到着した霊園には、雨という事もあってほぼ完全に人気が無かった。
アタシは少し滑りやすくなっている石畳に注意しながら、メルキューレモンに傘を持たせて栗原家の墓へと足を進める。
……流石にスカちゃんを出すまでは折り畳み使ってもいいって言ったんだが、律儀にも無言で断られた。
いや、喋るなって言ったし、傘も持てとは言ったけど。
……まあ、スカちゃんがいつの間にか購入していた折り畳み傘の柄が、歳不相応に愛らしい、テディベアとリボンの柄だったのが理由かもしれないけど……。
それからも、同行者がいる以外はいつも通りで。
辿り着いた栗原家の墓に、花を供えて……どうせ火は消えるだろうが、線香も供えて……リアライズしたスカちゃんと一緒に、手を合わせて、黙祷する。
背後のメルキューレモンがどうしてるのかまでは確認しようが無いしする気も無いが、まあ、多分、こっちを真似て黙祷くらいは、しているのだろう。
墓石を打つ雨の音が、どこか、遠い。
……おおよそ、1分間。
もうすっかり慣れてしまった一通りの所作を終え、そのまま、帰るために墓に背を向けた、その時――
――こちらに向かってくる、見覚えのある影が2つ、並んで見えた。
「あ……」
一瞬遅れてそれに気づいたスカちゃんに急いでスマホに戻るよう促し、アタシは反対の手で軽くメルキューレモンの袖を引いた。
「行くよ」
「?」
「急いで」
足を向けた側が来た道と反対側だったので怪訝そうな顔をされたが、説明している時間も惜しかった。
足早に、その場を去ろうとしたのだけれど――
「あー! カンナおばちゃんだ!」
――間に合わなかった。
「カンナおばちゃん!」
ぱしゃぱしゃと水を跳ね散らかしながら走ってくるその足音に、アタシは振り返りながら、しゃがみ込む。
「危ないから走らない!」
そして注意している間に、もう、追いつかれてしまった。
「ひさしぶり!」
自分の傘を手放してアタシの胸に飛び込んできたのは、小さな女の子――クリバラの、姪っ子だった。
彼女の頭越しに視線を上げると、この子の母親――クリバラの妹も、やや速足でこちらに向かってきていて。
「急に走っちゃダメでしょカズサ。……お久しぶりです、お義姉さん」
「お義姉さんじゃないだろ、全く。……モモちゃんも、カズサちゃんも、元気そうで何よりさね」
頭を下げるクリバラの妹――モモちゃんに、アタシは首を横に振る。
彼女とは、もう、歳月だけで言うなら、クリバラよりも長い付き合いになってしまったけれど――でも、私は彼女の家族じゃあ、無い。
……まあ、そんな事は、少なくともカズサちゃんには、どうでも良い事なのだろうけれど。
「ねえねえカンナおばちゃん、このおじちゃんは?」
彼女の関心は、アタシが今現在傘を持たせているおじちゃん……人に化けているメルキューレモンの方に向いていて。
「もしかして……カンナおばちゃんの、あたらしい人? センキっちゃんからは『くらがえ』したの??」
「こら、カズサ!」
「……難しい言葉を知ってるね、カズサちゃん」
子供の言う事だ。流石に、腹も立たない。
ただ、メルキューレモンの事が気になるのは、母親の方も同じなようで。
「ええと……確か、お会いしたことがありましたよね?」
「……」
モモちゃんの問いに頷くだけに留めたメルキューレモンを小突き、声は出さずに「喋っていい」と唇だけで伝える。
ああもう、面倒くさい!
「……生前のクリバラ博士に研究を手伝っていただいていた、キョウヤマの息子です」
「ああ! 確か兄の葬儀の時に……その節は、お世話になりました」
「いえ……」
「1ヶ月程前から、コイツとは共同研究やっててね。日程の話してる時に今日はクリバラの月命日だっつったら、せっかくだから一緒に、って事になって」
「そうでしたか。わざわざありがとうございます」
「……」
何度も頭を下げるモモちゃんに、見るからに困っているようだ。
……だけど、アタシだって。できれば、まだ何も終わってないのに、彼女達と顔を合わせたくは無かった訳で――
「っていうか、今日は……どうしたの? こんな雨の日に。っていうかカズサちゃん、学校は?」
「きょうはね、そーりつきねんびだって!」
「兄さんのお墓に行くって聞かなくて……お義姉さんに会えるかもって」
「ね? 会えたでしょ? カズサ、めいたんていみたい!」
……重なるもんだなぁ。
つい額に手を当てそうになるアタシの腕を、それよりも早く、カズサちゃんが引っ張った。
「ねーねーカンナおばちゃん、せっかく会えたんだからあそぼうよお!」
「カズサ、ダメよ。ここは遊ぶところじゃないの」
「えー! ちょっとくらいいいでしょー?」
雨降りなのも忘れたように飛び跳ねながら遊びたい意思を訴えてくるカズサちゃんに、今度は思わず、アタシの方からメルキューレモンの顔を見上げてしまう。
アタシよりも、コイツから「忙しいので云々」と言ってくれればどうにか――
「今日はこれといった予定が無いので、問題ありません」
違うそうじゃ無い。
……いや、うん、まあ、そうか。
嘘、吐けないんだった。
「ほら! おじちゃんもこう言ってるし、いいでしょ? カンナおばちゃん」
こうなってしまえば――仕方がない。
「ああ」
立ち上がる。
いくらなんでも、場所くらいは、変えなければならないのだから。
「……ちょっとだけだよ?」
*
ちょうど雨もしのげる、霊園の奥にあるお堂の軒下へと移動したアタシ達。
誰もいない事を確認してから、再び、スマホからスカモンをリアライズさせた。
「わあ! スカモンもひさしぶり!」
「久しぶりねカズサちゃん! 大きくなったわねえ」
「うん! カズサ、1年生! もうおねえさんだよ!」
やはりクリバラの姪というだけあって、相変わらず独特の姿をしたスカちゃんにも動じないカズサちゃん。
いつの間にか、彼女もスマホを取り出していた。
「あのね、あのね! 見ててね! ユキアグモン、リアライズ!」
彼女の合図と同時に――真っ白なアグモンが姿を現す。
……少しだけ、驚いた。
叔父と同じデジモンに、進化していて。
だけど、更に驚かされる事に――
「で、ユキアグモン!」
「ユキアグモン、進化――ユキダルモン!」
もう一つ先の段階も、クリバラと、同じだった。
「こんにちは、カンナさん」
それからやっぱり、声も、一緒だ。
懐かしい。
「こんにちは、ユキちゃん。……そっか、もう成熟期まで進化できるのか」
「おどろくのはまだ早いんだからね! ユキダルモン!」
「はいはい」
カズサちゃんに促されるまま、軒の外に出るユキダルモン。
表面の温度で、ユキダルモンに当たった雨粒がどんどん氷結していく。
……まさか……。
「じゃーん! ユキダルモン:カチカチモード! ぼうぎょりょくすごくアップ!」
スカちゃんとアタシは思わず顔を見合わせた。
名称は違うのだが、発想自体は、まるきり一緒じゃないか。
血は争えないとは言うけれど。
できれば、そこは、争ってほしかった。
「……強そうだね」
最も、まさかクリバラのように扱う事も出来る筈が無く、スカちゃんはスカちゃんのままで、アタシは当たり障りのない事しか言えないのだけれど。
「このままいけば、センキっちゃんと同じようにパンダモンになるんじゃない?」
「うーん。カズサはパンダモンよりパンジャモンがいいな~。むきむきのパンジャモン! かっこいい!」
「そうなの? まあ、同じ氷雪系だからいけるんじゃない?」
「あるよ、『前例』。……ま、完全体への道のりは厳しいからね。まずは進化を目指して、頑張って」
「うん! カズサ、ユキアグモンとがんばる!」
「頑張る!」
……ここから先に関しては、どうなるか、判ら無さそうだ。
というか、それはさて置き今更だけど――メルキューレモン、モモちゃんと何か、話してるんだが。
……余計な事、言ってなきゃいいんだけど。
「カズサちゃん、学校は楽しい?」
「うん! まあまあ!」
「まあまあか~」
「みんなとあそぶのはたのしいけど、おべんきょはセンキっちゃんやカンナおばちゃんにおしえてもらってたときの方が、おもしろかったもん」
そんな大した事は、教えた覚えが無いのだが。
最もクリバラの方は家庭教師のバイトとかしてたから、確かに上手だったけど……。
「……また、仕事が落ち着いたら教えてあげるよ」
「ほんと!? やくそくだよカンナおばちゃん!」
仕事が、落ち着いたら。
本当は、仕事でも何でもないのに――我ながら、口からいくらでも出任せが飛び出すものだ。
「えへへ。カズサね、いっぱいべんきょして、センキっちゃんとカンナおばちゃんみたいな天才はかせになるの!」
「……そっか」
やめとけ、と言いたかった。
万が一そっちの道に進んだら、クリバラがどんな論文を書いたか知る事になってしまう。
それに、デジモン研究には――多かれ少なかれ、今でもデジモンを悪用しようと考える輩の興味を引いてしまうという負の側面も、存在するのだ。
……クリバラだって、それで足を踏み外したようなものだ。
それでもこの子に、そんな事を言えないのは――母親に似て、それだけにクリバラにも似ているカズサちゃんの顔が、夢を否定されて悲しみの表情を浮かべるのを見たくないからに過ぎない。
アタシってヤツは、根っからのエゴイストなのだろう。
氷の闘士になっていたあの男の事を、言えたものでは無い。
と、
「ねえねえカンナおばちゃん、これやってみてよ」
「ん?」
ふと我に返ると、カズサちゃんは、自分のスマホをアタシの方に差し出していて。
画面を覗き込むと、いわゆる『音ゲー』と呼ばれる類の、有名なソーシャルゲームが起動されていた。
「学校でみんなやってるんだけど、カズサ、この曲、クラスでいちばん上手なの!」
そう言って彼女が選択した曲は
「この曲作ったの、カズサの学校のセンパイなんだって!」
去年くらいにカジカPが作曲したやつだった。
偶然色々重なり過ぎて怖い。
っていうか独り暮らしではあるけれど、出身自体もこの辺なのか、カジカP。
「カンナおばちゃん、やってやって!」
「はいはい」
カズサちゃんにせがまれるまま、アタシは件の曲をプレイし始める。
……操作方法については流れてくる音符を指で弾くだけなので見れば解るのだが、なかなかどうして、難しくて――
「うわあ、カンナおばちゃん、へたっぴー」
「……」
散々な結果に終わった。
いや……なんか……速いんだもん……。
「ねえ! 次スカちゃんやって!」
「いいわヨ!」
そしてスカちゃんの方はと言うとアタシより遥かにこういうのは得意なので、同じ曲なのに雲泥の差のスコアを稼いでいっている。
なんだか見てるだけで恰好が付かなくなってきたので「ユキちゃんは? スコアあるの?」と半ば冗談のつもりで話を振ったらこちらもユキアグモンの爪でどうやったのか、あからさまにアタシより上手らしいという事実を突きつけられて。
いや……別に、いいんだけど……。
「スカモン、上手!」
「ふっふっふ! そりゃあ、進化したら歌で戦うデジモンだもの! このくらいは、朝飯前ヨ!」
「スカモンはあさごはんのあとってかんじの見た目なのにね~」
「ま! 上手い事言っちゃって!」
「ねえねえ、おじちゃんもやってよ!」
「ちょ」
流れるようにモモちゃんと一緒にいたメルキューレモンの方へ向かっていくカズサちゃん。
止めようと思ったのだが適当な言葉が浮かばないでいる内に――すくり、とメルキューレモンが立ち上がった。
「カンナ。交代しましょう。彼女も、貴女と話したがっています」
メルキューレモンが指し示すのは、今現在彼の隣にいるモモちゃんで……。
もう、何というか、色々不安過ぎてスカちゃんの顔しかまともに見られない。
「スカちゃん……」
「ま、心配しないでカンナ。こっちはちゃんと見てるから」
しかしスカちゃんまでもアタシにモモちゃんの方へ行くよう促すので、仕方なく……義妹になっていたかもしれない彼女の元へと、カズサちゃんに手を引かれるメルキューレモンとすれ違いながら、足を運ぶ。
「……話って?」
お堂の縁側に、腰を下ろす。
モモちゃんは、少しだけ申し訳なさそうに微笑んだ。
「カズサの事、言っていられませんね。……私も、お義姉さんとただ……お喋りしたかっただけです」
「だから、お義姉さんじゃないだろう? もう……」
お喋りがしたい、と言った割に、モモちゃんはしばらく何も言わなかった。
アタシは絶対に『作詞・作曲:カジカ』の部分が原因で眉をひそめているに違いないメルキューレモンをぼんやりと眺めながら、スマホから流れてくる曲以上に大きく聞こえる雨の音に、耳を傾けていた。
「不思議な方ですね、キョウヤマさん」
そんな中に、ようやく、モモちゃんの声が混じる。
「ちょっと浮世離れしている感じがするというか……きっと、普通の人と視点が違うんでしょうね」
「アイツの場合、ただ天然なだけだよ。まあ、優秀は優秀だけど……時々、どうしようもないポンコツでね」
昔から、人より少しだけ勘の鋭いモモちゃんの事だ。なんとなく、メルキューレモンがデジモンであるが故の人間味の無さを感じ取ってしまったのだろう。
取り繕う方の身にもなれと。
……嫌でも溜め息の混じるアタシを見て、モモちゃんは、クスリと笑った。
「お義姉さんって、なんというか、そういう方にばかりご縁があるんですね」
「……お義姉さんじゃ、無いってば」
「ねえ、お義姉さん」
アタシの発言をまるで無視して、不意に、モモちゃんが笑顔を消す。
真剣な眼差しが刺さるようで――胸が、少しだけ、痛い。
「何だい」
「私に、お義姉さんって呼ばないでって言うなら……お義姉さんも、私がそう呼ばなくていいようにしてください」
「……」
「お義姉さんが幸せになってくれないと……兄さんだって、いつまでも浮かばれません」
ああ、もう……。
娘を叱っておきながら――この子も、盛大な勘違いをしてるんじゃなかろうか。
「……浮かばれないっていうアイツが化けて出でもしたら、そうしたら、前向きに検討するよ」
「善処されない限り、お義姉さんって呼び続けますからね?」
「違うモンは違うんだから、仕方ないだろう? ……事実なのは、カズサちゃんの言う通りもうおばちゃんな事くらいさ」
「もう……」
「ママー! カンナおばちゃん!」
まだ何か言いたそうだったモモちゃんを遮るように、いやに興奮した様子のカズサちゃんが、いつの間にか退化したユキちゃんを連れながらスマホを掲げて走ってきた。
「見て見て! おじちゃんスゴイの! パーフェクト!」
何やってんだメルキューレモンの奴。
「……大した事ではありませんよ」
「そんなことないよ! カズサはじめて見たもん! おじちゃん、カジカPのねっきょーてきファン?」
「断じて違います」
一応子供の手前気を使っているのか表情も声音も大分抑えているが、その分感情が無に近くなっていてそれはそれでどうなのと言いたくて仕方がない。
……ふんふんと荒い鼻息でも興奮を伝えてくるカズサちゃんには、それも関係ない話なのだろうが。
「えへへ。カズサもシュギョーしなくっちゃ! ねえおじちゃん、スコアにお名まえ入れるから、おしえて!」
「キョウヤマ コウキです」
「かん字は? おべんきょにつかうからそれもおしえて!」
「京都の京に……ああ、それです。山は判りますね? それから、……。……幸せ、と……植物の――あ、そちらではなく、難しい方です。はい、よくできました」
……どういう訳か、歳の離れた少女と受け答えしている姿は、妙に様になっている。
「……もしかしてキョウヤマさん、娘さん、いらっしゃいます?」
なんとなく、モモちゃんもアタシと同じような印象を受けたのだろう。
まあ、いるのは娘ではないのだけれど……
「……歳の離れた妹が1人」
前々から思ってはいたが、人間時のコイツの外見はハリちゃんの兄と言うには年齢が離れ過ぎているような気がしなくもない。だからと言って親子かと言われれば近すぎるし――加えて言えば、キョウヤマにしたってハリちゃんの父親にしては歳を取り過ぎているように見える。
その辺の年齢設定は、きっと、まあ、適当だったのだろう。
そんな辺りも、あの男は、ハリちゃんについて――そこまで、大切に考えては、いなかったに違いない。
「妹さんですか。……ふふ、そうですか」
「?」
そしてどうしてこっちを見るんだモモちゃん。
……アタシについてきた人物が、クリバラに似た要素を持っていて、嬉しいのだろうか。
やめて、ほしい。
「いもうとさんはなんて名まえなの?」
「玻璃です」
「はり? ……エリスモンみたい」
「裁縫道具の針ではなく、宝石の水晶の別名です。……この字ですね」
「むずかしいかん字! ねえねえ、どんな子なの?」
「……」
嘘が吐けないので、『絶対服従』だとか『光と闇の器』だとかトンデモワードが飛び出しやしないかヒヤヒヤしながら見守るアタシとスカちゃんだったが――
「いつか、ご紹介しましょう。……その時は、友人になってあげて下さい」
――流石にその心配は、杞憂だったようだ。
「いいよ!」
そしてカズサちゃんに、それを断る理由も無い。
「じゃあ、じゃあ。つぎ、いつ会える!?」
「……そればかりは、すぐには返答しかねますね」
「えー! わかるでしょー大人なんだから!」
「こら、カズサ。わがまま言わないの。……すみません、キョウヤマさん」
「いえ……」
ここで、モモちゃんがふいに腕時計を確認し、すぐにカズサちゃんへと顔を向けた。
「カズサ、そろそろバスのお時間だから、お義姉さんとキョウヤマさんに、バイバイ言って」
「えー」
「カズサ、ママさん困らせちゃだめだよ」
「むー、ユキアグモンまで。……カンナおばちゃん」
「なんだい」
唇を尖らせながら、アタシがしゃがんでもなお小さいカズサちゃんが、じっとこちらの目を見つめてくる。
……目元は、どちらかと言うと父親似だ。
顔全体で見ている時と比べて、胸はそこまで、ざわつかない。
「また会える? こんどは、ひさしぶりって言わなくてもいい?」
「……多分ね」
またアタシは、そうやって適当な事を言う。
……少しくらいは、もしかしたら、見習うべきなのかもしれない。
隣にいる、嘘を吐けない馬鹿の事。
「やくそくだよ? カンナおばちゃん」
「……」
「いいわヨ、カンナの代わりに、スカちゃんが指切りしてあげる!」
「じゃあスカちゃんとやくそく! ゆ~びき~りげんまん、うそついたら」
「トゲモンの『チクチクバンバン』!」
「ゆ~びきった!」
モモちゃんが、自分とカズサちゃんの分の傘を広げる。
「ありがとうございました、お義姉さん、キョウヤマさん、スカモンさん」
「お義姉さんじゃないって。……ま、アタシも久々に話せて、楽しかったよ」
「じゃあね、カンナおばちゃん、スカモン! コウキおじちゃんも、またね!」
ユキアグモンをスマホに戻し、母親から傘を受け取ったカズサちゃんは、雨の中、傘の隙間のせいでお互いの腕が濡れるのも構わずに、手を繋いで、歩いていく。
……2人を見送ってから、アタシは改めて、お堂の縁側に腰かけた。
「……モモちゃんと何話してたんだい」
アプリでタクシーを予約しながら、メルキューレモンへと声をかけた。
「……貴女の話を、少し、聞きました」
「どんな」
「貴女のその、ピンク色の髪の印象についてです。彼女は貴女に初めて会った際、酷く驚かれたそうですよ。兄か彼女だと言って連れてきたのが派手な髪色で語調の強い、スカモンを連れた女性で」
「あー……。むしろあの後、割とすぐに打ち解けられてびっくりした。引かれるのは慣れてるからね」
「それ以外は、しきりに貴女を褒めていましたよ」
問題は、何を思ってメルキューレモンにそんな話をしたのかだが――あまり、深くは考えないようにしよう。
カズサちゃんに腕を握られて中断された溜め息が、今更になって吐き出される。
今日は――調子の狂う、一日だ。
と、
「カンナ」
今度はメルキューレモンの方から、アタシへと声がかかった。
「何」
「少しだけ、『先』の話をしてもいいですか」
「先?」
「キョウヤマを……エンシェントワイズモンを倒した後の話です」
「後の……?」
エンシェントワイズモンとの戦いの話は、もう、散々繰り返している。
古代鋼の闘士の特性を調べて、残りの闘士の能力を理解して――最終的に「護衛の闘士達を蹴散らしてエンシェントワイズモンが何らかの力を使った直後をメルキューレモンが抑え込んで総殴りする」というシンプルこの上ない結論に至ってしまったが、まあ、そもそも策で勝てる相手ではない以上、こちらが打つ手は複雑でない方がむしろいいだろう、という事だった。
……奴との戦いに関しては、どうしても、後手に回るしかない。
先手を打って襲い掛かろうものなら、こちらが加害者にされかねないからだ。
元々碌でもない連中だったらしい十闘士の器連中を捕まえられれば話は別かもしれないが、それにしたってしらを切られれば分が悪いのはこちらの方だ。
スピリットを使って進化して見せろなんて言って聞いてくれる筈も無いし、使った証拠を出せと言われれば出せない訳で。
だから、確かにこれ以上、作戦について話せることはほとんどない。
だからって――
「それこそ後でいいだろう。今、そんな話、しなくても」
「キョウヤマが何をするにせよ、必ずそれなりの騒動になるでしょうから。……収拾がつくころまで身体が持つか、不安もあるので。アレの技を抑え込むには相当量のデータが必要でしょうし、逃亡を防ぐためにビーストスピリットも使わなくてはなりませんからね」
構成データが底を突けば、メルキューレモンは鋼のスピリットに戻る。
……こいつの言う事も、一理ある、か。
「……じゃあ、手短になら聞いてやるよ」
「わかりました。では、単刀直入に結論から言いましょう。貴女はこの戦いが終息した後も、休めません」
は?
「貴女自身が言った事です。我々十闘士の情報には途方もない価値がある、と」
それは、確か。ピノッキモンの館での戦いの次の日に、アタシが――
「貴女は今回の事で得たその資料を、好きにしていい。……キョウヤマとの戦いは、今後の展開にもよりますが少なからず、世間の注目を浴びる事になる筈です。仕方の無い事とはいえ奴の存在、そしてスピリットの存在を伏せていた貴女を非難する者も、きっと現れる。……そういった輩を黙らせるには、研究者としての貴女の能力を用いるのが一番です」
「……」
「この戦いが終われば、貴女は、ダイヤのネックレスを首を絞める道具にしなくていい。貴女自身を引き立てる飾りとして、その所有者である事を誇って下さい。……ワタクシが、デジタルワールドの守護者として貴女に用意できる報酬は――それだけです」
……それだけ。
それだけ、だなんて。
そんなの、想像しただけで
「……気を付けな、メルキューレモン。そういう、大事な戦闘の前に希望的観測を語る奴は死ぬって相場が決まってるんだ」
「フィクションの話でしょう。我々は年長者として、『節目』の後の事も考えなければならない立場ではありませんか。敵を倒して「めでたしめでたし」で全てが終わるなら誰も苦労はしませんし――むしろ、ハッピーエンドを目指すのはその『先』にあるもののためなのでは?」
「そりゃ、そうだけど」
「それからご心配なく。ワタクシはこの状態で死亡したとしても、スピリットに戻るまでです。そもそも鎧であるが故に性質は『中身』に引きずられる部分はありますが――得た『記録』そのものは、そのまま、引き継ぎ続けます。そういう意味では、一般的なデジモン以上に、死の概念が薄い」
突然突き付けられた『先』の話に振り回されないよう落ち着こうとしているのに――メルキューレモンは、軽々しくアタシの用意した言葉の枷を引き千切っていく。
考えも、しなかった。
正確には、考えはしたけれど――ふと視線を落とした時に、解っていた筈なのに、『奴ら』の首を絞めるためのロープが本当にダイヤモンドの首飾りだったと視界に飛び込んできたような衝撃が、アタシの頭の中をぐるぐると駆け巡っていて。
……そして、本当に視線を下げた先にいたのは――それこそ、カット済みのダイヤのように瞳をキラキラと輝かせた、アタシ自身の、パートナーで。
「すごいわ、これってすごいわヨ、カンナ! ノーベル賞ものヨ!」
「部門どれよ」
「細かい事はこの際いいじゃない! スカちゃん、もう既にドキドキしちゃってるわ!」
まだ、何も終わっていないのに。
だけど――まだ、何も始まっちゃいないって?
「ああ、こちらも先に言っておきますがカンナ。ワタクシも貴女の所持品として資料として扱ってくださって構いませんので、できれば手放さないで下さいね? 有効活用すれば金銭面にも余裕ができるでしょうから、貴女の所有物の所有物たるハリの事も」
「面倒見ろって言うんだろ? ったく、ホントはそれが言いたかっただけだろ」
こんな時だけ妙に良い笑顔しやがって。
……ただ、こいつの、そこだけはデジモンの姿の時とそう大差無い、どことなく皮肉げで何かしらカチンと来る、唇の片側を吊り上げる様な笑い方に関しては――まるで『父親』に、似ていなくて。
……もちろん、ふにゃりとこちらの力が抜けるような、クリバラの柔らかい笑みにも――重ならない。
だからそこだけは、好意的に見てやってもいいパーツだと、思いもする。
「解った解った。参考までに留めとくよ。ちゃんとした考察は、それこそ終わった後にさせておくれ」
終わったら。
新しいデジモン研究を、始める事が出来るだろうか。
モモちゃんに心配かけずに、斜めに構えずに、普通に会話ができるだろうか。
カズサちゃんにうまい事勉強を教えたりもできるだろうか。
カジカPの曲を、心の底から楽しんだり出来るだろうか。
……何だかんだと気苦労をかけっぱなしの、私の可愛い助手ちゃんとそのパートナーに――心のどこかで、利用するために引き出している「ありがとう」を――心の底から、言えるだろうか。
……スカちゃんと――
「さ、そろそろ降りて待ってよう、タクシー。ほら、スカちゃん」
「はいはい」
頭を軽く振ってからスマホを取り出し、スカちゃんを中に入れる。
いくらなんでも――浮かれたままじゃあ、いられない。
何も始まっちゃいない代わりに、やっぱり、何も終わっちゃいないのだ。
なので、全ては、その後だ。
「ぼさっとしないで、アンタもさっさと傘持っとくれ」
「了解です」
「……とはいえかなり濡らしちまったね。どうせ風邪なんか引かないんだろうけど、服は替えなよ?」
「風邪はひきませんが雨は少々不快ですからね。シャワーも借りますよ」
「好きにしな」
来た道を、来た時と同じように、戻っていく。
足が軽いように思うのは、こればっかりは、気のせいだろう。
栗原家の墓を、通り過ぎる。
そのまま、駐車場の方へと――
「ん?」
ふと顔を上げると、モモちゃんが小走りでこちらに引き返してくるのが見えた。
「どうかした?」
こちらも足早に近づくと、軽く息を整えてから「ああ、良かった」とモモちゃんは微笑んだ。
「実は、兄さんのお墓に2人、来てくださっていて。……義姉さん、聞いてませんでしたか?」
「?」
「ああ、じゃあやっぱり偶然だったんですね。こんな足元の悪い中、命日という訳でもないのに……兄は、幸せ者ですね」
モモちゃんの瞳が、アタシから、メルキューレモンへと移る。
「ふふ。お父様と、そっくりなんですね」
どこかで、ひびの入る音がした。
「……父、が?」
「はい。随分とお若い助手の方とご一緒でした。確か……そう、ホヅミさんという方です。カズサにお菓子まで下さって……お手数ですが、お礼のほど、お伝えください」
「……はい」
「それから、お義姉さん」
モモちゃんがこちらに、白い花束を差し出した。
「キョウヤマ先生がお持ち下さったんですが、お墓には、お義姉さんがお供えしてくれたものがあるし、うちも、もう買ってあって……お義姉さんさえ良ければ、お家で飾ってくれませんか」
「……いいよ」
笑う。
微笑んでみせる。
「有りがたく頂戴するよ」
私は――そういう風に出来る人間だ。
「ありがとうございます。……じゃあ、カズサを待たせているので、今度こそ、これで」
「バス大丈夫? なんなら、タクシー代わるけど」
「はい、すぐ戻れば――」
「気を付けてね、転ぶんじゃないよ?」
モモちゃんを見送る。
見えなくなるまで、その場に立ち尽くしながら。
……待って、待って。ようやく、彼女の背中が見えなくなって
墓花の包み紙には皺が走っていて、噛み締め過ぎた唇には、血が滲んでいて
「げ、ほ。けほ、けほっ」
せり上がってきたモノが、アタシの喉を塞いでしまう。
吐き出すわけにもいかないのに、吐き出そうとして、咳が出る。
抑え込む。手で、押さえつける。
「……カンナ」
「黙って」
自分でもぞっとする程、声が、枯れていた。
「喋らないで。こっちに、顔見せないで」
八つ当たりだ。コイツが、悪い訳じゃないのに。
私は――そういう、人間だ。
そのくせに、何を、夢など、見ていたのだろう。
「お願い」
……それから、駐車場でタクシーを待って、タクシーが来て、メルキューレモンは言いつけ通り何も言わず、こちらも向かず、でもアタシは何食わぬ顔で運転手さんが話題を振ってきたらそれに乗って、研究所に着いて、料金を払って、中に入って、リューカちゃんとピコちゃんにただいまを言って、研究室じゃなくて自室に戻って
戻って――心配して出てきてくれたスカちゃんに、少しだけ、廊下で待っていてほしいと言って置き去りにして。
ベッドに、花束を叩きつけて、それから、机の上のカッターで
刺して、
刺して、
刺して、刺して――刺して刺して刺して刺して刺して刺して刺して刺して刺して刺して刺して刺して刺して刺して刺して刺して刺して刺して刺して刺して刺して刺して刺して刺して刺して刺して刺して刺して刺して刺して刺して刺して刺して刺して刺して――
「ああああああああああああああああああああああああああああああああ」
少しでも外に声が漏れないように枕に顔を押し付けて、叫ぶ事しか、出来なかった。
*
その日は、まだ梅雨の最中である事が嘘のような青空が広がっていて、鋼の闘士の夏休みの終わりは、太陽がフライングしてきたような、カンカン照りの真夏日だった。
雨は嫌いだが、晴れの日だって、好きじゃない。
焼けて死んだクリバラの葬式は――焼け死にそうな程、暑くて、よく晴れていて、蝉すら鳴かない酷暑の日で。
アタシはスカちゃんが進化したメタルエテモンの肩から飛び降りて、それから、握り締めていたメモ用紙を手放した。
あちこちにカッターが刺さった跡があるのに奇跡的に読めるその文字が指し示すのは――今、まさにアタシとエテちゃんがいる、この場所で。
……もう、何もいらない。
ハッピーエンドもバッドエンドも、どうでもいいし、なんでもいい。
ここで、おしまい。それでいい。
その結果世界が救われるとしても、あるいは滅ぶとしても、アタシには関係ない。
家族になったかもしれない人達の事も、可愛い助手の事も、協力してくれた音楽クリエイターの事も――敵の家族でアタシの所有物の事も、もう、いい。
――アタシの旧研究所。その、真ん前。
リューカちゃん達と出会った、あの公園。
「やあ!」
こちらを見るなり、普段からほとんど利用者がいない筈のブランコを揺らしていたその人影は、勢いよく立ち上がった。
「好く来たね、ウンノ カンナ」
若い男――ホヅミが、人懐っこい笑みを浮かべた。
Episode タジマ リューカ‐5
その日は、悪夢のようにいい天気だった。
いくらコウキさんの「夏休みの終わり」だとはいえ、季節を先取りし過ぎているのかと思う程照り付ける太陽を前にはピコデビモンは無力で――
……だからこそ、カンナ博士は、私には何も言わなかったのだと思う。
いつもより強い日差しに、私たち全員が目を覚ますまで見張りをしていたピコデビモンが疲れ切って、スマホに戻って眠りについていたからこそ――私には、私達には、誤魔化しすらも、しないで良かったのだ。
「コーヒー、ありがとね。ごちそうさま」
それが、最後だった。
カップをキッチンで片付けて、研究室に戻った時には――もう、誰も居なくて、窓が大きく開いていて、だけど風の一つも、吹いていなかった。
*
「ああっ、ハリ! コウキさん!」
カンナ博士に言われてピノッキモンさんのところに行っていた2人が戻ってきたのを見て、思わず私は駆け寄ってしまう。
博士は、「ピノッキモンがハリちゃんの力を戻す方法について解ったかもしれないって」と言って、2人を送り出したのだ。
それが本当だったら――こんなに早く、戻ってこれるわけが無い。
「……カンナは」
私の表情。それからピノッキモンさんの反応で、コウキさんも薄々は気付いていたのだろう。部屋を見渡してから、この場に居ない博士の名前を口にする。
私は、首を横に振るしかなかった。
「マグカップを洗って、戻ったら、もう……スカモンさんも……!」
ちょっとした用事の類で出ていったわけでは無い事は――開いた窓を見れば、明らかだ。
「捜してきます。まだ近くにいる筈です。ハリ、手伝いなさい」
「了解です」
「タジマ リューカ。……カンナが戻ってくるかもしれません。貴女はここで、待機していて下さい。何かあれば、ハリのスマホに連絡を」
頷く私を確認してから、コウキさんとハリは急いで玄関から飛び出して行く。
2人を見送って――また、研究室で1人になった私は、この部屋にいる時に使わせてもらっている椅子に腰かける。
……いつもなら、ここからは仕事中のカンナ博士が見えていて。少し視界をずらせば、ピコデビモンが眠るのに使って良いと言ってくれたクッションが乗ったソファがあって、よく、スカモンさんが座っていて。
「……」
立ち上がって、もう何度見たか解らないカンナ博士のデスク周りを確認する。
相変わらず膨大な資料が積み上げられていて、たくさんの、紙があるけれど――書置きは、1つも無い。
手掛かりすらも、何も、無い。
それでも、諦めきれないというよりは他に出来る事を見つけられなくて――博士の身の回りの片付けが仕事の筈の私は、どんどん、あの人の机を散らかしてしまう。
私は、結局、どこまでいっても、役立たずで――
「リューカ」
ポケットに入れていたスマホから、ピコデビモンの声が聞こえた。
手を止めて、取り出す。
「ピコデビモン……私は、大丈夫。だから休んでていいんだよ?」
「僕も捜しに行くよ。日中だから、精度は落ちるかもだけど」
「ううん。ハリとコウキさんが見に行ってくれてるし、それに、……それに……」
博士の事だから、すぐ帰ってきてくれる。
……そう、言えなかった。
「うん、大丈夫! 大丈夫だよ……」
代わりに取り繕おうと出てくるのは、馬鹿の一つ覚えみたいな「大丈夫」ばかりで。
そんなので、この子が安心してくれる筈が無いのに。
……ただ、それはこの子も一緒で、それでも何か言おうと、ドット絵の姿で口を開こうとした、その時。
メールの音が、鳴った。
「! ピコデビモン」
「うん!」
アプリを起動してもらう。
……だけど出てきた新規メールの送り主は、ニュースアプリの名前で。
「……」
こんな時に、と思うけれど、それはアプリを責めてもどうしようもない。
……解っていても、見る気にもなれなくて、すぐに閉じようとしたけれど――件名に『地域緊急速報』と書かれていて。
新しい胸騒ぎが、心臓をどくりと鳴らした。
画面に触れる。
メールが、開かれた。
「これって……!」
人質事件が発生したと、書かれていた。
場所は、小学校だと。
犯人は、『1体』だと。
警察の特殊部隊のパートナーデジモン達が抑え込もうとして、まるで歯が立たなかったと。
「っ……」
確認のために、ニュースアプリを起動する。
……動画が、配信されていた。
「……」
そのデジモンは、ところどころが焦げたグラウンドの中央に、『1人』で立っていた。
倒したという特殊部隊のデジモン達は――つまり、殺されてしまったのだろう。
「ヴァンデモンを出せ。1時間以内にだ」
報道のために集まったマスコミ達に向け、『要求』を口にする。
そのデジモンはまっすぐとこちらを――カメラを――
その向こうにいる、私達を見ていた。
「ブリッツモン……!」
覚えている。
忘れた訳が無い。
あの、冬の日。
カンナ博士を殺そうとしていた、あのデジモン――雷の闘士!
【犯人の要求の意図は未だ不明ですが、現場には――】
ニュースを読み上げる女性キャスターの声が、どんどんぼやけていく。
意図は不明。そうだろう。そんなの、私達にしか解らない。
太陽は、空のてっぺんでさんさんと輝いている。
あのデジモンは、そんな時間帯に私のピコデビモンを――ヴァンデモンを、呼び出して――嬲り殺すつもりでいるのだ。
そうだ。行けば殺される。
時間帯だけじゃない。この天気、この気候じゃ、いくら私のヴァンデモンが強くたって、敵わない。敵う筈か無い。
じゃあ、行かなければ?
決まっている。……攻撃の矛先を、小学校の校舎に。その中にいる子供達に、向けるのだろう。
たくさん、殺すのだろう。子供だけじゃなくて、大人も、そのパートナーデジモン達も。無抵抗だろうと、襲い掛かってきた特殊部隊のデジモン達同様に、殺してしまうのだろう。
その後、高らかに宣言するのだ。
彼の名指した『ヴァンデモン』が、一体どこの、ヴァンデモンなのかを。
その時世間の怒りの矛先は、一体、どこに向くのだろう?
「うっ……」
吐き気が込み上げてきた。
思わず、その場にへたり込む。
心臓が馬鹿になったみたいにうるさい。
それ以外の音が、どこもかしこも遠くにあって、暑くて暑くてたまらないのに、壊れたみたいに身体が震える。
……ピコデビモンが私の名前を呼んでいる気がするのに、それすらも、ちゃんとは、聞こえなくて――
――ふいに、ぎい、と、玄関の開く音がした。
「!」
弾かれるように立ち上がって、研究室を飛び出した。
「カンナ博士!」
帰って来てくれたのだと思った。
あの人は、私がもう駄目だと思った時に、いつも颯爽と現れてくれて、いつも、助けてくれて――
「あ――」
だけど、そこに居たのは帰ってきたカンナ博士じゃなくて
今まさに出ていこうとしている、カガさんだった。
「カガ、さん……」
「リューカちゃん」
「どこに……行くんですか?」
カガさんは、何も言わなかった。
でもその手には、私と同じようにスマホが握られていて。
カガさんの手には、力が入っていて。
……カガさんは、部屋で待機しているように、言われていた。
「アンタ達は、いつも通りでいる方がこっちも気が楽でいい」と。
だからこそ、カンナ博士の姿が消えた時も、何か見たり聞いたりしていないか確認には言ったけれど、同じように、部屋に、ここに、居てほしいと伝えて――
「どこに、行くんですか?」
「……」
「お願いです、答えて下さい」
「……」
「私も、行きますから……!」
「っ、ダメだ!」
悲痛な表情で俯いていたカガさんが、ばっと顔を上げて、叫んだ。
自分に向けて、否定の大声を向けられるのは久しぶりで
そんなつもりじゃなかったのに、肩が、びくりと跳ねてしまう。
カガさんはハッとしたように靴を脱ぎ棄てて、玄関からこちらに、戻ってきた。
「ごめん。リューカちゃん」
「い、いえ……私が……」
「リューカちゃん。……そうだよ、リューカちゃんは、なんにも悪く無いじゃんかよ……!」
声を、怒りと、悔しさと、そして恐怖で震わせながら、カガさんが、床に膝をついた。
「カガさん……?」
「リューカちゃん。……俺が行く。俺が、行くから……。そりゃあ、戦力的には不安かもだけど……俺とオタマモンだって、水の闘士だぜ? それに、メルキューレモン達だってすぐ来てくれるって!」
「そうゲコ! こっちはゲコ達に任せるゲコ!」
「あんな奴の言う通りになんか……ならなくて、いいじゃんかよ……!」
怒りと、悔しさと、恐怖の声なのに――カガさんの声は、それでも優しい。
押し潰されそうなくらいに。
「カガさん……やめてください……」
しゃがみ込んだ、というよりは、私もまた、足から力が抜けてしまった。
カガさんと、目線が並ぶけれど――目は、会わせられない。
「私、そんな、出来た人間じゃ無いんです……! 私、私――」
その時、スマホが――デジヴァイスが、光った。
リアライズの光だ。
……同時に、進化の光だった。
「!」
「リューカ」
だから、出てきたのはピコデビモンじゃない。
……私の、ヴァンデモンだ。
床に足を突いた瞬間、少しだけふらついて――それだけで、今、どのくらい戦えるのかが解るものなのに――
「僕は、大丈夫」
――この子は、嘘を吐いた。
「ちゃんと、戦えるよ?」
「――っ!」
嘘つきだ。
嘘つきだ、と――両親は、いつも、この子の事を、この子の話なんて一つも聞いたことが無いクセに、この子の事を、そうやってなじった。
……だけど、本当に、この子は、嘘を吐く事もあって――
――それは、いつも、私のためだった。
「嫌っ!」
思わず、私はヴァンデモンに抱き着いた。
「嫌っ、嫌だよヴァンデモン……! 何で? どうして? どうして――いつもそういう風に言っちゃうの? ヴァンデモンが、ヴァンデモンが傷つかなくてもいいじゃない。行かなくたって、いいじゃない……っ!」
隣でカガさんとオタマモンさんが聞いていると、そんな事、解っているのに。
噴き出して、しまった。
「嫌われるのも怖がられるのも攻撃されるのも! よくある事じゃないっ! 助けに行って、何になるの? 誰が死んで! 何人死んで! その結果何されたって、今更、だよ……? もう、私、慣れっこだから、だから――」
縋りつく。
この子が、世界の全てだった。
なのに、私は高望みしてしまったのだ。
太陽に近づき過ぎたらどうなるかなんて、判り切っている事なのに。それなのに、世界はこんなに広いんだなんて、高く、高く、舞い上がり過ぎて――
「あなただけは、私の傍にいてよ……ピコデビモン」
――その後地上に落っこちて。それでも、この子がいてくれると。全てが元の木阿弥になったとしても、私の隣には、この子がいるんだって、そう、思ってたのに。
ここでこの子が行ってしまえば
ヴァンデモンとして、戦いに出てしまえば
……分不相応にも太陽に、明るい世界に近づき過ぎた代償は、死んで償うしか方法が無いのだ。
それが私なら、良かったのだけれど。
「ピコデビモン……ピコデビモン……!」
抱き着いた身体はアンデッドの王のもので、いつまで経っても、丸くて小さいピコデビモンの姿には戻らないのに。
私は、悪あがきのように、成長期のパートナーの姿を呼び続ける。
……そんな事しか出来ない私の頭を、私がこの子にいつもするみたいに、ヴァンデモンが、撫でてくれた。
「リューカ」
「ピコデビモン……」
「僕は、嫌だな。リューカがみんなにいじわるされて、酷い事言われるのは」
ずっと、嫌だった。
そう続けたヴァンデモンの表情を、私はようやく、顔を上げて、直視した。
……私の、パートナーの顔。
「だから、僕、行かなくちゃ」
この子は、コウキさんみたいに世界の脅威と戦うつもりじゃ無かった。
この子は、カンナ博士みたいに大切な人の仇を打つために戦ってるんじゃない。
この子は、全部、全部。私を護るためだけに――戦ってしまう。
カンナ博士を助けようと言ったのも、見捨てれば必ず痛む私の良心を護るため。
カガさんとオタマモンさんを助けに飛び出したのも、私が、雲野デジモン研究所という新しい居場所に居るための権利を護るため。
ハリが闇のスピリットに飲まれそうになるのを止めたのも、私が……友達だと、そんな風に、思えるかもしれない、思っても許されるかもしれないと願った彼女を失わないよう、護るため。
氷の闘士と戦ったのも、やっぱり、みんなのためじゃなくて、私を、私の居場所を、私が傍にいてほしいと願う人達を、護るため。
そして、あの日。
兄が成熟期に進化できるようになったパートナーの力を試そうと、ふざけて、ただし何の手加減も無くその必殺技を私に向けてきた、あの日も――
――この子は私を護るためだけに、ヴァンデモンに、進化したのだ。
「……ヴァンデモン……!」
呼んで、しまった。
この世界の全てが、この子だったように。
この子の世界の中心は――私なのだ。
解っている。
最初から、解っていた。
護るためだけに戦うから、私のヴァンデモンは、強いのだと。
「わかった」
ぎゅ、と。
もう一度、私はこの子を抱きしめる。
今度は、縋りついてじゃない。
いつものように、身体をぴったりとくっつけて。
愛していると、証明するためのハグだ。
「だったら、一緒に行こう」
「リューカ、ちゃん……?」
「……ごめんね、リューカ」
「ヴァンデモン……!?」
カガさんの目の前で、今度はヴァンデモンが私を抱きかかえた。
「でも、僕、やっぱり……リューカがいてくれた方が、心強いや」
「私もだよ、ヴァンデモン」
いわゆるお姫様抱っこのような形になってしまうのが少しだけ、恥ずかしいけれど――他の方法だと、あまり、長く飛ぶのは難しくなってしまう。
減らせる負担は、少しでも減らしておきたい。
……ただでさえ、この子は
「待って! 行っちゃ駄目だリューカちゃん!」
立ちはだかるような格好になってしまったカガさんがいるので、ヴァンデモンは、研究室へと引き返した。
メタルエテモンさんでも、十分に通り抜けられた大きさだ。
広い窓枠から、カンナ博士と同じように、飛び出せばいい。
「せめて、せめてお兄さんとハリちゃんを待とう? 連絡だったら」
「コウキさんには、カンナ博士のお手伝いをしてもらって下さい。……きっとカンナ博士とスカモンさんも、戦うために、出て行ったと思うんです」
きっと、この雲野デジモン研究所で、一番いなくなっていい人間は、私なのだ。
……もちろん、この子の事は、傷つけたくない。死なせたくなんか、絶対、無い。
でも、そのために、これ以上わがままを言って、『使命』のあるコウキさんを困らせるのは、違う気がしたのだ。
それにコウキさんには、私よりももっと、守らなきゃいけない大切な妹がいるんだから。
……ハリの今後の事を考えたら、大事なのは、やっぱり、私なんかより、カンナ博士なのだから。
「なら、俺が、俺が――」
「カガさん」
精一杯、笑いかける。
でも、嬉しくて笑ってしまったのも、本当だ。
この人は、本当に、優しくて、素敵な人だ。
優秀な研究者のカンナ博士や、十闘士としてのコウキさんとはまた別の意味で、この世界にとって、大切な人だ。
不特定多数を救えなくても、目の前の誰かを、きっちり、助けられる人。
ヴァンデモンはともかく――私なんかの歌を作っていて、良い人じゃない。
……ただ、とっても、素敵な歌だった。
申し訳ない事に、途中で眠ってしまったけれど……あんなに心地良い子守歌、完成したのを、聞いてみたかった。
……だけど、だからこそ。そんな素晴らしい才能――カガさん風に言うと、「マジェスティック」、だろうか。
マジェスティックな才能を持ってるカガさんに、必要無い戦いは、してほしくない。
だって、私
「私、カガさんの事も、大好きなんですよ?」
私が言うのを、きちんと待ってくれてから、ヴァンデモンは銀色の窓枠を蹴って、青い、青い――本来のヴァンデモンの瞳と同じ色の、吐き気がする程青い空へと、踏み出した。
「リューカちゃん!」
「ヴァンデモン!」
カガさんと、カガさんのスマホにいるオタマモンさん。
2人に振った手も、きっと、すぐに見えなくなってしまったに違いない。
日中だというのに無理をして、風のように速く、私のヴァンデモンが飛んでいく。
「ごめんね、ヴァンデモン」
「リューカが謝る事じゃないよ?」
「……それからね」
「うん」
「大好き」
「うん、僕も」
ヴァンデモンは、いつものように
ピコデビモンの時と同じように、私に向かって、微笑んだ。
……それから、目的地はあっという間に近づいて。
張られた規制線と、慌ただしく動く警察の人達と、その向こうから取り囲むマスコミや野次馬の人達とを、全て、全て見下ろして――私とヴァンデモンは、小学校のグラウンドに降り立った。
声が、聞こえる。
あれは何だ、誰だ。そんな風な。
……ヴァンデモンだと、私のパートナーを指さす人達も、もちろんいる。
だけどそんなの、関係無い。
私と、私を下ろしたヴァンデモンは、ただ一つの『人影』と向かい合っている。
「……要求通り、来ましたよ」
声を、かけた。
その瞬間。ブリッツモンが、動き出した。
「『トールハンマー』!」
ヴァンデモンは再び私を抱えて、ブリッツモンの攻撃を避ける。
吹き上がる砂煙と校庭を走る稲妻の中――それらを引き裂くようにして、光が、伸びた。
「死ね」
ジャキン、と、金属同士が擦れ合うような、大きな音がして――あまりにも巨大な銃身が、私達へと向けられた。
その奥には、ブリッツモンの意匠をほとんどそのままに、しかし戦車のような姿になったデジモン――雷の闘士のビースト形態・ボルグモンが、両腕で身体を地面に固定し、強い、強い殺意を瞳に宿して、頭の砲台をこちらに向けていた。
「死ね、化け物」
だけどその瞳が映すヴァンデモンには、『向こう側』いて。
「『フィールドデストロイヤー』!」
「『ナイトレイド』!」
天さえ穿ちそうなレーザーを飲むようにして、膨大なコウモリの群れが、晴天を舞った。