Episode キョウヤマ コウキ ‐ 2
ストラビモン。
それは、光の闘士が力を失った姿で――今のハリは、まさしくそれだった。
「……ハリ」
もはや吹雪の元凶が姿を消したとはいえ、未だ雪と寒さが残るその中で、ハリは1人、森の方を向いて佇んでいた。
足を、進める。
「ハリ」
進めながら、彼女の名前をもう一度呼んだ。
それでも振り返ろうとしないハリの元に歩み寄って、肩を掴んで、振り向かせる。
……そんな事を、しなければ良かった。
「マスター……」
暗い瞳だった。
カンナのモノとはまた違う、昨日見せた恐怖の瞳でも無い、深い海の底ではなく、高い夜空の奥のような、そんな――仮にも光を纏う存在とは思えない、そんな瞳を、ハリがしていた。
「ハリ……」
「申し訳ありません、マスター。……このような姿である事を、どうか、お許し下さい……」
「……戻れないのですか」
こくり、と、ハリが頷く。
「デジタルワールドを出れば、その限りではないとは思います。ただ……この先も光のスピリットでは、私はこの姿にしかなれないでしょう」
もはや光のスピリットは、単純な鎧としてすら機能しなくなり始めているらしい。
……それが、このスピリットの正義であるとすれば――ワタクシは――
「あの時、私が飛び出すべきでした」
ハリの震える声に、ある筈も無い中身がざわつくような――そんな、感覚を覚える。
「……あの時?」
「カジカPがチャックモンの攻撃対象となった、あの時です。私は、彼とピノッキモンの護衛任務をマスターに任されていたにもかかわらず――」
ピノッキモンは、古代木の闘士が残した『記録』を受け継ぐ者だった。
彼はワタクシ達の父親――あのキョウヤマ博士に対抗する手段を探す上で、重要になってくるに違いない存在で。
それは――つまり――
「チャックモンに貫かれていたのが私であれば、ピノッキモンは――」
ハリの言う通り、ピノッキモンの重要度は、今やまともな戦力とはとても言えない状態になってしまったハリよりも遥かに高い。
それは、揺るぎない事実だ。
……なのに、ワタクシは想像した。想像してしまった。
ストラビモンの姿で、真っ直ぐに胸を貫かれるハリの姿を。
たとえハッカー・ゼペットの腕前をもってしても、もしくはカンナの技術をもってしても――人間である以上確実に致命傷となる位置に穴の空いた、ハリの姿を。
……気が付けば、ワタクシはハリを強く抱き寄せていた。
何故。何時の間に。どうしてワタクシは――こんな事を?
「マス、ター……?」
ただ確かなのは、これは今朝がた、カンナから発想を得た通りにハリに「してみた」だけの抱擁とはまるで別の行為で――あの時に負けず劣らず、ハリは困惑している、という事で。
「ハリ」
しかしそれ以上に自分が何をしているのか、未だに理解が追い付かないワタクシ自身は――その後口走った言葉さえ、何を思って言ったのか、解らなくなってしまった。
「貴女が無事で、良かった」
*
「……」
呆れて物も言えない、という状態は、まさしく今現在のカンナとスカモンの事を言うのだろう。
しかし何故そういう状態に陥っているのかは理解が出来なかった。
……まあ、自分自身の事にさえ思考が追い付かないワタクシに呆れているのだとしたら、それは確かに、もっともな事ではあって――
「アンタ、筋金入りのアホだね」
「……」
「あんたの受け継いだ『鋼』の一文字、そのアホに入った筋金の事を指してんじゃないの? どうしてハリちゃんが絡むと途端にそう……そう、ポンコツになるんだい」
「ワタクシが……ポンコツ」
ポンコツ。
ポンと殴るとコツっという音がする、というのが語源らしい。もう、その語源からしてどうしようもなく間抜けな称号が、このワタクシに。
「ぽん、こつ……」
「カンナ、カンナ。コウキちゃん固まっちゃったわヨ?」
「ああもう、全く……」
カンナが頭を抱えているようだが、そうしたいのはこちらも同じだ。
一体この女研究者は、鋼の闘士を何だと思っているのだろう。
……ピノッキモンの館周辺での戦いから一夜明け、カンナの研究室のパソコンには1体のルカモンが、悪夢のように、出現していた。
曰く、それは未だ回復状況が芳しくないピノッキモンが、それでもこちらに提供すべき情報の一部をアルボルモン――ゼペットの力を借りて纏めたものらしく、ルカモンが常に浮かべている、デスクトップの画面を無駄に圧迫する大きな吹き出しに聞きたいことを打ち込めば教えてくれる、という、ものらしい。
昨日の事もあって真っ先に「お前を消す方法」と入力し始めたカンナを止めるのは、ワタクシとスカモン、2体がかりでもそれなりに骨の折れる作業だった。
気持ちは解らなくは無いし、恐らくワタクシがカンナの立場なら、同じことをしていたかもしれないが。
その後、どうにか落ち着かせたカンナと共に古代十闘士のアーカイブを一通り閲覧し――一息ついた時にふと、昨晩のハリとのやり取りについて、カンナに助言を求めたのだ。
求めた結果が、ポンコツだった。
ポンコツ、だった。
「……いいかいメルキューレモン」
こつんと響く以上に頭の中で反響し続ける間の抜けた単語を追い払うようなカンナの声に顔を上げる。
「何ですか」
「そこそこ真面目な話さ。……デジモンとしての特徴以上に機械じみたアンタにゃ理解しづらい話かもしれないけどね」
「……聞きましょう」
雰囲気の変わったカンナに、ワタクシも姿勢を正す。スカモンは自身のパートナーを、何処か心配そうに見上げていた。
「個人的な視点で見た時に、命の価値っていうのは、決して平等じゃあ無いのさ。……優先順位、って言うべきかね? アンタは鋼の闘士として、重要な情報を持ってるピノッキモンの命は、ハリちゃんの命よりも重いと感じた。そうだね?」
否定は、しなかった。
「でも、ハリちゃんの口から実際に可能性と向き合う羽目になって、ハリちゃんの命とピノッキモンの命を天秤にかけた時に――こんな言い方は酷かもしれないけど、あえて言わせてもらうよ。「ああ、氷柱が刺さったのがハリじゃなくてピノッキモンで良かった」……そう思ったんだろう?」
「……」
やはり、否定は、出来なかった。
そこまでの事を言うつもりは無かったが――だが、確かに、ワタクシがハリの言葉に対して抱いたものは、そういうものだったような気もした。
「ですがワタクシは、個人的な視点を優先させるべき存在ではありません。今回は、結果としてピノッキモンは助かり、ハリもまた、怪我をする様な事が無かったから良かったものの――」
「実際に天秤にかけなきゃいけなくなった時に、ハリちゃんを優先しちまうようじゃ困る、って言いたいのかい?」
「ええ」
殴られた。
頭部への、拳骨である。
最も、ワタクシの身体は人間形態だろうと材質は鋼のままなので、前回の平手打ちと同様、本当に痛い思いをするのはカンナの方なのだが。
「~~~~っ」
やはり、「コツ」では済まなかったらしい。
……そんな音が鳴らなくて良かったと、そう痛みもしない頭でぼんやりと、そんな事を考えていた。
「ば、馬鹿たれが!」
結果、普通に罵られた。
この状況だと、ただの負け惜しみ的なものにしか見えないのだが。
「……罵倒の前に、突然の暴力に対する理由の説明をお願いできますか?」
「ああ言ってやるさ! 素直に喜べってんだよこのバカ! 実際にそういう状況に直面したならともかくハリちゃんには何ともなかったんだから、あれこれ難しい理屈くっつけてないで妹の無事を喜んでやれってーの、バカ!」
「……」
ポンコツの次は、バカなのか。
どうもカンナという女性は、感情が高ぶると語彙力に偏りが出る性質があるような気がする。
いい加減この不名誉な呼称に対する反論をするべきか、しかし言われている事自体は理解できなくも無いのでこのまま叱られ続けた方が良いのか――悩んでいると、不意にスカモンがワタクシの足元へと、飛び跳ねてきた。
「? 何ですか、スカモン」
「いや、コウキちゃんがハリちゃんとの接し方がヨく解んないって言うなら……一度ゆっくり、2人だけで過ごしてみたらどうかと思ってね?」
「2人で?」
こくり、とスカモンが小さく頷く。
言われてみれば、ここに来る以前はそれなりに多くの時間をハリと共に行動していたが、最近ではカンナのところにいる割合も多い。
最も、それはハリにしても同じで、タジマ リューカや、……不本意ながらカガ ソーヤと供に居る事もしばしばなので――ハリと過ごす時間、というのは、実質就寝の時刻だけになってしまっている気がしないでもない。
……きっと、その方が良いのだろうが――スカモンはどうやら、そうは思ってはくれないようだ。
「ほら、せっかくコウキちゃん夏休みなんだから、ハリちゃんの事、どっかに連れて行ってあげなさいヨ! 1ヶ月も無いのは事実だけど、1ヶ月あるのよ? 1日くらい息抜きしたってバチは当たんないわ」
「夏休み……」
一応は、そういう設定だったか。
しかしあれは、エンシェントワイズモンがこちらに与えた猶予を茶化しただけに過ぎない単語で――
「いいじゃないか、夏休み」
ぎい、と、腰かけたイスの背もたれを軋ませながら、落ち着きを取り戻したらしいカンナが腕を組んだ。
「流石にまだ処理する情報がたくさんあるから、今日明日って言われるとアタシも困るけど――それ以降なら、この際だ。丁度いい機会だと思って、ハリちゃんと向き合う場を作った方がいい。行ってきなよ」
「……」
「命令」
にこり、とわざとらしく微笑むカンナ。
嗚呼――そう言われてしまえば、仕方がない。
「命令を承諾しましょう、マスター」
「マスターはやめろっつってんだろ、全く。……まあいいや。スカちゃん」
「何かしら?」
「どーせ出かける当ては無いだろうから、プラン考えてやってよ。そういうの得意だろ?」
「ま、カンナヨりはね。ちョっと検索機能借りるわヨ」
「あいよ」
カンナの差し出したスマートフォンに、スカモンが飛び込んでいく。カンナの言う通り、遊びに行けと言われても具体的なプランに関しては完全にワタクシの専門外なので、その辺りに思考回路を裂かなくてもいいのは、それなりに行幸ではあった。
「さて、と」
スカモンを見送ってから、カンナはぐっと腕を伸ばす。
「スカちゃんに頑張ってもらってる間に、こっちも解析を進めるとするか」
そう言って、カンナは机の引き出しを開ける。
中から取り出したのは1枚のディスク――ワタクシの右側のイロニーの盾を、変形させたものだ。
カンナに貸し出した際に、ワタクシの持ちえる現代の十闘士の情報も入力してある。入手した古代十闘士の情報と併せて、データを整理するつもりなのだろう。
ディスクを挿入した彼女が全ての集中力を手元のパソコンに向け始めたころを見計らって、任されている雑事に取り掛かるために研究室にもう一台備えられているノートパソコンとワタクシも向き合い始める。
カンナの収入源だという進化コードの解析等もあるにはあるのだが、基本的にはそれ以外の事務処理がほとんどだ。
別に苦でも何でも無いのだが、多少、面倒くさい物が多いような……。
と、
「メルキューレモン、ちょっといいかい」
不意に手を止め、手招きするカンナ。
パソコンを一度閉じて、彼女の背に回った。
「何でしょう」
「いや、十闘士のデータの事なんだけど……アンタのビーストスピリットの情報、入って無いからさ」
「ああ」
そういえば、あの時点では流石にそこまで手の内を曝す気にはなれず、ワタクシのビーストスピリットの情報までは提示していなかった気がする。
カンナの方もカンナの方で、無理に聞く必要は無いと判断していたのだろう。ただ、今回エンシェントワイズモンのデータを入手した以上、比較したくなったのかもしれない。
「少々お待ちを」
パソコンの、ディスクの入っている辺りに触れる。数秒後、フォルダの画面に項目が追加された。
「ん。あんがと」
早速確認を始めるカンナ。自席に戻ろうかと思ったが、補足が必要な可能性も考えて一応、留まっておく事にした。
……しばらくし黙ってファイルを確認していたカンナだったが、画像データを見るなり、マウスを操作する手を止める。
「……」
ワタクシのビースト形態――セフィロトモンの画像が、映し出されていた。
「……」
「カンナ」
「……何」
「何か言いたいことがあるなら、どうぞ」
「……」
「カンナ」
「…………」
その時だった。
「はぁ~い、色々見てきたからちョっと休憩ね!」
パソコンの隣にあるスマホからリアライズして、すぽっとカンナの膝の上に収まるスカモン。
当然その視線は、パソコンの画面へ。
「ん? 何コレ? はぁ~……スカちゃんが言うのもなんだけど、気味の悪いデジモンねぇ。同じ緑色だけど、ヌメモンと違って愛嬌すら無いわ。古代十闘士の1体?」
「ワタクシのビースト形態です」
「……用事思い出したから、スカちゃん行くわね!」
再び、スカモンの姿がカンナのスマホへと消えていった。
「……いやー、スカちゃんがごめんねメルキューレモン! 悪気があった訳じゃないんだよ! うん!」
「カンナ、ワタクシの目を見なさい」
「……」
「カンナ」
「…………」
この女は……!
結局こちらと目を合わせる事も無く「いくつか質問してもいいかい」と若干お茶を濁すように切り出すカンナ。追及し始めたら埒が明かないので、もう、いっそ、流しておく事にする。
「どうぞ」
「まずは――名前は、セフィロトモンか。まんま『セフィロトの樹』だね。ロゼモンについて調べた時に見た事あるよ」
「ではご存じでしょうが、この中央の球が『ティファレト』――ロゼモンの持つ宝珠と同じ意味を持っています。一応、ここがワタクシの本体、という事になります」
「うっへ似合わない」
段々と取り繕う気も無くなってきたと見える。
「……シンボルも同じだね。愛と美を意味するんだっけか。……ティファレトのシンボルは、選ばれし子供たちの紋章――『光』の紋章とほとんど同じデザインだって、研究者界隈ではちょくちょく話題になってるよ。あっちはあっちで、進化と美を司るって聞いたけど……進化と愛をイコールで結ぶってのがあの紋章の役割――つまり、人間とデジモンの架け橋となるのが『光』なんじゃないかってのがまあ、一般的な見方さね」
「……」
「どうしたんだい、急にニヤニヤしちゃって」
自分でも気が付かない内に笑っていたらしい。
カンナ――というか、人間の学者たちの推論は、的外れという訳では無いのだが――
「その資料、もう少し先まで読んでいただけますか?」
「? まあ、元から読ませてもらうつもりだったけど……」
言われた通りにして、おおよそワタクシの意図を察したらしい。カンナが再び顔を上げた。
「この闘士が、十闘士の属性を扱える……ってとこまで読んだ」
「ええ。ワタクシの必殺技は『反射』と『消去』……言ってしまえば、攻撃に対する拒絶ですね。一方こちらのワタクシの能力は『吸収』と『放出』……つまり、相手の攻撃をあえて受容しています」
「そのためには十属性全部持ってないと、って訳か。十闘士の属性、って言うけど、古代十闘士が後のデジモンの祖になっている以上、ほとんど全てののデジモンを十属性に分類できるって事だから――ふうん。中々面白いじゃないか。ヒューマンとビーストで似た様な事やってる割にその実性質は真逆ってのも、興味深い」
いつの間にか、カンナの目が研究者らしい光を帯びている。
そういえば昨日、ピノッキモンの話を興味深いと言いつつ必要な個所だけ聞きたいという風に振る舞っていたのも、もしかしたら、聞いている内に自分の好奇心を優先させてしまうかもしれないという懸念があったからなのかもしれない。
知りたがる心、とでも言うのだったか。カンナとしては不本意かもしれないが、後々彼女の益になる知識には違いない。
たまには、こういった情報を披露するのも、悪くは無いだろう。
……それによって、ワタクシがポンコツではないと理解してもらえればなお、良いのだが。
「それではここで問題です、カンナ」
「ん?」
「ティファレト――この部分の属性は、一体何だと思いますか?」
カンナは右手を顎に添えた。
「えっと……わざわざそんな事聞いてくるって事は、鋼では無いんだろうね。それから、光でも」
「ええ」
頷いて見せると、カンナは彼女にしてはやや長い沈黙の後――
「まさか、闇?」
「ご名答」
正解を、言い当てた。
「愛と美――あるいは進化と美のシンボルが、闇、ね……」
画面を画像データへと戻し、食い入るように見つめるカンナ。
「進化……俗称とはいえ、暗黒進化ってやつは、確かにある……でも本来、進化に善悪も貴賤も無い。等しく『前例』たりえる……大事なのは、強いか、そうじゃないか……」
ブツブツと、言葉を並べながら考えを纏めているらしい。
不安定な個所が目立つ女性だが、一応は研究者として活動もしていたキョウヤマ コウスケ――その助手として活動させられていた頃の事を思い返してみると、彼女に匹敵する優秀さを持つ研究者は、それこそ――
――クリバラ センキチくらいのものだった気がする。
「……」
「ちょっと。……ちょっと、メルキューレモン」
「! ああ、何ですかカンナ」
「いや、ただの質問。……『聖なるデジモン』は天使型の成長期で、光のデジモンで、だけど『悪』だとデジタルワールドそのものに定義づけられたんだよね?」
「そう、ですね」
「だけどその強さはデジモンとして正しかったから、世界を平定するまでに至った。……それから、天使型の持つ聖属性データの反転しやすさ……」
今度は黙ってしまった。
……やがて
「贅沢な話だよね」
ようやく口を開いたカンナから出てきたのは、思いもよらない台詞と、どこか物憂げな表情だった。
「何がですか」
「何がって……スピリットの情報、ましてやそれを話してくれるスピリットそのものなんて持ってる人間、今、多分全世界でアタシだけだろ?」
「その通りです。……ある意味で、貴女は選ばれた人間だと言っても良いでしょう」
「だけどアタシはそのスピリットを、結局のところ、駒としか見れない」
今度は、ワタクシが言葉を失う番だった。
「考えちまった。……今こうしているのが、アタシじゃなくてクリバラだったら、って。アイツだったら、仇討ちよりも今この場にある情報を優先するに違いないよ。そのくらい、ピノッキモンからの情報にも、アンタという存在にも、信じられないくらいの価値がある。でも、アタシは……これが全部、何かしら復讐の道具に使えるんじゃないか、っていう視点でしか、見れない。……ダイヤのネックレスを見ても、それを首を絞める道具としか捉えられない、そんな感覚。……って言ったら、解ってくれるかい?」
「……」
「バッカだねぇ、我ながら……」
嗚呼。ワタクシを、ああも散々に罵っておきながら――この女も本当に、大概だ。
殴られた理由にも、ようやく、察しがつくというものだ。
「カンナ。……貴女が復讐者で無くなっては、それこそ困るというものです」
「……そっか、そういやアンタの仕事も、キョウヤマをどうにかする事だもんね」
「それに、ワタクシは別段、駒で構いません」
この際だから、言葉にしておこう。
一応は彼女に仕える身として、その根拠を宣言しておくのも、悪くは無い。
「ワタクシは、貴女の事が気に入っていますよカンナ。……まあ、目を瞑るべき欠点も多々ありますが、それでも美しいほどに明晰な頭脳を持つ貴女との会話は、飽きる事が無い。貴女は――そうですね。女性としての部分は除いて、魅力的なのでしょう」
「……」
「そんな貴女が望む以上、ワタクシは、駒で良いのです」
ワタクシはただ、あの夜、カンナの所有物になろうと思ったその根拠を述べたまでだったのだが。
反応は、思っていたものとは違っていた。
目を見開いて、口も開いた間抜けな顔は、唖然とした表情というものに違いなくて。
……少しの間、静かだった。
静寂を、挟んで
「メルキューレモン」
カンナが、手招きした。
「何でしょう」
「ちょっと、こっちに」
言われるがまま、彼女の背面から、彼女の側面に
「しゃがんで」
床に片膝を付ける。目の位置が、少しだけカンナの方が上になる。
そして
「そ! の!」
突如として、カンナはワタクシの左の頬を思いっきりつまんだ。
顔は――何故か、怒っているように見える。
「!?」
「歯の浮くような台詞の類は! アタシじゃなくて、妹に言うんだよ! あー、もう! 何でそう……!」
「なっ……今はハリは関係な――」
というか、これはワタクシ自身機会が無かった故に知らなかった事だが、
頬をつねられると、割と痛い。
「は、離していただけませんかね!? 痛いんですが!」
「え? ……ほーん。そりゃ良い事聞いた。ふうん、打撃はアレでも、やっぱり皮……皮? 捻られると、痛いんだね。へぇ……」
……余計な事を言ってしまった気がする。
「カンナ」
「何だい?」
「離してください。駒、辞めますよ?」
「そんな生意気な事言い出す口はこいつかね?」
「っ、ちょ、やめ――」
先ほどまでの憂いを帯びた表情が嘘のように、嗜虐的に口元を歪ませたカンナがあまりにも――なんというか――何とも言えないというか――で、……思わず反射的に、身を引いてしまう。
「あ」
重ねて誤算だったのは、それでも一応は鋼の特性を持つワタクシの皮膚をつねるためにそれなりにカンナが指に力を込めていた事、思いの外前のめりの姿勢でいた事で――カンナは椅子から引き離されるようにしてこちらに倒れて来て、ワタクシとしても、支える姿勢など取っていなくて。
気が付けば、昨日の早朝の再現のような格好に、揃ってなり果ててしまっていて。
「……」
「ぷっ、あはは」
あの時と違っているのは、ひりひりと痛む左の頬とこの現状にワタクシが顔をしかめている事と、そんなワタクシに乗ってしまっているカンナが吹き出している事で。
「……おっかしー」
……だが、それだけだった。
笑っているにもかかわらず――瞳の奥は、暗い海のままだった。
「……カンナ」
「先達として、アドバイス」
どうもこちらの視線に気づいたらしいカンナが、ワタクシの言葉を遮ってずい、と顔を近づけてくる。
長いピンク色の髪がワタクシの肩に絡みついた。
「失くす時は、一瞬だよ? アンタはアタシ達と違って、何が一番大事か、天秤にのっけて選ぶ時間があるんだから。……ちゃんと、考えないと。アタシを口説いてる場合かい?」
腹を、立てているのだと思った。
羨望と、悔恨と、懐古と――それからまた、優しさ。
そういうものを全て纏めて、カンナは、怒ったように、微笑んでいた。
「アタシみたいに……なりたくないだろう?」
純粋に、それは嫌だな、と思った。
そう思わせるくらい、彼女の振舞いは壊滅的で、理不尽で。しかし同時に、先ほどの発言の一部を撤回するべきか悩ましい程度には――
「……貴女がワタクシにしたように、抱きしめた方が良いですか、カンナ」
「だから、それは妹にしろっつってんだよ」
カンナは、ワタクシの胸の上で肘をついた。
「馬鹿たれ」
「馬鹿たれはカンナの方ヨ」
……ここでようやくワタクシ達は、改めて、スカモンがネット回線から帰還して机の上にリアライズしている事に気が付いた。
「……」
「……」
「昨日は朝だったから、厳密には台詞、変わっちゃってるけど、もう一回言うわヨ」
ワタクシとカンナは、現状の姿勢のまま、スカモンを見上げる事しかできない。
「真昼間から、やめなさい」
そしてそのまま、怒られた。
*
「ほんっっっっっとうにゴメンね? コウキちゃん」
「いえ……」
未だに痛みが後を引く頬を軽く撫でつつ、ワタクシはスカモンの後に続いてまたしても屋上へと足を踏み入れた。
曰く、ワタクシとハリが出かけるプランを話す上でカンナからの妨害が入らないよう、2体きりで話がしたいとの事で、ワタクシはそれに、従ったのだ。
「カンナねえ……どーも男の子を挑発するクセが抜けてないっていうか……」
「挑発?」
「ま、スカちゃんのせいなんだけど」
よく解らずに首を捻っていると、柵の所まで跳ねていったスカモンが、こちらに顔を向けないまま、それでもどこか懐かしそうに話し始める。
「ほら? スカちゃんってば種族として弱いでしョ? そんなスカちゃんをカモにしようとして、いろんな男が対戦目当てでカンナに絡んできたワケ」
で、それらの男性は返り討ちにされた後、散々にからかわれるのが常だった、と。
……なんとういうか、彼女達らしいというか。
「勘違いしないであげてね? 別にコウキちゃんの事悪く思ってるとか、そういうのじゃ無いのヨ? ……むしろセンキっちゃんの事思い出して、カンナなりに、辛くなったんだと思うの」
センキっちゃん……クリバラの事だろうか。
……クリバラの、事なのだろう。
「カンナはね、『あれ』以来、ちょっとでも似てる要素があると思ったら、誰でもセンキっちゃんに重ねちゃうの。……一種の病気――ね。特にコウキちゃんはほら、頭が良いでしョ? それにお兄ちゃんだし。……似てる要素が大きいコウキちゃんに褒められて、嫌でも、懐かしくなっちゃったのヨ」
結構地雷だらけなのヨ、あの子。とスカモンは笑っているが、笑える要素などどこにも無い。
……最も、カンナをそういう風に扱えるのは、パートナーであるスカモンの特権なのだろうが。
「そんなコウキちゃんが、ハリちゃんの重要度を理解できないままなんだもの。今度は、カンナ自身にも重ねちゃったんでしョうね。まだ失ってないコウキちゃんが、羨ましくてたまらなくなって――だけど同じくらい、ほっとけなくて――そうなると、いじわるしちゃうのヨ、カンナって子は」
「……」
「自分がどれだけ優しい子か、忘れちゃったのヨね。きっと」
「忘れようとしている、の間違いでは?」
スカモンが、目を丸くして振り返る。
「なんだ、コウキちゃんってばけっこう解ってるんじゃない」
「カンナが優しい女性である事なんて、誰にでも理解できるでしょう。タジマ リューカやカガ ソーヤにしても同じことを言いますよ」
「でもそれ、カンナ本人には言わないであげてね?」
「……」
「そういえば、コウキちゃんは知ってるの? どうしてセンキっちゃんが、『ユミル論』を書いたのか」
首を横に振る。
スカモンは栗原千吉が彼の論文を書いた理由を簡単に説明してくれた。
――パートナーを襲った不幸な事故が、発端だったという。
「アンタはアタシ『達』と違って」――ねえ……。
「出来る事なら、追体験はさせないであげてヨ?」
スカモンは、時々こちらに視線をやる以外は、ほとんど、遠いところを見ていた。
「パートナーを失ったセンキっちゃんの事も、センキっちゃんを失ったカンナの事も、再現する格好になったらスカちゃん、絶対コウキちゃんの事許さないんだからね? 今回の事が終わったら、カンナには――あの子には、今度こそ絶対、幸せになったもらうの。毎日お洒落して、美味しいものを食べて、時々遊びにも出かけて、毎日毎日、面白おかしく過ごすのヨ! 良いでしョ?」
そんな事が、果たして可能なのかと思ってしまう自分がいる。
着飾った自分を見せる相手を失って、思い出さないために食べられるものまで限られて、デジモンに関する資料と向き合っていないと己を保てない、あの、脆いカンナに――そんな事が。
……それに
「カンナの前では名前を出さないようにしていますが、アナタには伝えておきましょう。……ホヅミについて」
「……」
「あれは、人の姿をした炎そのものです。周囲に危害を加えていなければ生きていけない、生粋の異常者。元は、連続放火魔だったかと。……炎のスピリットは、そんなホヅミの正義も悪も関係なく、ただひたすらに燃やし続ける在り方を、認めてしまっている。……カドマと同じ程度の強さだと思っていたら、殺されますよ」
「ありがとね、心配してくれて」
そんなつもりは無かったのに、やはりスカモンは遠くを見たまま、そんな風に言葉を紡ぐ。
「そんな風に言うって事は、スカちゃんじゃその、ホヅミってヤツに勝てないかもしれないんでしョ?」
否定はしない。出来なかった。
「でも、絶対に勝てないとは思ってないのヨね?」
「……そうですね。カドマとの戦いを踏まえると――けして、ホヅミの一方的な戦い、という事にはならないと思います」
「だったらスカちゃんは負けないわ! 伊達に究極体まで進化ルート開いちゃいないのヨ?」
「……」
「出来るか出来ないかじゃなくて、やるの。スカちゃんを選んでくれた、カンナのために」
「カンナが、選んだ? アナタがカンナを選んだのではなく?」
と、ここでようやく、スカモンは本当の意味でこちらへと振り返った。
その表情は、タジマ リューカについて語るピコデビモンにも負けず劣らず、どことなく、自慢げで。
「バッカねぇ。仮にもカンナが、自分のデジモンをスカモンになんか進化させるワケないでしョ?」
現在この国には、何らかの事情でパートナーを失ったデジモンが保護されている施設がいくつか存在する。
スカモンは、その内の一つの出身だという。
「スカちゃん、これでも元々アグモンだったのヨ、あのアグモン! みんな大好き、アグモン!」
みんな大好きかどうかはさて置き、かの『デジモンアドベンチャー』で選ばれし子供たちのリーダーだった子供のパートナーであったこともあり、特に人気のあるデジモンだというのは流石に知っている。
「だけどねぇ……スカちゃんのパートナーだった子、それに浮かれるばっかりで……全然、お世話してくれなくてね? ……ま、順当に進化して、こうなちゃったってワケ」
「それで――」
「そ。捨てられちゃった。ヨくある話ヨ」
汚物系デジモンがいつの間にか群れを成し、下水道等に住み着く――といった事案がそれなりに社会問題になっている、というのは聞いたことがある。
よくある話、と言ってしまえば、確かに、それまでだった。
「まあ施設に置いてったってだけでもまだ有情かしらね、前のパートナー。……でも、カンナがいなかったら……」
スカモンはその先を言おうとはしなかった。
言おうとせず、そのまま押し黙って――まるで自分自身に呆れたかのように肩を竦めて、ほとんど全身を横に振った。
「やぁね、もう20年以上スカモンやってるせいかしら。許してねコウキちゃん。汚物系デジモンってのは、何かしら湿っぽいモノなのヨ」
確かに、その大体が妙に潤ってはいる。
もちろん、あまりいい意味で、では無いが。
「……今更聞くまでも無いとは思いますが、スカモン」
「何?」
「カンナの事は、好きですか?」
「ん~、好きとか嫌いとか、そういう段階はもうとっくの昔に過ぎちゃった気がする」
あまりにも予想だにしなかった返答に、少なからず驚いた。
てっきりピコデビモンのように、世界で一番好きだと答えるものだと思っていたのに。
「さっきのカンナじゃないけど、優先順位で考えたらカンナの事は一番上ヨ? 世界一大事。それは間違いないわ」
「しかし――好きでも、嫌いでもない?」
「その言い方だとちョっと語弊がある気がするわ。もちろんカンナの事は好き。大好きヨ? ただ、何ていうのかしらね……カンナとスカちゃんは、もう、「好き」って感情にすら縛られないの」
「……」
「理解が追い付かないって顔ね。だけどそういうコウキちゃんだって、ホントのホントに、ハリちゃんの事好き嫌いで考えた事、ある?」
言葉に詰まった。
だが、それがスカモンにとっては十分すぎる程の返事になったらしい。顔をぐるりと一周する口で、どこか満足そうな笑顔を形作る。
「だったら、正解はもう出てるヨうなものかもね。コウキちゃんってば見るからにあれこれ考える性格でしョ? そんなコウキちゃんが無理に考えヨうとすらしてないって事は――考えるまでも無かったから、って事じゃない?」
そう、なのだろうか。
ワタクシはハリを、手に余ると、そう感じた事はある。
光と闇のスピリットを持つ彼女の存在そのものは評価していたが、知識にも経験にも乏しい彼女を煩わしく思った事も、一度や二度では無い。
セラを始めとしたキョウヤマの元に居るスピリットの器達に、あるいはキョウヤマ自身に理不尽な扱いを受けてもそれを何とも思わない彼女に苛立ちを覚えた事も、そうする事しか出来ない彼女を――少なからず、哀れだと思った事も。
ああ、それから。……キョウヤマからの命令でワタクシを構成するデータを集めるために野生の完全体デジモンを単独で仕留めてきた時は――確か、彼女の力を評価した気がするのに――彼女にさせるべき仕事では無かったのではないかと、あの男に言えもしないクセに、妙に、もやもやとした気分にさせられた事もあった。
嗚呼。思い出せば思い出すほど、碌な記憶が無い。
だというのに――嫌悪の対象も、1つも、無い。
「じゃ、最後にダメ押し」
ぴん、とスカモンが細い指を立てる。
嵌まっている筈のシルバーの指輪は、2つほど、足りていない気がした。
「ハリちゃんの事なんとも思ってないって最初に言い出したのは――本当に、コウキちゃん自身?」
――ワシの正統な眷属であるお前に――
「……」
あの男の声が、胸の奥でこだました。
……アレは、世界の脅威で、原初の究極体という化け物で、意思のある機械そのものだが――嘘は、吐けない。
吐けない、が――
――ダメだよ? 何にもわかってない奴の言う事、鵜呑みにしちゃ――
「……っ」
頭が、痛い。
情報の処理が滞る。
自分の中で、何かが剥がれ落ちるような気さえした。
ハリの事で、ではない。エンシェントワイズモンの事で、だ。
必要以上にかちりと嵌まっていたパズルのピースが実は間違いで、外した瞬間絵柄そのものが崩れてしまったような――そんな、感覚。
眩暈のような『それ』があるだけで、具体的に、自分が何に気付いてしまったのかまでは判らなかったが――全てが、振出しに――いや、違う。
ようやくスタート地点に辿り着いたかのような、そんな――
「……スカモン」
「どうしたの? ……って言っても、なんか考え過ぎで別の所に思考回路がトんじゃったみたいな顔してるわね」
「……」
「うん、知ってる。カンナもヨくやるから」
流石に慣れているという訳か。
どうにも姿形のイメージばかりが先行してしまいがちだが、精神年齢に関しては、カンナよりもスカモンの方が上なのかもしれない。
種族として弱いが故に知能もそう高くは無いとされるスカモンだが、あのカンナのパートナーを20年以上務めているとなると、知能が低いままでいる方が困難に違いない。
しかし、カンナと、20年――か。
考えただけで、気が滅入りそうだ。
「……アナタも相当に苦労していますね、スカモン」
「ん~? なあに? どしたの急に。そりゃあ、苦労くらいしてるわヨ。究極体になれる程度にはね!」
そしてそれを自慢の種にできる辺りが、それこそ経験値の差とでも言うのだろうか。
「ま、それはさて置き。これ以上は考えすぎてもとっ散らかるだけそうだし、そろそろ本題に戻りましョうか」
「本題?」
「やっだー! それ忘れちゃダメヨ、コウキちゃん! ハリちゃんの事、遊びに連れてってあげなきゃでしョ!」
そういえば、そうだった。
……。
「スカモン」
「ん?」
「その話の前に一つだけ、こちらから伺ってもよろしいでしょうか」
「いいわヨ」
「もしワタクシがカンナに『喪失』の追体験をさせる事になったら許さないと――アナタはそう、言いましたね?」
「言ったわヨ」
「しかし、もしもそうなったら――具体的に、ワタクシは一体、アナタに何をされてしまうのでしょう?」
「決まってるでしョ!」
ぐっと自分を親指で指し示すスカモン。
いや、自分というよりは、自分の形を、か。
「ウンチ! むっちゃくちゃに投げつけてやるんだから!」
「……それは恐ろしい」
思わず肩を竦めた。
メタルエテモンに殴られるよりも、ずっと。想像すらしたくない。
「イロニーの盾での反射も消去も、出来なさそうですからね。……誓いますよ。絶対に――カンナにそんな思いは、させません」
「……そ。解ればいいのヨ」
同じように、スカモンも肩を竦める。……スカモンはそのまま、手を身体の下半分へと持ってきて、人間でいうと腰に手を当てる様な恰好へと移行した。
「っていうかコウキちゃん、もしかして結構、カンナの事、好き?」
「……」
何故だろう。
否定する気が、起きなかった。
むしろ――
「戦力としてか、ワタクシに代わるハリの保護者としてか、彼女の頭脳を評価してか、あるいは――もっと別に理由があるのかは判断しかねますが――カンナと親しくなりたいという思いは、まあ、無いでもないです」
「へぇ~」
妙な含みを持って、スカモンの瞳が輝く。
何を期待しているかまでは、想像のしようも無いのだが。
だが――
「しかし仮に、ワタクシのコレが本当に『好意』と呼べる物なのであれば――ワタクシはようやく、あの男に真の意味で……反旗を翻す事が出来るのかもしれません」
ワタクシに心など無いと言った、あの智慧者に欠けた知識があると――証明できる可能性が、ワタクシ自身にあるのかもしれない。
……希望的観測にも程があるが――少しだけ、何かが軽くなった気がした。
「そう!」
スカモンが、飛び跳ねる。
全身を使わなければ表現しきれない程、感情が豊かなのだろう。
「だったらもっともっと、カンナの事、好きになってくれていいわヨ! そのためなら、カンナのいいところも悪いところも、何でも教えてあげるから!」
「良い面はともかく悪い面は……まだ、あるのですか」
「そりゃもう山ほどね!」
聞きたいような、聞きたく無いような、聞くべきでも無いような……。
……ただ、我ながら不思議ではあった。
仮に、ハリに好意があるとして。カンナに、好意があるとして。
どうしてここまで――2人に対する思考が、こうも違ってしまうのだろうか。
「あ! でもその前にハリちゃんの事ヨ! 妹の事もままならない今の状態でカンナに好きだのなんだの言い出したら、スカちゃん、コウキちゃんの命の保証、できないわ」
「……」
冗談だというのは判っているが――いや、本当に冗談だろうか。あの女ならやりかねないと、そんな風にも思う。
……夏休みの宿題、というものを、投げ出したはずなのに――酷い補習授業に放り込まれているような気が、しないでもない。
だが、『家』にいるより、ずっといい。
「では、そろそろお聞かせ願いましょうか。ハリとワタクシが、出かけるプランとやらを」
「そうね。ま、そうムズカシイ事言うつもりは無いわ。コウキちゃんとハリちゃんはお出かけ初心者だもの。なるべく近場で、混まなくて、でもいい感じの――」
話を聞きながら、屋上への出入り口へとスカモンと共に向かい始める。
なんでも、そろそろカンナが先ほどの行動に自己嫌悪と羞恥心で身悶えし始めかねないとの事で――相変わらず、行動の全てが計算ずくにも関わらず、肝心の後先を考えていない節があるというか、何というか……。
ただ、それをフォローするのは、パートナーであるスカモンの方がずっと適任に違いない。ワタクシ自身は研究室に戻るよりも先に、ハリに会いに行くつもりでいる。
早速、出かける話をしたら――あの娘は、少しでも表情を、変えてくれるだろうか。
Episode カガ ソーヤ ‐ 4
最近、ハリちゃんの歌唱技術の上達が目覚ましいというか、なんというか。
ハリちゃんのお兄さんの(一瞬冬休みになりかけた)夏休みもいよいよ今日で折り返し地点だが、ピノッキモンの館での戦い以降は不気味な程に何事も無くて――だけどそもそも戦闘要員には程遠い俺にやれることなどほとんど無いので、出来る事をしようと作詞作曲に勤しみつつ、ハリちゃんのレッスンを続ける日々を送っている。
まあ季節的にはむしろ好きな時期なので、申し訳ないとは思いつつ、多分、雲野デジモン研究所の面々の中では、俺とオタマモンが、今一番、調子がいいに違いない。
梅雨が、やって来た。
連日の雨のせいか、カンナ先生のただでさえ跳ね放題のピンク髪は、跳ねを通り越して渦を巻きかねない勢いでとっ散らかっている。先生自身も流石にヤバいと思うのか、手櫛でがりがりやってる回数も増えた気がするけれどそこは本物の櫛使った方が良いんじゃないかなと俺は思います、はい。
あと、お兄さんの事鏡代わりにするのもどうかと思います。
鏡だけど。鏡だけれども。
そんでもってその提案を承諾するお兄さんもお兄さんだと思うけどね!
閑話休題。
まあそんな(気候的に)湿気た空気の中、ハリちゃんは毎日サボりもせずに俺のところに来て、発声練習と、そのための筋トレと、その他諸々のレッスンを続けている。
そもそも「言われた事を言われた通りにやる」を徹底してきたハリちゃんは言った事を素直に受け取って吸収してくれる上、良くも悪くも恥じらいが無いので、ハリちゃんに歌を教え始めた当初から伸びしろスゴイとは思っていたけれど――ピノッキモンの館でのやり取り以降、それが顕著になったような気がする。
……よっぽど、聞いてほしいんだろうな。お兄さんに、自分の歌。
それはきっと、戦力としての自分の価値を見出せなくなりつつある彼女自身が、それでもメルキューレモンの役に立つ方法を模索しての、『焦り』から来るものなのかもしれないけれど――
だったら尚更、そういう面でハリちゃんの力になれるのは、同じく戦力にはほとんどなれない俺とオタマモンの役目だ。
「マジェスティック! ……いい感じだぜハリちゃん。ちゃんとお腹から声が出てる。その感覚が解んなくなった時は仰向けに寝っ転がれば嫌でも腹式呼吸になるから、夜寝る前に2、3分でいいから意識して呼吸すると、だんだんどんな姿勢でも出来るようになるぜ」
「解りました。早速今夜から実践します」
ふむ。座ったままでもパフォーマンスが出来るようになったら、弾き語りとか教えてみるのもいいかもしれない。
ハリちゃんの声は透明感があって伸びやかな――言うなれば、硝子の器同士を軽くぶつけた時のような、小気味良い上品さを持っている。派手派手しいアップテンポの曲よりか、使用する楽器も最低限に抑えた静かめの曲の方が多分、合うだろう。
……。
「シンガーソングアイドル、か……」
「はいはい、そういうのを夢想するのは、ちゃんとハリちゃんを育てきってからゲコよ」
いやまあその通りなんですけどね!
と、ふいにコンコン、と鳴り響く俺の部屋のドア。
丁度いいタイミング――というか多分あの子の事なので、俺達が一息つくタイミングを見計らっていたのだろう。
どうぞ、と声をかけると、案の定お盆に飲み物を載せたリューカちゃんが、部屋の扉を開けた。
「えっと、飲み物をお持ちしました」
本当に微妙な違いではあるのだが、梅雨入り以降、リューカちゃんも少しだけご機嫌そうに見える。
日照時間が減り、パートナーが過ごしやすい時期になったから。っていうのは、想像に難くない。
理由は結構違う事が多いけれど――こうして見ていると、オタマモンとピコデビモン……というか、ヴァンデモンも、ちょっとしたところで共通点が多い気がしないでもない。
「ありがとゲコ。もうレッスンも終わりゲコから、リューカさんも一緒に一休みしないゲコか?」
「あれ? いつもより早いんですね」
時間的には、いつもなら中休みに当たるころだろうか。
そーいや、リューカちゃんに言ってなかったっけ……。
「実は今日、ピノッキモンのお見舞いに行くつもりなんだ。俺もルカモン通じてやり取り自体はしてるんだけど……もう一回、直接会って、お礼、言いたいしさ」
俺も一応はそこそこの売れっ子天才音楽クリエイターとしての仕事があるので、本当は、もう少し早く顔を出したかったのだけれど……十分な空き時間が用意できず、結局2週間が経過してしまった。
……いや、やっぱり、言い訳しないで言うと――少し、顔を合わせ辛かった。
なんたって、あの時ピノッキモンは、俺を庇って、あんな大けがをしてしまったのだから。
ピノッキモンはああ言ってくれて、そのお蔭で俺は身体的にも精神的にもこうして無事に過ごせているのだけれど――それはそれ、これはこれ、だ。
もう数回ほど、あの時の光景を夢にも見てしまっている。
……怒られるんだろうなぁ、そんな事言ったら。
「っていうか、迷惑じゃ無かったら……リューカちゃんとハリちゃんも、一緒に行かない?」
2人が揃って、目を瞬いた。
うん。この際巻き込もうという訳だ。
ヘタレっぷりを怒られるのは間違いなく俺1人だろうが、それでも同行者がいるというだけで安心できる部分は、ある。
「えっと……私も、ピノッキモンさんの様子は気になっていたので……こちらこそ、ご迷惑でなければ一緒に行きたいです」
と、まずはリューカちゃんが同意してくれた。
まあ確かにリューカちゃんは、手掛かりを探して出向いたカンナ先生や、程度の差はあれ十闘士のスピリットに関わっているハリちゃんとそのお兄さん+俺と比べてピノッキモンと少々縁が薄い訳で――俺とは全く別の意味で、単身では出向きづらかったのだろう。
対してハリちゃんは、悩んでいるというよりは、別に思うところがあるようだ。しばらく目線をやや上げて遠くを見ていたが
「私1人では判断しかねるので、マスターの意向を確認してきてもよろしいでしょうか」
やがて俺と目を合わせると、そんな風に訪ねてきた。
まあそりゃ、誘っておいて何だけど俺の独断ってわけにはいかないし。
「うん。その方が良いと思う」
「あ、じゃあ私もカンナ博士に報告してきます」
俺の部屋を後にして、研究室に向かう2人。
残された俺はリューカちゃんが持ってきてくれたお盆からミネラルウォーターのペットボトルをオタマモンに渡して、ボトルコーヒーの方を開けてコップへと注いだ。
「ピノッキモン、元気になったゲコかな?」
「どうだろう……」
どうやら伝説のハッカーだったらしいゼペット爺さんの手腕でどうにか穴は元通りになった訳だけど――一度は、貫通したのだ。
長く持たせられないと、ゼペット爺さん自身が言っていた。
「……」
「ソーヤ……」
「こんな風にこっちが落ち込んだって、多分、怒られるだけなんだろうけどな。「おぬしに求めておる『水』の要素はそういう湿っぽさの事では無いわ、阿呆め!」とかなんとか……」
「あー、言われそうゲコ……」
それに気になるのは、ピノッキモンの現状だけじゃない。
あの館にはまだ、マカドかいるらしかった。