Episode タジマ リューカ ‐ 3
朝が嫌いだった。
ああ、私の大好きなピコデビモンのための時間が、終わってしまう。
それからみんながピコデビモンと私を虐める時間がやってきて、この子はまた、私のために、泣かなきゃいけない。
いっその事、目が覚めなければいいのにと何度願っただろう。
ずっとずっと夜が明けずに、その支配者が私のピコデビモンで――ヴァンデモンであったなら、どれだけ良かっただろうと、願っただろう。
だけど、カンナ博士と出会って、スカモンさんと出会って――初めて、私達は素敵な朝を迎える事が出来た。
今日はカンナ博士と何を話せるだろう。スカモンさんとどんな話ができるだろう。私は2人のために、一体何ができるだろう。
そう思うと、毎日、目が覚めるのが、楽しみになった。
……だけど昨日の事で、今の生活に浮かれていたのが私だけだったと、ようやく、私は気付かされた。
カンナ博士は、本当は、もう、ボロボロだった。
スカモンさんは、そんな博士を隣で必死に支えていたのだ。
私は何も、していない。できていない。
だから、今日は、朝が来るのが、怖かった。
役立たずの私は、もう、いらなくなっちゃうんじゃないかって。
怖くて、怖くて、ベッドから出られなかった。
やっぱり私なんて、どこかで、二度と、目覚めなければ――
「リューカ」
ぽす、と、音がして
枕元に、私のパートナーが、降り立った。
「おはよう、リューカ」
「……」
おはよう、とは言えなかった。
だけどピコデビモンは、自分が眠いのも我慢して、ぴょんぴょんと私の枕で飛び跳ねる。
「ほら、起きてリューカ! 朝だよう!」
世界が、揺れる。
「……ピコデビモン」
「なーに?」
「私……起きて、いいのかな?」
「? どうして?」
「私なんて、なんの役にも立たないのに……起きても、迷惑なだけじゃないかな?」
「リューカの事そんな風に思う人だったら、僕、カンナ博士達の事、好きにならないよ?」
「……」
ピコデビモンの金色の瞳が、私の視線と平行線を描く。
……本来青色になるらしいのだけれど、この子の眼はヴァンデモンに進化してもこの色のままで、だから私は、蜂蜜みたいなこの子の瞳が、大好きだ。
「あのね、あのね。僕、カンナ博士だけじゃなくて、優しいスカモンも、愉快なソーヤさんも、可愛いオタマモンも、それから僕やリューカと遊んでくれたハリも、ちょっといじわるだけど、ほんとはいい人のコウキさんも……みんなみんな、大好きなの!」
「……私は……」
「リューカの心の中は、いっぱい、みんなに会いたいって言ってるよ?」
ずっと昔から――この子にだけは、隠し事が出来ない。
それが良い事なのか、悪い事なのかは判らないけれど。
だけどこの子の言う通り、私はここ――カンナ博士達が居るこの場所が、ピコデビモンの瞳と同じくらい、大好きで。
「リューカが大好きなみんなの事……僕も、大好きになろうって、決めたの」
「ピコデビモン……」
「だから、ほら。起きてリューカ! カンナ博士とスカモンが、リューカのコーヒー、待ってるよ?」
「……でも私、博士に何て、お声がけすれば……」
「決まってるでしょ? 「おはよう」だよ!」
ああ、やっぱり……この子には、敵わないなあ。
「……今日も、一緒にいてくれる?」
「うん! ちょっと眠いけど……リューカが安心できるまでは、僕、ずっと起きててあげるから!」
恐る恐る、ベッドから降りる。
身支度を済ませ、伸びをする。
いつもより数分、遅くなってしまったけれど
それでもまだ、カンナ博士を起こしに行ける時間帯だ。
「……ありがとう、ピコデビモン」
「えへへ、どういたしまして!」
ドアノブに、手をかける。
思い切って、勢いよく扉を開ける――と、
「ぶへっ!」
カガさんに、ぶつかった。
「え――え?」
どうして?
……じゃなくて!
「ご、ごめ――」
「リューカさんが謝る必要は無いゲコ。女の子相手だからって自分から声かけられずに扉の前うろうろしてたソーヤの落ち度ゲコ」
「そ……そうだぜリューカちゃん……大した事無いから安心して……?」
「ほら、起きるゲコソーヤ。リューカさんに言う事あるゲコでしょ?」
呆気に取られて固まっていた私とピコデビモンの前で、カガさんが立ち上がった。
「え、えっと……おはよう。リューカちゃん、ピコデビモン」
立ち上がって、何故か少しだけ顔を赤らめて、そう、私達に声をかけてくれた。
「お――おはよう、ございます」
びっくりしたけれど、私も思わず、返してしまって――
今日も1日が、始まった。
*
「いや、さっきはほんとごめんね! ……ほら、俺も昨日の今日だから、その……顔、出しづらくてさ」
照れ臭そうにそう言って頭を掻くカガさんと並んで、私達はリビングへと向かう。
リアライズしているオタマモンさんとも歩調を合わせているので、進行速度はとてもゆっくりだけど……でも今は、それがなんだか、ほっとする。
この人は、いつもパートナーと並んで、この速度で歩いてきたんだな、って。
「ほら、俺って……その……言っちゃなんだけどたまたま水のヒューマンスピリットを手に入れただけで……。そりゃ、ハリちゃんとの一件とか、あったけど……キョウヤマ博士との因縁があるかと言われれば、そうでも無い訳で……」
「……私もですよカガさん。私も、本当に偶然、カンナ博士と出会って……博士とスカモンさんの助けになりたいって思ったけど……全然、力に、なれなくて……」
「そんなことないゲコよ」
と、俯く私の視界に入るように、オタマモンさんが身を乗り出した。
「オタマモンさん?」
「リューカさんとピコデビモンは、ゲコの事、助けてくれたゲコ。それって水のヒューマンスピリットを回収しようとするキョウヤマ博士の目論見を邪魔できたっていう事ゲコよ? つまりカンナ博士の力になれてると、ゲコは思うゲコ」
「でも、あの時も、カンナ博士が……」
「カンナさんを呼んでくれたのはリューカさんゲコ。それに、吹っ飛ばされたゲコの事受け止めてくれたのは、ヴァンデモンゲコよ?」
ヴァンデモン、と完全体時の名前を呼ばれて、私の肩にとまったピコデビモンが、輝かせた瞳で私の顔を覗き込む。
……こんな風に、肯定的に名前を呼んでもらえる日が来るなんて――全然、想像もしていなかったから。
「オタマモンさん……」
「ほら、ソーヤも何か言うゲコ!」
「お、俺!? いやでも、オタマモンがもうほとんど……」
「ゲコ!」
オタマモンさんが、カガさんの右の足に飛び乗った。
もしかしたら、2人の間にある何かの合図なのかもしれない。カガさんが、足を止めた。
「……解ったよ、俺のミューズ」
そしてそのまま、カガさんは改めて、私の方に向き直った。
「リューカちゃん、ピコデビモン。俺……君たちの事、本当にマジェスティックだと思ってる!」
目を見て、大きな声で。この人はそうやって、はっきりものを言える人だ。
それが私とピコデビモンに、向けられている。
「俺とオタマモンは……うん、正直に言って、スゲー弱い。戦闘とは本当に無縁の生活送ってきたから……『コロシアム』とかも付き合い程度でさ。……歌と至高のアイドルだけで良かったんだよ、俺達の世界は」
「ゲコね」
「でも、それは素敵な事だと思います。……才能だけでパートナーを進化させられる人なんて、そうそういませんよ?」
「だけど君達に出会って、俺は俺自身が井の中のカジカだと知ったのさ」
「……?」
「あの日俺が見たリューカちゃんとヴァンデモンは、強くてかっこよくて、実にマジェスティックで。……初めて見た、『広い世界』だった」
「――」
広い世界。
家から逃げ出した私達が、誰とも深く関わらずに済んで、ようやく一息つけたと思った大学での生活。それを私は、そう、表現していた。
でも、そうじゃなかった。
そして今、カガさんが言っているのは、私がカンナ博士とスカモンさんに出会ってから、初めて知った『広い世界』の事だ。
「いや、女の子相手にこう言うの変なんだろうけど……自分のパートナーの強さを信じて、ビシッとキメてるところなんか……もう、ほんとに痺れてさ。言っただろ? 君達の事、歌にしたいって。……俺はあの時の衝撃を、この先一生、忘れたく無いのさ」
「……私は……」
あの時の事を、思い出す。
あの時結局、私達の力だけではオタマモンさんを助けられなくて。
オタマモンさんを助けられた後も、現れたシューツモンに尻込みするばかりで。
その後だって。集まってきた人たちの眼が、私のヴァンデモンに向くのが怖くて。
……だから、あの時。
「私の方こそ、あの時……カガさんが私達に言ってくれた事が、本当に嬉しかったんです」
カガさんは首を傾げる。
「お礼の事? でもそんなの――」
「それもですけど……「やっと見つけた」って」
空まで届きそうな大声で、カガさんは確かに、そう、叫んでくれた。
「私、どこにもいなかったのに……見つけてもらえて、嬉しかった」
自分でも、無茶苦茶な事を言っているのは、解っている。
でも――ああ、ようやく言えた。
私達を最初に見つけてくれたのはカンナ博士だったけれど――そこにいるって叫んでくれたのは、カガさんが初めてだったから。
「リューカちゃんは」
と、ふいにカガさんが、私のピコデビモンの乗っていない方の肩に、ぽん、と優しく手を置いた。
「ここにいるよ。俺には見えてる」
見上げたカガさんの顔は、本当に暖かい表情をしていて。
……でも、突然、自分の熱で暖まり過ぎたかのように顔が赤くなって。
「そ――そう! この天才音楽クリエイターカジカを覗く者は、同時にカジカに見られているのだ!」
「すごいソーヤさん。深淵みたい!」
「すごいのゲコかなぁ……」
くるり、と背を向けて何故か人差し指を天井に向けたカガさんを尊敬の眼差しで見つめるピコデビモンと、カガさんとピコデビモンを交互に見つめて目を細めているオタマモンさん。
……なんだか、まるで何事も無かったかのような光景で、……ふと気が付くと、私は笑ってしまっていた。
「ゲコ。……リューカさん」
「! あ、す、すみませんオタマモンさん。私……そんな、笑ってる場合じゃ、ないのに」
「そんな事無いゲコ。ソーヤはこのところ、リューカさんが笑うのが見たくて悪ノリ3割増しくらいなところがあるくらいゲコよ?」
「え?」
「ぶっふぉおいっ!?」
カガさんが、盛大に噴き出した。
「ちょ、ちょ、ま……あ、いや、うん。そりゃあ、君たちにはなんたって、俺の曲のモデルになってもらうつもりだから? わ、笑ってくれてる方が、ほら――インスピレーションがさ」
わたわたとオーバーな身振り手振りで、早口でそう伝えた後、こほん、とカガさんは小さく咳ばらいを挟む。
それからまた、眩しいくらいににっと歯を見せて
「とにもかくにも、俺はここに残るつもりなのさ。……俺のミューズを守ってもらうため、ってのももちろんなんだけど……ハリちゃんにはまだ教える事が山ほどあるし、その事でお兄さんにはまだお許し貰ってないし、それに……俺の音楽を新たなステージに導いてくれた君たちの大切な場所を守る手助けを、まあ、ちょっとでも、できたらいいな~……って」
「カガさん……」
「リューカさんとピコデビモンはどうゲコか? 自分の居場所だけじゃなくて、カンナさんの大事な場所を、守りたいんじゃないのゲコか?」
「オタマモンさん……」
なんだか、情けない。
起きてから、ずっと自分の事ばかりだった。
私、いらなくなっちゃうんじゃないかって。私、追い出されちゃうんじゃないかって――そんな事ばかり。
カンナ博士とスカモンさんが大変だっていうなら、支えになれてないって思うなら、なおさら。
私は、自分から踏み出さなきゃいけなかったのに。
でも――
「ピコデビモン」
パートナーと、目を合わせる。
「まだ、遅くないかな?」
……ピコデビモンは、いつものように、笑ってくれた。
「まだ、始まってもないよ」
「……」
選択肢を、カガさんとオタマモンさんが教えてくれた。
そして私のピコデビモンが、私の背中を押してくれる。
私は、この場にいる『みんな』を見た。
「守りたいです」
『みんな』は笑ってくれたけど、決して嗤いはしなかった。
「じゃあ、一緒に行こうぜ、リューカちゃん。どっかで聞いたけど、戦いっていうのは防衛線の方が戦績良くなるもんなんだぜ?」
「あ……」
そうだ。
だから、私の大事なこの子は、強いのだ。
「……ふふ、そうですね!」
負けないくらい、とは、出来ないけれど。私もカガさんたちに、笑って見せる。
そうやって強くなったピコデビモンは、私の誇りなのだから。
「リューカ」
腕の所まで降りてきたピコデビモンを、私はそのまま抱きしめる。
温かくて、柔らかい。
そして、頼もしい。
「……頑張ろうね、ピコデビモン」
「うん!」
それから私達は、どちらからともなく目を合わせて、微笑み合った。
「……よっし、まずは腹は減ってはなんとやらだ! 朝飯にしようぜ、朝飯!」
「はい」
改めて、リビングに向かって足を進め始めるカガさん。その時少しだけ私達より先に出る形になった彼の隣に、ぴょん、と並んだオタマモンさんが「ソーヤ」とカガさんの名前を呼んだ。
「ん?」
「まだ赤点ゲコ」
「なんでっ!?」
「……?」
何の話だろうか。
「カガさん?」
「あ、いや。こっちの話。……ところでリュ」
「あれ? ハリ?」
ピコデビモンの言葉で顔を向けると、間近に迫ったリビング――そこから辺りをきょろきょろと見回しながら、寝間着姿のハリが出てきた。
「あ……おはようございますリューカ、ピコデビモン。カガ ソーヤさんとオタマモンもご一緒でしたか」
「おはようゲコ。そう言うハリさんは、コウキさんと一緒じゃないのゲコね」
こちらに近づいてきたハリの表情は、いつもと変わら似ようにも見えるけれど――どことなく、影が差しているように見える。
「昨晩、私に先に就寝するよう促してからどこかに行ってしまわれたようで……部屋には、戻っていないんです。起床後しばらくは待機していたのですが、帰ってこられなくて……マスターがどこにいらっしゃるか、ご存じないですか?」
「僕、1時くらいに屋上でお話したよ。その後は確か、リビングの方でカンナ博士とちょっとお喋りして、一緒に研究室に行ったんだと思う」
「ウンノ カンナ氏と?」
ピコデビモンが、頷く。
「研究室に行って、そのまま?」
カガさんの質問にも、ピコデビモンは頷く。
「まさか、マスターは……」
その言葉の先を想像して、ぎゅ、と心臓が締め付けられる。
だけどピコデビモンは変わらずに、「大丈夫だよ」と翼を軽く横に振る。
「コウキさん、僕と約束してくれたよ? リューカを怖がらせるような事はしないって」
……2人が、そんな話を。
「であれば、マスターがウンノ カンナ氏に危害を加えた可能性は限りなく零に近いでしょう。マスターは性質上嘘を吐けませんから」
「え、えっと、逆にウンノ先生が――って事は無い、よな? その……キョウヤマ博士の、息子? って訳だし……」
「!」
「いやでも流石に解るゲコ、メタルエテモンが戦闘を始めたら」
「それもそうか」
確かにオタマモンさんの言う通り、メタルエテモンさんは、静かに戦えるタイプのデジモンでは無い。
だから、昨日の夜中にどちらかが戦闘行為を仕掛けた。という事は、無い筈だ。
……無いと、思うけれど……。
「先に、見に行きませんか? 研究室に、様子」
一応言ってはみたけれど、提案するまでも無く全員がそのつもりだったに違い無い。
私達は誰からともなくリビングに背を向けて、カンナ博士達がいるらしい研究室へと向かう。
廊下の時点では、前まで来ても、物音ひとつ聞こえない。
「……失礼します」
いつも通り、私が部屋の扉を開ける。
開けた先では、カンナ博士とコウキさんが死んでいた。
「え、ええええええ……」
「悪いわねえリューカちゃん。いい大人が揃いも揃って……」
呆れ気味に肩を竦めて頭を振るスカモンさんの傍ら、それでも2人とも、ぴくりとも動かなかった。
カンナ博士は辛うじて呼吸がある事は判るものの、コウキさんに関してはそうでは無いので下手すると本当に死んでいるんじゃないかと不安になる。
……まあ、デジモンという事は死亡した時点で霧散する筈なので――スピリットが本体のコウキさんにしてもそれは同様らしいので――つまりは、生きている、という事なのだとは思うのだけれども。
こういう状態は、やはり珍しいのだろう。今回は「気にしないでほしい」という指示すら無いので、ただでさえ瞬きが少ないハリは、机に頭だけを乗せ腕の垂れさがった状態で椅子に座って気を失っているコウキさんを食い入るように見つめている。
「スカモン、スカモン」
「話せば長くなるわ」
カガさんに促されたスカモンさんは、ふう、と溜め息を吐くと、こうなった経緯を話し始めた。
真夜中に目を覚ましたカンナ博士は、眠れずにリビングへとやって来たコウキさんと話し合いの末、協力関係を維持する事に決めたそうだ。
その最初の仕事として、あのアルボルモンだったおじいさんのスマホに送られてきたメール――博士もコウキさんも知らないURLが指し示すネット空間の座標を特定しよう、という話になったらしい。
「その後がね。……とりあえずアクセスしてみましョって事になって、インターネットで検索をかけたんだけど……」
「かけたんだけど?」
「ものの見事にウイルスに感染させられてね」
「だ、大丈夫なんですか、それって……」
「ウイルス自体はか、な、り! しョーもないのばっかりでね? 件名が『HELLO』でクラモンの画像付きのメールが数分おきに送られてくるだとか、画面の右端にルカモンが出て来て消えないだとか、資料に書いてあるデジモンの名前が一部誤植されてる状態になるだとか……なんか、そういうのばっかり……」
「うわぁ……」
それはそれで、かなり嫌なバグばかりだと思う。
「ただ、そのバグを駆逐すると次のURLが現れる仕組みになっててね? だから最初の内は2人とも冷静に対処してたんだけど、だんだん腹立ってきたんでしョうね。止めておけばいいのにどんどんムキになっていって、ノンストップでパソコンとにらめっこを続けて……明け方ごろに、元のURLがもっかい送られてきて、「なにやってんだろアタシ……」って言って倒れたの、カンナ」
「マスターは」
「カンナが倒れてから2秒くらいフリーズした後、「一度全機能を停止します」って言って」
黄色く細い指が指し示す先には、一向に動かないコウキさん。
……2人は、悪質な悪戯に引っかかった……という、事なのだろうか?
と、ピコデビモンが私の頬を羽でつついた。
「どうしたの?」
「ウイルスなら、僕が見てみようか?」
「! ああ、そっか。そうだよね」
私はピコデビモンにスマホを向ける。
「ピコデビモン、進化――ヴァンデモン!」
途端、光に包まれたピコデビモンがヴァンデモンへと進化した。
……進化した直後こそきりっとした顔をしていたものの、やはり時間が時間なので眠いらしい。赤いコウモリの仮面の下にある目が、眩しそうに細められた。
「うーん、やっぱりこの姿になると余計眠いや……」
「ごめんねヴァンデモン。ちょっとだけ、頑張って」
「うん」
頷くと同時に、スマホへと飛び込むヴァンデモン。カガさんが不思議そうに首を傾げている。
「何故にヴァンデモン?」
「えっと、種類にもよりますけど、ヴァンデモンはウイルスを操るデジモンでもあるので……ちょっと待っててくださいね」
インターネットを開き、URLを入力する。検索を始める前にヴァンデモンに声をかけると、「いつでもオッケーだよ」と返事があった。
……よし。
「じゃあ、お願い、ヴァンデモン!」
検索、のキーを選んだ瞬間、スマホの画面にノイズが入り始める。
……しかしそれが形を成す事は無く、30秒ほどしたところで画面が切り替わり、「検索結果を表示できません」という味気ない文章だけが表示された。
それからすぐに、ドット絵姿のヴァンデモンが画面の端から現れた。
「どうだった、ヴァンデモン」
「うん、上手くいったと思う」
再び画面が切り替わり、今度はMAPが表示された。
一面、森のように見える。
「これは、デジタルワールドの地図でしょうか」
「多分ね」
ヴァンデモンが肯定すると、地図のちょうど真ん中あたりに、赤く光る点が現れる。
これが、博士たちが本来見つけようとしていたデジタルワールドの座標……なのだろうか?
「でもこのURLの先のデータ、なんだかすっごく変だった。何て言うのかな。最初からハッキングされる事が前提だった、みたいな? 表面上は本当にただのイタズラのデータなんだけど、その奥がこれだったんだよね」
「とりあえず、カンナ博士に報告してみよっか」
「わかった。……ところでリューカ、この地図と一緒に検索機能のついたルカモンのアイコン見つけたんだけど、欲しい?」
「うーん……いらないかな……」
「じゃあ、元の所に仕舞ってくるね」
そう言って、再び画面の端へと消えていくヴァンデモン。と、ぱちぱち、と手を叩く音が聞こえたので振り返るとスカモンさんが手を叩きながら微笑んでいて。
「すごいじゃないリューカちゃん! もちろんヴァンちゃんも! カンナとコウキちゃんが徹夜でもダメだったのに」
「あ、いや……そんな事は……。たまたま、ヴァンデモンがこういうの得意だっただけで……」
「それにしたってヨ! ありがとね、リューカちゃん。アンタ達ってばホントに頼りになるんだから!」
「!」
一気に頬が熱くなる。
あんなにくよくよしてたのに。こうも面と向かって言われてしまうと、自分の考えが恥ずかしかった。
こういう風に、優しくしてくれる方たちだって解ってるのに。その部分を信じ切れていなかった自分が、情けない。
「……すみません」
「んもう! そこは「ありがとう」でしょリューカちゃんったら!」
机に飛び乗ったスカモンさんが、ぽん、と私の背中を叩く。
……手の離れたあとさえ、なんだか、温かい。
「……ありがとうございます、スカモンさん」
「ん。それでヨし!」
スカモンさんがあまりに良い笑顔を向けるので、安心してつい、私もその笑顔につられてしまう。
ああ、やっぱり私。ここが、この場所が、大好きだ。
と
「ん、んんん……」
もぞ、と、カンナ博士のピンク色の髪が揺れた。
「あ、おはよう、カンナ博士!」
スマホの中で退化を済ませたピコデビモンがリアライズして、博士がもたれかかるように眠っていた机の上へと飛び移る。
博士も声に気付いたようだ。机に伏せた姿勢のまま、顔だけはピコデビモンの方へと向けた。
「ん……ピコちゃん。……って事は、夜?」
「まだ朝? もう朝? ……どっちって言うべきかしらねえ。……ま、とりあえずはオハヨウね、カンナ」
「んー……」
ようやく、カンナ博士が身体を起こす。
「おはよう」
「おはようございます、カンナ博士」
そして私も、やっと、博士にそう言えた。
「ん、あ、リューカちゃん。……ってか、みんな居るね」
「皆心配して見に来てくれたのヨ」
「……そうか、そうだね」
立上がって、私達1人1人の顔を見渡すカンナ博士。
睡眠不足で若干濁った博士の目は、だけどいつもの、強い意志のある瞳だ。
「昨日はすまなかったね、迷惑かけて」
「迷惑と言うより心配ゲコ。カンナさん、もう大丈夫なのゲコか?」
「大丈夫だよ。……大丈夫」
ここで、博士は一度深呼吸をして。
視線を、先ほどからコウキさんの方を気にしがちなハリの方へと定めた。
「ハリちゃん」
「はい」
「どうせ後でコイツが説明するだろうけど……っていうかスカちゃんから聞いたかね? アタシとアンタのお兄ちゃんは、このまま一緒にキョウヤマ博士と戦う事にした」
「はい、スカモンから伺いました」
「ハリちゃんの事もよろしく頼むって言われてる」
少しだけ、ハリが顔を上げた。
キョウヤマ博士からのメッセージを聞いた後、ハリとコウキさん、2人の間でどんな会話があったのかは解らないけれど――
「だから、こっからもよろしく頼むよ。ハリちゃん」
「……はい」
――カンナ博士に差し出された手を握り返したハリは、少しだけ、安心しているように見えた。
「ただまあ……ちょいと厄介な事になってね?」
と、握手を解いたカンナ博士が、半ば身を投げ出すように再び椅子へと腰を下ろした。
「厄介な事?」
「あー、これもスカちゃんから聞いたかもしれないけど、あのスマホおじいちゃんのスマホにメールが届いてて――」
「カンナ、カンナ。もうそれ解決したわヨ」
「え?」
スカモンさんの解説に添えるようにして、私はデジタルワールドのものらしいマップを映した自分のスマホを博士へと差し出す。
……一瞬、溶けたんじゃないかと思った程、カンナ博士は静かに椅子からずり落ちていった。
「マジか……マジかぁ……」
「す、すみません博士。差し出がましい真似を……」
「いや、正直な話――性質上、ヴァンデモンなら何かしら対処できるんじゃないかとは、
思ってなくは無かったんだけど……っていうか、今から頼もうかなくらいに思ってたんだけど……そうさね。素直にそうしておけば、良かったね」
「全くヨ」
完全に椅子から落ちるより少し前に、カンナ博士が這い上がってきた。
……眉をハの字にしながら、微笑んでいる。
「ありがとね、リューカちゃん。アンタにはいっつも助けられっぱなしだ」
博士の言葉が――心に、染み込んでくる。
この人はいつも、私が欲しい言葉を、欲しい時に、かけてくれて――
「? わ……わー!? なんで!? なんで泣くのリューカちゃん!?」
「カンナの寝起きの口がくっさかったんじゃない?」
「うぐっ、否定しきれない可能性……!」
「ち、違います、違うんです!」
慌てて否定する。というか、一瞬、自分が泣いている事になんて、これっぽっちも気付かなかった。
いつも、いらない心配をかけてしまって、本当に申し訳ないのだけれど――
――だけどきっと、いつも大変なこの人に、私はきっと、甘えてしまっているのだ。
だから、だから――
「カンナ博士」
「うん?」
「私……もっとカンナ博士の力になりたいです。お役に、立ちたいです。だから……私は、まだここに居ても、良いですか?」
また、カンナ博士が立ち上がる。
立ち上がって、今度は私の所に来て。……私の事を、そっと、抱きしめてくれた。
「!」
「じゃあ早速、寝起きのコーヒーを淹れてもらおうかね? 昔飲んでたのもいいんだけど……アンタのコーヒー、美味しいから、好きなんだ」
「あ……は、はい!」
白衣に染みついているのだろうか。少しだけ、薬品の匂いがする。
……袖に隠れているけれど、カンナ博士の腕はひどく細くて――だけど、力強くて、温かい。
「……ありがとうございます、カンナ博士」
「何言ってんだい。こんなの、給与の内にも入らないよ」
手を放したカンナ博士が、軽く私に向かってウインクする。……だけどふと真顔になって
「っていうか、大丈夫? アタシ、ゲロ臭くなかった? というか口臭大丈夫そう?」
「あ、それは、全然。少し薬品の匂いがしましたが……」
「カ、カンナ博士……」
と、ひょこ、とピコデビモンが私の肩から控えめに顔を覗かせた。
それだけで、博士はこの子の言いたいことを察してくれたらしい。
再び開かれたカンナ博士の腕に、ピコデビモンが飛び込んだ。
「ぎゅー!」
「ぎゅー。……うんうん、ピコちゃんは丸くて柔らかいねえ」
ピコデビモンが私以外の誰かに抱きしめられているのを見るのは、これが初めてかもしれない。確かヴァンデモンの時にメタルエテモンさんに抱えてもらった事はあるけれど、ハグ、となると……今まで誰も、この子にそんな事してくれなかった。
やっぱり、私。この人たちと出会えて、良かった。
いつの間にか口角が上がっていると、満面の笑みでピコデビモンが私の元へと戻ってきた。
私はそれを、さらに抱きしめる。
「えへへ……僕もカンナ博士にぎゅーしてもらっちゃった」
「良かったね、ピコデビモン」
「ゲコゲコ……ソーヤも後学のためにしてもらったらどうゲコか?」
「ぶふぉっ!? 何言ってんのオタマモン!? そそそ、それは良くないんじゃないっすかね!?」
「そうかい? アタシは別に構わないけど」
盛大に噴き出したカガさんをからかうように微笑みながら、ぐい、と、カンナ博士は親指で未だに動かないコウキさんを指し示す。
「昨晩だって、コイツの事抱いたばっかりだし?」
場の空気が、凍り付いた。
……えっと?
博士は、今、何て?
「……カンナ。酷く誤解を招く言い方はやめてもらっても構いませんかね?」
低い男性の声。
振り返れば、歯車が回り出したかのような軋む音を立てながら、コウキさんが身体を起こし始めていた。
「おう、おはようさん。……しかし何だい。嘘は吐いてないだろう?」
若干顔に寝起き感の残るコウキさんは、少しだけ顔をしかめた後――思い直したかのように眉間の皺を広げて瞼を下ろし
「そうですね。大胆にも貴女はワタクシを押し倒し……ふっ、前々から激しい女性だとは思っていましたが、まさかあれ程とは」
反撃に出た。
今度はカンナ博士が思い切り顔をしかめる番だった。
「アンタ……アタシの肉付きがどうのこうのとか言ってた割には随分とノリがいいねぇ。ええ?」
「それが理解できる程度に密着した事は事実ですからね。ワタクシ、嘘は吐けないものでして」
「アンタ達、朝っぱらからやめなさいヨ」
スカモンさんが、いつも以上に呆れている。
呆れているのだけれど――私達は、何というか、それどころじゃない。
昨日の晩、話し合いをしたと聞いたけれど……何が、あったというのだろう?
と、その時だった。
「マスター」
ぴくり、と、コウキさんの肩が跳ねた。
先ほどから大人しく話を聞いていたハリが、一歩、また一歩と、コウキさんの方へと足を進めていて。
「質問の許可を、頂いてもよろしいでしょうか?」
「……どうぞ」
「先ほどからマスターがウンノ カンナ氏に受けたという行為……マスターの発言を鑑みるに、やや過剰だったという抱擁に関して。何故一瞬、ウンノ カンナ氏の発言の後、リューカ達はあらゆる発言を控えたのでしょうか。マスターが仰った『誤解』が関係しているのですか?」
「……」
「そしてそれは、マスターがウンノ カンナ氏を呼称する際の呼び名が『ウンノ博士』から『カンナ』に変わっている件にも関連しているのでしょうか?」
「…………」
「マスター?」
もしコウキさんが人間だったら、今頃、冷や汗が噴き出しているに違いない。少なくとも、彼が今浮かべているのはそういう表情だ。
ハリの質問は、本当に、ただの疑問でしかない。……少なくとも表面上で判断する分には、そう見える。
だけど疑問でしかないだけに、ちょっとした悪戯心でカンナ博士にやり返した発言の全てが、必要以上に、重みを増してしまっていて。
というか、ハリの後者の疑問に関しては、私達も気になっている訳で。
ただ1人、カンナ博士だけは可笑しそうににやにやしながらコウキさんを眺めていたけれど――やがて、元はと言えば博士の発言が発端だったので、若干の責任を感じたのかもしれない。助け舟を、出し始めた。
「アンタのお兄ちゃんだけど、昨日の昼の事が相当堪えてたみたいだったからね。別にこっちは責めるつもりは無いってのと、ま、ちょっとしたジョークのつもりでね? リューカちゃん達にしたみたいに、ぎゅってしてやったのさ」
「ウンノ先生も大胆っすね」
「いやだって、今は見た目これだけど中身はデジモンだし、別に。……まあ不意打ちでやったせいでバランス崩しやがって、なんか一昔前のラブコメ漫画みたいな状態になっちゃったってのが真相」
「……何故ワタクシが悪い風になっているのですか」
多少冷静さを取り戻したらしいコウキさんがカンナ博士にじと目を向けるが、博士自身は、どこ吹く風だ。
「こういう時はだいたい男の落ち度にしとくもんなんだよ。……それから、カジカPの反応でちょっとは察してるかもだけど……異性同士のハグってのは、同性同士のハグより、日本人の常識からすると相手への親愛度が高い感情表現って事になっているのさ」
「なるほど。マスターはデジモンなので本来性別はありませんが、今現在は日本人男性・キョウヤマ コウキとして存在している身です。リューカ達は、ウンノ カンナさんからマスターへの行為が親愛の表現としては過剰だと判断し、それを疑問に思った、という事ですね」
「ま、そういうところさ」
「では、急に呼び名が変わったのは?」
「それはアンタとリューカちゃんも一緒だろう? アタシは名前で呼ばれる方が好きだから、これからも仲良くやってくならそっちの方がいいって言ったの。見た目の年齢はおおよそ一緒だしね、博士って付けられるのも、なんだかしっくりこなくてさ」
「あ、じゃあもしかして俺もウンノ先生じゃなくてカンナ先生の方がいい感じ?」
「ああ、そういやそうだったね。カジカPも、それで頼むよ」
私とピコデビモンにしても、カンナ博士が名前で呼ばれる方が好みだという話は既に聞いていて、だからこそ、普段からこの呼び方であった訳で。
……うう、なんだか妙な勘ぐりを入れてしまった自分が恥ずかしい……!
「せっかくだから、ハリちゃんもアタシの事は下の名前で頼むよ。流石に歳離れすぎてるから、呼び捨てってのは、無しでお願いしたいけど」
「了解しました。今後はウンノ カンナ氏の事を、カンナさんと呼称させていただきます」
「ん。よろしくね」
にこりとハリに微笑みかけて、コウキさんの方へと振り返るカンナ博士。
……ボソッと小声で「これが対応力ってやつよ」と聞こえたけれど、きっと、悪い顔して言ったんだろうな……博士……。コウキさんが悔しそうだし……。
ただ、カンナ博士の対応で、コウキさんにも思うところがあったようだ。
博士と入れ替わるように、コウキさんがハリの前に出る。
「ハリ。……すみませんね。貴女の質問に、答えられずに」
「いえ、疑問は解消しましたので。むしろ申し訳ありません。マスターが説明に困惑するような質問をしてしまった事を、深くお詫び申し上げます」
「……謝るのは、ワタクシの方でしょう」
そう言うと――コウキさんは、とてもぎこちなかったけれど――ハリの事を、カンナ博士が私にしてくれたように、抱きしめた。
「! ま、マスター?」
「カンナ曰く、怯える者にはこうするべきだそうです。……貴女に怖い思いをさせたまま、置き去りにしてしまいましたからね。……もっと早くに、こうするべきだったのでしょう」
「……」
そうやって抱きしめながらも、コウキさんはどこか困ったような顔をしていて――もしかしたら、自分のやっている事に、されている方のハリ以上に、戸惑っているのかもしれない。
「……ですが、こうやって貴女を抱擁してみてもワタクシには、家族の情というものは……妹である貴女への愛情というものは、湧いては来ません」
コウキさんの言葉に、相変わらず、偽りは無い。
でも――
「そんなものでも構わないのであれば、ワタクシは、貴女が望む限りは、貴女の兄であり続けましょう」
きっと、本人が。あるいは2人が一番よく解っていないだけで――私にとっては、やっぱり羨ましいくらい、コウキさんはハリのお兄さんだった。
「マスター」
対するハリは、表情こそやはり変わらないのだけれど……それ以外に、どうしたらいいのか解らないかのように、コウキさんの着ているスーツに皺が出来る程にぎゅっと、指に力を入れていた。
「何ですか、ハリ」
「いえ、あの……お呼びしたくなっただけで、意味が、ある訳では無いのです。先ほどから、言語機能に、障害が出たのかもしれません。言葉が――色々な言葉が浮かぶのですが、ひとつも返答となるものが見つけ出せず……ただ、その……その中には、否定的だったり、不愉快を示す単語は、ひとつも、ありません」
「……そうですか」
「あの、あの……少々お待ちください、マスター。私も思考を纏める時間を必要としています」
「解りました」
もはや無表情だけでは隠しきれないほどの動揺が全身に滲み出るハリを、コウキさんは、一度手放す。
「待ちますよ。いつまででも」
その時のコウキさんの表情を、穏やかで優しそうだと思ったのは――きっと、私だけじゃ、ないんだろう。
「あ、何なら俺がハリちゃんの言葉を纏めて歌にでも」
……私だけじゃなくてカガさんもそう思ったから言ったんだと思うのだけれど、結果はいつもと同じで、コウキさんはその時の表情を崩さないままに文字通りの鉄拳制裁をカガさんへと加える。
傍らで呆れながらも見守る事はやめないオタマモンさん。きょとんとした様子で2人を眺めるハリ。カンナ博士とスカモンさんは顔を見合わせて笑っていて、私のピコデビモンは少しだけハラハラしている。
ああ、まるで昨日が嘘みたいに――だけど、昨日があったからこそ、今日の朝が、始まった。
「カンナ博士」
「おう、なんだい?」
「コーヒー、すぐに淹れてきますね」
「……ああ」
このところ恒例となっている喧噪の中、カンナ博士が微笑んだ。
「アタシも、ちゃんと待ってるよ」
*
それから目まぐるしく時間が流れ……再び、夜が近づいてきた。
太陽の光は薄く窓から差し込んでいるけれど、もうすぐ、この子の時間が、やってくる。
だからこそ、カンナ博士達は、この時間まで待っていてくれた。
「さて」
私達を研究室に集めてから、スカモンさんを膝に乗せてパソコンと睨みあっていたカンナ博士が、こちらへと向き直った。
「昼過ぎくらいに申請が通ったからね。ピコちゃんもいい感じの時間帯だ。……そろそろ、足を運ぼうじゃないか」
ぱん、と博士がエンターキーを弾いた瞬間、画面にゲート――デジタルワールドへの扉が展開される。
「ごめんね博士。僕のせいで、待たせちゃって」
「いんや、アタシがアンタらの戦力欲しさに勝手に待ってただけさ」
そう言ってピコデビモンの頭を撫でると、カンナ博士は、今度はカガさんたちへと目を向けた。
「カジカP、タマちゃん。……アンタらも、ついて来てくれるんだね?」
「できれば戦力には数えないで下さいよ? 俺達に出来るのは……」
カガさんの視線が、隣へと移動する。
……そこには、アルボルモンだった件のおじいさんが、眠そうに舟を漕ぎながら、一応は並んで立っていて。
「このじーさんがどっか行ったり変な事したりしないか、ちゃんと見とくくらいっすからね?」
「だけどそれをしてくれる奴がいないと、戦闘になった時にこっちも集中できないからね。……頼むよ」
「任せるゲコ」
「それからメルキューレモン、ハリちゃん」
今度は、ハリを後ろに連れたコウキさんを博士は見た。
「キョウヤマの所の十闘士の情報を一番把握してるのはアンタだからね。……アタシが初見殺しされないように、ちゃんと対応しとくれよ?」
「お任せを。……最も、ワタクシ程の初見殺しはいませんからね。貴女の実力次第ですよ、カンナ」
「そうかい、じゃあ」
カンナ博士は、軽く微笑みながらパートナーと向き合った。
「いつも通り、頼りにしていいかい? スカちゃん」
「ふっふっふ。まっかせなさいな!」
そして最後に、博士の目が、私へと。
「リューカちゃん」
「……はい」
「こんな形で申し訳ないんだけど……デジタルワールド、初めてなんだよね?」
私は頷く。
……私の家族がその場所へ向かうのを、何度か見送った事があるけれど、いつも、私は連れて行ってもらえなかった。
同伴してくれる保護者も、同行してくれる友人もいなかった私には、ただ、知識だけでしか知らない世界なのだ、デジタルワールドは。
そこへ、今から。
「じゃあさ、コールしとくれよ。出発の合図」
「いいんですか?」
「ああ、頼むよ」
急に振られて緊張する私の肩に、ピコデビモンが、そっととまった。
「……ピコデビモン」
「リューカ」
きらきらした金の瞳が、私にコールを促している。
……大丈夫。
私はこの子と、そしてこの人達と、デジモン達の世界へ行くのだ。
その先に何が待っているのかわからないのは、きっと、珍しい事でも、何でもない。
「……」
椅子を引いて立ち上がったカンナ博士に代わって、パソコンの前へと立ち尽くす。
デジタルゲートは、デジヴァイスからのアクセスを待っていた。
私は自分のスマホをパソコンへと掲げる。
「デジタルゲートオープン!」
ゲートが開かれるのと同時に、部屋中が、光に包まれた。
*
想像以上の光に閉じていた目を再び開くと、私は、洋館らしき建物の中にいた。
「ここは……」
辺りを見回すと、私の肩に乗ったピコデビモンはもちろんの事、カンナ博士達もちゃんとすぐそばにいて、とりあえずはほっとできた。
……ただ、てっきり森の中に出るとばかり思っていたのに、私達がいるのは、どう見てもそれなりに手入れの行き届いた、建物の中――木造の、大きな階段に面した広間のような場所で。
と、その時だった。
「その昔、腕は確かだが少々アホなハッカーが1人おった」
枯れたような、老人の声だった。
私達の視線は、思わず一斉にアルボルモンだったおじいさんの方に向いたけれど――おじいさんはほとんど立ったまま寝ているような状態で、とても言葉を発するようには見えない。
……と、いう事は――
「そのアホなハッカーはある時、呪いに侵された、それはそれは巨大なジュレイモンを見つけてのう」
板の軋む音がした。
全員の視線が、上へと集中する。
「そのジュレイモンが太古の究極体デジモンの記録を保持する、語り部のような役割を担わされていた事をついぞ知らぬまま。そのアホなハッカーはあろう事か、呪われたジュレイモンの身体を腑分けして、そのデータを用いて2体のデジモンを新たに作り上げた」
一歩、一歩。
暗い階段を下りるごとに、小さな影が、その姿を露わにしていく。
「片や、かのジュレイモンに蓄えられた『力』と『呪い』ばかりを利用して、強さだけを与えられて生み出された幼い究極体。……試験的に野に放たれたそのデジモンはやがて姿をくらまし、デジタルワールドを襲った災厄の一部を担うまでの存在になりながら――それでも、何も知らないままだったという」
ハッとする。
小さな影の述べているのは、リアルワールドで起きた『お台場霧事件』の裏側で、デジタルワールドを襲っていた災厄――4体の究極体の内、1体の事に違いなくて
その影もまた、件の究極体と同じ姿をしている事に、気が付いた。
「片や、かのジュレイモンに蓄えられた『歳月』と『知識』……否、『記録』を重視し、全てを知った上でアホなハッカーの右腕となる事を提示され……愚かにもそれに従う事を選んだ究極体。……アホなハッカーのパートナーデジモンとなり、しかし与えられた役割からは逃れようも無かった、我が身の事よ」
呪われたジュレイモンから生み出された究極体。
デジタルワールドを統合し、螺旋の山として吸い上げた4体の究極体――魔の山の四天王、ダークマスターズが1体。
『ウインドガーディアンズ』の幼い王様。
その個体の片割れを名乗りつつ、むしろ老獪なジュレイモンの面影を強く残したこのデジモンは、紛れもなくパペット型の究極体デジモン――ピノッキモンだ。
「ようこそ、我が館へ。歓迎しようぞ、古代鋼の闘士に抗う者達」
それから。
……そう言いつつ、ピノッキモンさんは最初から、1人の人間しか見ていなかった。
嘲笑うように、呆れたように。だけど、どこか懐かしそうに――悲しそうに。
ピノッキモンさんは、アルボルモンだったおじいさんを見ていた。
「久しいのう。ゼペット」
ピノッキモンさんは、自分のパートナーを見ていた。