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快晴
2019年11月06日
  ·  最終更新: 2020年1月04日

『デジモンプレセデント』第4話

カテゴリー: デジモン創作サロン

≪≪前の話        次の話≫≫


Episode ウンノ カンナ ‐ 2


「講義がいつも一緒だから、気になって」

 そう言って声をかけてきた青年の顔に見覚えなんて無かったけれど、向こうからすればアタシの顔――というよりは髪なんて一度見たら忘れないだろうから、覚えられている事自体は何も不思議では無かった。  問題は、どういった理由でわざわざアタシの所にやって来たか、だ。 「確か、ウンノさんだよね?」 「……そういうアンタは?」 「僕はクリバラ。クリバラ センキチ。パートナーはユキアグモン。君のパートナーは?」 「……」  この時点で、この青年がどうしてアタシに声をかけてきたのか、ちょっと、解らなくなってしまった。  大抵いきなりアタシのところに来る輩は、アタシのパートナーがスカモンである事を知っていて、何かと理由を付けてデジモン同士で安全に対戦ができる『コロシアム』のアプリに誘い、戦闘経験値のカモにしようと試みる。  そして返り討ちにしてやるまでがワンセットだ。 「スカモンだけど」  まあ、何が目的かは知らないけれど、最終的にはこいつもそうなるんだろうと、アタシはそっけなく答えを返す。バトル自体は嫌いでは無いし、もう既にアタシのスカモンは危なっかしい勝負を繰り広げなくてもいい程成長し切って完全体の中でも高い能力値を持つエテモンにまで進化できるようになっているので、むしろ声をかけてくる連中の方が、アタシにとって恰好の餌食な訳で。  さて、何を言ってくるかと身構えていると……クリバラという男は、しばらく何も言わなくて。 「?」  痺れを切らしかけた時、彼は突然、ぱん、と手を叩いたかと思うと。 「なるほど、だから髪をピンクに染めてるんだね!」  と、予想だにしなかった答案を口にして。 「え……?」 「前々から綺麗な色だとは思ってたけど、そうか、デジモンの色か。スカモンの隣にいる頭の良い存在と言えば、チューモンと相場が決まってるからね」 「!」  パートナーがスカモンだとしか言っていないのに。  クリバラは、アタシが髪を染めている理由を、一瞬にして言い当てた。  今まで誰も、気付かなかったのに。 「なるほど、なるほど。ずっと気になっていた疑問が解消して、とてもすっきりした! ありがとうウンノさん! じゃあ、僕はこれで」 「へ!? あ、ちょ、ちょっと、待ちなさいよ!」  思わず今度は、アタシの方が呼び止めてしまう。  後で解った事だが、クリバラはこの時、どうしてアタシがわざわざ髪をピンク色に染めているのか知りたかっただけで――それだけの理由で、声をかけてきたらしかった。  それから特に理由も無く、訳もなく。でもお互いにデジモンが好きだったから、ずるずるずるずる、同じ道を進んだアタシ達は、デジモンだけじゃなくてお互いの事も好きになって、だから、なんとなくずっと一緒にいて――

 ――これからも一緒だと思っていた矢先、隣にいた筈のクリバラは、足を滑らせて転がり落ちていった。

*


「……」  しばらくぶりに1人きりになった研究室でぼーっとしていたら、ほんの短い間とはいえ眠ってしまっていたらしい。  時計は5分も刻んでいなかったけれど――なんだか、随分と長い間、休んでいた気がする。  と、 「はい、カンナ」  かたり、と、目の前に熱いコーヒーが差し出された。  見ればいつの間にかスカちゃんがエテちゃんになっていて、遊びに出したリューカちゃんの代わりにコーヒーを淹れてくれたらしかった。 「……あんがと。エテちゃんが淹れたのを飲むのは、久しぶりだね」  もちろんインスタントなのだが、啜るとリューカちゃんが淹れたのより微妙に――不味い。  理由は解っている。エテちゃんにコーヒーの淹れ方を教えた奴がド下手糞だったからだ。  家事は大概できて料理だってそこそこ上手いのに、コーヒーを淹れるのだけはクッソ下手だった。  紅茶はもっと酷かったので、いつの間にか飲まなくなったくらいだ。  ……それでも何かと理由を付けてあいつに――クリバラにコーヒーを頼んでたアタシは、多分、相当のアホだったのだろう。 「……懐かしい味してるよ」 「エグみがすごいって意味ヨね、それ」  流石によく解っている。 「ん、んんー……さて、コーヒーも飲んだし、ちょいとひと頑張りするかね」 「あら? 進化プログラム、まだ残ってたの?」 「ん」  エテモンから退化したスカちゃんを膝に乗せ、プログラムのコードを展開する。  この前大学の研究室から頼まれていた進化プログラムのコード解析――その内のいくつかが、究極体にも使用可能なものだった。

 適正さえあれば結構突拍子もない、それこそ『前例』の無い形での進化を促す事もある進化プログラムだが、究極体に使った場合は特にそれが顕著になる。  あれは進化というよりも、変身に近い。

 一研究者としてはかなり興味深いアイテムではあるが……哀しいかな、実用性は、皆無と言っていい。

 そもそも普通に個人がデジモンを育てた場合、よっぽどうまくやらなければ完全体以上にはならない。究極体ともなれば、何らかの理由でデジタルワールドからバックアップを受けた人間――いわゆる『選ばれし子供達』のような存在や、自分のデジモンを進化させる最適解を解析する事が出来るアタシのような研究者や、ハッカー。そういう人間を雇える一部の金持ちくらいしか辿り着く事はほぼ不可能となっている。  ……そんな風に苦労して進化させた究極体デジモンを、一時的にであれ、そして同じ究極体であれ、わざわざパートナーに負担を与えてまで姿を変えさせたいと願う変人は、多分、この世にほとんどいないだろう。それに関しちゃ、アタシだって例外じゃない。  だから『究極体を進化、あるいは変化させる進化プログラム』は、実用性は無いけれどコード解析は難しいのでもしかしたら何らかの重要なデータが眠っているかもしれない、みたいな、人間の興味本位だけで調べられる運命にある、今のところそんなに価値の無い物体と化してしまっている。

 ……端的に言うと、解析を押し付けられた形だ。  お金が出るからやるけどさ。 「アグモンのデータがぴったり嵌まるから、その辺の進化ツリー内で作用するんだろうけど……微妙なブラックボックスがあってね。そりゃ、使えば解るんだろうけど協力してくれる奴もいないだろうし」 「スカちゃんなら使えそうだけど」 「出来るだろうけど、しやしないさ」  アタシと出会うより前の話になる。  スカちゃんが、元々アグモンだったっていうのは。 「まあ他は昨日終わった訳だし向こうも急ぎじゃないから、のんびりやらせてもらうさ」 「じゃ、スカちゃんはここで見てるわね」 「ん」  スカちゃんを膝に乗せたまま、アタシは進化プログラムの解析を続ける。  以降は特に会話も、それから進展も無いまま時間だけが過ぎ 「たっだいまー」 「ゲコ!」  玄関が開いた音、それからカジカPとオタマモンの声で、解析に没頭していたアタシは現実へと引き戻された。 「おかえんなさい」 「おっかえり~」  伸びをしてから立ち上がり、帰ってきた3人を出迎える。  ……それぞれに、疲れた顔をしていた。 「……どうだった?」  研究室の方にやってきたメルキューレモンは何も言わず、アタシに押し付けるようにして3つの物体を手渡してきた。  ヒューマンとビースト、両方の風のスピリットと、土のビーストスピリットだ。  ……まさか、本当に持ち帰ってくるとは。なんか増えてるし。 「やるじゃないか」  最も、今にも死にそうな顔してるのは気がかりだけれども。 「……これで、実力の方も信頼していただけましたか?」 「報告書付きなら完璧だったんだけどね。まあいいよ。詳しい話はカジカPから聞くから、ちょっとそこで横になってな」 「……お言葉に甘えさせていただきましょうか」  半ば倒れ込むように研究室備え付けのソファに横になるメルキューレモン。  彼の存在が、ほとんど電池のようなものだとは既に聞いている。現状では文字通り、身を削るような戦い方しか、できないのだろう。 「で? 何があった?」 「ハリちゃんのお兄さんは慇懃無礼の頭脳派暴力系アクロバティック貧弱ドSで自覚のないシスコンと属性特盛なのに根本が男だからノーマジェスティックでした」 「オタマモン、報告しとくれ」 「ゲコ!」  疲れているのか平常運転なのか若干判りづらいカジカPはいっその事脇に置いて、アタシはオタマモンからメルキューレモン達が出かけてからの詳細を聞く。  ……聞いて、カジカPの言わんとせん事も大体は解った。 「……」  なんだろう。聞けば聞くほど、既視感のある戦い方だ。  もちろん身体の形と地力自体が違うから、一緒という訳ではないのだけれど――必殺技に頼らない、頼れない戦い方っていうのは、スカちゃんと散々練習してきたものでもある。 「嫌いじゃないね、そういうのは」  懐かしさに、思わず唇が吊り上がる。  多分、あのころのアタシ達と同じように、メルキューレモンの強さを支えているのは戦闘種族・デジモンとしての容赦の無さと、こいつ自身の余裕の無さだ。 「いや、でもウンノ先生。ホントえげつなかったんすよお兄さんの戦い方。もうどっちが悪いか解ったもんじゃないっていうか……」 「そこは「勝った方が正義」ってやつヨ、カジカちゃん!」  考えている事は一緒なのだろう。スカちゃんがエテちゃんになるまでの間は、本当に大変だった。  実力差をひっくり返すっていうのがどれほど困難なのか知っているから、褒められた戦い方じゃなかろうと、アタシも、スカちゃんも、ついつい評価してしまうのだろう。  ……ただまあ、カジカPの気持ちも解らんでは無い。  特に彼は、音楽の才能だけでパートナーを進化させている訳であって。その在り方自体はかなり特殊ではあるものの、本来戦闘とは縁が無い人種なのだ。  きっかけは彼ら自身の偶然だったとはいえ、巻き込んでしまった事自体には、やはり……罪悪感は、ある。  無視して進むと、もはや決めてはいるけれども。  ……しかし、考えれば考える程――カジカPのオタマモンや十闘士のスピリット、そんな特例をいくつか踏まえてなお、解らなくなる。  デジモンを完全体以上に進化させられる一般人なんて、ほんの一握りだ。  きちんと世話をして、相応に戦闘を重ね、気持ちを通わせて初めて、進化への道は拓かれる。  じゃあ話を聞く限り、十分な環境で育つ事など可能だった筈も無いリューカちゃんのピコデビモンは、どうしてヴァンデモンにまで進化できる?  と、

「ただいま!」

 威勢のいい声がいくつか、玄関の方から聞こえてきた。 「……リューカちゃん?」  ただ、いつもの彼女達とは違うその元気の良さが気になって研究室から顔を出すと……途端に、目が合ったリューカちゃんは顔を赤らめ、 「……戻りました」  と、付け加えるように囁いた。 「お、おう。おかえ」  そんなリューカちゃんに応えようとして――しかし彼女達の背後にいる影に気付いて、アタシは言葉を失った。  仕方がないだろう? 全身が黒く染まった巨大なカラクリ人形……っぽいデジモンが何も言わずに佇んでいたら、そんなの―― 「……お客さん?」  どうにかこうにか絞り出した声も、的外れな答案しか用意できなくて。 「じゃ、無いよね?」  無理くりに繋げた疑問符を受けて、リューカちゃんとピコデビモン、それからハリちゃんは顔を見合わせ――ハリちゃんは無表情のままだったけれど、リューカちゃん達は困ったように、誤魔化すように、微笑んだ。

*


「……という訳です」  木の闘士・アルボルモン。  今現在真っ黒になってハリちゃんの背後に突っ立っているコイツの襲撃を受けたリューカちゃん達は、ハリちゃんの進化した闇の闘士の力で危機を乗り切ったらしかった。 「単純に目標を撃破するのではなく支配下に置いての回収に成功したことを評価します、ハリ。よくやりました」 「称賛を光栄に思います、マスター。しかしこの成果はリューカの協力があってこそです」  で、横になっていたはずのメルキューレモンはハリちゃんが部屋に入ってくるよりも前に起き上がっており、先ほどまでの疲弊はほとんど感じられなくなっている。……いや、正しくは感じさせないようにしている、か。  お兄ちゃんだもんな。心配はかけさせられないわな。 「ん? でもお兄さん、ハリちゃんに敵が行かなもがっ!」 「?」  メルキューレモンは、カジカPの台詞を顎狙いのアイアンクローで遮った。  ……お兄ちゃんだもんな。 「でも、確かに少し変じゃない? 人気の無い公園で襲われたっていっても、すぐ傍は市街地でしョ? そりゃ、カジカちゃんの時も同じといえば同じだけど、ハリちゃんの場合、高速移動ができるデジモンですぐに立ち去ろうとしてたのに――」 「――こいつはわざわざ人目を引く巨大なデジモンに姿を変えて、その市街地に被害を与えながら逃げようとした」  スカちゃんの台詞を、アタシが引き継ぐ。  ハリちゃんを狙った監視者の目は確かにハリちゃんに化けたメルキューレモンの方へ向いていた。セラとモリツ、と言ったか。  2名ともメルキューレモンに対応できる(筈だった)スピリットを持っていたようだが、それに関してはハリちゃんとメルキューレモンがほとんどセットで動いていたからだろう。2人ともハリちゃんより強い以上、警戒するべきはメルキューレモンだろうし。  だが、このアルボルモンとかいうデジモンは後先の事など度外視で、本当に単純に、ハリちゃんを狙って現れたような、そんな雰囲気を感じる。  メルキューレモンも、なんとなく思うところがあるらしい。顎に手を当てて、眉間に皺を寄せている。 「アルボルモンは、ワタクシ達がキョウヤマの研究施設にいた時から常にこの姿で……当初はワタクシと同じ、スピリットの特性のままでリアライズした闘士なのかと期待もしたくらいですよ。『鋼』の闘士が十闘士の頭脳として、高い演算能力を有する『機械メカ』であるのに対し、『木』の闘士は与えられた命令だけを、しかし着実にこなす『機械ロボ』としての性質を持っています。動かず、喋らず、何を考えているのかまるで分らない。それ自体には、何の違和感もありませんでした」 「このデジモン……この人? の、単独行動だっていう線は薄いって事?」  首、というか頭を傾げるピコデビモンに、メルキューレモンは頷く。 「とにかく、本人がここにいる以上、話を聞くのが一番手っ取り早いだろう。……スカちゃん」 「あいヨ!」  アタシはスカちゃんをメタルエテモンに進化させた。  これで、ハリちゃんが闇の闘士の能力を解除したとしても十分に対応できるだろう。ここまでに聞いた限りのこのデジモンの特徴では、エテちゃんのクロンデジゾイドの皮膚に傷1つつけられまい。  胸元の赤い『最強』の文字は、伊達では無いのだ。 「これで、おかしな真似はさせないよ」 「させないわヨ!」 「わかりました。ではハリ、まずはアルボルモンにスピリットエヴォリューションの解除を命じてください」 「了解です、マスター。……アルボルモン、命令します。木のスピリットから分離してください」  返事も無しに、アルボルモンの身体が光に包まれる。


 やがて、その光が消えた瞬間。アタシとエテちゃん、メルキューレモン。そして感情を表に出さないハリちゃんですら、息を飲んだ。

 派手さなんて欠片も無い、ありふれたYシャツとズボンを身に纏った、口を覆う白いひげの立派な、皺だらけの老人がそこにいて――だけどその顔だけは、見間違う筈も無くて。 「キョウヤマ博士……?」  ハリちゃんの言葉に、襲撃者がただ老人であったことに驚いていたリューカちゃんとピコデビモン、カジカPとオタマモンの顔色が変わる。  そこにいたのはクリバラの仇。京山幸助、その人だった。 「どういう事だ……?」  だけどキョウヤマの正体はエンシェントワイズモンとかいう古代の究極体で、鋼の属性を持つデジモンで、いくら同じ『機械』のデジモンとはいえ、属性の違う闘士にまでなれるとはとても思えなくて。  仇を前にした怒り以前に混乱が渦巻くアタシ――いや、アタシ達の前に、ハリちゃんからの命令が無いにも関わらず、死んだ魚のような眼をしたキョウヤマと同じ姿の老人は突然、シャツのボタンをはずした。 「な――」  露わになった、ほとんど骨と皮みたいな胸板の中心には、スマホ型のデジヴァイスが、皮膚に埋もれていた。  老人はそれを見もせずに操作して、ボイスレコーダーの録音済みメッセージを開く。タイトルには日時が書かれていて――それは忘れもしない、アタシとリューカちゃんが出会った日――雷のスピリットのデジモンの襲撃があった、その日の夜で。  再生のボタンが押された、その瞬間。

【イヤッホォーイ、我が息子! 元気してるぅ!?】

 老人の開いただけの口から、あの男の声が、飛び出した。 「ッ!?」  視界の傍ら、メルキューレモンの表情が歪んだのが見えた。 【お前さんがこのメッセージを聞いとるという事は、お前さんはワシから離反して、ハリを連れてウンノ カンナの元に身を寄せとる。そんなところかのう?】 「――」 【ワシってば全部お見通しじゃから! なんたってワシの息子じゃからな。ワシの後継機であるお前さんが、ワシの言う事になんて、心の底からは従う筈が無いからのう! ワシがお前さんじゃったら、ワシは絶っ! 対っ! ワシには従わんもんね~。……んー? じゃけどこのメッセージをもしコウキが聞いとらんかったら、その前提覆っちゃうじゃんよ。どうしよう。それはそれで拍子抜けじゃのう】  だが事実として現実として、キョウヤマ コウキは妹を連れてここに居る。 【あ、スマン。話が逸れたのう。逸れたついでに訂正もしとくか。さっきワシ「心の底からは」って表現使ったけど、あれ、言葉のアヤじゃからな? 無いから。お前さんに、心とか。それらしいフリはできても、お前さんの根本はワシと一緒じゃから】  ウザいくらいにテンションが高い、揚々とした喋り声だが、確かにその声音の本質に、感情なんてものは含まれていない。  全てを見透かされていたメルキューレモンに対する、嘲りすらも、含まれていない。 【ほら、どうせハリも聞いとるんじゃろ? 聞いとけよ? ワシの息子、お前の兄。鋼の闘士・メルキューレモンはな? お前個人の事などなぁ~んとも思っとらんからな?】 「!」  空っぽの音声でしかないのに――吐き出される言葉は、次々とこの異質な兄妹の胸を抉っていく。 【お前にとってコウキは優しいお兄ちゃんじゃろ? でもその優しさも気遣いも、結局はお前を効率よく動かすための計算でしか無いんじゃよぉ? だってそうじゃろ? 光と闇、強力なスピリットが2つセットで自分に絶対服従じゃなんて、そんなの、超お得じゃん? 手駒として最適解じゃん? ……お前がワシの最高傑作じゃなかったら、コウキはお前の事なんかこっちに置いてったままに決まってんじゃろ】  ……カジカPが、老人とメルキューレモン、そしてハリちゃんの間で何度も視線を行き来させている。  ハリちゃんの表情は動かない。  動いていないように、見える。  だけど、メルキューレモンの方は、そうじゃなかった。 【まあ、うん、いいよ。ハリの事は、もう。ワシの後継機とはいえホメオスタシスに感化されたお前さんが、柄でも無いのに少なからず感傷じみた正義感に動かされちゃうってのはお父さん、よぉ~く解った。その辺を見極めるために用意した娘じゃからな。もちろん惜しむ気持ちは無いでもないんじゃが……その娘は破棄する。お前さんの好きにして?】  【じゃが】と、キョウヤマは――エンシェントワイズモンは、無慈悲に、理不尽に、どうしようもなく冷徹に続ける。 【お前さんは別じゃ、メルキューレモン。我が正統なる後継機。お前さんにはワシの、いや、我らが同胞の遺志を継ぐモノとして、我の手足になってもらわねば――】 【何してんだぁ? キョウヤマじーさん】 【あ、ホヅミ君】  ここで、録音の中に初めて、キョウヤマ以外の音声――比較的若い男の声が混じった。  刹那、エンシェントワイズモンの言葉を青ざめた顔で聞いている事しかできなかったメルキューレモンが血相を変える。 【ちょうどいいやホヅミ君。今ワシ、未来の息子にボイスレターを録ってるトコなんじゃよ。……ウンノ カンナの所にいるに違いない、近い将来のワシの息子に……ね?】 【ウンノ カンナの……へぇ?】  メルキューレモンは録音を聞いていたアタシを押しのけ、手を伸ばした。  あまりにも突然過ぎて、抗議の声も上げられなかった。 【ホヅミ君、ウンノ カンナに一言! ワシに代わって、頼むよぉ】  スマホが操作を受け付けないと見て、人間形態では細いメルキューレモンの手が、老人の枯れ木のような首を締め上げる。  ……だけどそんな事に、何の意味も無かった。  嗤って言ったに違いない台詞は、止まらなかった。

【クリバラ センキチは好く燃えたぞ】

 黒焦げたクリバラの顔が、鮮やかに蘇った。

*


 それからの事は、よく覚えていない。  断片的に思い浮かぶのは何度もアタシの名前を呼ぶリューカちゃんとピコデビモン。白い便器と背中をさするエテちゃんの手。口の中一杯に広がっては吐き出される酸っぱい味と鼻の曲がるような臭い。……そのくらいだ。  だから、自室の天井が見えた時には、その全部が夢だったような気さえして――だけどベッドの傍ら、乗った椅子からアタシを見下ろすスカちゃんを見て、夢では無かったのだと思い知る。  ああ、クリバラは、焼けて死んだのだ。 「……スカちゃん」 「なあに」 「今何時?」 「夜中の1時ちョっと過ぎたトコ」 「アタシ、どうしたの?」 「パニックで過呼吸起こしてね」 「うん」 「むっちゃ吐いて」 「うん」 「吐きすぎて脱水症状起こして」 「うん」 「倒れた」 「そっか」  随分と、皆に迷惑をかけただろう。 「そっか。水、足りてないのか」  情けない姿を、見せてしまったのだろう。 「だからかね? 涙も出ないや」  ……してやられた。 「スカちゃん」 「気にしなくていいわヨカンナ。スカちゃんってばキタナイのはむしろ得意分野だから。ゲロとか全然平気だから。研究室は元通りにしといたから、カンナはなーんにも、気にしなくていいの」  スカちゃんが手を伸ばす。  伸ばして、アタシの手を握る。 「……3年前も、スカちゃんはそうしてくれたね」 「どうしたらいいか、わからなかったのヨ」  幾重にも嵌められたシルバーの指輪が、所々、冷たかった。 「なっさけないよねぇ。……こんなんで、仇討ちだなんて」 「誰もカンナの事責めないわヨ」 「誰が責めなくても、アタシが許さないさ。こんな不甲斐ない自分なんて」  偶然だけで巻き込んだリューカちゃん達さえ利用して。  逃げ込んできたキョウヤマの子供達をも利用して。  ……スカちゃんに、心配をかけてばっかりで。  なのに、アタシ自身は、たった一言もらっただけで、これだ。  それも、半年近く前の、言葉の羅列でしか無い物に。 「……あの後、どうなった?」  そしてアタシはここでようやく、自分の身よりももっと早くに気にしなければいけなかった彼らの事を思い出す。  本当に、自分は、人でなしだ。 「リューカちゃんとピコちゃんは、スカちゃんの手伝いをしてくれたわ。……11時回った時点で、もう休むように言ったけどね」  ……休んでくれているといいんだが。 「で、その後。カジカちゃんが、キョウヤマからのメッセージの続きを教えてくれたわ」 「……」  そうか、そうだわな。  あるわな、続き。 「聞かせて」 「相変わらず、コウキちゃんに向けてだったそうヨ。要約すると、1ヶ月の猶予をやるから……」  ここでスカちゃんが言葉に詰まった。  言いにくそうにしている。 「やるから?」  だけどアタシは、続きを促した。 「……「カンナの首を持って帰ってこい」って」 「……」  なんだろう。  とんでもない事を、言われた気がする。  まだ頭がボーッとしていて、だからだろうか、そこだけは、妙に冷静な自分もいる。 「そっか。アタシの首か」 「ええ」 「じゃ、ちょっとは鬱陶しがられてるって事で、いいんだね?」 「……」 「なら、アタシのやってる事は、無駄じゃない」  キョウヤマの目的はアタシを殺す事じゃなくて、息子と呼んでいるメルキューレモンを完全に支配化に置く事だ。それこそアタシの事なんて、ほとんど何とも思っちゃいないだろう。せいぜいが、五月蝿い羽虫程度に違いない。  でも、今はまだ、それでいい。  今は、こんな状態だけれど。  その羽虫がとびきりの毒虫だったと、あの男には、必ず後悔させてやる。 「で、それに関して、メルキューレモンは?」 「ノーコメントよ。「何を言っても弁明にしかならない」から「しばらくハリと2人だけにして欲しい」って、それきり、部屋の中」 「……そうかい」  あんなナリだし、偉そうだし、強いみたいだし、デジタルワールドの守護者なんだろうけど――メルキューレモンがここに来たのは、アタシに助けを求めての事だった。  アタシに協力関係を求めた時から、アイツがキョウヤマに――父親に怯えていたのは、解っていた。  アイツなりに、アタシに頼るしか無かったんだろう。どうやら今日……じゃないな。昨日の昼の時点で無茶してきたらしいのがその証拠だ。  だけど束の間の安心も、自分自身のプライドもバキバキに踏み折られたその直後に、頼る筈だったアタシまで、たったひとことでやられちまった訳で。  その上アタシの首、か。 「……悪い事したね、アイツにも」 「カンナは、悪くないじゃない」 「はっ。そうかもね」  ああ。どうしてこんな事に、なったんだっけか。 「そうそう、あの、キョウヤマっぽいご老人は?」 「ああ、それもだったわね。……あのおじいちゃんは、メッセージが終わるなり……なんていうのかしら。なんというか……本当に、ただのおじいちゃんになっちゃって……」 「つまり、キョウヤマ似の老人個人から話は聞けそうにない、と」 「もう寝てるわ。ごはん食べたら、寝ちゃった」  その食事は、リューカちゃんが、用意してくれたんだろうな。多分。 「ああそうだ、カンナも何か、お腹に入れなさいよ。一応、水は飲ませたけど、胃の中カラッポでしょ? リューカちゃんがゼリー飲料買って来てくれたから、それならいけるわヨね?」 「……あと、5分」  目を閉じる。閉じた上から、腕で覆う。  真っ暗闇しか、もう見えない。  黒焦げた横顔も。もう、何も。 「あと5分休んだら、ちゃんと、頑張るから」 「……カンナ。もっと休んだって、いいのヨ?」 「いいや、あと5分でいい。もう、長くて1ヶ月しか無いんだろう?」  時間が有るんだか無いんだか判らないが。タイムリミットだけは決まってしまった。メルキューレモンがどう動くにせよ、キョウヤマだって、その『1ヶ月』の後に、何かしらのアクションを起こす気でいるのだろう。  だけど――だから。前進だけはしてるって信じ込むためにも、もう1秒も、無駄にするわけにはいかないのだ。 「スカちゃん。5分経ったら、起こしておくれ」  ホヅミ。  知るつもりは無かったのに、声と名前を、憶えてしまった。  ……でも、1ヶ月と決まった今、燻り始めるくらいでいいのだろう。 「アタシはちゃんと、やり遂げるから」  アタシの手を握るスカちゃんの細い指に、幽かに力が籠った。  引き留めようとしているのは、解っている。  だけど、並んで歩いてくれる事も、知っている。  ああ、本当に。アタシは狡くて、酷くて……最悪の、テイマーだ。  ピンクの髪は、アタシがスカちゃんの相棒である証。

 ――スカモンの隣にいる頭の良い存在と言えば、チューモンと相場が決まってるからね。

 ……あの日のクリバラの言葉が、蘇る。  だけどスカモンの隣にいるチューモンは、同時に、スカモンに悪知恵を吹き込んで、意のままに操る悪い奴でもある。  ああ、ごめんね。許してね。スカちゃん。

 だって今更止まったら、今度こそアタシ、死んじゃうから。

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快晴
2019年11月06日

Episode キョウヤマ コウキ ‐ 1


【コウキィ。お前さんには、ちょいと早いけど夏休みをやろう!】 【1ヶ月。1ヶ月だけなら、そっちで好き勝手やってていいよ!】 【でも1ヶ月経ったらちゃんとお父さんのところに帰ってくるんじゃぞ?】 【あ、夏休みじゃからね? 宿題くらいあるよ?】 【なぁーに、簡単簡単。一瞬で終わる宿題じゃから、帰り際にでもサクッと終わらせればいいんじゃよ】 【ウンノ カンナの首を持って帰ってこい】 【比喩でも何でもないぞ? ケッバいピンク色の髪が見苦しいあの女の首! 他のパーツは、み~とめ~ませ~ん】 【あ、「下のパーツ付きで」とか言って生きたまま連れてくるとか、そういうトンチの効いた答えはいらんからな?】 【殺して、首を斬って、持って帰ってこい】 【命令じゃから、これ】 【じゃあのう! ワシからは以上――あ、最後にひとつだけ】 【さっきも言ったがのう】 【お前さんの考える事なんて】 【全部お見通しじゃから】 【いい加減】

【諦めろ】

*


「……」  ワタクシとハリに明け渡されたその部屋は、2人部屋としては随分と狭いにも関わらず――それでも、ハリが押し込められていたあの部屋よりも、ずっとずっと、広かった。  今は、その広さが息苦しい。  ハリが、隣で見ているのに、震えが、止まらなかった。  ワタクシがもし、人間にせよデジモンにせよ、確固たるベースを持った状態で存在していたとしたら。  間違いなく、その場で嘔吐していただろう。過呼吸を起こしていたかもしれない。  雲野環菜のように。 「――――」  そして彼女がそうなったのは、全て、あの男のせいだ。  あの男の――ワタクシの父親のせいだ。  ワタクシはそれを、止めようとも思わなかった。  栗原千吉が始末される事に関して、ワタクシは、なんとも、思わなかった。  ハリを見て、憐れんだ気になって、何を、勘違いしていたのだろう。  エンシェントワイズモンがこの世界に与える『傷』の事なんて、本当は微塵にも、ワタクシは考えていなかったのだ。  しかし、それでも。それでもあの男の言葉を、ワタクシは一つ、訂正してもいいだろう。  ワタクシにも、やはり心が、無い訳では無いのだ。  なにせこんなにも、ワタクシはあの男が怖くて、怖くて――もう何時間も膝を抱えてベッドの片隅でうずくまらなければならない程恐ろしくて――それだけが理由で、デジタルワールドの守護者の顔をして、あの男の所から逃げ出したのだから。 「……ハリ」  こんな状態でも、時刻だけは正確に感じ取る事が出来た。  ……もう、日付を跨いでしまった。 「まだ起きていますか」 「はい、マスター」  返事がある事は解っていた。  まだ、彼女には就寝の指示を出していない。  0時を超えたというきっかけを意識しなければ、このまま彼女を陽が昇るまで放置していたかもしれない。  ……結局、この娘の事などその程度にしか思っていないという事だろう。  カガ ソーヤの言葉に振り回された昼前の数分間が……もはや、懐かしいくらいだ。 「ハリ。……ワタクシはまだしばらく、思考回路を整理しきれません。これ以上指示を出す事は無いので、貴女はもう、休むように」  だが、しばらく経っても、彼女からの了解は返ってこなかった。 「……ハリ?」 「マスター。……マスターの精神状況に私への対応を受諾する程の余裕が無い事は……理解しています。理解した上で……質問の許可を、いただきたいのですが」 「……」  もう、顔を見る事も出来ない。 「貴女の聞きたがっている事は……大方、キョウヤマ コウスケの発言に関する事でしょう」  返事が無いのを、肯定と受け取る。 「あの男は……貴女も知っているでしょう。あの性格ですが、嘘は吐きません。意味は解りますね? 貴女が何を期待しているのかは知りませんが……どうにせよ、ワタクシは貴女の事を、何とも思っていないという事です」 「……」 「ハリ。貴女が光と闇、2つのスピリットを宿す者でなければ、確かに、ワタクシは貴女をあの男の元から連れ出したりはしなかったでしょう。ワタクシに絶対服従という前提が無ければ、そんな事、思いもしなかったでしょう。ワタクシの本質は、貴女を光と闇のスピリットを操るための手駒として生み出したエンシェントワイズモンと、何も変わりません。貴女はワタクシにとって、利用価値があるからそこにいる。……それだけの存在です」  そして半年も前から、ワタクシが「利用価値のある妹」を連れ出す事を予期して。  全てを見越して、キョウヤマは、アルボルモンを寄越したのだ。  メッセージを渡すためだけに。ハリにアルボルモンを撃破される前提で、彼女を襲撃させたのだ。  エンシェントワイズモン。  デジタルワールドのアカシックレコード。  全てを知るが故に、その先すらも見通せる、ラプラスの魔。  少し性質を継いだ程度のワタクシに、太刀打ちできる筈も無い。 「しかしキョウヤマは、貴女の事を破棄すると宣言しました。……貴女の中の2つのスピリットは、それぞれキョウヤマを正義と定義して力を発揮するモノ。アルボルモンとの戦闘で貴女が――いや、光の闘士が十全に力を出せなくなり、闇のスピリットが『悪』としての闇の闘士に変質したのがその前兆だったのでしょう。……ハリ。今や貴女には、ワタクシが貴女に期待していた利用価値すら、無い」  ああ、やはり。ワタクシは、こんな事を、こうも淡々とハリに告げられる。  そんなモノだ。 「だからハリ。貴女はもう、ワタクシの命令を聞く必要はありません。盲目的にワタクシに従う必要もありません。今後は戦闘を行う必要も、ありません。……ワタクシはあの男にウンノ博士を殺害するよう命令されていますが、貴女は、もう、奴の所有物ではありませんから……彼女にも、邪険にされる事は無いでしょう。今後はウンノ博士の保護下に入り、通常の人間の生活を送るよう訓練しなさい。……そうですね。強いて言うなら、これが最後の命令です」 「了解しました」  そしてあっけなく、ハリはワタクシの命令を受け入れる。  ……結局、拒絶するだけで良かったのだ。こんなにすぐに済む事なら、もっと早くに、こうしておけばよかった。  これで、ようやく、彼女は―― 「マスターの命令を実行します。私は、マスターの命令を聞きません。私はマスターの命令に逆らい、マスターに今後も従う意向を示します」 「……」 「……」 「……ハリ?」  聞こえた台詞を受理するのに時間がかかって――ハリが何を言ったか理解した後も信じられずに、思わず顔を上げてしまった。  上げて。初めて、ハリがどんな顔をしていたのか、思い知った。 「ハリ」 「私は既に、キョウヤマ博士の所有物ではありません。しかし、キョウヤマ博士に造られたという事実は、消えません。故に、キョウヤマ博士のデータを継ぐマスターとは、変わらずに、兄妹という事になります」  ワタクシは、それを否定しなければならなかった。  ならなかった、筈なのに。ハリの瞳を前に、何も、言い出せなかった。 「マスター、私は……他に、家族の形を、知りません」

 ハリは怯えた顔をしていた。

 創造者に放置されても、周囲の人間に攻撃されても、表情一つ変えなかった筈のハリが、泣きだしてもおかしくないような、そんな顔をしていた。  そんな顔が、できるのかと思った。 「私は変わらず、マスターの命令であれば何でも言う事を聞きます。マスターが望むのであれば、そしてそれが私がまだ利用価値があるという証明になるのであれば、私がウンノ カンナ氏を殺害します。ウンノ カンナ氏以外の方であっても同様です。それでもキョウヤマ博士のように私の破棄をお考えであれば、自壊をご命令ください。私は……私は――」 「――以降」  手を伸ばす。  何となしに触れたハリの頬は、年相応に柔らかく、いくら人を模しても鋼でしかないワタクシの指には、いささか温かみが過ぎている。 「軽々しく、そのような発言をしないように。……これは、命令です」  そしてまた、振出しに、戻った。 「……マスター」 「少し……そうですね。最初に言った通り、ワタクシには思考を纏める時間が必要です。貴女は先に、休んでおくように」 「……」 「間違っても、ウンノ博士や……自分自身に危害を加える事はしないように」 「……」 「先ほどの命令は……一度、撤回します。ワタクシの命令が、聞けますね?」 「……はい」  そのまま、ハリを横たわらせた。タオルケットを彼女の肩まで引き上げる。 「おやすみなさい、ハリ」 「おやすみなさい、マスター」  そうして、彼女が目を閉じて、寝息を立て始めるまで。しばらくワタクシは、そのままにしていた。  彼女の寝顔を、こうやって見るのは久しぶりだ。  抱く感想は、変わらない。  ……とても、改造を施された異常な少女には、見えない。  黙って、ワタクシの命令を受け付けない睡眠の期間に入った状態では、この娘は、ただの子供だ。 「……」  恐怖という感情は、人間にせよデジモンにせよ、それ以外の動物にせよ、生きるために、身に降りかかる脅威から逃げおおせるために、必ず持っている感情だという知識自体は前からあった。  だから、ハリにもそれがあって、当然だった。  その点に関しては、感情が希薄なのでも何でもなく、ただ、ワタクシがずっと一緒にいたから、いてしまったから、発露しなかっただけだったのだ。  この娘は、ワタクシがいなくなる事が、怖いのか。  種類は違えど、恐怖である以上――ワタクシが、あの男に抱くモノと同じである以上――それは、きっと、ハリに良い影響は、与えない。  ワタクシの支配下にある限りハリはまともな人間になどなれないのに、ワタクシがいなくなると、この娘は、おかしくなってしまうと? 「そんなジレンマがあってたまるか」  思わず、口に出してしまう。幸いハリは目を覚まさなかったが、彼女を前にしている限り、纏められる筈の考えまで有耶無耶になってしまいそうな気がした。 「……」  数時間ぶりに立ち上がり、部屋の扉に手をかける。  廊下を見ると、流石に、もう誰かが起きている気配は無い。  なら、外の空気にでも触れようかと、ワタクシは階段を上り、研究所の屋上へと出た。 「……」  思いの外、明るいものだ。  夜道に人通りは無いものの、道路自体は街灯で等間隔に照らされている。  灯りの灯る窓も少なくは無いし、コンビニエンスストアやガソリンスタンドの光は、一晩中、消える事など無いのだろう。  とりあえず屋上を囲む塗装のはげかかった金属製の柵に身を寄せ、何となく、ワタクシは研究所の真下を覗き込んだ。  金色の瞳と、目が合った。 「……」 「……」 「……こ、こんばんは、コウキさん」  ピコデビモンが、屋上の縁から半分だけ顔を出していた。 「何をして――」  言いかけて、思い出す。 「――そういえば、アナタの仕事は夜間の見張りでしたね」  何をしているのかといえば、ワタクシの方こそだった。 「こんばんは、ピコデビモン。……少し、夜風に当たりに来ました。しばらくここに居ても、構いませんか?」 「もちろん!」  勢いの良い返事と共に、ピコデビモンは柵を飛び越えワタクシの隣へと降り立つ。 「でも良かった。物音がしたから見に来たんだけど、コウキさんで。悪い人だったらどうしようかと思った」 「……悪い人、ね」  このデジモンも、あのメッセージの続きを、聞いていた気がするのだが。 「わかりませんよ。……ワタクシはこの後、ウンノ博士を殺しに行くかもしれませんから」  ピコデビモンが、ぴたりと動きを止めた。  止めて、数秒後。思いっきりその大きな金の瞳を潤ませる。 「な――」 「な……」 「なんでそんなイジワル言うの――っ!?」  そして、泣き出した。  それはもう、噴水のような泣き方だった。 「ダメーっ! そんなのダメだよおっ! わあああああああん!」 「お、落ち着きなさいピコデビモン。アナタだって聞いていたでしょう、あの男が」 「ぐす、ぐすっ……コウキさんそんな事しないもん! しないもんんん!!」 「解りました! しません、しませんから! 先ほどの発言は撤回します! だから落ち着きなさい!」 「ううううう……」  ピコデビモンは翼で目を覆いながら、しゃくり声を上げている。  子供の感情の発露とは、本来、こういうものなのだろうか。  いや、しかし……タジマ リューカが20代前半である以上、このデジモンもまた、それに近い年齢である筈だ。  確かに成長期以下の状態であるとデジモンの精神年齢はそれに応じて下がってはしまうものの、それにしたって、カガ ソーヤのオタマモンにはそれなりに落ち着きがあった。  テイマーの方はアレだが。  大分アレだが。  ……というか、勢いだけで撤回してしまった気がする。その気は――そもそも、一応は、無かったとはいえ……良かったのだろうか。 「うう……みんななかよく……」 「それは、そんな……」 「コウキさんの言いたい事も解るよう……お父さんの言う事聞かないと、殴られるんでしょ? あんな酷い事言うって事は、すっごく痛い事されるんでしょ?」 「……ありませんよ、殴られた事なんて」 「じゃあ、殴られるのと同じくらい酷い事、されるんでしょ?」 「……」  解らない。  ワタクシはただ、あの男が、怖いだけで。 「でも、でも……僕……リューカが悲しくなるのはヤダぁ……! やっとみんなに酷い事されたり言われたりしなくなって、まだ、全然、足りないけど、それでもたくさん、笑ってくれるようになったのに……ヤダよう。お願いだから、リューカに怖い思いさせないで……」 「……怖がっているのですか、タジマ リューカは」  屋上にぽたぽたと涙の粒を零しながら、ピコデビモンは頷いた。 「ここにいる人達以外はみんな、リューカに酷い事する人ばっかりだった。酷い事する人は、怖いよ」  頷いて、俯いたまま、消え入るような声で言葉を続ける。 「……わかってる。僕が悪いんだ。僕がいるから、リューカはみんなに、いじめられる。僕はリューカを護りたくて、でも護りたいと思えば思う程強くなっちゃって――そのせいで、リューカはみんなに、怒られるんだ」 「……」 「僕、僕。もう、なろうと思えば、究極体にも進化できるんだ。でもそんなことしたら、今度こそ、我慢できなくなっちゃう。1999年の『奴』と、同じになっちゃう……!」  ピコデビモンの言葉は妄言でも何でもない。このデジモンは、既にその域に達している。  ただ、その進化の行きつく先は、理性を持たない、獣の悪魔だ。  ……彼とタジマ リューカを前にすると、ウンノ博士ですら首を傾げている。  どうしてタジマ リューカのピコデビモンは、良い環境で育ったわけでもないのに完全体の、しかも強い力を持つヴァンデモンにまで進化できるのか、と。  だが、蓋を開ければ、そう難しい話では無い。  お互いがお互いを護ろうとして、しかしピコデビモンがタジマ リューカを護ろうとすればそれを理由に周囲は余計に彼女を攻撃して傷つけ、逆にタジマ リューカがピコデビモンを護ろうとすれば、彼はパートナーを護れない不甲斐なさや悔しさに身を焦がす。  一度目は、本当に偶然だったのだろう。しかしそれが重なりに重なって、例え姿がそのままであろうと信じられない回数で、俗に言う暗黒進化がピコデビモンの中で繰り返され――今に、至るのだろう。  人間の負の感情がデジモンに影響を与える暗黒進化は、闇のデジモンであるピコデビモン――あるいはヴァンデモンにとって、他のどの方法よりも効率よく、彼を強化してしまったに違い無い。  ただ、その負の感情は闇であっても悪ではない故に、彼らは必要以上に、善良なのだ。  ……だが、それだけじゃない。 「ピコデビモン。アナタがそこまでパートナーの感情に過敏なのは、人間であるタジマ リューカの情報を、データとして内部に取り込んでしまっているからですか?」  びくり、と、ピコデビモンの全身が跳ねた。  何となく察してはいたが、どうやら、図星だったらしい。 「な、なんで解ったの!?」 「そういうデジモンなので、としか言いようがありませんね」 「……誰にも言わない?」 「言いませんよ」  約束します。と付け加えると、ピコデビモンはほっと息を吐き出して、彼がタジマ リューカのデータを内包している理由を教えてくれた。  ……ワタクシにでも酷いと解る、胸糞悪い話だった。  だが同時に、彼らの関係の歪さが、ワタクシには、眩しかった。 「ピコデビモン」 「なに?」  話している内に、ようやく泣き止んだピコデビモンがワタクシを見上げる。 「アナタから見て……ワタクシと、ハリは、どのようなものに見えますか?」  問いかけた瞬間、何故かピコデビモンは、先ほどまで泣いていた事が嘘のようにぱっと金の瞳を輝かせ、にいっと、小さいながらも立派な牙を見せて笑った。 「何ですか、その反応は」 「だってだって、コウキさん、ハリがリューカにしたのと同じ質問してるんだもん。キョーダイで、一緒の事聞くんだなって、思って」 「……ハリが」 「『あっち』にいる時はキョーダイなんていない方がいいに決まってる! って、思ってたけど……コウキさんとハリを見てると、そうでもないや。……リューカが「羨ましい」って答えたのも、解る気がする」 「……」  そういえば、カガ ソーヤに何か言われていたような気がする。  ワタクシは彼の言葉に対して、言われるまでも無くそうするつもりだと答えた気がする。  なのに。  ……ハリは、今日の報告の他に、何か、話したいことが、あったのだろうか。 「コウキさん」  不意に、ピコデビモンが屋上からその柵へと飛び移った。  それでもワタクシが見下ろす形だが、視線は、随分と近づいた。 「キョウヤマってヒト……デジモン? は、2人のお父さんかもしれないけど。それでも、ダメだよ? 何にもわかってない奴の言う事、鵜呑みにしちゃ」 「……あれは、デジタルワールド最古の究極体にしてアカシックレコード。全てを知るデジモンですよ」 「あかしっくなんとか、っていうのはよくわかんないけど……つまりすっごく頭がいいって事? でも、リューカの家族もみんな勉強ができたけど、リューカの事も、僕の事も、これっぽっちも解ってくれなかった。ちゃんと知ろうとしなきゃ、頭が良くても、結構、知らない事ばっかりだったりするんだよ」  単純に、頭がいいとか悪いとかという話では、無いのだが。  だが……そんな風には、考えた事も無かったというのは、ひとつの事実だ。 「それにね、ハリは」 「?」 「コウキさんの事、大好きだって言ってたよ」 「……言えるのですね、そんな事を。あの娘が」  多少、誇張は入っているに違いないが、ピコデビモンがそう言う以上、同じ意味の言葉をハリは口にしたのだろう。 「しかし、ハリのその感情はワタクシへの従順さをはき違えただけの物です。所詮は、キョウヤマに植え付けられた物ですよ」 「ん~? ダメなの? それじゃ」 「?」

「僕は生まれた時から、リューカの事が、世界で一番大好きだよ?」

 屈託の無い笑顔、というのは、このような表情を言うのだろう。  ……ああ、ワタクシの見立てが甘かった。  このピコデビモンは、ワタクシが思っているよりも、ずっと、異常だ。  でなければ、肯定などする筈が無い。  彼の言葉を認めれば、ハリは、今のままでも問題が無いという事になってしまう。  そんなわけが、無いというのに。  なのに 「……参考までに、留めておきますよ。アナタの話は」  どうしても、否定しきることができなかった。  それでも十分にそっけなかったであろうワタクシの対応に、ピコデビモンは気を悪くするでもなく「そっか」とだけ言って、柵から飛び立った。 「じゃあ、僕、そろそろリューカの所に戻るね」 「すみませんね。仕事の邪魔をして」 「ううん。僕、コウキさんとお話できて良かった。やっぱりコウキさんは悪い人じゃないよ。僕のお話、ちゃんと聞いてくれるもん」  そもそも、人ですら無いのだが――まあ、それは別に、指摘するべきでも無い、か。 「そう言うアナタは、必要以上に善良過ぎると思いますがね。……アナタも、アナタのパートナーも」 「そ、そう? えへへへへ……」 「褒めてませんよ」 「ふえっ!?」 「……ですが、褒められるべきだったのでしょうね」  ピコデビモンの頭上には、まるで大量の疑問符が浮かんでいるかのようだった。  思わず、少し吹き出してしまう。 「むむむ……コウキさんは悪い人じゃないけど、ちょっとだけいじわる?」 「ちょっと、で済めば良いのですが」 「やっぱりちょっといじわるだ!」  せわしなく羽ばたきながら、ピコデビモンはその場で円を描く。  怒っている――という訳ではなさそうだ。  ……別段悪意がある訳では無いからかいには、慣れていないのかもしれない。 「ほら、タジマ リューカの元に戻るのでしょう? 少し騒がしくしてしまいましたからね。起きて、待っているかもしれませんよ、アナタの事を」 「あ、そうだった! じゃあ、今度こそ。おやすみなさい、コウキさん」 「……おやすみなさい、とアナタに言うのも変ですからね。ごきげんよう、ピコデビモン」  ワタクシは下階の窓に飛び去って行くコウモリに似た成長期デジモンを見送って――もう一度、夜の街の景色を眺めた。 「はあ」  そのまま、嘆息する。  なんだかこの24時間で100年分くらいの情報量を得てしまったような気がする。  気がするだけで、ワタクシの中に記録された文字の列は大した長さでもないのだが。  ……それでもこれらを処理するには、その倍ほどの時間がかかりそうだった。  他に行く当ても無かったが、これ以上、ここに留まる気にもなれなかった。  ワタクシは景色に背を向け、屋上を後にする。  元来た階段を降りる、と 「?」  廊下は先ほどと同じく暗かったが、その先――1階に続く階段に、電気が点いていた。


*


「なんだいアンタ、まだ起きてたのかい」  気になって階段を下りるとリビングにも灯りがあって、覗いた先にウンノ博士がいた。 「……おかげんはいかがですか」 「死にそうだよ。昼も食ってないのに朝飯は全部出ちまったからね。腹減って、死にそう」  言いながら、ウンノ博士が右手に握っているゼリー飲料は、蓋が既に開いているにも関わらずほとんど減っていないように見える。 「……ウンノ博士」 「そういうアンタはどういう塩梅なのさ。吐き過ぎてひっくり返ったアタシより死にそうな顔してるって、どういう了見なんだい?」 「そんな事を、言われましても」  台詞の理不尽さは凄まじいが、言葉自体に、棘は無い。  それが余計に、よく、解らなかった。 「……そういえばスカモンはどうしましたか。ここには居ないようですが」 「ああ、今は休んでるよ。……昼間から、働きづめだったからね、あの子。つっても研究室にいるんだけど。この遅い晩飯が終わったらアンタが持って帰ってくれたスピリットを解析しなきゃだから、アタシもそっちに行くんだよ」 「随分と……不用心ですね、ウンノ博士」 「何が?」  しばらく閉口していると、ようやく察したようだ。「ああ」と、ウンノ博士は手の平を打つ。 「そういやアンタ、アタシの事殺すように言われてんだっけ?」  あっけらかんとそう言って、ウンノ博士は親指を立てると、それを自分の喉元に向けて横に勢いよくスライドさせた。 「やれるもんなら、やってみな」 「……」  手を伸ばす。  ……その手でウンノ博士の向かいの椅子を引いて、ワタクシはそこに、腰かけた。 「なんだ。要らないのかい?」 「今しがた、ピコデビモンと約束したばかりですからね。……アレとの約束を破って真夜中のヴァンデモンを敵に回すほど、ワタクシ、愚かではありませんから」 「あー……そりゃ賢明だ」  ウンノ博士は肩を竦め、そのまま、持っていたゼリー飲料の蓋を閉めた。  ……空腹なのは、事実だろう。  だが食事をする気など、ほとんど無いに違いない。 「っていうか、ピコちゃんと喋ってたんだね」 「ええ。……有意義な時間であったような、無意味であったような……いえ。昨日といい今日といい、誰もかれもが、無茶苦茶な事ばかり言うもので……もう、どうしたら、いいか……解りませんよ」

 カガ ソーヤはワタクシとハリの関係をおかしいと言った。  おかしいと言った上で、兄妹をやってみればいいと述べた。

 キョウヤマ コウスケ――エンシェントワイズモンは、ワタクシに心など無いと言った。  全てを否定した上で、自分の手足として戻ってくるように述べた。

 ハリは、ワタクシに支配者のままで――兄の、ままで、居てほしいと言った。  怯えた顔で、それ以外に家族の形を知らないと述べた。

 ピコデビモンは、ハリの在り方を肯定した。  ……みんな、なかよく。と、そう述べたのだっけか。

 全員が全員、裏表の無い本音で、バラバラな事ばかり言ってくる。 「それでも、現時点での回答を出すのであれば……そうですね。ワタクシだけが、貴女の首は持たずに、キョウヤマの元に帰るのが……それが、良いでしょう。恐らくスピリットに戻されて記録をリセットされた後、今度は人間のベースを与えられる――か、どうかまでは判断しかねますが、まあ、どちらにせよ貴女の敵はまた1人増えるでしょうね。その時は、きっと人間の戦闘技術は失っているでしょうから、必殺技は使わせずに、腹部の鏡を粉砕するような形で撃破していただければ、他の闘士よりは簡単に殺せるかと」 「アンタの武器は格闘技じゃなくて頭脳だろう。帰るっていうならここで殺す。キョウヤマだけでも厄介なのに、これ以上策士の敵なんか増やしてたまるか」 「ハリの目の前で貴女に殺される訳にはいきませんから、その時は逃げますよ、全力で。……彼女を置き去りにすれば、あの娘もワタクシがどの程度のモノか理解して、目を、覚ますでしょうし」 「保護者同伴でも無い未成年の面倒までは見れないよ、ウチは。リューカちゃんもカジカPももう大人で、キョウヤマと戦うのに協力してくれてるからここに居るんだ。……言ってやろうか? ハリちゃんには、利用価値が無い」 「キョウヤマの非道の証拠として使えるでしょう」 「使い方を間違えたらアタシが窮地に陥るだけだって言ったのはアンタだろう。……いや、でも、あるね。よく考えたら。利用価値」 「……」

「アンタが出ていくなら、あの娘を殺す。それでもいいなら、好きにしな」

 ウンノ博士の暗い瞳が、強く、強く、ワタクシを睨みつける。  ……どこまでも、優秀な女性だ。 「それは、困りますね」  両手を上げて、手の平をウンノ博士に見せた。 「ハリに危害を加えられるのは、ワタクシとしても不本意です。……貴女に従いましょう、ウンノ博士。ワタクシは、ここに留まります」  言った瞬間、彼女の目つきが変わった。  脅迫から、呆れへ。……あるいは、諦めへ。 「アンタ……言わせただろ、アタシに。言い負かされたフリしてるけど、自分に都合のいいように誘導したね?」 「誘導できなければ、その時はその時だと思っていましたよ。ワタクシの答えは、決して偽物という訳では無い」 「アタシじゃ、キョウヤマに太刀打ちできない。……あの時、そう思ったんだね」  素直に頷いたところ、溜め息を吐かれた。 「なめんな、って言いたいところだけど……まあ、あれだけこっぴどくやられたんじゃ……ねえ?」 「しかし、ワタクシも貴女の事は言えたものではありませんがね」  あの場で最も打ちのめされてしまったのは、他ならぬ、ワタクシ自身だ。  半年も前から何もかもを看過され、頼った相手すら見透かされ、在り方全てを否定されて――それでもなお、何もやり返せない。  逃げる事しかできなかったのに、逃げ切る事すら、出来なかった。 「……やっぱり、怖いんだね、メルキューレモン」 「怖いですよ」  俯いて、唇を噛み締める。  収まった筈の震えが、また、隠せなくなってしまった。 「どうすればいいのか、考える事すら――もう」  と、不意にウンノ博士が立ち上がった。  椅子を引いて足を進め、ワタクシの前に来て立ち止まる。  それからすっと身をかがめたかと思うと、細い両腕を伸ばして、ワタクシの肩に回した。  ……気が付けば、いわゆる「抱き寄せられる」という形になっていて。 「よしよし」 「……何をしているのですか、ウンノ博士」  いつの間にかぽんぽんと軽く頭まで撫で始めた彼女が一体何をしたいのか理解できず、何をされているのか自体は分かり切った上で声をかける。  何って、と、笑ったように、ウンノ博士は口を開いた。 「怖がってるやつには、こうやってしてやるものなのさ」 「はぁ」 「どうだい? 何か感想は?」 「……こうやって密着して判りましたが、貴女の肢体は極端に肉付きが少ないにも関わらず不必要な部分にはそれなりにしっかりと余分な肉が付いていますね。運動不足と姿勢の悪さ、それから栄養の偏りが顕著です」 「そうかいそうかい。一発殴っていいかい?」 「ご自由に」  思いっきり頬を張られた。  ……とはいえ、見た目は人の姿であるものの、やはりワタクシの材質は鋼な訳で。 「~~~~っ!」  痛みに顔を歪めたのは、ウンノ博士の方だった。  ……しかし、まあ 「なるほど、これが暴力ですか」  平手打ちをくらった部分に触れる。  ダメージは彼女の方が大きいとはいえ、ワタクシにも、幽かに焼けたような感覚があった。  特に、彼女の中指のあたりだろうか。小さく硬い物体が、より強く、当たったらしい。 「確かに、あまり、良いものでは無い」 「なぁにが「あまり、良いものでは無い」だ!」  そういって、今度は椅子ごと、ウンノ博士はワタクシの事を押し倒した。  当然背中を打ったが、大した衝撃では無い。  それよりも、ワタクシに覆いかぶさるウンノ博士が――彼女のピンク色の髪が、何故だが強く、目を引いて。 「アタシが……アタシがこうなったのは、そもそも、アンタの父親のせいだろうが」 「……」 「それだけじゃない。アタシが今したみたいに抱きしめてたのは、本当ならクリバラだったんだ。いや。もしかしたらアタシとあの人の、子どもだったかもしれない」 「……」 「「あまり良いものじゃない」? ぜんっぜん良いものじゃない、だ! アンタの父親がホヅミとかいう奴を使ってクリバラに向けたのは……そういう、ものだよ?」  掠れた声だった。  しかし、泣いてはいない。  ワタクシを見下ろすウンノ博士の双眸は、そういうものすら失って、海の底のように、深く、暗い。 「だからアタシは、どんな手段を使ってでも奴らにそれを思い知らせる。アンタはそのための駒さメルキューレモン。プライドに、使命に、恐怖心に……罪悪感に。その全てに付け込んでやる。逃がさない。……今更、逃げられると、思うなよ」  そんな闇の中で、色も無しにごうごうと燃えている彼女の復讐心、その種火は――きっと、『優しさ』だったのだろう。  それ故に、彼女の執念は、キョウヤマの妄執と対を成す。 「……やはり貴女は美しい女性だ、ウンノ カンナ。恐ろしく強かで、硝子細工のように脆い」 「……」  怪訝そうに片眉を吊り上げた彼女の前で、ワタクシは姿を元に戻した。  キョウヤマ コウキから、鋼の闘士へ。  突然ワタクシの顔……円形の鏡に映った自分の顔に、ウンノ博士は少しだけ、驚いたようだった。 「十闘士が1体、鋼の闘士・メルキューレモン。現時刻を持って支配権をエンシェントワイズモンからウンノ カンナ。貴女へと移行させましょう。……まあ、あの娘のように絶対服従とか言うつもりはありませんし、ワタクシが勝手に言っているだけで、そもそもあの男の影響力からは逃れられる筈も無いのですがね。それでも良ければ……精々、上手く使ってみせてください。……マスター」  口にしてみて初めて思ったが――なるほど、ハリの気持ちも、多少は解らなくも無かった。  ウンノ博士は、呆れているが。 「ここまで来て妹の真似かい? アンタも案外ヘタレだね」 「どうとでも。……ああ、ワタクシを支配下に置く以上、ワタクシの所有物であるハリの事も、よろしくお願いしますね、マスター」 「あー、はいはい。じゃ、早速こっちからも言わせてもらうけど、マスターはやめろ。っていうか前から思ってたけど、ウンノ博士もなんていうか……うん。カンナでいいよ、アタシの事は。名前で呼ばれる方が、好きなんだ」 「解りました。では、以降はカンナとお呼びしましょう。……カンナ」 「何さ」 「そろそろ、退いてもらってもよろしいでしょうか」  ふっ、と、ウンノ博士改めカンナが自嘲気味に鼻で笑う。 「……それは、どういう意味ですか?」 「勢いに任せて押し倒したまでは良かったんだけどね。……実は、ちょっと、机の角に脇腹ぶつけて」 「……」 「あと手首ひねったのかも。痛いの。動けない」 「……貴女のその、計算づくでありながら後先を考えない姿勢には、まあ、相応の評価をせざるを得ませんね。少し抱え上げますから、そこから横に逸れるなり、膝を付けて立つなり、どうにかして下さい」 「ん。悪い」  腕を伸ばして、カンナの小さな両肩を支える。  ……その時だった。

 メールの着信音が、聞こえた。

「?」  カンナの顔を覗き込むが、心当たりは無いらしい。  思わず同時に、リビングの入り口の方を見やる。  ……あの、キョウヤマに似た老人が、何故かぷるぷると小刻みに震えながらこちらを見ていた。 「……」 「……」 「若いのお」  それだけ言うと、覚束ない足取りで、老人は廊下の闇の方へと去っていく。 「ちょ――」  動けない、と言っていた割に俊敏な動きで横に転がったカンナは、痛みに顔を歪めつつも、急いで立ち上がると老人を追いかけていった。 「待って! 多分おじいちゃん勘違いしてるから! っていうかさっきのメール音何!? 待って、待ってってばスマホおじいちゃん!」  その後、「トイレはそっちじゃない」等の台詞を聞きながら立て直した椅子に腰かけて待っていると、ようやくカンナが戻ってきた。  ただでさえ疲れが目立っていた顔が、なんというか、よりどんよりとしている。  何故か、血色だけは必要以上に良いようにも見えるが。 「お帰りなさい」  カンナは何も言わず、紙のメモをこちらへと差し出した。  URLが、書かれている。 「これは?」 「おじいちゃんのスマホに届いてたメールの内容。昼間から、何通か同じのが届いてたみたい」 「ホームページ……ではありませんね。デジタルワールドの座標のように思えます」  しかし心当たりは無い。  一度訪れた場所であれば判断できるのだが、覚えは無かった。 「じゃあ、キョウヤマからじゃあ無い?」 「あの男であれば、もっと自分からのメッセージであることを主張してくるでしょう」  顔を見合わせる。……まあ、この女の答えは決まっているようなものだろう。  カンナは再び、ワタクシからメモを取り上げた。。 「今晩中に、スピリットの解析を済ませてから正確な座標を割り出す。手伝いな、メルキューレモン」 「……貴女の命令であれば、従いましょう。ああ、しかしその前に」  立ち上がりつつ、カンナの飲み残しているゼリー飲料を手に取り、彼女へと投げた。  うまく受け取ったカンナは億劫そうにその蓋を開け、強く握りしめたかと思うと中身を一気に吸引した。 「……ぷはっ」  今度こそ空になったゼリー飲料の容器が、ゴミ箱へと投げ捨てられる。  ……届かず落ちたので、ワタクシが拾いに行く羽目になったが。 「ごめん」 「構いません」  彼女の持つ機材を扱いやすいように、身体を人間のものに再び変えてから、カンナに続いて、ワタクシもリビングを出た。  こちらの手札はワタクシ自身を含めて、到底あの化け物には敵わない者ばかりだが、それでも、もう、方針を変えるつもりは無い。  カンナの背中は心強くもなんともないが、お互いそれは一緒な上、きっとこれが、現状用意できる策の中で、最も勝率が高いのだろう。  そしてここに居れば、ハリに必要なモノも、いつかが見つかる気がしてしまって。 「行くよ」  1ヶ月。  嗚呼。恐らく休んでなどいられない『夏休み』が、今から、幕を開けるのだ。

「反撃開始だ」

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